右京区 - ひとりでうろつく京都 (β版) - Page 2

夏越祓の茅の輪をまたまたくぐりまくりました。もちろん、ひとりで。

2013年6月30日(日)


夏越祓の茅の輪をまたまたくぐりまくりました。もちろん、ひとりで。

いい歳をした、独男。その、穢れ切った精神と肉体。
肉体はあらぬ快楽で怒声を上げ続け、魂は無力感と万能感の狭間で腐り続け、
さらには、腐臭漂う己の生き様を、ネットを通じてなるべく広範に伝染させようと目論み、
自意識の臭気を汁にして目から飲ませるような暑苦しいサイトを作り続ける、筆の生えた糞袋。
そんなカス野郎の、穢れに穢れた穢れを祓おうとするなら、普通の祓いでは全く足りません。
質的にも量的にも肥大した糞袋っぷりを糺すには、質的にも量的にも肥大した祓いが必要なのです。
そう、例えば、大祓に用いられる茅の輪を、大量に、かつ連続して、くぐりまくるとか。
半年分の穢れをくぐり一発で祓うスピリチュアルリング = 茅の輪を、立て続けにくぐりまくれば、
あるいは独男の穢れ切った精神と肉体も、穢れなき少年のような輝きを取り戻すかも知れない・・・。
そんな藁をも掴む気持ちで、神社を求めウロウロ徘徊する夏越祓の茅の輪くぐりまくり、
2013年度上半期も、湿気爆発な梅雨真っ盛りの京都を舞台に、しっかりやってしまいました。
魂の救済というテーマを掲げ、でもやることは単なる街ブラ&嘘スピリチュアルという外道なこのネタ、
2011年度は東山周辺を中心に2012年度は堀川通を中心に、それぞれ徘徊しましたが、
2013年度のメインターゲットエリアは、一大観光地・嵐山をスタート地点とする、洛西・右京区。
理由は、特にありません。東と真ん中を攻めたのか、今度は西方面かな、と。そんな感じ。
また、厳密に西へこだわったわけでもなく、最後には北野一帯へ流れ付いたりと、極めて適当です。
が、適当に歩いても尚、かなりなボリュームの神社にかなりの頻度で遭遇する京都の濃さ、
そしてそんな濃さの中で息づくネイティブな匂いみたいなものは、多少は感じてもらえるかなと。
それでは半期に一度のスピリチュアル・デトックス or 存在の膿の大棚ざらえ、
梅雨真っ盛りの不快極まる梅雨空ですが、さあ、出発しましょう。

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梅宮大社の梅産祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年3月3日(日)


梅宮大社の梅産祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

産め、産め、産め、産め、産め。
こんなことを言われると、女性は、一体どんな気持になるんでしょうか。
「子供作れ」 どころか、 「結婚しろ」 「彼女作れ」 とさえ身内から言われなくなった私には、
理解する機会はほぼ永久に来ないと思いますが、ゆえに不思議といえば結構、不思議であります。
自分の性的なファクターにあれこれと口を出されると、私はかなり頭に来る方なんですが、
「産め、産め」 というのはそれどころの騒ぎではないのであり、私が女なら言った奴に向かって、
「お前が、産め。男でも、産め。肛門で、産め。女なら、もっと産め。まずお前が、貧乏大家族やれ」
みたいなことを言いそうですが、でも実際の女性がそういうことを言うのはあまり聞かないので、
やはり不思議といえば実に不思議、よくわからんと言えば実によくわからん話であります。
再生産プロパガンダは飛び交うものの、露骨に 「産め」 とはさすがにあまり言わない現代日本で、
堂々と 「産め、産め」 と言ってるのが、梅宮大社で3月第1日曜に行われる 「梅産祭」 です。
「梅産祭」 、読みは 「うめうめまつり」 。いや、本当に。丸っきり、「産め、産め」。
死体の腐乱化を9コマで描いた西福寺・九相図で御馴染、橘嘉智子 aka 檀林皇后が、
なかなか夫・嵯峨天皇の子を産めないのを悩んだ末、この社の白砂を床の下に敷いて寝たところ、
直ちに懐妊、めでたく仁明天皇を産んだことに端を発するという、梅宮大社の子授け信仰。
そんな由緒と梅の開花シーズンをひっかけ、さらには女の子の節句である3月3日もひっかけ、
ついでに日本で最初に酒が作られたという日本第一酒造の祖神という由緒もひっかけ、
梅を見ながら梅酒 or ジュースを飲み、再生産の活性化を祈願する祭であります。
独男には無縁というか、本質的な意味では花灯路以上のアウェーさえ予測される祭ですが、
その恐怖に特攻魂を刺激され、梅が本咲きでもないのにノコノコ出かけてみました。
何も生み出さない男が、梅から 「うめ、うめ」 と言われる様、御覧下さい。

