中村軒で、栗を食べまくってきました。もちろん、ひとりで。

2016年10月21日(金)


中村軒で、栗を食べまくってきました。もちろん、ひとりで。

稲作が伝来する以前の縄文時代、日本人は、を主食として食ってたそうです。
収穫が比較的容易な場所に生え、イガを除けば採集も比較的容易な形で落ちてくれる、栗。
生で食え、火を通せば抜群に美味く、粉にすれば調理の幅も拡がり、更には保存も出来る、栗。
最大の魅力たる甘味が弱味になる可能性こそありますが、主食たる条件は充分にクリアしており、
ゆえに縄文期の遺跡からは人工的な栽培の痕跡さえ見つかってしまう、 「樹穀」 なわけであります。
この栗食の記憶、実は、現代人にも継承されてるんだとか。無意識の底で、息づいてるんだとか。
栗食の潜在記憶が、トロイの木馬の如く発動する為、我々は秋になると、栗を食いたくなるんだとか。
与太な話、と思われるでしょうか。しかし私は、何かしら納得出来るものを、感じなくもありません。
確かに栗は、妙です。特に現在の主食・米との関係性に於いて、他の果物と比べ圧倒的に、妙です。
この世に数多ある果物の中で、栗だけがほぼ唯一、米飯に対するがっつりとした侵入に成功し、
「栗ごはん」 or 「栗赤飯」 として、晩飯のメニューにも登板が可能な認知度を誇ってるという、謎。
同じ秋の果物仲間でありながら、梨ごはんも、柿ごはんも、葡萄ごはんも、そして蜜柑ごはんも、
決して到達することが出来ないマジョリティの地平に、栗ごはんだけが立っているという、謎。
豆を無理にでも果物扱いしない限り、栗が誇るこのぶっちぎりの独走状態は、説明がつきません。
栗には、何かがあるのではないか。今は 「果物」 のふりをしてるが、何かがあるのではないか。
何なら、 「御厨」 の読み仮名が示す様に日本の食の根幹にさえ繋がった、何かがあるのではないか。
日本人と食の問題を真摯に考え続けてきた当サイトとしては、この問題を看過出来ないと判断し、
米を依代とする手法を用いて栗の神秘にアプローチしようと考え、今回、桂の中村軒へ出かけました。
中村軒世界の名勝・桂離宮の畔にあって、かつら饅頭&麦代餅が名代として知られる名店です。
餅そのものの美味さで知られる中村軒ですが、秋になれば栗ぜんざいなど栗アイテムも多数、登場。
で、これら栗と餅の合体メニューを食いまくることで、 「主食の国譲り」 の謎へ迫ったのであります。
そう、これはあくまでも、新たなる挑戦なのです。当サイトが当サイトである為の、挑戦なのです。
断じて、秋になると栗記事2本のアクセス数が不穏なまでに良いので、3本目の泥鰌を狙い、
また同時に、秋口の餅の美味さも堪能しようと思って出かけたのは、ありません。

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細見美術館の琳派展へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年9月27日(火)


細見美術館の琳派展へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

琳派。 『琳として派閥』 という名前のバンドの略称です。というのは、もちろん、嘘です。
琳派。近世京都の町衆文化を象徴する様に誕生した、装飾性豊かなアートの流派であります。
光悦村を作った本阿弥光悦を創始者&ディレクターとし、 『風神雷神図』俵屋宗達を経て、
呉服屋の放蕩息子にしてデザイン性が高い図案を量産した尾形光琳で、琳として爆発した、琳派。
その強い魅力は、時空を超えて私淑のフォロワーを生み続け、近世後期には江戸でも隆盛化。
更に近代では海外で大きな評価も集め、評価が逆輸入された国内では 「琳派」 の呼称が定着化。
そして現代に入ると、 「かわいいは正義」 という狂った世風と過剰なまでの親和性&共鳴力を発揮し、
ヘッドロックを決める犬口半開きの鹿などが女子供の人気を集めてるのは、御存知の通りです。
で、そんな琳派の作品を集中的にコレクションしてるのが、今回訪れた細見美術館であります。
昭和初期の大阪・泉大津にて毛織物で財を成した初代・細見古香庵が、その成功後に収集を始め、
二代・古香庵が、琳派を始めとする江戸期の作品を大幅に加える形で拡大させた、細見コレクション。
そのコレクションを公開する場として、1998年に岡崎の地にて開館したのがこの美術館であり、
「琳派美術館」 という別名に相応しく、様々な観点から作品を紹介する 「琳派展」 も、定期的に開催。
京都発祥ながら、近世後期からの経済没落の為か何なのか、あちこち散逸している琳派の作品に、
京都の人間も気軽に、かつ集約された形で、接することが出来るようになった、というわけです。
そんな細見美術館、私、館前こそしょっちゅう通ってるんですが、そもそも芸術にあまり縁がない為、
若冲展や春画展で行列が出来てる際も、 「混んどるなあ」 とか思いながら、通り過ぎてばかりでした。
が、京都の 「ベタ」 を追い求めるのが、このサイトの趣旨。琳派もまた、看過は許されないでしょう。
というわけで、琳派をより琳として探求すべく、琳派誕生401年という記念すべき年を敢えて選び、
「琳派展」 の第18弾、その名もずばり 「京の琳派」 と銘打たれた展覧会へ、出かけたのであります。
そう、これはあくまでも、新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトである為の、挑戦なのです。
断じて、9月のネタ採集が全く出来てないのを月末になって思い出し、でも床特攻も飽きたので、
何か目新しいことをしようと思い、冷やかし半分でフラフラ出かけたのでは、ありません。

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鹿王院へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年12月1日(火)


