佐伯灯籠へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2014年8月14日(木)


佐伯灯籠へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

佐伯灯籠。亀岡市旧佐伯郷、現・ひえ田野町で行われる夏祭です。
亀岡市ひえ田野町というのは、亀岡の西部、JR亀岡駅から5キロほど西へ行った辺、
『大林幸二ときょうの夜』 によく出てくる松園荘がある湯ノ花温泉、そのちょい東側にあるエリア。
同町に鎮座する薭田野神社・御霊神社・若宮神社・河阿神社の合計4社が合同で執り行う、
五穀豊穣を祈願する神事と、祖霊を慰める盂蘭盆会の仏事が習合した祭典が、佐伯灯籠であります。
何ゆえ夏祭なのに、 「何ちゃら祭」 といった名前ではなく 「灯籠」 なる名前が付いてるかといえば、
この祭に灯籠、それも長い歴史を持つ灯籠が、大きくフィーチャアされてるからに他なりません。
京都の周辺部には、室町時代に都市部で流行した風流灯籠の風雅を伝える祭が現在も存続しており、
当サイトでも訪れた八瀬の赦免地踊りはその代表例ですが、こちらの佐伯灯籠もまた、そのひとつ。
寛喜元年に勅使・広幡大納言より5基の神灯籠を下賜されたことから始まるとされるこの祭は、
現在もその5基の神灯籠が、一年の稲作の場面を人形を使って飾りつける役灯籠という形で存続。
また、国内では唯一ともいう一人使いの串人形を用いた人形浄瑠璃が演じられるのも、特徴。
さらには神輿も繰り出して、祭終盤の深夜には役灯籠と神輿が追いかけ合うような 「灯籠追い」 や、
バンバカ打ち鳴らされる太鼓台に神輿が乗っかるという豊穣祈願テイスト爆裂の 「太鼓がけ」 も展開。
農村の習俗+都市の風流、神の神事+仏事の盆会、古風な人形+近世の浄瑠璃などなど、
京都周辺部のエッセンス or 旨みの如きものを、凄まじい濃度で圧縮したような祭なのであります。
そんな佐伯灯籠、行ってきました。といっても基本的には、夕方以降の浄瑠璃を見てただけですけど。
昼間も、御霊神社での人形浄瑠璃奉納や大松明炎上など、興味深い行事が多い祭ですが、
時間の都合が合わず夕方から出かけ、帰れるギリギリまで見せてもらったわけです。
口丹波の盆夜に展開されるミステリアスな幻惑の世界、御覧下さい。


特に同好の士らしき者の姿を見ることなく、16時半に到着したJR山陰線・亀岡駅
改札前では、八木への往復切符を臨時発売中。そう、今日は隣の八木の花火開催日でもあります。
駅を出ると、浴衣を着た女の子の姿、結構あり。皆、佐伯灯籠でなく八木の花火の方へ行くわけです。
あ、写真に写ってるおっさん像は、浄瑠璃の太夫っぽいですがそうではなく、亀岡の星・石田梅岩


浄瑠璃に関係あるアイテムとしては、改札を出て少し行った所に御覧の人形が展示中。
体長は、30cm程。文楽人形より全然小さく、文楽完成以前の形態を残しているとも言われてます。
一人遣いの串人形で、後に付いた串を駆使して操るのです。いや、駄洒落ではなく、本当にそうです。
あ、この展示近くにある観光案内所では、詳細なパンフが無料でもらえるので、立ち寄るのが吉。


祭の雰囲気を感じることがないまま、駅前の王将で飯を食い、バス乗り場へ行くの図。
佐伯行きの40系統バスは、平日でも10本程度。この日は休日扱いゆえ、6本程度しかありません。
人形浄瑠璃には次の便が最終みたいなもんなので、激的に混むかと思ったら、全くそんなことはなし。
同好の士らしき人は、 「佐伯灯籠、行きますか?」 と運転手に訊く女性2人組がいただけでした。


