京都・東山花灯路2016へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年3月20日(日)


京都・東山花灯路2016へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

当サイトへの感想として、 「楽しそう」 という声を頂くことが、稀ながらあります。
京都に於ける超メジャースポットへの単独正面突破を趣旨とする、我が 『ひとりでうろつく京都』 。
ベッタベタのスポットへひとりで特攻し、ベッタベタの客に塗れることで、己が魂をズタズタに傷つけ、
その魂の傷から流れ出る血を以て現場のリアルを記すというのが、サイトの基本コンセプトです。
特攻により生じる苦痛を、ある種の 「ヤラレ芸」 として面白がってもらおうと思ってるわけでは全くなく、
また、自虐の裏返したるナルシズム or エリーティズムで共感を呼ぼうと思ってるわけでも全くなく、
苦痛を正面から受け止め、その苦痛を体感的かつ直接的に伝えることを考えて、更新を続けてます。
が、他人から見ると、崇高なる信念に基づくこの特攻&表現が、何か、楽しそうに見えるそうです。
花灯路の記事で 「震災を忘れていいのか」 的なことを書いてても、何か、楽しそうに見えるそうです。
そういう風に見えるということは、つまり、私はこの荒行を心のどこかで楽しんでるんでしょう。
文句を垂れながらもその一方で、こっそりと、ひっそりと、混雑や賑わいを楽しんでるんでしょう。
卑猥です。卑猥であることは必ずしも悪ではありませんが、独男が卑猥であることは多分、悪です。
そして、こういった卑猥さは、少なくともこのサイトに於いて私が求めているものではありません。
足りてない。苦痛が、足りてない。ディープな苦痛ではなく、凡庸にして浅薄な苦痛が、足りてない。
卑猥な享楽を許す隙などない、酸素自体が毒と化したような逃げ場なき苦痛が、足りてない。
そう考えた私は、2016年度の東山花灯路特攻を、徹底的に混雑する日を選んで決行してみました。
桜シーズン直前&紅葉シーズン直後という閑散期に、ベッタベタスポットである東山&嵐山にて、
電飾をビカビカ光らせて夜間の集客を図り、ひいては宿泊客増加も狙って開催される、京都花灯路
その客層は、光るもんがあれば脊髄反射で近付き群がるような、これまたベッタベタなものであり、
当サイトは崇高なる趣旨を示せる絶好の機会として、東山花灯路については特攻を毎年かけてます
特攻開始直後に震災があった為、個人的には電気について色々感慨が湧くイベントなんですが、
今回は、 「悪天が続いた会期の最終日目前+連休の中日+日曜」 を決行日としてわざわざ選び、
手前勝手な感慨や嘆息を許す隙などない、凡庸にして浅薄な苦痛の中へ飛び込んだわけです。
逃げ場なき混雑で感じた私の苦痛は、体感的かつ直接的に伝わるでしょうか。

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東福寺塔頭・毘沙門堂勝林寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年11月27日(金)


東福寺塔頭・毘沙門堂勝林寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

東福寺は、夜になるとやたらに寺&その周辺が暗くなるなと思ったりします。
臨済宗東福寺派大本山に相応しいその巨大なる伽藍は、ライトアップされることなど全くなく、
むしろ逆にブラックライトでライトダウンするかのように、禅宗ならではの厳格な闇を周囲へ放射。
名勝・通天橋が瀕死の混雑に見舞われる紅葉シーズンにあってもなお、その闇の厳しさは変わらず、
陽が落ちる夕方以降は昼間の喧噪が嘘の様に消え、代わって辺りに充満するのは漆黒の闇。
群集の荷重に耐えた当の通天橋も、夜は地元中高生の自転車が通るばかりの暗黒渡り廊下となり、
その圧倒的な暗さは、まるで 「これこそが正しい寺の姿なのだ」 と宣言してるようにも見えます。
無論、寺とその周囲が夜に暗くなるというのは、本来は当然というか、普通な姿ではあるんでしょう。
しかし、紅葉シーズンくらい夜間拝観をやってもいいんじゃないかと思ってしまうのもまた、人情。
境内の広さ&紅葉の大規模さを考えると、電気代がえらいことになるだろうけど、やってほしいな、と。
通天橋から落ちて天国へ通り抜ける奴が何人か出るかも知れないけど、やってほしいな、と。
そんな最低共通文化に基づく需要にも一応対応しようと考えたのか、夜間拝観をやってくれてるのが、
東福寺の境内にあってその鬼門を守る、 「東福寺の毘沙門天」 こと塔頭・毘沙門堂勝林寺です。
勝林寺。少林寺に非ずして、勝林寺。東福寺第205世により1550年に創建された、塔頭であります。
東福寺仏殿の天井裏で発見されたという、本尊にして伝・定朝作の毘沙門天立像を始めとして、
珍しい毘沙門天曼荼羅や、大檀那である近衛家の大玄関が移築された本堂など、その見所は多し。
通常非公開であることが惜しまれるほどですが、名物の吉祥紅葉が色づく秋には特別公開を行い、
良縁と美縁の御利益から舞妓はんも訪れたというこの紅葉を、夜ともなればライトアップで更に演出。
その様は、忍び寄る餓鬼より本丸の闇を守るのもまた鬼門守護の一環と考えてるかのようであり、
東福寺の拝観に間に合わなかった迷える衆生にとっては、ある種の緊急避難先になってます。
そんな勝林寺の紅葉、もちろん東福寺が真っ暗になる夜に観に行きました。

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松原通の力餅食堂・加藤商店で、 栗を食べまくってきました。もちろん、ひとりで。

2015年10月21日(水)


