上京区 - ひとりでうろつく京都 (β版)

夢窓疎石の命日に相国寺へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2022年10月20日(木)


夢窓疎石の命日に相国寺へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

夢窓疎石は、1351年9月30日に、新暦で言うなら10月20日に、死にました
その生涯を通じ、苔寺を始めとして数多の名庭を作庭し、枯山水の完成者とも言われる禅僧、疎石。
後醍醐帝足利兄弟の両方から崇敬され、天龍寺創建のため天龍寺船も献案したという、疎石。
さらに、歌人にして五山文学の有力漢詩人でもあり、語録や 『夢中問答』 などの文物も残した、疎石。
マルチというか横該堅抹というか、とにかく幅広く活躍した中世禅僧界の超カリスマであります。
この手の人物は晩年に下手を打ちがちですが、疎石は存命中に得た人望・名声を保ったまま、入滅。
その死に際しては多くの門弟や僧が集まり、崇光天皇は悲嘆のあまり政務を執れなくなったとか。
「夢想国師」 などの国師号は死後も帝達から送られまくり、 「七朝帝師」 なる別名まで生まれました。
元来ひとりの修行を好んだという疎石、死後も続くこのモテ期は、きっと苦笑ものでしょう。
ただその一方で疎石の最も有名なこの歌は、死後の推しを推してるようにも見えます。
盛りをば 見る人多し 散る花の 後を訪ふこそ 情けなりけれ
この歌に倣うかの如く、帝の他にも疎石の後を訪う者は多し。法要を行う寺もあります。
京都では、天龍寺が開山忌をもちろん実施。あと忘れてはならないのが、相国寺でしょう。
相国寺。万年山相国寺。金閣寺銀閣寺を山外塔頭として擁する、臨済宗相国寺派の大本山です。
足利義満によって花の御所の真隣で創建され、現在も京都御所の真北にて広大な境内を誇示。
五山文学の中心地でもあり、雪舟等伯応挙若冲などの文化財も持つ、禅刹中の禅刹であります。
この相国寺がどうして夢窓疎石の命日に法要を行うのかと言えば、疎石が正式な開山だから。
相国寺の創建は1382年で、礎石の没年は先述通り1351年なので、数字は全然合ってないんですが、
実質の開山・春屋妙葩が疎石の門弟であり、師匠ラブのあまり疎石を追請開山にしたわけです。
正しく、後を訪う者ならぬ後を訪う寺。ゆえに10月20日には、最重要行事として法要が行われてます。
そんな10月20日の相国寺を、特別拝観も併せて拝むべく、訪うてみました。

続きはこちら »

2019年への年越しを、妙心寺で除夜の鐘を聴くだけで迎えました。もちろん、ひとりで。

2019年1月1日(火)


2019年への年越しを、妙心寺で除夜の鐘を聴くだけで迎えました。もちろん、ひとりで。

聴くということ。耳を澄ませること、と言い換えても構いません。とにかく、聴くということ。
難しいことです。ネットの普及以降、視覚ばかり偏重される昨今では、なかなか難しいことです。
「見る暴力」 を行使する自由&権利が、ゼロ年代をまんま引き摺るような形で延々とデフレを続け、
愚鈍な視線が溢れ返ると共に、内省能力を喪失したイワシの如き民を大量発生させた、10年代。
イワシを見て 「やっとネットが漁場化した」 と考えた代理店は、社員を殺しながら民の家畜化を進め、
民は民で小さな画面の中へ認識を収束し、外部を負の感情の便所と見做すようになった、10年代。
見るということは、果てしなく安くなりました。大きな代償を支払うことで、果てしなく安くなりました。
この腐ったディケイドの最終年を迎えるに際し、私は、視覚偏重の風潮に異を唱えたくなったのです。
野蛮に見つめるのではなく、黙って聴くということ。むしろ、音 or 静寂から見つめ返されるということ。
聴覚の復権です。それはつまり、内省の復権です。この復権が今、必要であると思えるのです。
そう考えた私は、2019年の年越しを、妙心寺にて除夜の鐘を聴いて迎えることにしました。
妙心寺。言うまでもなく、臨済宗妙心寺派の大本山であり、禅寺の中の禅寺と言える大寺です。
京都・花園の巨大な境内は全域が禅テイストでまとめられ、質実&ストイックな精神世界を具現化。
また、国宝の梵鐘も持ち、そのレプリカで除夜の鐘も実施。で、この鐘が、参拝者は撞けないのです。
見るだけの無力さを痛感する前に偽りの主体性を得んと、鐘撞き体験へ走るイワシの愚さを排し、
耳を澄ませることで真の内省を促し、真のイニシエーションとしての年越しも成立させる、この姿勢。
正に、禅です。正に、己の内面と向き合う、禅ならではのスタンスです。正に、禅寺の中の禅寺です。
なので私も、真夜中の妙心寺で鐘の音に耳を澄ませ、聴くということに向き合ってみたのでした。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトである為に必要な挑戦なのです。
決して、並んだりせずに簡単に年越しネタを成立させたい一心で出かけたのでは、ありません。
断じて、単に写真が殆ど真暗になったから聴覚がどうとかゴネてるのでも、ありません。

続きはこちら »

京都御所へ梅と桃と桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2018年3月23日(金)


