伏見桃山城へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年4月2日(木)


伏見桃山城へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

再生産への強い欲求を示す数多くのエピソードを残しながらも、
その欲求の報われなさ加減に、ある種の 「呪い」 の存在さえ考えたくなる、豊臣秀吉
実子かどうかも怪しい実子・秀頼など、遺された豊臣宗家が辿った末路の悲惨さは言うに及ばず、
バカスカ建てまくり桃山文化を築いた豪華絢爛たる建築物もまた、その多くが現存しません。
無論それら建築物の破壊は、極めて現実的な政治的都合に左右された結果の場合が大半ですが、
中には、聚楽第のように存命中の秀吉自身が半狂乱で地上から完全抹殺したものもあったり、
昭和期まで生き残ったにも関わらず火災で焼失してしまった方広寺の大仏みたいなのもあったりと、
その 「跡」 の残らなさ加減は、何かの魔力、それこそ 「呪い」 の存在を勘ぐりたくなるほどです。
聚楽第&方広寺大仏の消滅が示す通り、京都はその 「呪い」 の傾向が異様なまでに顕著であり、
町を改造されて怒り心頭の町衆や、洛外へ強制移転させられて恨み骨髄の寺の坊主たちが、
1000年単位の呪いを集団でかけたんじゃないかとか思ったりするんですが、あなたどう思いますか。
で、今回訪れた伏見桃山城もまた、そんな 「呪い」 が作用してると思えてしまうスポットです。
秀吉が死した城・伏見城を、名城のエッセンスを寄せ集める形で昭和期に再建された、伏見桃山城。
築城された当時は近鉄電車が管理を行い、城の隣には 「キャッスルランド」 なる遊園地も開園、
城と一体化したレジャー施設としてそれなりの存在感を示してましたが、90年代以降は競合で苦戦。
結局、2003年に 「キャッスルランド」 が閉園し、ついでに城の管理も近鉄は放棄&京都市へ譲渡。
城の解体は何とか免れましたが、耐震性に問題があり、対策費用を捻出できないことも発覚し、
現在は内部への出入は完全禁止となり、昭和元禄の遺産としての存在感を日々増してます。
これはもう、 「呪い」 です。再建であっても、秀吉ゆかりの建造物は、京都では生き残れないのです。
と、適当過ぎる冗談はともかくとして、この昭和遺産に於いて近年良い感じで咲いてるのが、桜。
「呪い」 に対抗して秀吉の遺恨が作用したのか何なのか、大量の桜が見事に咲くようになりました。
あるいはその美しさもまた、城が孕む破滅の予兆に感応してのものかも知れませんが、
「夢の跡」 を模した 「夢」 の抜け殻に咲く夢、とにかく観てきました。

続きはこちら »

大石神社へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年3月31日(火)


大石神社へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

大石神社。京都・山科にあって、その名が示す通り、大石を祀る神社です。
といっても、巨大な石を御神体的に祀るといった、プリミティブな信仰が息づく社ではありません。
何ちゃらの何ちゃらとして余りにも有名な、大石良雄 aka 大石内蔵助を祀る神社であります。
大石内蔵助。江戸期の何ちゃら藩にあって何ちゃらに何ちゃらするものの、その何ちゃらが何ちゃら。
直ちに何ちゃらの為に何ちゃらを決意した大石は、入念なる何ちゃらを行った後、見事、何ちゃら。
その何ちゃら振りは 『何ちゃら』 として物語化され、日本人の心性に合ったのか神話レベルで浸透。
近年は日本のみならず、ハリウッドでRNN47的に何ちゃら化されたのも、記憶に新しいところです。
そんな大石が、何ちゃらの為に何ちゃらをする準備段階の際、隠棲してた地こそが、京都・山科。
何ちゃらの気配を敵に気取られぬ為の偽装か、あるいは単に都会に来て何ちゃらしたくなったのか、
伏見の色街・橦木町へ出かけては 「隠棲」 ならぬ 「淫性」 に励んだという説もあったりしますが、
とにかくそんな隠棲に於ける大石との縁に基づき創建されたのが、こちら大石神社なのであります。
創建されたのは昭和初期と、かなり最近。創建を提唱したのは、上方の浪曲師・吉田大和之丞
境内には、 『何ちゃら』 を演じたスターから奉納されたお宝アイテムを多数所蔵する宝物館が建ち、
また、戦前の関西圏に於ける芸能パワーの残り香が感じられる点でも興味深いスポットなんですが、
それと同時に、いや近年はある意味でそれ以上に人気を呼んでるのが、 「大石桜」 なる名の桜
神社創建の際、建設地に生えてた枝垂れ桜を境内に定植して、御神木にされたというこちらの桜は、
元々は名無しの御神木だったそうですが、親しまれる内に自然と 「大石桜」 なる呼称が定着。
現在は桜の名木として、正直さほどアクセスが良くない立地ながら、多くの参拝者を集めてます。
そんな大石桜、何ちゃらの何ちゃらを何ちゃらすべく、観に行ってきました。

続きはこちら »

石清水八幡宮のエジソン生誕祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年2月11日(水)


