ひとりで愛でる京都の桜 - ひとりでうろつく京都 (β版)

醍醐寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2019年4月5日(金)


醍醐寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

当サイト 『ひとりでうろつく京都』 にはこれまで、醍醐寺の桜記事が存在しませんでした。
メジャースポットへの単独特攻を身上とする、当サイト。醍醐寺スルーなど、基本、ありえません。
なのにスルーし続けてきた理由は、ただひとつ。豊太閤花見行列の時に、特攻したかったからです。
秀吉が己の命の散り際に華々しく催し、醍醐寺を名実共に桜の名所としたともいえる、醍醐の花見
そして、単なるコスプレ祭にも見えるものの、その醍醐の花見を現代に復活させた、豊太閤花見行列。
醍醐寺の桜を観るなら、この行列と共に観るのが、筋だろう。そう思い、機会を窺ってたわけですね。
で、サイトを始めた頃から2019年に至るまで、その機会がことごとく振られ続けてきたわけですね。
豊太閤花見行列が行われるのは、4月中旬。京都の桜は、散り際 or 完散のタイミングとなります。
「花見客を少しでも残そうとして、散り際にやってるんだろ」 と、思わず勘繰りたくなる間の悪さですが、
とにかくタイミングが合わないまま時は過ぎ、結果として何年もスルーし続けてしまってたのでした。
しかし、醍醐寺はやはり、醍醐寺。そんな理由で延々スルーなど、やはり許されないのです。
醍醐寺。真言宗醍醐派総本山、醍醐寺。秀吉が花見をするために建てた寺、では無論ありません。
平安時代初期に京都東南の醍醐山を丸ごと境内として創建されて以来、修験霊場として信仰を集め、
醍醐天皇を筆頭に皇室の庇護も厚く受けた、極めてロイヤルかつスピリチュアルな寺であります。
が、応仁の乱を食らって、醍醐天皇の冥福を祈る五重塔以外、壊滅。が、その後に秀吉が、出現。
秀吉からの帰依を得た醍醐寺は、伽藍の造営・改修と共に、醍醐の花見に向けた桜の植樹も実現。
この醍醐の花見により何とか盛り返し、以後も色々あるのもの、世界遺産として現在に至るわけです。
で、桜の方もまた、京都随一の桜メジャースポットと呼ばれるに相応しい威容を誇ってるわけです。
五重塔周囲に加えて、三宝院に博物館、タダ観ゾーンの桜馬場など、実に見所が多い醍醐寺の桜。
当然、シーズン中は平日だろうが何だろうが、大混雑。となれば、スルーはやはり、許されません。
そう思い今回、特攻したのでした。行事も何もない単なる普通の日に、特攻したのでした。

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京都府立植物園の桜ライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2018年4月5日(木)


京都府立植物園の桜ライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

植物園へ桜を観に行くというのは、ある意味、反則と言える行為かも知れません。
世界中の様々な植物を集めて栽培し、そして展示し、人々に教養と癒しを齎す場、植物園。
なので、桜も観れて、当たり前。しかも、種類が多くて開花時期も違うので、長く観れて、当たり前。
「短い間に必死こいて観る」 という桜のプレミアム感が、薄れるんですよね。で、ゆえに、反則と。
ただ、人の世は世知辛きものでして、桜をちょっと愛でる時間さえなくなるというのも、よくあること。
また、季節のない部屋へ籠って仕事してるうちに、桜が儚く散り去ってたというのも、よくあること。
帰り道などに路傍の桜が葉桜と化してるのを見て、 「春を取り戻したい」 「俺の春を返せ」 など怒り、
電飾によって着色された葉っぱでも何でもいいから桜を観たいと思うのも、人情というものでしょう。
また、やっとこさ桜ピーク時に京都の宿を予約したにも関わらず、開花が異常に早くなったりして、
京都へ着いた頃には桜が片っ端から葉桜になってた方なども、似たような気持ちになるのでしょう。
そんな桜難民と化した人にとって重宝な存在なのが、京都府立植物園の桜ライトアップです。
京都府立植物園。名の通り、京都府の植物園です。府立なのは、土地を買ったのが府だからです。
大正天皇即位に併せた大博覧会開催を企画した府は、田園だった半木神社周辺の土地を購入。
しかし計画破綻&土地転用で、1924年、日本最初の公立植物園としてこの植物園は開園しました。
第2次大戦敗戦直後には、GHQが米兵の為の住宅地として占領したりしましたが、1955年に再開園。
以後、 「指定管理者制度にせえ」 とか 「サッカー場にせえ」 とか言われながらも何とか乗り越え、
国内最大級の観覧温室も備えた堂々たる公設植物園として、市民の憩いの場であり続けてます。
そんな府立植物園、もちろん桜林もあって、ソメイヨシノ&ヤエベニシダレを中心に極めて充実。
しかも、 「せえ」 という声を跳ね除ける為なのか、植物園としては反則と思えるライトアップも実施。
特に枝垂系は遅くまで咲いてくれるので、葉桜を食らった難民の良い避難先になってます。
で、2018年は開花が凄く早く、私も見事に桜難民と化したので、避難してみました。

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京都御所へ梅と桃と桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2018年3月23日(金)