駅前を出発したバスは、9号線へ出てガレリアに寄ったのち、R372へ進入したの図。
強烈に田園的な風景がまだまだ残る篠山街道、現在は灯籠街道とも呼ばれる道を、西進します。
途中、運動公園で結構な数の客が降りました。で、若者が大量に間違えて乗って来そうになりました。
運動公園にあるプール帰りの連中です。連中もやはり、これから八木の花火へ向かうんでしょうか。


17時50分、灯籠モチーフ+中で人形も展示してる国道佐伯バス停に到着。
ただしこちらは、亀岡方面行きの乗り場。私が降りた車線のバス停は、標識がポツンとあるのみ。
ちなみに亀岡方面のバスは、19時半頃が最終。祭が終わるのは、深夜。どうやって、帰りましょうか。
バスを降りたのは、先刻の女性2人組+私+おっさん1名。祭、やはり花火に押されてるのかな。


とか思いながら薭田野神社へ向かうと、既に夜店が並び、子供がウロウロしてました。
薭田野神社。709年に朝廷の指示で社殿が造営されて以来、佐伯の産土神として祭られる社です。
といっても、それ以前の遙か三千年前から、既に何らかの祭祀が行われてたという話もありますけど。
名物としては、まずはこちらの大鳥居。平安神宮の大鳥居に次いでデカい、巨大な鳥居であります。


とりあえずお参りに行った本殿前は、袢纏姿の人達が神輿の還幸を待つ、のんびりムード。
神輿は、五穀の苗を遷す 「御霊遷し」 を昼にここで行い、灯籠と共にすぐ近くの御霊神社へ移動。
御霊神社では、大松明炎上+浄瑠璃野外上演など、面白げなことが色々行われます。見たかった。
その後一行は、辻芝篝に火を灯しながら輪番を担う各氏子域を巡幸。夕方、ここへ帰るわけです。


癌封じと女性に御利益がある社へ、どちらも現状は縁が無いけど一応お参りした後、
幸せなる神の恵みと不思議なる神の恵みを呼ぶとされる 「幸魂奇魂の魂石」 を、拝むこと、しばし。
女性に御利益がある薭田野神社ですが、この祭での扱いは 「男神」 。対する 「女神」 は、御霊神社。
「女神」 & 「男神」 、その子・若宮神社、そして近所の河阿神社の出会いが、この祭の本義とか。


と、神の出会いに思いを巡らせてると、隣の佐伯灯籠資料館で浄瑠璃が始まりました。
佐伯灯籠資料館、鳥居の横の建物が、そうです。入口に人が集まってるのが、わかるでしょうか。
バス停から数分歩いただけでも、古来の様式が濃厚に残ってるという印象を受ける佐伯灯籠ですが、
時代や社会変化の波は当然受けており、保存会結成やこのような資料館の設立も行われてると。


人間の壁が出来ている入口から、人間の壁が出来ている資料館内部を覗くの図。
資料館の観覧スペースは、定員が30人程度でしょうか。入りきらない人で、いっぱいであります。
人形浄瑠璃が演じられる舞台は、紅白にデコられた上部構造だけが奥でチラっと見えてる、台灯籠。
畳一畳程の下部に人形遣いが隠れ、同サイズの上部で人形が動く感じです。全然見えないけど。


人間の壁の隙間をかいくぐってかいくぐって、ほんの一瞬だけ人形を拝めたの図。
最初に上演されるのは、地元小学校の生徒さん達によるという 『傾城阿波の鳴門 順礼歌之段』 。
亀岡駅の展示でも見た通り、佐伯灯籠の人形は本当に小さいです。なので余計に、全然見えません。
最後までこんな凄まじい混雑が続くと、ちょっと苦しいな。そんなことを思いながら、一旦外へ避難。


大鳥居近くの食い物屋・宮本屋がフル稼働という感じで人が動きまくってるのを眺めたり、
隣の酒蔵がやってる和風喫茶が開いてるかどうか確かめようとした頃、還幸列が帰って来ました。
太鼓が打ち鳴らされる中、やはりフル稼働の屋台が並ぶ参道をトラックで進む、役灯籠&神輿一行。
あ、さっさの浄瑠璃舞台・台灯籠は、途中で還幸列から離れて、資料館上演に臨んだわけですね。