石清水八幡宮のエジソン生誕祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

エジソンと、絵馬。食い合わせの悪さは、確かに否定出来ません。
しかし、 「1%のひらめきと99%の努力」 を 「1%のひらめきと99%の訴訟」 ともじられるほど、
訴訟に明け暮れた俗物として名高く、数多くの黒歴史エピソードも残したこの 「発明王」 が、
その一方で宗教、更には 「あっち」 方面にも強い関心と探究心を抱いていたことは、割と有名です。
あらゆる宗教書を読破すると共に、ブラヴァツキー夫人達が神智学協会を設立すると即入会、
晩年は 「魂というエネルギーは死後も存在する」 と言って、霊界通信機の開発に挑んだ、エジソン。
天才ゆえの奇人的側面と嗤うのも、老化でボケたと一蹴するのも、共に簡単な話ではあります。
が、この 「メンロパークの魔術師」 にとって電気は、単に 「科学」 の領域で完結するものではなく、
背後に神の領域、未知なるハイヤーパワーの領域が広がるものだったのではないでしょうか。
ロマンに湿る科学者の眼ではなく、新たな商圏を追い求めるゲス商人の眼を持っていたからこそ、
彼には神の領域、ハイヤーパワーの領域が、極めて具体的に 「見えていた」 のではないでしょうか。
「見えていた」 からこそ、 「自分は宇宙エネルギーの触媒」 的なことさえも語った、エジソン。
そんなハイヤーパワーの僕たるエジソンが、人類を 「光」 のネクストフェーズへ導こうとした瞬間、
神仏習合の神・石清水八幡宮の神威が、和洋も習合し働いたのは、ある意味、必然かも知れません。
電球のフィラメント開発にあたり、より長時間使用が可能な植物をエジソンが世界中で探した末、
ここ八幡の真竹が選ばれたという、凄いと言えば凄いけど、どうでもいいと言えばどうでもいい逸話。
しかし、我々が見据えるべきなのは、この逸話の背後に隠された神々のシンクロニシティであり、
シンクロニシティの根源たるハイヤーパワーだけが生み出し得る、人類の真なる 「未来」 なのです。
石清水八幡宮に於いて、エジソン誕生日に行われるエジソン生誕祭は、無論、その為の企て。
「和洋もひったくれもなく乗っかれるもんなら何でも乗っかってしまえ」 的イベントなどでは断じてなく、
また 「偉人との縁でちょっと高価めの絵馬を作り一儲け」 的な企画などでも、断じてありません。
我々は、 「未来」 を見るのです。エジソンの視界に同期し、エジソンが見た 「未来」 を見るのです。
私の地元である石清水の力を借りて、見るのです。ちょっと高価めの絵馬越しに、見るのです。
という感じで、エジソン生誕祭、地元の者として厳粛に紹介させて頂きます。

続きはこちら »

2015年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。

2015年2月3日(火)


2015年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。

節分めぐり、もうめぐるべき所は大体めぐってしまったんですよね。
2011年よりやってるこのネタ、1年毎に数ヵ所を回る為か、正直、かなりネタ切れ気味です。
無論、細かい所を穿っていけば、まだまだ色んな地域で色んな行事が行われてはいるんでしょう。
深層意識の内で今なお旧暦のタイムテーブルが拘束力を保持し続けてる為なのか何なのか、
「これこそが本来の年越し」 とでも言わんばかりに、正月以上の盛り上がりを見せる、京都の節分。
比較的小規模な行事もフォローし始めた場合、底無し沼状態へ突入することも予測されます。
しかし、当サイトの趣旨はあくまで、超メジャースポットおよび超メジャーイベントの単独正面突破。
「見ぃつけた!」 と幼児性を意図的に偽装してるつもりで無自覚に無知・無神経を垂れ流す輩や、
自己愛+承認欲求+山師根性から観光資源の乱獲に励む輩などとは、一線を画さざるを得ません。
というわけで、メジャー級スポットで行ってない節分って何処かあったかなと、しばらく悩んでました。
が、ありましたよ。松尾大社ですよ。 「洛西の総氏神」 として信仰を集める、松尾大社ですよ。
平安遷都より以前の創建という猛烈に古い歴史を持ちながら、現役仕様のネイティブ信仰を集め、
京都市西側の大半が含まれる巨大な氏子域と、凄まじく盛り上がる大祭・松尾祭を誇る、松尾大社。
そんな松尾大社の節分では、祇園祭に於ける奉納で京都でも御馴染みの石見神楽を招聘。
八岐大蛇がとぐろを巻く神楽の奉納と共に、無茶苦茶恐ろしい造形の顔した鬼が 「鬼の舞」 も披露。
豆撒きも無論行われ、松尾っぽいワイルドな豆争奪戦が、豆撒き自体より楽しかったりします。
なので2015年の節分は、まずそちらへ御邪魔して、正しく乾の方角から現れた鬼&豆撒きを堪能し、
続いて京都ウェッサイ節分シーンに於けるコアたる壬生寺を改めて訪問し、節分狂言を再堪能。
壬生寺では、2012年訪問時に金をケチって宿題にしたほおらく奉納を、今度はしっかり行い、
ついでといっては何ですが、近くの神泉苑でも念仏狂言援助の意味でほおらくを奉納してきました。
例年に増してコンセプトも大義もなく、ただただ流れてるだけの適当過ぎる節分彷徨ですが、
故に溢れるユルくて妙に多幸的な気分、感じてもらえると幸いです。

続きはこちら »

2015年への年越しを、八幡で迎えました。もちろん、ひとりで。

2015年1月1日(木)


2015年への年越しを、八幡で迎えました。もちろん、ひとりで。

年越し、当サイトでは年末年始もネタにすべく、何年にも渡り京都で続けてきました
しかし、考えてみれば私の地元・八幡での年越しを、まだちゃんとした形で記事化してません。
もちろん初詣の名所・石清水八幡宮 = 「八幡さん」 には、何度となく年始にお参りしてはいますが、
大抵はネタ徘徊を重ねた末、あたかも飲みの〆のラーメンの如き姿勢で赴いていたのであり、
「八幡」 ということにこだわって、全てを 「八幡」 に絞り込む年越しというのは、やってませんでした。
これは、いかん。これではまるで、地元へ帰らず京都に来て年を越す観光客みたいではないか。
地元へ帰れば自身のつまらぬ生まれに嫌気が差すのか、親不孝&罰当たりにも帰省せず、
といって海外へ出かける金も無いので、安上がりに京都へ来て、他人の家の伝統行事へ割り込み、
それを以て 「オトナの年越し」 とさえ言い出しそうな阿呆の観光客と、丸っきり同じではないか。
これは、いかん。正気で考えると、 「いかん」 と考える方がいかん気もするけど、これは、いかん。
安易な情報主義、安易な体験主義、双方の悪所を集めた安易なコミュニケーション至上主義を廃し、
「夢の島」 の如きネット空間にて血の通った表現の獲得を目指すことこそ、当サイトの真なる目的。
八幡という辺境から京都を見ることで生じるバイアスや異常性を、敢えて前面へ押し出すことで、
所与の重力と向き合い、共に踊り、そのグルーヴを以て何かを語ることこそ、当サイトの真なる目的。
となれば、生臭いエゴを膨脹させる阿呆な年越しに、これ以上荷担するわけには行きません。
というわけで、2015年の年越しは八幡から一歩も出ず、除夜の鐘から初詣までをこなしてみました。
除夜の鐘は、江戸時代・寛永年間のタイムカプセルの如き伽藍を誇る寺である正法寺にて撞き、
初詣は言うまでも無く石清水八幡宮にて行うという、八幡年越し黄金コースを敢行することで、
改めてこのサイトのコンセプト、あるいはスピリットのようなものを、再確認してみたのであります。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトである為に必要な、挑戦なのです。
決して、寒い最中にあちこちをウロウロするのが、いい加減しんどくなったのでは、ありません。
断じて、昼寝してたら寝過ごし、近所で済ませざるを得なくなったのでも、ありません。