京都御所へ梅と桃と桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都御所。言うまでもなく、やんごとなき方々が住まわれた場所であります。
そして、これも言うまでもなく、一般人が自由に出入りできる場所ではないのであります。
我々が自由に出入りするのみならず、散歩したり昼寝したりもしてるのは、あくまでも、京都御苑
御所ではなく、御苑であります。あくまでも、御所の周囲を取り囲む部分、即ち外苑なのであります。
が、京都人の多くはそんなこと承知の上で、京都御苑を京都御所と呼ぶのではないでしょうか。
東京遷都に至るまでは、200軒以上もの公家宅が軒を連ねる公家町だったという、京都御苑の土地
遷都後は、東京で土地を与えられた為に公家が移住し、代わりに国へ上納された公家町は荒廃。
明治10年になって京都へ行幸した明治天皇が、この荒廃ぶりを目にして、公家町跡地の整備を指示。
予算も得た京都府は、喜んで整備を進め、近代皇国感溢れるだだっ広いレイアウトの外苑を完成。
その後は、国民公園化などを経ながら、基本的には街中の 「空白の場所」 として現在に至ってます。
では、そんな 「空白の場所」 を、どうして京都人の多くは京都御苑でなく京都御所と呼ぶのか。
適当な思い付きで答えるなら、その 「空白」 こそが京都御所の本質だと思ってるから、だと思います。
これまた言うまでもないことですが、京都御所には現在、やんごとなき方々は住まれてはいません。
「遷都の正式発表はされてない」 的な妄言を無視する限り、本物の御所もまた、 「空白」 なわけです。
天皇を失った京都はある意味、この 「空白」 をコアとする変態都市として、近代化を果たしました。
ので、 「空白」 にロイヤリティを見出してしまう。御所の近くの 「空白」 なら、尚のこと見出してしまう。
そんな無意識の動きが、御苑を御所と呼ばせているとか思うんですが、あなたどう思いますか。
という妄言はともかく、現代平民にとっての京都御所はあくまで散歩したり昼寝したりする所であり、
何より植物が原生林レベルで整備されてて、のんびりするにはうってつけのスポットとなってます。
春先には、梅と桃と桜が咲き、タイミングが良ければこの3種を一度に愛でることも可能。
で、今回は、そんなタイミングのいい日に、京都御所へと出かけてみました。

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亀岡の七谷川へ桜を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

2017年4月14日(金)


亀岡の七谷川へ桜を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

桜の名所は、かつて荒れ狂った川の堤防であることが多かったりします。
堤防の強度の維持にとって、桜の植樹が良いことなのかどうかは、私にはよくわかりませんが、
とにかく日本全国で見られる光景であり、京都では府下の桜の名所でよく見られるものです。
当サイトでも訪れた井手の玉川とか、我がホームたる八幡の背割堤とかは、正にその典型でしょう。
井手も八幡も共に、ひとたび洪水が起これば一帯が死の湖と化す、京都ディープサウスの街。
「死」 を孕む花である桜は、あるいは 「死」 に近い場所でこそ、狂い咲くものなのかも知れません。
いや無論、荒れ川の前科を持つ桜の名所は、サウスのみならず京都市&北部の府域にも多し。
「かつて保津峡を栓とする湖だった」 という神話を持つ口丹・亀岡にも、桜が咲き狂う川があります。
大堰川 aka 保津川 aka 桂川のことでは、ありません。その東を流れる、七谷川という川です。

七谷川ノ源ハ地蔵山ヲ発シ流程十三粁桂川ニ注グ流域荒廃洪水ノ際流出スル土砂ニヨリ被害甚大
ナルタメ治水ノ根本策トシテ砂防大堰堤建設ノ議起リ時ノ村長島津庫太氏関係者ヲ代表シ当局ニ
陳情昭和十六年国庫補助府直営工事トシテ起工一部施行セラレタルモ偶戦争苛烈トナリ工事中止
トナル戦後時局安定セルニヨリ村長広瀬富之助氏ガ復活ヲ強ク要望二十三年ヨリ継続施工セラレ
二十六年三月完成ヲ見ルニ至ル
( 「七谷川統水堰堤碑文」 『ふるさと千歳』 より)

愛宕山系の水を宿す七谷川は、亀岡盆地東山麓から千歳町を西へ流れ、大堰川へ入る川。
本流・臼木谷・桃原谷・馬路山谷・野々熊谷・畑谷・上谷が合流することから、その名が付いたとか。
名前だけ聞くと、虹でも架かりそうな優美な印象の川ですが、実際は古代より氾濫を起こしまくり。
上で引いた 「七谷川統水堰堤碑文」 が記すように、近現代に入ってようやく、治水が為されました。
昭和3年には、御大典記念として100本の桜を植樹。昭和48年にも、追加で100本をまた植樹。
昭和57年に入ると、沿岸に七谷川野外活動センターが創設されるのと共に、またまた500本を植樹。
これらの樹々が順調に育ちまくったことで、現在の七谷川は春が来る度、桜の一大名所化。
前科を反省してるのか、あるいは 「死」 に感応してるのか、物凄い狂い咲きぶりを見せてます。
そんな七谷川の桜、玉川や背割堤と同様に、浴びるが如く観て来ました。

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井手町・玉川堤へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年4月6日(水)


井手町・玉川堤へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

井手町。京都府南部にあって、元来は晩春に咲く山吹で広く知られた町です。
この町が立地する扇状地を作ったのは、木津川へ注ぐ玉川。山吹が多く咲いたのも、この玉川。
万葉集の編纂で名高い井手左大臣・橘諸兄は、この地を本拠地とし、玉川の堤へ山吹も植え、
更にはその風雅を讃える和歌を巷間に広めて、「ゐで」 を歌枕の定番の地位にまで押し上げました。
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   かはづ鳴く ゐでの山吹 散りにけり 花のさかりに あはましものを by 名無し
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そんな 「ゐでの山吹」 に、散るどころではない壊滅的ダメージを与えたのが、南山城大水害です。
1953年8月15日未明、豪雨により上流の池が決壊し、玉川には吸収不能な量の水が流れ込みます。
扇状地上の井手町は、濁流に呑み込まれて完全に浸水し、107人の死者が出るほど被害が激化。
玉川そのものも、名物である山吹や蛙などを含む生態系が押し流され、その姿を失いました。
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   くだつ世は 悲しきかなや いにしえの 井手の玉川 みる影もなし by 吉井勇
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南山城大水害後の玉川は、住民の安全維持を最優先に考える方向で改修が行われました。
水害防止の為に築かれたコンクリート護岸は、川の姿と、人々と自然の関係を、大きく変えたとか。
しかし、名物である山吹はその後、住民の熱意により復活。そして、桜という新たな名物もまた誕生。
植樹されたこの約500本の桜は、山吹より一足先に、川面の上へ花のトンネルを作り出すのです。
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   山吹を 待っとられんわと さくら満つ 井手の玉川 うどんも美味い by 独虚坊
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私は以前、井手町の讃岐うどんの名店・たなか家を訪れた際、偶然に玉川の桜を観て、驚きました。
凄い、と。こんな所にこんな凄い桜があるのか、と。府にはまだまだ色んな所があるんだな、と。
というわけで今回は、その感動を孤独な同志の皆様にも伝えるべく、桜満開の井手・玉川を訪問。
無論、うどんもこの感動の内なので、爆食@たなか家も込みでの桜見物です。

