神仏習合 - ひとりでうろつく京都 (β版)

平岡八幡宮の花の天井・秋の特別拝観へ、9月に行きました。もちろん、ひとりで。

2022年9月26日(月)


平岡八幡宮の花の天井・秋の特別拝観へ、9月に行きました。もちろん、ひとりで。

仏教に於ける供花はそもそも、造花と生花との区別をさほど厳密にしないそうですよ。
大切なのはあくまでも仏を華々しく荘厳することであって、美しければ造花でもいいんだとか。
本来は外来宗教である、仏教。生花の調達が比較的楽な日本とは、話の前提が違うんでしょうか。
石清水八幡宮・石清水祭の供花神饌は、造花を用いる点で特殊だと私は思ってたんですが、
八幡神仏と混淆しまくる神であることを考えれば、むしろ普通なのかも知れません。

花の色は仏界のかざりなり。もし花なからむ時はまさに造れる花を用いるべし『三宝絵詞』

では、京都北西・周山街道沿いに建つ平岡八幡宮本殿天井に描かれた44種の花卉図が、
仏と混淆しまくった八幡神の荘厳を目的とするものなのかと言えば、それは無論不明ではあります。
ただ、石清水八幡宮の近くに長く住み、毎年のように9月15日に供花神饌を拝んでる身からすると、
平岡八幡の眼前に描かれた花々は、黒赤漆を贅沢に用いた本殿をさらに盛り立てる装飾というより、
神仏を荘厳するための供花、あるいは絵で描かれた供花神饌に見えて、仕様がありません。
平岡八幡宮。弘法大師・空海が神護寺の鎮守にすべく宇佐より勧請した、山城国最古の八幡神です。
平安初期、和気清麻呂創建の神願寺を任された空海は、この寺を神護寺へリニューアルし、
神が護もると言うからには護り神が要るだろうということで、和気氏と縁深き八幡神を京都へ初召喚。
御神体とする僧形八幡神像も自ら描き、神護寺の近くにてこの平岡八幡宮を809年に創建します。
その後、平岡八幡宮は興廃・移転を経て1826年、仁孝天皇の命を受けて切妻造様式の本殿を修復。
翌1826年には、画工・綾戸鐘次郎藤原之信によって本殿・内陣に件の花絵が描かれました。
この花絵 = 花の天井、基本的に非公開なんですが、定期的な特別拝観では御開帳。
秋は、9月15日頃に御開帳。そしてこの日は無論、石清水祭の日です。おおおおおおおおお。
供花神饌感を感じた私は、その感を確かめるべく、9月の周山街道を北上したのです。

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福王子神社の秋季大祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年10月18日(日)


福王子神社の秋季大祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

明治維新に至るまでの約1000年、日本では神と仏が入り混じってました
大陸より伝来したばかりの頃の仏教は、日本人の魂へ忍び込むにあたって、へと接近。
素朴なスタイルの信仰から脱却することについて苦悩を深めていた神も、仏にその救済を希求。
結果、 「神の本来の姿は仏 = 本地」 ということになり、神社の傍には本地を祀る神宮寺が建てられ、
寺の近くでは神が鎮守となって仏を守護するという、混淆の信仰形態が誕生・定着したのでした。
ある意味で野合に見えるこの混淆は、アーシーな小寺社だけで起こったものでは、無論ありません。
ロイヤルな寺社、それこそやんごとなき方々より崇敬を受けるような寺社であっても、事情は同じ。
私の地元にある石清水八幡宮は、二所宗廟の一つでありながらも最初から 「宮寺」 として創建され、
神が住まう男山には、 「男山四十八坊」 と称される大量の仏教施設がバカスカ建ちまくってたほど。
「どちらが手を叩いて、どちらが叩かないのか」 といった些末な作法にこだわる必要が全く無い、
神前読経など当たり前の大らかで豊かな信仰世界が、この国では長く長く息づき続けていたのです。
神道一直線宣言 aka 明治の廃仏毀釈は、そんな神仏習合の世界を、ほぼ根絶やしにしました。
が、明治以降は基本全否定&古いものを何でも有り難がる京都では、混淆の風習がいくつか残存。
福王寺神社の神輿巡行も、そんなかつての時代の息吹を感じさせてくれるものと言えるでしょう。
宇多天皇御母・班子女王が祭神のこの社は、宇多天皇が創建した世界遺産・仁和寺の守護でもあり、
その秋季大祭では、仁和寺より譲渡されたという神輿が、巨大な二王門の前で差し上げを敢行。
のみならず、石段を登って門をくぐり、さらには御室御所にまで入り、神仏が入り混じる式典も執行。
由緒も格もロイヤル極まりない寺院に於いて、古の神仏習合の様が全開になってしまうのです。
そんな福王寺の神輿、巡幸を全部追うのはしんど過ぎる為、仁和寺周辺だけ見てきました。
神輿と交通環境との微妙な関係も、ある種の風味としてお楽しみください。