京都御所へ梅と桃と桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都御所。言うまでもなく、やんごとなき方々が住まわれた場所であります。
そして、これも言うまでもなく、一般人が自由に出入りできる場所ではないのであります。
我々が自由に出入りするのみならず、散歩したり昼寝したりもしてるのは、あくまでも、京都御苑
御所ではなく、御苑であります。あくまでも、御所の周囲を取り囲む部分、即ち外苑なのであります。
が、京都人の多くはそんなこと承知の上で、京都御苑を京都御所と呼ぶのではないでしょうか。
東京遷都に至るまでは、200軒以上もの公家宅が軒を連ねる公家町だったという、京都御苑の土地
遷都後は、東京で土地を与えられた為に公家が移住し、代わりに国へ上納された公家町は荒廃。
明治10年になって京都へ行幸した明治天皇が、この荒廃ぶりを目にして、公家町跡地の整備を指示。
予算も得た京都府は、喜んで整備を進め、近代皇国感溢れるだだっ広いレイアウトの外苑を完成。
その後は、国民公園化などを経ながら、基本的には街中の 「空白の場所」 として現在に至ってます。
では、そんな 「空白の場所」 を、どうして京都人の多くは京都御苑でなく京都御所と呼ぶのか。
適当な思い付きで答えるなら、その 「空白」 こそが京都御所の本質だと思ってるから、だと思います。
これまた言うまでもないことですが、京都御所には現在、やんごとなき方々は住まれてはいません。
「遷都の正式発表はされてない」 的な妄言を無視する限り、本物の御所もまた、 「空白」 なわけです。
天皇を失った京都はある意味、この 「空白」 をコアとする変態都市として、近代化を果たしました。
ので、 「空白」 にロイヤリティを見出してしまう。御所の近くの 「空白」 なら、尚のこと見出してしまう。
そんな無意識の動きが、御苑を御所と呼ばせているとか思うんですが、あなたどう思いますか。
という妄言はともかく、現代平民にとっての京都御所はあくまで散歩したり昼寝したりする所であり、
何より植物が原生林レベルで整備されてて、のんびりするにはうってつけのスポットとなってます。
春先には、梅と桃と桜が咲き、タイミングが良ければこの3種を一度に愛でることも可能。
で、今回は、そんなタイミングのいい日に、京都御所へと出かけてみました。

続きはこちら »

御霊神社の御霊祭へ5年連続で行ってきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2016年5月18日(水)


御霊祭の5年連続追尾シャッフル記事、前篇の続きでございます。

御霊祭を見てて毎年感じていたのは、アーシーな祭だな、ということです。
怨霊化こそしてるものの皇族を祭神とし、京都御所からは氏神として崇敬された、御霊神社
その御霊神社の大祭であり、祇園祭など御霊会形式の祭祀のプロトタイプとも目される、御霊祭。
神幸エリアも正に都の中心たる上京がその大半であり、果ては御所でも神輿を差し上げまくり。
そんなロイヤルかつ都会的な祭に、アーシーさを感じるというのは、何だかお門違いとも思えます。
が、アーシーなんですよ。氏神祭的に、アーシーなんですよ。で、その感じが、独特なんですよ。
確かに御霊神社は、殺した弟の怨霊に苦しむ桓武帝により創建されたというロイヤルな伝承も持ち、
怨霊を防衛する都市 = 怨霊を恐怖する都市である平安京に、極めてマッチした社ではあります。
が、同時にこの社は、平安遷都以前より存在した出雲寺の鎮守という見方もあるらしいんですよね。
出雲寺は、出雲郷という所にあった寺。出雲郷は、現在の出雲路の辺 = 御霊神社の氏子圏内。
出雲郷では、その名が示す通り出雲国より移住してきた出雲氏が 「出雲臣」 としてエリアを形成し、
氏寺として出雲寺を、氏神としてその鎮守たる御霊神社の前身の社を、それぞれ祀ってたんだとか。
御霊神社の境内では、平安期の時点でもう荒廃した出雲寺の瓦が、出土したりするようですよ。
いや無論、だからといって 「この祭のOSは千年の時を越えた出雲郷だ」 と言うのは無理過ぎますし、
また御霊神社は現在でも実際に氏神である為、氏神祭の雰囲気が出るのは全く当然の話です。
が、あちこちの祭を追尾した私の目には、御霊祭のアーシーさは、確実に独特なものに見えます。
街の祭の感じとしてアーシーな、あの感じ。やっぱり、出雲郷と何か、関係があるんでしょうか。
本多健一 『中近世京都の祭礼と空間構造』 では、御霊会を起源に持つ主要祭礼の中で御霊祭が、
「唯一官祭的性格を持たなかった祭礼」 としていますが、その辺も何か、関係あるんでしょうか。
というわけで、そんな独特のアーシーさの伝達を主軸にシャッフル構成とした今回の御霊祭記事、
後篇は、ロイヤルにしてアーシーな差し上げ@御所から宮入までを、御覧いただきましょう。
「だからちゃんとルート教えろ」 という方は、やっぱり自力で調べて下さい。

続きはこちら »

御霊神社の御霊祭へ5年連続で行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2016年5月18日(水)