鹿王院へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

こんなことを言うのはどうかなとも思いますが、はっきり言って、鹿王院は地味です。
権勢誇示が大好きな室町幕府三代将軍・足利義満が創建したにも関わらず、地味です。
やはり義満が創建した金閣寺の本名 「鹿苑寺」 と同じく 「鹿」 を冠するにも関わらず、地味です。
嵐山から徒歩移動も可能な距離にありながら、鹿王院の門前に観光の賑わいは、全然ありません。
門前町的な店や名物といったものも全然なく、せいぜい渋い銭湯・鹿王湯くらいしかありません。
塀でその存在を誇示することもなく、そもそも民家に完全包囲されてるため、誇示しようもありません。
「嵯峨の金閣」 とも称される舎利殿を始めとする見事な伽藍と、極めて格の高き由緒を持ちながら、
門前をスルーせずに済ませるのにも注意力が必要なこと請け合いの、実に地味な寺なのであります。
鹿王院。本名、覚雄山鹿王院。元々は、義満が創建した宝幢寺の開山塔として、造営されました。
宝幢寺は、 「宝幢菩薩を祀れば寿命が延びる」 という夢のお告げに従って、義満が建てた寺。
夢窓疎石の俗甥 or 義満のメンターである春屋妙葩 aka 天下僧録司 aka 普明国師を開山に迎え、
京都十刹第五の名刹としてその名を轟かせましたが、応仁の乱の後は衰退し、遂には完全消滅。
で、結局は妙葩が建てた鹿王院のみが残り、宝幢寺の寺籍を継ぐ形で現在まで存続してるわけです。
義満筆 「覚雄山」 の額を掲げる築600年の山門や、石畳の参道、嵐山を借景とする枯山水庭園、
さらには源実朝が宋国より招来したという仏牙舎利を安置する舎利殿と、鹿王院、見所は実に多し。
実際、訪れる客の数は、割と多かったりします。なのに存在感的には、凄く地味なのであります。
恐らくかつては、 「建てようと思った辺りに、鹿がうろついてたから」 という寺名の由来が示す通り、
嵯峨野的な鄙びた風情の中で 「嵯峨の金閣」 が屹立し、そのロイヤルな威容を誇ってたんでしょう。
しかし現代に入り、極めて右京区的な生活感溢れる宅地化により、周囲を完全包囲されたことで、
地味というか、独特のインパクトと存在感を持つ、妙味に満ちた寺になってる気がします。
そんな鹿王院、紅葉も名物。というわけで、地味さ&妙味さと共に堪能してきました。

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随心院の秋期夜間特別拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年11月29日(日)


随心院の秋期夜間特別拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

門跡寺院が好きです。より細かく言うと、小ぢんまりとした門跡寺院が好きです。
具体的な寺名を挙げるなら、曼殊院霊鑑寺、そして今回訪れた随心院というところでしょうか。
江戸前期テイストを感じさせる伽藍が、狭めの境内にギュッと詰まって構成されてる、あの感じ。
直線&直角のインパクトがバキバキな配置ながらも、野郎丸出しな無骨さは全く感じない、あの感じ。
そして何より、エレガントな佇まいでありながら女子供が喜ぶユルさは断じて排除してる、あの感じ。
男好みの伽藍だと感じます。より細かく言うと、ある種の傾向を持つ男好みの伽藍だと感じます。
「美」 しか取柄が無くなった者たちが、制度上でも明白に 「美」 しか取柄が無くなった丁度その頃に、
凡俗には想像も出来ないような想いから作り上げたのであろう、小ぢんまりとした 「美」 の箱庭。
と、こんな風に、やんごとなき方々のやんごとなき心模様をとことん勝手に妄想したりしながら、
これら門跡に漂う独特の 「圧」 みたいなもの、ある種の傾向の 「男」 な感じを、堪能してるわけです。
よくよく考えてみると、というか考えるまでもなく、随心院は小野小町ゆかりの寺として有名であり、
春先になれば 「女子供」 以外の何物でもない可愛い女子たちが踊る 『はねず踊り』 も行われ、
受付では 「恋みくじ」 や 「小町香」なんてのも取り扱ってる、極めて女子力高めな寺ではあります。
また、有名な梅苑があるくらい境内もなかなかに広く、メイン建築たる本堂も桃山期のものだったりと、
「狭い」 「江戸前期」 さえ当てはまらなかったりしますが、でも、男好みの印象は変わりません。
本堂と同じかそれ以上に、本堂をとり囲む伽藍が良いんですよね。公家より寄進された、伽藍が。
多くの門跡が入山した九条二条両宮家の寄進により、江戸初期に再興された書院・玄関・能の間。
ギュッと詰まってて、直線&直角バキバキで、エレガント。そして、明らかに 「圧」 もたっぷりある。
たまりません。何か、書けば書くほど変態じみて来るような気がして色々不安ですが、たまりません。
そんなたまらん随心院、実は紅葉も名物で、秋ともなればライトアップの夜間特別拝観も実施。
紅葉の美しさはもちろんですが、男好みな伽藍の夜の姿を観れるのもまた、至福だったりします。
というわけで醍醐へ出かけ、紅葉と共に闇と 「圧」 も、一緒に堪能して来ました。

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東福寺塔頭・毘沙門堂勝林寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年11月27日(金)


東福寺塔頭・毘沙門堂勝林寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

東福寺は、夜になるとやたらに寺&その周辺が暗くなるなと思ったりします。
臨済宗東福寺派大本山に相応しいその巨大なる伽藍は、ライトアップされることなど全くなく、
むしろ逆にブラックライトでライトダウンするかのように、禅宗ならではの厳格な闇を周囲へ放射。
名勝・通天橋が瀕死の混雑に見舞われる紅葉シーズンにあってもなお、その闇の厳しさは変わらず、
陽が落ちる夕方以降は昼間の喧噪が嘘の様に消え、代わって辺りに充満するのは漆黒の闇。
群集の荷重に耐えた当の通天橋も、夜は地元中高生の自転車が通るばかりの暗黒渡り廊下となり、
その圧倒的な暗さは、まるで 「これこそが正しい寺の姿なのだ」 と宣言してるようにも見えます。
無論、寺とその周囲が夜に暗くなるというのは、本来は当然というか、普通な姿ではあるんでしょう。
しかし、紅葉シーズンくらい夜間拝観をやってもいいんじゃないかと思ってしまうのもまた、人情。
境内の広さ&紅葉の大規模さを考えると、電気代がえらいことになるだろうけど、やってほしいな、と。
通天橋から落ちて天国へ通り抜ける奴が何人か出るかも知れないけど、やってほしいな、と。
そんな最低共通文化に基づく需要にも一応対応しようと考えたのか、夜間拝観をやってくれてるのが、
東福寺の境内にあってその鬼門を守る、 「東福寺の毘沙門天」 こと塔頭・毘沙門堂勝林寺です。
勝林寺。少林寺に非ずして、勝林寺。東福寺第205世により1550年に創建された、塔頭であります。
東福寺仏殿の天井裏で発見されたという、本尊にして伝・定朝作の毘沙門天立像を始めとして、
珍しい毘沙門天曼荼羅や、大檀那である近衛家の大玄関が移築された本堂など、その見所は多し。
通常非公開であることが惜しまれるほどですが、名物の吉祥紅葉が色づく秋には特別公開を行い、
良縁と美縁の御利益から舞妓はんも訪れたというこの紅葉を、夜ともなればライトアップで更に演出。
その様は、忍び寄る餓鬼より本丸の闇を守るのもまた鬼門守護の一環と考えてるかのようであり、
東福寺の拝観に間に合わなかった迷える衆生にとっては、ある種の緊急避難先になってます。
そんな勝林寺の紅葉、もちろん東福寺が真っ暗になる夜に観に行きました。