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善法律寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年11月29日(金)


善法律寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

善法寺家といえば、石清水八幡宮の社家であります。
世間的には某アニメキャラの姓としての知名度の方が高いのかも知れませんが、
少なくとも八幡人的に善法寺家といえば、石清水八幡宮社家たる善法寺家のことであります。
善法寺家。鎌倉期の頃から嫡流の田中家と共に、石清水の別当 = トップを担った家です。
のみならず、室町期には同家の紀良子2代将軍・足利義詮の側室となり3代将軍・義満を出産、
その縁ゆえか何なのか、義満は石清水をたびたび参拝し、石清水と幕府との関係を強化。
また、良子の母である智泉聖通は四辻宮善統親王の孫 = 順徳天皇の曾孫ともいわれたため、
義満の皇胤説が生まれる要因になったりと、様々な形で歴史に関連する由緒を持つ家でもあります。
あ、神社のトップが 「宮司」 ではなく 「別当」 となってるのが、妙に思われるかも知れませんが、
日本は明治維新に至るまで、神と仏が入り交じり習合しているのがそもそも基本的な信仰スタイル。
特に石清水八幡宮は、かつては 「石清水八幡宮寺」 と呼ばれるほど、その傾向が顕著でした。
山上の本殿には僧形八幡像がどっしりと安座し、その前では祝詞の声と読経の声が日々入り乱れ、
山内には 「男山四十八坊」 とOTK48的な呼称が生まれるほど、宿坊が林立してたわけです。
善法寺家もまた、社務を務める一方で山麓に寺院も建立しました。それが、善法律寺。
律の字が入ってるのは、律宗寺院だから。創建時に招いたのは、東大寺の僧だそうですが。
善法寺家の私邸を寺化して創建された善法律寺には、のちに玉の輿に乗った良子が紅葉を寄進。
ずっと時代が下って明治の神仏分離の際は、山上本殿の僧形八幡像が運び込まれました。
善法寺家は明治に還俗して名前を変え、以降どうなったか私は全然知らないんですが、
善法律寺は現存し、僧形八幡像と、そして良子由来の紅葉を護り続けています。
「紅葉寺」 という別名の由来ともなったその紅葉、観てきました。

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瀧尾神社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年9月29日(日)


