井手町・玉川堤へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年4月6日(水)


井手町・玉川堤へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

井手町。京都府南部にあって、元来は晩春に咲く山吹で広く知られた町です。
この町が立地する扇状地を作ったのは、木津川へ注ぐ玉川。山吹が多く咲いたのも、この玉川。
万葉集の編纂で名高い井手左大臣・橘諸兄は、この地を本拠地とし、玉川の堤へ山吹も植え、
更にはその風雅を讃える和歌を巷間に広めて、「ゐで」 を歌枕の定番の地位にまで押し上げました。
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   かはづ鳴く ゐでの山吹 散りにけり 花のさかりに あはましものを by 名無し
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そんな 「ゐでの山吹」 に、散るどころではない壊滅的ダメージを与えたのが、南山城大水害です。
1953年8月15日未明、豪雨により上流の池が決壊し、玉川には吸収不能な量の水が流れ込みます。
扇状地上の井手町は、濁流に呑み込まれて完全に浸水し、107人の死者が出るほど被害が激化。
玉川そのものも、名物である山吹や蛙などを含む生態系が押し流され、その姿を失いました。
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   くだつ世は 悲しきかなや いにしえの 井手の玉川 みる影もなし by 吉井勇
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南山城大水害後の玉川は、住民の安全維持を最優先に考える方向で改修が行われました。
水害防止の為に築かれたコンクリート護岸は、川の姿と、人々と自然の関係を、大きく変えたとか。
しかし、名物である山吹はその後、住民の熱意により復活。そして、桜という新たな名物もまた誕生。
植樹されたこの約500本の桜は、山吹より一足先に、川面の上へ花のトンネルを作り出すのです。
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   山吹を 待っとられんわと さくら満つ 井手の玉川 うどんも美味い by 独虚坊
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私は以前、井手町の讃岐うどんの名店・たなか家を訪れた際、偶然に玉川の桜を観て、驚きました。
凄い、と。こんな所にこんな凄い桜があるのか、と。府にはまだまだ色んな所があるんだな、と。
というわけで今回は、その感動を孤独な同志の皆様にも伝えるべく、桜満開の井手・玉川を訪問。
無論、うどんもこの感動の内なので、爆食@たなか家も込みでの桜見物です。

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伏見桃山城へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年4月2日(木)


伏見桃山城へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

再生産への強い欲求を示す数多くのエピソードを残しながらも、
その欲求の報われなさ加減に、ある種の 「呪い」 の存在さえ考えたくなる、豊臣秀吉
実子かどうかも怪しい実子・秀頼など、遺された豊臣宗家が辿った末路の悲惨さは言うに及ばず、
バカスカ建てまくり桃山文化を築いた豪華絢爛たる建築物もまた、その多くが現存しません。
無論それら建築物の破壊は、極めて現実的な政治的都合に左右された結果の場合が大半ですが、
中には、聚楽第のように存命中の秀吉自身が半狂乱で地上から完全抹殺したものもあったり、
昭和期まで生き残ったにも関わらず火災で焼失してしまった方広寺の大仏みたいなのもあったりと、
その 「跡」 の残らなさ加減は、何かの魔力、それこそ 「呪い」 の存在を勘ぐりたくなるほどです。
聚楽第&方広寺大仏の消滅が示す通り、京都はその 「呪い」 の傾向が異様なまでに顕著であり、
町を改造されて怒り心頭の町衆や、洛外へ強制移転させられて恨み骨髄の寺の坊主たちが、
1000年単位の呪いを集団でかけたんじゃないかとか思ったりするんですが、あなたどう思いますか。
で、今回訪れた伏見桃山城もまた、そんな 「呪い」 が作用してると思えてしまうスポットです。
秀吉が死した城・伏見城を、名城のエッセンスを寄せ集める形で昭和期に再建された、伏見桃山城。
築城された当時は近鉄電車が管理を行い、城の隣には 「キャッスルランド」 なる遊園地も開園、
城と一体化したレジャー施設としてそれなりの存在感を示してましたが、90年代以降は競合で苦戦。
結局、2003年に 「キャッスルランド」 が閉園し、ついでに城の管理も近鉄は放棄&京都市へ譲渡。
城の解体は何とか免れましたが、耐震性に問題があり、対策費用を捻出できないことも発覚し、
現在は内部への出入は完全禁止となり、昭和元禄の遺産としての存在感を日々増してます。
これはもう、 「呪い」 です。再建であっても、秀吉ゆかりの建造物は、京都では生き残れないのです。
と、適当過ぎる冗談はともかくとして、この昭和遺産に於いて近年良い感じで咲いてるのが、桜。
「呪い」 に対抗して秀吉の遺恨が作用したのか何なのか、大量の桜が見事に咲くようになりました。
あるいはその美しさもまた、城が孕む破滅の予兆に感応してのものかも知れませんが、
「夢の跡」 を模した 「夢」 の抜け殻に咲く夢、とにかく観てきました。