松原通の力餅食堂・加藤商店で、 栗を食べまくってきました。もちろん、ひとりで。

2013年に上げた栗餅の記事、思ってた以上に多くの人が見てくれるんですよ。
「両親の郷里・丹波へ名物の栗を食いに行く」 という、かなり私的な気分で作った記事であり、
川床カフェめぐりのように狙って作ったものではなかったんですが、やはり食いもんネタは強いなと。
しかも、 「京都 丹波栗」 という感じでブランド名を打ち込み飛んでくるタイプの方は案外と少なく、
ずばり 「栗」 あるいは 「栗餅」 と、栗食本位なワードで来られる方が多いのにも、感銘を受けました。
どうやら人は秋になると、丹波など産地やブランドに関係なく、栗を食いたくなる生き物のようです。
私は、栗を過小評価していた自身の不明に、気付かされたのでした。すまん、栗。すまん、栗餅。
そして謝ると共に、栗のビッグウェイブに再び乗ろうとも決めました。というわけで栗記事、第2弾です。
今回も、プチ旅情と共に丹波で栗菓子を買い食いするかと思いましたが、正直、行くのが面倒くさい。
あと、栗記事花火記事でもちょこちょこ書いてることですが、自分的には何か色々と、気まずい。
といって近場で済ますとなると、ただ単に買い食いだけで終わる話となり、ネタになるかどうか微妙。
近場で、ネタになり、いい感じの栗の店、ないかな。そう考えていて、松原通の力餅を思い出しました。
力餅。相生餅&千成餅と共に、京阪神にて謎のフランチャイズを形成してる餅系食堂のひとつです。
「餅」 という名前が示すように、この餅系食堂、元来はおはぎなどを扱う甘味処がルーツだそうで、
現在でも多くの店が、うどんや定食など一般的な食堂メニューに加えて甘味を扱ってはいるんですが、
松原通×東大路通の交差点近くに建つこちらの力餅は、10月に扱うその甘味がかなり、栗推し。
定番の栗餅に加えて、栗赤飯、そしてマロンケーキの如き栗蒸し羊羹が、普通の食堂に登場します。
何故この店がこんなに栗を推す理由はよくわかりませんし、正直言って特に興味もないんですが、
しかしこの栗ラッシュ、京都の市井に於ける季節感の味わい方をよりリアルな形で現わすものであり、
同時に 「人は秋になると、栗を食いたくなる」 ことを、如実な形で示すものとは言えるでしょう。
そんな力餅の栗餅・栗赤飯・栗蒸し羊羹、うどんと一緒にがっついて来ました。

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建仁寺塔頭・両足院へ半夏生の特別庭園公開を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年6月24日(水)


両足院へ半夏生の特別庭園公開を観に行きました。もちろん、ひとりで。

現代美術家の榎忠は、かつて、頭を半刈りにしてハンガリーへ赴きました
全身の片側の体毛を全て刈るという、文字通り 「半刈り」 の状態で彼の地へ赴いたわけです。
冗談では、ありません。いや、冗談を具現化することで現実を照射する試み、というべきでしょうか。
日本語のコンテクストの中でしか成立しない駄洒落を、自分自身の体を張ってオブジェクト化し、
コンテクストが全く通用しない場所へ単身赴き、その通用しなさ加減に身を晒すということ。
寝小便の沁みた蒲団の如きコンテクストを纏ったまま、 「やってみました」 と外部へ出るのではなく、
入国拒否などによりコンテクストの無力さを直接感得&体現し、不潔な蒲団を焼くということ。
その姿勢は、経済的無力化の進行と並行して 「貧者の核」 のようなコンテクストの暴力が横行し、
駄洒落レベルの言説がヴゥードゥーの如く呪力を持つ現代日本に於いてこそ、必要なのではないか。
こんな思索を半刈りについて巡らせた私は、建仁寺塔頭・両足院での半夏生の特別庭園公開を、
顔の半分だけを化粧した 「半化粧」 状態で観に行くことにした、というのは無論、嘘です。
両足院。祇園の真南に建つ臨済宗建仁寺派大本山・建仁寺の、数多き塔頭のひとつであります。
南北朝時代、饅頭の祖・林浄因を連れて帰朝した建仁寺35世・龍山徳見を開山とする形で創建され、
天文年間の火災&再建を期に 「両足院」 へ改名し、再建を重ねながら現在に至る寺であります。
建仁寺といえば、何といっても俵屋宗達 『風神雷神図』 のオーナーとして名高い大寺なわけですが、
こちらの両足院も、近年人気がエスカレートしまくってる伊藤若冲作の 『雪梅雄鶏図』 をオウンド。
黒田官兵衛の長男・黒田長政ゆかりにして鞍馬寺の仏像胎内より出たという毘沙門像も祀り、
「饅頭発祥の寺」 という呼称もある名刹ですが、名刹ゆえか、毘沙門堂以外は基本的に非公開。
ただ、特別公開は時折行われ、葉が白く変化する半夏生が色づく梅雨時にも庭園特別公開を実施。
で、その特別公開へ今回、半刈りでも半化粧でもなく極々普通に出かけてみたというわけです。
私が纏う独男コンテクストを、半夏生の白い輝きは焼いてくれるでしょうか。

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新熊野神社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年5月5日(火)


新熊野神社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「新」 と書いて、 「しん」 と読まずして、 「いま」 と読む。
「本当」 と書いて 「マジ」 と読む類の話ではありません。新熊野神社の話です。マジです。
平安末期、陰謀&戦乱で忙しい後白河法皇が、その忙しさへ追い打ちをかけて熊野信仰へハマり、
何十回と紀州熊野詣を行うも気が済まず、京都・若王子へ熊野神を勧請するもまだ気が済まず、
より 「なう」 感覚を導入するかの如く、院政の舞台・法住寺殿の鎮守として創建された、新熊野神社
清盛らが担った造営に於いては、リアル熊野がある那智の砂が運び込まれたという説もあるなど、
後白河院個人のオブセッションを強く反映される形で創建された印象のある社ではあります。
が、後白河院亡き後もこの社は、現在では想像できない広大な社領&荘園を持つ社として、継続。
また、熊野は修験道の聖地でもある為、新熊野社に於いても多くの山伏が旺盛な活動を展開。
さらに室町時代に至ると、観阿弥世阿弥親子による猿楽能を、足利義満がこの社で初めて見物し、
能が幕府の庇護を受けるきっかけとなった 「能楽発祥の地」 としてのエピソードも、有名でしょう。
応仁の乱の兵火で一時 「わず」 状態へ陥りますが、江戸期に入ると聖護院などの力を借りて、再興。
「いま」 は、すっかり宅地化した今熊野の氏神的存在として、ネイティブで強い信仰を集めてます。
そんな新熊野神社が毎年5月5日のこどもの日、年に一度の例大祭として執行する神幸祭は、
千年単位のロイヤルな由緒と、 「なう」 な現在進行形の信仰の両方を、垣間見させてくれる祭です。
子供の神輿&マーチングバンドが登場するあたりは、実に宅地のネイティブ祭という感じですが、
氏子域の巡行にあたって神が乗るのは、一般的な神輿ではなくクラシックな鳳輦と、極めてロイヤル。
また聖護院との深き縁に因むのか、山伏による神仏習合全開な行列同行+鳳輦への読経もあり、
さらには獅子舞の演舞も大々的にフィーチャーするなど、賑やかで面白い祭となってます。
そんな 「いま」 の神幸祭、のんびり拝ませて頂きました。

