城南宮の曲水の宴へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月29日(金)

曲水の宴
城南宮の曲水の宴へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

曲水の宴。
それは平安時代の貴族の間で流行したという、優雅な歌遊び。
烏帽子に狩衣姿の公卿たちと小桂姿の女官たちが、庭園の遣水のほとりに座り、
御所伝来の羽觴なる盃台の酒が流れてくるまでに、出された歌題に沿った歌を詠みけり。
古代中国より伝わり、奈良から平安時代までは無病息災を願う三月上巳の宮中行事であそばされ、
のちには貴族の姫の雛飾りと重なって、3月3日の桃の節句へ発展したのもいとおかし。
そんな雅な宴が、白河上皇院政の地・鳥羽離宮跡地のど真ん中に立つ城南宮には、残ってます。
観光資産化不能で困るぐらい鳥羽離宮が跡形もなく消滅したがゆえに、城南宮の曲水の宴は、
平安の姿のまま現代に至るまでひっそりと動態保存されてきた・・・というわけではありません。
方除の神様として名高いこの神社が、
「昭和の小堀遠州」中根金作による「楽水苑」を造営したのは、昭和36年。
その中の「平安の庭」で行われる現在の曲水の宴は、もちろんそれ以降に再興された行事。
良く言えば新たなる歴史の継承、悪く言えばほとんど単なるコスプレショーですが、
わかりやすく「雅」を具現化したビジュアル、そしてこの日は庭の拝観料が無料になることもあって、
年々人気を高めてます。そんな雅な世界、行ってみました。

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吉祥院六斎念仏を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月25日(月)

太鼓曲の演奏
吉祥院天満宮の吉祥院六斎念仏へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

六斎念仏。全国的に広く伝承されている念仏踊りの一種です。
元々は仏教の六斎日=8・14・15・23・29・晦日に斎戒謹慎して鬼神の災いを避けてたのが、
いつしか空也上人の踊躍念仏と結びつき、さらにお盆にも結びつき、現在に近い形となったとか。
京都にも六斎念仏はあります。それも、2つの派閥みたいなのがあります。
ひとつは、あくまで念仏に重きを置く、干菜寺系。鉦と太鼓でシンプルに念仏を歌うという。
もう一方は、花の都ならではの芸能華やかな、空也堂系。で、主流は圧倒的に後者。
獅子舞・歌舞伎などの流行芸を取り入れ、原型を止めないほど芸能化した六斎 = 芸能六斎は、
江戸時代、娯楽に飢えた京都西南部の農村を中心に劇的に普及。
で、正に京都の西南にあたる吉祥院は、そんな芸能六斎の一大中心地となりました。
最盛期には8組もの講が夏祭で芸を競い合い、演舞は夜通し、あるいは日が明けても続いたとか。
時代の流れで現在残る講は一つだけとなりましたが、今なお活動は活発であり、伝承を守ってます。
盆の活動が多い六斎念仏ですが、こちら吉祥院は夏に加え春の大祭でも演舞を披露。
で、それに出かけたわけです。

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松尾大社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 (3) 七条通巡幸

2011年4月24日(日)

宗像社の巡幸
松尾祭・神幸祭、いよいよラスト、七条通巡幸です。

松尾祭、一日くっついて見物してると、氏子さんの数の物凄さに圧倒されます。
見物人もそれなりに多いんですが、何よりも白法被の人たちが、多い。そして全員が、濃い。
数だけなら祇園祭の方が多いかも知れないし、手伝いの人も多少は混じってるでしょうが、
でも、ひとりひとりが放つオーラと、祭全体の熱狂度は、圧倒的に京都一ではないかと。
特に、インドアな感じな少年たちでさえ積極的に祭へ没入してる姿は、感動的でさえありました。
と、同時に感じたのが、この祭りが西七条 / 西市跡 / 西寺跡の祭りだということ。
出かける時は何となく「松尾、梅津、桂あたりの人たちがやってる祭」とか思ってたんですが、
考えてみれば神輿が駐輦する御旅所は、ほとんどが西七条を中心に点在。
もちろん、奉仕する氏子さんもその区域の人たちです。
これは、洛外の神様に自分の街へおいで頂く祭なんだな、と。だから「おいで」なんだなと。
祇園祭や稲荷祭と似た形式であり、特に東寺と縁深い稲荷祭とは近いものがあるんじゃないかと。
西寺跡が氏子区域の大宮社神輿に松尾神を乗せ、西市跡近くの西七条御旅所へ向かう七条通巡幸。
いよいよ神をホームタウンへ迎えることで、祭の盛り上がりはピークへ。
同時に疲労もピークに達するためか、ストリートは怒号と絶叫と微笑みが渦巻く興奮の巷と化します。

