高瀬川・木屋町通へ夜桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年4月2日(土)


高瀬川・木屋町通へ夜桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

木屋町通は電気の道だ」 みたいなことを、ふと、何となく、思ったりします。
エロき照明が夜な夜な輝いてるからではありません。歴史的経緯から、そう思ったりします。
いや、無論ここは、運河・高瀬川の開削によって材木商が集結し、その名が付けられた町&道。
そして高瀬川も無論、電気の無い時代に活躍し、電気の時代の到来と共に本来の役目を終えた川。
後はせいぜい、幕末に新時代を目指して京へ集った武者が、次々とブチ殺された地、というくらい。
一見、電気は関係無さそうです。歴史的経緯は、電気の無い時代に全てが仕上がってそうです。
が、京都の電化についてもこの道は割と大きな役割を果たし、その影響は現在も残ってるんですよ。
高瀬川を船が往来してた 「現役」 時代の木屋町通は、現在より遙かに幅が狭い道だったとか。
また、その名が端的に示す通り、沿道に建つのは材木などの蔵が多く、飲食店は少なかったとか。
多少なりとも幅がある現在の木屋町通が出来たのは、ここへ電車が走るようになった明治後期。
日本初の営業電車を走らせた京都電気鉄道は、2号線・木屋町線の用地として高瀬川沿いを選択。
クラシックな電車が走るスペースを確保すべく、木屋町通は現在のように拡張されたのでした。
更には、京都初の電力会社・京都電燈株式会社が、明治22年に本社&発電所を作ったのも、ここ。
京都電燈、開業日には沿道に電飾を灯しまくり、現代と同様な不夜城の世界を現出させたとか。
電車によって道の現在形が築かれ、最初期のライトアップが行われた地かも知れない、木屋町通。
こうなると、何となくどころか明確に 「電気の道」 だと思うと思うんですが、あなたどう思いますか。
そんな 「電気」 な経緯に因むのか、高瀬川沿いにて咲く桜を電飾で照らす毎年春のライトアップは、
かつて京電・木屋町線の電車が駆け抜けた木屋町二条から木屋町五条の間にて、主に実施。
エロき照明が特に輝く三条~四条の辺は、中に入れば色々ふんだくられそうな店が並んでますが、
しかし、歩くだけならタダなので、タダが好きそうな方々が市境も府境も国境も越えて、集まってます。
ならば、行かねばならぬ。その手の混雑への特攻が趣旨の当サイトとしては、行かねばならぬ。
と考え、桜が爆裂してる 「電気の道」 に、「電気の武者修行」 な気分で突っ込んでみました。
夜の高瀬川に、マンボ・サンは輝くのでしょうか。ゴングは鳴るのでしょうか。

続きはこちら »

京都・東山花灯路2016へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年3月20日(日)


京都・東山花灯路2016へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

当サイトへの感想として、 「楽しそう」 という声を頂くことが、稀ながらあります。
京都に於ける超メジャースポットへの単独正面突破を趣旨とする、我が 『ひとりでうろつく京都』 。
ベッタベタのスポットへひとりで特攻し、ベッタベタの客に塗れることで、己が魂をズタズタに傷つけ、
その魂の傷から流れ出る血を以て現場のリアルを記すというのが、サイトの基本コンセプトです。
特攻により生じる苦痛を、ある種の 「ヤラレ芸」 として面白がってもらおうと思ってるわけでは全くなく、
また、自虐の裏返したるナルシズム or エリーティズムで共感を呼ぼうと思ってるわけでも全くなく、
苦痛を正面から受け止め、その苦痛を体感的かつ直接的に伝えることを考えて、更新を続けてます。
が、他人から見ると、崇高なる信念に基づくこの特攻&表現が、何か、楽しそうに見えるそうです。
花灯路の記事で 「震災を忘れていいのか」 的なことを書いてても、何か、楽しそうに見えるそうです。
そういう風に見えるということは、つまり、私はこの荒行を心のどこかで楽しんでるんでしょう。
文句を垂れながらもその一方で、こっそりと、ひっそりと、混雑や賑わいを楽しんでるんでしょう。
卑猥です。卑猥であることは必ずしも悪ではありませんが、独男が卑猥であることは多分、悪です。
そして、こういった卑猥さは、少なくともこのサイトに於いて私が求めているものではありません。
足りてない。苦痛が、足りてない。ディープな苦痛ではなく、凡庸にして浅薄な苦痛が、足りてない。
卑猥な享楽を許す隙などない、酸素自体が毒と化したような逃げ場なき苦痛が、足りてない。
そう考えた私は、2016年度の東山花灯路特攻を、徹底的に混雑する日を選んで決行してみました。
桜シーズン直前&紅葉シーズン直後という閑散期に、ベッタベタスポットである東山&嵐山にて、
電飾をビカビカ光らせて夜間の集客を図り、ひいては宿泊客増加も狙って開催される、京都花灯路
その客層は、光るもんがあれば脊髄反射で近付き群がるような、これまたベッタベタなものであり、
当サイトは崇高なる趣旨を示せる絶好の機会として、東山花灯路については特攻を毎年かけてます
特攻開始直後に震災があった為、個人的には電気について色々感慨が湧くイベントなんですが、
今回は、 「悪天が続いた会期の最終日目前+連休の中日+日曜」 を決行日としてわざわざ選び、
手前勝手な感慨や嘆息を許す隙などない、凡庸にして浅薄な苦痛の中へ飛び込んだわけです。
逃げ場なき混雑で感じた私の苦痛は、体感的かつ直接的に伝わるでしょうか。

続きはこちら »

五山送り火の大文字を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

2015年8月16日(日)


