八坂神社・疫神社の夏越祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年7月31日(火)


八坂神社・疫神社の夏越祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

祇園祭、いや元々の呼称だと祇園御霊会は、
街に蔓延する疫病の退散を目的として、平安前期に開始されました。
科学の無い時代の人口密集都市・京都にとって、疫病が流行り易い梅雨明けは、恐怖の季節。
死体が次々と生まれ、その死体がさらに死体を生むという魔のスパイラルを断ち切るため、
ほとんど疫神と紙一重の荒っぽい祇園神・素戔鳴尊 = 牛頭天王のパワーを借りて、
のちには山鉾なる超巨大悪神吸引機も造り、疫神を吸引したり追い出したりしてたわけです。
で、パワフルであると同時にリスキーでもある牛頭天王の扱いの際に援用されたのが、
牛頭天王に一夜の宿を供したことで惨禍から免れたという、蘇民将来の説話。
「俺、明日、南の海へ女を引っ掛けにいくねん。でも今日、もう遅いやろ。せやから、泊めて」 と、
アポなし宿泊を強引に頼んできた神を、貧しくも粟粥などで丁重にもてなした、蘇民将来。
金持ちのくせに神の宿泊を断った弟・巨旦将来に半ギレだった牛頭天王は、このもてなしに感動、
「お前とお前の身内だけ、助けたる」 と、目印になる茅の輪を蘇民将来に授け、
巨旦将来を始めとする他の村人、つまり茅の輪を持たない者を、ことごとくブチ殺しました。
茅の輪を持っていれば、助かる。蘇民将来の身内と名乗れば、助かる。
そんな信仰から、現在でも祇園祭では奉仕者が 「蘇民将来之子孫也」 の護符を身につけ、
茅の輪の変形にあたる食えないちまきが、お守りのように重宝されています。
7月31日、一ヶ月にも渡って様々な行事が行われてきた祇園祭のフィナーレを飾るのは、
この蘇民将来を祭神とする八坂神社摂社・疫神社の、夏越祭。
フィナーレと言っても、派手なイベントはありません。設置された茅の輪を、ただ、くぐるだけ。
しかし、レアな端緒が剥き出しになってると言える神事をもって祭を終了するその様に、
祇園祭が単なる観光イベントではないことを、改めて実感できるはずです。
そんな夏越祭、ふらっと寄ってきました。

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狸谷山不動院の火渡り祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年7月28日(土)


狸谷山不動院の火渡り祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

火渡り祭。読んで字の如く、火の中を渡る行事です。
タヌキの置物&自動車祈祷&ガン封じで知られる、一乗寺奥の狸谷山不動院にて、
護摩火をバンバカ焚きまくった後、その残り火の中を一般参拝者が裸足で歩く、火渡り。
何ゆえ夏の一番暑い時に、そんなデンジャラスな灼熱地獄を味わねばならんのかといえば、
無論、我々が穢れ切っているからであり、その穢れを聖なる炎で焼き尽くす必要があるからです。
この一ヶ月ほど前にあった夏越祓の茅の輪くぐりまくり記事でも、似たことを書いてますが、
タヌキゆえ手抜きでコピペしてるのではなく、こちらの火渡り祭もまた、夏越祓の一種。
八坂神社・疫神社伏見・御幸宮神社の茅の輪、または下鴨神社の矢取り神事などと同じく、
旧暦のタイミングで穢れを祓い、夏を乗り切るための健全な心身を手に入れようというわけです。
一ヶ月しか経ってないのに、また祓うのか。茅の輪くぐりまくりでは、清め切れなかったのか。
そう問われると、「何も考えず興味本位で行ったんだよ~ん」 と、魂の真実を告げたくなりますが、
しかし、盛夏へ突入するにあたり、スピリチュアルな調整が必要なのもまた、確かなこと。
夏は、誰にとっても、我々独男にとってもなお、煩悩を刺激されやすいシーズンであります。
健全な人間が煩悩を刺激されたのなら、勝手に盛り上がって人口でも増やしとけという話ですが、
我々独男が下手に夏の煩悩を刺激されると、色々と厄介な事態が出来しがちであります。
個人の恥的にも、社会的にも、時に人道的にも、厄介な事態が出来しがちであります。
危険なのです。夏は、危険な季節なのです。なので、前もって穢れの始末をつけておきたい。
しっかりと、蓋をしてしまいたい。できることなら、完全に燃やし尽くしてしまいたい。
そんな思いに駆られ、一乗寺の坂を登ったというのはやはり大嘘ですが、
暑い季節の熱い行事、とにかく行ってきました。

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高良神社の太鼓まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年7月18日(水)