上御霊神社の御霊祭へ5年連続で行ってきました。もちろん、ひとりで。

当サイトは、取材した全てのネタを、記事化してるわけではありません。
写真もメモもあるけど、記事にしてない。そんなケースが、全取材数の2割はあるでしょうか。
写真が今イチだとか、作る時間がないだとか、様々な理由でまあ、ペンディングしてるわけですね。
中には、 「毎年のように追尾していながら、今もって未記事化」 なんて祭も、なくはありません。
そのひとつが、御霊祭だったりします。それも、未記事化のまま、実に5年連続で追尾してたりします。
御霊祭。その名の通り、御霊神社の祭です。上と下がある御霊神社の内、上御霊神社の祭です。
最初にこの祭を追いかけたのは、2012年でした。で、上京を進む神幸列に、強い感銘を受けました。
また今出川口・小山郷・末廣会の神輿3基にも、強い感銘を受けました。が、写真が今イチでした。
なので、翌2013年も追尾しました。すると、神幸列も神輿も、前年とは全く違うルートを巡幸しました。
街中を進むあの感じを再び見たいと思い、2014年も追尾すると、巡幸ルートはまた全く別でした。
「なるほど、神輿が3基あるから氏子域も3つ存在し、ゆえに巡幸ルートもまた3通りあるのだ」 と考え、
ゆえに2015年は2012年と同ルートと踏み、四度追尾に挑むと、ルートはまたまた全く違いました。
で、2016年にはもう逆に、新ルートを楽しみに追尾へ出かけたら、今度は2012年と同じルートでした。
で、ああ4年周期かと納得し、ある程度の概観を得たとも考えて、今回の記事化に至ったわけです。
これだけ御霊祭の追尾を続けたのは、祭が持つ独特の雰囲気が一番の理由ではありますが、
5月18日に固定された開催日程と、巡幸範囲の手頃なサイジングもまた、理由の一部ではあります。
日程が固定だと、平日開催の年が当然多く、時間の都合がつかずに見落としが出るんですよね。
あと巡幸範囲は、かなり広いものの基本は街中であり、無理をすれば完全追尾も可能なんですよね。
そんなこんなで、追尾を5年もやってしまいました。で、記録も山のように溜まってしまいました。
というわけで当記事は、山のように溜まったその記録をフル活用すべく、時空を超えてシャッフルし、
ルートに拘らず、祭の大体の流れ+独特の空気感を伝えることを主軸に、まとめてみました。
「空気感とかいいから、ルート教えろ」 という方は、自力で調べて下さい。

続きはこちら »

五山送り火の大文字を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

2015年8月16日(日)


五山送り火の大文字を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

五山送り火。ござんのおくりび。間違いなく、京都の夏に於ける最大級の風物詩です。
お盆に際し現世へ帰って来た精霊 aka おしょらいさんを、再び冥界へ送る万灯籠の習俗が、
花の都で様々な影響を受け大規模化した末、闇夜にページェントを現出させるに至った、送り火。
炎で描かれた 「大文字」 「妙法」 「舟形」 「左大文字」 「鳥居形」 が街を囲むそのビジュアルは、
本来の目的たる信仰を集めると共に、 「夏の風物詩」 の枠を越え京都観光そのもののアイコン化。
ホテル屋上で酒の肴に眺める仏罰必定の輩から、五山コンプへ挑む自転車の珍走団に至るまで、
様々な阿呆に阿呆な意欲をも湧かせる巨大イベントとなっていることは、誰もが知る所でしょう。
そんな五山送り火、京都の超メジャースポットへの単独正面突破をモットーとする当サイトとしては、
本来なら絶対に見逃すわけにはいかない、何を差し置いても押さえておくべき行事ではあります。
しかし、これまで当サイトに送り火記事は、存在しませんでした。あらゆる形で、存在しませんでした。
決して、避けてたわけではありません。被災木材拒否でウンザリし、避けてたわけではありません。
逆です。ネタの採取は毎年、敢行し続けてきたのです。そして、全てに失敗し続けてきたのです
採取を始めた2011年は、自転車による五山コンプに挑むも、嵐山へ珍走する途中で、タイムアウト。
2012年は、懲りずに自転車でコンプに挑むも、北山通の混雑で躓き、舟形の手前で貧血ダウン。
2013年は、混雑回避を考え、敢えて徒歩&公共交通機関で挑むも、妙法を過ぎた辺で早速、アウト。
2014年は、発狂して全徒歩コンプに挑むも、大文字以外全アウト。と、失敗し続けてきたのです。
そして、各山の点火時間が繰り上がった2015年、私は流石に考えました。コンプはもう、止めようと。
むしろ、1年に1山ずつ回る方がまだ、いいかも。その方が、うちには、合うかも。そうだ、そうしよう。
というわけで当サイトは、五山送り火を5年かけてコンプする5ヵ年計画の発動を、ここに宣言します。
計画発動期間中、彼女が出来てサイト更新を辞めたり、または私が死んだりするかも知れませんし、
外出の面倒さから年数が6ヵ年とか8ヵ年とかに化ける可能性もありますが、とにかく宣言します。
で、記念すべき5ヵ年計画初年度のターゲットは無論、大文字。東山・如意ヶ嶽に浮かぶ、大文字。
「大文字焼き」 なる呼称さえ生んだ、五山送り火にとってキービジュアル的な存在の山です。
この大文字を、出町から北大路までの大混雑する加茂川西岸から、拝んでみました。

続きはこちら »

北野天満宮の梅花祭へ行って、野点を拝服してきました。もちろん、ひとりで。

2014年2月25日(火)