五山送り火の大文字を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

五山送り火。ござんのおくりび。間違いなく、京都の夏に於ける最大級の風物詩です。
お盆に際し現世へ帰って来た精霊 aka おしょらいさんを、再び冥界へ送る万灯籠の習俗が、
花の都で様々な影響を受け大規模化した末、闇夜にページェントを現出させるに至った、送り火。
炎で描かれた 「大文字」 「妙法」 「舟形」 「左大文字」 「鳥居形」 が街を囲むそのビジュアルは、
本来の目的たる信仰を集めると共に、 「夏の風物詩」 の枠を越え京都観光そのもののアイコン化。
ホテル屋上で酒の肴に眺める仏罰必定の輩から、五山コンプへ挑む自転車の珍走団に至るまで、
様々な阿呆に阿呆な意欲をも湧かせる巨大イベントとなっていることは、誰もが知る所でしょう。
そんな五山送り火、京都の超メジャースポットへの単独正面突破をモットーとする当サイトとしては、
本来なら絶対に見逃すわけにはいかない、何を差し置いても押さえておくべき行事ではあります。
しかし、これまで当サイトに送り火記事は、存在しませんでした。あらゆる形で、存在しませんでした。
決して、避けてたわけではありません。被災木材拒否でウンザリし、避けてたわけではありません。
逆です。ネタの採取は毎年、敢行し続けてきたのです。そして、全てに失敗し続けてきたのです
採取を始めた2011年は、自転車による五山コンプに挑むも、嵐山へ珍走する途中で、タイムアウト。
2012年は、懲りずに自転車でコンプに挑むも、北山通の混雑で躓き、舟形の手前で貧血ダウン。
2013年は、混雑回避を考え、敢えて徒歩&公共交通機関で挑むも、妙法を過ぎた辺で早速、アウト。
2014年は、発狂して全徒歩コンプに挑むも、大文字以外全アウト。と、失敗し続けてきたのです。
そして、各山の点火時間が繰り上がった2015年、私は流石に考えました。コンプはもう、止めようと。
むしろ、1年に1山ずつ回る方がまだ、いいかも。その方が、うちには、合うかも。そうだ、そうしよう。
というわけで当サイトは、五山送り火を5年かけてコンプする5ヵ年計画の発動を、ここに宣言します。
計画発動期間中、彼女が出来てサイト更新を辞めたり、または私が死んだりするかも知れませんし、
外出の面倒さから年数が6ヵ年とか8ヵ年とかに化ける可能性もありますが、とにかく宣言します。
で、記念すべき5ヵ年計画初年度のターゲットは無論、大文字。東山・如意ヶ嶽に浮かぶ、大文字。
「大文字焼き」 なる呼称さえ生んだ、五山送り火にとってキービジュアル的な存在の山です。
この大文字を、出町から北大路までの大混雑する加茂川西岸から、拝んでみました。

続きはこちら »

京都・東山花灯路2015へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年3月13日(金)


京都・東山花灯路2015へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

紅葉終了直後の12月&桜開花直前の3月という観光閑散期に、
電飾を導入した無料の客寄せイベントとして嵐山&東山にて始まった、京都花灯路
その客層は、蛾の如く光へ群がる輩+蟻の如く無料を喜ぶ輩のWパンチという美しきものであり、
「京都観光の超メジャースポットへの単独正面突破」 という崇高なる趣旨を明確に示せる機会として、
当サイトでは2011年度の東山花灯路を皮切りとして、このイベントの定例特攻を続けてきました
が、その2011年は無論、東日本大震災が発生した年。それも、発生数日後に花灯路が始まった年。
関東圏を中心に各地で電気が止まる中、混乱状態で開催されたこの年の印象が強過ぎた為か、
私は花灯路について現在でも、阿呆な観光客を眺めて面白がるという阿呆な冷やかし根性と、
震災により叩きつけられたある種の根源的懐疑が、同時に惹起させられるという状態が続いてます。
グリーン発電であろうが何であろうが、ライトアップそのものが孕む何かに対する、根源的懐疑。
そして、実は京阪神エリアもまた地方へ原発を押しつけ続けてるという事実に対する、根源的懐疑。
震災から4年経ち、その懐疑に何らかの答えが出たかと言えば、そんなことは一切ありません。
また、問題の主因たる消費社会への反省が深まっているかと言えば、そんなことも一切ありません。
というか、事態の根源的などうにもならなさは、むしろより明確な姿となって我々の眼前に現前し、
そのどうにもならなさ故、一時はあちこちで乱用されていた 「絆」 や 「祈」 の文字も、段々と後景化。
東山花灯路2015の行灯文字でも、以前の 「祈」 に変わって、 「京」 の字が登場してたのでした。
ある種の積極性の回避という気配を除けば、無意味な記号性しか感じられない、 「京」 の字。
「あ~」 という感じなのであります。納得でもなく、落胆でもない、 「あ~」 という感じなのであります。
それこそ、無意味な記号のような響きで 「あ~」 という声が漏れる、そんな感じなのであります。
で、2015年はこんな感じだと言われたら、確かにそんな感じもするんですが、あなたどう思いますか。
そんな 「あ~」 な感じの東山花灯路2015、 「どんな感じだ」 という話になってて大変恐縮ですが、
今回も冷やかし根性と根源的懐疑が交錯してクラクラする頭で、特攻、やってきました。
適当な写真の羅列から 「あ~」 な感慨、感じてもらえると幸いです。

続きはこちら »

野宮神社の斎宮行列を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年10月19日(日)