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松原通の力餅食堂・加藤商店で、 栗を食べまくってきました。もちろん、ひとりで。

2015年10月21日(水)


松原通の力餅食堂・加藤商店で、 栗を食べまくってきました。もちろん、ひとりで。

2013年に上げた栗餅の記事、思ってた以上に多くの人が見てくれるんですよ。
「両親の郷里・丹波へ名物の栗を食いに行く」 という、かなり私的な気分で作った記事であり、
川床カフェめぐりのように狙って作ったものではなかったんですが、やはり食いもんネタは強いなと。
しかも、 「京都 丹波栗」 という感じでブランド名を打ち込み飛んでくるタイプの方は案外と少なく、
ずばり 「栗」 あるいは 「栗餅」 と、栗食本位なワードで来られる方が多いのにも、感銘を受けました。
どうやら人は秋になると、丹波など産地やブランドに関係なく、栗を食いたくなる生き物のようです。
私は、栗を過小評価していた自身の不明に、気付かされたのでした。すまん、栗。すまん、栗餅。
そして謝ると共に、栗のビッグウェイブに再び乗ろうとも決めました。というわけで栗記事、第2弾です。
今回も、プチ旅情と共に丹波で栗菓子を買い食いするかと思いましたが、正直、行くのが面倒くさい。
あと、栗記事花火記事でもちょこちょこ書いてることですが、自分的には何か色々と、気まずい。
といって近場で済ますとなると、ただ単に買い食いだけで終わる話となり、ネタになるかどうか微妙。
近場で、ネタになり、いい感じの栗の店、ないかな。そう考えていて、松原通の力餅を思い出しました。
力餅。相生餅&千成餅と共に、京阪神にて謎のフランチャイズを形成してる餅系食堂のひとつです。
「餅」 という名前が示すように、この餅系食堂、元来はおはぎなどを扱う甘味処がルーツだそうで、
現在でも多くの店が、うどんや定食など一般的な食堂メニューに加えて甘味を扱ってはいるんですが、
松原通×東大路通の交差点近くに建つこちらの力餅は、10月に扱うその甘味がかなり、栗推し。
定番の栗餅に加えて、栗赤飯、そしてマロンケーキの如き栗蒸し羊羹が、普通の食堂に登場します。
何故この店がこんなに栗を推す理由はよくわかりませんし、正直言って特に興味もないんですが、
しかしこの栗ラッシュ、京都の市井に於ける季節感の味わい方をよりリアルな形で現わすものであり、
同時に 「人は秋になると、栗を食いたくなる」 ことを、如実な形で示すものとは言えるでしょう。
そんな力餅の栗餅・栗赤飯・栗蒸し羊羹、うどんと一緒にがっついて来ました。

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福王子神社の秋季大祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年10月18日(日)


福王子神社の秋季大祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

明治維新に至るまでの約1000年、日本では神と仏が入り混じってました
大陸より伝来したばかりの頃の仏教は、日本人の魂へ忍び込むにあたって、へと接近。
素朴なスタイルの信仰から脱却することについて苦悩を深めていた神も、仏にその救済を希求。
結果、 「神の本来の姿は仏 = 本地」 ということになり、神社の傍には本地を祀る神宮寺が建てられ、
寺の近くでは神が鎮守となって仏を守護するという、混淆の信仰形態が誕生・定着したのでした。
ある意味で野合に見えるこの混淆は、アーシーな小寺社だけで起こったものでは、無論ありません。
ロイヤルな寺社、それこそやんごとなき方々より崇敬を受けるような寺社であっても、事情は同じ。
私の地元にある石清水八幡宮は、二所宗廟の一つでありながらも最初から 「宮寺」 として創建され、
神が住まう男山には、 「男山四十八坊」 と称される大量の仏教施設がバカスカ建ちまくってたほど。
「どちらが手を叩いて、どちらが叩かないのか」 といった些末な作法にこだわる必要が全く無い、
神前読経など当たり前の大らかで豊かな信仰世界が、この国では長く長く息づき続けていたのです。
神道一直線宣言 aka 明治の廃仏毀釈は、そんな神仏習合の世界を、ほぼ根絶やしにしました。
が、明治以降は基本全否定&古いものを何でも有り難がる京都では、混淆の風習がいくつか残存。
福王寺神社の神輿巡行も、そんなかつての時代の息吹を感じさせてくれるものと言えるでしょう。
宇多天皇御母・班子女王が祭神のこの社は、宇多天皇が創建した世界遺産・仁和寺の守護でもあり、
その秋季大祭では、仁和寺より譲渡されたという神輿が、巨大な二王門の前で差し上げを敢行。
のみならず、石段を登って門をくぐり、さらには御室御所にまで入り、神仏が入り混じる式典も執行。
由緒も格もロイヤル極まりない寺院に於いて、古の神仏習合の様が全開になってしまうのです。
そんな福王寺の神輿、巡幸を全部追うのはしんど過ぎる為、仁和寺周辺だけ見てきました。
神輿と交通環境との微妙な関係も、ある種の風味としてお楽しみください。

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京田辺市・大住へ大住隼人舞を観に行きました。もちろん、ひとりで。

2015年10月14日(水)