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高瀬川・木屋町通へ夜桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年4月2日(土)


高瀬川・木屋町通へ夜桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

木屋町通は電気の道だ」 みたいなことを、ふと、何となく、思ったりします。
エロき照明が夜な夜な輝いてるからではありません。歴史的経緯から、そう思ったりします。
いや、無論ここは、運河・高瀬川の開削によって材木商が集結し、その名が付けられた町&道。
そして高瀬川も無論、電気の無い時代に活躍し、電気の時代の到来と共に本来の役目を終えた川。
後はせいぜい、幕末に新時代を目指して京へ集った武者が、次々とブチ殺された地、というくらい。
一見、電気は関係無さそうです。歴史的経緯は、電気の無い時代に全てが仕上がってそうです。
が、京都の電化についてもこの道は割と大きな役割を果たし、その影響は現在も残ってるんですよ。
高瀬川を船が往来してた 「現役」 時代の木屋町通は、現在より遙かに幅が狭い道だったとか。
また、その名が端的に示す通り、沿道に建つのは材木などの蔵が多く、飲食店は少なかったとか。
多少なりとも幅がある現在の木屋町通が出来たのは、ここへ電車が走るようになった明治後期。
日本初の営業電車を走らせた京都電気鉄道は、2号線・木屋町線の用地として高瀬川沿いを選択。
クラシックな電車が走るスペースを確保すべく、木屋町通は現在のように拡張されたのでした。
更には、京都初の電力会社・京都電燈株式会社が、明治22年に本社&発電所を作ったのも、ここ。
京都電燈、開業日には沿道に電飾を灯しまくり、現代と同様な不夜城の世界を現出させたとか。
電車によって道の現在形が築かれ、最初期のライトアップが行われた地かも知れない、木屋町通。
こうなると、何となくどころか明確に 「電気の道」 だと思うと思うんですが、あなたどう思いますか。
そんな 「電気」 な経緯に因むのか、高瀬川沿いにて咲く桜を電飾で照らす毎年春のライトアップは、
かつて京電・木屋町線の電車が駆け抜けた木屋町二条から木屋町五条の間にて、主に実施。
エロき照明が特に輝く三条~四条の辺は、中に入れば色々ふんだくられそうな店が並んでますが、
しかし、歩くだけならタダなので、タダが好きそうな方々が市境も府境も国境も越えて、集まってます。
ならば、行かねばならぬ。その手の混雑への特攻が趣旨の当サイトとしては、行かねばならぬ。
と考え、桜が爆裂してる 「電気の道」 に、「電気の武者修行」 な気分で突っ込んでみました。
夜の高瀬川に、マンボ・サンは輝くのでしょうか。ゴングは鳴るのでしょうか。

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十輪寺へなりひら櫻を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年3月31日(木)


十輪寺へなりひら櫻を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

阪急バスは、京都に於いて、何とも不思議な存在感を放ってると感じます。
何が不思議かといえば、まず、色が不思議です。吐瀉物を思わせるあの色が、不思議です。
電車の方の阪急はかの 「阪急マルーン」 で彩られ、車体からもハイブランド感を醸成してますが、
阪急バスの方は、そんな高級感をとことん排除したゲロの如きカラーリングを、徹底して死守。
ゲロとは無関係なはずのスカイブルーが妙にゲロ感をブーストしてる辺も含め、実に不思議です。
阪神圏のように運行範囲が広ければ目も慣れるでしょうが、京都は狭いので全然慣れないというか。
で、その運行範囲の狭さと、運行している経路そのものもまた、何だか不思議に思えたりします。
大半の路線は、阪急の乗客が住む住宅地、それこそ不思議も何も無い住宅地を走ってるんですが、
ほとんど山岳路線化する善峯寺行きなんてのも中には混じっており、ギャップ、半端ありません。
阪急京都線は元々京阪が造ったものですが、京都に於ける阪急バスもまた元々は京阪系列でおり、
更にその京阪統括成立以前は、淀川右岸の各地にて零細業者が各々バスを運行してたとか。
こうした時代の名残が、ある種の不思議さを生んでるのかなと思うんですが、あなたどう思いますか。
そんな阪急バス@京都、西山エリアでは唯一の公共アクセスになってる名勝が幾つか存在し、
その内のひとつが、当サイトでも訪れた善峯寺であり、その手前にあるのが今回行った十輪寺です。
十輪寺。正式名称は、小塩山十輪寺。通称は、かの在原業平との縁に因んで、 「なりひら寺」 。
藤原明子 aka 染殿后の安産を祈願すべく、延命地蔵尊を本尊として円仁の弟子・恵亮が開創し、
応仁の乱で衰退するも江戸期に花山院家が再興、現在まで続いている天台宗の古刹であります。
屋根が鳳輦の形をした本堂や、寛文期に作られた鐘楼など、貴重な文化財を擁する十輪寺ですが、
最大の見所は、推定樹齢150~200歳におよぶという、やはり業平の名を借りた 「なりひら櫻」 。
その美しさから某 「そうだ」 に推され、一時は 「見つけた」 感を貪る輩が押し寄せたらしいですが、
ゲロ色のバスの他に公共アクセスが無い為か、現在はほど良く侘を保ってる様に見えます。
そんな十輪寺の 「なりひら櫻」 、無論阪急バスに乗って、観に行きました。

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将軍塚へ、夜桜と夜景を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年4月4日(土)