野宮神社の斎宮行列を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

葵祭のヒロイン or 花形である斎王には、モデルみたいなものがあります。
「いや、斎王代のモデルが斎王だろ」 とか言われそうですが、そういう話ではありません。
葵祭・斎王代のモデルである斎王 aka 賀茂斎院には、モデル or 先行者がいるのであります。
それが、斎宮伊勢神宮にて祭祀を司り、その宮殿名 「斎宮」 が呼称化した斎王のことです。
古くは 『日本書紀』 にまで遡るという斎宮の制度が、本格的に整備されたのは、天武天皇の時代。
壬申の乱で天武帝は、伊勢神宮に戦勝を祈願し、勝利。以来、伊勢を 「天下の宗廟」 と規定。
未婚の内親王 or 女王をかの地へ下向させ、祭祀を担わせる斎宮の制度を確立させたのでした。
以来、多くの御供を引き連れ伊勢へ向かう斎王の行列 = 群行は、平安期から中世にかけて存続し、
その群行の様を平安京の周辺のみで小じんまり踏襲した賀茂斎院の行列は、都の風物詩化。
で、その踏襲した賀茂斎院の行列こそが、現代葵祭に於ける斎王代の元ネタとなったわけですね。
「コスプレの元ネタに、さらに元ネタあり」 という話であります。雑な言い方過ぎて、恐縮ですけど。
葵祭・路上の儀が、往時の完コピを目指したコスプレで現在も継続してるのは御存知の通りですが、
では斎宮行列の方も、完コピを目指したコスプレ行列が行われているかといえば、これが難しい。
単純に、京都から伊勢って、遠いし。近鉄特急なら速いけど、徒歩だと5泊6日かかるそうだし。
なので、伊勢と京都それそれの由緒ある場所で、バラバラにイベントが開催されてるのが現状です。
伊勢では、有名な斎王まつり。で、京都では、今回出かけた野宮神社斎宮行列であります。
斎宮は、伊勢へ下向する前、洛外に設けられた 「野宮」 で厳重なる潔斎を行うのが決まりでした。
その 「野宮」 が数多く設けられたという嵯峨野には、 「野宮」 跡がいくつかが神社化して残存。
嵐山にて源氏物語の何ちゃらと縁結びが売りの野宮神社もまた、そんな 「野宮」 跡神社のひとつ。
その由緒と観光客寄せがクロスする形で、ミニ斎宮行列 「斎宮夢行列」 が平成に入って復活し、
2005年には 「斎宮行列」 と改称、嵐山の秋の風物詩として認知度を深めつつあります。
そんな斎宮行列、 「元ネタの元ネタのコスプレ」 を拝むべく、行ってきました。

続きはこちら »

2014年祇園祭・山鉾巡行の後祭巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年7月24日(木)


2014年祇園祭・山鉾巡行の後祭巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

このサイトでも何度か書いてますが、祇園祭の主役はあくまでも、神輿です。
山鉾巡行の果てしなき観光化+宵山の人間大密集のため、印象は薄いかも知れませんが、
17日の神幸24日の還幸こそが、祇園祭の最重要行事、スピリチュアル・コアなのであります。
そもそも山鉾巡行は、この神輿の巡幸路にいる疫神を集め浄めることこそが、本来の役目。
なので、本当は24日の還幸に於いても山鉾は、露払いとして巡行で道を浄めなくてはなりません。
が、その巡行すなわち後祭巡行は、2013年までの実に半世紀近くの間、無くなってました。
後祭。あとまつり。10基の山鉾による巡行が行われ、 「あとのまつり」 の語源ともされる、後祭。
そんな後祭は1966年、交通や観光への配慮で山鉾巡行が前祭の17日へ統一されたため、消滅。
以来、この合同巡行は48年に亘って続き、24日に山鉾が建つことは長らくなかったわけです。
半世紀近い時間が経過する間には、後祭を知らない世代も、大量増殖。というかむしろ、主流化。
「山鉾巡行 = 17日」 以外の認識を持ってる人は、現在では少なくなっているのも現実でしょう。
しかし、祭の当事者の方々は当然というか何というか、後祭の復活がずっと悲願であり続けたようで、
特に2010年以降になると、まるで不況に反比例するかの如くその動きが活性化+具体化。
再建が絶対に無理と思われていた後祭の最後尾・大船鉾が、まず150年ぶりに復活してしまい、
後祭そのもの復活も、2014年、ジャスト半世紀から少しフラゲする形で成されてしまったのでした。
というわけで、復活したその後祭巡行、特攻であります。先週の前祭に続き、特攻であります。
が、そもそも 「特攻」 となる混雑が生じるほど、人は来るのか。10基による巡行に、人は来るのか。
そもそも巡行自体、どうなるのか。 「新設に近い」 とも言われる巡行自体、どうなるのか。
単に、前祭と同じ混雑が出来するのか。それとも、今まで見たことのない景色が現出するのか。
その辺を目撃し、またも歴史の一証人となるべく、週跨ぎで追尾してみました。

続きはこちら »

祇園祭・後祭の山鉾曳初めへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年7月20日(日)


祇園祭・後祭の山鉾曳初めへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

曳初め。読みは、ひきぞめ。いわゆる、山鉾の試し曳きのことです。
巡行の一週間あたり前から始まる鉾建て&山建てにより路上へ姿を現わした山鉾は、
問題なく運行が出来るかどうかをチェックする試運転が行われますが、これこそが、曳初め。
本番の巡行では、屈強なるボランティアや学生で構成される曳き手がエンジンを担うわけですが、
曳初めに於いて縄を引っ張るのは、その場に居合わせた、年齢も性別も不問の一般人大勢。
つまり、誰もが鉾を曳く体験が出来るわけであり、故に本番とは違う熱気に溢れる行事となることは、
うちでも2012年の長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾・鶏鉾・月鉾の曳初め記事にてお伝えしてる通りです。
で、その曳初めへ再び特攻してみたわけですが、今回は2012年と事情が大きく異なります。
山鉾巡行の本義は、17日神幸24日還幸で巡幸する八坂神社の神輿の露払いにこそあるので、
17日は前祭として、24日は後祭として、週またぎで2回開催するのが、正しいフォーマット。
しかし高度成長期の1966年、渋滞の緩和や観光客の集客、また日常業務のストップを回避すべく、
後祭の山を前祭の後尾につける17日の合同巡行が始まり、それが半世紀近く続いてました。
そんな後祭が、2014年、復活。で、今回出かけたのは、その復活した後祭の曳初めであります。
実に49年ぶりの、後祭の曳初めであります。後祭 「列」 の曳初めでなく、後祭の曳初めであります。
また今回は、150年ぶりに復活する大船鉾の路上走行デビューも、大きなトピックでしょう。
蛤御門の変の際に焼失して以来、100年以上に渡り居祭りを続けてきた四条町の大船鉾ですが、
90年代以降の囃子方の復活+無形文化遺産登録+ヨドバシでの何ちゃらかんちゃらに加え、
京都青年会議所+京都ライオンズクラブ+一般寄付もあり、超ド級の鉾の再建をこの時代に実現。
バブル期でさえ絶対無理と思えた難事業を成し遂げ、めでたく 「出港」 の日を迎えたわけです。
その威容を一目見たいと集まった群集が形成する人間の海へ、堂々と 「出港」 する様を、
私もまた人間の海の一部となって拝み、歴史の一証人となったのでした。