続きはこちら »

南禅寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年11月23日(日)


南禅寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

混めば混むほどある種の面白さが増す寺社、というのが確実に存在します。
京都に於ける典型例といえば、京都観光のキング・オブ・キングである清水寺でしょう。
混めば混むほど、もっと言えば俗化すれば俗化するほど何故か聖性を増す、清水寺マジック。
中年の中二病の如き混雑忌避の段階を越えて、新たなる智性に拓かれた眼で清水寺を見た者は、
「観光」 の文字そのままに光を求めて群れ集う人間の姿にこそ、確かな浄土の光を見い出し、
路地の奥に 「本物」 を追うような乞食根性を忘れて、京都の真の面白さをもきっと見い出すはずです。
いや、無論そのマジックは、群れ集う人間を余裕で傍観できるスペースの確保が可能な寺社、
即ち、清水寺の如く境内が馬鹿デカい大バコ級寺社だからこそ成立する類のものではありますが、
逆に言えば、境内が馬鹿デカい寺社なら、清水寺のマジックに似た面白味が出ないとも限りません。
紅葉シーズンの南禅寺は私にとって、正にそんな面白味を感じさせてくれるスポットです。
南禅寺。無論、臨済宗南禅寺派の大本山であり、五山の上に立つ日本最高峰の禅寺であります。
創建された鎌倉期から中世に至るまでも、日本初の勅願禅寺としての風格に足る寺領を誇り、
江戸期には家康のブレーンを務める黒衣の宰相・金地院崇伝の入寺で、その権勢はさらに巨大化。
石川五右衛門「絶景かな」 と傾く巨大三門も建立するなど、調子に乗って乗って乗りまくり、
明治以降はその乗りっぷりが祟って水路閣を建てられたりしますが、境内の広大さは何とか維持。
現在は、京都観光における超メジャー級&超大バコ級スポットとしての地位を確立してます。
そんな南禅寺、五右衛門が愛でた桜も無論見事ですが、紅葉もまた見事であり、観光的にも大人気。
というか、山門・方丈・塔頭以外は無料でうろつき可能+大型バスも境内に停車可能なため、
大量の客を乗せたバスが大量&エンドレスで境内へ雪崩れ込むという、最悪の事態が大量発生。
で、その様が何かもう度を超してしまってるため、却って面白く見えなくもないというわけです。
その面白さを堪能すべく、私も乞食の如く無料区域だけうろついてきました。

続きはこちら »

京都刑務所の京都矯正展へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年10月26日(日)


京都刑務所の京都矯正展へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都刑務所。その名の通り、京都市にある刑務所です。
平安遷都後に設けられた 「左獄」 & 「右獄」 にまで遡る歴史を持つこの獄は、
この雅なる街に於けるいわば 「街中の獄」 として、現在に至るまで存在し続けてきました。
「右獄」 はすぐ衰退したものの、 「左獄」 は秀吉の時代まで生き延びた後、小川通御池へ移転。
江戸中期に至ると、六角通へ面した 「三条新地牢屋敷」 、通称 「六角牢屋敷」 が新設。
維新後は短期間の小浜藩邸時代を経て、千本屋敷跡に於いて府立の 「京都府徒刑場」 が成立。
「府懲役場」 「府監獄本署」 「京都監獄」 「京都刑務所」 と改名を繰り返した千本時代の獄は、
囚人の農作業姿が普通に見れたというくらい、 「親水」 ならぬ 「親獄」 的状態を呈していたと言われ、
この状態を改善すべく、獄は当時は過疎地だった現在地・山科へ移転し、 「街中」 を一旦脱出。
しかし山科は山科で、大正の鉄道・道路開通から昭和の高度成長期にかけて都市化が進み、
人口は4000人から14万人へと爆増、移転した刑務所の周囲にはマンションなどがバカスカと林立。
結局、京都刑務所はまた 「街中の獄」 「親獄」 的なる佇まいとなって、現在に至るのでした。
運命を感じるほどの 「街中」 さ加減です。次に移転したとこも、また都市化するんじゃないでしょうか。
「ならもう、徹底的に親獄を深めてしまえ。塀も、取り払ってしまえ」 と思ってるかは知りませんが、
それに近い勢いで 「親」 感に溢れた催しが、毎年10月末、京都刑務所では行われてます。
それが、京都矯正展。 「中の人」 の作業品を 「中」 にて買える、あの矯正展の、京都刑務所版です。
『函館監獄』 などヒットが生まれる隆盛を誇ると共に、獄中見学も人気が高い矯正展ですが、
周辺地域住民の理解が必須な立地を誇る京都刑務所も、当然のようにム所見学はしっかり実施。
良い品が安く買え、おまけに普段中々入れないところにも入れるとあって、人気を博してます。
そんな京都矯正展、私もこのサイトが 「観光テロ」 扱いされ摘発されるかもしれませんし、
そもそも独男自体が違法化してブチ込まれる可能性も無いとは限らないので、
「親獄」 を深めるべく、無論見学込みで行ってみました。

続きはこちら »

野宮神社の斎宮行列を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年10月19日(日)