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京都・東山花灯路2015へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年3月13日(金)


京都・東山花灯路2015へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

紅葉終了直後の12月&桜開花直前の3月という観光閑散期に、
電飾を導入した無料の客寄せイベントとして嵐山&東山にて始まった、京都花灯路
その客層は、蛾の如く光へ群がる輩+蟻の如く無料を喜ぶ輩のWパンチという美しきものであり、
「京都観光の超メジャースポットへの単独正面突破」 という崇高なる趣旨を明確に示せる機会として、
当サイトでは2011年度の東山花灯路を皮切りとして、このイベントの定例特攻を続けてきました
が、その2011年は無論、東日本大震災が発生した年。それも、発生数日後に花灯路が始まった年。
関東圏を中心に各地で電気が止まる中、混乱状態で開催されたこの年の印象が強過ぎた為か、
私は花灯路について現在でも、阿呆な観光客を眺めて面白がるという阿呆な冷やかし根性と、
震災により叩きつけられたある種の根源的懐疑が、同時に惹起させられるという状態が続いてます。
グリーン発電であろうが何であろうが、ライトアップそのものが孕む何かに対する、根源的懐疑。
そして、実は京阪神エリアもまた地方へ原発を押しつけ続けてるという事実に対する、根源的懐疑。
震災から4年経ち、その懐疑に何らかの答えが出たかと言えば、そんなことは一切ありません。
また、問題の主因たる消費社会への反省が深まっているかと言えば、そんなことも一切ありません。
というか、事態の根源的などうにもならなさは、むしろより明確な姿となって我々の眼前に現前し、
そのどうにもならなさ故、一時はあちこちで乱用されていた 「絆」 や 「祈」 の文字も、段々と後景化。
東山花灯路2015の行灯文字でも、以前の 「祈」 に変わって、 「京」 の字が登場してたのでした。
ある種の積極性の回避という気配を除けば、無意味な記号性しか感じられない、 「京」 の字。
「あ~」 という感じなのであります。納得でもなく、落胆でもない、 「あ~」 という感じなのであります。
それこそ、無意味な記号のような響きで 「あ~」 という声が漏れる、そんな感じなのであります。
で、2015年はこんな感じだと言われたら、確かにそんな感じもするんですが、あなたどう思いますか。
そんな 「あ~」 な感じの東山花灯路2015、 「どんな感じだ」 という話になってて大変恐縮ですが、
今回も冷やかし根性と根源的懐疑が交錯してクラクラする頭で、特攻、やってきました。
適当な写真の羅列から 「あ~」 な感慨、感じてもらえると幸いです。

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泉涌寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年11月21日(金)


泉涌寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

当サイトは、「京都メジャースポットの単独正面突破」 を趣旨としながら、
未訪だったり、あるいは未記事化してたりする超ジャー級スポットが、いくつかあります。
未訪 or 未記事化の理由は、色々です。単に嫌いだったり、あるいは更新最終回用に取ってたり。
また中には、完全に行った気になっていながら実は全然行けてない、などというケースもあり、
今回出かけた泉涌寺も正に、今まできちんとした記事が作れてないことを完全に忘れてたのでした。
けしからん話なのであります。 「御寺」 の呼称を持つ寺に対して、けしからん話なのであります。
泉涌寺。その名の通り、真言宗泉涌寺派の総本山である、堂々たる超メジャースポットです。
東山の南麓に於いて弘法大師が結んだ庵を、月輪大師が大伽藍の設営により再興しようとした際、
寺地の一角より清泉が湧き出てたことから現在の寺号が付けられたともされる、泉涌寺。
四宗兼学の寺として隆盛したことでも知られる寺ですが、最も有名なのは 「御寺」 の名でしょう。
四条天皇以後の多くの帝がここで陵墓を営んだため、 「皇室の菩提所」 としての地位を獲得、
維新以降も新憲法施行までその営繕・修理費は宮内省持ちだったという、ロイヤルな寺であります。
そんなロイヤルな寺に対して 「行くの完全に忘れてた」 のは、あまりにけしからん話なのですが、
しかし泉涌寺、当サイトの今までの記事の中に於いても、行くだけなら行ってるんですよね、何度か。
雲龍院の夜間拝観とか。あるいは、瀧尾神社の祭とか。もしくは、今熊野観音寺の紅葉とか。
また、サイトと無関係ながら何度か出向く機会もあり、すっかり記事を作成済みと思ってたわけです。
けしからん話なのであります。 「御寺」 の呼称を持つ寺に対して、けしからん話なのであります。
というわけで、紅葉シーズンを良い機会に今回、正面から普通に泉涌寺へ出向いてみました。
泉涌寺、流石 「御寺」 だけあって、メイン紅葉がある御座所へ入るには拝観料とは別料金が必要で、
ぶっちゃけ、そのオプション課金のオプション感が金額の多寡に関わらず微妙な感慨を生み、
足が遠のく理由でもあったんですが、今回はそのオプション料金も支払って、堂々入場。
さらに茶屋の蕎麦まで食い、全盛りでロイヤルな紅葉を拝んできました。

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鍵善良房でくづ切りを、八坂神社・夏越祓の帰りに食べてきました。もちろん、ひとりで。

2014年7月31日(木)