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松尾大社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。(2) 船渡御

2011年4月24日(日)

宗像社・神輿
松尾大社の神幸祭、続きです。

松尾の祭には、必ず雨が降るそうです。
それは、松尾の神様が水の神であることに由来するんだとか。
松尾大社の祭神は、松尾山を支配する神・大山昨神と、海上守護の神・中津島姫命の二柱。
海の無い京都に海の神さまが祀られてるのを不思議に思われるかも知れませんが、
松尾の目の前には、淀川を経て瀬戸内航路に直結する桂川が流れてます。
また、桂川上流である保津川を経由して、丹波から木材などの交易を行っていたことは有名です。
この地で水運、あるいは漁などで「水」に関わってた人たちは、多かったんでしょう。
松尾の氏子にとって、水と船は、今よりもはるかに大きな意味を持ってたんじゃないでしょうか。
そんなことを考えさせてくれるのが、松尾祭・神幸祭の最大の見せ場である、船渡御。
文字通り、神輿を舟に乗せ桂川を渡ってしまうという、京都で唯一無二の勇壮な荒技です。
もっとも、さらに昔は舟さえ使わず肩で担いで川を渡りきったそうですが、
いずれにせよ人と水とのダイナミックな係わり合いが見れる神事です。
今日は朝から、日本晴れ。午前中は、暑いくらいの陽気でした。雨なんか降るんでしょうか。

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松尾大社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。(1) 発御祭

2011年4月24日(日)

大宮社の神輿を見送る子供
松尾大社の松尾祭・神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

松尾大社。
一般的な認知のされ方としては、お酒の神様という感じなんでしょうか。
あるいは、近所の料亭に生前の某マイコーが来損ねて、サインだけ残ってるとか。
しかし、京都的には違うのであります。松尾大社は、何といっても洛西総氏神なのであります。
平安遷都以前よりこの地を開発していた渡来系・秦氏が、土着の松尾山磐座信仰と結びつき、創建。
秦氏が平安京造営を支援したことで皇室の御崇敬も篤く、賀茂社と共に皇城守護の社に指定。
大祭の松尾祭も、「松尾の葵祭」という通称が今も残る通り、かつては賀茂祭と同じく勅祭でした。
しかし、朝廷の力はやがて衰微。で、代わって松尾大社と祭を支えるようになったのが、氏子。
中世以降、祇園御霊会を下京の町衆が支えるようになったのは有名な話ですが、
それと似たような感じでしょうか。鎌倉時代には既に祭祀組織が存在してた記録もあるとか。
ただし、祇園会は町衆が主導権を握ったのに対し、松尾を支えたのは、村人。
京都の都市域が東へスライドしていくのに従い、右京・西京は近隣の農村地帯と次第に同化。
住宅街化したのも最近の話であり、そのため、松尾大社とその祭をとりまく共同体のあり方は
祇園会 = 祇園祭のように観光化により変形されることなく、中世の香りをよく伝えてるといわれ、
また松尾祭は京都では珍しいくらいに勇壮で大らかな盛り上がり見せることで知られます。
現代の松尾祭は、神幸祭が4月20日以降の日曜、還幸祭がその三週間後の日曜に開催。
神幸祭では桂川を神輿が渡る船渡御、還幸祭ではワイルド極まる宮入りが有名ですが、
今回は神幸祭、通称「おいで」を丸一日、追っかけてみました。

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仁和寺の御室桜を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

2011年4月21日(木)

