ひとりで巡る京都の紅葉 - ひとりでうろつく京都 (β版) - Page 2

毘沙門堂へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年11月26日(火)


毘沙門堂へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

近年、 「見つけた感」 なる言葉が流行っております。
裏通りとかにあり派手な看板も出さない店を、見つけ、見つけた自分を好きになる。
ちょっと賢い消費者な自分を、好きになる。ちょっと勘の良い消費者な自分を、好きになる。
もちろんその店は、 「見つける」 のに本当の知恵や知識や労力が必要な場所であってはならず、
また本当に 「見つける」 ことが出来ない奴は全体の数%程度の難易度でなければならない。
で、その数%を嗤い、優越感と安心感を得るという、 「見つけた感」 。下衆です。極めて、下衆です。
そんな 「見つけた感」 に溺れる、破裂寸前のメタンガスバルーンの如き消費者エゴを愛撫し、
人が住むとこを 「そうだ」 呼ばわりで叩き売り続けてるのが 「そうだ 京都、行こう。」 なわけですが、
その 「そうだ」 で 「見つけた感」 が上手く作用した寺といえば、毘沙門堂ではないでしょうか。
毘沙門堂。山科にあって、山寺の風情を持ちつつ天台宗五箇室門跡の寺格も誇る、名刹であります。
平安遷都以前に出雲路にて創建され、 「毘沙門堂の花盛り」 と詠われる優美さを誇りましたが、
応仁の乱など数々の戦乱で衰退し、1665年に現在地・山科へ移転+再建+門跡寺院化。
再建後も 「花盛り」 ぶりは維持され、特に秋の紅葉は山寺の風情も相まって見事なものながら、
アクセスがよろしくないためか、長年に渡り 「知る人ぞ知る京の名所」 的存在だったとか。
そんな毘沙門堂に目を付けたのが、 「そうだ」 。で、以降、いわば 「みんなでシェアする穴場」 化。
秋ともなれば狭い参道をタクシーがバンバカ突っ走る光景が恒例になったわけです。
寺の方も寺の方で最近はライトアップも始め、何か積極的に 「見つか」 りに行ってる感じですが、
アクセスの不便さは変わらないためか、見事な風情と紅葉はかなり濃厚に生き続けてます。
というわけで、消費者エゴのみならず色んなエゴが飛行船のように膨張した私もまた、
やはり何かを 「見つけ」 て、自分をもっともっと好きになるべく山科へ出かけ、
鉛のツェッペリン号を燃やす炎の如き紅葉を観たのでした。

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勧修寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年11月26日(火)


勧修寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

昭和の匂いを感じる寺社、というのがあったりします。
無論、単純に設備が昭和期に整備された寺社なら、昭和を感じるのは当然ですが、
それ以外でも、サイズ感 or スケール感みたいな点で、昭和を感じることがあったりします。
要は、全体的に何か、大きい。妙な寂寞感を感じさせるような感じで、ダダっ広く、大きい。
より正確に言うなら、空間が埋まってない感じというか。あと、コンクリが効いてる感じというか。
昭和期のシネスコサイズの邦画でよく見かけそうな感じ、みたいな。こんな感じ、わかるでしょうか。
土地が比較的豊富で、かつ観光開発が比較的遅かった京都郊外&周辺部の寺社には、
こんな昭和的なるとこが点在してますが、山科の勧修寺にも私は似た印象を受けたりします。
勧修寺。 「かんじゅうじ」 でも 「きんじゅうじ」 でもなく、また、果汁寺でも加重寺でもない、勧修寺。
醍醐天皇母・藤原胤子の菩提を弔うべく、胤子の祖父・宮道弥益の邸を寺化した寺です。
その境内は、のちに秀吉伏見街道敷設で縮小されたものの、現在もなお広大な印象を与え、
何より借景とする周囲の山々と、境内に咲く四季の花が、雄大な印象を鮮やかにブースト。
また、京都でも屈指の古池であると言われる 「氷室の池」 を中心に造園された池泉舟遊式庭園は、
旧御所からの移築された伽藍の数々と共に、平安貴族の雅趣を現代へ伝えてくれてます。
と、昭和どころか平安時代にまで遡る立派過ぎな由緒を持つ門跡寺院なんですが、
伽藍以外の周辺整備が昭和期に行われたのか何なのか、全体のテイストはどこか、昭和チック。
特に山門までの景観は痺れるくらい昭和的であり、境内の庭園自体も何となく昭和的。
拝観チケット代わりの絵はがきまで昭和的で、更新の遅れた施設の趣がないでもないですが、
しかし勧修寺、ただ手をこまねいているわけでもないようで、近年、紅葉を整備。
年々と良い色を出すようになり、紅葉面でもじわじわと名所化してると言われてます。
そんな勧修寺の紅葉、ほぼ独り占めするような感じで見てきました。

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宝筐院へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年11月24日(日)


