東一口・安養寺の双盤念仏を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年3月18日(日)


東一口・安養寺の双盤念仏を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

巨椋池。おぐらいけ。
伏見の南にあって、平安京の四神相応では朱雀にも見なされた遊水池です。
周囲16km+約800haという、「池」 と呼ぶのがかなり相応しくない巨大なサイズを誇り、
桂川+宇治川+木津川のオリジナル合流点として、その下流である淀川の水量をコントロール。
しかし周辺地域で発生する水害は、デカ過ぎるゆえに半端なく、おまけに発生頻度も高し。
昭和に入って全域が干拓され、現在はその大半が農地化。京都随一の青果生産地となってます。
干拓直前の巨椋池は水が澱み、そのためかえって蓮の名所として名を売ったそうですが、
元々は魚類が豊富に生息する環境であり、池畔には淡水漁で生計を立てる漁民が多く居住。
京都の難読地名ブッちぎりの首位を誇る東一口は、その代表的な集落でした。
後鳥羽上皇から独占的な漁業権を賜った彼らは、池の西端で干拓完了まで漁民として生活を続け、
漁業から離れざるを得なくなった現在も、昔からの風習を根強く守り続けています。
「荒くれ漁師がお告げに従い、淀川から観音像を引き上た」 という弥陀次郎伝説に基づいて、
その引上日= 3月18日に近い土日に開催される安養寺の春祭りも、そのひとつ。
祭りでは、南山城唯一の伝承念仏という 「双盤念仏 or 六字詰念仏」 も披露。
六斎念仏ファンとして、近所の久御山に念仏があるとなっては、行かないわけにはいきません。
そう、私の住む八幡と久御山は、隣同士。巨椋池があった頃は、船で往来もできたはず。
現在は何か、異常に公共アクセスが悪いけど。それはまあ、どうでもいいんだけど。
とにかく、双盤念仏を見に行ってきました。東一口へ、行ってきました。
「東ひとくち」 ではありません。東一口へ、行ってきました。


だから 「一口」 って、どう読むんだよ 。
という方のために、町内の標識を見てもらいましょう。納得いただけたでしょうか。
「いもあらい」 の理由については 「昔は芋洗と書いた」 「集落の出入口が一つしかなく、その当て字」
「忌み祓いの意味もある」 など、説が色々存在。とりあえず、キラキラネームではありません。


東一口の現代におけるアクセスは、R1経由になるんでしょう。
工場とロードサイド店と水田ばかり見える道を走り、イオンを少し北上したあたりで西へ曲がり、
2本の川に挟まれた集落へ入ると、御覧のようなナチュラルレトロの町並が現れます。
着いたのは14時、双盤念仏が始まるのは16時、しばらく徘徊してみましょう。


集落は堤防の上、池に突き出る格好で存在していたといいます。
地図で見ると、干拓されて70年以上経つ現在でも、その名残が伺えるかなと。
しかし実地へ入ると、町の風情そのものも海沿いの町的というか、漁村的なテイストが炸裂状態。
入り組んだ路地、水へ続く急な石段など。意外と子供が多いのは、祭りだからでしょうか。


タイムスリップしたような気分にもなる、東一口の風景。
瀬戸内海の沿岸、あるいは離島にでも来た気分です。写真で伝わるかは、わからないけど。
私は比較的近所の人間であるため、「内陸の漁村」 のシュールさが、より強烈に感じられます。
元々は八幡もかなり 「水の民」 のはずですが、こんな残り方をしてる所はありません。


東一口のランドマーク、漁業者代表・山田家の門
立派であります。天皇から独占的な漁業権をもらっていただけのことはあります。
この近くには魚市が立ち、鯉・鮒・鯰・鰻などを求め、京都や伏見の仲買人たちが集まりました。
が、住民全部がボロ儲けだったわけではなく、多くは半農半漁の暮らしだったそうですが。


入り組んだ路地の中にあるのは、豊吉稲荷。ほうよしいなり。
疱瘡に効く神様で、一口 = 忌み祓い説のネタ元にもなってます。伏見稲荷の36番目の峰。
江戸城開祖・太田道灌が娘の疱瘡快癒を祈願し、現在の太田姫稲荷神社のルーツになったとか。
小野篁が神像を祀った、なんて話も。小さい社ながら、何か強烈に 「効き」 そうです。


「一口」 の名のミステリアスさと、疱瘡快癒信仰の関係。
都の足元で川が集結する巨椋池には、霊的パワーが感じられてたのでしょうか。
あるいは洪水&水害が多発するため、疫病全般のリスクが具体的に高かったのでしょうか。
いずれにせよ、時を経るにつれ人々は後者 = リスク面をより問題視するようになります。


大昔から治水で少しずつ形を変えてきた巨椋池ですが、
秀吉の時代には伏見城の水運を良くするため、流入する宇治川流路を変更+築堤
さらに明治になると完全に独立池と化し、水質は激烈に悪化+疱瘡どころかマラリアが大流行
おまけに洪水のリスクは全然減らないため、昭和初期から干拓事業が本格化しました。