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2013年への年越しを、嵯峨嵐山で迎えました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2013年1月1日(火)


嵯峨嵐山で迎えた2013年の年越し、続きです。

夜、嵐電嵐山駅へ降り立つと、田舎の匂いを感じることがあります。
匂いといっても、田舎の雰囲気というような話ではありません。物理的な匂いの話です。
田舎の匂いというか、畑の匂いというか。とにかくそんな匂いを、濃厚に感じることがあります。
当然といえば、当然です。近くの嵯峨野には、農業をやってるところが多く存在するわけですから。
とはいえ、昼間の観光客だらけな嵐山では、まず嗅ぎ取ることが出来ない、そんな匂い。
でも、日が暮れて人がいなくなり、店も閉まって辺りが闇に包まれると、息を吹き返す、そんな匂い。
四季を通じて美しい自然に恵まれた嵐山ですが、それら 「観る自然」 とは一味違う、
よりネイティブな自然が息づく嵯峨嵐山の顔を、そんな匂いに見出したりすることがあります。
2013年の年越しで訪れた、大晦日深夜の嵯峨嵐山も、正にそんな 「夜の嵐山」 でした。
「除夜の鐘&初詣巡りの客を乗せた人力車やタクシーが、正月料金で発狂したように荒稼ぎ」 とか、
花灯路に群がるような阿呆の若者が、路上で酒盛り&除夜の鐘乱打&絶叫カウントダウン」 とか、
赴く前は色々勝手な妄想をしてたんですが、現場にはそんな外道な輩の姿、一切なし。
ごく普通に地元の人たちが、昼間の顔とは全く違う観光街を歩いて近所の寺や神社へ出かけ、
ごく普通に除夜の鐘を撞き、ごく普通に初詣を行う姿が、そこにはありました。
あまりにもごく普通にネイティブ過ぎて、メシ食うところを見つけるのにも難儀しましたが、
しかしそのネイティブな姿は、阿呆の若者+阿呆の観光客が多い東山エリアの年越しよりも、
はるかに魅力的で、かつはるかに本来的なものに見えたのでした。
そんな嵐山での年越し、後篇です。前篇以上に、鐘難民の鐘難民ぶり、全開です。
漆黒の嵯峨嵐山を徘徊する気分、存分にお楽しみください。

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2013年への年越しを、嵯峨嵐山で迎えました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2013年1月1日(火)


2013年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。

2011年2012年と、混んでそうなとこをあちこち特攻し、
寒さと徒労で正月早々死にかけた年越し in 京都ネタ、2013年度版でございます。
除夜の鐘が撞ける寺を巡っては大混雑で退散し、それを繰り返すうちに路上で新年を迎え、
初詣先を求めて今度は神社を巡るもまた大混雑で退散、という愚行をまた重ねるわけであります。
何故そんな下らんことをするのかといえば、もちろん、そこに年越しがあるからです。
そこに除夜の鐘があるからです。そこに初詣があるからです。決まってるじゃないですか。
わけもわからず、行く。気がついたら、既に行っている。目的や理由、由緒や薀蓄は、どうでもいい。
誰にとっても年越しは、そんな惰性と無意識が溢れかえるカーニバルのようなものでしょう。
独男の私にとっても、話は同じです。私の年越しの愚行に、理由なんか、ありません。
むしろ、理由なんか、あってはいけません。何なら、理由なく行くのが、大事です。
私の言ってることが、わかるでしょうか。私は全然、わかりません。とにかく、年越しであります。
今回は、どこへ行こうかなと。年越しで混雑になりそうなとこ、他にどこがあるかな、と。
などと狂ったことを考えてるうちに、思い出しました。メジャー観光地・嵐山へ行ってないな、と。
というか、知恩院の鐘の混雑とかはニュースで見るけど、嵐山の年越しはあまり話を聞かんな、と。
もちろん、嵐山では除夜の鐘を撞かない or 一般公開してないというわけでは、ありません。
天龍寺をはじめ嵐山にある多くの寺院では、一般の人にも除夜の鐘を開放しています。
話は聞かないけど、きっと混んでるんだろうな。であれば、行かねばならぬ。
そんな狂気の義務感に導かれて、2013年の年越しは嵐山で迎えてみることにしました。
東山界隈と同様の馬鹿騒ぎがここでも展開されてるのか or そうでもないのか。
そのあたりの徒労極まる実地確認、御堪能ください。

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宝厳院の秋の夜間特別拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年12月9日(日)


