4月, 2014 | ひとりでうろつく京都 (β版)

善峯寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年4月11日(金)


善峯寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

写真家の水野克比古が、淡交社 『京の古寺から 善峯寺』 において、
祖母と一緒に歩いて善峯寺を参拝したという話を、子供の頃の思い出として書いてます。
曰く、電車の最寄り駅から7キロにも及ぶ距離を歩いた、と。2時間以上もかけて坂を登った、と。
それほど善峯寺は、遠くて、しかも交通が不便な所にある大変な寺だという話であります。
が、逆に考えると、2時間歩けば着くのであり、ありえないほど遠い寺ではないという話でもあります。
無論、現在は少なめながら路線バスが走り、団体バスもガンガン坂道を登っていく善峯寺ですが、
鉄道は今なお近くを全然走っておらず、公共アクセスは必ずしも良好とは言えません。
で、その程良い距離感と程良い不便さが、程良く俗界と一線を画すると共に秘境的な付加価値も排し、
ある意味、好き者を呼ぶ山奥の寺より大らかで清廉な印象を与えてくれるスポットだったりします。
西山善峯寺。京都・西山にあって、名の通りの山岳寺院なビジュアル誇る寺です。
平安中期に開かれて以来、親王の入寺が相次ぎ、後鳥羽天皇からは 「善峯寺」 の寺号を下賜。
室町期には山上にありながら僧坊が52にも及ぶ大寺へと発展しましたが、応仁の乱で焼失。
江戸期に至って、徳川第5代将軍・綱吉の生母にして西山出身の桂昌院から庇護を受けることとなり、
観音堂や鐘楼などの諸堂、そして国の天然記念物である遊龍の松が揃い、現在に至ってます。
小振りに再興されたとはいえ、現在の境内も約3万坪と通常からしたら破格に広大であり、
全部見て回ると、テーマパーク疲れというか、単純に猛烈な肉体疲労を誘引されること、必至です。
そんな善峯寺、境内では四季折々の花が咲き、秋の紅葉は特に知られますが、桜もまた名物。
樹齢300年ともいう桂昌院お手植えの枝垂れ桜以外は、成長段階の樹が多いですが、
ゆえに清廉な色づきが美しく、山上で空の青と響き合う様は、山岳寺院ならではの眼福でしょう。
京都にあって京都らしからぬダイナミックな桜、少し遠出して堪能してきました。

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平野神社の桜花祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年4月10日(木)


平野神社の桜花祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

平野神社の周囲はかつて、辺り一面が長閑な農地だったそうです。
住宅地&西大路通&そこを通る立命●●学生に囲まれる現在からは想像が困難ですが、
佐野藤右衛門分厚い桜本によると、実に昭和初期に至るまで農村の雰囲気は残ってたとか。
へ~、という話ではあります。ただ 「元農村」 が全く想像つかないかといえば、そうでもありません。
すぐ隣の北野天満宮には、道真以前から五穀豊穣を祈願する雷神信仰が存在したというし、
秋のずいき祭に登場するずいき神輿などは、正しくこの地の旧来の風土性を現在へ伝えるものです。
で、そんな 「農」 or 「土」 なこの地の歴史と性質を感じさせてくれるもう一つのエレメントこそ、
当の平野神社の名物 or アイデンティティ or レゾンデートルとして有名な、桜ではないでしょうか。
「平凡苗字神社」 と、当サイトで阿呆なタグをつけてるほど平凡な苗字の如きその名に反し、
桓武天皇によって平安遷都と同時に奈良から勧請された、極めてロイヤルな由緒を誇る、平野神社。
名物の桜もまた、花山天皇による手植えに始まるという、ロイヤルな由緒を誇るものであります。
応仁の乱の際には、西軍の拠点に近いため一度は社殿や領地ごとズタボロと化しましたが、
江戸期に至ると、宮司として社の再興を果たした西洞院時慶が、現在のベースとなる桜苑を整備。
さらに近くの西陣が織物で隆盛を誇り始めると、西陣に密着した桜の名所として、発展を果たしました。
故にというか何というか、私にはいかにも京都的な 「街中の桜」 に見える平野の桜ですが、
戦後すぐの頃は桜樹を取っ払って芋が植えられたというくらい、元来この土地は肥沃なのであり、
桜も芋も育んだその肥沃さは、農地に囲まれてたかつての時代に醸成されたものかも知れません。
そんな平野神社、桜シーズンの真っ只中に、祭を開催してます。その名もずばり、桜花祭。
花山天皇の時代に始まったとも言われてる祭礼を、大正期に復活させる形で開始されたこの祭は、
恐らく明治の上知以前の神領地だったエリアを、古式に則った祭礼列が回るというもの。
都市化された元の農地を、まるで桜を育んでくれた礼をするように、神が巡幸するわけです。
そんな桜花祭、ユルく追尾すると共に、桜苑もユルく鑑賞してきました。