瀧尾神社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

明治初頭に行われた荒っぽい神道国教化政策により、
平安期から日本で親しまれてきた神仏習合の信仰スタイルは、一掃されました。
ビッグネームな寺や神社が林立する京都も、この神仏分離政策は無論、しっかり適用範囲内。
ビッグゆえに 「お上」 と縁が深く、ゆえに 「お上」 の意向 or 顔色を窺う必要があったのか、
「祇園感神院→八坂神社」 を始め、多くの神社が改名したり、神宮寺が破却されたりしたわけです。
私の地元の石清水八幡宮などは、 「お上」 と縁深いのに神仏習合度が強かったため、
慌てた挙句、山中にあった数十の寺を全て破却する事態に至ったりしてますが、それはともかく。
そんな感じで、建物レベルや運営レベルではかなり徹底的に行われた神仏分離ですが、
しかし京都は一方で 「東京遷都以降は基本、全否定」 の精神がこっそりひっそり息づいてもいる街。
粟田祭における青蓮院への神輿突入や、新日吉祭における妙法院僧侶による神輿前読経など、
祭儀レベルでは、神と仏が入り交じるスタイルの儀式を持つ祭も、結構残存してたりします。
で、そんな神仏習合の残り香を、よりダイナミックかつエンターテイメント的に楽しめる祭といえば、
JR&京阪電車東福寺駅すぐそば、伏見街道沿いにある神社・瀧尾神社の神幸祭ではないでしょうか。
大丸の創業者・下村彦右衛門が、下積み時代の行商の道中に熱心な祈りを捧げたことで知られ、
後には同家&大丸の完全バックアップにより贅を尽くした社殿が建立された、瀧尾神社。
今は大丸がどう関わってるのか知りませんが、秋祭は神社の規模以上に賑やかなものであり、
神輿の差し上げは無論、京都独特の剣鉾の剣差し、さらには龍舞なども登場して、見所は実に多し。
中でも一番インパクトがあるのは、「御寺」 の呼称を持つ泉涌寺への神輿乱入でしょう。
皇室の菩提寺たる泉涌寺に、神輿が入り、のみならず坊さんが読経まで行ってしまうわけです。
神輿は近年復活したものだそうですが、祭儀が放つ香りは確かに古の祭の香り。
そんな古の祭の香り、東山南部へ嗅ぎに行ってきました。

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粟田神社の粟田祭・神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年10月8日(月)


粟田神社の粟田祭・神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

粟田祭は、面白い。
「面白い」 は 「funny」 と 「interesting」 、両方の意味で使われますが、
粟田祭は、その両方が習合したような、興味深さと爆笑誘引力を兼ね備えてる気がします。
何せトップ画像のような巨大物体・粟田大燈呂が闊歩するわけです。それはもう、笑えるわけです。
と同時に、こんな物体にも神仏習合が色濃く残るあたりが、興味深かったりもするわけです。
そもそもは祇園感神院 aka 八坂神社の新宮として、粟田口に創建された社、粟田神社。
言うまでもなく由緒正しき神社であり、その大祭・粟田祭もまた長い歴史を持つ、由緒正しき祭。
それもただ単に千年以上やってるというだけでなく、名物の剣鉾は祇園祭の山鉾の原型とも言われ、
戦乱などで祇園祭が催行不能に陥った際は代理も務めたほど、大御所な祭なのであります。
しかしそれでも、粟田祭は、面白い。現在進行形でかつ、怪しいまでに、面白い。
その怪しさを集中的に担うのはもちろん、京都造形芸大により近年復活した粟田大燈呂ですが、
こちらも本来は青森ねぶたのルーツである可能性も考えられるほど、歴史を持つ風流灯籠。
何も怪しくなく、何もおかしくないのです。しかし路上へ出た途端、爆笑が止まらない。
さらには、京都のネイティブな町並とのギャップ感 or サイズバランスが、どうにも面白過ぎる。
京都には他にも、怪しい案件が登場する祭や、奇景を呈する祭が存在しますが、
全体のスケールとバランス、そして何より 「これからどうなる」 「どこまで行く」 という点に於いて、
爆笑と教養、神と仏、そして歴史の継続と未来への挑戦が習合する粟田祭は、
現在の京都で最も目の離せない祭と言えるのではないでしょうか。いや、知らんけど。
そんな粟田祭、前年2011年は爆発的に怪しい夜渡り神事を中心に見物させてもらいましたが、
2012年度は、神幸祭で白昼の大燈呂+剣鉾+神輿をメインに追っかけてみました。
面白さがどこまで伝わるのか、あるいはこのトップ画像だけでもう充分なのか。
いろいろ不安ですが、とにかくお楽しみください。

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石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。【2012年度版・後篇】

2012年9月15日(土)