宝厳院の秋の夜間特別拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

東山に立つ禅刹・高台寺の、その和風テーマパークぶり
特に春秋のライトアップとなれば、開基・北政所ねねの夫である豊臣秀吉の魂が、
下世話さのみを抽出して再生されたかの如く、境内は絢爛&ケバケバしき輝きが、溢れまくり。
人によっては 「商業主義」 「それでも禅寺か」 と眉を顰めるような世界が現出してしまうわけですが、
しかし、90年代の改装で生まれたこの輝きが、京都観光の夜の姿を変えたのもまた、事実。
多くの寺院が追随してライトアップを始め、光へ群がる虫の如きカップルどもを動員するようになり、
近年に庭園を整備した寺では、桜も紅葉も、照明で自在に出現させる所さえ現れました。
嵐山を代表する禅刹・天龍寺の塔頭であり、近年大堰川沿いへ移転した宝厳院も、そんな寺です。
室町時代に上京区で創建されたものの、応仁の乱で焼失+同じ天龍寺塔頭の弘源寺へ移転、
21世紀に入って、これまた天龍寺塔頭であった妙智院の跡地へ移転を果たした、宝厳院。
個人所有の別荘だった時代が続いた敷地には、別荘時代に作られた大正期の書院や、
妙智院時代の遺産である 「獅子吼の庭」 、現代数奇屋の新築本堂など、それなりに見所、多し。
ですが、この寺の一番の見所は何といっても 「高台寺以後」 を強く感じさせる照明でしょう。
12月を過ぎ、紅葉の大半が散ってもなお、庭園に 「紅葉」 がある気にさせる、照明。
やり過ぎを通り越して、「そもそも紅葉とは何だ」 と思わず根源的疑問さえ発したくなるその輝きは、
「存在しない紅葉を見る」 という、ある意味で枯山水にも似た禅的境地へと俗人を誘い、
さらには、電飾庭を枯山水の 「次」 の様式として確立せんとする試みなのかも知れません。
と、書いてる自分でさえ阿呆らし過ぎて呆れてしまう戯言はどうでもいいとして、
とにかくそんな宝厳院の秋の夜間拝観、完全に真冬ではありますが、行ってきました。
折りしも嵐山は、紅葉が枯れた山を電飾で照らす無理矢理集客策・嵐山花灯路を、開催中。
無意味に青く光る嵐山を借景として、幻覚の紅葉を楽しんでみたというわけです。
冬の嵯峨野を彩る禅のエレクトリカルパレード、とくと御覧下さい。

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法金剛院へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年11月21日(水)


法金剛院へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

花園の地に建つ、法金剛院
名前だけ見ると、「金剛」 の字面と濁音感、「法」 から分泌されるスクエアさ、
そして 「花園」 の醸し出すラグビー感が、何となく男の子向けなイメージを沸かせる寺です。
「超合金みたいな体の坊主が、精神棒持って仁王立ちしたり、スクラム組んだりしてる」 みたいな。
しかし実際の法金剛院は、蓮を始めとする四季折々の花、苑池を生かした浄土式庭園
そして、開基・待賢門院の失われた愛が売りの、極めて女の子向け寺院であります。
古来よりの名勝・双ヶ丘の東麓にあるこの地は、元々は平安初期の右大臣・清原夏野の山荘。
雅なる詩歌管弦の宴が催され、天皇の行事もあったそうですが、夏野の死後は、荒廃。
その地を新たに法金剛院として復興したのが、白河法皇の寵愛を受けた、待賢門院璋子でした。
7歳にして白河院の養女となり、何というか、恐らくは書けないような方面において深く愛され、
愛されるままその皇子・鳥羽天皇の嫁となり、どちらの子かわからん崇徳天皇を生み、
おかげで白河院の死後は果てしなく凋落、鳥羽院も若い女・美福門院にガンガン走ってしまい、
孤独なメンヘラ&クラッシャー魂を、現世の極楽浄土・法金剛院の建立で癒した、璋子。
現代の独男からすると、理解不能を越えて面白がるしかしょうがない共感不能な生涯ですが、
メンヘラ&クラッシャーは時代を超えて共感不能だったのか、寺は鎌倉期以降、衰退。
融通念仏で有名な円覚上人が再興を果たしますが、それも応仁の乱でパー。
江戸期にはとことん荒れ果て狭くなり、明治後は道路と山陰線に境内の南側をぶん取られ、
昭和も後半になって、ようやく創建時の庭園が発掘・再現され、現在に至ります。
そんな法金剛院、紅葉もまた、見もの。なので、見てきました。
妙に色濃い昭和感と共に、花園の秋、ご覧下さい。

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大覚寺の宵弘法へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年8月20日(月)