鍵善良房でくづ切りを、八坂神社・夏越祓の帰りに食べてきました。もちろん、ひとりで。

京都の夏といえば、くづ切りと決まってます。
「誰が決めた」 と問われたら、私が決めました。今、ここで、決めました。
「くづ切りなんかどこでも食えるだろ。それに近畿圏で葛といえば吉野に決まってるだろ」
などという訳知り顔の正論は、人々の勝手な幻想がふき溜るこの街では、何の効力も持ちません。
そう、ここは、京都。 「京都といえば」 が枕詞なら、どんな出鱈目も通ってしまう魔都、京都。
「京都の夏といえば、かき氷」 程度は無論、 「京都の夏といえば、すき焼き」 でも案外平気で通り、
「やっぱり」 や 「あえて」 も使えば、安易なブランディングが無限に成立する、魔都なのです。
言い切れば、何であろうと真実になります。それが貴方の、真実の京都なのであります。
無論、その真実は、貴方自身のことでもあります。京都を語ることは、常に己を語ることであります。
「京都といえば、パン」 「京都といえば、ケーキ」 「京都といえば、チョコレート」、全部、OKです。
それが、貴方の京都なんだから。それが、貴方自身なんだから。しょうがないですよね。
という感じで、得体の知れぬスイーツが我が物顔で 「京都」 を名乗る昨今の動勢を考慮すれば、
私がくづ切りを 「京都の夏の風物詩」 と勝手に断言した所で、多分、どこからも文句は出ないはず。
それに、紫紅社 『きょうの京都』 においても、さらには淡交社 『京都歳時記』 においても、
くづ切りは 「八月」 の項に 「夏の風物詩」 「夏に食うもの」として、しっかり掲載されてますしね。
なので、京都の夏といえば、くづ切りであります。しょうがないことなく、くづ切りであります。
そんな京都のくづ切りといえば、祇園・四条通の鍵善良房が、最も有名ということになるでしょうか。
ランチジャーみたいな箱に入ったくづ切りは、誰もが一度は見たことがあるかも知れません。
その鍵善良房へ、混迷を極める京都のスイーツシーンの今後を見据えるべく出かけた、
というのはもちろん大嘘で、実は八坂神社夏越祓の帰りに何となく寄っただけなんですけど。
フラっと食したくづ切りの涼しさ、夏越祓の雑なレポと共にお楽しみ下さい。

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夏越祓の茅の輪をまたまたまたくぐりまくりました。もちろん、ひとりで。

2014年6月30日(月)


夏越祓の茅の輪をまたまたまたくぐりまくりました。もちろん、ひとりで。

熱いお茶で、みなづきをいただいてると、月日の経つのは、なんと早いもんやろうと、しみじみこたえて
くる。ついこの間、お雑煮を祝うたと思うているのに、知らん間に夏越の祓となって、半年の、なんと短
かったことやろう。なんにもせんうちに、わたしにも白髪がふえだした。
大村しげ 『京暮し』

ほんわかしてるようで、実は高速かつ硬質な大村しげの文章が描破してるように、
時の流れの速さに恐怖さえ感じる今日この頃、暇丸出しな当サイトでも季節は超高速でめぐり、
勝手に恒例化してる夏越の茅の輪めぐりも、2014年度版が早くもやって来てしまいました。
正月からの半年間でこびりついた魂の穢れを、神社に設置された茅の輪をくぐることで祓い浄め、
暑さ+疫病の脅威が本格化する厳しい夏を乗り切ろうという古来からの慣わし、夏越祓
うちでは、腐った欲求各種を持て余す己が存在の膿の大掃除 or スピリチュアル・デトックスに加え、
普段は記事で訪れる機会のない、小さいというか地味というか、そんな神社への訪問を兼ね、
毎年あちこちの社に設置された茅の輪を探し求めてはくぐりまくり、溜った穢れを祓い倒してきました。
2011年は市バス一日券を使って、京都市内の各神社をランダムかつノーコンセプトに徘徊。
2012年は一転して全行程を徒歩にして、東福寺から西陣周辺までを、やはりノーコンセプトに徘徊。
そして2013年はまた徒歩で、右京区をローラー的に回り、最後はまた西陣へ着く感じで徘徊。
で、2014年の今回は、やや手薄になってる感のある東北方面を攻めてみることにしました。
京阪三条駅から出発し、東大路通&白川通を縦軸として、あちこちをダラダラとうろつき回ってます。
果たして私は、穢れを見事祓った清い体&魂で、熱いお茶&水無月を頂けたりするのか。
それとも、穢れと共に無意味な徒労がバンバカ蓄積し、頭に白髪が増えるだけで終わるのか。
蒸した空気を日光が時折暖めるような不快な天気ですが、さあ、出発しましょう。

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京都・東山花灯路2014へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年3月16日(日)


京都・東山花灯路2014へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

人は何故、光を求めるのか。何故、闇の中に光を求めるのか。
「暗いから」 「暗いと何も見えへんから」 「何も見えへんと不便やから」 と答える輩には、
「暗くなったら寝え。日照時間だけ起きとけ」 としか返し様のない、深淵なる問いであります。
本能の名残なのか何なのかは知りませんが、人は実用的な理由が無くとも光を求めるものです。
震災以降も多発するライトアップ or イルミネーションの人気は、その証明に違いありません。
「いや、それは交尾へのステップという極めて実用的な理由があるんだよ」 という下衆の輩には、
交尾へ全く繋がらないのに、こうして2014年も花灯路へ特攻する私の動機を説明できないでしょう。
正直、私は東山花灯路に、ある種、大きな声では言えない類の魅力を感じ始めてます。
光を求める人間の根源的なオブセッションと、それを垂れ流しで露出する快感を感じ始めてます。
そんなことを、震災関係の展示が激減した今回の春の花灯路で、自覚させられたのです。
閑散期における純然たる電飾客寄せイベントとして始まり、今やすっかり定着した、京都花灯路。
勝手ながら私にとっては、初めてまともに特攻したのが震災直後の2011年春であったため、
「光とは何か」 or 「灯とは何か」 みたいなことを、考えさせられるイベントだったりします。
同時に、 「その影に生じる闇とは何か」 みたいなこともまた、考えさせられるイベントだったりします。
電力不足による終了フラグをひりひりと感じさせられた前回前々回前々々回とは異なり、
震災の事を忘れたかの如く展開された今回の東山花灯路でも、その印象は特に変わりません。
いや、むしろそれ故に、光へのオブセッション&その影に生じる闇を、強く感じさせられたのでした。
人は何故、闇の中に光を求めるのか。正確に言えば、何故、わざわざ闇の中で求めるのか。
凡庸な客寄せイベントだからこそ、そんな問いを丸出しで転がしてる東山花灯路2014、
例年よりやや暗めの写真で、影&闇の魔力と共にお楽しみ下さい。