宝筐院へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

「筐体」 を、長らく 「とくたい」 と読んでいた阿呆は、この私です。
PC関連でよく見かけた、 「筐体」 。でも、生の読みを聞いたことが無かった 「筐体」 。
でも何となく、 「とく」 っぽいな。 「秘匿」 の 「匿」 の字にも、似てるしな。そうだ、多分、そうだ。
そんな阿呆な思い込み+日常で使うことがなかったため、己の中で定着してしまった、 「とくたい」。
恋人どころか友人さえロクにいない、孤立上等を謳う独男には、発生しがちな事態ではあります。
誤読の時期はかなり長く続き、ゆえに嵐山に建つこちらの宝筐院もまた 「ほうとくいん」 などと誤読し、
近所の人からは 「ほうとくさん」 と親しまれてるのではないかと勝手に妄想したりもしたのですが、
無論、宝筐院はあくまでも宝筐院であり、 「ほうとくいん」 でも 「ほうとくさん」 でもないのであります。
宝筐院。豊胸院でも豊頬院でもない、宝筐院。楠木正行 aka 小楠公ゆかりの寺です。
元々は平安末期に白河天皇が善入寺として創建し、これを後に夢窓国師の高弟・黙庵が再興。
黙庵は小楠公と交流を持っていたため、 四條畷の合戦で討ち死した小楠公の首級をこの寺に埋葬。
室町二代将軍・足利義詮は、この黙庵に帰依し、さらには黙庵の知り合いたる小楠公にもハマり、
ハマり過ぎて小楠公の隣に葬れと命じ、義詮と小楠公の菩提寺化+名前も宝筐院へ変更。
その後、応仁の乱でまた荒廃し、江戸期は天龍寺の末寺となり、幕末にはとうとう廃寺となりますが、
明治期にやはり小楠公にハマってた京都府知事・北垣国道が伽藍を復興、現在に至ります。
何かすぐ近所の祇王寺と似た経緯で再興された寺ですが、紅葉の方も祇王寺同様に良く、
嵐山の他の名刹と共に、秋ともなれば紅葉狩りの人民が押しかける寺なわけです。
そんな豊凶院でも宝鏡院でもない宝筐院、出かけてきました。

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赤山禅院へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年11月23日(土)


赤山禅院へ紅葉を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都御所から比叡山までを結ぶ、猿ライン。
「魔界としての京都」 が流行った頃によく聞いた言葉です。今も言うんでしょうか。
御所鬼門の猿ヶ辻から幸神社、そして赤山禅院から叡山へ、幾重にも設置された猿像たち。
猿は魔物を退治する力を持つため、これらの猿象は怨霊防衛線として配置されたのだと。
これが、猿ライン。身内の呪いに怯えまくる桓武帝が作った風水都市・京都らしい話ではあります。
「目ぼしいポイントを適当に線で結んだら、何でもかんでもレイラインになるんちゃうんか」 と、
大人の対応をしたくなる話ではありますが、しかし子供の夢を踏み潰さないのもまた、大人のマナー。
それに、猿ラインの中間点に立つ赤山禅院の、不思議かつ魅力的な雰囲気に触れたら、
「大人」 な方であっても、猿や鬼門や怨霊といった話に多少の信憑性を感じてしまうかも知れません。
赤山禅院比叡山延暦寺別院ながら、様々な神が入り交じる、魅惑の宗教施設であります。
平安期、遣唐使として中国へ渡った第三世天台座主・慈覚大師円仁は、帰国時に海難に遭遇。
その時に円仁を守護したのが、道教や陰陽道の神であり、閻魔大王とも見なされるという、泰山府君
円仁はこの神を日本へ勧進しようと決意しましたが、生きてるうちにはその願いが叶わず、
第四世天台座主・安慧が遺命を果たす形で、泰山府君を赤山大明神として888年に創建しました。
平安期は無論マジの鬼門守護を務め、現在も様々な神が様々なネイティブ信仰を篤く集め、
また 「失敗したら、自決」 で知られる叡山・千日回峰行の通過ポイントとしても有名な、赤山禅院。
しかし、 「赤山」 の名は紅葉の赤に由来すると言われるくらい、紅葉の名所としても著名です。
実際、その紅葉の色の素晴らしさと、神が入り交じる魅惑的な伽藍とのマッチングは、
「確かにここには、ただならぬ霊気が漂っている」 と、霊気の門外漢にも感じさせてくれます。
あと、拝観が無料だし。実はここが一番の人気を呼んでるポイントかも知れないけど。
そんな赤山禅院の紅葉、数珠供養の日に観に行ってみました。

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金戒光明寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年11月21日(木)