北野天満宮の梅花祭へ行って、野点大茶湯を拝服してきました。もちろん、ひとりで。

一年の生活を、神社や寺院の暦と共におくる京人は、毎年二月二十五日は、梅の花の訪れだとはな
しあう。二十五日は、菅公の命日である。毎月、天満宮に市がたつが、二月だけは、特別、 「梅花祭」
がひらかれた。もともと、この 「梅花祭」 は、梅を愛した菅公の命日に因んだもので、古くからこの日
だけ、 「菜の花御供」 とよばれる祭典があり、その年の五穀豊穣を祈願して、菜の花をさした白米が
供えられ、宮中からも、代参者がきた。奉納神楽や式典もある。だが、どちらかというと、この日は、
上七軒の芸妓連中が献茶をうけもつ 「梅花祭」 の方が有名だ。
水上勉 『北野梅花祭』 )

という、北野天満宮梅花祭。祭神・菅原道真公の命日に、梅を愛でる催しです。
有能ゆえ家格を超え昇進するも、それを嫉んだ藤原時平により大宰府へ流され死んだ、菅公。
呪いのあまり雷神と化して、陰謀関係者各位へ片っ端からローリングサンダーを叩き込み、
頼むからもう勘弁してくれということで創建されたのが、菅公を主祭神とする北野天満宮であります。
つまり梅花祭は、北野天満宮 = 天神さん創建の本義に関わる極めて重要な祭儀なのであり、
ゆえに伝統の本質と信仰の大義を重要視する当サイトでは、2011年度の梅花祭訪問時において、
カメと見物客が群がる野点には目もくれず、参拝および梅苑の鑑賞に明け暮れたのでした。
「本当は、単に茶券が売り切れてたんだよ~ん」 「1500円の茶券代も、ケチりたかったんよ~ん」 と、
魂の底から妖しき声が響かないでもないですが、とにかくお茶は意図的にスルーしたのです。
しかし、うちのそもそもの趣旨は繰り返し書いてる通り、あくまでもメジャーどころの単独正面突破。
水上勉でさえ、やたら読点の多い文章で 「野点の方が有名」 みたいなことを書いてる以上、
上七軒の芸舞妓さんによるお点前が披露される茶席を、スルーし続けるなど、断じてありえません。
というわけで今回は、野点大茶湯への単独特攻を含めた形で、梅花祭を改めて訪問。
無論、をどり特攻の際と同じく前売券には手を出さず、玉砕覚悟の飛び込みで行ってみました。
梅と茶と人間の渦巻く中で、春をフラゲしようとする試みの一部始終、御覧下さい。

続きはこちら »

2014年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2014年2月3日(月)


2014年度の節分めぐり、後篇です。

『ウルトラマン』仮タイトルが 『ベムラー』 だったのは、有名な話です。
ベムラーとは、 『マン』 第1話で登場した怪獣の名前。ボツの後、転用されたわけですね。
企画初期の 『マン』 は、名前のみならずビジュアルも実にベムラー的というか、怪獣的であり、
シュルレアリストにより生み出された、極めて抽象度が高い 「正義」 の造形に慣れた我々の眼には、
そのビジュアルは、およそヒーローらしくない、あるいははっきりと 「悪」 に見えなくもありません。
『マン』 が現代的なヒーロー像を確立する以前の、 「悪より怖い神」 としてのヒーローの残滓、
それこそ 『ゴジラ』 の如き 「荒ぶる自然の神」 としてのヒーローの残滓、みたいな感じなんでしょうか。
しかしこの 「悪より怖い神」 、後年には人類を液状化させた 『エヴァ』 にて見事復活 (?) し、
やはり 「ヤヴァい神」 こそが日本の原初的ヒーロー像なのだと思ったもんですが、それはともかく。
「ヤヴァい神」 「悪より怖い神」 を守護神として祀るのは、寺社では現在でも普通のことです。
京都に話を限っても、祇園祭における荒ぶる神・牛頭天王の重要性など、枚挙に暇はありません。
季節の変わり目に生じた境界領域へ鬼が侵入するのを防ぐ節分においても、事情は全然同じ。
吉田の追儺式に現れる、鬼より怖い方相氏。あるいは平安神宮に現れる、鬼より不気味な方相氏
いずれも、不気味です。 「悪より怖い何かを神として崇拝する」 信仰を感じさせるものです。
真に節分の厄や邪気を祓いたいなら、より強く、より怖い神に祈るのが、道理ということなのでしょう。
というわけで2014年の節分めぐり、後半は厄除けを徹底するべく、怖い寺社ばかり回ります。
回るのは、京都最強&最凶の怨霊系神社×2と、大量のダルマがギョロ目で睨みを利かせる達磨寺
バキバキに効く、でも怒らせるとバキバキに怖い、そんな寺社を念入りにお参りすることで、
邪気を完全封鎖しようと思ったのかといえば、無論本当は思いつきでフラフラ動いただけですが、
とにかく一歩間違えるとこっちが邪気認定されそうなところばかり、何となくめぐってみました。
ユルくて怖い、ある意味で京都的とも言えるそんな節分めぐり、お楽しみ下さい。

続きはこちら »

2014年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。【前篇】

2014年2月3日(月)