続きはこちら »

2014年祇園祭・山鉾巡行の前祭巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年7月17日(木)


2014年祇園祭・山鉾巡行の前祭巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

祇園祭山鉾巡行、恒例となった追尾の2014年度版であります。
いや、山鉾巡行に関しては正直、特に毎年追っかけようと思ってたわけではありません。
無論、京都観光のキング・オブ・キング、最早アイコンそのものと言える祇園祭のメインイベントを、
ベタスポット&ベタイベントの単独特攻を旨とするうちが、看過するわけには行かないでしょう。
しかし、毎年やるのはどうかと思ってます。より明確に言うなら、やりたくないと思ってます。
だって、しんど過ぎるし。比喩とか誇張でなく、リテラルに死の恐怖を感じるくらい、しんど過ぎるし。
憤死しそうな暑さが満ちる7月の京都で、人間が密集する中を走り回るなど、狂気の沙汰だし。
それに、他の三大祭も、別に毎年行ってないし。というか、祇園祭の他の行事も、全然行ってないし。
山鉾巡行だけ毎年毎年追いかけ続けなくてはならん理由は特に無い、という話なのであります。
にも関わらず毎年毎年追いかけ続けたのは、ここ数年の山鉾巡行に大きな変化が立て続けに起こり、
その変化が如何なる影響を及ぼしてるかが気になり、実態を見届けたかったからに他なりません。
2012年には、蛤御門の変の大火で焼失した大船鉾が、唐櫃ながら150年ぶりに巡行へ復帰。
2013年には、その大船鉾が本来最後尾を務めていた後祭巡行の2014年復活が決定したため、
半世紀に渡り続けられてきた、32基の山鉾が一斉に揃う17日の合同巡行が、最終年を迎えました。
そして今回2014年は、後祭が復活するのであります。24日の巡行が、復活するのであります。
それに伴い、17日の巡行は前祭の巡行となり、全23基の山鉾にて行われるのであります。
これはもう、歴史的な事態です。混雑や疲労やアウェー感を、どうこう言ってる場合ではないのです。
行かないわけには、いかないのです。というわけで、今回もまたまた追尾ということにしたのです。
本義へ立ち返り、神輿巡幸に対応した本来のフォーマットの巡行が、どういうものになるのか。
恐らく現行世代の大半が初めて目にすることになる 「本物」 の巡行は、如何なるものになるのか。
そして、それでもやっぱり気になる混雑・客層・ひとりの気まずさなどは、どうなるのか。
そのあたりを見届けるべく、またしても灼熱の四条通へのたくりこんだのでした。

続きはこちら »

鞍馬寺の竹伐り会式へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年6月20日(金)


鞍馬寺の竹伐り会式へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「金星」 「650万年前」 「宇宙エネルギー」 「サマートクマラ」 などなど、
ややアストラルな検索ワードでうちへ飛んでくる方も多い、京都パワスポ界の雄・鞍馬寺
実際、それこそ金星人やアセンションといった 「あっち」 な話題の多いスポットではありますが、
現世に於いても千年を超す古刹として、もうちょっと 「こっち」 な由緒もまたこの寺院は持ってます。
平安遷都以前の770年、鑑真和上の高弟・鑑禎がこの地にて毘沙門天像を祀ったことに始まり、
遷都後には造東寺長官・藤原伊勢人が、千手観世音を追加で祀ると共に、堂塔伽藍を建立。
平安中期には東寺の高僧・峯延が根本別当に就任、後に中興の祖と崇められる働きを見せたことで、
鞍馬寺は特に金星人の力を借りることも無く、洛北の名刹としての道を歩むようになったわけです。
ただこの峯延上人、東寺出身らしく呪術に長け、 「あっち」 的とも言える逸話もあったりします。
修行中の上人にある日、 「舌長きこと三尺ばかり、さながら火炎の如し」 という大蛇が襲来しますが、
上人はひるまず、当時恐らくバリバリだった東寺仕込みの真言を唱え、霊力のみで大蛇を呪殺。
朝廷より派遣された人夫50人で運んだ大蛇の死体は、刀でぶった切られ、崖へ捨てられたそうです。
「あっち的」 というよりは完全に 「あっち」 というか、とにかく色んな意味でパワフルな逸話ですが、
鞍馬寺ではこの逸話に因んだ儀式を今も続けており、それこそが今回訪れた竹伐り会式であります。
鞍馬寺の門前組織・七仲間の最有力集団であり、 「鞍馬の火祭」 でも活躍する大惣法師仲間が、
大蛇に見立てた竹を往時の僧兵の如き姿で勇ましく叩き割る、毎年6月20日開催の竹伐り会。
2つの座がその年の豊作を賭け速さを競い合うルールも手伝い、実にワイルドとなるその伐りの様は、
牛若丸&弁慶&天狗の伝説をも想起させる、鞍馬らしいロマンに溢れたものと言えるでしょう。
そんな竹伐り会式、6月の湿気に満ちた暑さの中、テクテクと徒歩で山を登り、出かけてきました。
「あっち」 と 「こっち」 が交錯するロマンと、 そのロマンに引き寄せられた大量の人民が、
山上の境内で汗まみれになって集結し入り乱れてる様、とくと御覧下さい。

続きはこちら »

上賀茂神社へ斎王代御禊の儀を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年5月4日(日)