京田辺市・大住へ大住隼人舞を観に行きました。もちろん、ひとりで。

高校へ進学して驚いたのは、 「郊外の人」 なる人達が実在した、ということです。
大住中学校なる学校から進学して来たその連中は、近年に開発された京田辺市・大住に住み、
「世界にいるのは中流だけで、それ以外の奴は嘘ついてゴネてる」 とでも思ってるような人達でした。
私が住む隣の八幡もまた宅地開発は活発であり、人口の大半は郊外の移住者だったりしますが、
同時に巨大な同和地区が存在し、駅周辺には私が育った流入貧民が多く住むエリアも存在する為、
何というか、 「世界には中流しかいない」 といった考え方を持つのは、難しかったりするのです。
で、流入貧民の子である私には、そんな郊外的な大住中生が何とも不思議な連中に見えたのでした。
で、そんな大住中生が、毎年10月に隼人舞を踊るというのもまた、私には不思議に思えたりします。
隼人舞。大住隼人舞。古代の南九州に居住した隼人の舞を、京田辺市・大住で復興した舞です。
神代より帝との縁を持ち、勇猛さと呪力を買われ霊的警護や歌舞奉納などで王朝に近習した、隼人。
大和王権が中央集権化を進めた奈良時代には 「隼人の反乱」 を起こすも、やがて順化&同化。
反乱以前より都周辺への移配も行われ、定住した隼人は 「畿内隼人」 として朝廷との関係を深め、
海幸彦&山幸彦神話に基づくという 「隼人舞」 などを、服属儀礼として奉納し続けたのでした。
で、大住は、大隅から来た畿内隼人が住んだ地らしいのであります。で、隼人舞なわけであります。
で、その隼人舞を踊らされる、ではなく、踊ることになってるのが、地元の大住中生なわけであります。
ひょっとしたら、千年以上の歴史を持つ畿内隼人の子孫も多少は混じってるかも知れませんが、
大半は郊外の、新たに開発された宅地で育った、私を驚かせた連中の後輩が踊るわけであります。
故に、舞の感じは、そんな感じです。 「そんな感じ」 とはどんな感じかといえば、そんな感じです。
衣装や舞台のビジュアルは極めて映えますが、でも全体的には、そんな感じです。まあ、当然です。
しかし、全然何の縁もゆかりも無い人間が 「隼人」 に扮して、 「踊らされる」 舞を踊るというのは、
同じ民族を異族と看做してオリエンタリズムを楽しんでいたかも知れない 「隼人舞」 の復活としては、
ある意味近いものがあるかも、と本気で思ったのは無論嘘ですが、でも、あるかも知れません。
そんな大住隼人舞、観に行きました。彼等はまた、私を驚かせてくれるでしょうか。

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大覚寺の秋の夜間特別拝観・真紅の水鏡へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年11月28日(金)


大覚寺の秋の夜間特別拝観・真紅の水鏡へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

旧嵯峨御所大覚寺門跡に、私は 「赤」 のイメージを勝手に抱いてます。
嵯峨天皇が建立した離宮を前身とし、言うまでもなく真言宗大覚寺派本山である、大覚寺。
般若心経写経根本道場としても知られ、また 「いけばな嵯峨御流」 の総司所でもある、大覚寺。
別段、赤化した宗派 (何だそれ) の寺でも、赤化した流派 (何だそれ) の寺でもありません。
むしろ赤化の真逆を行くようにロイヤル極まる寺なんですが、私にとっては 「赤」 なのであります。
そう思う理由は、端的に言えば、宝塔です。宮廷文化の風情を伝える大沢池の畔に立つ、宝塔です。
大覚寺が寺化したきっかけである、嵯峨天皇の心経写経1150年を記念し建立された、心経宝塔。
この赤い宝塔、嵯峨野の深い闇の中でライトに照らされると、赤さがより印象的なんですよね。
それが、境外の一条通あたりからチラっと見えたりするのも、インパクトがあったりするんですよね。
当サイトは大覚寺、観月の夕べ宵弘法年越しなどなど、何故か夜にばっかり訪れているため、
闇の中に浮かび上がる宝塔の姿を見る機会が自然と増え、 「赤」 の姿が印象づけられたわけです。
「だから何だ」 と言われたら話が終わりの、個人的事情に基づく個人的感慨に過ぎませんが、
ただ 「赤化した門跡寺院」 という冗談が湧く程度には、大覚寺の 「赤」 、強烈という話であります。
それに、ロイヤル極まるこの寺の方から積極的に赤化を打ち出す機会も、ないわけではありません。
大沢池は 「日本初の花見」 ともされ、桜の名所としての知名度も非常に高い大覚寺ですが、
実は紅葉も充実しており、池畔に続く紅葉の並木道は京都でも他に例がないという話もあるほど。
秋になれば、ライトアップされた紅葉が大沢池の水面に映る夜間特別拝観も実施されており、
その夜間拝観が 『真紅の水鏡』 と題されるなど、なかなかな赤化加減を見せてくれてるのです。
そんな 「赤」 を堪能するべく、またぞろ夜の大覚寺へ出かけたのでした。

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壇林寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年11月28日(金)


壇林寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

琴平町の 『川蝉』 へ結局行かず終いになったことを、悔やんでます。
琴平町は、京都ではなく香川 aka うどん県の町。 『川蝉』 は、そこにあったうどん屋です。
讃岐うどんに魅せられた 「巡礼者」 から、その無茶な値段設定や店主のキャラが秘かに愛され、
いつかは必ずその門をくぐらなければならぬラスボス的な感じで、伝説化さえしていた店であります。
『川蝉』 、私も一度は行きかけました。 「巡礼」 してた頃、行きかけました。が、店前で逃げました。
「日本一うまい」 と書かれた巨大幟&店前に散乱する●●にひるみつつ特攻しようとした瞬間、
店主らしきおっさんが出てきて、手に持つ丼から●●を目の前の川へ●●●したのを見て、逃げました。
見たくない何かを見せられる恐怖を感じて。または、香川に抱く幻想を破壊される恐怖を感じて。
あるいは、自分が吐き散らかした幻想の廃棄物を、濃縮ウランにして返されるような恐怖を感じて。
以来、勝負せねばと思いつつ逃げ続けてたんですが、 『川蝉』 、ストビューで現在地を見ると、更地
結局、私は逃げたままになったのでした。悔やんでます。もうこんなことは、繰り返したくない。
というわけで今回、檀林寺へ特攻したのです。香川から京都へ話を戻し、檀林寺へ特攻したのです。
九相図で知られる檀林皇后が、中国から禅僧を呼んで嵯峨野に建立するも廃絶した元・檀林寺を、
京都観光の大衆化が進んだ昭和の高度成長期になってどっかの誰かが再興した、現・檀林寺。
しかし、その実態は●●●とも言われ、ネット上では●●いだの●●だの●●●●●●だのと泣き喚く者が続出。
京都幻想や京都妄想を機嫌良く吐き散らかした末、 「本物」 ノイローゼに罹った輩に対して、
吐き散らかしたその廃棄物をウラン弾にしてお見舞いしまくってるようなスポットなのであります。
正直、私も避けてました。冷やかし目線さえ、バルタン星人の如くブーメランで返されるかもと感じて。
でも、 『川蝉』 クローズを受け、考えを改めたのです。全ては、諸行無常だと。一期一会だと。
それにここの紅葉は、 『川蝉』 のうどんが案外美味かったと言われるのにも似て、案外、好評。
この機会に、もう二度と悔やまないよう、嵯峨野へ出かけたのでした。