野宮神社の斎宮行列を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

葵祭のヒロイン or 花形である斎王には、モデルみたいなものがあります。
「いや、斎王代のモデルが斎王だろ」 とか言われそうですが、そういう話ではありません。
葵祭・斎王代のモデルである斎王 aka 賀茂斎院には、モデル or 先行者がいるのであります。
それが、斎宮伊勢神宮にて祭祀を司り、その宮殿名 「斎宮」 が呼称化した斎王のことです。
古くは 『日本書紀』 にまで遡るという斎宮の制度が、本格的に整備されたのは、天武天皇の時代。
壬申の乱で天武帝は、伊勢神宮に戦勝を祈願し、勝利。以来、伊勢を 「天下の宗廟」 と規定。
未婚の内親王 or 女王をかの地へ下向させ、祭祀を担わせる斎宮の制度を確立させたのでした。
以来、多くの御供を引き連れ伊勢へ向かう斎王の行列 = 群行は、平安期から中世にかけて存続し、
その群行の様を平安京の周辺のみで小じんまり踏襲した賀茂斎院の行列は、都の風物詩化。
で、その踏襲した賀茂斎院の行列こそが、現代葵祭に於ける斎王代の元ネタとなったわけですね。
「コスプレの元ネタに、さらに元ネタあり」 という話であります。雑な言い方過ぎて、恐縮ですけど。
葵祭・路上の儀が、往時の完コピを目指したコスプレで現在も継続してるのは御存知の通りですが、
では斎宮行列の方も、完コピを目指したコスプレ行列が行われているかといえば、これが難しい。
単純に、京都から伊勢って、遠いし。近鉄特急なら速いけど、徒歩だと5泊6日かかるそうだし。
なので、伊勢と京都それそれの由緒ある場所で、バラバラにイベントが開催されてるのが現状です。
伊勢では、有名な斎王まつり。で、京都では、今回出かけた野宮神社斎宮行列であります。
斎宮は、伊勢へ下向する前、洛外に設けられた 「野宮」 で厳重なる潔斎を行うのが決まりでした。
その 「野宮」 が数多く設けられたという嵯峨野には、 「野宮」 跡がいくつかが神社化して残存。
嵐山にて源氏物語の何ちゃらと縁結びが売りの野宮神社もまた、そんな 「野宮」 跡神社のひとつ。
その由緒と観光客寄せがクロスする形で、ミニ斎宮行列 「斎宮夢行列」 が平成に入って復活し、
2005年には 「斎宮行列」 と改称、嵐山の秋の風物詩として認知度を深めつつあります。
そんな斎宮行列、 「元ネタの元ネタのコスプレ」 を拝むべく、行ってきました。

続きはこちら »

御香宮神社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年10月12日(日)


御香宮神社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

御香宮神社。洛南・伏見にあって、 「伏見の総鎮守」 と称される神社です。
清和天皇から名を贈られたと伝わるも、基本的には創建の詳細が不明なほどの歴史を誇り、
山村・石井村・船戸庄村・森村・久米村・北尾村・北内村・法安寺村・即成就院村という伏見の村々、
すなわち 「伏見九郷」 より、伏見城築城の遙か昔から総鎮守として信仰を集める社であります。
その伏見城築城の際には秀吉により移転させられますが、家康の代には現在地へ帰還し、
その家康により社殿も再建され、孫娘・千姫の誕生祝いとして2.3トンに及ぶ 「千姫神輿」 もゲット。
この神輿を得た御香宮神社の秋祭、通称 「伏見祭」 は、伏見城が廃城された後も更に活性化、
維新の波乱や現代の変化も乗り越え、神輿を分割した現在もその勢いは止まるところを知りません。
一週間以上に及ぶ期間、各種行事&子供が多いエリアゆえに活況を極める夜店が展開され、
中でも宵宮に行われる花傘パレードの凄まじさは、当サイトでも2011年にお伝えしてる通りです。
で、今回はその 「伏見祭」 最終日、正にクライマックスたる神幸祭に出かけたわけですが、
えと、あの、今回はいつもと比べてちょっと、いやかなり、いやはっきり言って非常に、日和ってます。
当サイトの祭記事は、ストーカーの如く神輿や行列を追尾しまくってるのが常態なんですが、
今回は門前付近で神輿などを淡々と待ち、宮入りだけ見るという、淡々モードの見物となってます。
待ってる時間もまた、淡々と露店を冷やかしてみたり、あるいは淡々と担々麺を食ってみたりと、
まるでサイト名が 『独虚坊の京都幸せおでかけ日記』 に化けたようなユルさ爆裂状態になってます。
何故こうも日和ったかといえば、 「伏見九郷」 を回る神輿の巡幸範囲が、広過ぎるからです。
酒蔵界隈は無論、北は深草、南は向島、東は六地蔵に及び、更に3基の神輿は別行動。追えません。
加えて、獅子舞や武者行列なども別ルートで参加し、おまけにこれらの全てが早朝から巡幸。
完全追尾はおろかチョイ見を重ねることさえ無理と判断し、淡々見物を渋々決断したのであります。
というわけで、担々麺に加えて豆腐ハンバーグまで混入するユル過ぎ記事となってますが、
しかし、あるいはそれ故に、街に充満する祭の気配は、よりリアルに感じられるかも知れません。
「洛南の大祭」 とも呼ばれる、その大祭ぶり、街の息吹と共に御覧下さい。

続きはこちら »

京都岡崎レッドカーペット2014へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年9月21日(日)


京都岡崎レッドカーペット2014へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「アーキテクチユール」 すなわち 「Architecture」 の本義は、
「実躰を Building に籍り形式を線條躰裁に訴へて眞美を發揮するに在る」 がゆえに、
その訳語を 「造家」 より 「建築」 へ改めるべきと主張したのは、日本近代建築の祖・伊東忠太
京都の平安神宮は、そんな伊東が帝大院生時、共作ながらデビュー作として手がけた 「建築」 です。
明治28年、平安遷都千百年祭紀年祭のために平安京・太極殿の縮小ハリボテを岡崎に作ったら、
勢いでマジ神社化したという、 「仏作って魂入れず」 の真逆を行く創建経緯を持つこの神社に、
伊東らは 「古都」 としてのもっともらしさ、もとい、復古的な 「眞美を發揮」 するビジュアルをデザイン。
一歩間違えれば、万博パビリオンかネズミーランドに祈りを捧げるような奇景が生まれてた所を、
「眞美」 により見事超克し、今なお魅力と魔力が稼働し続ける 「建築」 として仕立て上げたのでした。
京都三大祭のひとつにして例大祭であるヒストリカル・コスプレ・パレード aka 時代祭に於いても、
平安神宮が持つもっともらしさ、もとい、復古的な 「眞美」 は、強い魅力と魔力を 「發揮」 してますが、
一方、復古的ではないのに何か 「平安神宮的」 な魔力を持つイベントも、この神社にはあります。
それが、毎年9月中旬に応天門前の神宮道にて開催される、京都岡崎レッドカーペットです。
要は、門前に赤絨毯敷いて各種パフォーマンスを行うという、行政絡みの振興策みたいなもんですが、
ヲタ動員を狙ってコスプレなどの風味も大量導入されてるため、その外観は極めて、魑魅魍魎。
特に2014年は、映画の宣伝で 『機動警察パトレイバー』実物大ハリボテまで御覧のように屹立し、
その真前ではフラダンスが行われるなど、 「状況、カオス!」 と叫ぶしかない事態が現出してます。
しかしそのカオス状況は、宗教ネズミーランド化しかねなかった平安神宮にある意味で相応しく、
また近代化の真中を進む一方で幻獣を愛し、作品にも混入させた伊東が喜ぶものかも知れません。
と、本気で思うかといえば、これも無論もっともらしさを 「發揮」 すべく吐き散らした大嘘ですが、
とにかくハリボテとコスプレが百鬼昼行する赤絨毯、行ってきました。