将軍塚へ、夜桜と夜景を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

夜景を観たいという気持ちが、私は湧かないというか、そもそもよくわかりません。
函館長崎といった夜景で知られる街へ出かけた際も、特に観たいとは思いませんでした。
長崎では、道に迷った流れで偶然に夜景を観ることにはなりましたが、これといった感慨も湧かず、
むしろ迷路めいた街自体や、日常に紛れ込む被爆者向けの各種案内が印象に残ったものです。
人間には、空から地を見る人と、地から空を見る人の、2種類が存在するのかも知れません。
私はきっと、後者なんでしょう。空から地を見下しても、何かを読み取ることが出来ないんでしょう。
ある意味、 「夜景不感症」 なわけですが、この症状、京都の夜景がしょぼいことも一因と思われます。
巨大建造物も無く、海など自然の演出も無く、人々の細々とした生活が見えるだけの、京都の夜景。
不感症を誘発するネガティブ・イメージを植え付けられた人は、案外多いのではないでしょうか。
あんなん観て、どうすんのん、と。あんなん観て、何が面白いのん、と。阿呆ちゃうのん、と。
とはいえ、 「夜景は観るものではなく性的に活用するもの」 という元気な輩はどこにでもいるのであり、
また、己で己を 「空から地を見る人」 と言い聞かせたい煙のような習性を持つ輩もいるのであり、
こうした連中がしょぼ過ぎる夜景をわざわざ観るというスポットもまた、京都にはいくつか存在します。
その代表が、将軍塚。東山に連なる華頂山にあり、現在は青蓮院門跡・別院になってる塚です。
そもそもは、遷都先を探していた桓武天皇が、ここから盆地を見下ろし平安遷都を決めた場所であり、
遷都後は王城を霊的に守護すべく、完全武装した巨大な将軍像が埋められたという伝説もあり。
国家危機の際は、この将軍像が山を揺らし、鳴動を起こすというスピリチュアルな伝承も誇りますが、
高度成長期に東山ドライブウェイが開通すると、一転して夜景スポットしての世俗的な名声を獲得。
華頂山山中でサルベージされたという大日如来を祀る大日堂も、春・秋にはライトアップを展開し、
美しく照らし出された桜や紅葉がしょぼい夜景を盛り立てて、不感症の進行を防いでくれたりもします。
当サイトでは2011年、開花直前という意味不明なタイミングにて一度将軍塚を訪問してますが、
2014年に大規模な改装が行われたので、その確認も込みで今回、桜の季節に再訪してみました。
しょぼ過ぎる夜景は、桜の魔力により鮮やかな美景へと生まれ変わるのでしょうか。

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伏見桃山城へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年4月2日(木)


伏見桃山城へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

再生産への強い欲求を示す数多くのエピソードを残しながらも、
その欲求の報われなさ加減に、ある種の 「呪い」 の存在さえ考えたくなる、豊臣秀吉
実子かどうかも怪しい実子・秀頼など、遺された豊臣宗家が辿った末路の悲惨さは言うに及ばず、
バカスカ建てまくり桃山文化を築いた豪華絢爛たる建築物もまた、その多くが現存しません。
無論それら建築物の破壊は、極めて現実的な政治的都合に左右された結果の場合が大半ですが、
中には、聚楽第のように存命中の秀吉自身が半狂乱で地上から完全抹殺したものもあったり、
昭和期まで生き残ったにも関わらず火災で焼失してしまった方広寺の大仏みたいなのもあったりと、
その 「跡」 の残らなさ加減は、何かの魔力、それこそ 「呪い」 の存在を勘ぐりたくなるほどです。
聚楽第&方広寺大仏の消滅が示す通り、京都はその 「呪い」 の傾向が異様なまでに顕著であり、
町を改造されて怒り心頭の町衆や、洛外へ強制移転させられて恨み骨髄の寺の坊主たちが、
1000年単位の呪いを集団でかけたんじゃないかとか思ったりするんですが、あなたどう思いますか。
で、今回訪れた伏見桃山城もまた、そんな 「呪い」 が作用してると思えてしまうスポットです。
秀吉が死した城・伏見城を、名城のエッセンスを寄せ集める形で昭和期に再建された、伏見桃山城。
築城された当時は近鉄電車が管理を行い、城の隣には 「キャッスルランド」 なる遊園地も開園、
城と一体化したレジャー施設としてそれなりの存在感を示してましたが、90年代以降は競合で苦戦。
結局、2003年に 「キャッスルランド」 が閉園し、ついでに城の管理も近鉄は放棄&京都市へ譲渡。
城の解体は何とか免れましたが、耐震性に問題があり、対策費用を捻出できないことも発覚し、
現在は内部への出入は完全禁止となり、昭和元禄の遺産としての存在感を日々増してます。
これはもう、 「呪い」 です。再建であっても、秀吉ゆかりの建造物は、京都では生き残れないのです。
と、適当過ぎる冗談はともかくとして、この昭和遺産に於いて近年良い感じで咲いてるのが、桜。
「呪い」 に対抗して秀吉の遺恨が作用したのか何なのか、大量の桜が見事に咲くようになりました。
あるいはその美しさもまた、城が孕む破滅の予兆に感応してのものかも知れませんが、
「夢の跡」 を模した 「夢」 の抜け殻に咲く夢、とにかく観てきました。

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大石神社へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年3月31日(火)