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霊鑑寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年11月27日(木)


霊鑑寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

「霊感って、あった方がいいのかも知れない」 と思ったのは、
ずっとずっと昔、叡山電車で客層をリサーチする日雇いバイトをやった時のことでした。
ペアを組んでやる仕事だったんですが、私の相方は四国から来たというDQN上がりの兄ちゃん。
私は、出身地のガラの悪さゆえDNQ耐性があり、割と気さくに接してたつもりだったんですが、
兄ちゃんは何か私に接し難そうで、気まずい沈黙が続いた後、おもむろに霊感話を始めたのです。
同類と見込まれたのでもなく、またオルグでもなく、単に話題が無いから話してるのは、明白。
申し訳なく思った私は、一応 「ですよね・・・」 的な相槌を打ってたんですが、同時に思ったのでした。
霊感は使える、と。適当な距離感を保ちながら、妙な親密さをも生むこの霊感は、使える、と。
素性の知れない独男同志が、短時間の内にある程度の親密さをなるべく当たり障り無く醸成できる、
寝技 or 腹芸的とも言えるコミュニケーション・ツールとして、霊感を少し考えたみたのでした。
独男の 「寝技」 といえば、床屋軍談から宮崎駿の悪口まで、何かと不毛なものになりがちです。
しかし、最初から不毛というか実体が無い霊感は、案外いいツールになり得るんじゃないでしょうか。
というわけで、話は霊鑑寺であります。 「霊感寺」 などではなく、あくまで霊鑑寺であります。
「忍」 の帝・後水尾天皇より山号&寺号を勅許されると同時に、皇女皇孫が次々と得度入寺し始め、
維新へ至るまでに5人の皇族が入寺した、臨済宗南禅寺派の尼門跡寺院・円成山霊鑑寺。
そんなロイヤルな尼寺に対して、霊感がどうこうなどと駄洒落るなど、不敬極まる話ではありますが、
でも、ここの本尊は霊感、もとい霊鑑 = 鏡を持ってるんだから、まあいいじゃないですか。
それに、この寺の名物である御所人形は霊より恐い顔をしてるので、まあいいじゃないですか。
などと書けばさらに不敬極まりますが、とにかくそんな霊鑑寺、普段はロイヤルゆえ拝観は謝絶。
ただ、後水尾天皇遺愛の日光椿が咲く春と、紅葉が見事な秋には、特別拝観を実施。
というわけで今回は、霊ではなく紅葉を観賞に行ってきました。

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南禅寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年11月23日(日)


南禅寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

混めば混むほどある種の面白さが増す寺社、というのが確実に存在します。
京都に於ける典型例といえば、京都観光のキング・オブ・キングである清水寺でしょう。
混めば混むほど、もっと言えば俗化すれば俗化するほど何故か聖性を増す、清水寺マジック。
中年の中二病の如き混雑忌避の段階を越えて、新たなる智性に拓かれた眼で清水寺を見た者は、
「観光」 の文字そのままに光を求めて群れ集う人間の姿にこそ、確かな浄土の光を見い出し、
路地の奥に 「本物」 を追うような乞食根性を忘れて、京都の真の面白さをもきっと見い出すはずです。
いや、無論そのマジックは、群れ集う人間を余裕で傍観できるスペースの確保が可能な寺社、
即ち、清水寺の如く境内が馬鹿デカい大バコ級寺社だからこそ成立する類のものではありますが、
逆に言えば、境内が馬鹿デカい寺社なら、清水寺のマジックに似た面白味が出ないとも限りません。
紅葉シーズンの南禅寺は私にとって、正にそんな面白味を感じさせてくれるスポットです。
南禅寺。無論、臨済宗南禅寺派の大本山であり、五山の上に立つ日本最高峰の禅寺であります。
創建された鎌倉期から中世に至るまでも、日本初の勅願禅寺としての風格に足る寺領を誇り、
江戸期には家康のブレーンを務める黒衣の宰相・金地院崇伝の入寺で、その権勢はさらに巨大化。
石川五右衛門「絶景かな」 と傾く巨大三門も建立するなど、調子に乗って乗って乗りまくり、
明治以降はその乗りっぷりが祟って水路閣を建てられたりしますが、境内の広大さは何とか維持。
現在は、京都観光における超メジャー級&超大バコ級スポットとしての地位を確立してます。
そんな南禅寺、五右衛門が愛でた桜も無論見事ですが、紅葉もまた見事であり、観光的にも大人気。
というか、山門・方丈・塔頭以外は無料でうろつき可能+大型バスも境内に停車可能なため、
大量の客を乗せたバスが大量&エンドレスで境内へ雪崩れ込むという、最悪の事態が大量発生。
で、その様が何かもう度を超してしまってるため、却って面白く見えなくもないというわけです。
その面白さを堪能すべく、私も乞食の如く無料区域だけうろついてきました。

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泉涌寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年11月21日(金)