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霊鑑寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年11月27日(木)


霊鑑寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

「霊感って、あった方がいいのかも知れない」 と思ったのは、
ずっとずっと昔、叡山電車で客層をリサーチする日雇いバイトをやった時のことでした。
ペアを組んでやる仕事だったんですが、私の相方は四国から来たというDQN上がりの兄ちゃん。
私は、出身地のガラの悪さゆえDNQ耐性があり、割と気さくに接してたつもりだったんですが、
兄ちゃんは何か私に接し難そうで、気まずい沈黙が続いた後、おもむろに霊感話を始めたのです。
同類と見込まれたのでもなく、またオルグでもなく、単に話題が無いから話してるのは、明白。
申し訳なく思った私は、一応 「ですよね・・・」 的な相槌を打ってたんですが、同時に思ったのでした。
霊感は使える、と。適当な距離感を保ちながら、妙な親密さをも生むこの霊感は、使える、と。
素性の知れない独男同志が、短時間の内にある程度の親密さをなるべく当たり障り無く醸成できる、
寝技 or 腹芸的とも言えるコミュニケーション・ツールとして、霊感を少し考えたみたのでした。
独男の 「寝技」 といえば、床屋軍談から宮崎駿の悪口まで、何かと不毛なものになりがちです。
しかし、最初から不毛というか実体が無い霊感は、案外いいツールになり得るんじゃないでしょうか。
というわけで、話は霊鑑寺であります。 「霊感寺」 などではなく、あくまで霊鑑寺であります。
「忍」 の帝・後水尾天皇より山号&寺号を勅許されると同時に、皇女皇孫が次々と得度入寺し始め、
維新へ至るまでに5人の皇族が入寺した、臨済宗南禅寺派の尼門跡寺院・円成山霊鑑寺。
そんなロイヤルな尼寺に対して、霊感がどうこうなどと駄洒落るなど、不敬極まる話ではありますが、
でも、ここの本尊は霊感、もとい霊鑑 = 鏡を持ってるんだから、まあいいじゃないですか。
それに、この寺の名物である御所人形は霊より恐い顔をしてるので、まあいいじゃないですか。
などと書けばさらに不敬極まりますが、とにかくそんな霊鑑寺、普段はロイヤルゆえ拝観は謝絶。
ただ、後水尾天皇遺愛の日光椿が咲く春と、紅葉が見事な秋には、特別拝観を実施。
というわけで今回は、霊ではなく紅葉を観賞に行ってきました。

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立本寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年4月4日(木)


立本寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都市上京区には、 「元●●寺町」 みたいな地名が多くあります。
「元真如堂町」 とか 「元百万遍町」 とか。 「元頂妙寺町」 とか 「元本満寺町」 とか。
中には、頭に 「元」 をつけず堂々と 「実相院町」 「革堂町」 「阿弥陀寺町」 と名乗ってたりとか。
町名のみならず、「元誓願寺通」 なんて通が、誓願寺と全然関係ないとこを走ってたりとか。
もちろん、元々はその町名の場所に名前の通りの寺があり、のち移転したわけです。
単に焼亡などで移転した寺も多いですが、移転の大きな山を作ったのは、天文法華の乱と、秀吉
法華宗の隆盛にブチ切れた比叡山が攻めてきて、法華宗は法華宗でそれを市内で迎え撃ち、
組の抗争の如き市街戦を展開したのち法華宗が洛外へ追い出された、天文法華の乱。
そして、そんな血気盛んな仏教勢力を殺ぐため、多くの寺を町外れへ集中移転させた、秀吉。
法華宗の中には、その両方で移転を余儀なくされた寺も結構存在するわけで、
今回桜を見に行った西陣の日蓮宗本山・立本寺もまた、幾多の変遷を経た寺だったりします。
創建以来、山門による破却や仲間割れを繰り返し、天文法華の乱では堺へ避難し、
帰洛したら秀吉に移転させられ、移転したら大火で焼失、現在地でようやく落ち着いた、立本寺。
北野商店街のすぐ南側で、住宅地に包囲されつつも極めて広い境内を持つ現在の姿は、
ちょっとしたハッピーエンド感さえ感じさせますが、もっとハッピーに見えるのが、桜の季節です。
かなりなボリュームの桜が、かなりなボリュームで密集して咲き、人もあまりいない。
何かもう、ちょっとした天国が現出してます。街角の天国、とでもいうか。
そんな立本寺の桜、ハッピーな気分でご堪能下さい。