上賀茂神社へ斎王代御禊の儀を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

斎王代になる方法」 という検索ワードで飛んで来る方が、
うちのようなチンピラ or アングラ or ゲテモノサイトにも、たまにいらっしゃいます。
かつて伊勢神宮 or 賀茂社に奉仕した未婚の女性皇族・斎王を、戦後に民間の手で再現し、
京都三大祭のひとつ・葵祭路頭の儀に於いては文字通り花形として降臨する、斎王代
そんな斎王代になりたい、と。なる方法が知りたい、と。検索したらどっかにあるだろその方法、と。
しかし、斎王代の選考過程は公にされておらず、そもそも一般公募も特に行われてはいません。
やはり三大祭のひとつ・祇園祭に於ける最大のミステリーである長刀鉾の生稚児と同じく、
誰も知らないところで決定され、でも決定したら誰もが知ってる家の子弟だったりするのであります。
要するに、そういう類のもんなのであります。なろうと思ってなれるもんでは、ないのであります。
ゆえに、 「斎王代になる方法」 などという情報は、うちの如きチンピラサイトにあるわけがなく、
またそんなもんは最初から存在もせず、一番の近道は結局 「来世に賭けろ」 となるのであります。
あ、私は別に 「斎王代は公募で民主的に決めるべき」 とか思ってるわけではありませんよ。
むしろ、逆です。そういうのがあってもいい、と思ってます。何か、人類の教養みたいなもんとして。
それに、誰より斎王代になった当人が、なった理由ゆえに不条理を感じてるとも限りませんしね。
糞暑い十二単着せられて不条理、とかね。ムサいカメに写真撮られまくって不条理、とかね。
図々しく撮る奴も不快だけど、私みたいに申し訳無さげに撮る奴もこれまた不快で不条理、とかね。
そんな大変かも知れない斎王代が、本番たる葵祭・路頭の儀の前に行うのが、御禊の儀。
上賀茂神社 or 下鴨神社にて身を清め、 「天皇の御杖代」 の資格を正式に得るという儀式です。
リアル斎王は、この御禊&路頭の儀だけが斎王の御所 = 斎院から外出できる機会であり、
ゆえに都大路にはその雅な行列を一目見んと、貴賎問わず多くの群衆が集まったそうですが、
現代の御禊の儀もまた、往時の如き賑わいがしっかりと現出する神事になってます。
雅と雅ならざるものが交錯するそんな御禊、行ってきました。

続きはこちら »

京都・東山花灯路2014へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年3月16日(日)


京都・東山花灯路2014へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

人は何故、光を求めるのか。何故、闇の中に光を求めるのか。
「暗いから」 「暗いと何も見えへんから」 「何も見えへんと不便やから」 と答える輩には、
「暗くなったら寝え。日照時間だけ起きとけ」 としか返し様のない、深淵なる問いであります。
本能の名残なのか何なのかは知りませんが、人は実用的な理由が無くとも光を求めるものです。
震災以降も多発するライトアップ or イルミネーションの人気は、その証明に違いありません。
「いや、それは交尾へのステップという極めて実用的な理由があるんだよ」 という下衆の輩には、
交尾へ全く繋がらないのに、こうして2014年も花灯路へ特攻する私の動機を説明できないでしょう。
正直、私は東山花灯路に、ある種、大きな声では言えない類の魅力を感じ始めてます。
光を求める人間の根源的なオブセッションと、それを垂れ流しで露出する快感を感じ始めてます。
そんなことを、震災関係の展示が激減した今回の春の花灯路で、自覚させられたのです。
閑散期における純然たる電飾客寄せイベントとして始まり、今やすっかり定着した、京都花灯路。
勝手ながら私にとっては、初めてまともに特攻したのが震災直後の2011年春であったため、
「光とは何か」 or 「灯とは何か」 みたいなことを、考えさせられるイベントだったりします。
同時に、 「その影に生じる闇とは何か」 みたいなこともまた、考えさせられるイベントだったりします。
電力不足による終了フラグをひりひりと感じさせられた前回前々回前々々回とは異なり、
震災の事を忘れたかの如く展開された今回の東山花灯路でも、その印象は特に変わりません。
いや、むしろそれ故に、光へのオブセッション&その影に生じる闇を、強く感じさせられたのでした。
人は何故、闇の中に光を求めるのか。正確に言えば、何故、わざわざ闇の中で求めるのか。
凡庸な客寄せイベントだからこそ、そんな問いを丸出しで転がしてる東山花灯路2014、
例年よりやや暗めの写真で、影&闇の魔力と共にお楽しみ下さい。

続きはこちら »

山鉾を一切見ずに2013年の祇園祭・山鉾巡行を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

2013年7月17日(水)


山鉾を一切見ずに祇園祭・山鉾巡行を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

菊地成孔+大谷能生 『M/D マイルス・デューイ・デイヴィスIII世研究』 では、
マイルスの最高傑作である 『Kind Of Blue』 について、一切言及がなされてません。
アーティスト研究を行う上で、外すことが絶対出来ない作品を、敢えて空白にするという、暴挙。
そして、対象の中心を隠蔽するその暴挙が、対象の本質をより浮かび上がらせるという、マジック。
よくわからんけど、そういうの、何か格好いい。よくわからんけど、そういうの、やってみたい。
という高踏極まる動機から、2013年の山鉾巡行追尾は、山鉾をほぼ一切見ずにやってみました。
祇園祭の顔、いや、京都観光のアイコンとも言える山鉾巡行の中心を、敢えて隠蔽する。
その暴挙により、京都観光、いや、京都そのものの本質を、浮かび上がせてみようと思うのです。
いやあ、格好いい。こんなことを思いついた俺、実に格好いい。うひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ。
えと、いや、あの、山鉾隠蔽には他にも一応、動機があります。後祭の復興が、そうであります。
観光集客力アップ+交通規制日削減+仕事止まるの堪忍しとくれやすなどの理由から、
元来は17日前祭+24日後祭の2回開催だった山鉾巡行が17日に一本化されたのは、昭和41年。
以来、巡行が持つ信仰の空洞化&周囲の馬鹿騒ぎ化は果てしなく進行したわけですが、
そんな高度経済成長期的アホアホメタボリズムを捨て、2014年、後祭が復活するのであります。
それは、当事者である山鉾町の人たちにとっては当然、悲願の旧儀復興となるのでしょう。
が、私のような外野の人間からすると、「昭和の無形遺産が消える」 という印象がしなくもありません。
馬鹿のような暑さの中で、馬鹿のような混雑の中を歩き回り、巡行後半は客の大半が半死半生。
そんな 「昭和」 な馬鹿騒ぎが、消えるかも知れない。そう思うと、少し寂しくなったのです。
という意味不明な感傷+先述の中二病+おまけに当日の天気も今イチで写真が撮りにくいため、
思い切って山鉾には目を向けず、肥大化の末に消えていく外縁ばかりを見つめてみました。
やはりマイルスのアルバム 『In A Silent Way』 の 「Shhh/Peaceful」 において、
テーマを全カットした編集が音響の新しい地平を開いたようなマジックが、ここでも起こるのか。
それとも、ただ単に 「肉抜きの牛丼」 みたいなもんに成り果てるだけで、終わるのか。
中心を隠すことで浮かび上がった本質、その目でお確かめ下さい。