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文の助茶屋へ寄ってから、八坂庚申堂の初庚申へ行きました。もちろん、ひとりで。

2014年2月18日(火)


文の助茶屋へ寄ってから、八坂庚申堂の初庚申へ行きました。もちろん、ひとりで。

八坂道は私にとって、迷うことが案外多い道だったりします。
えと、八坂通というのは、東山の八坂道のことです。八坂の塔へ続く、あの道のことです。
清水寺などと並ぶ超メジャー級京都観光アイコンである、あの塔が突っ立ってる道のことです。
「何をどう迷うのか」 と思われるかも知れませんが、正にあの八坂の塔があるが故に、迷うのです。
塔で視野狭窄になってる観光客を、疲労と徒労を回避すべく視界から省く癖がついてしまい、
そのうち八坂の塔そのものも見てるだけで疲れてくるので、知覚から削除する癖がついてしまい、
そのため土地鑑が歪に狂い、方向感覚が壊れ、何となく迷いがちになってしまったというか。
知覚と認識の遮断による、土地鑑と方向感覚の混乱。そんなのを、私は八坂通に感じるのです。
で、そんな感覚遮断を誘発させる八坂通に、 「見ざる聞かざる言わざる」 の八坂庚申堂があるのは、
当の八坂庚申堂からすると 「知るか」 という話でしょうが、私には腑に落ちることだったりします。
八坂庚申堂。正式名称、大黒山金剛寺延命院。ネイティブな通称は、単に 「庚申さん」 。
日本に於けるほぼあらゆる事象について、 「京都が一番」 「京都が最初」 を自称する京都ですが、
庚申信仰三猿についても無論 「日本最初」 を押さえてて、それがこちらの 「庚申さん」 です。
平安京構築への貢献で知られる秦氏が、本尊として中国より招来したとされる青面金剛を、
秦氏滅亡の後にこの地へ安置したのが始まりという、やはり極めて古い由緒を持つお堂であります。
で、そんな八坂庚申堂が旧暦最初の庚申日に行う初庚申へ、のこのこ出かけたわけですが、
「庚申さん」 、現在は観光地のど真ん中ながら実にネイティブなお堂で、初庚申もまたネイティブ。
基本、猿型の蒟蒻焚きを食う他には、特にすることがありません。ネタ的に正直、不安です。
というわけで、 「庚申さん」 の近くにあって実に観光地らしい佇まいの文の助茶屋にも立ち寄り、
早春を告げる和菓子であるわらび餅を食らってから出向く、という流れにしてみました。
猿と蒟蒻とわらび餅が錯綜する八坂の迷宮、迷ってみて下さい。

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2014年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。

2014年1月1日(水)


2014年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。

あなたは知ってるでしょうか。元旦の深夜は寒いということを。
元旦というのは、あの元旦のことです。1月1日とも呼ばれたりする、あの日のことです。
で、深夜というのは、遅い夜のことです。具体的には、22時から翌5時ぐらいの時間のことです。
元日のこの時間帯って、寒いんですよね。寒いって言葉では全然足りないくらい、寒いんですよね。
特に京都は、夏の頃は 「俺を殺す気か!!いやもういっそ殺せ!!」 って思うくらい暑いのに、
冬は死ぬほどというか、比喩ではなく明確かつ具体的に死の恐怖を感じるくらい、寒いんですよね。
あ、そんなことは知ってますか。百も承知ですか。それはまあ、そうですよね、安心しました。
じゃあ、いきなり本題に入りますが、京都で年越しなんてもう、やってられないんですよ。
2011年の時みたいに、時ならぬ大雪が降る大晦日の昼に円山公園&清水寺へ特攻かけたり
高台寺行って除夜の鐘撞き損ねたりとか、翌日も寝ずにうろついたりとか、やってられないんですよ。
また2012年の時みたいに、年始早々伏見稲荷の山を巡ったりとか、やってられないんですよ。
さらには2013年の時みたいに、真っ暗な嵯峨野で除夜の鐘難民化とか、やってられないんですよ。
と、こうやって過去の年越しネタを並べると、明らかにうろつくボリュームが年々減ってますが、
それくらいこのネタ、帰ってしばらくは頭痛や脚痛で動けなくなるくらい、体がガタガタになるんですよ。
というわけで2014年度の年越しネタ、前後編に分けることなく、1本の手抜きな内容です。
いや、誰に頼まれてやってるわけでもないので、そもそも手抜きもひったくれもない話なんですが、
とにかく己の体をいたわるべく、ゆっくりと、そしてのんびりと、浅~く浅~く、うろつきました。
うろついたのは、岡崎→黒谷→蹴上といったエリア。この選択にも、特に大した理由はありません
単なる気まぐれ+私がおけいはんの民ゆえ、不調の際は電車ですぐ帰れるよう、日和っただけです。
ただ、徒歩圏を適当な彷徨う仕様である分、気まぐれにうろつく 「普通の年越し」 的内容に、
真人間も参考に出来る 「普通の年越し」 的内容に、あるいはなってると言えるかも知れません。
「なるわけがない」 とも思いますが、とにかく孤独な年越し、行ってみましょう。

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法住寺の身代不動尊大祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年11月15日(金)