大覚寺の宵弘法へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都で送り火といえば、普通は、五山の送り火です。
盆の終わりに、帰ってきた精霊をあの世へ送り返すため行われる、炎のページェント。
現在でこそ、コンプを求め自転車やバイクで爆走する輩や、盆地性暑気にヤラれた観光客など、
「おしょらいさん」 と共にあの世へ送られそうな奴が多発する 「火祭り」 と化してはいますが、
それでも夏の京都を代表するメジャーな行事であることは、疑う余地がありません。
が、送り火は、他のところでもやってます。その多くは、より本来の目的に近い形で、やってます。
あちこちの寺でやってる万灯会もそうですし、遥か洛北の各地で行う松上げもまたしかり。
そして、「嵯峨の送り火」 なる通称を持つ大覚寺宵弘法もまた、そんな送り火のひとつでしょう。
大覚寺嵯峨天皇が造営した離宮を発端とする、いわずと知れた嵯峨の名刹です。
再建ものとはいえ雅な雰囲気を放つ伽藍が、元離宮の由来を感じさせること甚だしい寺ですが、
中でも日本最古の人工林泉・大沢池は、平安時代の名残をそのまま残すと言われてます。
宵弘法は、この大沢池に於いて、弘法大師・空海の月命日前夜に営まれる、法会。
もちろん 「宵弘法」 という名前の通り、法会のコンセプトは空海へ報恩の誠を捧げることですが、
雅な池のど真ん中で焚かれる火が、あの世へ帰っていく先祖の魂にも見えたのか、
近隣の住人が灯篭流して追福菩提 or 家族多幸などを祈念する送り火行事としても、定着。
普段はそれこそ雅な茶道関係者や、雅なフリをした観光客の姿が多い大覚寺も、
この夜ばかりは、ネイティブな信仰が嵯峨独特の濃い空気と溶け合う姿を見せてくれます。
供養の収入でペイできるからかどうかは知りませんが、普段はいる拝観料も、無料。
というわけで、雅でもネイティブでもない私ですが、行ってみました。

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嵯峨祭・還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年5月27日(日)


嵯峨祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

嵯峨祭。言うまでもなく、嵯峨の祭です。
極めてまんまな名の通り、その時々の嵯峨の状況をヴィヴィッドに反映し、
度々姿を変えながらも、現代まで脈々と受け継がれている、洛西の春祭であります。
嵯峨天皇による離宮造営以来、風光明媚の遊興地として多くの貴人たちに愛された、嵯峨野
しかし、離宮の後身である大覚寺が京における南朝の拠点となった南北朝時代以降は、
皇族や武士や坊主たちが、この美しき地で金と武力と宗派を巡るパワーゲームを、大々的に展開。
大覚寺。その大覚寺をどうにかしたい、室町幕府。その幕府によってブッ建てられた、天龍寺
その天龍寺の金満ぶりに焦った大覚寺が、財政基盤確立のため掌中に収めようとした、清涼寺
その清涼寺と浅からぬ縁を持つゆえ、大覚寺がついでにゲットしようと目論んだ、愛宕神社
そして、斎宮の潔斎所としての存在感をなくし、身の振りように困ってた野宮神社
これらプレイヤーたちの思惑が絡みに絡み、その結果をヴィヴィッドに反映した嵯峨祭は、
小さな村祭から、愛宕神社&野宮神社のダブル神輿が巡幸する大掛かりなものへと、変貌しました。
さらに、プレイヤー間のパワーバランスが変わるごとに、祭の内容・性質・主催者まで、変化。
かなり、ややこしい祭なのです。そして、そこが極めて面白いとも言える祭なのです。
状況のヴィヴィッドな反映は現代も続いており、住宅地化による人口増+若者の伝統回帰で、
嵯峨祭を考察した数少ない書である古川修氏の 『嵯峨祭の歩み』 によると、
現在嵯峨祭は参加人数が増えまくり、その勢いは 「最盛期に近づいている」 んだとか。
鉾差しなど生きた文化財を体現する祭衆、増幅し続け未定型の混雑に対応し切れてない警備、
そしてそんな盛り上がりに舌打ちする無関心な住民が入り乱れる、嵯峨の祭・嵯峨祭。
常に動態、そして現在進行形であり続ける伝統の姿、ご堪能ください。

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車折神社の三船祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年5月20日(日)


車折神社の三船祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

嵐山には、昭和の匂いが残っている。
時にそんなことを、私は感じます。率直に言えば、何かちょっと古いなと。
メジャーな観光地として、ソフト面もハード面もそれなりに更新は行われてるわけですが、
小手先のバージョンアップでは左右されない、土地固有のレベルで昭和感が残存してるというか。
貴族の遊興地としての歴史を持つと共に、丹波との水運の要所でもあり続けた嵐山が、
完全に庶民相手の観光オンリーで食っていくと腹を決めたのは、案外最近なのかも知れません。
それこそ、昭和の頃とか。なので、昭和テイストが何となく残ってるのかな、みたいな。
毎年秋に行われる 「嵐山もみじ祭」 の、40年ほどタイムスリップしたような昭和全開ぶりや、
バブルの頃に林立したタレントショップの唯一の生き残りが美空ひばり記念館だったことを思うと、
どうでもいい印象や思いつきに妙な確信を感じたりするんですが、あなたどう思いますか。
「もみじ祭」 とは逆に、春、五月第三日曜に開催される車折神社の例祭延長神事・三船祭もまた、
そんな 「昭和の観光」 の残り香のようなものを、ちょっとだけ感じさせてくれる神事です。
近年パワスポとして益々名が高い車折神社の御神霊を、新緑眩しい嵐山へ運び、
王朝絵巻さながら水上にて多種多様の芸能を奉納するという、嵯峨ならではの雅な祭。
しかし、始まったのが昭和初期のためか、どちらかといえば近過去寄りの観光モード感が漂い、
どちらかといえば中高年以上の世代が喜ぶコンテンツに満ちたイベントだったりします。
優雅と言えば、極めて優雅。かったるいと言えば、残念ながら、かなりかったるい。
そんな三船祭、混雑で日和気味ながら、行ってきました。昭和生まれの平安、ご堪能下さい。
あ、一応言っときますが、三船祭、三船敏郎とは何も関係ありません。

