保津峡へ紅葉を観に行きました。もちろん、ひとりで。

2022年11月25日(金)


保津峡へ紅葉を観に行きました。もちろん、ひとりで。

金が、なくなりました。あったのに、なくなりました。前はあった金が、なくなりました。
おかしいと思って人に言ったら 「それ、お前が使ったからだ」 と言われましたが、それ、おかしい。
私の金は、私の金です。私の所に、私の名前で、振り込まれたり、支払われたりした金です。
その金が、なくなる。使ったというだけで、なくなる。それはちょっと、無茶苦茶な話だと思います。
貨幣経済とか、そういう話でしょうか。そういうの、無関係です。本質から、逃げてるだけです。
金がなくて幸せな人なんて、どこにもいないでしょう。なので、金がなくなることがまず、おかしい。
そもそも、金は使うとなくなるという仕組みの所から、何か間違ってるんじゃないでしょうか。
金で買った物はなくならないし、使ってもなくなりません。自動車も、掃除機も、なくなりません。
なのに、金は使うとなくなるなんて、ちょっと変だと思います。違和感、感じます。モヤモヤします。
はっきり言うと申し訳ないですが、こういう仕組み、昭和っぽいです。今の時代に合ってません。
デジタル化に置いて行かれた人が、必死で私達の足を引っ張ってるんじゃないでしょうか。
古い考え方を鵜呑みにするの、かっこ悪い。そういうのを振りかざして偉そうにするの、かっこ悪い。
ずっと前の当たり前をいつまでも正論のように言い続けるのって、もうハラスメントにしか思えません。
「対価を支払う」 とかいう大昔の価値観から、解放されたい。そういうのに捕まらず、自由でいたい。
おかしいおかしいと思いながら今日の今日まで自分を抑えて生きてきましたが、もう我慢できません。
違和感を我慢せず、モヤモヤを飲み込まず、全て自分らしく表現して、邪魔な壁を越えて行きたい。
金がないと、秋の紅葉が観れないのも、変です。内心、ずっと変だなと思ってました。
紅葉で金を取る人は、紅葉を発明でもしたんでしょうか。してないはずです。元は自然のはずです。
それに拝観料って何ですか。私達は紅葉に用があるんであって、神にも仏にも用はありません。
勝手に信者扱いにされると困ります。そういうのって、出るとこ出たら割とまずい話になるはずです。
紅葉は、金がなくても観れた方がいい。そう思います。なので、保津峡へ行きました。


保津峡はもちろん呆頭狂ではなく、保津川 aka 大堰川 aka 桂川として知られる川の渓谷です。
川が亀岡盆地から嵐山へ出る直前にあり、嵐山に至近ながら渓谷美を拝める景勝地となってます。
山陰線が流路に沿う形で走っており、私は今、新線の13時半台の列車で保津峡へ入りました。
貴方の頭が呆けてなければ、想像力が死んでなければ、このピンボケでも渓谷が見えるはずです。


何故に金がなければ保津峡へ出かけるのかといえば、駅に降りた瞬間から紅葉が拝めるため。
新線の保津峡駅があるのは、渓谷を蛇行する川の真上。ゆえにその周囲は、渓谷を形成する山々。
視界にはほぼ、空と山と川と鉄道しか入りません。この景色を、此処までの運賃だけで拝めるのです。
「でも電車賃はかかるじゃないか」 と言う人は、徒歩で山を登るか、川を泳いで遡上でもして下さい。