2014年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。

毎年恒例の節分めぐり、2014年度版でございます。
深層意識で今なお旧暦のタイムテーブルが稼働し続けているせいなのか何なのか、
「本来の年越し」 的な感じで、ある意味では正月以上の盛り上がりを見せる、京都の節分
市内の多くの寺社で2月3日を中心に各種祭典が行われ、大きな賑わいを呼んでいるのであり、
メジャーどころの単独正面突破を旨とするうちでも、毎年、めぐり特攻を繰り返してきました。
2011年は、本丸たる吉田神社の節分祭・追儺式に特攻して鬼が全然見えない玉砕から始め、
各地で鬼が暴れる様を追いかけ回した末、火炉祭を観に戻った吉田で今度は閉め出し食らったり。
2012年は、舞踊奉納や節分狂言、追儺狂言といった芸能を、あちこちでタダ見しまくった後、
須賀神社で独男に無縁な懸想文を購入し、悲願の吉田神社・火炉祭の炎では顔面を焼かれたり。
そして2013年は手抜きをしたくなったので、東山周辺の寺社の節分祭を極めて適当に巡り、
鬼の写真が全然撮れなかったので、 「無形の鬼を追い求める」 とか適当な屁理屈をこねてみたり。
といった感じで、熱狂と混雑の巷へ飛び込んでは、無意味な疲労を積み重ねて来たわけですが、
では今回の2014年度版はどうしたかといえば、2013年に引き続き、何というか、適当です。
今まで回れてないスポットを、ユル目のスケジュールでダラっと回り、すぐ帰った。そんな感じです。
2月って、寒いですしね。出歩くと、疲れますしね。それにこの時期、色々と金無いですしね。
いや、 「体も懐も寒いからこそ、景気良く盛り上がりたい」 という気持ちは、ないでもありません。
が、でもやっぱり2月って、寒いですしね。疲れますしね。この時期、色々と金無いですしね。
というわけで、前年以上に少ないスポット数を日和り気味で回る、今回の節分めぐりであります。
逆に言えば、堅気の人も実行可能であろう普通の街めぐり+寺社めぐり的なその様、
やはり適当に降りた京阪電車・三条駅から、スタートです。

続きはこちら »

2013年の時代祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年10月22日(火)


2013年の時代祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

時代祭。言うまでもなく、京都三大祭のひとつであります。
しかしこの祭、他の二祭と比べると始まったのが明治の中頃と、割に最近です。
東京遷都で衰退した京都は、振興策として明治28年に 『平安遷都千百年紀念祭』 を開催。
紀念殿として、5/8サイズの平安京大内裏レプリカを、当時田んぼだらけの岡崎に建設しました。
首都の座を実質失っていた江戸時代でも、かろうじてプライドは担保してくれていた天皇を遂に失い、
思わずアイデンティティを平安時代に求めてしまった京都人は、その小さいレプリカを、神社化。
祭神は、平安遷都を成した桓武天皇と、京都最後の天皇である孝明天皇。氏子は、京都市民全員。
例大祭の日は、平安遷都の日・10月22日と決められました。平安神宮&時代祭の始まりです。
延暦時代から明治維新までの各時代の装束で都大路を練り歩く時代祭名物・時代行列も、
初回こそ完全なる客寄せコスプレイベントでしたが、恒例化して回を重ねる内にラインナップも拡充。
市域の拡大につれて徴員される人が増えたり、花街から芸妓さん呼んで婦人列を新設したり、
「逆賊」 扱いの足利将軍が開催100年目にしてようやく参加を許されたりながら、現在に至ってます。
と、まともにイントロ書くのが面倒臭くなったので、思わず2011年度分をリライトしましたが、
とにかく京都市が誇る一大コスプレ・ヒストリカル・パレードである時代祭の追尾、2013年度版です。
2011年も全行程4.5キロを追っかけたのに、何故もう一度追尾することにしたかといえば、
伝統を死守してるようで実は日々刻々と変化し続ける京都の 「今」 を捉えるため、ではありません。
2011年度が、雨天順延&写真が酷かったので、22日でリトライしたかっただけであります。
当然ながら今回も、行列の全行程4.5キロを、追尾。行列から少しずつ遅れながら徒歩で、追尾。
「動く歴史絵巻」 が凡庸な地方都市を進む絵面ばっかりで、また全時代を網羅してみました。
ビルや車や通行人などを背景ボカシの彼方へ抹殺して偽造した 「雅」 さではなく、
「雅」 さが普通の街中に転がる京都のストレンジさ、改めて御堪能下さい。

続きはこちら »

夏越祓の茅の輪をまたまたくぐりまくりました。もちろん、ひとりで。

2013年6月30日(日)