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祇王寺へ紅葉を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年12月8日(木)


祇王寺へ紅葉を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

祇王寺
平家物語における白拍子祇王の悲恋伝説で有名な、奥嵯峨の寺です。
近江・野州で平家家人の娘に生まれるも、父が死に、母&妹と共に京都で白拍子となった、祇王。
その美しさと華麗な舞から、驕る平家全開&DQNモードの平清盛に寵愛され、
大金+名声+故郷の水不足を解決する祇王井川開削までゲットしますが、しかし、好事魔多し。
強硬に舞プレゼンを願う16歳の仏御前を、お情けで清盛にとりなしてやったら、
清盛一発で心変わり+祇王叩き出し+仏御前の余興のためだけに再度呼び出し&再度叩き出し。
「萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いずれか秋に あわで果つべし」。
やっとられんわという思いでこのような歌を詠み、祇王&妹&母は洛外へ脱出+出家。
その出家の場所が、この祇王寺と言われてます。他にも諸説はありますが。
山里で念仏三昧の日々を送る尼母娘3人組には、祇王没落の原因となった仏御前も、のちに合流。
どうせ自分も、いずれ似た運命を辿るのだ。いずれか秋にあわで、果つるのだ。
愛欲の諸行無常を知る者同士で連携を深めた四人は、チームワークで念仏三昧へ没頭、
全員がめでたく往生を遂げたといいます。「われらも遂には仏なり」と。
愛欲の諸行無常にも、逆にDQN性質を発揮する権力・金力・精力にも無縁の独男には、
かなり関係のない寺ではありますが、とりあえず紅葉シーズンのラストですし、
一人で数時間座り込む女性がいるというディープさも面白そうなので、興味本位で出かけてみました。

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神護寺の金堂夜間拝観とライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年11月13日(日)


神護寺の金堂夜間拝観とライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

暑いです、2011年の秋。
暦の上ではすっかり紅葉シーズンですが、京都市街地のもみじは今だ色づく気配さえなし。
なので、市街地よりも早く紅葉が拝める洛北・高雄の神護寺へ行ってみることにしました。
宇佐八幡宮神託事件の巨根坊・道鏡と闘った和気清麻呂の私寺・神願寺が、
平安以前より山岳信仰が根づいていた高雄山寺と、ドッキングして生まれた、神護寺。
住持した空海によるライバル最澄への潅頂でも知られる、新仏教興隆の基礎を築いた寺です。
が、神護寺といえば、そんなプレ平安期 or 平安初期のパイオニアたちのみならず、
平安末期~鎌倉初期に大暴れした中興の祖・文覚上人でも有名かも知れません。
武士時代に同僚の嫁・袈裟御前へ手を出し、手を出すのみならず「俺と一緒になれ」と迫り、
困った袈裟御前に「旦那を殺して」と言われ意気揚々と太刀を振るえば当の袈裟御前を殺してしまい、
逃げるように仏の道へ入り、でも煩悩は全然消えず武者修行ならぬ無茶修行をさんざんやらかし、
その勢いで神護寺再興を後白河法皇に強訴し、強訴し過ぎて伊豆へ流罪になり、
流罪先で流罪仲間の源頼朝に「やってまえ」と決起をけしかけ、鎌倉幕府成立の道を開いた、文覚。
実にとんでもない奴ですが、そのとんでもない奴が再興した神護寺もまた、
なかなかにとんでもないシチュエーションを誇ってます。一言で言うと、参道、過酷。
で、過酷だけど、煩悩も色濃く漂ってるという。文覚っぽいといえば、文覚っぽいかも知れないという。
そんな神護寺の夜の紅葉、秋感の全くない汗だく状態で見てきました。

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大覚寺の観月の夕べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年9月11日(日)