金戒光明寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

「黒谷って、谷というより丘という感じなのに、どうして谷と呼ぶんだろう」
会津小鉄って、京都の●●●なのに、どうして会津という地名が入ってるんだろう」
この2つの疑問に答えてくれるのが、「黒谷さん」 の呼称で知られる岡崎の金戒光明寺です。
金戒光明寺。知恩院知恩寺清浄華院と共に、浄土宗京都四箇本山を構成する寺であります。
浄土宗の開祖である法然は、若かりし頃に比叡山にて天台宗の教学を学んだことで知られますが、
その上人が叡山の黒谷を下り草庵を結んだ地 = 浄土宗初の寺院を建てた地こそ、ここ白川。
最初は 「新黒谷」 と呼ばれたそうですが、やがて 「新」 が取れ 「黒谷」 が呼称として定着。
というわけで、黒谷は黒谷であり、また黒谷さんなのであります。よろしいでしょうか。
第5世・恵顗の時、法然が見た光明に因んで正式名称を 「紫雲山光明寺」 と決めた黒谷さんは、
第8世・運空の時には後光厳天皇円頓戒を授け、そのおかげで 「金戒」 の2字をゲット。
寺運はどんどん隆盛し、多くの塔頭が立ち並ぶようになり、江戸期に入ると知恩院と同じく城郭化。
幕末に至ると、京都守護職としてやってきた会津藩士約1000名の本陣にもなりました。
その際、会津藩中間部屋頭の片腕として迎えられた男こそ、侠客・上坂仙吉、通称・小鉄です。
小鉄は、鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩士の遺体を、本陣を置いたこの寺に埋葬。
後に小鉄自身もこの寺に葬られましたが、それから色んなことがふにょふにょもごもごとなり、
さらに色んなことがふにょふにょもごもごとなり、結果、ふにょふにょもごもごということになりました。
というわけで、会津小鉄は会津でも京都の●●●なのであります。よろしいでしょうか。
「何ら答えにも説明にもなってない」 という話ではありますが、しかしそんな疑念も吹っ飛ぶほど、
金戒光明寺の紅葉は、独特のロケーションも相まって実に素晴らしいものとなってます。
寺側は庭園の有料拝観を推してますが、タダで観れる境内の紅葉も極めて、ナイス。
貧乏+吝嗇+美に正直な私は、無論タダの紅葉を堪能させてもらいました。

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宝厳院の秋の夜間特別拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年12月9日(日)


宝厳院の秋の夜間特別拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

東山に立つ禅刹・高台寺の、その和風テーマパークぶり
特に春秋のライトアップとなれば、開基・北政所ねねの夫である豊臣秀吉の魂が、
下世話さのみを抽出して再生されたかの如く、境内は絢爛&ケバケバしき輝きが、溢れまくり。
人によっては 「商業主義」 「それでも禅寺か」 と眉を顰めるような世界が現出してしまうわけですが、
しかし、90年代の改装で生まれたこの輝きが、京都観光の夜の姿を変えたのもまた、事実。
多くの寺院が追随してライトアップを始め、光へ群がる虫の如きカップルどもを動員するようになり、
近年に庭園を整備した寺では、桜も紅葉も、照明で自在に出現させる所さえ現れました。
嵐山を代表する禅刹・天龍寺の塔頭であり、近年大堰川沿いへ移転した宝厳院も、そんな寺です。
室町時代に上京区で創建されたものの、応仁の乱で焼失+同じ天龍寺塔頭の弘源寺へ移転、
21世紀に入って、これまた天龍寺塔頭であった妙智院の跡地へ移転を果たした、宝厳院。
個人所有の別荘だった時代が続いた敷地には、別荘時代に作られた大正期の書院や、
妙智院時代の遺産である 「獅子吼の庭」 、現代数奇屋の新築本堂など、それなりに見所、多し。
ですが、この寺の一番の見所は何といっても 「高台寺以後」 を強く感じさせる照明でしょう。
12月を過ぎ、紅葉の大半が散ってもなお、庭園に 「紅葉」 がある気にさせる、照明。
やり過ぎを通り越して、「そもそも紅葉とは何だ」 と思わず根源的疑問さえ発したくなるその輝きは、
「存在しない紅葉を見る」 という、ある意味で枯山水にも似た禅的境地へと俗人を誘い、
さらには、電飾庭を枯山水の 「次」 の様式として確立せんとする試みなのかも知れません。
と、書いてる自分でさえ阿呆らし過ぎて呆れてしまう戯言はどうでもいいとして、
とにかくそんな宝厳院の秋の夜間拝観、完全に真冬ではありますが、行ってきました。
折りしも嵐山は、紅葉が枯れた山を電飾で照らす無理矢理集客策・嵐山花灯路を、開催中。
無意味に青く光る嵐山を借景として、幻覚の紅葉を楽しんでみたというわけです。
冬の嵯峨野を彩る禅のエレクトリカルパレード、とくと御覧下さい。

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蓮華寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年11月28日(水)


蓮華寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

穴場。
自分が可愛くてしょうがない人達が、すぐに飛びつくワードです。
美しい紅葉が、観たい。あまり人がいないところで、観たい。何なら、独占して、観たい。
できれば、自分しか知らないものとして、観たい。それも、自分が見つけたものとして、観たい。
そして、自分しか知らない穴場を自分で見つけた自分を、もっともっと、好きになりたい。
でも、そのための努力は、特にしたくない。むしろ絶対に、したくない。したら何か、負けな気がする。
「京都 紅葉 穴場」 くらいの検索で、すぐ見つかるものでなくてはならない。というか、そうしろよ。
こんな無駄な長文書いてる暇があったら、もっと有益な情報を共有しろよ、この糞野郎。
と、こんな感じの狂った人達が、肥大したエゴを垂れ流しながら大挙して狭い寺へ強襲をかけ、
あちこちの京都ブログに 「京都 紅葉 穴場」 の検索ワードが落葉の如く積もる、京の秋。
「穴場として有名」 という、日本語として狂ったワードで有名な洛北・上高野の名刹・蓮華寺にも、
そんな自分が可愛くてしょうがない人達が、自分だけの何かを求め、押し寄せます。
江戸初期、加賀前田藩の老臣・今枝民部近義が祖父への菩提の心から再興したという、蓮華寺。
その造営にあたっては、やはり 「超メジャー級の穴場」 詩仙堂石川丈山を始めとして、
朱子学者・木下順庵画家・狩野探幽隠元禅師など、同時代における錚々たる文化人が助力。
丈山作庭とも伝わる池泉庭園、黄檗禅の様式の本堂、そして蓮華寺形灯籠などなど、
良い時代と良い人に恵まれて作り上げられた境内は、小さいながらも高い完成度を誇ってます。
故に穴場としての魅力を強く放ち、故に 「穴場として有名」 になってしまった、蓮華寺。
こうなるともう、ある種のベタです。穴場だろうが何だろうが、明らかにベタです。
であれば、不毛な穴場探しを排し、ベタの単独特攻が趣旨のうちも行かねばならぬと、
早くも紅葉が散り始めている洛北へ出かけたのでした。