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粟田神社の粟田祭・神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年10月8日(月)


粟田神社の粟田祭・神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

粟田祭は、面白い。
「面白い」 は 「funny」 と 「interesting」 、両方の意味で使われますが、
粟田祭は、その両方が習合したような、興味深さと爆笑誘引力を兼ね備えてる気がします。
何せトップ画像のような巨大物体・粟田大燈呂が闊歩するわけです。それはもう、笑えるわけです。
と同時に、こんな物体にも神仏習合が色濃く残るあたりが、興味深かったりもするわけです。
そもそもは祇園感神院 aka 八坂神社の新宮として、粟田口に創建された社、粟田神社。
言うまでもなく由緒正しき神社であり、その大祭・粟田祭もまた長い歴史を持つ、由緒正しき祭。
それもただ単に千年以上やってるというだけでなく、名物の剣鉾は祇園祭の山鉾の原型とも言われ、
戦乱などで祇園祭が催行不能に陥った際は代理も務めたほど、大御所な祭なのであります。
しかしそれでも、粟田祭は、面白い。現在進行形でかつ、怪しいまでに、面白い。
その怪しさを集中的に担うのはもちろん、京都造形芸大により近年復活した粟田大燈呂ですが、
こちらも本来は青森ねぶたのルーツである可能性も考えられるほど、歴史を持つ風流灯籠。
何も怪しくなく、何もおかしくないのです。しかし路上へ出た途端、爆笑が止まらない。
さらには、京都のネイティブな町並とのギャップ感 or サイズバランスが、どうにも面白過ぎる。
京都には他にも、怪しい案件が登場する祭や、奇景を呈する祭が存在しますが、
全体のスケールとバランス、そして何より 「これからどうなる」 「どこまで行く」 という点に於いて、
爆笑と教養、神と仏、そして歴史の継続と未来への挑戦が習合する粟田祭は、
現在の京都で最も目の離せない祭と言えるのではないでしょうか。いや、知らんけど。
そんな粟田祭、前年2011年は爆発的に怪しい夜渡り神事を中心に見物させてもらいましたが、
2012年度は、神幸祭で白昼の大燈呂+剣鉾+神輿をメインに追っかけてみました。
面白さがどこまで伝わるのか、あるいはこのトップ画像だけでもう充分なのか。
いろいろ不安ですが、とにかくお楽しみください。

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曼殊院の夜間拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年11月25日(金)


曼殊院の夜間拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

男は黙って、曼殊院
といっても、別段しょうもない冗談を言いたいわけではありません。
それくらい、男好きのする寺だと言いたいだけです。そう思うのは、独男だけかも知れませんが。
修学院離宮のすぐそば、比叡山麓の一乗寺に建つ天台五門跡のひとつ、曼殊院。
戦国時代に慈運法親王が入寺したことで門跡寺院となったこの寺は、
江戸前期に至り良尚法親王を迎えたことで、ミニ桂離宮とも言われる伽藍を誇るようになります。
日本の「美」が凝縮された桂離宮、それを造った八条宮智仁親王の次男である、良尚法親王。
その幅広い識見と創意は、庭園や茶室のみならず寺の建物全てへと行き渡り、
貴族趣味が加味された江戸時代初期の代表的書院建築が残されることとなりました。
そんなやんごとなき寺が何で「男好きする」のかと言われたら、私もよくわからないんですが、
多分、美しさの中に殺気があるからじゃないでしょうか。
男にしか察知できない、殺気。それも、権力から遠い男にしか察知できない、殺気。
禁中並公家諸法度で文化事業しかすることのなくなった皇族&公家が抱いた殺気が、
時代を超えて独男の魂に響いてくる、というのはもちろん不遜な不敬で不埒な妄想です。
が、そんな不遜な妄想に独男を誘う妙な色気が曼殊院にあるのも、確かな気がします。
その色気と殺気がより濃厚になるのが、夜のライトアップ。
一応、紅葉シーズンに合わせた夜間拝観ですが、伽藍そのものの方が魅力的なので、
そっちメインでご堪能下さい。今年2011年は、紅葉が全然ですし。