続きはこちら »

上賀茂神社へ鳥相撲を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年9月9日(火)


上賀茂神社へ鳥相撲を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

重陽五節句の中でも、正直、浮かばれない印象が否めない節句です。
3月3日は、上巳の節句で雛祭5月5日は、端午の節句。そして7月7日は無論、七夕
ついでに言えば、1月1日・元旦の代わりたる1月7日もまた、人日の節句ということで七草粥と、
五節句を構成する他の節句がかなり or それなりの人気と盛況ぶりを見せてるのに対して、
9月9日の重陽の節句は、現状としてはぶっちゃけ、人気以前に認知度さえ高いとは言えません。
数多ある節日の中から奇数のゾロ目日を選び、室町期の頃から祝されていたという、五節句。
江戸期に入ると幕府公認の祝日 = 式日となったことで、民衆から圧倒的支持を受けるようになり、
明治維新の際に公式には廃止されるも、雛祭&端午の節句&七夕は継続して人気を獲得。
根強いのであります。ターゲットが子供だからか何なのか、他の節句は実に、根強いのであります。
しかし重陽は、仲秋の名月に押され気味なのか何なのか、若干、浮かばれないのであります。
菊花を浮かべた菊花酒で、長寿を祝う節句であるにも係わらず、若干、浮かばれないのであります。
そんな不遇さに同情するのか、または宮中行事として菊花宴が催された実績を重視するのか、
あるいは 「明治以降のものは基本、全否定」 という集合無意識による闇のフォースが作用するのか、
京都では超メジャー級を含むいくつかの寺社が、この浮かばれない節句を祝う行事を開催。
世界遺産・上賀茂神社で9月9日に行われる鳥相撲 (からすずもう) も、そんな行事のひとつです。
祭神・賀茂建角身命が、東征する神武天皇を八咫烏に変化し導いた伝承を持つ、上賀茂神社。
その祭神の祖父・賀茂建角身命が、神に相撲を上覧したことに始まるともされる烏相撲は、
刀禰が横飛び+鳥鳴きを披露し、子供相撲が同時開催されるという、実に不思議でのどかなもの。
とはいえ、雅な由緒をアピールするためか、葵祭の花形・斎王代がオブザーバーとして参列し、
さらには菊花酒の振る舞いが行われることもあり、不思議ながらも人気が高い行事となってます。
子供相撲が写真アップ禁止ゆえ、何やってるか全然わからんビジュアルが続く内容ですが、
とにかくそんな不思議な鳥相撲、菊の露の香りを感じながら御覧下さい。

続きはこちら »

松尾大社の八朔祭へ嵯峨野六斎念仏を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年9月7日(日)


松尾大社の八朔祭へ嵯峨野六斎念仏を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

踊り念仏の始祖とされる空也上人は、松尾神と浅からぬ縁を持つそうです。
疫病が蔓延して、死体が転がりまくってたという、末法テイスト爆裂な平安中期の京都。
そんな都で手製の台車を引き、疫病対策レクチャーと共に仏の教えを説いて回った、空也上人。
その市中説法の途中、大宮通の傍らにて上人は、爺さんの姿をした松尾明神に出会ったとか。
上人を空也と見抜いた松尾神は、震えながら懇願します。自分は、法華経の衣は持ってない、と。
ゆえに、妄想と煩悩で苦しんでる、と。どうか、法華の衣の法施を自分に与えてくれないか、と。
気の毒に思った上人は法華の衣を松尾明神へ差し出し、松尾明神は上人の守護を誓ったのでした。
書き起こすと、どうにもこうにも伝説 or 説話としか言いようのないテイストのエピソードですが、
しかしこのエピソードに基づく両者の縁は今なお続き、その証はしっかりと現実界にも残ってます。
空也建立の六波羅蜜寺を守る松尾社や、松尾祭・衣手社神輿の上人レリーフは、その良い例。
そして、松尾大社八朔祭嵯峨野六斎念仏奉納もまた、この縁の証たる行事ではないでしょうか。
「祇園で芸舞妓が挨拶回り+それをつけ回す報道とカメ」 が定番イメージな京都の八朔ですが、
言うまでもなくそもそもは、稲の穂入りを目前に控える八月朔日すなわち8月1日という意味であり、
「田の実」 たる五穀が豊穣に実るよう風雨無難を神 「頼み」 する、 「たのみの節」 であります。
農村信仰テイスト寄りなこの本来意義に基づく行事もまた、京都の幾つかの寺社では行われていて、
松尾大社が旧暦8月1日の時期に行う八朔祭も、そんな農村テイスト寄りな 「八朔」 のひとつ。
相撲や子供神輿、女神輿に盆踊りと、アーシーなテイスト溢れるコンテンツが目白押しな祭ですが、
中でも当サイト的に見逃せないのが、嵯峨野六斎念仏保存会による六斎念仏奉納公演です。
踊り念仏をルーツとして、京都では郊外農村地域にて都の芸能の影響を強く受け発達した、六斎
その六斎の、空也と縁深く、また初めて踊り念仏を行ったともいう松尾神前での、奉納。
観ないわけには、行きません。というわけで、深き縁の念仏、観てきました。

続きはこちら »

佐伯灯籠へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2014年8月14日(木)