法住寺の身代不動尊大祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

まつろわぬ者としての、
そんな鬼認識が生まれたのは、一説では平安末期からとも言われてます。
元来は、闇や異界といった不可視なる 「おぬ」 の世界を体現する存在だったという鬼は、
末法の世に入り、武家の台頭や盗賊の跋扈などで 「外部」 の都への侵入が常態化し始めると、
「可視化されたアウトサイダー」 ともいうべき新たな相貌が付加されるようになったそうです。
彼岸へ出かけて退治する存在から、此岸へ恐怖をデリバリーする存在と化した、鬼。
平安末期にそんな変貌を遂げた鬼が、同時代の帝である後白河上皇の法住寺陵を参拝するのは、
実に奇妙なことのようであると同時に、ある意味で実にもっともなことと言えるかも知れません。
法住寺陵があるのは、その名の通り、法住寺三十三間堂のすぐ傍にある寺であります。
藤原為光創建の元祖・法住寺の跡地に、後白河院は院政の舞台として広大な法住寺殿を築き、
熊野狂いを反映した新熊野神社や頭痛を具現化した三十三間堂など、多くの伽藍もばんばか建立。
それらは、三十三間堂を除いて大半が消失し、後にいずれも小じんまりと再興されましたが、
法住寺も木曾義仲に焼討された後に小じんまりと再興、以来、後白河院の御陵を守り続けてます。
そんな法住寺で11月15日に行われるのが、身代不動尊大祭。身代、すなわち身代わり。
この寺の不動明王像が、義仲の焼討の際に後白河院の身代わりになった伝説に由来するこの大祭、
狭い境内が視界ゼロとなる護摩や、狭い境内が炊き出し場化するうどん&ぜんざい奉仕など、
ネイティブ色濃い催しですが、何よりの目玉は鬼たちによる後白河院御陵参拝と鬼法楽でしょう。
ここだけ宮内庁管轄である御陵へ、金棒片手で堂々と入り参拝する、 「まつろわぬ者」 たち。
その姿は確かに奇観であり、ある種のアイロニカルなユーモアを感じさせるものですが、
同時に、鬼を遥かに凌ぐ 「アウトサイダー」 的な 「闇」 をその心の中に抱えていたかも知れず、
また実際に 「アウトサイダー」 の歌ばかりで歌集を編纂したりもした後白河院の御霊に、
鬼たちが鬼なりの流儀で真なるリスペクトを捧げてるように見えたりもします。
そんな妙なる法住寺の鬼法楽と墓参り、見に行ってきました。

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祇園会館へ祇園をどりを観にいってきました。もちろん、ひとりで。

2013年11月1日(金)


祇園会館へ祇園をどりを観にいってきました。もちろん、ひとりで。

祇園会館。ああ、祇園会館。
名画座の割に造りが異常に良く、500席とキャパもデカかった、祇園会館。
そんな良いハコなのに、名画二本立て+入れ替えなしというスタイルを貫いた、祇園会館。
しかし私は正規料金を払う余裕が全然なくて、せいぜい千円の日にしか行けなかった、祇園会館。
その千円の日に観た 『トレインスポッティング』 では、ラリ中の寝糞が顔にへばりつくシーンを、
日本ではおそらく最も巨大なスクリーンで目にすることとなってしまった、祇園会館。
そんな思い出の詰まった祇園会館が、『よしもと祇園花月』 に化けてから、しばらく経ちました。
花道や桟敷席まである劇場のクオリティを考えると、映画より演芸の方がふさわしいのは、当然です。
使えるハコは、有効な形で活用すべき。私もそう思います。でも本当は、ちょっと寂しい。
観光客だらけの八坂神社石段前に建つ立派な劇場で、超ルーズに映画を観るという、不思議な贅沢。
そんな贅沢を味わえなくなったのが、ちょっと寂しいのです。どうでもいい私情ではありますが。
祇園会館の造りがオーバークオリティである理由は、元来ここは映画館ではないから。
京都五花街のひとつ・祇園東の舞踊公演 「祇園をどり」 を行うことこそが、ここの最大の目的です。
元々は甲部と一体の祇園町を形成していたものの、明治14年に京都府の指示で分離し、
戦前は祇園乙部、戦後は祇園東新地から現呼称で愛されている花街・祇園東。
その祇園東の 「祇園をどり」 は、1952年から始まり、唯一秋に公演が行われるをどりです。
祇園花月に化けた現在も伝統は守られ、11月上旬だけは全吉本を会場から一掃。
祇園会館が、本来の目的で本来のスペックを発揮する様を拝めるひと時となるわけであります。
で、そんな祇園をどりに忍び込んでみた、と。しかも、初日に忍び込んでみた、と。
初日にも関わらず、もちろん今回も飛び込み、当日券に賭けてみた、と。
その結果や、いかに。一発勝負の一部始終、お楽しみください。

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2013年の時代祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年10月22日(火)


2013年の時代祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

時代祭。言うまでもなく、京都三大祭のひとつであります。
しかしこの祭、他の二祭と比べると始まったのが明治の中頃と、割に最近です。
東京遷都で衰退した京都は、振興策として明治28年に 『平安遷都千百年紀念祭』 を開催。
紀念殿として、5/8サイズの平安京大内裏レプリカを、当時田んぼだらけの岡崎に建設しました。
首都の座を実質失っていた江戸時代でも、かろうじてプライドは担保してくれていた天皇を遂に失い、
思わずアイデンティティを平安時代に求めてしまった京都人は、その小さいレプリカを、神社化。
祭神は、平安遷都を成した桓武天皇と、京都最後の天皇である孝明天皇。氏子は、京都市民全員。
例大祭の日は、平安遷都の日・10月22日と決められました。平安神宮&時代祭の始まりです。
延暦時代から明治維新までの各時代の装束で都大路を練り歩く時代祭名物・時代行列も、
初回こそ完全なる客寄せコスプレイベントでしたが、恒例化して回を重ねる内にラインナップも拡充。
市域の拡大につれて徴員される人が増えたり、花街から芸妓さん呼んで婦人列を新設したり、
「逆賊」 扱いの足利将軍が開催100年目にしてようやく参加を許されたりながら、現在に至ってます。
と、まともにイントロ書くのが面倒臭くなったので、思わず2011年度分をリライトしましたが、
とにかく京都市が誇る一大コスプレ・ヒストリカル・パレードである時代祭の追尾、2013年度版です。
2011年も全行程4.5キロを追っかけたのに、何故もう一度追尾することにしたかといえば、
伝統を死守してるようで実は日々刻々と変化し続ける京都の 「今」 を捉えるため、ではありません。
2011年度が、雨天順延&写真が酷かったので、22日でリトライしたかっただけであります。
当然ながら今回も、行列の全行程4.5キロを、追尾。行列から少しずつ遅れながら徒歩で、追尾。
「動く歴史絵巻」 が凡庸な地方都市を進む絵面ばっかりで、また全時代を網羅してみました。
ビルや車や通行人などを背景ボカシの彼方へ抹殺して偽造した 「雅」 さではなく、
「雅」 さが普通の街中に転がる京都のストレンジさ、改めて御堪能下さい。