御室桜と御影供の列
仁和寺の御室桜を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

「私しゃ お多福 お室の桜 花は低ても 人が好く」。
仁和寺名物・御室桜の花の低さと、醜女の鼻の低さをかけて歌われた、俗謡です。
「お多福みたいな顔で御室桜みたいな低い鼻やけど、愛嬌あるからモテモテや」と。
あ、ちなみに「低ても」という表記に、送り仮名の脱字はありません。
「ひくても」とまんまで読んでも、よろし。あるいは「ひくぅても」と読んだら、なおよろし。
「ひくても」と読む場合、「ひくくても」から真ん中の「く」を抜くニュアンスではなく、
「ひくぅても」からちっちゃい「ぅ」を省略する気持ちで読むと、なおなおよろし。ほんまかいな。
土壌が固いのか粘土質だからか、とにかく3mくらいしか花の背が伸びず、
根元から枝が張るという特殊なビジュアルを誇る、御室桜。
江戸初期・寛永年間に現在の伽藍が再建されるのに合わせて植えられ、
後水尾上皇が観桜、のちに町人も花見するようになり、上記の歌も生まれたわけです。
満開の桜の中で五重塔が浮かぶビジュアルはあまりに有名ですが、
5月前でもまだ咲いてるという遅咲き中の遅咲きの点でもまた、有名。
正に京都の桜の見納め、というか最早、ロスタイム。そんな僥倖感溢れる桜を観てきました。

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松尾大社の山吹まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月17日(日)

手水舎の亀
松尾大社の山吹まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

松尾大社。
不腐の霊泉を持つ酒造りの神様として、全国の酒造業者から信仰を集める神社です。
また、春に行われる神幸祭では、神輿を船に乗せて川を渡るというワイルドな渡御でも、有名。
あと、シンボルが、亀。「酒」に「船」に「神輿」に「亀」。実に「男」な感じの神様であります。
しかし松尾大社、平安の頃はもうちょっと雅な感じの神社だったそうです。
現在は氏子さん大活躍の松尾祭も、元々は勅祭。延喜式に従い、荘厳に執り行われていたとか。
今とは別の形で栄えてた時代があったというわけであります。
で、そんな雅な時代の松尾大社と、それ以前の太古の松尾大社を、庭によって表現してるのが、
昭和を代表する造園家・重森三玲の作庭による「昭和の名庭」こと、松風苑。
伝統を重んじつつ永遠のモダンを目指した三玲が、神の領域へ近づこうと心血を注ぎ、
注ぎ過ぎて病を得て、神の怒りを買ったとか言いながら没したことで絶作となった庭であります。
で、そんな物凄い感じの庭を、年に一度、2日間だけライトアップして見せてくれるのが、
もう一つの松尾大社名物である山吹を讃えた、山吹まつりなのであります。

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原谷苑へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月17日(日)

原谷苑の桜と提灯
原谷苑へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

原谷苑。
今、京都で一番有名な桜の「穴場」かも知れません。
金閣寺の北、大文字山の西、戦後に外地からの引揚者たちが農地として開拓した地・原谷。
以前は荒地のまま放置されてた土地だったそうですが、入植民は何とか生活できるよう、改善。
やがてインフラが整いアクセスも向上すると、今度は宅地開発で一気に人口が流入。
今では、普通の住宅地+少し山の香りが残る感じになってる郊外なエリアであります。
そんな原谷で、個人の方が自身の農園にて数十年に渡り桜を育成したのが、原谷苑。
その育ち方と量が尋常ではないと口コミで名が広がり、桜の開花期間のみ一般公開を開始。
「ガイドブックに載ってない名所」を求める人が大挙して押し寄せるようになったわけです。
話題になってるのは、桜そのものだけではありません。独特な入苑料設定と金額も、しかり。
御存知の方も多いでしょうが、ここ原谷苑は、その日の開花状況によって入苑料を決めます。
もちろん、桜の状態が良いほど、高し。で、値段のMAXは、実に1500円。
おまけなどの類は、何もありません。おみやげも、なし。純粋に入苑料だけで、1500円。
もはや清々しささえ感じるほどの、ブッちぎり加減なのであります。
が、実際の1500円の桜は、そのマッシブな値段設定を凌ぐブッちぎり加減だったのであります。

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龍安寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月14日(木)