大覚寺の観月の夕べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

中国より伝わった「観月」が、貴族の間で流行った平安時代。
当時の雅人たちは、中秋の名月を直接見ず、杯や池に月を映して楽しんでたんだとか。
都のはずれにある嵯峨野の苑池など、きっとその格好の舞台であったことでしょう。
平安京を完成させた嵯峨天皇が、この地を仙洞と定め造営した、嵯峨離宮。
離宮の一部として中国の洞庭湖に模して造られたという、日本最古の人工林泉、大沢池。
数々の歌にも詠まれた名勝であるこの池に映った満月を、
オーナーの嵯峨天皇はもちろん、招かれた文人墨客たちもまた、愛でていたに違いありません。
嵯峨天皇崩御の後、皇女・正子内親王の勅願により離宮は門跡寺院・大覚寺となりましたが、
大沢池は驚くべきことに、平安期の宮廷文化華やかなりし頃の形を現在もほぼ、保持。
中秋の名月の時期になるとここで行なわれる「観月の夕べ」もまた、
二隻一対となる龍頭鷁首をあしらった舟を池に浮かべる、王朝時代の雅なるフォーマットを遵守。
平安のまんまの「観月」を、平成の現在において楽しめるのでございます。
雅なのででございます。それゆえ、雅もひったくれもなくなるほど、人が集まるのでございます。
「観月の夕べ」、外から見てると「舟券」は大体すぐ売り切れ。
「混み過ぎて池に落ちた奴がいる」みたいな話も、ちょくちょく聞くことあります。怖い。
しかし、何度も書いてますが、このサイトのモットーはベタスポットの単独正面突破。
中の様子はどうか、その前に果たして舟には乗れるのか、自分を実験台にして確かめてみました。

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梅宮大社・嵯峨天皇祭での梅津六斎念仏を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年8月28日(日)


梅宮大社・嵯峨天皇祭での梅津六斎念仏を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

梅宮大社。祭神は名前の通り、梅宮辰夫です。もちろん、嘘です。
本当の祭神は、本殿に酒解神・大山祇神をはじめとする、四柱。
相殿には、平安京を完成させたといわれる嵯峨天皇と、その后である橘嘉智子ら、四柱。
橘氏の氏神として山城国相楽郡に創建されましたが、遷都に伴い現在地の梅津へ移転。
一門から皇族に嫁いだ橘嘉智子が、この神社に祈願+仁明天皇を懐妊したことは有名であり、
「梅」という言葉の響きもあってか、子授け・安産の神としても崇拝されてます。
そんな梅宮大社の夏の大きなお祭りが、嵯峨天皇祭。
浅からぬ縁があることを反映して、嵯峨天皇の命日8/28に近い8月最終日曜に、祭礼を開催。
といっても、雅かつ堅苦しいものではなく、午前中には小学生らによる奉納相撲、
午後らは参道に露店が並び、夜には盆踊りも完備の、地元密着系のアーシーな祭りであります。
で、何といってもこの祭りの目玉は、梅津六斎保存会による奉納公演。
現在でこそ郊外住宅地の梅津ですが、昭和に入って高度成長期に至るまではずっと、農村。
京都の都市郊外の他の農村と同じく、ここでも大いに六斎念仏は隆盛したといいます。
中断や再興を経ながらも、その精神は現在の講中にもたっぷりと受け継がれ、
トップ画像を見てもらえば一発でお分かりの通り、六斎ならではのディープさを放っているのです。

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化野念仏寺の千灯供養と愛宕古道街道灯しへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年8月24日(水)


化野念仏寺の千灯供養と愛宕古道街道灯しへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

化野。平仮名にすると、あだしの。
お好きな方はとっても大好き、「化」の字からしてその手のオーラを放つエリアであります。
もともとは鳥辺野・蓮台野などと共に、平安時代の都の葬地であり、
当時はキレイに葬ってもらえる死人なんてほとんどいませんから、一帯には放置された死体が散乱。
その有様をあまりにあんまりだと思った弘法大師・空海が、「埋めたら?」と、土葬をサジェスト。
そして時を経て、法然上人が、この地に念仏道場をビルド。現在の化野念仏寺の始まりです。
土葬が一般化したのはいいですが、埋めたところで何百年も経てば、みんな素性不明の石化&骨化。
明治の中頃には、周辺から出土した由来不明の石塊や石仏は8000にも及び、
それらは化野念仏寺境内の「西院の河原」に無縁仏として結集、供養されるようになりました。
お盆にこの寺で行なわれる千灯供養は、その無縁仏に蝋燭の灯りを奉納する供養。
「京都のお盆」といえば、高い確率でこの仏事が取り上げられる、人気(?)イベントであります。
で、愛宕古道街道灯しは、嵯峨野保勝会が千灯供養に連携して開催する、ライトアップのイベント。
清涼寺から愛宕神社一の鳥居までの古道を、手作りの行灯各種で楽しませてくれるというものです。
7月の借りを返すようなとんでもない猛暑の中、鳥居本の坂を登るのは極めて億劫ですが、
「無縁仏」のオーラにわけのわからん吸引力を感じ、出かけてみました。