泉涌寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

当サイトは、「京都メジャースポットの単独正面突破」 を趣旨としながら、
未訪だったり、あるいは未記事化してたりする超ジャー級スポットが、いくつかあります。
未訪 or 未記事化の理由は、色々です。単に嫌いだったり、あるいは更新最終回用に取ってたり。
また中には、完全に行った気になっていながら実は全然行けてない、などというケースもあり、
今回出かけた泉涌寺も正に、今まできちんとした記事が作れてないことを完全に忘れてたのでした。
けしからん話なのであります。 「御寺」 の呼称を持つ寺に対して、けしからん話なのであります。
泉涌寺。その名の通り、真言宗泉涌寺派の総本山である、堂々たる超メジャースポットです。
東山の南麓に於いて弘法大師が結んだ庵を、月輪大師が大伽藍の設営により再興しようとした際、
寺地の一角より清泉が湧き出てたことから現在の寺号が付けられたともされる、泉涌寺。
四宗兼学の寺として隆盛したことでも知られる寺ですが、最も有名なのは 「御寺」 の名でしょう。
四条天皇以後の多くの帝がここで陵墓を営んだため、 「皇室の菩提所」 としての地位を獲得、
維新以降も新憲法施行までその営繕・修理費は宮内省持ちだったという、ロイヤルな寺であります。
そんなロイヤルな寺に対して 「行くの完全に忘れてた」 のは、あまりにけしからん話なのですが、
しかし泉涌寺、当サイトの今までの記事の中に於いても、行くだけなら行ってるんですよね、何度か。
雲龍院の夜間拝観とか。あるいは、瀧尾神社の祭とか。もしくは、今熊野観音寺の紅葉とか。
また、サイトと無関係ながら何度か出向く機会もあり、すっかり記事を作成済みと思ってたわけです。
けしからん話なのであります。 「御寺」 の呼称を持つ寺に対して、けしからん話なのであります。
というわけで、紅葉シーズンを良い機会に今回、正面から普通に泉涌寺へ出向いてみました。
泉涌寺、流石 「御寺」 だけあって、メイン紅葉がある御座所へ入るには拝観料とは別料金が必要で、
ぶっちゃけ、そのオプション課金のオプション感が金額の多寡に関わらず微妙な感慨を生み、
足が遠のく理由でもあったんですが、今回はそのオプション料金も支払って、堂々入場。
さらに茶屋の蕎麦まで食い、全盛りでロイヤルな紅葉を拝んできました。

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京都刑務所の京都矯正展へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年10月26日(日)


京都刑務所の京都矯正展へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都刑務所。その名の通り、京都市にある刑務所です。
平安遷都後に設けられた 「左獄」 & 「右獄」 にまで遡る歴史を持つこの獄は、
この雅なる街に於けるいわば 「街中の獄」 として、現在に至るまで存在し続けてきました。
「右獄」 はすぐ衰退したものの、 「左獄」 は秀吉の時代まで生き延びた後、小川通御池へ移転。
江戸中期に至ると、六角通へ面した 「三条新地牢屋敷」 、通称 「六角牢屋敷」 が新設。
維新後は短期間の小浜藩邸時代を経て、千本屋敷跡に於いて府立の 「京都府徒刑場」 が成立。
「府懲役場」 「府監獄本署」 「京都監獄」 「京都刑務所」 と改名を繰り返した千本時代の獄は、
囚人の農作業姿が普通に見れたというくらい、 「親水」 ならぬ 「親獄」 的状態を呈していたと言われ、
この状態を改善すべく、獄は当時は過疎地だった現在地・山科へ移転し、 「街中」 を一旦脱出。
しかし山科は山科で、大正の鉄道・道路開通から昭和の高度成長期にかけて都市化が進み、
人口は4000人から14万人へと爆増、移転した刑務所の周囲にはマンションなどがバカスカと林立。
結局、京都刑務所はまた 「街中の獄」 「親獄」 的なる佇まいとなって、現在に至るのでした。
運命を感じるほどの 「街中」 さ加減です。次に移転したとこも、また都市化するんじゃないでしょうか。
「ならもう、徹底的に親獄を深めてしまえ。塀も、取り払ってしまえ」 と思ってるかは知りませんが、
それに近い勢いで 「親」 感に溢れた催しが、毎年10月末、京都刑務所では行われてます。
それが、京都矯正展。 「中の人」 の作業品を 「中」 にて買える、あの矯正展の、京都刑務所版です。
『函館監獄』 などヒットが生まれる隆盛を誇ると共に、獄中見学も人気が高い矯正展ですが、
周辺地域住民の理解が必須な立地を誇る京都刑務所も、当然のようにム所見学はしっかり実施。
良い品が安く買え、おまけに普段中々入れないところにも入れるとあって、人気を博してます。
そんな京都矯正展、私もこのサイトが 「観光テロ」 扱いされ摘発されるかもしれませんし、
そもそも独男自体が違法化してブチ込まれる可能性も無いとは限らないので、
「親獄」 を深めるべく、無論見学込みで行ってみました。

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野宮神社の斎宮行列を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年10月19日(日)


野宮神社の斎宮行列を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

葵祭のヒロイン or 花形である斎王には、モデルみたいなものがあります。
「いや、斎王代のモデルが斎王だろ」 とか言われそうですが、そういう話ではありません。
葵祭・斎王代のモデルである斎王 aka 賀茂斎院には、モデル or 先行者がいるのであります。
それが、斎宮伊勢神宮にて祭祀を司り、その宮殿名 「斎宮」 が呼称化した斎王のことです。
古くは 『日本書紀』 にまで遡るという斎宮の制度が、本格的に整備されたのは、天武天皇の時代。
壬申の乱で天武帝は、伊勢神宮に戦勝を祈願し、勝利。以来、伊勢を 「天下の宗廟」 と規定。
未婚の内親王 or 女王をかの地へ下向させ、祭祀を担わせる斎宮の制度を確立させたのでした。
以来、多くの御供を引き連れ伊勢へ向かう斎王の行列 = 群行は、平安期から中世にかけて存続し、
その群行の様を平安京の周辺のみで小じんまり踏襲した賀茂斎院の行列は、都の風物詩化。
で、その踏襲した賀茂斎院の行列こそが、現代葵祭に於ける斎王代の元ネタとなったわけですね。
「コスプレの元ネタに、さらに元ネタあり」 という話であります。雑な言い方過ぎて、恐縮ですけど。
葵祭・路上の儀が、往時の完コピを目指したコスプレで現在も継続してるのは御存知の通りですが、
では斎宮行列の方も、完コピを目指したコスプレ行列が行われているかといえば、これが難しい。
単純に、京都から伊勢って、遠いし。近鉄特急なら速いけど、徒歩だと5泊6日かかるそうだし。
なので、伊勢と京都それそれの由緒ある場所で、バラバラにイベントが開催されてるのが現状です。
伊勢では、有名な斎王まつり。で、京都では、今回出かけた野宮神社斎宮行列であります。
斎宮は、伊勢へ下向する前、洛外に設けられた 「野宮」 で厳重なる潔斎を行うのが決まりでした。
その 「野宮」 が数多く設けられたという嵯峨野には、 「野宮」 跡がいくつかが神社化して残存。
嵐山にて源氏物語の何ちゃらと縁結びが売りの野宮神社もまた、そんな 「野宮」 跡神社のひとつ。
その由緒と観光客寄せがクロスする形で、ミニ斎宮行列 「斎宮夢行列」 が平成に入って復活し、
2005年には 「斎宮行列」 と改称、嵐山の秋の風物詩として認知度を深めつつあります。
そんな斎宮行列、 「元ネタの元ネタのコスプレ」 を拝むべく、行ってきました。