龍安寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

龍安寺の境内って、広いんですよね。地図で見ると、近所の仁和寺と同じくらい。
でも、あんまりそういう印象、ありません。イメージの中では、仁和寺よりずっと小さく思えます。
たぶん、龍安寺最大の売りであるあの石庭が、そう思わせてるんでしょうね。
不可解な配列で石が並んだ小さな空間が、見る物全てを禅の宇宙へ誘う、石庭。
馬鹿デカい建造物で圧倒するのとは真逆な、吸引型とでもいうべきインパクトを放つ、石庭。
加えて、その石庭をかかえる本堂も、小振り。その本堂への拝観券を売ってる山門もまた、小振り。
おまけに、チケット売るのは山門だけどモギるのは本堂前のため、
その間の池や、奥の方のよくわからん庭を、無料区域&前フリみたいに思いがちです。
しかしあの池は、龍安寺が徳大寺家山荘だった平安時代に作られた池泉舟遊式庭園で、
貴族が舟を浮かべ歌舞音曲を楽しみ、近世までは石庭よりずっと有名だったのであります。
奥の方のよくわからん庭も、歴史があるのかは知りませんが、とにかく桜が咲くのであります。
なので、桜の季節の龍安寺は、石庭以外にこそ注目するべきなのであります。
それなのに、やっぱりトップ画像は石庭なのであります。

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天龍寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月14日(木)

天龍寺・百花苑の桜①
天龍寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

 天龍寺の魅力は、方丈とその前面に広がる庭園の広大さだろう。庭園背後の領域は敷地内だけでもかなり広そうなのだが、それが外部の嵐山まで繋がっている。ここは「曹源池庭園」といわれているところで、今は庭園内に人が入ることもできるようになっているが、本来は大方丈前の部分は人が歩くところではなく、嵐山を借景として堂内から眺める庭だったと思う。
 今はせっかくの借景の庭も、そこを横断する人々を見ての鑑賞となるので少し興醒めである。またそこから北の部分の散策路も広く整備されていて、昔はこのようではなかったのではないかと思う。何か大名庭園か観光客向けの日本庭園のような感じを抱いてしまうのだ。
<中略>
 観光客が多いからそれに対応するために必然的にこうなったのかもしれないが、できればここの素晴らしさを体感できるような「見せ方」であればより素晴らしいのにと思ってしまう。ここの庭は見事なだけに残念である。(清水泰博「京都の空間意匠」光文書新書

と苦言を呈されている、正にその「整備され」た「北の部分の散策路」へ桜を観に行って来ました。
だって、春だから・・・。

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早朝の嵐山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月14日(木)

嵐山の桜と一の井堰
早朝の嵐山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

早朝の嵐山が好きです。
何故好きかと言えば、港町の空気の匂いがするからです。
港町、あるいは海沿いの地方都市を旅した時に感じる、独特の空気。
日常の中で、生活の糧として、水と関わる人々が放つ、独特の張った感じの空気。
そんな空気の匂いが、早朝の嵐山にはちょっとだけ残ってる気がします。
昼間になって人が増え、場の雰囲気が観光丸出しテイストになると、もう何もわかりませんが、
ほとんどの人が仕事で渡月橋を走ってる早朝だと、港町にいる気分がちょっと、味わえます。
鎌倉時代に後嵯峨天皇が大和吉野山から多くの桜を移植し、桜の名所になった、嵐山。
もちろんそれより前の平安時代から、貴族の別荘地であった、嵐山。
しかし、そんな華やかな側面と同時に、丹波の材木の集積地としての顔も、嵐山は持ってました。
平安京建都以前に秦氏が一の井堰を建築した頃から、角倉了以による保津川開発を経て、
実に昭和へ至るまで、嵐山は「仕事」の場でもありました。
そんな時代の残り香と桜の香りが混ざり合う、春の嵐山、早朝。
その匂いは、水上交通をフルに活用していた時代の、本当の京都の匂いなのかも知れません。

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二条城のライトアップへまた行きました。もちろん、ひとりで。

2011年4月13日(水)