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瀧尾神社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年9月29日(日)


瀧尾神社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

明治初頭に行われた荒っぽい神道国教化政策により、
平安期から日本で親しまれてきた神仏習合の信仰スタイルは、一掃されました。
ビッグネームな寺や神社が林立する京都も、この神仏分離政策は無論、しっかり適用範囲内。
ビッグゆえに 「お上」 と縁が深く、ゆえに 「お上」 の意向 or 顔色を窺う必要があったのか、
「祇園感神院→八坂神社」 を始め、多くの神社が改名したり、神宮寺が破却されたりしたわけです。
私の地元の石清水八幡宮などは、 「お上」 と縁深いのに神仏習合度が強かったため、
慌てた挙句、山中にあった数十の寺を全て破却する事態に至ったりしてますが、それはともかく。
そんな感じで、建物レベルや運営レベルではかなり徹底的に行われた神仏分離ですが、
しかし京都は一方で 「東京遷都以降は基本、全否定」 の精神がこっそりひっそり息づいてもいる街。
粟田祭における青蓮院への神輿突入や、新日吉祭における妙法院僧侶による神輿前読経など、
祭儀レベルでは、神と仏が入り交じるスタイルの儀式を持つ祭も、結構残存してたりします。
で、そんな神仏習合の残り香を、よりダイナミックかつエンターテイメント的に楽しめる祭といえば、
JR&京阪電車東福寺駅すぐそば、伏見街道沿いにある神社・瀧尾神社の神幸祭ではないでしょうか。
大丸の創業者・下村彦右衛門が、下積み時代の行商の道中に熱心な祈りを捧げたことで知られ、
後には同家&大丸の完全バックアップにより贅を尽くした社殿が建立された、瀧尾神社。
今は大丸がどう関わってるのか知りませんが、秋祭は神社の規模以上に賑やかなものであり、
神輿の差し上げは無論、京都独特の剣鉾の剣差し、さらには龍舞なども登場して、見所は実に多し。
中でも一番インパクトがあるのは、「御寺」 の呼称を持つ泉涌寺への神輿乱入でしょう。
皇室の菩提寺たる泉涌寺に、神輿が入り、のみならず坊さんが読経まで行ってしまうわけです。
神輿は近年復活したものだそうですが、祭儀が放つ香りは確かに古の祭の香り。
そんな古の祭の香り、東山南部へ嗅ぎに行ってきました。

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祇園祭の宵宮祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年7月15日(月)


祇園祭の宵宮祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

祇園祭を 「二つの祭が同時進行している」 と言ったのは、山路興造
いわく、平安期から八坂神社主体で行われている神輿渡御が中心の 「祇園御霊会」 と、
中世以降の下京町衆主体で行われる山鉾巡行中心の 「祇園祭り」 が、同時進行している、と。
( 平凡社刊 『別冊太陽 京の歳時記 今むかし』 中 「月次の京・七月」 の項より )
もちろん実際は、両者は密接に関わり合い、山鉾巡行もそもそもは神輿渡御の先触れです。
が、現場を歩くと、山鉾町と八坂神社近辺で空気が違うと感じられるのもまた、確かだったりします。
山鉾町に漂う、むしろこちらを 「御霊会」 と呼びたくなる、闇や恐怖さえ孕んだ独特の雰囲気。
そして八坂神社と門前の祇園町に漂う、一転してオーソドックスかつ大らかな、神祭りの雰囲気。
いろんな意味&点でややこしそうなので、私には何もわからんとしか言えない話ですが、
とにかく空気の違いは明白に存在し、その辺がクリアになるのがこの宵宮祭以降ではないかな、と。
もう充分に知られてるようで、案外やっぱり知られてないようですが、祇園祭にも神輿は出ます。
神輿は無論、神様の乗り物。ゆえに、神輿が出る場合、本殿から神様を遷す儀式が、必須。
というわけで、祇園祭でもこの儀式は当然執行され、行われる日は神幸の2日前である、7月15日。
一般的には 「宵々山」 の夜に、八坂神社では 「宵宮祭」 として遷霊神事が行われるわけです。
遷霊の儀式そのものは、境内の照明完全オフ+撮影も完全禁止という、極めて厳粛なもの。
厳粛過ぎて、何やってるのかわからんくらい地味だったりしますが、とにかく、極めて厳粛なもの。
しかし、門前の祇園商店街は、 「宵宮神賑奉納・前夜祭」 として様々なイベントを開催。
その賑わいの空気が、先述のように山鉾町とはちょっと違うテイストなのが、面白かったりします。
そんな宵宮祭、混雑の酷さは山鉾町よりほんの少しだけマシ or ほぼ変わりませんが、
より本義に近い儀式と賑わいの香りを嗅ぐべく、突っ込んでみました。

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地主神社の恋愛成就七夕祭りへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年7月7日(日)