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粟田神社の粟田祭・夜渡り神事へ行きました。もちろん、ひとりで。

2011年10月9日(日)


粟田神社の粟田祭・夜渡り神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

えと、トップ画像で光り輝いてらっしゃるのは、かの法然上人でございます。
法然。もちろん、浄土宗の開祖です。粟田神社のすぐ南にある知恩院の、ラスボスです。
神社の祭のトップ画像がバリバリの仏僧とは、これいかに。
いや、それ以前に何故この法然はこんなにキンキラキンなのかという話ではありますが、
しかし、これが粟田神社の粟田祭なのであります。宵宮の奇祭・夜渡り神事なのであります。
粟田神社は、明治維新の神仏分離までは「感神院新宮」と呼ばれていました。
「感神院」といえば八坂神社の旧名「祇園感神院」が有名ですが、粟田神社はその新宮。
平安時代に朝廷が祇園社へ勅使を派遣、「東北に清浄の地あり」と神託を受け、創建されたわけです。
祇園感神院は、一時は比叡山の門下に寺として入るほど神仏習合が激しい社でしたが、
粟田神社もまたその傾向は強かったようで、社名から祭神から「ご一新」した経緯を持ってます。
が、往時の残り香のようなものは濃厚に残っていて、この夜渡り神事はその典型。
粟田神社名物の剣鉾が知恩院の七不思議のひとつ・胡瓜石の前まで出向き、
出迎えた知恩院の僧たちと一緒に剣鉾&石に祈るという、神仏コラボ祭事を展開してしまうのです。
その名も「れいけん祭」。凄い、何かよくわからないけど、凄いのであります。
2008年からは京都造形芸術大学の学生さんによる、超巨大燈籠「粟田大燈呂」も登場し、
2010年には御覧の法然も団体の枠を越え参戦、何かよくわからん凄さはさらに加速しました。
もとから奇祭だった祭がさらに奇祭化してる様、とくとお楽しみ下さい。

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日の出湯の『蛍の夕べ』へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年6月12日(日)

『蛍の夕べ』の告知がぶらさがった看板
日の出湯の『蛍の夕べ』へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

日の出湯。
比較的京都駅から近いということもあってか、レトロ銭湯マニアには知られた名湯であります。
京都駅から近鉄線の高架に沿って南西へ進むこと、10数分。
一大ターミナルの徒歩圏とはとても思えない下町情緒溢れる街並の中を通り、
狭い脇道へ積極的に迷い込んだ末に目の前へ現れるのは、昭和の動態保存。
ため息が漏れる、超リアルレトロな外観。外観に輪をかけてレトロな玄関、番台、脱衣場、坪庭。
でも、浴場自体はしっかり改装され、バリバリ現役の実用重視。
情緒がトコトン味わえ、そして実用性もトコトン享受できる、実に素晴らしい銭湯なのであります。
そんな日の出湯が毎年6月に行なってるイベントが、『蛍の夕べ』。
脱衣場そばの坪庭に蛍スペースみたいなのを設置して、淡い光を楽しむという趣向です。
「レトロ銭湯」「坪庭」と、おしゃれな連中が群がって使い捨てにしそうなワードが並んでますが、
実際の内容はさほど賑やかだったり大袈裟だったりするもんではありません。
蛍スペースというのも、坪庭に蛍を放すのではなく、箱の中で蛍を見ることになります。
トップ画像の告知紙も含めて、実に手作り感溢れるイベントなのです。

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早朝の嵐山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月14日(木)