それでは無料で拝める紅葉、まずは駅から拝見。


駅のホームからさらに拝見。


陽があまり当たってない方も、ホーム込みで拝見。


駅のホームの隙間から、また拝見。


同類さん込みでも拝見。


同類さんが熱心に観てるトロッコ列車も拝見。


改札の外で、駅舎を覆う紅葉も拝見。


駅を出たら、川に沿う府道を川下の方向へ歩いてみたり。


紅葉を観て、駅から離れた方が状態良いなとか思ったり。


でも、こうして紅葉越しで駅を観るのも良いなと思ったり。


遠目で観たら、保津峡駅って割と電車が頻繁に来て頻繁に停まるなと思ったり。


でも、その周りの山の紅葉って撮るのが難しいなと思ったり。


トロッコ駅がある川下へさらに歩き、府道が怖道だと思ったり。


途中、木越しに紅葉と川を撮ろうとしたら、やっぱり難しかったり。


到着したら割と良い感じの、トロッコ駅 aka 旧山陰本線保津峡駅


川と紅葉がやはり良い感じの、待合室。


何故かホームにいて、逆光で良い雰囲気出してる、タヌキ。


そして、保津川下り。


順光で紅葉込みで眺めると何とも穏やかな、保津川下り。


さらに順光で見るとさらに良い、保津川下り。


川の上を望遠で見ると、やや早いけれど、でも良い感じの、紅葉。


紅葉、岩、保津川下り。風流です。川も穏やかに見えます。が、実際の保津峡は相当の急流。
勾配は緩いものの、その緩い勾配で生じた超蛇行流路の浸食が地層の隆起に勝った先行谷であり、
現代にも残る壮絶なカーブや、水中/沿岸に並ぶ奇岩・怪岩が、トリッキーな水流を発生させてます。
もっとも岩については、角倉了以が舟運を開通した際に焼砕したものも混在してるかも知れません。


江戸初期、岡山・吉井川を走る高瀬舟にインスパイアされた了以は、保津川の舟運開通を決意。
従前は筏しか通行出来なかったこの川を、約半年の突貫工事で改造し、川舟の運航を実現しました。
この史実を想起しつつ改めて眺めると、沿岸の岩に粉砕感が感じられるのも、保津川の妙味でしょう。
清滝川との合流点付近で特に顕著なカーブを、舟がアウトコースいっぱいで曲がる様もまた、妙味。


さらに怖道を下り、保津川と清滝川の合流点前に架かる落合橋へのトンネルを拝見。


トンネルを抜けた先の落合橋で、急に溢れる紅葉を拝見。


落合橋を渡った先で、恐らく紅葉の主であろう茶屋の廃墟も拝見。


その廃墟の彼方に、清滝川と保津川の合流点を微かに拝見。


そして、廃墟に何故かある芭蕉の絶句 「清滝や 波にちりこむ 青松葉」 の碑も拝見。


芭蕉の絶句を拝んだのは、16時頃。なのに早くも暗くなり始めたので、新保津峡駅まで戻りました。
落合橋からの場合、嵐山へ歩いて抜けるのも趣がありますが、夕方は冷えるし、猿&鹿&猪も恐い。
実際に私は以前、 『カリ城』 のフィアットの如くほぼ垂直の崖を降りて行く鹿に、此辺で遭遇してます。
あの時も、秋の夕方でした。もっと凄い奴が出て来ないとも、限りません。山を舐めてはいけません。


すっかり陽が届かなくなった駅で電車を待ってると、京都行きがライトを点けて入って来ました。
こうして眺めると、まるで昔の映画で観た旧保津峡駅の出征シーンのように見えるのが不思議です。
新線といえど、開通から既に30年以上。土地が持つオーラに、大分染まって来たのかも知れません。
乗車した電車は、客が少なめ。しかし嵐山駅で激烈に混み、そのまま京都まで混み続けましたとさ。

この日の保津峡、駅で降りたのは機材を持った若者やカメが大半。
駅を出て散策を始めても、やはりうろついてる者は基本的にカメばかりという感じです。
いや、カメと言っても紅葉目当てというよりは、鉄系およびそのにわか系が多く、
挙動不審気味な20~50代の単独男がぽつりぽつりと徘徊してる魔空間になってます。
その他は、金の無さそうなカップルが少々と、トロッコ駅近辺に中国人観光客が少々いた程度。
あと、紅葉と無関係にウォーキングしてる年寄集団と年寄夫婦がいるくらいでした。

保津峡、紅葉はコンディションや天候にも依るでしょうが、基本、まあまあ。
場所的には、アウェー感は全然ないですが、逆に自分に似た奴が多過ぎて興醒めという。
居心地の悪さはこれといって感じませんが、強烈な面白さも特に感じません。
よほど金がなくて暇で、川や船を見るのが三度の飯より好きなら行っても良いですが、
紅葉だけが目当てなら、電車の窓からちらっと見るだけがベストな気もします。
なので、ひとりに向いてる度は★★★くらいでしょうか。

そんな保津峡の、紅葉。
好きな人と観たら、より渓谷なんでしょう。
でも、ひとりで観ても、渓谷です。


 
 
 
 
保津峡
京都市西京区嵐山北松尾山/
京都府亀岡市保津町保津山

嵯峨野線 保津峡駅下車すぐ/
嵯峨野観光鉄道 トロッコ保津峡駅下車すぐ

保津峡 – Wikipedia