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金閣寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年11月25日(日)


金閣寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

「また焼いたるぞ」 。
昭和25年7月3日、21歳の学僧による放火で金閣が全焼した翌日、
住職・村上慈海との会見を許された産経新聞記者・福田定一、のちの司馬遼太郎が、
庫裏の黒板に書かれてるのを見て 「異常な気分になった」 という言葉です。(水上勉 『金閣炎上』
再建前の金閣が、狂気に近い嫉妬を駆らせるほど美しかったのか、私にはよくわかりません。
水上三島の作品で、紙面から精液の匂いがしそうなほど独男的に描かれた学僧の、
恐らく実際その通りであっただろう心の内も、わかるような気はするけど、正直よくわかりません。
でも、その場の勢いで思わず黒板に 「また焼いたるぞ」 と書いてしまうような、
ボンクラ極まる調子乗りたちの持ってた 「異常な気分」 は、少しわかるような気がします。
超メジャーな観光寺院として金が入りまくり、宗教面と齟齬を起こしてたという、当時の金閣寺。
そんな矛盾の中で、札束の海へ泳ぐのでもなく、放火テロで腐敗を弾劾するのでもなく、
時折憂い、時折おちょくり、時折怒ったりしながら、その場にへばりつき続ける、大半の凡夫たち。
その姿は、歴史や文化に深い愛情や尊敬の念を抱くと共に、冷笑&嘲笑もやらかし、
「金にならんかな」 てなことも思いつつ、こんなサイトやってる自分と変わらぬものに思えるのです。
と同時に、凡夫に支えられ、焼かれることもなく、美を提供し続ける再建金閣そのものが、
金欲と信仰の矛盾の真っ只中を生き、伝統を誇りながらも実は大して古いものはない京都の、
美の側面と俗の側面を極限までデフォルメした自画像のようにも思えたりするのです。
ある意味で、金閣は最も京都的な寺なのかも知れません。故に、地元からは忌避されるという。
あなた、そう思いませんか。全然、思いませんか。実は私も、あんまり思いません。
そんな金閣、秋の紅葉大混雑シーズンに、銀閣に続き特攻してみました。
炎のような紅葉に囲まれた美と俗の様、ご覧ください。

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銀閣寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年11月25日(日)


銀閣寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

うちのモットーは、京都メジャースポットの単独正面突破です。
である以上、金閣寺銀閣寺は、絶対に避けるわけにはいかないスポットです。
しかも、金閣寺は、実に独男臭い奴が燃やした寺。銀閣寺は、実に独男臭い奴が建てた寺。
本来なら、真っ先に特攻をかけてなければいけません。しかし、今まで行くのを躊躇していました。
何故か。それは、行くのが面倒臭いからです。どっちも私の家から、何となく遠いからです。
京阪沿線に住む私にとって、金閣寺はあからさまに、遠い。銀閣寺は、出町柳から微妙に、遠い。
微妙に遠いのはキング・清水寺も同じなんですが、あそこは諸般の事情で近くをよく通るし、
ライトアップや行事各種など、「行かねばならぬ」 と腰を上げさせられるイベントが多く催されます。
しかし金閣&銀閣は、そういうのが、あんまりありません。ライトアップとかも、ありません。
何か、行く機会がないのです。行く機会というか、行く気を起こす機会がないのです。
そんな感じで、「そのうち行く」 「何かあったら行く」 「行こうと思えば何時でも行ける」 とか思いつつ、
結局は金閣&銀閣、さらには清水寺さえ行かないまま一生を終える多くの京都人と同じく、
私もまた 「どうせ絶対行くから」 と思いながら、一向に足が向かなかったのでした。
これは、いかん。こんな怠惰な理由で必須スポットを放置するのは、どう考えても、いかん。
というわけで、敢えて最も混みそうな紅葉ピークの連休日曜に、金閣&銀閣を連続特攻しました。
こちらの記事は、その前半戦にあたる銀閣寺篇。寺が出来たのと、順番が逆ですが。
何故逆かといえば、義政の幽玄の美を先に見ることで、義満の絢爛さを浮き立たせてみようと、
深遠なことを考えたためではなく、単に銀閣の方が京阪の駅に近いからであります。
あ、銀閣寺の説明、要りますか。ああ、要りますか。そうですか。
でも面倒なので、しません。自分で調べてください。

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等持院へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年11月21日(水)