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御香宮神社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年10月12日(日)


御香宮神社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

御香宮神社。洛南・伏見にあって、 「伏見の総鎮守」 と称される神社です。
清和天皇から名を贈られたと伝わるも、基本的には創建の詳細が不明なほどの歴史を誇り、
山村・石井村・船戸庄村・森村・久米村・北尾村・北内村・法安寺村・即成就院村という伏見の村々、
すなわち 「伏見九郷」 より、伏見城築城の遙か昔から総鎮守として信仰を集める社であります。
その伏見城築城の際には秀吉により移転させられますが、家康の代には現在地へ帰還し、
その家康により社殿も再建され、孫娘・千姫の誕生祝いとして2.3トンに及ぶ 「千姫神輿」 もゲット。
この神輿を得た御香宮神社の秋祭、通称 「伏見祭」 は、伏見城が廃城された後も更に活性化、
維新の波乱や現代の変化も乗り越え、神輿を分割した現在もその勢いは止まるところを知りません。
一週間以上に及ぶ期間、各種行事&子供が多いエリアゆえに活況を極める夜店が展開され、
中でも宵宮に行われる花傘パレードの凄まじさは、当サイトでも2011年にお伝えしてる通りです。
で、今回はその 「伏見祭」 最終日、正にクライマックスたる神幸祭に出かけたわけですが、
えと、あの、今回はいつもと比べてちょっと、いやかなり、いやはっきり言って非常に、日和ってます。
当サイトの祭記事は、ストーカーの如く神輿や行列を追尾しまくってるのが常態なんですが、
今回は門前付近で神輿などを淡々と待ち、宮入りだけ見るという、淡々モードの見物となってます。
待ってる時間もまた、淡々と露店を冷やかしてみたり、あるいは淡々と担々麺を食ってみたりと、
まるでサイト名が 『独虚坊の京都幸せおでかけ日記』 に化けたようなユルさ爆裂状態になってます。
何故こうも日和ったかといえば、 「伏見九郷」 を回る神輿の巡幸範囲が、広過ぎるからです。
酒蔵界隈は無論、北は深草、南は向島、東は六地蔵に及び、更に3基の神輿は別行動。追えません。
加えて、獅子舞や武者行列なども別ルートで参加し、おまけにこれらの全てが早朝から巡幸。
完全追尾はおろかチョイ見を重ねることさえ無理と判断し、淡々見物を渋々決断したのであります。
というわけで、担々麺に加えて豆腐ハンバーグまで混入するユル過ぎ記事となってますが、
しかし、あるいはそれ故に、街に充満する祭の気配は、よりリアルに感じられるかも知れません。
「洛南の大祭」 とも呼ばれる、その大祭ぶり、街の息吹と共に御覧下さい。

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京都岡崎レッドカーペット2014へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年9月21日(日)


京都岡崎レッドカーペット2014へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「アーキテクチユール」 すなわち 「Architecture」 の本義は、
「実躰を Building に籍り形式を線條躰裁に訴へて眞美を發揮するに在る」 がゆえに、
その訳語を 「造家」 より 「建築」 へ改めるべきと主張したのは、日本近代建築の祖・伊東忠太
京都の平安神宮は、そんな伊東が帝大院生時、共作ながらデビュー作として手がけた 「建築」 です。
明治28年、平安遷都千百年祭紀年祭のために平安京・太極殿の縮小ハリボテを岡崎に作ったら、
勢いでマジ神社化したという、 「仏作って魂入れず」 の真逆を行く創建経緯を持つこの神社に、
伊東らは 「古都」 としてのもっともらしさ、もとい、復古的な 「眞美を發揮」 するビジュアルをデザイン。
一歩間違えれば、万博パビリオンかネズミーランドに祈りを捧げるような奇景が生まれてた所を、
「眞美」 により見事超克し、今なお魅力と魔力が稼働し続ける 「建築」 として仕立て上げたのでした。
京都三大祭のひとつにして例大祭であるヒストリカル・コスプレ・パレード aka 時代祭に於いても、
平安神宮が持つもっともらしさ、もとい、復古的な 「眞美」 は、強い魅力と魔力を 「發揮」 してますが、
一方、復古的ではないのに何か 「平安神宮的」 な魔力を持つイベントも、この神社にはあります。
それが、毎年9月中旬に応天門前の神宮道にて開催される、京都岡崎レッドカーペットです。
要は、門前に赤絨毯敷いて各種パフォーマンスを行うという、行政絡みの振興策みたいなもんですが、
ヲタ動員を狙ってコスプレなどの風味も大量導入されてるため、その外観は極めて、魑魅魍魎。
特に2014年は、映画の宣伝で 『機動警察パトレイバー』実物大ハリボテまで御覧のように屹立し、
その真前ではフラダンスが行われるなど、 「状況、カオス!」 と叫ぶしかない事態が現出してます。
しかしそのカオス状況は、宗教ネズミーランド化しかねなかった平安神宮にある意味で相応しく、
また近代化の真中を進む一方で幻獣を愛し、作品にも混入させた伊東が喜ぶものかも知れません。
と、本気で思うかといえば、これも無論もっともらしさを 「發揮」 すべく吐き散らした大嘘ですが、
とにかくハリボテとコスプレが百鬼昼行する赤絨毯、行ってきました。

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光明寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年11月30日(土)