大石神社へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

大石神社。京都・山科にあって、その名が示す通り、大石を祀る神社です。
といっても、巨大な石を御神体的に祀るといった、プリミティブな信仰が息づく社ではありません。
何ちゃらの何ちゃらとして余りにも有名な、大石良雄 aka 大石内蔵助を祀る神社であります。
大石内蔵助。江戸期の何ちゃら藩にあって何ちゃらに何ちゃらするものの、その何ちゃらが何ちゃら。
直ちに何ちゃらの為に何ちゃらを決意した大石は、入念なる何ちゃらを行った後、見事、何ちゃら。
その何ちゃら振りは 『何ちゃら』 として物語化され、日本人の心性に合ったのか神話レベルで浸透。
近年は日本のみならず、ハリウッドでRNN47的に何ちゃら化されたのも、記憶に新しいところです。
そんな大石が、何ちゃらの為に何ちゃらをする準備段階の際、隠棲してた地こそが、京都・山科。
何ちゃらの気配を敵に気取られぬ為の偽装か、あるいは単に都会に来て何ちゃらしたくなったのか、
伏見の色街・橦木町へ出かけては 「隠棲」 ならぬ 「淫性」 に励んだという説もあったりしますが、
とにかくそんな隠棲に於ける大石との縁に基づき創建されたのが、こちら大石神社なのであります。
創建されたのは昭和初期と、かなり最近。創建を提唱したのは、上方の浪曲師・吉田大和之丞
境内には、 『何ちゃら』 を演じたスターから奉納されたお宝アイテムを多数所蔵する宝物館が建ち、
また、戦前の関西圏に於ける芸能パワーの残り香が感じられる点でも興味深いスポットなんですが、
それと同時に、いや近年はある意味でそれ以上に人気を呼んでるのが、 「大石桜」 なる名の桜
神社創建の際、建設地に生えてた枝垂れ桜を境内に定植して、御神木にされたというこちらの桜は、
元々は名無しの御神木だったそうですが、親しまれる内に自然と 「大石桜」 なる呼称が定着。
現在は桜の名木として、正直さほどアクセスが良くない立地ながら、多くの参拝者を集めてます。
そんな大石桜、何ちゃらの何ちゃらを何ちゃらすべく、観に行ってきました。

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善峯寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年4月11日(金)


善峯寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

写真家の水野克比古が、淡交社 『京の古寺から 善峯寺』 において、
祖母と一緒に歩いて善峯寺を参拝したという話を、子供の頃の思い出として書いてます。
曰く、電車の最寄り駅から7キロにも及ぶ距離を歩いた、と。2時間以上もかけて坂を登った、と。
それほど善峯寺は、遠くて、しかも交通が不便な所にある大変な寺だという話であります。
が、逆に考えると、2時間歩けば着くのであり、ありえないほど遠い寺ではないという話でもあります。
無論、現在は少なめながら路線バスが走り、団体バスもガンガン坂道を登っていく善峯寺ですが、
鉄道は今なお近くを全然走っておらず、公共アクセスは必ずしも良好とは言えません。
で、その程良い距離感と程良い不便さが、程良く俗界と一線を画すると共に秘境的な付加価値も排し、
ある意味、好き者を呼ぶ山奥の寺より大らかで清廉な印象を与えてくれるスポットだったりします。
西山善峯寺。京都・西山にあって、名の通りの山岳寺院なビジュアル誇る寺です。
平安中期に開かれて以来、親王の入寺が相次ぎ、後鳥羽天皇からは 「善峯寺」 の寺号を下賜。
室町期には山上にありながら僧坊が52にも及ぶ大寺へと発展しましたが、応仁の乱で焼失。
江戸期に至って、徳川第5代将軍・綱吉の生母にして西山出身の桂昌院から庇護を受けることとなり、
観音堂や鐘楼などの諸堂、そして国の天然記念物である遊龍の松が揃い、現在に至ってます。
小振りに再興されたとはいえ、現在の境内も約3万坪と通常からしたら破格に広大であり、
全部見て回ると、テーマパーク疲れというか、単純に猛烈な肉体疲労を誘引されること、必至です。
そんな善峯寺、境内では四季折々の花が咲き、秋の紅葉は特に知られますが、桜もまた名物。
樹齢300年ともいう桂昌院お手植えの枝垂れ桜以外は、成長段階の樹が多いですが、
ゆえに清廉な色づきが美しく、山上で空の青と響き合う様は、山岳寺院ならではの眼福でしょう。
京都にあって京都らしからぬダイナミックな桜、少し遠出して堪能してきました。

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平野神社の桜花祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年4月10日(木)


平野神社の桜花祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

平野神社の周囲はかつて、辺り一面が長閑な農地だったそうです。
住宅地&西大路通&そこを通る立命●●学生に囲まれる現在からは想像が困難ですが、
佐野藤右衛門分厚い桜本によると、実に昭和初期に至るまで農村の雰囲気は残ってたとか。
へ~、という話ではあります。ただ 「元農村」 が全く想像つかないかといえば、そうでもありません。
すぐ隣の北野天満宮には、道真以前から五穀豊穣を祈願する雷神信仰が存在したというし、
秋のずいき祭に登場するずいき神輿などは、正しくこの地の旧来の風土性を現在へ伝えるものです。
で、そんな 「農」 or 「土」 なこの地の歴史と性質を感じさせてくれるもう一つのエレメントこそ、
当の平野神社の名物 or アイデンティティ or レゾンデートルとして有名な、桜ではないでしょうか。
「平凡苗字神社」 と、当サイトで阿呆なタグをつけてるほど平凡な苗字の如きその名に反し、
桓武天皇によって平安遷都と同時に奈良から勧請された、極めてロイヤルな由緒を誇る、平野神社。
名物の桜もまた、花山天皇による手植えに始まるという、ロイヤルな由緒を誇るものであります。
応仁の乱の際には、西軍の拠点に近いため一度は社殿や領地ごとズタボロと化しましたが、
江戸期に至ると、宮司として社の再興を果たした西洞院時慶が、現在のベースとなる桜苑を整備。
さらに近くの西陣が織物で隆盛を誇り始めると、西陣に密着した桜の名所として、発展を果たしました。
故にというか何というか、私にはいかにも京都的な 「街中の桜」 に見える平野の桜ですが、
戦後すぐの頃は桜樹を取っ払って芋が植えられたというくらい、元来この土地は肥沃なのであり、
桜も芋も育んだその肥沃さは、農地に囲まれてたかつての時代に醸成されたものかも知れません。
そんな平野神社、桜シーズンの真っ只中に、祭を開催してます。その名もずばり、桜花祭。
花山天皇の時代に始まったとも言われてる祭礼を、大正期に復活させる形で開始されたこの祭は、
恐らく明治の上知以前の神領地だったエリアを、古式に則った祭礼列が回るというもの。
都市化された元の農地を、まるで桜を育んでくれた礼をするように、神が巡幸するわけです。
そんな桜花祭、ユルく追尾すると共に、桜苑もユルく鑑賞してきました。