高良神社の太鼓まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

高良神社
石清水八幡宮が鎮座する男山、その麓にある同宮の摂社です。
創建は、石清水とほぼ同時期。創建したのは、石清水を宇佐より勧請した、行教
かつては、石清水祭の舞台となる頓宮や極楽寺などと共に、壮麗な山麓下院を構成し、
そのゴージャスさは、『徒然草』 に登場したかの仁和寺の法師でさえ、石清水本殿と間違えるほど。
「何事にも先達はあらまほしきもの」 という教訓を生んだ場所としても、名高い社であります。
時が幕末に至ると、鳥羽伏見の戦い神仏分離の波乱で壊滅的なダメージを受け、
何をどう見ても石清水と間違えようのない小さな建物にはなりましたが、神社そのものは、存続。
皇族や武家などが御用達の、いわゆる 「お上の神さん」 である石清水八幡宮とは別に、
地元の住民たちを護る氏神として、現在もなお篤い崇敬を集め続けています。
太鼓まつりは、そんな高良神社で盛夏が始まる頃に行われる、例祭。
「男山の麓で、太鼓まつり」 と聞くと、ある種の性癖を持つ方は、ある種の連想をするのでしょう。
「褌一丁の男が荒々しいバチさばきを見せる」 みたいな。別方面の視線が熱い、みたいな。
しかし八幡の太鼓まつりは、そういった「太鼓の技を競う」 といったテイストの祭りではありません。
打ち鳴らすのは、いわゆる触れ太鼓のフレーズである 「ドンドンドドドン」 のみ。
この 「ドンドンドドドン」 を本当に延々と叩き続け、そのトランス的高揚で盛り上がる祭りです。
勅祭である石清水祭が 「お上の祭」 なら、こちらは正に地元の祭という感じでしょうか。
ゆえに、幼少の頃は確かにこの山麓下院で遊びまわっていたものの、
貧乏な移住者の子であった私には、正直今ひとつ馴染みがなかったりするんですが、
疎遠な母校の同窓会へ向うような気分で、とにかく行ってきました。

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2012年の祇園祭・山鉾巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。【後篇】

2012年7月17日(火)


2012年の山鉾巡行追尾録、前篇に続き後篇です。

そういえば、2012年巡行では、放下鉾の喧嘩騒ぎがありました。
当日から 「放下鉾 喧嘩」 で検索して飛んできた人がいたので、何のことかと思ってたら、
鉾の保存会と囃子方の保存会が揉め、巡行の途中で囃子方が鉾から降りてしまったんだとか。
実は私、放下鉾から囃子方が降りてる現場を、数10mほど離れた所から見てました。
新町御池あたりで止まったまま動かず、後続の山にどんどん追い抜かれていく、放下鉾。
のみならず、通常は激しい尿意を催しても降りることが許されないという山鉾から、人が降りている。
変だな、とは確かに思いました。でも、近くに寄って事態を確認しようとは思いませんでした。
何故なら、面倒くさかったから。何故面倒くさかったかといえば、暑かったから。
もうね、何時間も直射日光浴びながらウロウロしてるとね、数10mを動くのもイヤになるんですよ。
あと、御池通自体が、暑いし。道が広くて日陰がないので、逃げ場がなくて、暑いし。
目もね、かすんできますよ。いや、見えてるんだけど、画像の信号が脳に届かない状態というか。
耳も、きつい。聞こえてるけど、聞こえてない。世界が、遠い。ちょっとした、離人状態です。
それくらい、暑かったんですよ。あんまり暑いと、下衆な好奇心って、蒸発するもんなんですよ。
多分、喧嘩の理由も多分、暑かったからですよ。暑いと、腹立ってきますもんね、うん。
と、狂ったイントロと共に、河原町通北上から山鉾解体に至るまでの後篇、スタートであります。
モチベーションと体力がダダ下がりの中、灼熱のストリートを這いずり回る感覚を、
またしても文章超手抜き+単なる写真の羅列状態で味わってください。

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2012年の祇園祭・山鉾巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。【前篇】

2012年7月17日(火)


2012年の祇園祭・山鉾巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

山鉾巡行、2012年度の追尾録でございます。
千年前から超過密都市であるため、疫病が死に直結する時代が長く続いた、京都。
梅雨明け+盛夏初頭あたりは特に怖い季節であり、氾濫する疫病の元・疫神を何とか祓うべく、
華麗な山車で街中を巡行し、厄神を吸引してまわることこそが、そもそもの山鉾巡行の本義でした。
その巡行が、疫神を祓うどころか疫人たる観光客を大量に呼び込むショーと化した時期こそ、
疫病の恐怖が消え、産業と観光重視の思想が前面化した、昭和の高度経済成長期。
17日 「さきのまつり」 +24日 「あとのまつり」 の二週またぎ開催だった巡行が17日に一本化、
ルートも大幅に変更され、現在生きてる大半の人にとっての 「山鉾巡行」 の形が出来たわけです。
しかし、昭和終了からもそれなりの時間が経ち、経済成長の夢もまた跡形もなく消え去った今、
山鉾町や行政など祭に関わる人たちの関心は、旧儀の復活の方により向いてます。
「さきのまつり」+「あとのまつり」 の二週またぎ開催早期復活が、現実的に協議されるようになり、
2012年の今回は、実に140年も休み山だった大船鉾が、巡行に復帰することになりました。
全てが 「例年通り」 のようでいて、実は激しく形を変え続けている、山鉾巡行。
ひょっとすると現行の昭和フォーマットでの巡行は、逆にあと数年で見納めとなるかも知れません。
正午を過ぎてからの疲労よ、さらば。無残なまでにカラッポになる有料席よ、さらば。
そんな哀惜の念を抱きながら眺めたというのは大嘘ですが、とにかく2012年も追尾です。
朝7時の飾りつけから14時過ぎの解体まで、延々と追っかけてみました。
あまりに暑過ぎて記憶が曖昧なため、ほとんど写真の羅列のみで恐縮ですが、
現場の興奮と猛暑と疲労を感じていただければ、幸いです。