佐伯灯籠、前篇の続きです。

私の母の故郷・八木町氷所は、畿内隼人の移配地という説があったりします。
室町時代隼人正・中原康富による 『康富記』 に、そう書かれてるとか。 「丹州少所」 と。
では、それにまつわる何らかの伝承が身内で伝えられているかといえば、そんなもんは全然なく、
そもそも隼人移配が行われたのは奈良時代以前なので、細かいことは悉く不詳なんですが。
千年以上前の話ゆえ場所もまた怪しく、 「丹州少所」 と比定される場所は他にも存在したりします。
それが、氷所から10キロほど南の、佐伯。そう、佐伯灯籠を観に今回訪れた、旧佐伯郷です。
畿内隼人が実際に住んだ 「朝恩の地」 としては、氷所よりこちらの方が確証度は全然高いそうで、
呪力を買われ朝廷の近習も務めたという隼人の、ゆえに持ち得た公家とのコネクションこそが、
この灯籠祭のルーツと考えられている風流灯籠の下賜をもたらした、という見方もあるとかないとか。
佐伯灯籠の人形を見てる間、ずっとその事を考えてました。何か隼人と繋がりがあるのかも、と。
一般的な文楽人形とは、サイズも、テイストも、そして放つオーラも明らかに違う、人形。
その人形が、演技で醸成する物語の情感を越え、体の奥から立ち昇らせる、より原初的な何か。
その何かとは、ひょっとすると、文楽完成以前を遙かに越え、風流灯籠が生まれた室町期さえも越え、
人形により隼人が幻惑&虐殺された、720年の隼人の乱にまでリンクするものではないか、と。
いや、無論これは、適当極まる妄想に過ぎません。 「日本にもピラミッドが」 的な話に過ぎません。
しかし、そんな正気の判断を振り切り、ミッシングリンク妄想へ人を駆り立てる異様な魅力が、
この美しくて、ミステリアスで、そして何かしら恐ろしささえ孕む人形にあるのもまた、確かなのです。
そんな佐伯灯籠、後篇であります。後篇は、人形浄瑠璃の続きと、神輿行事であります。
親の実家の近所ゆえ、馴染む空気を感じると同時に余計にアウェーも感じる妙な状況ですが、
とにかく時間が許す限り、そのミステリアスな魅力を堪能させてもらいました。

続きはこちら »

佐伯灯籠へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2014年8月14日(木)


佐伯灯籠へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

佐伯灯籠。亀岡市旧佐伯郷、現・ひえ田野町で行われる夏祭です。
亀岡市ひえ田野町というのは、亀岡の西部、JR亀岡駅から5キロほど西へ行った辺、
『大林幸二ときょうの夜』 によく出てくる松園荘がある湯ノ花温泉、そのちょい東側にあるエリア。
同町に鎮座する薭田野神社・御霊神社・若宮神社・河阿神社の合計4社が合同で執り行う、
五穀豊穣を祈願する神事と、祖霊を慰める盂蘭盆会の仏事が習合した祭典が、佐伯灯籠であります。
何ゆえ夏祭なのに、 「何ちゃら祭」 といった名前ではなく 「灯籠」 なる名前が付いてるかといえば、
この祭に灯籠、それも長い歴史を持つ灯籠が、大きくフィーチャアされてるからに他なりません。
京都の周辺部には、室町時代に都市部で流行した風流灯籠の風雅を伝える祭が現在も存続しており、
当サイトでも訪れた八瀬の赦免地踊りはその代表例ですが、こちらの佐伯灯籠もまた、そのひとつ。
寛喜元年に勅使・広幡大納言より5基の神灯籠を下賜されたことから始まるとされるこの祭は、
現在もその5基の神灯籠が、一年の稲作の場面を人形を使って飾りつける役灯籠という形で存続。
また、国内では唯一ともいう一人使いの串人形を用いた人形浄瑠璃が演じられるのも、特徴。
さらには神輿も繰り出して、祭終盤の深夜には役灯籠と神輿が追いかけ合うような 「灯籠追い」 や、
バンバカ打ち鳴らされる太鼓台に神輿が乗っかるという豊穣祈願テイスト爆裂の 「太鼓がけ」 も展開。
農村の習俗+都市の風流、神の神事+仏事の盆会、古風な人形+近世の浄瑠璃などなど、
京都周辺部のエッセンス or 旨みの如きものを、凄まじい濃度で圧縮したような祭なのであります。
そんな佐伯灯籠、行ってきました。といっても基本的には、夕方以降の浄瑠璃を見てただけですけど。
昼間も、御霊神社での人形浄瑠璃奉納や大松明炎上など、興味深い行事が多い祭ですが、
時間の都合が合わず夕方から出かけ、帰れるギリギリまで見せてもらったわけです。
口丹波の盆夜に展開されるミステリアスな幻惑の世界、御覧下さい。

続きはこちら »

2014年祇園祭・山鉾巡行の後祭巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年7月24日(木)


2014年祇園祭・山鉾巡行の後祭巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

このサイトでも何度か書いてますが、祇園祭の主役はあくまでも、神輿です。
山鉾巡行の果てしなき観光化+宵山の人間大密集のため、印象は薄いかも知れませんが、
17日の神幸24日の還幸こそが、祇園祭の最重要行事、スピリチュアル・コアなのであります。
そもそも山鉾巡行は、この神輿の巡幸路にいる疫神を集め浄めることこそが、本来の役目。
なので、本当は24日の還幸に於いても山鉾は、露払いとして巡行で道を浄めなくてはなりません。
が、その巡行すなわち後祭巡行は、2013年までの実に半世紀近くの間、無くなってました。
後祭。あとまつり。10基の山鉾による巡行が行われ、 「あとのまつり」 の語源ともされる、後祭。
そんな後祭は1966年、交通や観光への配慮で山鉾巡行が前祭の17日へ統一されたため、消滅。
以来、この合同巡行は48年に亘って続き、24日に山鉾が建つことは長らくなかったわけです。
半世紀近い時間が経過する間には、後祭を知らない世代も、大量増殖。というかむしろ、主流化。
「山鉾巡行 = 17日」 以外の認識を持ってる人は、現在では少なくなっているのも現実でしょう。
しかし、祭の当事者の方々は当然というか何というか、後祭の復活がずっと悲願であり続けたようで、
特に2010年以降になると、まるで不況に反比例するかの如くその動きが活性化+具体化。
再建が絶対に無理と思われていた後祭の最後尾・大船鉾が、まず150年ぶりに復活してしまい、
後祭そのもの復活も、2014年、ジャスト半世紀から少しフラゲする形で成されてしまったのでした。
というわけで、復活したその後祭巡行、特攻であります。先週の前祭に続き、特攻であります。
が、そもそも 「特攻」 となる混雑が生じるほど、人は来るのか。10基による巡行に、人は来るのか。
そもそも巡行自体、どうなるのか。 「新設に近い」 とも言われる巡行自体、どうなるのか。
単に、前祭と同じ混雑が出来するのか。それとも、今まで見たことのない景色が現出するのか。
その辺を目撃し、またも歴史の一証人となるべく、週跨ぎで追尾してみました。