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早朝の嵐山へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年4月7日(月)


早朝の嵐山へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年に早朝の嵐山の桜を見に行った際
「朝の嵐山が好きだ。仕事の匂いがするのが好きだ」 みたいなことを、書きました。
かつて丹波より保津川を下りやって来た木材の集積場&湊町として栄えた時代の残り香と、
あちこちの宿や飲食店が放つ何とも言えない昭和テイストな出汁の仕込み香が漂う、朝の嵐山。
そういった 「仕事」 の顔が感じられるタイムだから好きだ、というようなことを書いたわけです。
しかし、言うまでもないですが、嵐山がそもそも貴族の遊興地であったこともまた、確かであります。
そして、この嵐山の春を彩る桜が、雅なルーツを持つものであることも、確かであります。
この地に亀山御殿を築造した後嵯峨上皇が、吉野の桜を移植したことに始まるという、嵐山の桜。
本家である吉野には比ぶべくも無いですが、程良くコンパクトにまとまったそのサイズ感と、
それでも京都の街中と比べたら圧倒的なスケール感&スペクタクル感を誇りまくるそのビジュアルは、
貴族の庭的な雅さ&ダイナミズムを併せ持つ 「王朝時代から続く観光地」 としての面目躍如、
嵐山の 「仕事」 あるいは 「本業」 の魅力が、明確に具現化されたものと言えるのではないでしょうか。
そんな嵐山の 「本業」 の匂いを改めて吸い込んでみたくなった、というのは半分くらい嘘で、
残り半分は単に思いつき一発ではありますが、とにかくまた嵐山朝行をやってみることにしました。
前回は右岸をウロウロしましたが、今回は中之島から左岸、そして亀山の展望台へ行く感じ。
うちのサイトの趣旨からすると、人の少ない時間帯に出かけるというのは反則に当たるわけですが、
「本業」 の顔を見るなら、こちらも 「人間観察が趣味です」 みたいな冷やかし根性は捨て、
「私だけの嵐山を見つける」 とか言いそうな 「本業」 阿呆観光客の如き気持ちで赴くべきと考え、
でもそんな気持ちでガチ混雑時に出かけるのはガチで辛いので、朝に行ったわけです。
かくも情けない独男に、嵐山は 「本業」 の桜を見せてくれるでしょうか。

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山科疏水へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年4月5日(土)


山科疏水へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都および大阪において淀川水系の恩恵を受け生きている人民が、
滋賀県民から事ある毎に 「調子乗ると、止めるぞ」 と脅され続けている、琵琶湖の水。
その琵琶湖の水を、こっそりひっそり山越えて京都へ引いてるのが琵琶湖疏水なわけですが、
しかしこの疏水、元々は水をこっそりひっそりパクるために敷設されたわけではありません。
あ、いや、これはいくら何でも、言い過ぎでした。水欲しいの点についても、パクるの点のついても。
もちろん、水自体も欲しかったでしょう。特に、水力発電が疏水計画に組み込まれて以降は。
ただ、その水力発電の原動力となる琵琶湖と京都の高低差って、実に42mもあるんですよね。
「工事中に事故ると、京都が水没するんじゃないか」 という心配も、されてたそうなんですよね。
そんな水没の心配を押しても疏水が作られた最大の目的は、京津間に於ける輸送路の確保でした。
京都近代化にあたり、東海道北陸道からの物資輸送を重視した当時の府知事・北垣国道は、
交通の最大のネックとなっている逢坂山をブチ抜き、運河として使える水路を引くと決定。
当時まだ21歳だった田辺何ちゃらに何ちゃらを何ちゃらして、何ちゃらが何ちゃらされ何ちゃらし、
何ちゃらにて何ちゃらされ、何ちゃらから何ちゃらした結果、琵琶湖疏水はめでたく開通したのでした。
経緯を若干過剰に端折りましたが、とにかく明治期に運輸を主たる目的で作られた琵琶湖疏水、
運輸目的という点で共通するのか何なのか、やはり明治期に数多く建設された鉄道と同様、
陸上に水が顔を出すあちこちのスポットには、まるで防風林のような按配で桜が植えられてます。
ベタな知名度を誇るのは哲学の道 or 岡崎辺りでしょうが、他にも名所とされる場所は存在し、
中でも近年評判になってるのが、逢坂山と東山の間に位置する山科一帯における、桜。
そのビジュアルは、沿岸に並ぶソメイヨシノが水路を覆うという、ベタといえばベタなものですが、
地元の方が植えた菜の花との相乗効果で、郊外エリアらしい穏やかな美を誇ってます。
そんな疏水の桜、出くわした船に水運の残り香を感じつつ、眺めてきました。

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妙心寺塔頭・退蔵院へ、夜桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年4月11日(木)