等持院へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

かつて時代祭「室町時代」 はありませんでした。
理由は、室町幕府を開いた足利尊氏が、天皇に刃を向けた 「逆賊」 だから。
いや、冗談ではありません。本当です。 「逆賊」 ゆえ、実に2007年に至るまでなかったのです。
金閣寺&銀閣寺という超キング級の観光資源を残し、多くの文化が花開いた、室町時代。
親族間の揉め事から都市を焼き尽くすという鬼畜の所業・応仁の乱もやらかしてはいますが、
何であれ、京都にとって極めて重要な時代であることは、疑う余地がありません。
しかし、時代祭に 「室町時代」 はなかった。祭が開始されてから100年もの間、なかった。
もちろん、開始された明治期における尊皇の風潮は無視できませんが、それを全て差し引いても、
京都における室町時代、いや足利尊氏の影の薄さ・人気の無さは、なかなかなものです。
尊氏、そして歴代足利将軍の墓が祀られる等持院にも、そんな不人気は、色濃く反映されています。
天龍寺創建で組んだ夢窓疎石と共に、尊氏が、兵士を祀るため作り上げた、等持院。
実に立派な寺ですが、かつてここで修行していた水上勉『私版京都図絵』 でボヤいてる通り、
財政の悪化した寺は境内の土地を次々と切り売りして、周囲は民家が林立&完全包囲。
庭園の向こうには立命館の学舎が奇怪な借景を演出し、墓地もまた分断。ある意味、凄いです。
伽藍も映画へ貸し出して、日本映画の父・マキノ省三はここに 「等持院撮影所」 を設立。
おかげで、境内にはまるで開基のような顔でマキノ先生像が屹立しています。
尊氏さんよ、これではあんたがあまりにも可哀想だ。あんたは結構、いい仕事したんだよ。
そんな思いを、尊氏の墓へ伝えるために等持院へ赴いた、というのは全く嘘で、
ただただ紅葉を観るためだけに出かけたのでした。

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法金剛院へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年11月21日(水)


法金剛院へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

花園の地に建つ、法金剛院
名前だけ見ると、「金剛」 の字面と濁音感、「法」 から分泌されるスクエアさ、
そして 「花園」 の醸し出すラグビー感が、何となく男の子向けなイメージを沸かせる寺です。
「超合金みたいな体の坊主が、精神棒持って仁王立ちしたり、スクラム組んだりしてる」 みたいな。
しかし実際の法金剛院は、蓮を始めとする四季折々の花、苑池を生かした浄土式庭園
そして、開基・待賢門院の失われた愛が売りの、極めて女の子向け寺院であります。
古来よりの名勝・双ヶ丘の東麓にあるこの地は、元々は平安初期の右大臣・清原夏野の山荘。
雅なる詩歌管弦の宴が催され、天皇の行事もあったそうですが、夏野の死後は、荒廃。
その地を新たに法金剛院として復興したのが、白河法皇の寵愛を受けた、待賢門院璋子でした。
7歳にして白河院の養女となり、何というか、恐らくは書けないような方面において深く愛され、
愛されるままその皇子・鳥羽天皇の嫁となり、どちらの子かわからん崇徳天皇を生み、
おかげで白河院の死後は果てしなく凋落、鳥羽院も若い女・美福門院にガンガン走ってしまい、
孤独なメンヘラ&クラッシャー魂を、現世の極楽浄土・法金剛院の建立で癒した、璋子。
現代の独男からすると、理解不能を越えて面白がるしかしょうがない共感不能な生涯ですが、
メンヘラ&クラッシャーは時代を超えて共感不能だったのか、寺は鎌倉期以降、衰退。
融通念仏で有名な円覚上人が再興を果たしますが、それも応仁の乱でパー。
江戸期にはとことん荒れ果て狭くなり、明治後は道路と山陰線に境内の南側をぶん取られ、
昭和も後半になって、ようやく創建時の庭園が発掘・再現され、現在に至ります。
そんな法金剛院、紅葉もまた、見もの。なので、見てきました。
妙に色濃い昭和感と共に、花園の秋、ご覧下さい。

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今熊野観音寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年11月21日(水)


今熊野観音寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

今熊野観音寺。イマクマノカンノンジ。
「今熊野」 だったり 「新熊野」 だったりと、漢字表記が揺れがちなイマクマノですが、
正式名称はその 「イマクマノ」 が付かない、単なる 「観音寺」 だったりする、今熊野観音寺。
新熊野神社の本地堂として、御寺・泉涌寺の塔頭として、またそれ以前から始まる長い歴史を持ち、
頭痛封じの御利益で現在もなお極めてネイティブな信仰を集め続けている寺です。
開基は、かの空海。東寺で修行してた弘法大師が、東山に光を見出し、この地で熊野権現と遭遇。
白髪の老翁の姿をした権現から、十一観音と宝印を授けられました。で、観音寺、創建。
平安時代の観音寺は、観音信仰、ぞして熊野信仰の霊場として大いに信仰を集めたそうですが、
末期になって超熊野フリーク&超頭痛持ちの後白河院が、近所に法住寺殿を建設。
院は、頭痛持ちの強迫的な脳内パースペクティブをそのまま具現化したような三十三間堂と共に、
はるばる熊野の地から神のみならず木や土まで勧請した新熊野神社も、創建。
近所である観音寺は、新熊野神社の本地堂とされ、「今熊野観音寺」 と呼ばれるようになりました。
後白河院ゆかりである頭痛封じの御利益も人気を呼び、寺運が上がった観音寺でしたが、
応仁の乱で全てがパーとなり、江戸期に泉涌寺の塔頭として再興、そのまま現在に至ってます。
しかし、他の 「御寺の塔頭」 と比べると、今熊野観音寺のビジュアルは極めて独特であり、
周囲を取り囲む大自然もまた、泉涌寺より何かしら濃厚な霊気を放ってて、独特。
で、この大自然が、秋には実に渋くて良い紅葉を見せてくれるわけです。
おまけに、拝観無料。「紅葉まつり」 として、茶屋も出るため、静かに人気上昇中。
そんな今熊野観音寺の、なうな紅葉、見てきました。