続きはこちら »

祇園祭の宵宮祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年7月15日(月)


祇園祭の宵宮祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

祇園祭を 「二つの祭が同時進行している」 と言ったのは、山路興造
いわく、平安期から八坂神社主体で行われている神輿渡御が中心の 「祇園御霊会」 と、
中世以降の下京町衆主体で行われる山鉾巡行中心の 「祇園祭り」 が、同時進行している、と。
( 平凡社刊 『別冊太陽 京の歳時記 今むかし』 中 「月次の京・七月」 の項より )
もちろん実際は、両者は密接に関わり合い、山鉾巡行もそもそもは神輿渡御の先触れです。
が、現場を歩くと、山鉾町と八坂神社近辺で空気が違うと感じられるのもまた、確かだったりします。
山鉾町に漂う、むしろこちらを 「御霊会」 と呼びたくなる、闇や恐怖さえ孕んだ独特の雰囲気。
そして八坂神社と門前の祇園町に漂う、一転してオーソドックスかつ大らかな、神祭りの雰囲気。
いろんな意味&点でややこしそうなので、私には何もわからんとしか言えない話ですが、
とにかく空気の違いは明白に存在し、その辺がクリアになるのがこの宵宮祭以降ではないかな、と。
もう充分に知られてるようで、案外やっぱり知られてないようですが、祇園祭にも神輿は出ます。
神輿は無論、神様の乗り物。ゆえに、神輿が出る場合、本殿から神様を遷す儀式が、必須。
というわけで、祇園祭でもこの儀式は当然執行され、行われる日は神幸の2日前である、7月15日。
一般的には 「宵々山」 の夜に、八坂神社では 「宵宮祭」 として遷霊神事が行われるわけです。
遷霊の儀式そのものは、境内の照明完全オフ+撮影も完全禁止という、極めて厳粛なもの。
厳粛過ぎて、何やってるのかわからんくらい地味だったりしますが、とにかく、極めて厳粛なもの。
しかし、門前の祇園商店街は、 「宵宮神賑奉納・前夜祭」 として様々なイベントを開催。
その賑わいの空気が、先述のように山鉾町とはちょっと違うテイストなのが、面白かったりします。
そんな宵宮祭、混雑の酷さは山鉾町よりほんの少しだけマシ or ほぼ変わりませんが、
より本義に近い儀式と賑わいの香りを嗅ぐべく、突っ込んでみました。

続きはこちら »

地主神社の恋愛成就七夕祭りへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年7月7日(日)


地主神社の恋愛成就七夕祭りへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「天漢 相向き立ちて わが恋し 君来ますなり 紐解き設けな (by 山上憶良) 」
という露骨極まる歌が示す通り、七夕は、実に愛欲溢れる伝説に因んだ節句であります。
互いを求め合う二つの星、琴座の主星・ベガこと織女星と、鷲座の主星・アルタイルこと牽牛星。
二星を隔てるのは、天の川。年に一度、七夕の夜空が晴れたら、二星は川を渡り、逢瀬を果たせる。
そんな、 「紐解き設けな」 となるのも当然な、それこそ 「セッス!セッス!」 な節句なのです。
が、色恋に関わることなら何であろうが商売のネタにする、腐り切った現代消費社会にあって、
この七夕、イベントとして大きな盛り上がりを見せてる感じは、はっきり言って、ありません。
新暦への移行により七夕当日が梅雨の真っ只中となって、星が大抵見えないのが悪いのか、
年一というスパンが、コンビニエントな性生活に慣れた現代人には生殺しプレイにしか見えないのか、
とにかく現状として七夕は、もっぱら児童向けの短冊吊るし大会になってる感が、否めません。
が、地主神社は違います。京都で最もメジャーな縁結びスポットである地主神社は、違います。
京都観光のキング・オブ・キングである清水寺の境内にあって、神代にまで遡る凄まじい歴史を誇り、
清水寺と共に世界遺産の指定もバッチリと受けている、あまりにも由緒正しき社、地主神社。
しかし近年は 「愛のちかい」 「しあわせ」 「よろこび」 「キューピッド」 「恋の願かけ絵馬」 などなど、
縁結びアイテムを大量リリース、その 「本気」 ぶりが各方面から注目を集めること、しきりです。
そんな地主神社、七夕という商機を見逃すはずもなく、 「恋愛成就七夕祭り」 なる祭を開催。
一対500円の紙こけしに自分&好きな人の名を書き、笹へ結わえ付けて恋愛成就を祈願するという、
「商売繁盛で笹持って、恋」 と思わず連呼したくなるような、実に景気の良い祭りであります。
当日の現場はもちろん、清水寺の超ベタな観光客+色恋に飢えた女子が、溢れまくり。
そんなアウェー地獄へ、「紐解き設け」 る人などいない独男が、特攻してみました。
折しも当日は、日曜。アウェー混雑+猛暑との死闘、見届けて下さい。

続きはこちら »

上賀茂神社の賀茂競馬へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年5月5日(日)