地主神社の恋愛成就七夕祭りへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「天漢 相向き立ちて わが恋し 君来ますなり 紐解き設けな (by 山上憶良) 」
という露骨極まる歌が示す通り、七夕は、実に愛欲溢れる伝説に因んだ節句であります。
互いを求め合う二つの星、琴座の主星・ベガこと織女星と、鷲座の主星・アルタイルこと牽牛星。
二星を隔てるのは、天の川。年に一度、七夕の夜空が晴れたら、二星は川を渡り、逢瀬を果たせる。
そんな、 「紐解き設けな」 となるのも当然な、それこそ 「セッス!セッス!」 な節句なのです。
が、色恋に関わることなら何であろうが商売のネタにする、腐り切った現代消費社会にあって、
この七夕、イベントとして大きな盛り上がりを見せてる感じは、はっきり言って、ありません。
新暦への移行により七夕当日が梅雨の真っ只中となって、星が大抵見えないのが悪いのか、
年一というスパンが、コンビニエントな性生活に慣れた現代人には生殺しプレイにしか見えないのか、
とにかく現状として七夕は、もっぱら児童向けの短冊吊るし大会になってる感が、否めません。
が、地主神社は違います。京都で最もメジャーな縁結びスポットである地主神社は、違います。
京都観光のキング・オブ・キングである清水寺の境内にあって、神代にまで遡る凄まじい歴史を誇り、
清水寺と共に世界遺産の指定もバッチリと受けている、あまりにも由緒正しき社、地主神社。
しかし近年は 「愛のちかい」 「しあわせ」 「よろこび」 「キューピッド」 「恋の願かけ絵馬」 などなど、
縁結びアイテムを大量リリース、その 「本気」 ぶりが各方面から注目を集めること、しきりです。
そんな地主神社、七夕という商機を見逃すはずもなく、 「恋愛成就七夕祭り」 なる祭を開催。
一対500円の紙こけしに自分&好きな人の名を書き、笹へ結わえ付けて恋愛成就を祈願するという、
「商売繁盛で笹持って、恋」 と思わず連呼したくなるような、実に景気の良い祭りであります。
当日の現場はもちろん、清水寺の超ベタな観光客+色恋に飢えた女子が、溢れまくり。
そんなアウェー地獄へ、「紐解き設け」 る人などいない独男が、特攻してみました。
折しも当日は、日曜。アウェー混雑+猛暑との死闘、見届けて下さい。

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新日吉神宮の新日吉祭・神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年5月12日(日)


新日吉神宮の新日吉祭・神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

新日吉神宮はかつて、官社的性格が強かったそうです。
武将ファンには、秀吉の墓・豊国廟の途中にある神社と思われてる、新日吉神宮。
そして変態さんには、京女の娘を狙う 「女坂」 の途中にある神社と思われてる、新日吉神宮。
しかし本当は、秀吉よりも京女よりも変態よりも長い歴史と、ロイヤルな由緒を持つ神社であります。
新日吉神宮。 「新日吉」 の読み仮名は、「しんひよし」 に非ずして、 「いまひえ」 。
平安末期、後白河法皇法住寺殿造営に際し、新熊野神社と共に鎮守として創建した社です。
熊野フリークとして知られ、新熊野神社には本社から砂まで勧請したとも言われる後白河院ですが、
平治の乱に於ける祈願をきっかけに、比叡山・日吉大社もまた崇敬しまくってたんだとか。
日吉大神を勧請した新日吉社は、壮麗なる伽藍を誇り、後白河院は当然、他の皇族も多数臨幸。
途絶していた宮中行事を復活させる形で始められた祭礼・小五月会 (こさきのまつり) は、
競馬・流鏑馬・芸能奉納などが華々しく行われ、官社としての格式を誇るものだったと言われてます。
やがて朝廷の衰微に伴い社運も衰微、室町後期には小五月会も中断の止むなきに至りますが、
江戸期に入ると、氏子区域の七条×鴨川エリアが高瀬川開削で開発され、住民が増加。
小五月会は、妙法院のパワーに氏子奉仕が加わり、より民間色が濃いものとして復興しますが、
その際にも禁裏からは女房奉書や鉾などを賜り、その習わしは明治まで続いたのでした。
現在の小五月会 = 新日吉祭は、東京遷都を受けて民間色がさらに濃くなり、
祭りを支える修道・貞教・菊浜・崇仁の各氏子町を、鳳輦が細かく回るものになってますが、
官社のテイストが残る鳳輦&行装列メインの神幸列と、町中のネイティブさ加減が、
いい感じのコラボ効果を生んでいて、独特の味がある祭になってます。
そんな新日吉祭、暇に任せて追いかけてみました。

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宮川町歌舞練場へ京おどりを観に行きました。もちろん、ひとりで。

2013年4月8日(月)


宮川町歌舞練場へ京おどりを観に行きました。もちろん、ひとりで。

宮川町。言うまでもなく、京都五花街のうちのひとつです。
川端四条の南、祇園祭の神輿洗式が行われる鴨川 = 宮川のほとりにあって、
伏見城方広寺建設で大和大路が賑わった時代あたりから、茶屋が並ぶようになり、花街化。
近くの河原では出雲阿国歌舞伎を創始し、現在も残る南座を始めとして芝居小屋も林立、
さらには美少年の歌舞伎役者が女犯禁止の僧侶相手に男娼となる 「陰間茶屋」 でも名を売るなど、
実に 「聖」 と 「芸能」 と 「俗」 が濃厚に入り混じる、花街らしい由緒を誇る街であります。
「俗」 「裏」 は時を経るごとに後景化、昭和33年の売春防止法施行以降は芸舞妓一本となり、
現在は観光テイストが濃い甲部のお隣にあって、比較的ネイティブな花街の存在感を見せてます。
京おどりは、そんな宮川町の芸舞妓はんらが芸を披露する、春の舞踊公演。
「京をどり」 ではございません。あくまで、「京おどり」 。何故かは全然知りませんが。
初演は昭和25年と、明治スタートの都をどり鴨川をどりなどと比べると割と最近ですが、
楽しんでもらうことをモットーとした若柳流の振付で、観光客のみならず地元にも愛好者、多し。
で、そのおどりへ行ってきたわけです。もちろん、予約とか一切なしの、飛び込みで。
私は知ってます。 「京都 をどり チケット」 で検索をかける人間の多さを、私は知ってます。
うちみたいな零細サイトにさえ、どれだけの人がそのワードで飛んでくるかを、私は知ってます。
本当に観たいなら、事前にチケットを確保した方がいい。わかってます。でも、しない。
何故か。面倒くさいから。あと、飛び込みでどれくらい行けるか、確認したいから。
というわけで、また手ぶらで特攻です。よい子は真似しちゃ、駄目。

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