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真如堂へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年11月19日(月)


真如堂へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

真如堂。本名、真正極楽寺
境内に入るだけなら、拝観料が要らないことで有名な寺です。
そして、無料の割に、境内の紅葉がとんでもないクオリティであることでも有名な寺です。
さらに、無料で紅葉が見れる割に、とんでもない大混雑にならないのが不思議だったりする寺です。
平安中期、一条天皇の母御&円融天皇の女御である藤原詮子 aka 東三条院の夢の中と、
比叡山・戒算上人の夢の中へ、阿弥陀如来が同時に現れ 「女人を救う。山から下ろせ」 と、お告げ。
そのお告げに従う形で、かの慈覚大師円仁が光る霊木から掘り出したという阿弥陀如来像を、
真正極楽の霊地・神楽岡にあった女院の離宮へ遷座して、真如堂は生まれました。
お告げで宣言されてた通り、地獄の如き京の日々を必死で生きる女性達から篤い信仰を集め、
中には地獄を生んだ日野富子や、地獄を生んだ男を生んだ桂昌院なども、信仰。
現在も、大涅槃図公開や宝物虫払会、またお十夜などには、多くの女性が集まります。
と、何となく独男には関係なさげというか、女子向きとも思える由緒を持ってる真如堂ですが、
では女性に優しいテイストの小じんまりした寺かといえば、全然そんなことありません。
むしろ、巨大。 「真如堂」 の通名の由来となった本堂などは、京都市内の天台宗では、最大級。
可愛いか可愛くないかで言えば、正直すまんですが、可愛くないのであります。
三井家の菩提寺なのも、特にこれといった理由はないんですが、可愛くないのであります。
そのおかげで、これだけの紅葉をタダで見れるんですが、可愛くないのであります。
逆に言えば、その可愛げのなさみたいなものが、ある種のストッパーになって、
無料にも拘らず殺人的な混雑にならない気がするんですが、あなた、どう思いますか。
とにかくそんな真如堂の紅葉、閉門間際に覗いてみました。

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圓光寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年11月19日(月)


圓光寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

圓光寺
円光寺のようでいて、園光寺のようでもいて、実は圓光寺という、圓光寺です。
活字を探すのが何となく面倒くさそうな、そして変換するのは実際に面倒くさい、「圓」 という文字。
そんなややこしい字を堂々と名に掲げる圓光寺の、強気とも言えるスタンスを支えているのは、
この寺が日本最古と言われる楷書の木製活字を所蔵してるという事実に他なりません。
徳川家康によって伏見へ招かれ、この圓光寺を学問所として建立した、開山・三要元佶禅師。
金地院崇伝と共に家康のブレーンとして寺社奉行の任に当たっていた三要ですが、
朱印船関連の仕事もこなし、朝鮮役の際に輸入された十万に及ぶ木版活字の管理も任されました。
この活字こそが、 『貞観政要』 『武経七書』 『孔子家語』 などの書が上梓される際に用いられ、
印刷された書物が 「伏見版」 or 「圓光寺版」 と称される、日本最古の木製活字。
家康の駿府隠居後、寺は伏見から相国寺、そして現在地の洛北一乗寺へと移転を繰り返しますが、
無論、木活字は時代の変遷を超えて大切に保管され続け、現在に至っています。
活字を大事にしてる寺なのです。なので、面倒でも 「円」 とか 「園」 を使ってはいけないのです。
まして 「援交寺」 などという脳が腐ったような不埒な当て字は、決して許されないのです。
そんな圓光寺、明治維新の波乱で一旦は荒廃しますが、のちに尼衆専門道場として、再興。
「援交」 どころか男子禁制の時代が続いたそうですが、近年は観光客の拝観も活性化。
近所の詩仙堂曼殊院などと共に渋寺ゾーンを形成し、人気を呼んでます。
紅葉シーズンは特に人気で、池泉庭園 「十牛の庭」 や水琴窟へ落ちる落葉を目当てに、
老若男女がえんやこらと一乗寺の坂を登る姿が散見できたりするわけです。
そんな圓光寺の紅葉、潜りこんで拝んできました。

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金福寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年11月19日(月)