食糧増産を考えてたのか、干拓は戦中も続行され、16年に完了。
「巨椋の入江響むなり射目人の 伏見が田井に雁渡るらし」 と詠まれた巨椋池は、消滅しました。
が、埋め立てではないため、台風でポンプ場が追いつかなくなると、池が 「復活」 したことも。
水害が及ぶ八幡でも、古い家は屋根裏に船を用意してる話を聞いたことがあります。


干拓地の大半は、農地として漁民に払い下げられたそうです。
耕作の安全と、死滅した池の動植物の鎮魂を祈り創建されたのが、こちらの大池神社。
境内には簡素な本殿の他、かつて巨椋池の魚で商売した川魚商たちが奉納した石碑もあり、
一時的に池が復活した際の浸水線が付いた 「巨椋池記念碑」 なんてのもあります。


で、その川魚商の名が並ぶ石碑、アップ。
「京都」 の 「鮒定」 は、現在も七条で 「川魚問屋」 の看板を上げる、七條鮒定でしょうか。
「伏見」 の 「鮒新」 は、納屋町商店街アーケードで美味げな匂いを出してる、あの魚屋でしょうか。
そして、他の碑で任天堂が奉納に名を連ねてましたが、何か関係でもあるんでしょうか。


で、時刻は16時。いよいよ奉納が行われる安養寺へ向かいます。
安養寺があるのは、山田家の裏というか表というか、とにかく迷路みたいな道を入ったところ。
正式名称、紫金山安養寺。本尊は先述の、淀川から引き上げられた十一面観音菩薩。
観音様は、秘仏。この祭りの時と、あと33年に一回大々的に開帳されるそうです。


寺まで来たのはいいけど、門前も周囲もあまりのネイティブ全開状態。
入るのを躊躇し、外で念仏だけ聴こうと思ってたら、地元の方が「どうぞ」と中へ入れてくれました。
お堂は、正面奥に観音様。右手に、箱バンのボックスみたいな鉦座。念仏はここで演る、と。
その手前には、昭和55年の観音様開帳の様子を上映するためのプロジェクターあり。


保存会の人たちが鉦座に座り、双盤念仏開始。
別名である 「六字詰念仏」 の六字とは、言うまでもなく南無阿弥陀仏のこと。と、思います。
双盤とは、そろばんではなく、鉦のこと。と、思います、これも。スタイルはかなり、念仏六斎的。
いわゆる芸能六斎ではない、経読みメインの純然たる念仏六斎タイプの奉納です。


とはいえ、ソロらしきものを取るパートもあり、ユーモラスな節回しが出ることも。
ペンタトニック+9thb or 2bの音をフレーズ末尾で強く出すのが、実に不思議な響き。
意図的なのかどうなのか、ばらつきのあるチューニングの鉦も、これまた実に不思議な響き。
コール&レスポンスっぽい展開もあり、次第に堂内の空気は高揚していきます。


ちなみにこの時の念仏奉納は、「閉帳鉦」 だとか。
閉帳鉦。つまり、開帳されてた観音様の扉を閉じる = 閉帳に合わせた奉納というわけです。
双盤念仏は 「晨朝鉦」 「初夜の鉦」 「日中鉦」 と、早朝から深夜まで断続的に行われるそうで、
「閉帳鉦」 はすなわちエンディング。それを物語るように、念仏は激しい鉦の連打に展開。


鉦の連打がエキサイト状態へ入った頃、坊さまが登場。
般若心経を読み、観音様の扉を閉じ、双盤念仏は終了。参加者の方たちは、直会へ。
トータル、一時間ほどでしょうか。極めつけにディープな念仏六斎というか、念仏そのものでした。
さすが、登録無形文化財。というところで、他所者の私は退散でございます。

客は、地元の中高年の方ばかりが、20人程度。以上。
通常のプレッシャーはありませんが、他人の家へ上がりこむ感じは爆裂状態です。
ただ、超ネイティブテイストの念仏や、町そのものの不思議な雰囲気は、実に魅力的。
車がないと結構遠い所ですが、訪れてみるのもいいんじゃないでしょうか。

そんな東一口・安養寺の春祭り。
好きな人と行ったら、より一口なんでしょう。
でも、ひとりで行っても、一口です。


【ひとりに向いてる度】
★★★
プレッシャーなどは、特になし。
ただ、地元仕様のため、他所者は確実に浮く。

【条件】
日曜 14:00~17:10

安養寺
京都府久世郡久御山町字東一口112
拝観多分自由、時間は知らん
春祭りは彼岸の入り前の土日開催

京阪電車 中書島駅下車 徒歩約50分
京阪電車 淀駅下車 徒歩約50分
近鉄電車 向島駅下車 徒歩約40分
久御山町のってこバス 前川橋下車 徒歩1分

安養寺春祭り – 久御山町ホームページ