2012年度の石清水祭、御花神饌からラストまでの後篇です。

石清水祭の旧名は、石清水放生会。
もちろん、八幡神の元宮である宇佐神宮の祭儀・放生会が、そのルーツです。
8世紀初め、律令制の徹底を目指した朝廷に対し、南九州の隼人が起こした叛乱を、
「おれが行く」 と、自分から言い出して戦場へ殴りこみ、殺戮の果てに鎮圧した、宇佐の八幡神。
しかし、殺された隼人の祟りは凶作を招き、八幡神は 「放生会で霊を慰めろ」 と、託宣。
「仏教の戒律に基づいた法会を神社で行う」 という八幡宮独自の祭儀は、ここに始まりました。
贖罪テイストが濃い端緒であります。が、別の見方をすれば、叛乱完全鎮圧の宣言とも言えます。
国的には結構、めでたい儀式になるわけです。律令制完成の、めでたい儀式になるわけです。
おまけに当時の朝廷は国を統一するため、土俗的な信仰を超越する仏教をゴリ推してましたから、
統一祝賀+仏教全開の放生会は、やがて国家的事業の性質も帯びるようになりました。
「おれが行く」 と、また自分から言い出して移座した石清水でも、放生会のそんな傾向は変わらず。
というか、都へ接近したことで神仏習合も鎮護国家もさらにブーストされる形となり、
皇室からは供花にしか見えない御花神饌なるものまで、お供え物として届くようになります。
古代染めの和紙で作られた造花による特殊神饌、御花神饌。別名、 供花神饌。
極めて珍しいこの神饌、実に戦前に至るまで御所から届いてたそうですが、戦後は途絶。
しかし近年、三笠宮彬子女王殿下が代表を務める団体・心游舎「御花神饌プロジェクト」 として、
一般から参加を募った子供たちと共に、神饌作りへ関わられるようになりました。
言ってみれば、ほんのちょっと旧儀に返ったような感じなのであります。
石清水祭2012後篇、その御花神饌から、スタートです。

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石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。【2012年度版・前篇】

2012年9月15日(土)


2012年の石清水八幡宮・石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

勅祭・石清水祭
京都の裏鬼門に鎮座する石清水八幡宮に於いて、9月に行われる例大祭です。
二所宗廟の一つとして朝廷から崇敬された経緯ゆえ、現在も旧儀に則って勅使が派遣され、
知名度は今イチながら、賀茂祭春日祭と共に 「三勅祭」 と呼ばれる、ロイヤルな祭であります。
以前も書きましたが、私はこの祭の舞台となる頓宮のすぐ近所で、生まれ育ちました。
しかし、貧乏な流れ者の子だったためか、石清水祭についてほとんど何も知らないままでした。
その欠落を埋めるべく、2011年は5000円のロイヤルな参列料を払って祭に参列し、
朝の2時からオール&ノンストップで続く祭儀を、食うものも食わず&寝るものも寝ずに見続け
その全てを全5回の超冗長な記事にまとめたんですが、しかし、勅祭はやはり、甘くない。
倒れかけながら全てを見尽くしたつもりでも、実際にはいくつか見落としがありました。
まずは、石清水祭独特のものと言われる、御花神饌。そして、放生会終了後の、舞楽奉納。
どちらも、前回見ようと思えば見れたものです。でも、見なかった。だって、死ぬほど眠かったから。
腹も死ぬほど減ってた。1秒でも早く、帰りたかった。なので、スルーしました。見落としです。
御花神饌はともかく、舞楽はさほど興味が無いんですが、でも見落としは見落としです。
というわけで、2012年度はこれらのフォローに終始。で、その他は思いっきり、適当。
参列料を払う金もないので、タダ見できるところばかりを、ひたすらダラダラウロウロしています。
なので、祭儀の詳細の方は前年の記事を御覧いただくとして、今回は空気のようなもの、
一般的な神輿大騒ぎな祭とは少し違う、石清水祭の雰囲気みたいなものを、
適当な写真&文から感じとってもらえると、幸いです。

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正月の石清水八幡宮へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年1月5日(木)