上賀茂神社の賀茂競馬へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

Godspeed You 。ゴッドスピード・ユー。
「あなたの成功を祈ります」 「幸運を祈ります」 みたいな意味のフレーズです。
が、語尾に 「Black Emperor」 と付けると、暴走族映画のタイトルに化けてしまう通り、
日本ではその筋の嗜好と思考を持つ方々から重用され、高い認知度を誇る慣用句であります。
「God」 + 「speed」 。故に、 「神速」 。DQN的なセンス溢れる誤訳とは言えるでしょう。
しかし、それが本当に単なる誤訳、脊髄反射レベルの誤訳に過ぎないとは、私は思いません。
むしろ 「Godspeed」 という言葉の深層には、神とスピードの間にある親和性が潜むと考えます。
「宇宙で神に遭遇した」 とか言い出し、後には教団へ入ったりした、どっかの宇宙飛行士。
「S字で神を見た」 とか言い出し、後には自分も天高く昇天してしまった、どっかの音速の貴公子。
現代であっても、死と隣り合わせの速度の中にいる人たちは、何かと神を感じがちです。
モータリゼーション皆無時代の人々なら、その親和性に一層、敏感だったのではないでしょうか。
多くの神社で行われる、馬の奉納。または、競馬等の形式で行われる、馬の速度そのものの奉納。
それらの伝承は、私たちに 「Godspeed」 的なる何かを、力強く語りかけてる気がします。
神は、スピードである。スピードは、神である。そんなこと、感じたことはありませんか。
と、別の意味のスピードが好きな人が聞いたら、瞬間冷凍で大喜びそうな与太話はともかく、
京都の神社で馬が爆走するといえば、競馬の神様・藤森神社の駆馬神事が、あまりにも有名です。
が、駆馬神事と同じ5月5日に、葵祭の前儀として行われる上賀茂神社・賀茂競馬もまた、有名。
平安期の宮中武徳殿に於いて、端午の節会に行われたという 「くらべうま」 に始まり、
賀茂氏人が引き継いだ後も、現在に至るまで雅なるマナーで受け継がれてきた、賀茂競馬。
しかし、神のために爆走する馬が発するスピード感、そして衝撃波の如き音と風は、
単に雅なだけの鑑賞神事ではない、 生々しいまでの 「Godspeed」 を感じさせてくれます。
そんな賀茂競馬、奮発して千円のセレブなる有料席で観てみました。

続きはこちら »

東山花灯路2013と清水寺特別夜間拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年3月9日(土)


東山花灯路2013協賛の清水寺夜間拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

桜シーズン目前+紅葉シーズン直後という閑散期の京都で、
ベタ名所の東山&嵐山をライトアップし、夜間集客を図る電飾イベント・京都花灯路
無料のもの&光るものが好きな蛾の如き民ばかり集めて、経済効果があるのかは知りませんが、
とにかく2003年の初回以来、徐々に規模と知名度を上げつつ順調に回数を重ねてきました。
しかし2011年、そんな花灯路に試練が訪れます。言うまでもなく、東日本大震災です。
発生直後に始まった東山花灯路は、『東山祈りの灯り』 なる灯火管制モードに変更を余儀なくされ、
世間では原発が止まり、ライトアップどころか家庭レベルでまで節電が要求される事態が出来。
あの日を境に、私たちにとっての電気の意味は、完全に変わってしまったのであります。
正直、花灯路は終わったと思いました。のみならず、ライトアップ全般が終わったと思いました。
電気が余ってると思われてた頃から、浪費的にも宗教的にも批判が多かった、ライトアップ。
節電中にやれるものではないでしょう。それに、電気があり余る世の中は、恐らくもう、やって来ない。
2012年の東山花灯路は、開始から10周年ということで盛大に盛り上がってはいましたが、
「こんな馬鹿騒ぎも、これで見納めかもな」 という予感は全く払拭されることがなく、
そんな予感と共に見た電飾の光景は、言うのは嫌ですが、少し魅力的に見えたりもしたのでした。
で、その予感は、何ら終了の気配もなく例年通りに開かれた2013年の花灯路でも、
ゆとり溢れる阿呆の子たちが例年通りに騒ぎ倒す2013年の花灯路でも、実は消えてません。
うちでももちろん例年通りに特攻を行った、花灯路、そして提携の清水寺夜間拝観。
パッと見レベルでの変化の無さと、その下に隠れる危うさ&根源的な懐疑の変化の無さ、
私たちの生活が持つ矛盾・欺瞞・危うさは何ら解決も解消もされてない感じを、
写真から溢れる徒労感と共に味わってもらえると、幸いです。

続きはこちら »

鞍馬の火祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2012年10月22日(月)


鞍馬の火祭・後篇、いよいよ祭本番です。

鞍馬の火祭は、ただいたずらに松明を大量に燃やして、
アホの外人が 「ファ━━イアァ━━━━ッ」 などと絶叫するだけのものではありません。
ちゃんと神輿も出ます。神幸祭なのですから、本殿から御旅所へ向けて、ちゃんと神輿も出ます。
天皇の病や天変地異に際し、五条天神と共に社前へ閉門・流罪の印である靫を掲げられ、
スピリチュアルなスケープゴート的役割を担ってきたという、靫明神 = 由岐神社
そして、現在はその由岐神社の相殿に 「客神」 として合祀されているものの、
かつては鞍馬寺の鎮守社であり、鞍馬山上に独立した社殿も構えていたという、八所大明神。
この二神を乗せた神輿が、鞍馬の町を巡幸することこそ、鞍馬の火祭の本義なのです。
本当かどうかは知りませんが、元来の鞍馬の火祭は、ここまで松明燃えまくりだったわけではなく、
神輿と剣鉾こそが祭のメインという、極めてオーソドックスな神幸祭の形を持ってたとか。
もちろんそれは、祭の本義というものを考えれば、当然といえる話であります。
やはり重点的に見るべきは、燃えさかる松明ではなく、神輿ということになるのであります。
百数十本の松明が鞍馬寺門前に集まる松明集合も、本義を考えれば、見なくていいのであります。
凄まじい炎の中で行われるという注連縄切りも、本義を考えれば、見なくてもいいのであります。
「これを見なければ、鞍馬の火祭を見たことにならない。絶対、見たい。見せろ」 と、
怒り出す奴がいたとしても、本義を考えれば、見なくてもいいのであります。
と、先の流れがほとんど読めること書いてますが、鞍馬の火祭レポート、いよいよ本番です。
セコいコネ使って民家へ上がり込んだり、隅っこで屏風見てクールな観察者を気取ったりせず、
超絶的な混雑へ真正面から特攻したらどうなるか、それを全身で確認してきました。
火の粉の中で燃え上がる、怒り、苛立ち、徒労、疲労、絶望、尿意、空腹、
そして興奮や歓喜などを、とことん体感的に御堪能下さい。

続きはこちら »

鞍馬の火祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2012年10月22日(月)