嵐山の桜と一の井堰
早朝の嵐山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

早朝の嵐山が好きです。
何故好きかと言えば、港町の空気の匂いがするからです。
港町、あるいは海沿いの地方都市を旅した時に感じる、独特の空気。
日常の中で、生活の糧として、水と関わる人々が放つ、独特の張った感じの空気。
そんな空気の匂いが、早朝の嵐山にはちょっとだけ残ってる気がします。
昼間になって人が増え、場の雰囲気が観光丸出しテイストになると、もう何もわかりませんが、
ほとんどの人が仕事で渡月橋を走ってる早朝だと、港町にいる気分がちょっと、味わえます。
鎌倉時代に後嵯峨天皇が大和吉野山から多くの桜を移植し、桜の名所になった、嵐山。
もちろんそれより前の平安時代から、貴族の別荘地であった、嵐山。
しかし、そんな華やかな側面と同時に、丹波の材木の集積地としての顔も、嵐山は持ってました。
平安京建都以前に秦氏が一の井堰を建築した頃から、角倉了以による保津川開発を経て、
実に昭和へ至るまで、嵐山は「仕事」の場でもありました。
そんな時代の残り香と桜の香りが混ざり合う、春の嵐山、早朝。
その匂いは、水上交通をフルに活用していた時代の、本当の京都の匂いなのかも知れません。

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墨染寺へ墨染桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月13日(水)

桜と日蓮上人像①
墨染寺へ墨染桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

墨染寺。通称、桜寺。
伏見区の墨染にある、桜で有名なお寺です。「ぼくせんじ」も「すみぞめでら」も、どっちもアリ。
風変わりな地名ですが、これは墨染寺名物である墨染桜に由来します。
891年、かつて深草の里と呼ばれ鶉が鳴く野辺だったこの地に、
太政大臣・藤原基経が葬られ、それを悲しんだ平安歌人・上野峯雄が詠んだ歌が
「深草の野辺の桜の心あれば 今年ばかりは墨染に咲け」。
その歌を聞き、当時この辺に生えてた桜は一斉に薄墨色に咲いたとか。それが、墨染桜。
何故か秀吉はこのエピソードが大層お気に入りだったそうで、墨染の地を何度も訪問。
のみならず、元は貞観寺という寺だった土地を日秀上人に与え、墨染桜寺として再興。
で、現在に至るかといえばそうでもなく、一時は多くの塔頭を抱えるほどの大寺に化けた墨染寺、
徳川期になると一気に凋落、縮小に移転を重ね塔頭のひとつに納まったのが、今の姿。
うっかりすると見落とすような商店街の一角で、桜目当ての客をひっそりと待ち受けてます。
夕刻、もはや花びらが舞い散りまくるその小さな境内へ、行ってみました。

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法然院の春季特別公開へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月1日(金)

椿の散華でいっぱいの手水鉢
法然院の春季伽藍内特別公開へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

法然院。
哲学の道のすぐそばにあり、無料で拝観できる寺院として高い人気を誇る寺です。
といっても、ただ単にたくさんの人で溢れかえるわけではなく、ほどほどの量と質の人気を維持。
「タダでいろんなものいっぱい見れた~」というデフレで空虚な満足感でもなく、
「タダならまあこんなもんか」という物足りなさでもない、実にほどほどな充足感。
静謐な境内が生むそんな感慨が、良質の拝観客を呼び続けている寺なのであります。
何故ここが拝観無料かといえば、檀信徒からの浄財で運営される檀那寺だから。
要は、普通のお寺。なので、檀信徒さんの法要などを最優先するため、伽藍は通常非公開です。
一般参拝客である我々は、この寺の山門や前庭を見てるに過ぎません。
その山門と前庭のクオリティがあまりに高いので、おなかいっぱいになってるに過ぎません。
が、それでもやっぱり中も見たいという方々のために、春と秋には有料ですが特別公開を実施。
秋は紅葉、春は法然院名物の椿が活かされたビジュアルを楽しむことができます。
そんな、法然院の内側、行ってきました。

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クリスマス早朝の清水寺へ行きました。もちろん、ひとりで。

2010年12月25日(土)

早朝の清水寺・舞台から京都タワーを望む
クリスマス早朝の清水寺へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