正月の石清水八幡宮へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

八幡の八幡さん(やわたのはちまんさん)、地元ゆえ再び初詣です。
元旦には、今イチながらも初日の出まで拝ませてもらった石清水八幡宮ですが、
昼間の混み加減も一応チェックしておきたくなって、改めて参拝させていただきました。
混雑度を見るなら何といっても元日、せめて三が日の間に行っとくべきなのですが、
諸般の事情で4日まで身動きとれず、5日に至ってのデータ取得となってます。ご了承下さいませ。
「世は変われども、神は変わらず」というキャッチコピーの通り、
例年と特に変わるところのない、賑やかかつ穏やかな八幡の八幡さんの正月ではあるのですが、
去年の年末にはこの石清水八幡宮、国史跡に指定されるというトピックがありました。
それも本殿のみならず、明治以前の神仏習合の遺跡を含めての指定。
ちょっと前には松花堂昭乗の滝本坊跡で「空中茶席」なるものの遺構が発見されるなど、
静かに盛り上がりを見せていた八幡さんの発掘ですが、この指定でより拍車がかかることでしょう。
八幡さんの参道の横にずらっと並ぶ、石垣。あれ、遺構なんですよ。かつて林立していた宿坊の。
でも、参拝される方の多くは登ることに必死で、全然そんなことに気にしてくれません。
ので、ちょっとその辺にも触れながらの初詣記事にしてみます。興味を持ってもらえたら、幸いです。
あ、トップの龍は、本殿にいる奴。辰年ということで、フィーチャアしてみました。

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粟田神社の粟田祭・夜渡り神事へ行きました。もちろん、ひとりで。

2011年10月9日(日)


粟田神社の粟田祭・夜渡り神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

えと、トップ画像で光り輝いてらっしゃるのは、かの法然上人でございます。
法然。もちろん、浄土宗の開祖です。粟田神社のすぐ南にある知恩院の、ラスボスです。
神社の祭のトップ画像がバリバリの仏僧とは、これいかに。
いや、それ以前に何故この法然はこんなにキンキラキンなのかという話ではありますが、
しかし、これが粟田神社の粟田祭なのであります。宵宮の奇祭・夜渡り神事なのであります。
粟田神社は、明治維新の神仏分離までは「感神院新宮」と呼ばれていました。
「感神院」といえば八坂神社の旧名「祇園感神院」が有名ですが、粟田神社はその新宮。
平安時代に朝廷が祇園社へ勅使を派遣、「東北に清浄の地あり」と神託を受け、創建されたわけです。
祇園感神院は、一時は比叡山の門下に寺として入るほど神仏習合が激しい社でしたが、
粟田神社もまたその傾向は強かったようで、社名から祭神から「ご一新」した経緯を持ってます。
が、往時の残り香のようなものは濃厚に残っていて、この夜渡り神事はその典型。
粟田神社名物の剣鉾が知恩院の七不思議のひとつ・胡瓜石の前まで出向き、
出迎えた知恩院の僧たちと一緒に剣鉾&石に祈るという、神仏コラボ祭事を展開してしまうのです。
その名も「れいけん祭」。凄い、何かよくわからないけど、凄いのであります。
2008年からは京都造形芸術大学の学生さんによる、超巨大燈籠「粟田大燈呂」も登場し、
2010年には御覧の法然も団体の枠を越え参戦、何かよくわからん凄さはさらに加速しました。
もとから奇祭だった祭がさらに奇祭化してる様、とくとお楽しみ下さい。

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石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【5】 還幸の儀

2011年9月15日(木)


延々と続けてきた石清水祭レポート、遂に最終回でございます。

地元民の思い入れゆえ延々と続けたのかというと、そういうわけでもありません。
私は、この祭りが斎行される頓宮から徒歩5分のところで生まれ育ち、
正に頓宮、放生川、あるいは八幡山全域を遊び場として、幼少期を過ごしてます。
が、この祭儀のことについては一切知りませんでした。私の親もまた、知りませんでした。
たまたまウチが流れ者の貧乏一家だから知らなかった、というわけでもないでしょう。
祭りといえば、ただ縁日に行くのみ。多くの八幡人にとって、石清水祭はこんな感じだと思います。
要するに石清水八幡宮って、お上の神さんなんですよね。
京都の裏鬼門守護のため建立され、例大祭には天皇陛下の使者が直々に派遣され、
国家の一大事には山が鳴動する神社。あくまで鎮護国家、国のための神さまというわけです。
なので平民の我々は、神の間近にいても何をやってるのか全然、見えない、気づかない。
祭りだって気軽に観れる時間にやらないし、気軽に払える金で観せないし、気軽な格好も許さない。
京都市内の神社の祭りに多く溢れる熱気や一体感、町衆自治の誇り、
あるいは神社そのものに漂う、人々から愛されてることに由来する優しさやあったかさ。
そういったものは、ここにはありません。それは確かに、少し寂しいことなのかも知れません。
が、それゆえに、かつてのやんごとなき方々への態度、やんごとなき祭りへの態度を、
生臭いまでに現代へ伝承してるかも知れないのです。
そんな石清水祭のフィナーレである還幸の儀、タダ見可能な行列部分は大幅カット、
大金払わないと見れない「神のおかえり」を、お楽しみください。