続きはこちら »

祇園祭・後祭の山鉾曳初めへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年7月20日(日)


祇園祭・後祭の山鉾曳初めへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

曳初め。読みは、ひきぞめ。いわゆる、山鉾の試し曳きのことです。
巡行の一週間あたり前から始まる鉾建て&山建てにより路上へ姿を現わした山鉾は、
問題なく運行が出来るかどうかをチェックする試運転が行われますが、これこそが、曳初め。
本番の巡行では、屈強なるボランティアや学生で構成される曳き手がエンジンを担うわけですが、
曳初めに於いて縄を引っ張るのは、その場に居合わせた、年齢も性別も不問の一般人大勢。
つまり、誰もが鉾を曳く体験が出来るわけであり、故に本番とは違う熱気に溢れる行事となることは、
うちでも2012年の長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾・鶏鉾・月鉾の曳初め記事にてお伝えしてる通りです。
で、その曳初めへ再び特攻してみたわけですが、今回は2012年と事情が大きく異なります。
山鉾巡行の本義は、17日神幸24日還幸で巡幸する八坂神社の神輿の露払いにこそあるので、
17日は前祭として、24日は後祭として、週またぎで2回開催するのが、正しいフォーマット。
しかし高度成長期の1966年、渋滞の緩和や観光客の集客、また日常業務のストップを回避すべく、
後祭の山を前祭の後尾につける17日の合同巡行が始まり、それが半世紀近く続いてました。
そんな後祭が、2014年、復活。で、今回出かけたのは、その復活した後祭の曳初めであります。
実に49年ぶりの、後祭の曳初めであります。後祭 「列」 の曳初めでなく、後祭の曳初めであります。
また今回は、150年ぶりに復活する大船鉾の路上走行デビューも、大きなトピックでしょう。
蛤御門の変の際に焼失して以来、100年以上に渡り居祭りを続けてきた四条町の大船鉾ですが、
90年代以降の囃子方の復活+無形文化遺産登録+ヨドバシでの何ちゃらかんちゃらに加え、
京都青年会議所+京都ライオンズクラブ+一般寄付もあり、超ド級の鉾の再建をこの時代に実現。
バブル期でさえ絶対無理と思えた難事業を成し遂げ、めでたく 「出港」 の日を迎えたわけです。
その威容を一目見たいと集まった群集が形成する人間の海へ、堂々と 「出港」 する様を、
私もまた人間の海の一部となって拝み、歴史の一証人となったのでした。

続きはこちら »

2014年祇園祭・山鉾巡行の前祭巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年7月17日(木)


2014年祇園祭・山鉾巡行の前祭巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

祇園祭山鉾巡行、恒例となった追尾の2014年度版であります。
いや、山鉾巡行に関しては正直、特に毎年追っかけようと思ってたわけではありません。
無論、京都観光のキング・オブ・キング、最早アイコンそのものと言える祇園祭のメインイベントを、
ベタスポット&ベタイベントの単独特攻を旨とするうちが、看過するわけには行かないでしょう。
しかし、毎年やるのはどうかと思ってます。より明確に言うなら、やりたくないと思ってます。
だって、しんど過ぎるし。比喩とか誇張でなく、リテラルに死の恐怖を感じるくらい、しんど過ぎるし。
憤死しそうな暑さが満ちる7月の京都で、人間が密集する中を走り回るなど、狂気の沙汰だし。
それに、他の三大祭も、別に毎年行ってないし。というか、祇園祭の他の行事も、全然行ってないし。
山鉾巡行だけ毎年毎年追いかけ続けなくてはならん理由は特に無い、という話なのであります。
にも関わらず毎年毎年追いかけ続けたのは、ここ数年の山鉾巡行に大きな変化が立て続けに起こり、
その変化が如何なる影響を及ぼしてるかが気になり、実態を見届けたかったからに他なりません。
2012年には、蛤御門の変の大火で焼失した大船鉾が、唐櫃ながら150年ぶりに巡行へ復帰。
2013年には、その大船鉾が本来最後尾を務めていた後祭巡行の2014年復活が決定したため、
半世紀に渡り続けられてきた、32基の山鉾が一斉に揃う17日の合同巡行が、最終年を迎えました。
そして今回2014年は、後祭が復活するのであります。24日の巡行が、復活するのであります。
それに伴い、17日の巡行は前祭の巡行となり、全23基の山鉾にて行われるのであります。
これはもう、歴史的な事態です。混雑や疲労やアウェー感を、どうこう言ってる場合ではないのです。
行かないわけには、いかないのです。というわけで、今回もまたまた追尾ということにしたのです。
本義へ立ち返り、神輿巡幸に対応した本来のフォーマットの巡行が、どういうものになるのか。
恐らく現行世代の大半が初めて目にすることになる 「本物」 の巡行は、如何なるものになるのか。
そして、それでもやっぱり気になる混雑・客層・ひとりの気まずさなどは、どうなるのか。
そのあたりを見届けるべく、またしても灼熱の四条通へのたくりこんだのでした。

続きはこちら »

夏越祓の茅の輪をまたまたまたくぐりまくりました。もちろん、ひとりで。

2014年6月30日(月)


夏越祓の茅の輪をまたまたまたくぐりまくりました。もちろん、ひとりで。

熱いお茶で、みなづきをいただいてると、月日の経つのは、なんと早いもんやろうと、しみじみこたえて
くる。ついこの間、お雑煮を祝うたと思うているのに、知らん間に夏越の祓となって、半年の、なんと短
かったことやろう。なんにもせんうちに、わたしにも白髪がふえだした。
大村しげ 『京暮し』