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早朝の嵐山へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年4月7日(月)


早朝の嵐山へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年に早朝の嵐山の桜を見に行った際
「朝の嵐山が好きだ。仕事の匂いがするのが好きだ」 みたいなことを、書きました。
かつて丹波より保津川を下りやって来た木材の集積場&湊町として栄えた時代の残り香と、
あちこちの宿や飲食店が放つ何とも言えない昭和テイストな出汁の仕込み香が漂う、朝の嵐山。
そういった 「仕事」 の顔が感じられるタイムだから好きだ、というようなことを書いたわけです。
しかし、言うまでもないですが、嵐山がそもそも貴族の遊興地であったこともまた、確かであります。
そして、この嵐山の春を彩る桜が、雅なルーツを持つものであることも、確かであります。
この地に亀山御殿を築造した後嵯峨上皇が、吉野の桜を移植したことに始まるという、嵐山の桜。
本家である吉野には比ぶべくも無いですが、程良くコンパクトにまとまったそのサイズ感と、
それでも京都の街中と比べたら圧倒的なスケール感&スペクタクル感を誇りまくるそのビジュアルは、
貴族の庭的な雅さ&ダイナミズムを併せ持つ 「王朝時代から続く観光地」 としての面目躍如、
嵐山の 「仕事」 あるいは 「本業」 の魅力が、明確に具現化されたものと言えるのではないでしょうか。
そんな嵐山の 「本業」 の匂いを改めて吸い込んでみたくなった、というのは半分くらい嘘で、
残り半分は単に思いつき一発ではありますが、とにかくまた嵐山朝行をやってみることにしました。
前回は右岸をウロウロしましたが、今回は中之島から左岸、そして亀山の展望台へ行く感じ。
うちのサイトの趣旨からすると、人の少ない時間帯に出かけるというのは反則に当たるわけですが、
「本業」 の顔を見るなら、こちらも 「人間観察が趣味です」 みたいな冷やかし根性は捨て、
「私だけの嵐山を見つける」 とか言いそうな 「本業」 阿呆観光客の如き気持ちで赴くべきと考え、
でもそんな気持ちでガチ混雑時に出かけるのはガチで辛いので、朝に行ったわけです。
かくも情けない独男に、嵐山は 「本業」 の桜を見せてくれるでしょうか。

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山科疏水へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年4月5日(土)


山科疏水へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都および大阪において淀川水系の恩恵を受け生きている人民が、
滋賀県民から事ある毎に 「調子乗ると、止めるぞ」 と脅され続けている、琵琶湖の水。
その琵琶湖の水を、こっそりひっそり山越えて京都へ引いてるのが琵琶湖疏水なわけですが、
しかしこの疏水、元々は水をこっそりひっそりパクるために敷設されたわけではありません。
あ、いや、これはいくら何でも、言い過ぎでした。水欲しいの点についても、パクるの点のついても。
もちろん、水自体も欲しかったでしょう。特に、水力発電が疏水計画に組み込まれて以降は。
ただ、その水力発電の原動力となる琵琶湖と京都の高低差って、実に42mもあるんですよね。
「工事中に事故ると、京都が水没するんじゃないか」 という心配も、されてたそうなんですよね。
そんな水没の心配を押しても疏水が作られた最大の目的は、京津間に於ける輸送路の確保でした。
京都近代化にあたり、東海道北陸道からの物資輸送を重視した当時の府知事・北垣国道は、
交通の最大のネックとなっている逢坂山をブチ抜き、運河として使える水路を引くと決定。
当時まだ21歳だった田辺何ちゃらに何ちゃらを何ちゃらして、何ちゃらが何ちゃらされ何ちゃらし、
何ちゃらにて何ちゃらされ、何ちゃらから何ちゃらした結果、琵琶湖疏水はめでたく開通したのでした。
経緯を若干過剰に端折りましたが、とにかく明治期に運輸を主たる目的で作られた琵琶湖疏水、
運輸目的という点で共通するのか何なのか、やはり明治期に数多く建設された鉄道と同様、
陸上に水が顔を出すあちこちのスポットには、まるで防風林のような按配で桜が植えられてます。
ベタな知名度を誇るのは哲学の道 or 岡崎辺りでしょうが、他にも名所とされる場所は存在し、
中でも近年評判になってるのが、逢坂山と東山の間に位置する山科一帯における、桜。
そのビジュアルは、沿岸に並ぶソメイヨシノが水路を覆うという、ベタといえばベタなものですが、
地元の方が植えた菜の花との相乗効果で、郊外エリアらしい穏やかな美を誇ってます。
そんな疏水の桜、出くわした船に水運の残り香を感じつつ、眺めてきました。

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