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石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【4】 放生会-法華三昧

2011年9月15日(木)


石清水祭、遂に午前中の行事ラストの放生会でございます。

ご存知の方も多いかも知れませんが、石清水八幡宮はもともと神仏習合の宮寺でした。
もちろん、幕末までの大きな神社はどこもそんな感じではあり、
京都でも八坂神社がかつて「祇園感神院」と仏教丸出しの名前で呼ばれていたことは、有名です。
特に「仏教に帰依して、国家鎮護の神とならん」とか言ってしまう八幡神はその傾向が強かったようで、
京都の裏鬼門・男山に鎮座して以降、石清水八幡宮でも神と仏は濃厚に入り混じり続けました。
「男山四十八坊」と呼ばれた宿坊が山のそこら中に建ち、その寺には数百人の僧が住み、
神社の管理もまた僧が担当し、あげく名称も「石清水八幡宮寺」という思いっきり寺全開状態。
それが明治初頭の神仏分離により、寺はほぼ完全に破却、文化財は流出、僧はトンズラ。
現在の「山の頂上に本殿があり、あとは野生」という清々しい神社ができあがってしまいました。
当然、石清水祭も神仏分離の影響を蒙って、旧儀廃絶・名称変更・再興を繰り返してるわけですが、
現在に至るまで元通りに再興できなかったのが、かつて祭の名称であった、放生会。
「放生会」という仏教的な名のとおり、僧参列のもと執り行われるのが本来の姿だったそうですが、
明治維新以降は仏教色を排し、神道式による行事として今日まで斎行。
それを元の神仏混合に戻そうと、2004年には特別行事として比叡山の僧職と共に放生会を開催。
そしてついに今年、やはり比叡山の僧職に出仕を賜り、
石清水祭の当日に国家鎮護の神仏が相集う形で、めでたく放生会を行うことになりました。
実に140年ぶりのことであります。

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石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【3】 奉幣の儀

2011年9月15日(木)


石清水八幡宮の石清水祭、ひとりで行ってます。続きです。

宇佐の地から京都の裏鬼門・男山へ八幡神が勧請された4年後の863年、
石清水八幡宮の例祭・石清水祭は、「石清水放生会」として始められました。
始めは単なる私祭でしたが、承平天慶の乱の調伏などで八幡宮が朝廷の崇敬を得るようになると、
勅使の御差遣が開始され、勅祭化。やがて、雅楽寮の楽人舞人による楽舞も、開始。
賀茂・松尾・春日・平野などに比べると新参もいいところの石清水は、凄まじい成り上がりを見せ、
遂には伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟としての地位を確立、
放生会には、太政官の最上位である上卿が、参議以下の諸官を率いて参向するようになりました。
と、上り調子だった石清水八幡宮ですが、応仁の乱により祭りは200年ほど、中絶。
江戸時代に再興されますが、明治維新の神仏分離で祭りどころか神社そのものがズタボロに。
のちに明治天皇が旧儀復興を仰せ出されたおかげで、何とか官祭としてまた再興しますが、
敗戦後の昭和20年にまたしても旧儀、中絶。24年には三度、再興。で、現在に至ります。
【2】でも触れましたが、「勅祭・石清水祭」、現行の制度上では全てが、私祭です。官祭ではなく。
現代の勅使を担当する掌典職は、皇室の宮中祭祀を担当する部門。
政教分離のため、給与は天皇家の内廷費、ポケットマネーから支払われています。
いわば、天皇家の私的使用人に相当するわけです。宮内庁職員 or 国家公務員ではないわけです。
が、石清水祭のパンフレットなどでは堂々と「私祭」「官祭」という言葉を、大々的に使用。
「まだ戦争は終わってないっていうか (by 電気グルーヴ)」な勢いを感じることしきりですが、
これから始まる奉幣の儀は、戦争どころか平安時代さえまだ終わってないような、
荘厳と雅を極め倒す祭儀が繰り広げられるのであります。
勅祭の勅祭たるパート、官祭のコアブロック、とくと御堪能ください。