ほんわかしてるようで、実は高速かつ硬質な大村しげの文章が描破してるように、
時の流れの速さに恐怖さえ感じる今日この頃、暇丸出しな当サイトでも季節は超高速でめぐり、
勝手に恒例化してる夏越の茅の輪めぐりも、2014年度版が早くもやって来てしまいました。
正月からの半年間でこびりついた魂の穢れを、神社に設置された茅の輪をくぐることで祓い浄め、
暑さ+疫病の脅威が本格化する厳しい夏を乗り切ろうという古来からの慣わし、夏越祓
うちでは、腐った欲求各種を持て余す己が存在の膿の大掃除 or スピリチュアル・デトックスに加え、
普段は記事で訪れる機会のない、小さいというか地味というか、そんな神社への訪問を兼ね、
毎年あちこちの社に設置された茅の輪を探し求めてはくぐりまくり、溜った穢れを祓い倒してきました。
2011年は市バス一日券を使って、京都市内の各神社をランダムかつノーコンセプトに徘徊。
2012年は一転して全行程を徒歩にして、東福寺から西陣周辺までを、やはりノーコンセプトに徘徊。
そして2013年はまた徒歩で、右京区をローラー的に回り、最後はまた西陣へ着く感じで徘徊。
で、2014年の今回は、やや手薄になってる感のある東北方面を攻めてみることにしました。
京阪三条駅から出発し、東大路通&白川通を縦軸として、あちこちをダラダラとうろつき回ってます。
果たして私は、穢れを見事祓った清い体&魂で、熱いお茶&水無月を頂けたりするのか。
それとも、穢れと共に無意味な徒労がバンバカ蓄積し、頭に白髪が増えるだけで終わるのか。
蒸した空気を日光が時折暖めるような不快な天気ですが、さあ、出発しましょう。

続きはこちら »

松尾大社の還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2014年5月11日(日)


松尾大社の還幸祭追尾、前篇からの続きです。

このサイトを始めてから、私が最も衝撃を受けたのは、松尾祭です。
「半笑いで京都を面白がってやろう」 「それでゲスいアクセス集めて、広告で儲けてやろう」
「こんな面白いこと思いついて実行する俺って、最高」 と、糞の如き考えでネタ集めを始めた私に、
2011年4月に追尾した松尾祭の神幸祭は、凄まじいまでのショックを与えてくれたのでした。
当時の記事を読むと、わけのわからん熱気に憑かれた内容で、自分でも奇妙に思える程ですが、
何がそんなにショックだったかといえば、上手く言えませんが、本物だったからではないでしょうか。
「本物」 や 「ほんまもん」 といった括弧付のものではなく、単なる本物がそこにあったというか。
伝統保存系 or 町おこし系の、ある意味で辛気臭かったり胡散臭かったりする盛り上がり方とは違う、
町に生きる人間が自主的かつ好き勝手に盛り上がってるという、極めてリアリティのある祝祭。
それでいて単なる享楽のみならず、千年前からの歴史と現在が直結もしてるという、ダイナミックさ。
こんな祭が、こんな本物が、京都にあったのか。知らなかった。完全に、舐めていた。
本物の衝撃を正面から喰らったことで、ぼ~っと見てただけとはいえ腐り切った性根を叩き直され、
以後は、真摯に向き合うべき事象には出来る限りのリサーチと共に真摯な態度で向き合うよう心がけ、
そうでないものには半笑いではなく全笑いの態度で臨むようになったんですが、それはともかく。
そんな腐れナルシスの性根をも叩き直してしまった松尾祭、還幸祭追尾の後篇であります。
前半では、地元町内を巡行した6基の神輿が西寺公園へ集結+再び出発するまでを追いましたが、
後篇では、御前通北上+朱雀御旅所巡幸+旧街道巡幸+松尾大社への宮入りまでを、追尾。
いや追尾といっても、再三言ってるように、全貌を追うにはこの祭の規模は余りにもデカ過ぎるため、
ヘタレ気味にちょこちょこっと幾つかのポイントで覗いてる程度の内容ではありますけど。
おまけに後半は神輿写真の波状攻撃で、もはや何が何だかわからん世界になってますが、
本物の祭が持つ本物の熱気、気配くらいでも伝われば、幸いです。

続きはこちら »

松尾大社の還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2014年5月11日(日)


松尾大社の還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

松尾祭。文字通り、松尾大社のお祭りです。
平安遷都以前に右京一帯を開発した渡来系の秦氏によって創建された古社であり、
遷都以降は 「賀茂の厳神、松尾の猛霊」 として賀茂社と並び王城鎮護を果たした、松尾大社。
そんな猛烈に古い歴史を持ちながら、今なお完全に現役仕様の信仰を集める社でもあり、
その氏子域は 「洛西の総氏神」 の呼び名の通り、北は等持院・南は吉祥院・西は嵐山・東は朱雀と、
誇張でも何でもなく京都市の西側地域の大半が含まれるという無茶苦茶な規模を誇ってます。
そんな松尾大社が春に行う松尾祭は、 「総氏神」 の名に相応しいワイルドかつダイナミックなもの。
かつては賀茂社・葵祭と同じく勅祭であり、松尾使なる勅使の社参があったという松尾祭ですが、
時の流れと共に氏子域が農村地域と結合し、それに従い農村的な祭のテイストを導入、
6基の神輿が広大なエリアを動き回る、京都の祭の中でも極めてアーシーなものとなってます。
神輿が桂川を渡る舟渡御を挟む4月末の神幸祭は、2011年に当サイトでも記事にしていましたが、
神幸を追ったなら還幸も追おうと、今回は神輿6基が本社へ帰る様を追いかけてみました。
新暦導入以前は、 「お出」 こと神幸が卯の日、「お還り」 こと還幸が酉の日に行われていたため、
「うかうかとおいで、とっととおかえり」 とも呼ばれていたという松尾祭の神輿巡行ですが、
現在は神幸が4月20日以後の最近日曜、還幸はその3週間後である5月中旬に行われてます。
神幸は神幸でそれこそ舟渡御を含む無茶苦茶にハードなものですが、還幸もまた激ハード。
朝から神輿が氏子域をまわりまくり、昼には西寺公園 aka 旭の社にて神事、朱雀御旅所でも神事、
もちろんその道中のあちこちで神輿を何度も何度もさし上げまくるという、とんでもないものです。
余りにとんでもなくかつエリアが大規模であるため、とても全部を追いかけること出来ず、
昼の西寺公園集合から神輿中心に断続的に眺めるという、かなりヘタレな追尾となってます。
前半は特に移動一切なし、西寺公園の神輿と神事を集中的に御覧下さい。

続きはこちら »