清流園の桜①
二条城のライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

二条城。二条にある、あんまり城らしくない城であります。
もちろん、そもそもは徳川幕府が朝廷を牽制するため築城したイカツい城であり、
かつては天守閣がそれなりに体裁を保ってたそうですが、炎上&移築&放置プレイ。
大政奉還後は京都府庁になったり離宮になったりしたのち、京都市に下賜&一般公開。
市は天守閣再建など完全スルー、ひたすら庭園に力を入れるのみ。城らしくない城であります。
天守を再建しないのは当然金がないからですが、他にも理由があると思うのは私だけでしょうか。
堀の周囲の道を歩く時に感じる、疲労感。回り道をさせられる時に感じる、徒労感。
車で行くことが前提のショッピングモールへ徒歩で行ったときに感じる
「歩いていくの、しんどっ」という感じ。あれに近いものを、私は二条城に感じます。
二条城より広いスポットは他にもありますが、御所をはじめその多くは中の通行が可能。
もちろん、コアな部分への闖入は許しませんが、その壁をあまり可視化&表沙汰にはしない。
それに対し、壁どころか堀を明らさまに強調する二条城、やはり「城」だなあと思うわけです。
市が庭園や桜ばかりに力を入れるのは、そんな「城」の暴力的存在感を少しでも中和しよう、
ゴツい建物をちょっとずつでも京都になじませようと考えてのことなのかも知れません。
そういえば、毎年桜の季節に行なわれるこのライトアップでは、もはや御殿の拝観さえ、謝絶。
これはケチではないのです、きっと。二条城を京都化するための企てなのです、きっと。

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墨染寺へ墨染桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月13日(水)

桜と日蓮上人像①
墨染寺へ墨染桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

墨染寺。通称、桜寺。
伏見区の墨染にある、桜で有名なお寺です。「ぼくせんじ」も「すみぞめでら」も、どっちもアリ。
風変わりな地名ですが、これは墨染寺名物である墨染桜に由来します。
891年、かつて深草の里と呼ばれ鶉が鳴く野辺だったこの地に、
太政大臣・藤原基経が葬られ、それを悲しんだ平安歌人・上野峯雄が詠んだ歌が
「深草の野辺の桜の心あれば 今年ばかりは墨染に咲け」。
その歌を聞き、当時この辺に生えてた桜は一斉に薄墨色に咲いたとか。それが、墨染桜。
何故か秀吉はこのエピソードが大層お気に入りだったそうで、墨染の地を何度も訪問。
のみならず、元は貞観寺という寺だった土地を日秀上人に与え、墨染桜寺として再興。
で、現在に至るかといえばそうでもなく、一時は多くの塔頭を抱えるほどの大寺に化けた墨染寺、
徳川期になると一気に凋落、縮小に移転を重ね塔頭のひとつに納まったのが、今の姿。
うっかりすると見落とすような商店街の一角で、桜目当ての客をひっそりと待ち受けてます。
夕刻、もはや花びらが舞い散りまくるその小さな境内へ、行ってみました。

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平野神社の夜桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月12日(火)

平野神社桜苑の提灯
平野神社の夜桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

平野神社。
第一位・田中神社と第二位・吉田神社に次ぐ、京都三大平凡苗字神社のひとつです。
次点に並ぶのは、松尾・安井・北野・大田・平岡・藤森といったところ。
御霊・蚕・大将軍などからは羨望の眼差しを浴びている、というのはもちろん大嘘であります。
嘘ですが、でも、二位・吉田と三位・平野の祖が同じ卜部氏なのは、偶然なのか、必然なのか。
気になって気になって夜も眠れない、というのも当然ながら大嘘であります。
数々の奇行で有名な花山天皇の手植えに始まるという平野神社の桜ですが、
凄いのはその量や質はもちろん、花見のできる期間の異常なまでの長さでしょう。
夜桜のライトアップは、だいたい3月末から4月末まで開催。桜自体は5月でもまだ咲いてるとか。
もちろん、ドーピングして無理矢理長生きさせてるわけではありません。
開花時期の違う多くの品種を植樹してるというわけであります。
50種400本とか45種500本とか、ソースごとに数は違いますが、とにかくたくさんです。
「パッと咲いてパッと散る」ソメイヨシノの席巻が、桜の概念、そして日本の概念さえ変えるまでは、
花見というのはもうちょっと長くのんびり楽しむものだったとか。
平野神社の長い花見期間は、現在の誤記された花見の流儀と日本の心を静かに告発し、
本来あるべき花見と日本の姿を示してるのかも知れない、というのはただの思いつきであります。

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嵐電・桜のトンネルへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月12日(火)