金福寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

洛北・一乗寺に立つ禅坊、金福寺
「金が貯まって福来たる」 という、現世利益大爆発の寺というわけでは、ありません。
むしろ、その逆です。侘びと寂びの風味を全面に押し出した渋き草庵・芭蕉庵で知られる寺です。
もともとは貞観年間、やたらあちこちに寺を作った慈覚大師円仁の遺志を安恵僧都が継ぎ、
大師自作の聖観音菩薩像を本尊とする天台宗の寺として創建されるも、のちに荒廃。
江戸中期に至って、近所の圓光寺・鉄舟和尚が臨済宗南禅寺派の寺として再興しますが、
この鉄舟がかの俳聖・松尾芭蕉と友達であったため、金福寺は一気に寂への道を歩み始めます。
京都を訪れた芭蕉は、たびたびこの禅坊を訪れ、風雅の道について鉄舟と語り合ったとか。
そして、裏山に建つボロ小屋を見て、こんな句を詠みました。 「憂き我を さびしがらせよ 閑古鳥」。
その句に感動した鉄舟は芭蕉の高風を偲ぶべく、このボロ小屋を 「芭蕉庵」 と命名。
「芭蕉庵」 の名は、近所の村人にまで浸透するようになりましたが、鉄舟が死ぬと寺はまた、荒廃。
熱烈な芭蕉ファンであった与謝蕪村は、荒廃しきった芭蕉庵を憂い、一門と共にまた、再興。
再興の経緯を 『洛東芭蕉庵再興記』 へしたためたると共に、庵の落成時には、
「耳目肺腸 ここに玉巻く 芭蕉庵」 と、耳や目や肺や腸から零れ落ちる喜びを表す句も残しました。
と、俳句に興味ない人間にとっては 「だから何だ」 なエピソードがテンコ盛りの金福寺ですが、
そんな教養のない私にも、そして貴方にも、この寺の紅葉の美しさは理解できるはず。
寂全開でモノクロームな存在感を放つ芭蕉庵に、色を添える紅葉。いいです。凄く、いいです。
なので人もいっぱい来ます。「穴場」 を欲しがるような人が、いっぱい来ます。
そんな人達で大混雑の金福寺、行ってみました。

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祇王寺へ紅葉を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年12月8日(木)


祇王寺へ紅葉を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

祇王寺
平家物語における白拍子祇王の悲恋伝説で有名な、奥嵯峨の寺です。
近江・野州で平家家人の娘に生まれるも、父が死に、母&妹と共に京都で白拍子となった、祇王。
その美しさと華麗な舞から、驕る平家全開&DQNモードの平清盛に寵愛され、
大金+名声+故郷の水不足を解決する祇王井川開削までゲットしますが、しかし、好事魔多し。
強硬に舞プレゼンを願う16歳の仏御前を、お情けで清盛にとりなしてやったら、
清盛一発で心変わり+祇王叩き出し+仏御前の余興のためだけに再度呼び出し&再度叩き出し。
「萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いずれか秋に あわで果つべし」。
やっとられんわという思いでこのような歌を詠み、祇王&妹&母は洛外へ脱出+出家。
その出家の場所が、この祇王寺と言われてます。他にも諸説はありますが。
山里で念仏三昧の日々を送る尼母娘3人組には、祇王没落の原因となった仏御前も、のちに合流。
どうせ自分も、いずれ似た運命を辿るのだ。いずれか秋にあわで、果つるのだ。
愛欲の諸行無常を知る者同士で連携を深めた四人は、チームワークで念仏三昧へ没頭、
全員がめでたく往生を遂げたといいます。「われらも遂には仏なり」と。
愛欲の諸行無常にも、逆にDQN性質を発揮する権力・金力・精力にも無縁の独男には、
かなり関係のない寺ではありますが、とりあえず紅葉シーズンのラストですし、
一人で数時間座り込む女性がいるというディープさも面白そうなので、興味本位で出かけてみました。

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千本釈迦堂の大根焚きに行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年12月8日(木)


千本釈迦堂の大根焚きに行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都の冬の到来を告げる、師走の風物詩・大根焚き
鳴滝の了徳寺や、その近所の三寳寺も有名ですが、やはり大根焚きといえば、千本釈迦堂
鎌倉時代に茲禅上人が大根の切り口に梵字を書き魔除けにしたのが始まりとされ、
現代に至るまで中風&諸病除けの御利益を求め人々が食し続ける、実に歴史ある大根焚きです。
集められた大根を加持祈祷して輪切りにし、大鍋で煮込み参拝者に振舞うその様は、
「京都の師走の風物詩」という感じのニュースなどで目にした方も多いでしょう。
そう、京都の大根焚きが取り上げられる際、出てくるのは大抵、ここです。
もちろん他の大根焚きも、特に了徳寺の大根焚きは結構な頻度で取り上げられますが、
どこが一番メジャーかと考えるなら、千本釈迦堂ということになるんじゃないでしょうか。
でも、何でやろ。何か違いって、あったっけ。人気とか動員数とかの問題か。
味の違いやろか。味やったら、僕、三寳寺が一番好きやけど。一番ようしゅんでたし。
と、アホなことを考えてると、思いつきました。千本釈迦堂の大根焚きって、野外でやるやん。
了徳寺と三寳寺がお堂の中で食するの対し、千本釈迦堂はお堂の外。
どこの大根焚きも狭いところが超混雑状況となりますが、室内での混雑はカメラ置きにくし。
より取材しやすい千本釈迦堂に、マスコミは行くようになった。そうや、きっとそうや。
と、やはりアホなことを考えながら、大根、食べに行きました。
当日は、雨。「お堂の外で食べる」のが、完全に裏目に出たシチュエーションでございました。

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高桐院へ紅葉を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

2011年12月4日(日)


