2013年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。【後篇】
太古の追儺には、鬼は現れなかったそうです。
元々は、一年の穢れを祓うべく、大晦日に宮中行事として行われていた、追儺。
平安以前の追儺において鬼は、方相氏に声だけで追い払われる、ステルス的存在だったとか。
それがやがて、追い払う側の方相氏がそのイカツさゆえに鬼と見做されるようになり、
追儺が民間に膾炙すると、様々なエッセンスを吸収して鬼がより鬼的に造形されるようになり、
更に時代が下りエンタメ化が進むと、人間が豆をぶつけて追い払う極めてフィジカルな存在となり、
現代に至れば携帯で写メという、可視化されるにも程がある存在となり果てたわけです。
しかし、「おぬ」 が語源という説もある通り、真の鬼はやはり、姿が見えないものではないでしょうか。
見えない理由は、もちろん、鬼が私たちの中にいるから。というか、私たち自身も、鬼だから。
架空の大量虐殺兵器をめぐる戦争から、どうでもいい芸能人へのどうでもいい倫理的追及まで、
頓珍漢な正義の誤爆を繰り返す私たちは、可視化された鬼をひたすら外部に求めてます。
己の暗部に目を瞑るため、呪われた日常を少しでも延命させるため、鬼的に造形された鬼を、叩く。
その愚行の影で、真の鬼はどんどん膨張していく。私たち自身が、どんどん鬼化していく。
あまりに愚鈍なこの悪循環を断ち切るには、鬼の無形性を復活させるしかありません。
鬼を再び無形と見做すことで、私たちの中にいる真の鬼を生々しく現出させ、真正面から対峙する。
そう、退治ではなく、対峙する。それこそ、現代における正しい追儺のあり方ではないのか。
そんな哲学的命題を考えながら、知的に冬の京都を歩く、大人の 「ひとり節分」 を提案したくて、
2013年節分の後篇は、東山区で鬼が出ない寺社ばかりを集中的にめぐってみました。
決して、無計画に行ったら偶然鬼が出ない所ばかりだったのでは、ありません。
絵が地味なので、屁理屈で誤魔化してるのでは、ありません。違います。