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祇園祭の昼の宵々山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年7月15日(日)


祇園祭の昼の宵々山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

宵々山。すなわち、山鉾巡行の前々夜という意味です。
「15日の宵山」 が本来の呼び方だそうですが、すっかりこの呼称が定着してます。
最近は宵々々山という言葉も浸透し、私もふざけて 「宵々々々山」 などと書いたりしました。
しかし、そのうち 「宵々々々々々々々々々々々々山」 などという阿呆な言葉が本当に現れようとも、
「宵」 という文字が夜を表すことについては、どうにもこうにも曲解のしようがありません。
そう、そもそも山鉾町の散策は、夜に行うもの。何故なら、昼は暑いから。死ぬほど、暑いから。
しかし、宵々々山あたりからの山鉾町は、昼でも多くの観光客で賑わうようになります。
まだ山のいくつかが建ってもいない宵々々々山の頃だと、まだ地元の人が多い感じですが、
交通規制や露店が始まる宵々山あたりからは、混雑は夜顔負けのレベルに達してしまいます。
頭の上からは、直射日光。足元からは、輻射熱。そして周囲は、木材と人肉だらけ。
それでも、来る人がいるのです。それも沢山、いるのです。死を覚悟しているとしか思えないのです。
幻想と疲労の間から生まれた、観光ハイとは違うヘビーで殺伐とした空気を放ちながら、
超狭い山鉾町の中を徘徊し続ける人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人。
人間の業が露になるという点では、それはそれで興味深いものがあるかも知れませんが、
地元あるいは近隣の住民ならあまり近づきたくない、そんな恐るべき昼の宵々山。
しかし、超メジャースポットの単独特攻が趣旨のうちとしては、逃げるわけにはいきません。
単独特攻のみならず、山鉾全てを網羅するというどうでもいいミッションも己へ課し、
炎天下と超人圧の中、熱中症の恐怖を背中に感じながら徘徊してみました。
疲労が過ぎて、細かいことを記憶する脳の余裕がなかったため、長ったらしい文章は、カット。
写真の単なる羅列から、現場の異様な空気を感じて下さい。

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祇園祭の山鉾曳初めへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年7月12日(木)


祇園祭の山鉾曳初めへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「あなたも山鉾巡行の曳き手になってみませんか」 。
春を過ぎると、こんな曳き手ボランティア募集広告を、街角でよく見かけます。
私の住んでる八幡にはありませんが、京都市内なら誰もががちょくちょく目にするでしょう。
何故か古い感じのアパートが多い所で出くわすことが多い気がするんですが、それはともかく、
山鉾を曳く機会というのは、男限定ではあるものの、案外簡単に得ることができるわけです。
あれを見るたび、足を止めてしばし眺め、 「やってみようかな」 とか思ったりします。
「中に入らないと、わからないことも多いだろう。やってみようかな」 とか思ったりします。
でも、当日に休みが取れるかどうか、わからん。それに、どう考えても体力的に、ハード過ぎる。
見てるだけの見物客からでさえ、熱中症で病院送りになる奴が毎年現れる、山鉾巡行。
日差しからの逃げ場がない道の真ん中で、あんなデカいもん引っ張るなんて、ちょっと、ありえん。
こんな感じで、毎年、尻込みしています。似たようなヘタレ野郎の方、多いんじゃないでしょうか。
しかし、死ぬ思いで曳き手ボランティアをせずとも、山鉾を曳くチャンスは、ないことはありません。
山鉾が組み上げられ、正常に運行が可能かどうかを試す行事 「曳初め」 が、それです。
文字通りの試験走行である曳初めは、その場にいる見物客を曳き手に大量登用。
予約も申込も必要なく、その場に居合わせ列に並べば、老若男女誰でも鉾が曳ける、と。
観光客が少なく交通整理も甘い街中を、大勢の地元民に曳かれて進む山鉾の姿は、
写真などで見る昔の巡行のイメージと妙に重なり、いい味があったりもします。
そんな曳初め、ヘタレの私もこっそり混じってきました。

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