鞍馬の火祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

鞍馬の火祭。京都で最もメジャーな火祭です。
今宮神社のやすらい祭広隆寺の牛祭と共に、京都三大奇祭のひとつでもあり、
京都のみならず、全国的にもかなりな知名度と集客力を誇っている火祭と言えるでしょう。
正しくは鞍馬寺ではなく、同寺境内にある由岐神社の秋季大祭である、鞍馬の火祭。
御所内に祀られていたという靫明神が、940年、朱雀天皇の勅命で鞍馬の地へ遷されることになり、
その際、鞍馬の村人たちが篝火を焚いて神を出迎えたことから、始まったとされてます。
祭の舞台は、鞍馬寺の門前集落として、また若狭街道筋の交通集落として栄えた、鞍馬町、全体。
今なお木造家屋が多く軒を連ねる町中を、数mもある松明が火の粉を散らしながら練り歩き、
最後は町内全焼+山火事大爆発の恐怖もいとわず、その松明百数十本を集め、燃やしまくり。
実に、恐るべき祭りです。が、鞍馬の火祭の真の恐怖は、火にはありません。
この祭りの開催日は、10月22日。雅なるコスプレパレード・時代祭の開催日と、同じであります。
時間的にちょうど良い感じのハシゴができるため、流れて来る観光客は極めて、多し。
しかし、鞍馬に一度でも行ったことがある人は御存知でしょうが、あそこはとても、狭い町です。
道もほぼ一本で、これまた、狭い。そこへ1万人以上の人間と、百本以上の松明が、集まるのです。
圧死の恐怖。踏死の恐怖。トイレがなくて、失禁の恐怖。食事ができず、行き倒れの恐怖。
足を滑らせ鞍馬川へ落ちて溺死 or 凍死の恐怖。などなど、恐い、考えただけで、怖い。
鞍馬の狭さを知る人なら、誰もがこの恐怖を想像し、近づきたいとは思わないんじゃないでしょうか。
私も正直、できたら、いやなるべく、いや本当はかなり絶対に、行きたくなかったりします。
が、このサイトの趣旨は、ベタスポットの単独正面突破。逃げるわけにはいきません。
というわけで、炎の狂乱と混雑の狂気の中へ、正面から飛び込んでみました。
人圧と炎熱がスパークする奇祭の様、とくと御堪能下さい。

続きはこちら »

2012年の祇園祭・山鉾巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。【後篇】

2012年7月17日(火)


2012年の山鉾巡行追尾録、前篇に続き後篇です。

そういえば、2012年巡行では、放下鉾の喧嘩騒ぎがありました。
当日から 「放下鉾 喧嘩」 で検索して飛んできた人がいたので、何のことかと思ってたら、
鉾の保存会と囃子方の保存会が揉め、巡行の途中で囃子方が鉾から降りてしまったんだとか。
実は私、放下鉾から囃子方が降りてる現場を、数10mほど離れた所から見てました。
新町御池あたりで止まったまま動かず、後続の山にどんどん追い抜かれていく、放下鉾。
のみならず、通常は激しい尿意を催しても降りることが許されないという山鉾から、人が降りている。
変だな、とは確かに思いました。でも、近くに寄って事態を確認しようとは思いませんでした。
何故なら、面倒くさかったから。何故面倒くさかったかといえば、暑かったから。
もうね、何時間も直射日光浴びながらウロウロしてるとね、数10mを動くのもイヤになるんですよ。
あと、御池通自体が、暑いし。道が広くて日陰がないので、逃げ場がなくて、暑いし。
目もね、かすんできますよ。いや、見えてるんだけど、画像の信号が脳に届かない状態というか。
耳も、きつい。聞こえてるけど、聞こえてない。世界が、遠い。ちょっとした、離人状態です。
それくらい、暑かったんですよ。あんまり暑いと、下衆な好奇心って、蒸発するもんなんですよ。
多分、喧嘩の理由も多分、暑かったからですよ。暑いと、腹立ってきますもんね、うん。
と、狂ったイントロと共に、河原町通北上から山鉾解体に至るまでの後篇、スタートであります。
モチベーションと体力がダダ下がりの中、灼熱のストリートを這いずり回る感覚を、
またしても文章超手抜き+単なる写真の羅列状態で味わってください。

続きはこちら »

2012年の祇園祭・山鉾巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。【前篇】

2012年7月17日(火)


2012年の祇園祭・山鉾巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

山鉾巡行、2012年度の追尾録でございます。
千年前から超過密都市であるため、疫病が死に直結する時代が長く続いた、京都。
梅雨明け+盛夏初頭あたりは特に怖い季節であり、氾濫する疫病の元・疫神を何とか祓うべく、
華麗な山車で街中を巡行し、厄神を吸引してまわることこそが、そもそもの山鉾巡行の本義でした。
その巡行が、疫神を祓うどころか疫人たる観光客を大量に呼び込むショーと化した時期こそ、
疫病の恐怖が消え、産業と観光重視の思想が前面化した、昭和の高度経済成長期。
17日 「さきのまつり」 +24日 「あとのまつり」 の二週またぎ開催だった巡行が17日に一本化、
ルートも大幅に変更され、現在生きてる大半の人にとっての 「山鉾巡行」 の形が出来たわけです。
しかし、昭和終了からもそれなりの時間が経ち、経済成長の夢もまた跡形もなく消え去った今、
山鉾町や行政など祭に関わる人たちの関心は、旧儀の復活の方により向いてます。
「さきのまつり」+「あとのまつり」 の二週またぎ開催早期復活が、現実的に協議されるようになり、
2012年の今回は、実に140年も休み山だった大船鉾が、巡行に復帰することになりました。
全てが 「例年通り」 のようでいて、実は激しく形を変え続けている、山鉾巡行。
ひょっとすると現行の昭和フォーマットでの巡行は、逆にあと数年で見納めとなるかも知れません。
正午を過ぎてからの疲労よ、さらば。無残なまでにカラッポになる有料席よ、さらば。
そんな哀惜の念を抱きながら眺めたというのは大嘘ですが、とにかく2012年も追尾です。
朝7時の飾りつけから14時過ぎの解体まで、延々と追っかけてみました。
あまりに暑過ぎて記憶が曖昧なため、ほとんど写真の羅列のみで恐縮ですが、
現場の興奮と猛暑と疲労を感じていただければ、幸いです。

続きはこちら »

←Older