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阿弥陀寺での嵯峨野六斎念仏奉納を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年8月23日(火)


阿弥陀寺での嵯峨野六斎念仏奉納を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

現在は寺社で奉納や公演が行なわれることが多い六斎念仏ですが、
かつては地域の家を演奏して回る「棚経」 or 「勧善廻り」も、大々的に行なわれてたそうです。
演奏してもらった家はいわゆる「お布施」みたいなものを渡すわけで、
演舞を披露する喜びのみならず、講中にとっては良い現金収入の機会でもあったんでしょう。
こちらの嵯峨野六斎念仏も、青年団主体で活動してた戦前期は盛んに「棚経」を行なってたようで、
近隣の家々を回るのみならず、台八車に六斎道具を積み込んで、30人以上で洛中へも進出。
懇意にしてる大家を回ったり、あるいは祇園などの色街でも演奏することがあったとか。
この「棚経」、現在はなくなったかといえば、そんなことはありません。
中堂寺や千本、そして嵯峨野などいくつかの講中で、バリバリに敢行中です。
家で、六斎。観てみたい。でも、他人の家へ上がりこむわけにもいかんしな。でも、観てみたい。
中堂寺に親戚はいるけど、結婚式で泥酔してるのを怒って以来、疎遠だしな。でも、観てみたい。
そんな気持ちに応えてくれそうなのが、嵯峨野六斎の阿弥陀寺奉納であります。
阿弥陀寺、名前からして完全に寺ですが、建物は限りなく民家に近し。
天井の低さに冷や冷やしながら観る六斎は、きっと「棚経」に近いテイストが醸し出されてるはずです。

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嵐電・妖怪電車に乗ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年8月21日(日)


嵐電・妖怪電車に乗ってきました。もちろん、ひとりで。

妖怪電車。
それは怨霊都市・京都が生み出した、路面電車の妖怪変化。
かつては市内交通の花形として活躍したにも関わらず、マイカー普及で邪魔者扱いされた挙句、
遂には現役半ばで命を絶たれ、忘却の彼方へ追いやられた京都の路面電車たち。
無念の死を遂げた者が怨霊と化すのは、京の道理。
芋も揚げも「さん」づけする奇怪なアニミズムが、路面電車に魂を吹き込むのも、京の道理。
というわけでこの街には、電車に関する様々な呪いがうずまくこととなりました。
利便性のみならず、ルックスが街並に調和してたことでも人気が高い、京都市電の呪い。
各地で晒しものにされる、特に八幡ポンコツ街道で無残に朽ち果てた姿を晒される、市電車輌の呪い。
京津線路面区間廃止+東西線乗り入れで、二重運賃に苦しめられる山科区民&大津市民の呪い。
これらの呪いは盆の季節になると、京都唯一の路面区間を持つ嵐電へ、集結。
観光客で一杯の車内を、化け物がうろつく魔界へ変化せしめる・・・というのはもちろん、大嘘です。
山科区民&大津市民が呪ってるのは本当かも知れないけど、あくまで大嘘です。
ポンコツ街道の「熊野」行きも、熊野古道まで行きそうな霊気を放ってますが、あくまで大嘘です。
妖怪電車は、嵐電2007年の単発企画・鬼太郎ラッピング電車「化け電」が、慣例化したもの。
以後、学生ボランティアの力を借りて着ぐるみや車内装飾にも気合を入れ、
今や京都の夏の風物詩としての認知度さえ誇る、企画列車なのであります。

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東映太秦映画村のナイターまつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年8月13日(土)


東映太秦映画村のナイターまつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

全盛期には邦画の実に6割を生産していたという、映画の街・太秦。
そこら中に旧跡が残り、そこら中に着物屋が溢れ、そこら中に職人が住んでいる京都は、
時代劇にとっては正に、聖地。この地独特の職人気質もまた、映画制作に強い親和性を発揮。
当初は関東大震災から疎開してきただけの撮影所も、どんどん太秦に定着&増殖し、
「日本のハリウッド」と呼ばれるほどの製作本数を誇るのみならず、
大映の『羅生門』『雨月物語』などでは、技術面・芸術面でも国際的な評価も獲得しました。
が、テレビの登場により、昭和30年代をピークとして映画産業は一気に、斜陽化。
ひたすら映画だけで食ってきた太秦の多くの撮影所は、苦境に立たされることになります。
ラッパから札束バラまいて見境なき作品クオリティを実現していた大映が、先頭切って倒産。
他社もスタジオを東京へひき上げ、東映撮影所のオープンセットもまた、なかば廃墟化。
生き残り策を模索した撮影所の従業員が思いついたのは、そのオープンセットの公開でした。
映画製作の裏側を、製作してる現場そのものを、そのまま見せる。
このスタイルで、1975年に東映太秦映画村は「開村」。日本初のテーマパークが誕生した瞬間です。
食える程度に稼ぎが出てくれたらという期待に反し、映画村は大当たり。
以後、京都の新たな文化観光資産として、現在に至るまで高い人気を維持し続けています。
ナイターまつりは、そんな映画村がお盆の時期に行なう催し。1998年から始まりました。
普段は夕方で閉まる村をライトアップして公開、
入園時間は短くなりますが、そのぶん料金が安くなるのも、お得なイベントです。