妙心寺塔頭・退蔵院へ、夜桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

妙心寺といえば、「行く」 ところではなく、「通る」 ところ。
少なくとも花園周辺に住んでると、そんな印象を持つ方も多いんじゃないでしょうか。
禅テイスト全開の整然さを誇りながら、何故か大徳寺のような色気が無いだだっ広き境内に、
やはり整然としてるけど色気無き伽藍、そして大半が年中無休で拝観謝絶の塔頭が並ぶ、妙心寺。
臨済宗妙心寺派の大本山でありながら、ベタな観光客で溢れるようなことはほとんどなく、
といって、通気取りや穴場探しのネタになるような、消費者の自意識に優しい所もない、妙心寺。
信徒以外の人間から見ると、正直、ただただ広いばっかりという感じの寺であります。
独立した町と言えるくらい広いゆえ、クローズすると周辺住民の通行の妨げとなるということで、
山門の脇に設けられたくぐり戸は終日開放され、住民の通行が可能になってるんですが、
近所の方も、境内で足を止める人はほぼなく、自転車などでさっと駆け抜ける人が圧倒的に、多し。
「行く」 ところではなく、「通る」 ところ。そんな妙心寺であります。どんなだという話ですが。
しかし、そんな色気が全然無い、チャラチャラ浮ついたところがない質実剛健なる妙心寺にあっても、
中には常時公開され、桜のライトアップなんかを行ってしまう塔頭も、あったりします。
それが、退蔵院。室町期に開創された、妙心寺では三番目に古い塔頭です。
瓢箪で鮎を押さえるという、禅問答の世界を絵画化した 『瓢鮎図』 で有名な寺院ですが、
画家・狩野元信が、滝水が海へ流れ出る様を石と白砂で表現したという、枯山水 「元信の庭」 や、
四季折々の花々や池を配した、中根金作氏作庭による昭和の名庭 「余香苑」 もまた、有名。
やや小ぶりながら、桜もまた見事であり、2013年春は 『そうだ 京都、行こう』 とも提携。
かなり、色気を出してるのであります。「行く」 ところに、なってるのであります。
そんな退蔵院、さらに色気が増すであろう夜桜を、観に行ってきました。

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京都府庁旧本館の観桜会へ、夜桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年4月5日(金)


京都府庁旧本館の観桜会へ、夜桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

最近よく言われることですが、京都にはレトロ洋館が結構、残ってます。
明治から昭和初期にかけて、全国に先駆ける勢いで建てられた、重厚なる洋館の数々。
大きな空襲を受けなかったためか、あるいは何であろうと大事に保存する習性が発揮されたのか、
それらは三条通を中心に結構な量&結構な質で残り、近年、人気を呼んでるわけです。
「京都の別の顔を見た」 みたいな。 「実は新しいもの好きの京都を見た」 みたいな。
個人的にはこれらの近代建築遺産、京都人の隠された進取の気風の表われたものというより、
東京遷都で焦った明治期の息吹 or 殺気をより伝えてる気がするんですが、あなたどう思いますか。
とにかく、それなりに見るべきものが多く、また人気スポットも数ある京都の洋館シーンにあって、
ぶっちぎりの由緒を持つものといえば、恐らく京都府庁旧本館ということになるんでしょう。
京都ハリストス正教会聖堂などを手がけたことで知られる京都府の設計技師・松室重光が設計し、
破格の費用をかけ明治37年に完成した、堂々たるルネッサンス様式の、府庁本館。
極めて完成度の高い意匠を誇り、そのハイクオリティぶりは単に焦りの表出レベルに止まらず、
その後、続々と洋式で建てられた各地の県庁舎の立派なお手本ともなりました。
昭和46年まで現役として使われ、以後も現在に至るまで様々な形で稼働し続けてる旧本館、
最近はもっぱらロケや結婚式、時にはコスプレ撮影会などにも活用されたりしてますが、
そんな流れの一環として、春の桜シーズンに開催されてるのが、観桜会。
口の字型に建てられた洋館の中庭に植えられた、枝垂桜。それで、花見をしようじゃないか、と。
花見のみならず、アーティストとかも呼んで、期間限定で美術館化しようじゃないか、と。
桜の最盛期には夜間も開放して、ライトアップやプロジェクションマッピングもしようじゃないかと。
それが、観桜祭であります。で、もちろん、夜間公開へ行ったわけであります。
古いものを何でも活用する京都の息吹 or 殺気、お楽しみ下さい。

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大宮交通公園へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年4月5日(金)


大宮交通公園へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

大宮通の北端と聞いて、貴方はどの辺りを連想するでしょうか。
本来は御所の隣を通るが故にその名が付けられた、正に都を代表する通であり、
さらには平安遷都以前から存在して都市計画の基準になったとも言われる、大宮通、その北端。
私の場合、恐ろしいことに、四条大宮を連想します。知識と関係なく、四条大宮を連想します。
御存知の方は御存知でしょうが、大宮通、あそこで北へ向かって急に細くなるんですよね。
大きい道は、市電由来の何かよくわからん斜め道となり、その先で千本通と合流してしまうという。
サウス民であり、自転車で毎日のように東寺から大宮通を北上してた時期もある私は、
その 「急に細くなる」 印象ゆえ 「大宮通は四条大宮で終わり」 と反射的に考えてしまいます。
もちろん実際の大宮通は、二条城に寸断されたりしつつも北へ向かって細長く続き、
上京を越えた辺からは 「新大宮商店街」 という名のダラダラ果てしなく続くユルい商店街を形成、
確認したことはないですが、とりあえず御薗橋近くのどっかで北端に達するわけです。
が、生活圏が全然違う私は、あんな北の方まで大宮通が続いてることに、正直、混乱します。
そして、その北端近くに大宮交通公園なるものがあることにも、正直、混乱します。
大宮で 「交通」 といえば、四条大宮じゃないか。阪急と嵐電を乗り換える、四条大宮じゃないか。
トロリーバスの始発点だった、四条大宮じゃないか。市電車庫が近くにあった、四条大宮じゃないか。
市電の車庫はバスの車庫から操車場になり、その傍には 「ベンガル湾」 というカレー屋があって、
あそこあまり美味くはなかったけど出来ればもう一回食いたいぞの、四条大宮じゃないか。
と、全くどうでもいいことを書いてるのは、大宮交通公園に関して何も書くことが無いからですが、
では、何故そんな興味のない公園へ行ったかといえば、ここの桜がなかなか見事だから。
何といっても植えたのが、桜守・佐野藤右衛門。1969年の開園時に植えたとか。
植樹から30年という良い頃合の時が経ち、現在の桜は正に良い頃合。
そんな桜、児童と保護者だらけの中、観に行ってきました。

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半木の道へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年4月5日(金)