桜のトンネル車内
嵐電・桜のトンネルへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

嵐電。正式名称、嵐山電鉄。
というのは、嘘です。もちろん。「嵐電」は、愛称。公式愛称。
本当の名前は、京福電気鉄道・嵐山本線および北野線。
「京福」の名前は何に由来しているかといえば、字のまんま、京都+福井。
もともとこの会社は、起点・嵐山から北野と出町柳を経由して鞍馬へ上り、
そのまま鯖街道を北上、日本海へ出て福井入りするという壮大な路線計画を持ってました。
というのも、嘘です。もちろん。チンチン電車で山越えは、つらいですよ。
京福電鉄は前身が京都電燈という電力会社であり、「京福送電線」なるものを敷設して、
夜の電力需要が高い京都と昼が高い福井との昼夜差を融通していました。
ついでに、電力の安定供給先を確保するため、両都市で鉄道も経営。
だから、名前が京福電鉄。両方をつなぐつもりは端からありません。
路面→山岳→海沿いを走破するチンチン電車が本当にあれば、楽しいんですけどね。
長年にわたり、京都と福井で古き良きローカル私鉄の風情を放ち続けてきた京福ですが、
21世紀に入って福井側が廃線+えちぜん鉄道として3セク化。
京都側もここ最近は観光により力を入れていて、嵐電の公式愛称化や駅のリニューアルを実施。
妖怪電車などイベント列車も多く企画され、この桜のトンネルもその一環というわけです。

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清水寺・2011年春の夜間拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月10日(日)


清水寺のライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

東日本大震災から、もうすぐ1カ月。
発生直後にここでライトアップを見た時「これが夜間拝観の見納めかも知れない」と思いましたが、
1ヵ月が経ち、こうして輝く夜桜を目にすることが出来ても、その感は消えません。
街を歩いてると出くわす、京都の近くに原発があることの危険性を訴える街宣車。
近くの原発とは、「原発銀座」と呼ばれる若狭・大飯・敦賀の原発のこと。
私、何度か敦賀駅周辺をうろついたことがあります。で、行った人の多くと同じ感慨を抱きました。
原発マネーで整備されたという、立派だけど人の少ない表通り。
そこに数多く設置された、何ちゃら鉄道ゾロ目フィーバーのキャラ銅像。
クオリティは高いのに、存在の根拠は希薄。写真を撮ると何か、しんどい。そんな、銅像。
ゾロ目フィーバーは、かつて敦賀を走った欧亜国際連絡列車にちなんでるそうですが、
何気に紛れこんでる某宇宙戦艦の乗組員達は、何の理由があってあそこに立ってるんでしょう。
そんな敦賀 / 若狭で作られた電気により、暮らし、ライトアップなんかもやってる、京都。
原発がないと本当に電気が足りないのかどうかは、私にはわかりません。
実際に電力が不足するか否かに関わらず、ライトアップがこの先どうなるかも、わかりません。
そしてその思いが、この通俗的なビジュアルを、困ったくらい美しく見せてしまいます。

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南禅寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月10日(日)


南禅寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

南禅寺の桜を観ると、東山高校を受験した時のことを思い出します。
東山高校とは、ちょっと歩けばすぐ南禅寺境内へ潜り込んでしまう場所にある、男子校。
代表的な卒業生はみうらじゅん、などと言うと高校側は怒るでしょうか。
もちろん入試は2月に行なわれるので、「桜+受験」は明らかに時期間違い&記憶の混濁です。
だけど、受験した教室の記憶と桜の記憶が、私の頭の中では今でも一緒くたになってます。
おそらくは、受験の際に境内をうろついた記憶と、別の日に桜を観た記憶が、結びついたんでしょう。
何故結びついたかといえば、「もしここに通ってたら」という思いがあったからでしょう。
おかしいのは、近くの哲学の道やインクライン、さらには東山高校そのものを見ても何も感じないのに、
南禅寺にだけその虚偽の郷愁を感じることです。不思議。
抑圧したバッドな感情が、変なところで変なかたちで噴き出してるんでしょうか。
あるいは「禅寺の武家面」と言われたこの寺独特の雰囲気が、
やはり独特の色と匂いを持つ少年期の可能性の死体みたいなもんに共鳴するんでしょうか。
あ、私の名誉のために言うと、受験は通ってますよ。でも、お家にお金があんまりなくてね・・・。
おかげで今でも春にここを通ると、入学前のような青い胸騒ぎを感じます。
で、今年もまたそんな狂った気分で胸をいっぱいにして、桜を観に行きました。

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哲学の道へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月10日(日)