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五智山蓮華寺のきゅうり封じへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年7月21日(木)


五智山蓮華寺のきゅうり封じへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

きゅうり封じ。それは、弘法大師が京の都に遺した、秘法。
恐ろしい呪術には事欠かない京都の中でもダントツの法力を持ち、
あまりにシャレにならぬゆえ、メジャーなメディアでもカルトなメディアでもその扱いは極めて、希少。
今だ全貌さえ明らかになってないそのきゅうり封じへ、私は単身乗り込んだ・・・というのは大嘘です。
もらったパンフに「土用丑の日は年一回の秘法厳修の日」などと書かれてたので、
狂った反応をしてしまいました。鰻を食う勢いで「秘法厳修」するギャップ感が、たまりません。
実際のきゅうり封じは 「きゅうりに願かけて、悪いところを持ってってもらう」 というもんです。
病苦・悪行の根から逃れ、長生き&安楽往生できるよう、大師が秘法を残してくれた、という。
「だけど、何できゅうり?」と思うんですが、一説によると空海、きゅうりが嫌いだったそうです。
人形とか使えばいかにも「秘法」っぽいですが、そこを、きゅうり。それも、自分が嫌いな、きゅうり。
千年の時を超えて空海の素顔がダイレクトに感じられるような由緒であり、
ゆえに、千年の時を超えて人々からの信仰を集め続けている行事であります。

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仁和寺の御室桜を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

2011年4月21日(木)

御室桜と御影供の列
仁和寺の御室桜を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

「私しゃ お多福 お室の桜 花は低ても 人が好く」。
仁和寺名物・御室桜の花の低さと、醜女の鼻の低さをかけて歌われた、俗謡です。
「お多福みたいな顔で御室桜みたいな低い鼻やけど、愛嬌あるからモテモテや」と。
あ、ちなみに「低ても」という表記に、送り仮名の脱字はありません。
「ひくても」とまんまで読んでも、よろし。あるいは「ひくぅても」と読んだら、なおよろし。
「ひくても」と読む場合、「ひくくても」から真ん中の「く」を抜くニュアンスではなく、
「ひくぅても」からちっちゃい「ぅ」を省略する気持ちで読むと、なおなおよろし。ほんまかいな。
土壌が固いのか粘土質だからか、とにかく3mくらいしか花の背が伸びず、
根元から枝が張るという特殊なビジュアルを誇る、御室桜。
江戸初期・寛永年間に現在の伽藍が再建されるのに合わせて植えられ、
後水尾上皇が観桜、のちに町人も花見するようになり、上記の歌も生まれたわけです。
満開の桜の中で五重塔が浮かぶビジュアルはあまりに有名ですが、
5月前でもまだ咲いてるという遅咲き中の遅咲きの点でもまた、有名。
正に京都の桜の見納め、というか最早、ロスタイム。そんな僥倖感溢れる桜を観てきました。

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龍安寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月14日(木)


龍安寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

龍安寺の境内って、広いんですよね。地図で見ると、近所の仁和寺と同じくらい。
でも、あんまりそういう印象、ありません。イメージの中では、仁和寺よりずっと小さく思えます。
たぶん、龍安寺最大の売りであるあの石庭が、そう思わせてるんでしょうね。
不可解な配列で石が並んだ小さな空間が、見る物全てを禅の宇宙へ誘う、石庭。
馬鹿デカい建造物で圧倒するのとは真逆な、吸引型とでもいうべきインパクトを放つ、石庭。
加えて、その石庭をかかえる本堂も、小振り。その本堂への拝観券を売ってる山門もまた、小振り。
おまけに、チケット売るのは山門だけどモギるのは本堂前のため、
その間の池や、奥の方のよくわからん庭を、無料区域&前フリみたいに思いがちです。
しかしあの池は、龍安寺が徳大寺家山荘だった平安時代に作られた池泉舟遊式庭園で、
貴族が舟を浮かべ歌舞音曲を楽しみ、近世までは石庭よりずっと有名だったのであります。
奥の方のよくわからん庭も、歴史があるのかは知りませんが、とにかく桜が咲くのであります。
なので、桜の季節の龍安寺は、石庭以外にこそ注目するべきなのであります。
それなのに、やっぱりトップ画像は石庭なのであります。

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