夏越祓の茅の輪をまたまたくぐりまくりました。もちろん、ひとりで。

いい歳をした、独男。その、穢れ切った精神と肉体。
肉体はあらぬ快楽で怒声を上げ続け、魂は無力感と万能感の狭間で腐り続け、
さらには、腐臭漂う己の生き様を、ネットを通じてなるべく広範に伝染させようと目論み、
自意識の臭気を汁にして目から飲ませるような暑苦しいサイトを作り続ける、筆の生えた糞袋。
そんなカス野郎の、穢れに穢れた穢れを祓おうとするなら、普通の祓いでは全く足りません。
質的にも量的にも肥大した糞袋っぷりを糺すには、質的にも量的にも肥大した祓いが必要なのです。
そう、例えば、大祓に用いられる茅の輪を、大量に、かつ連続して、くぐりまくるとか。
半年分の穢れをくぐり一発で祓うスピリチュアルリング = 茅の輪を、立て続けにくぐりまくれば、
あるいは独男の穢れ切った精神と肉体も、穢れなき少年のような輝きを取り戻すかも知れない・・・。
そんな藁をも掴む気持ちで、神社を求めウロウロ徘徊する夏越祓の茅の輪くぐりまくり、
2013年度上半期も、湿気爆発な梅雨真っ盛りの京都を舞台に、しっかりやってしまいました。
魂の救済というテーマを掲げ、でもやることは単なる街ブラ&嘘スピリチュアルという外道なこのネタ、
2011年度は東山周辺を中心に2012年度は堀川通を中心に、それぞれ徘徊しましたが、
2013年度のメインターゲットエリアは、一大観光地・嵐山をスタート地点とする、洛西・右京区。
理由は、特にありません。東と真ん中を攻めたのか、今度は西方面かな、と。そんな感じ。
また、厳密に西へこだわったわけでもなく、最後には北野一帯へ流れ付いたりと、極めて適当です。
が、適当に歩いても尚、かなりなボリュームの神社にかなりの頻度で遭遇する京都の濃さ、
そしてそんな濃さの中で息づくネイティブな匂いみたいなものは、多少は感じてもらえるかなと。
それでは半期に一度のスピリチュアル・デトックス or 存在の膿の大棚ざらえ、
梅雨真っ盛りの不快極まる梅雨空ですが、さあ、出発しましょう。

続きはこちら »

京都府庁旧本館の観桜会へ、夜桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年4月5日(金)


京都府庁旧本館の観桜会へ、夜桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

最近よく言われることですが、京都にはレトロ洋館が結構、残ってます。
明治から昭和初期にかけて、全国に先駆ける勢いで建てられた、重厚なる洋館の数々。
大きな空襲を受けなかったためか、あるいは何であろうと大事に保存する習性が発揮されたのか、
それらは三条通を中心に結構な量&結構な質で残り、近年、人気を呼んでるわけです。
「京都の別の顔を見た」 みたいな。 「実は新しいもの好きの京都を見た」 みたいな。
個人的にはこれらの近代建築遺産、京都人の隠された進取の気風の表われたものというより、
東京遷都で焦った明治期の息吹 or 殺気をより伝えてる気がするんですが、あなたどう思いますか。
とにかく、それなりに見るべきものが多く、また人気スポットも数ある京都の洋館シーンにあって、
ぶっちぎりの由緒を持つものといえば、恐らく京都府庁旧本館ということになるんでしょう。
京都ハリストス正教会聖堂などを手がけたことで知られる京都府の設計技師・松室重光が設計し、
破格の費用をかけ明治37年に完成した、堂々たるルネッサンス様式の、府庁本館。
極めて完成度の高い意匠を誇り、そのハイクオリティぶりは単に焦りの表出レベルに止まらず、
その後、続々と洋式で建てられた各地の県庁舎の立派なお手本ともなりました。
昭和46年まで現役として使われ、以後も現在に至るまで様々な形で稼働し続けてる旧本館、
最近はもっぱらロケや結婚式、時にはコスプレ撮影会などにも活用されたりしてますが、
そんな流れの一環として、春の桜シーズンに開催されてるのが、観桜会。
口の字型に建てられた洋館の中庭に植えられた、枝垂桜。それで、花見をしようじゃないか、と。
花見のみならず、アーティストとかも呼んで、期間限定で美術館化しようじゃないか、と。
桜の最盛期には夜間も開放して、ライトアップやプロジェクションマッピングもしようじゃないかと。
それが、観桜祭であります。で、もちろん、夜間公開へ行ったわけであります。
古いものを何でも活用する京都の息吹 or 殺気、お楽しみ下さい。

続きはこちら »

西陣桜めぐりをしてみました。もちろん、ひとりで。

2013年4月4日(木)


西陣桜めぐりをしてみました。もちろん、ひとりで。

西陣。言うまでもなく、「織物の街」 です。
平安期は宮廷の 「織部町」 として、鎌倉期は公家や武家相手の 「大舎人町」 として、
そして応仁の乱以降は、山名宗全が本丸を置いた西陣跡で再建されたために 「西陣」 として、
現在に至るまで京都 or 日本の工芸技術 or 文化を代表する 「織物の街」 であり続け、
あり続けるがゆえに、色んな事が色々大変になってたりもするエリアであります。
そんな西陣の生み出す西陣織といえば、生産工程が高度に分業化されてることで、有名です。
で、分業化してると、当然というか何というか、お互いが近所に住んでる方が便利なので、
織物に関連したあらゆる業種の人たちが密集して暮らしてることでも、有名です。
現在は工場が郊外へ出たり、産業自体のが衰退したりで、往年の密集感はありませんが、
町並にはその名残が濃厚に残っており、特に残り香を感じさせてくれるのが、寺ではないかな、と。
人間が密集して生活するとなれば、昔の 「生活必需品」 だった宗教も入り用となるわけで、
西陣にはかなりの密度で、寺が、それも町衆からの信仰が篤い法華宗の寺が、林立してます。
それらの寺の多くは、観光化されるわけでもなく、檀家以外立入禁止というわけでもなく、
でも小さな寺から本山クラスの寺に至るまで、どこも不思議な現役稼働感みたいなのが漂ってて、
よそ者である私としては、その辺に何となく西陣独特の雰囲気を感じるというか。
そんな西陣の寺には、やはり観光化されるわけでもなく、身内以外見所がないわけでもない、
実に程良いサイジングで、程良い味のある桜が、あちこちでさりげなく咲いてます。
立本寺の桜にすっかり気を良くしたので、そんな西陣の寺の桜、愛でて回ってみました。
密集してるがゆえに、徒歩で楽にこなせる桜巡り、お付き合い下さい。