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石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【2】 神幸の儀-絹屋殿の儀

2011年9月15日(木)


石清水祭は、大きく分けて以下の次第で行なわれます。

①神幸の儀 (AM2:00)
 御鳳輦(ごほうれん)に御神霊を乗せ、約500名の神職・楽人・神人と共に山をおりる祭儀。
②絹屋殿の儀 (AM3:40)
 下院頓宮前に設けられた絹屋殿にて、里神楽奉納、そして勅使が頓宮まで案内申し上げる祭儀。
③奉幣の儀 (AM5:30)
 頓宮へ奉遷された御神霊に、天皇陛下より賜る御幣物、そして神饌が奉献される古儀。
④放生会 (AM8:00)
 男山山麓を流れる放生川へ魚鳥を放つと共に、太鼓橋にて童による胡蝶の舞が奉納される祭儀。
⑤還幸の儀 (PM5:00)
 再び御鳳輦に遷された御神霊が、約500名のお供を連れて、山上本殿へ還幸になる祭儀。

このうちからはほぼ、ノンストップ。文字通りの、オールナイト状態。過酷であります。
ちなみに有料参列者しか見れないのは、および。情報が極端に少ないのも、ここです。
なお、今年はに比叡山延暦寺の僧職そして天台座主が出仕され、後に法華三昧法要も厳修。
あと、ハーフタイムとも言えるの間には、頓宮前舞台にて舞楽・演武奉納が行なわれます。

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石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【1】 イントロダクション

2011年9月15日(木)


石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

石清水祭。
京都の裏鬼門を守護する八幡市の石清水八幡宮に於いて、毎年9月15日に行われる例祭です。
上下賀茂神社の葵祭、そして春日神社の春日祭と並び、
天皇陛下の使者である勅使がじきじきに差し遣わせられる三大勅祭のひとつであります。
別名、南祭。対応する北祭とは何かといえば、もちろん京におけるもうひとつの勅祭・葵祭。
この二つの勅祭、実に対照的だったりします。
白昼の都大路に平安絵巻を現出させ、巨大な観光資産でもある葵祭が「表」の祭りだとすれば、
観光客がアクセス困難な真夜中に、僻地にて行われる石清水祭は、いわば「裏」の祭り。
鞍馬寺のウエサク祭でさえ参拝客に考慮して早めに終了するこの御時世に、
日時変更一切なし、大雨食らいがちな季節なのに雨天順延もなしという、強気過ぎるスタンス。
人間よりも神の都合を最優先して斎行され続けてる祭りなのであります。

しょっちゅう書いてることですが、私は八幡市の住民です。
なので、この石清水祭も何度か見てます。が、肝心の祭儀そのものは見たことありません。
勅使参向の祭儀を見るには、奉賛金を払わなくてはいけないからです。その金額、5000円。
500円ではありません。5000円です。五千円。
普通なら即時撤退の額ですが、しかし今年は思い切って大枚払い、参列してみることにしました。
理由は、石清水祭に関する情報が少ないから。特に、参列の情報がすごく少ない。
単に需要がないからかも知れませんが、それならそれで新たに八幡の魅力を知ってもらいたい。
そんな思いで身銭を切り、見れるものを全て見てきました。
そしてその経験は、私の故郷に対する認識を大きく改めさせられるものでした。
このネタは、ちょっと真面目にやります。真面目かつ、しつこくやります。元出かかってますからね。
まずは前日の宵宮などをイントロダクションとして、お楽しみ下さい。

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