高桐院へ紅葉を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

高桐院
美しき禅寺・大徳寺の、美しき塔頭です。
秀吉による信長の菩提寺・総見院の建立以降、大徳寺では武将の塔頭建立が相次ぎますが、
こちらの高桐院もまた、細川忠興 aka 三斎が、父・幽斉の菩提所として創建。
戦国時代きっての冷徹な智将にして、キリシタン&明智光秀の娘・ガラシャを嫁とし
隠居後は茶の道も究め三斎流の開祖ともなった、細川忠興。
かの千利休は、利休七哲の一人として認めるほどこの三斎が気に入ってたようで、
こちらの高桐院には利休邸からの移築されたと伝えられる書院・意北軒が残り、
また、北野大茶湯のために作られ利休の茶を忠実に継承したとされる茶室・松向軒も、設置。
さらに利休は、自らの灯籠を三斎の墓塔として贈り、これを気に入った秀吉が横取りしようとすると、
「こっちの方が風流だ」と塔の一部を削るなどという、実に性格の悪いことをやらかしたそうです。
心温まるんだか温まらないんだかよくわからんそんな数々の伝承と共に、
三斎&ガラシャ、三斎の三回忌に殉死した興津弥五衛門、そして何故か出雲阿国が眠る、高桐院。
年中無休で拝観謝絶の塔頭が多い大徳寺にあって、こちらは常時、拝観を受入。
もちろん紅葉シーズンも開いてます。そしてもちろん、混みます。
紅葉がすっかり落ちた頃に出かけましたが、それでも全然、混んでました。

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高台寺の秋の夜間特別拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年12月1日(木)


高台寺の秋の夜間特別拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

高台寺が、好きです。特に、夜の高台寺が、好きです。
はっきり言って、客層は独男にとって最低です。特に、ライトアップ時の客層は最低です。
実際、この夜の客層も最低でした。今まで行った秋の夜間拝観も、ほぼ外れなしで最低でした。
しかし、それでも、好きです。レトリックで言ってるのではありません。本当に、好きです。
何故そんなに好きかといえば、多分、この寺が率直だからでしょう。
夜間拝観を断行した同寺塔頭・圓徳院の住職・後藤典生氏は、著書『高台寺物語』にこう書いてます。
「私がライトアップを発想したもっとも大きな理由は、参拝客を増やしたいと思ったからです」。
わかりやすい。わかりやす過ぎて禅問答な気にさえなりますが、言い分はこうです。
全盛期の1/10にまで縮小した伽藍を再建したい、と。百年かかるが再建したい、と。で、金が要る、と。
そんなシンプルかつストレートな理由で、高台寺は1994年にライトアップを開始します。
寺によっては、渋さとしょぼさを意図的に混同したような照明が設定される夜間拝観ですが、
「金が欲しい」という根本動機にブレのない高台寺は、常に衒うことなく絢爛さを発揮。
「商業主義」「それでも禅寺か」「まるで和風テーマパーク」などと言われながらも、
拝観客は増えまくり、廃墟同然の状態から一転、京都随一の観光寺院の座を獲得するに至りました。
その稼ぎまくる姿に私は、率直さや大らかさ、清々しさといったものを感じます。
そしてその率直さ・大らかさ・清清しさといったものは、高台寺を建立した北政所ねねの、
夫・秀吉の配下たちを惹きつけた人柄と共通したものなのかも知れない、と思ったりもします。
私はそんな高台寺が、好きです。2011年秋の夜間拝観も、もちろん行きました。

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圓徳院の秋の夜間特別拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年12月1日(木)


圓徳院の秋の夜間特別拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

圓徳院
いわずと知れた高台寺塔頭であり、同寺を建立した北政所ねねの終焉の地です。
夫・豊臣秀吉の死後、ねねは京都で隠棲を始め、「高台院」の名にちなんだ高台寺の建立を発願。
秀吉好みのギンギラギン仕様だったという伏見城から資材を流用して伽藍を整備しつつ、
やはり伏見城より化粧御殿と庭園を山内へ移築、そこへ住み、そしてその生涯を終えました。
ねねの死後、ねねの兄・木下家定の次男・利房はこの場所を寺化することを思いつき、
寛永9年、木下家の菩提寺にして高台寺塔頭である圓徳院は創建されたわけです。
が、そんなことに興味があってここを訪れる人は、稀でしょう。
参道・ねねの道まで抱き込んだ形で、大幅な観光リニューアルが施された90年台以降、
わかりやすい観光客が大挙して押し寄せるドメジャースポットへ急成長した、高台寺&圓徳院。
最盛期の1/10にまで縮小した境内伽藍を復活させたいという寺の想いは、
開き直りを通り越して清々しさや悟りの境地さえ感じさせる、飽くなき集金への情熱と直結。
「和風テーマパーク」という呼称が皮肉ではなく単なる事実でしかない境内を生み出し、
毎年行われるライトアップには、悟りもひったくれもない客が大勢集まるようになりました。
派手な伽藍とビジュアルを持つ高台寺にその傾向がより顕著ですが、
高台寺より狭い圓徳院は、その由来から逆に「ねねの愛」といったものを積極的にアピール。
「何か和で、愛で、優しい感じ」という、よりカップルを吸い寄せがちな何かになっとるのであります。
そんな圓徳院の、ちょっと遅めな紅葉真っ盛りのライトアップ。
和の心を持たず、愛を知らず、優しくない独男は、入ることができるのでしょうか。

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