続きはこちら »

立本寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年4月4日(木)


立本寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都市上京区には、 「元●●寺町」 みたいな地名が多くあります。
「元真如堂町」 とか 「元百万遍町」 とか。 「元頂妙寺町」 とか 「元本満寺町」 とか。
中には、頭に 「元」 をつけず堂々と 「実相院町」 「革堂町」 「阿弥陀寺町」 と名乗ってたりとか。
町名のみならず、「元誓願寺通」 なんて通が、誓願寺と全然関係ないとこを走ってたりとか。
もちろん、元々はその町名の場所に名前の通りの寺があり、のち移転したわけです。
単に焼亡などで移転した寺も多いですが、移転の大きな山を作ったのは、天文法華の乱と、秀吉
法華宗の隆盛にブチ切れた比叡山が攻めてきて、法華宗は法華宗でそれを市内で迎え撃ち、
組の抗争の如き市街戦を展開したのち法華宗が洛外へ追い出された、天文法華の乱。
そして、そんな血気盛んな仏教勢力を殺ぐため、多くの寺を町外れへ集中移転させた、秀吉。
法華宗の中には、その両方で移転を余儀なくされた寺も結構存在するわけで、
今回桜を見に行った西陣の日蓮宗本山・立本寺もまた、幾多の変遷を経た寺だったりします。
創建以来、山門による破却や仲間割れを繰り返し、天文法華の乱では堺へ避難し、
帰洛したら秀吉に移転させられ、移転したら大火で焼失、現在地でようやく落ち着いた、立本寺。
北野商店街のすぐ南側で、住宅地に包囲されつつも極めて広い境内を持つ現在の姿は、
ちょっとしたハッピーエンド感さえ感じさせますが、もっとハッピーに見えるのが、桜の季節です。
かなりなボリュームの桜が、かなりなボリュームで密集して咲き、人もあまりいない。
何かもう、ちょっとした天国が現出してます。街角の天国、とでもいうか。
そんな立本寺の桜、ハッピーな気分でご堪能下さい。

続きはこちら »

2013年への年越しを、嵯峨嵐山で迎えました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2013年1月1日(火)


嵯峨嵐山で迎えた2013年の年越し、続きです。

夜、嵐電嵐山駅へ降り立つと、田舎の匂いを感じることがあります。
匂いといっても、田舎の雰囲気というような話ではありません。物理的な匂いの話です。
田舎の匂いというか、畑の匂いというか。とにかくそんな匂いを、濃厚に感じることがあります。
当然といえば、当然です。近くの嵯峨野には、農業をやってるところが多く存在するわけですから。
とはいえ、昼間の観光客だらけな嵐山では、まず嗅ぎ取ることが出来ない、そんな匂い。
でも、日が暮れて人がいなくなり、店も閉まって辺りが闇に包まれると、息を吹き返す、そんな匂い。
四季を通じて美しい自然に恵まれた嵐山ですが、それら 「観る自然」 とは一味違う、
よりネイティブな自然が息づく嵯峨嵐山の顔を、そんな匂いに見出したりすることがあります。
2013年の年越しで訪れた、大晦日深夜の嵯峨嵐山も、正にそんな 「夜の嵐山」 でした。
「除夜の鐘&初詣巡りの客を乗せた人力車やタクシーが、正月料金で発狂したように荒稼ぎ」 とか、
花灯路に群がるような阿呆の若者が、路上で酒盛り&除夜の鐘乱打&絶叫カウントダウン」 とか、
赴く前は色々勝手な妄想をしてたんですが、現場にはそんな外道な輩の姿、一切なし。
ごく普通に地元の人たちが、昼間の顔とは全く違う観光街を歩いて近所の寺や神社へ出かけ、
ごく普通に除夜の鐘を撞き、ごく普通に初詣を行う姿が、そこにはありました。
あまりにもごく普通にネイティブ過ぎて、メシ食うところを見つけるのにも難儀しましたが、
しかしそのネイティブな姿は、阿呆の若者+阿呆の観光客が多い東山エリアの年越しよりも、
はるかに魅力的で、かつはるかに本来的なものに見えたのでした。
そんな嵐山での年越し、後篇です。前篇以上に、鐘難民の鐘難民ぶり、全開です。
漆黒の嵯峨嵐山を徘徊する気分、存分にお楽しみください。

続きはこちら »

北野天満宮・ずいき祭の還幸祭へ行きました。もちろん、ひとりで。

2012年10月4日(木)