 亡き母からのご縁がふかく、私は三十余年の間、毎朝お参りをさせて頂いております。朝早よう起きて、祇園さんから二年坂、三年坂、その角の七味屋さんのとこの石段あがって、まだ起きといやしまへん土産もんのお店のならぶ清水坂をのぼりきると、清水さんの大石段、楼門に、三重の塔を霧の中に見上げますともう、心のふるさとにきた思いです。音羽の滝のお不動さんに、手をあわして拝がみ、お水を杓でいただき口に含むときのさわやかさ、いっぺんにゆんべからの気しょくの悪かったことも拭うて下さるようにすうっと消え、しゃんとなって八十三段の石段をのぼり、観音さまへ、きんの(昨日)一日の御礼を申し、今日もまた無事なように願う心のあたたかさは、いいようのない嬉しいものでございます。お堂の前の舞台にでますと、晴れた日の春は、紫のうす霧に、西の本願寺さんの屋根が、浄土にわたる舟のように浮んで見えまして思わず手を合わします。
(古寺巡礼 京都 月報24 清水寺 淡交社 1978 「清水さん」 増田好)

30年以上前の小冊子に描かれた、信仰の対象としての清水寺。
この30年の間にあったバブルや世界遺産認定などが、清水寺とその周辺をどう変えたのか。
生活レベルの信仰はどう変わったのか、あるいは変わってないのか。
そのあたりを確かめるため早朝の参拝を敢行した、というのは、嘘です。
イブに泊まった宿があまりに寒過ぎて寝てられず、運動のために外出しただけです。
が、そこで目にした光景は引用文まんまの世界、清水寺のもうひとつ顔、あるいは真の顔でした。

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クリスマス・イヴの伏見稲荷へ行きました。もちろん、ひとりで。

2010年12月24日(金)


クリスマス・イヴの伏見稲荷へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

メリークリスマス!!
聞けば、クリスマスというのは、キリストの誕生日ではないんだそうですよ。
2000年も前の大工の子倅が生まれた日なんか、誰もわからんそうです。そりゃそうですよね。
古代ローマの太陽祭に、キリストの生誕祭を乗っけたのが、いわばクリスマスの起源。
習合みたいなもんでしょうか。ローマの祭りですから、乱交も 「込み」 だったのかも知れません。
太陽の復活を祝い、豊穣を祈り、グチャグチャに交じり合う祝祭としての、クリスマス。
それが本当なら、「聖夜は愛する人と二人きり」などと近代的な恋愛観に基づいた戯言や、
「大事な家族と一緒に」などと現代的な家族観に基づいた戯言を言ってる場合ではありません。
入り混じらなければいけないのです。人も神も、見境なく、入り混じろなければいけないのです。
というわけで、大量の神々と全身で交わりまくるべく、聖夜の伏見稲荷を訪れました。
あらゆる御利益神が見境なく溢れる稲荷山ですから、どっかにクリスマスに効く神もいるはずです。
そのクリスマス神へ深き祈りを捧げ、是非ともクリスマス神力を発動していただき、
消費社会の上澄みのみを祝福する現代日本の偽クリスマスを、一掃してもらうのです。
吹けよ、クリスマス神風。唱える祝詞はもちろん、メリークリスマス!!

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永観堂のライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2010年11月28日(日)


永観堂のライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「禅林寺」と、正しい名前では全然呼んでもらえない、永観堂
しかし、寺自ら「もみじの永観堂」と銘打った赤い看板を三条京阪に堂々とディスプレイしてるので、
それも自業自得と思わざるを得ない、浄土宗西山禅林寺派総本山でございます。
空海の高弟・真紹僧都が853年に寺を開く以前から、この地は既に紅葉の名所だったようで、
真紹の前のオーナーにあたる有名歌人・藤原関雄も、古今和歌集に収められた歌において、
おく山の岩がき紅葉散りぬべし 照る日の光見る時なく」などと、詠むことしきり。
秋以外のシーズンは、看板坊主の永観見返り阿弥陀像がもっぱりの売りである永観堂ですが、
やはりもみじの季節こそが、最も大きな魅力を発揮してくれるようです。
もちろん、最も大きな魅力を発揮すれば、最も多い観光客が押し寄せてしまうわけであり、
その人気と混雑度は、超メジャー級の紅葉スポットがひしめく京都にあっても、トップクラス。
加えて、今年は「京都の秋は永観堂」なんてポスターが駅などに貼られまくったため、地元客も、多め。
さらには、今年2010年の紅葉、いつにないハイテンション&ハイクオリティぶりを誇示。
とんでもない人出が予測されるのです。雅の世界を切り裂く人間地獄の出来が、予測されるのです。
紅葉を見るか。あるいは、紅葉を見る人間を見るか。もしくは、もう、単なる人間だけを見るか。
東山の夜に咲いた「赤の恐怖」がいかなるものだったか、心してご覧下さい。

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