哲学の道の桜
哲学の道へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」。
「俺が俺で俺だから」の如き「俺俺俺」な響きを持つこの歌、詠んだ人は、西田幾多郎。
「絶対矛盾的自己同一」などとややこしいことを言って、京大で京都学派を創始した哲学者です。
その西田幾多郎が思索に耽りながら歩いたから、哲学の道は、哲学の道。
琵琶湖疏水の開鑿に伴い整備された、銀閣寺から若王子神社前までの約2キロの歩道。
そこへ、日本画家・橋本関雪と妻よねによって大正時代から桜の植樹が始められ、
昭和後期に改めて整備、名前も正式に「哲学の道」となり、日本の道100選にも選定。
今では春になるたび、哲学から最も遠い人々が哲学から最も通り理由でそぞろ歩く、
桜の無料&超メジャースポットとなりました。
が、それでも哲学の道は、哲学の道。やはり、吾行く道を、吾は行くなり。
俗人が集うこの雑踏の中こそ、己の哲学的精神を試すには、ふさわしいのではないか。
この享楽的な空間こそ、真に現代的な哲学を構築するのには、ふさわしいのではないか。
そう考え、満開の桜の中を歩きながら、思う存分思索に耽ってみました。

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蹴上インクラインへ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月10日(日)

インクラインでくつろぐ人々
蹴上インクラインへ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

古びたレール。煉瓦。そして線路沿いには、ソメイヨシノ。
何故か男の心を、それも妙に生理的なところを突いてくる、明治の鉄の香り。
京都には案外と少ないそんな香りが、三条蹴上のインクライン=傾斜鉄道跡には漂ってます。
東京遷都による凋落を回避すべく、近代化へ乗り出した明治初頭の京都。
何をするにもまず、水が足りない。で、作られたのが、琵琶湖疏水。
「琵琶湖の水面標高は、東寺の五重塔より高い。東山に穴を開けたら、水は流れてくる」と、
当時の知事・北垣国道が、23歳の技術者・田辺朔郎をワイルドに抜擢&ワイルドな計画を実行。
常識外れの予算を叩き込んで完成させた疎水は、頑丈過ぎて、百年経った現在も現役。
熱いのであります。明治なのであります。
そして、その情熱に東京遷都への焦燥が滲んでるあたり、京都なのであります。
京都の近代化へ大々的に寄与し、今なお京都市の水道水の大半をまかなう琵琶湖疎水ですが、
一方で時代の荒波を越えられなかった設備もあり、それがこちらのインクライン。
「明治」にして「京都」なスポットに、「鉄」と「廃」と「桜」を足した、お好きな方にはたまらない世界。
なので「インクラインって、インクのラインってこと?」などと言ってる場合では、ありません。
「院蔵院、下から読んでも、院蔵院」などと戯言を言ってる場合でも、ありません。

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八幡の背割堤へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月9日(土)

背割堤の桜並木
八幡の淀川河川公園・背割堤へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

背割堤。せわりづつみ。
私の地元・八幡における桜の名所です。
が、名所といってもトップ絵面をご覧の通り、基本、ソメイヨシノがボーンボーンと立ち並ぶだけ。
量は多いですが、凡庸といえば凡庸。どこにでもありそうな感じの、郊外的な桜スポットであります。
しかし、植えられた桜は凡庸でも、植えられた土地は凡庸ではありません。
ここ背割堤は、府南部の木津から流れてきた木津川、琵琶湖から宇治を通ってきた宇治川、
そして鴨川と保津川を飲み込んだ桂川の三川が合流し、大阪のシンボルである淀川に化ける地。
昔は「淀川」という名前の通り、淀城のあたりで合流してたんですが、
明治初頭に流路を変更、現在の合流点はちょうど京都府と大阪府の境界あたりだったりします。
そう、ここはまさに、国境。
生と死の境界線上で咲く桜にふさわしい、清と濁、光と闇が相まみえる場所なのです。
京都と大阪のどっちが濁かは知りませんし、あるいはどっちも闇かも知れませんが、
とにかく、凡庸なソメイヨシノであっても何らかの妖しき魔力が作用するのは、確かなのです。
「ほんまか」と問われたら「嘘です」としか答えようがないですが、確かなのです。
KBS京都とテレビ大阪が見れたり見れなかったりした私が言ってるんだから、確かなのです。

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