半木の道へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

昔、京都には 「ニナガワフセイ」 なる妖怪がいたそうです。
と言っても、怨霊飛び交う平安時代の話ではありません。割と最近の話と聞きます。
私はよくわからないんですが、お年寄りの方や、若いながらもディープな京都人の方から、
この名を聞かされることが結構あり、その度に 「何なんだろう、その妖怪」 と不思議に思ってました。
「ニナガワフセイ」 のうち、「フセイ」 には 「府政」 という当て字が使われることが多いのですが、
それはこの 「ニナガワフセイ」 が、京都府の知事を務めてたことに由来するんだとか。
妖怪なのに、府知事。笑っちゃ、いけませんよ。京都はそういう、不思議大好きな街なんですよ。
何でも 「ニナガワフセイ」 、28年も知事をやったそうです。そう、28年。どっかの田舎の村長か、と。
府のトップに於いてそんな無茶苦茶な人事がまかり通るなど、現実には考えられませんから、
全ては 「200歳も生きた」 とかいった類の、ブラフ混じりな神話レベルの話なんでしょう。
とはいえ、神話や伝承が単なる現実として日常に紛れ込む不思議大好きな京都に於いては、
それこそ平安時代の怨霊の痕跡でさえしっかり残存し、時に観光スポットとなったりもするわけで、
「ニナガワフセイ」 が残した不思議な神話の痕跡もまた、史跡として数多く残ってたりします。
そのうちのひとつが、北大路大橋から北の加茂川沿いに桜が咲く、半木の道です。
「この道、殺風景だから、桜を植えろ。すぐ植えろ」 と、「ニナガワフセイ」 が言い出したために、
桜守・佐野藤右衛門氏が70本もの紅枝垂桜をたった3日で植えたという、半木の道。
発端からして信じ難いものがありますが、それ以前にここはそもそも石ころだらけのガレ地であり、
桜が育ったこと自体も、「ニナガワフセイ」 の妖力の表われと言えるのかも知れません。
今では 「ニナガワフセイ」 を知らぬ他所者も 「そうだ」 とか言って訪れるようになり、
すっかり京都の桜名所のひとつとなった感もある、そんな半木の道、
満開の紅枝垂桜に漂う妖力を感じながら、歩いてみました。

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西陣桜めぐりをしてみました。もちろん、ひとりで。

2013年4月4日(木)


西陣桜めぐりをしてみました。もちろん、ひとりで。

西陣。言うまでもなく、「織物の街」 です。
平安期は宮廷の 「織部町」 として、鎌倉期は公家や武家相手の 「大舎人町」 として、
そして応仁の乱以降は、山名宗全が本丸を置いた西陣跡で再建されたために 「西陣」 として、
現在に至るまで京都 or 日本の工芸技術 or 文化を代表する 「織物の街」 であり続け、
あり続けるがゆえに、色んな事が色々大変になってたりもするエリアであります。
そんな西陣の生み出す西陣織といえば、生産工程が高度に分業化されてることで、有名です。
で、分業化してると、当然というか何というか、お互いが近所に住んでる方が便利なので、
織物に関連したあらゆる業種の人たちが密集して暮らしてることでも、有名です。
現在は工場が郊外へ出たり、産業自体のが衰退したりで、往年の密集感はありませんが、
町並にはその名残が濃厚に残っており、特に残り香を感じさせてくれるのが、寺ではないかな、と。
人間が密集して生活するとなれば、昔の 「生活必需品」 だった宗教も入り用となるわけで、
西陣にはかなりの密度で、寺が、それも町衆からの信仰が篤い法華宗の寺が、林立してます。
それらの寺の多くは、観光化されるわけでもなく、檀家以外立入禁止というわけでもなく、
でも小さな寺から本山クラスの寺に至るまで、どこも不思議な現役稼働感みたいなのが漂ってて、
よそ者である私としては、その辺に何となく西陣独特の雰囲気を感じるというか。
そんな西陣の寺には、やはり観光化されるわけでもなく、身内以外見所がないわけでもない、
実に程良いサイジングで、程良い味のある桜が、あちこちでさりげなく咲いてます。
立本寺の桜にすっかり気を良くしたので、そんな西陣の寺の桜、愛でて回ってみました。
密集してるがゆえに、徒歩で楽にこなせる桜巡り、お付き合い下さい。

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立本寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年4月4日(木)


立本寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都市上京区には、 「元●●寺町」 みたいな地名が多くあります。
「元真如堂町」 とか 「元百万遍町」 とか。 「元頂妙寺町」 とか 「元本満寺町」 とか。
中には、頭に 「元」 をつけず堂々と 「実相院町」 「革堂町」 「阿弥陀寺町」 と名乗ってたりとか。
町名のみならず、「元誓願寺通」 なんて通が、誓願寺と全然関係ないとこを走ってたりとか。
もちろん、元々はその町名の場所に名前の通りの寺があり、のち移転したわけです。
単に焼亡などで移転した寺も多いですが、移転の大きな山を作ったのは、天文法華の乱と、秀吉
法華宗の隆盛にブチ切れた比叡山が攻めてきて、法華宗は法華宗でそれを市内で迎え撃ち、
組の抗争の如き市街戦を展開したのち法華宗が洛外へ追い出された、天文法華の乱。
そして、そんな血気盛んな仏教勢力を殺ぐため、多くの寺を町外れへ集中移転させた、秀吉。
法華宗の中には、その両方で移転を余儀なくされた寺も結構存在するわけで、
今回桜を見に行った西陣の日蓮宗本山・立本寺もまた、幾多の変遷を経た寺だったりします。
創建以来、山門による破却や仲間割れを繰り返し、天文法華の乱では堺へ避難し、
帰洛したら秀吉に移転させられ、移転したら大火で焼失、現在地でようやく落ち着いた、立本寺。
北野商店街のすぐ南側で、住宅地に包囲されつつも極めて広い境内を持つ現在の姿は、
ちょっとしたハッピーエンド感さえ感じさせますが、もっとハッピーに見えるのが、桜の季節です。
かなりなボリュームの桜が、かなりなボリュームで密集して咲き、人もあまりいない。
何かもう、ちょっとした天国が現出してます。街角の天国、とでもいうか。
そんな立本寺の桜、ハッピーな気分でご堪能下さい。

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