光明寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

「月影の いたらぬ里は なけれども. 眺むる人の 心にぞすむ」 。
浄土宗の開祖である法然上人が、阿弥陀仏への信仰を詠んだといわれる歌です。
月影とは、仏が放つ光のこと。つまり、世界のあらゆるところに仏の慈悲は届いている、と。
しかしその光が真に光となるのは、眺める人の心の中だ、と。念仏を唱える人の心の中だ、と。
上人はそんなことを仰ってるのであります。何と有り難く、示唆に富んだお言葉でしょう。
私たちは、とかく物事の悪い面ばかりを見つめ、論いがちです。また、自身の不幸を嘆きがちです。
しかし、それは間違っている。私たちは、既に、仏の大いなる慈悲に包まれているのです。
如何なる時も、仏の光に照らされているのです。輝いているのです。存在が祝福されているのです。
私たちはそのことに、気付かなくてはいけない。そのことを、受け入れなくてはいけない。
偽りのさもしさに身をやつしては、いけないのです。心を開き光を信じなければ、いけないのです。
と、調子に乗って適当なことを書いてると、違う宗教の勧誘みたいな感じになってきましたが、
とにかく法然上人によると、仏すなわち光であり、光すなわち仏となるんだそうですよ。
そんな上人の開いた浄土宗には、そのままずばりな 「光明寺」 という名の寺がいくつかありますが、
中でも最も有名なのは、上人の廟所がある京都西山粟生野の光明寺ではないでしょうか。
法然が初めて念仏の教えを説き、叡山に襲撃された上人の柩が光で指したという、粟生野の地。
熊谷次郎直実は、この地に念仏三昧堂を建立すると共に、上人の廟所を建立に尽力。
その話を聞いた四条天皇の勅願で光明寺と改名され現在に至る、西山浄土宗総本山であります。
総本山らしい規模ながら、普段は郊外にあって静かな佇まいを見せる光明寺ですが、
紅葉の名所でもあり、秋ともなれば正しく 「光」 を 「観」 る人たちが溢れかえる混雑を現出。
通常は拝観無料ですが、この季節だけは有料化するほどの繁盛振りを見せてます。
そんな光明寺の紅葉、観てきました。紅の光、お楽しみ下さい。

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善法律寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年11月29日(金)


善法律寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

善法寺家といえば、石清水八幡宮の社家であります。
世間的には某アニメキャラの姓としての知名度の方が高いのかも知れませんが、
少なくとも八幡人的に善法寺家といえば、石清水八幡宮社家たる善法寺家のことであります。
善法寺家。鎌倉期の頃から嫡流の田中家と共に、石清水の別当 = トップを担った家です。
のみならず、室町期には同家の紀良子2代将軍・足利義詮の側室となり3代将軍・義満を出産、
その縁ゆえか何なのか、義満は石清水をたびたび参拝し、石清水と幕府との関係を強化。
また、良子の母である智泉聖通は四辻宮善統親王の孫 = 順徳天皇の曾孫ともいわれたため、
義満の皇胤説が生まれる要因になったりと、様々な形で歴史に関連する由緒を持つ家でもあります。
あ、神社のトップが 「宮司」 ではなく 「別当」 となってるのが、妙に思われるかも知れませんが、
日本は明治維新に至るまで、神と仏が入り交じり習合しているのがそもそも基本的な信仰スタイル。
特に石清水八幡宮は、かつては 「石清水八幡宮寺」 と呼ばれるほど、その傾向が顕著でした。
山上の本殿には僧形八幡像がどっしりと安座し、その前では祝詞の声と読経の声が日々入り乱れ、
山内には 「男山四十八坊」 とOTK48的な呼称が生まれるほど、宿坊が林立してたわけです。
善法寺家もまた、社務を務める一方で山麓に寺院も建立しました。それが、善法律寺。
律の字が入ってるのは、律宗寺院だから。創建時に招いたのは、東大寺の僧だそうですが。
善法寺家の私邸を寺化して創建された善法律寺には、のちに玉の輿に乗った良子が紅葉を寄進。
ずっと時代が下って明治の神仏分離の際は、山上本殿の僧形八幡像が運び込まれました。
善法寺家は明治に還俗して名前を変え、以降どうなったか私は全然知らないんですが、
善法律寺は現存し、僧形八幡像と、そして良子由来の紅葉を護り続けています。
「紅葉寺」 という別名の由来ともなったその紅葉、観てきました。

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無鄰菴へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年11月28日(木)


無鄰菴へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

「俺流」 。反吐が出る言葉です。
教養が、無い。それを気にしない度量も、無い。にも関わらず勉強は、しない。
でも、何かしたい。 「したい」 という気持ちのままに、したい。素直な気持ちのままで、したい。
それが、何故か許されると思ってる。何なら、積極的に許されなければならないと思ってる。
許されないと、怒り出す。 「後向きだ」 「揚げ足取りだ」 「重箱の隅つつきだ」 などと、怒り出す。
そんな、腐った臆病さ+狂気に近い鈍感さ+可愛げの無い甘えのコラボが生む、 「俺流」 の世界。
反吐が出ます。いや、何故出るかといえば、私も紛れもなく 「俺流」 な奴だからなんですけど。
金も能力も権力も無い私のような 「俺流」 男の場合、こんな性根の腐ったサイトの更新にいそしみ、
安全圏にて箱庭的世界を作り 「全てが自分の思い通り」 と悦に入る傾向があるわけですが、
現実的に金や権力がある 「俺流」 男の場合、作る 「箱庭」 もまた現実的になる傾向があるようです。
要は、本当に庭を造ってしまうわけですね。別荘とかに。それも、作法無視の 「俺流」 で。
京都・岡崎の名勝・無鄰菴もまた、そんな 「俺流」 感に溢れた庭園と言えるのではないでしょうか。
「京都に於る庭園は幽邃といふことを重にして、豪壮だとか雄大だとかいふ趣致が少しもない」
「多くは規模の小さい、茶人風の庭であって面白くないから、己は己流儀の庭園を作ることに決した」
(黒田天外 『続江湖快心録』 。但、鈴木博之 『庭師 小川治兵衛とその時代』 より孫引) と、
正に 「俺流」 な宣言の下にこの別邸を建てたのは、近代日本の政治史に君臨する、山縣有朋
「ほんなら田舎帰るか、東京で作りなはれ」 という顰みを踏み潰し、植治の手を借り作ったその庭は、
東山を借景とした芝生の庭に疏水が流れるという、何というかこう、のびのびした世界を、現出。
まるで吉本芸人の映画の如き 「俺流」 加減ですが、しかし山縣のこの 「俺流」 は結局、
現代人の我々が一見して 「あっ、成り上がりの庭っ」 と脊髄反射で思わずにはいられないほど、
近代大型和風庭園の原型として、後世の成り上がりたちに影響を与えたのでありました。
そんな 「俺流」 の偉人が作った 「俺流」 な無鄰菴、紅葉も綺麗と言われたら、
「俺流」 の末席を汚す者としては、行かぬわけにはいかぬでしょう。

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