トラックで続々と本殿へ向かう、役灯籠。中に人形が仕込まれてるのが、見えるでしょうか。
公家からの下賜により生まれたとされる役灯籠ですが、趣向の方はこの地にあわせる形で変化。
一年の農事を主題として、それに沿う人形や背景の水彩画を取り付け、予祝の意が込められてます。
その一方、菊紋&上部に貼られた熨斗が、公家間における灯籠贈与の風習もまた伝えてますが。


役灯籠の主題は、「御能」 「種蒔き」 「田植え」 「脱穀・臼摺」 「石場搗」 の、合計五つ。
写真は、四番 「脱穀・臼摺」 。多分。盆棚っぽくも見えるルックで、カラフルな人形がキュートです。
人形、先刻の浄瑠璃人形と比べると、手作り感は強烈に強いものの、サイズはほぼ同じに見えます。
この人形が操り灯籠的に発達したのが台灯籠における人形浄瑠璃、というのが大方の見方とか。


トラックから降ろされ神社境内へ運ばれ、これから行われる神事に備える、役灯籠。
紅白のカザリフサ、紅白のカザリ竹、カラフル過ぎる台部、そしてその下に付くまたも紅白のタレと、
無理矢理気味に派手な灯籠ですが、これは風流の趣向に加え、神の依り代としての意味もあるとか。
あ、 「役灯籠」 という名称は、灯籠の当屋を担うのが名誉であることを受けての呼称だそうですよ。


本殿では遷霊などが始まるわけですが、私は資料館の浄瑠璃鑑賞に戻ります。
子供による浄瑠璃が終わると、一気に客が減ったので。子供の身内が沢山来てたんでしょうか。
写真は、資料館へ入る前に眺めた、入口前の番組表。演目は、先刻の子供によるものも含め、6幕。
予習で読んだ何ちゃら報告書では、演目は3つしかないとか書かれてましたが、増えたのかな。


混んではいますが何とか座り、さっきはチラ見だった台灯籠を眺めること、しばし。
台灯籠、言われなければ灯籠には全く見えませんが、言われると確かに灯籠的な形をしてます。
台上に乗っているのは、京都御所・紫宸殿を模った御殿。そして、やはり神の依り代としての花飾り。
下部には、山城の風景を描いた水墨画 「題張り」 あり。あと、幽玄な雰囲気を生み出す、蝋燭も。


上演の流れは、前もってあらすじの紹介、太夫の紹介、「糸」 と呼ばれる三味線の紹介、
そして毎回 「人形総出演」 と人形の紹介も行った後、1幕が30~40分の本編へ入るという感じ。
演目はいずれも、いわゆる 「見取り」 方式で上演。おいしいところだけ抜粋し、演じられるわけです。
で、始まった2幕目は、 『艶姿女舞衣 酒屋之段』 。 「今頃は半七さん」 の、あれでございます。


深い仲になってしまった、女舞芝居の芸人・美濃屋三勝と、酒屋・茜屋の息子・半七。
お通という子供まで設けてしまった二人を引き裂くべく、半七の両親が嫁として迎えたのが、お園。
しかし、半七は三勝のことを思い切れず、お園は完全放置。三年もの間、夫婦の交わりも一切、無し。
それでも半七の身を案じる御覧のお園のクドキが、 「跡には園が憂き思ひ」 から始まるわけです。


恋敵・善右衛門を殺してしまい、家からも勘当された半七を、なおも思い続ける、お園。
「世の味気なさ身一つに、結ぼれ解けぬ片糸の、繰返したる独り言」 を言いながら、動き回ります。
人形はいずれも、陰遣い。胴体の背に 「心串」 なる竹串が通し、ここの糸仕掛けで首を左右に操作。
首は京雛のものを流用し、表情は固定状態。 左右の手は、 「差し」 なる竹串を直接付けて操作。


切々とした語りと共に、動いて動いて動きまくるその様で、哀感を表現する、お園。
「今更返らぬことながら、私といふ者ないならば」 「半七様の身持ちも直り御勘当もあるまいに」
「思へば/\この園が、去年の秋の煩ひに、いっそ死んでしまうたら、かうした難儀は出来まいもの」
「添ひ臥しは叶はずともお傍にゐたいと辛抱して、これまでゐたのがお身の仇」 と、己を責めまくり。


己を責めるあまりなのかどうなのか、お園、遂にはハイジャンプまで決めてしまいます。
首や両手の操作&胴体の保持や動きを、全て一人でこなさなくてはならない、佐伯灯籠の人形。
その独自の操作方法から生まれる独特のテイストが、初手から前面に現れた演目でございました。
で、 「恨みつらみは露ほども、夫を思ふ真実心、なほいや増さる憂き思ひ」 で、この幕、終了。


室内は、暑いです。クーラーが無く、扇風機も無く、人間が密集してるため、暑いです。
おまけに台灯籠の 「題張り」 前では、幽玄なる蝋燭がゆらゆら燃えているため、余計に暑いです。
ただあまりに暑いためか、座席の最前列は割と、空き気味。暑ささえ我慢すれば、クリアに観れます。
というわけで、次の 『菅原伝授手習鑑 寺子屋之段』 は、最前列で見せてもらうことにしましょう。


菅丞相 aka 菅原道真から託された息子・菅秀才を、寺子屋で守る高弟・武部源蔵。
しかしそれが敵方・藤原時平にバレ、秀才の首を出せと命じられた源蔵、身代わりを立てると決意。
自身の教え子である寺子屋の子供を、 「いずれを見ても山家育ち」 などと毒づきながら物色してると、
寺入りしたばかりの小太郎を妻・戸浪から紹介され、思わず 「テ扨そなたはマよい子ぢやなふ」 。


そのあまりの態度のウハウハ化に、源蔵の只ならぬ精神状態を察し、いぶかる戸浪。
「最前の顔色は常ならぬ吃相」 だったのに、 「今又あの子を見て、打つてかへての機嫌顔」 だと。
「猶以合點行かずどふやら様子が有そふな、気遣な聞かして」 と、夫に半狂乱の訳を問うことしきり。
源蔵が告げるのは、秀才秘匿の発覚。そして、先刻の小太郎を秀才の身代わりに立てる決意。


「一旦身代りで欺きこの場さへ遁れたらば」 という源蔵に、危惧の声を上げる戸浪。
「待たんせや。その松王と云ふ奴は三つ子のうちの悪者。若君の顔はよふ見知つて居るぞへ」 と。
しかし、やるしかない。いざとなれば、松王も、小太郎の母も、殺す。そう腹を決め、妻を宥める源蔵。
「弟子子と云へば我子も同然」 「せまじき物は宮づかへ」 と、名台詞と共に涙にくれ居たる二人。


そんな愁嘆場の寺子屋に乗り込むのは、弁慶顔な時平の家来・松王丸と春藤玄蕃。
松王は、元は菅丞相の世話になってたにも関わらず、現在は時平側へついてるロクデナシ野郎。
蟻の這い出る隙も無い程の寺子屋完全包囲を宣言した上で、二人が要求するのは無論、秀才の首。
「ヤア源蔵、此玄蕃が目の前で、討つて渡そと請合た菅秀才が首、サア請取らふ、早く渡せ」 。


源蔵が首桶を持って奥から現れ、松王の前にそれを置いて、始まるのは 「首実検」 。
「生顔と死顔は相好が替るなどと、身代りの贋首ヤモそれもたべぬ。古手な事して後悔すな」 と、
源蔵を脅すことしきりの松王、実は今も菅丞相シンパであり、この首実検も秀才の命を守るべく参加。
身代わりの小太郎も、松王と妻・千代が始めから身代わりとなるべく送り込んだ、夫婦の実の子。


つまり、目の前の首桶に入ってるのは、我が子の首。その首をしかと実検する、松王。
出方次第で斬る気満々の源蔵と、 「天道様、仏神様、憐み給へ」 と祈る戸浪の視線を浴びながら、
我が子が身代わりとして役立った喜びと、しかしやはり耐え難き悲しみを、共に表現すること、しきり。
そして、ためつすがめつ窺ひ見た後、「ムウ、コリヤ、菅秀才の首討つたは、紛ひなし相違なし」 。


松王丸の悲しみを存分に堪能したところで、 『寺子屋』 は終了。正しく、見取りです。
客席は概ね、無反応。笑うもんでも泣くもんでもないので、まあ妥当でしょう。掛声類も、特になし。
大半が演者と顔見知りみたいな地元の人達ですが、宴会芸的なノリは全くなく、静かに観ています。
蝋燭が生む暑気は依然猛烈で、あまりの暑さゆえ、休みの人形遣いの人はバテてたりもしました。


続いては、『絵本太閤記 尼崎之段』亀岡の星・明智光秀 aka 武知光秀の登場です。
光秀は本能寺で小田春永 aka 織田信長を討つものの、母・皐月はその所行を怒り、尼崎に閑居。
その尼崎へ出陣を知らせに来た光秀の子・十次郎に、 「思ひ留つて給はれ」 とすがるは許嫁の初菊。
「他家へ縁づきして下され」 と宥めるも、初菊は 「盃せぬが幸せとは、あんまり聞こえぬ光義様」 。


鎧姿へ早変わりした十次郎と初菊に盃をすすめるのは、皐月と、光秀の嫁・操。
「あつぱれ武者ぶり勇ましゝ」 「祝言と出陣を一緒の盃、サア/\早ふ。目出たい/\嫁御寮」 と。
初菊が悲しさ隠す笑い顔で 「随分お手柄高名して、せめて今宵は凱陣を」 と言えば、十次郎は出陣。
皐月は初菊を宥め、 「心残りのないやうと、思ひ余った三々九度。祖母が心の切なさを推量しや」 。


そんな愁嘆場に水を差すのは、いや水ではなく湯が沸いたと声をかけるのは、旅僧。
しかしこの旅僧、その正体は何故か尼崎へやって来た真柴久吉 aka 羽柴秀吉 aka 豊臣秀吉
「どなたぞおはいりなされませ」 と言う偽旅僧に、皐月は 「年寄に新湯は毒」 「お先へ御出家から」 。
「左様ならば御遠慮なし、お先へ参る」 と偽旅僧が風呂へ向かえば、一間に残るのは皐月のみ。


で、こゝに苅取る真柴垣、夕顔棚のこなたより、現れ出でたる武智光秀。


襖の向こうに潜んでいるはずの真柴久吉を討つべく、見越しの竹をひつそぎ鑓。


で、刺してみたら、相手は実母。 「ヤヤ、ヤアこは母人か、しなすたり。残念至極」 。


「嘆くまい嘆くまい」 とか、 「主君を害せし武智が一類。かく成り果つるは理の当然」 とか、
「系図正しきわが家を、逆賊非道の名に穢す、不孝者とも悪人とも、たとへがたなき人非人」 とか、
「しるしは目前これを見よ。引つそぎ竹の猪突き鑓。主を殺した天罰の報ひは、親にもこの通り」 とか、
この悲劇こそ光秀による主君殺しの報いと末期の声で説き続ける皐月と、それを嘆く操と初菊。


操による死にかけながらの長台詞を受け、涙にむせ返る操も見せ場たるクドキを展開。
「軍の門出にくれぐれもお諌め申したその時、思ひ止つて給はらば、こうした嘆きはあるまいに」 と。
可動式ではないのに、涙を拭いてるように見える、操の指先。人形の操演、上手いです。特に、女形。
正直、私はかなり舐めてたので、驚きました。すんません。後篇は、この驚愕がさらに加速します。

佐伯灯籠へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】 へ。


佐伯灯籠
毎年8月14日 朝から深夜まで
薭田野神社を中心に開催

薭田野神社
亀岡市薭田野町佐伯垣内亦1
拝観時間 知らん

京阪京都交通バス 国道佐伯下車 徒歩約1分
JR山陰本線 亀岡駅下車 徒歩約60分
 

延喜式内 稗田野神社 – 京都府神社庁

薭田野神社 – 亀岡市観光協会