北野天満宮・ずいき祭の還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

ずいき御輿。
完成した際に氏子が随喜の涙を流したからその名が付いた、というのは、嘘です。
ずいき = 里芋の茎で葺かれた屋根を始め、ボディ全域を野菜でデコられた、アーシーな御輿。
それがずいき御輿であり、その巡幸を行うのが北野天満宮秋の大祭・ずいき祭であります。
普通、北野天満宮といえば、平安朝の文人・菅原道真。そして、菅原道真といえば、怨霊。
陰謀により大宰府へ左遷され、結局その地で死に果てた道真は、怨霊化して都へストライクバック。
御所に雷を落として憎い相手を焼き殺すなど、無茶苦茶をやらかし都人を恐怖のどん底へ。
何とか道真の魂を鎮めるべく、朝廷は北野に社を建立。北野天満宮の、有名な創建の由緒です。
どちらかといえば 「魔界」 などのワードが似合う、首都ならではの物騒な由緒を持つ社であり、
芋の茎で屋根が出来た御輿の牧歌性は、あまり関係なさそうに見えたりもします。
しかし、この辺は元々、農村だったとか。天満宮創建前から、天神地祇を祀る聖地だったとか。
都市化された現在の姿からは想像もできませんが、農村のテイストは昭和初期まで残ってたそうで、
野菜に穀物、蔬菜や湯葉に麩などの乾物類で覆われたずいき御輿は、ある意味、
太古の昔から続くこの地の農耕文化の伝統を、最も深く引き継ぐものなのかも知れません。
時代の変遷の中で、時には途絶したり、時には逆に増殖したりもした、ずいき御輿。
現代に至ると農村の方がほとんど消滅しましたが、それでも祭と御輿はしっかり、存続。
祭のクライマックスである還幸祭では、道真+嫁+息子が乗る鳳輦や、牛車などの行列と共に、
ネイティブテイストが溢れる激渋な街中を、野菜全開の姿で巡幸してくれます。
ちょっと不思議で味のあるそんな風景、たっぷりと見てきました。

続きはこちら »

晴明神社の晴明祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年9月22日(土)


晴明神社の晴明祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

晴明神社は元々、名づけの神様として親しまれてたそうです。
何ゆえに名づけの神になったかといえば、「晴明」 = 「せーめー」 = 「姓名」 だと。
スピリチュアルな世界とグダグダな日常が恐ろしいまでに混在する京都らしいエピソードですが、
しかし、私が晴明神社のことを知った頃には、ここは既にいわゆる 「聖地」 と化してました。
「母親は狐だった」 「何ちゃらを駆使して怨霊と戦った」 「箱の中身を思い通りに変化させた」
「死者を復活させることができた」 「自分も一旦死んで、骨にまでなったが、何ちゃらで復活した」
「小さい鬼を操った」 「でも嫁にそいつらキモいから家入れんなと言われ、橋の下の石櫃に隠した」
「隠したままほったらかしにされた石櫃が千年後になって出てきて、大騒ぎなった」 などなど、
無理目なエピソードが千年の時を越えて無限に捏造、もとい二次創作されまくる、陰陽師・安倍晴明
その邸宅跡に建てられた晴明神社は、晴明に最もゆかりが深い特級のパワースポットとして、
陰陽師ブームの発生以降、ややこしい思考や嗜好を持つ人達の間で、一気に聖地化。
拡張された敷地には式神オブジェが立ち、近所には五芒星グッズを売る店が現れて神社と揉め、
今や隣の西陣織会館を凌ぐ勢いを誇る、一大観光スポットと化したのであります。
しかしそれ以前は先述のように、地元の人の為の駄洒落爆発な名づけの神様だったのであり、
明治期に荒れた神社を救ったのも、「晴明」 を 「清く明るいことやろ」 とか言いそうな氏子さんたち。
また現在も西陣の人達にとって 「せーめーさん」 はごくごく普通の氏神さんのようで、
その辺のネイティブ感がよく現れてるのが、その名もずばりの例祭 「晴明祭」 ではないでしょうか。
陰陽大爆発な世界を連想したくなる名前ですが、実際に行われるのは、ごく普通の神幸。
でも、神輿や法被にはもちろん、五芒星。で、ネイティブな西陣の街中を進む、と。
混在してます。ある意味、極めて京都らしい神幸と言えるかも知れません。
そんな晴明祭、暇にまかせて追いかけてみました。

続きはこちら »

千本六斎会の千本ゑんま堂奉納を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年8月14日(火)


千本六斎会の千本ゑんま堂奉納へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都の夏は、六斎念仏です。
大文字でもなく、千日参りでもなく、いわんや京の七夕でもなく、六斎念仏です。
私の中では、そう決まってます。初めてまともに奉納を見てハマって以来、そう決まってます。
なので皆さんも、送り火コンプなどといった下らないことは止め、六斎念仏を見ましょう。
自転車やバイクで北山通や北大路を爆走し、死にかけたり殺しかけたりして、一体何が楽しい。
あの世へ行くより、あの世から帰ってきた死者の霊と共に、夏の夜を踊り明かそうではないですか。
というわけで、六斎念仏です。それも、死霊がより沢山溢れてそうな場所で、六斎念仏です。
本来は 「六斎日に斎戒謹慎して念仏を唱える」 という宗教戒律だったものが、
都ゆえに溢れる多種多彩な芸能と結びつき、極度にエンターテイメント化した、京都の六斎念仏。
とはいえ、念仏のエッセンスは現行の六斎にも残存し、念仏狂言との関連性も、深し。
壬生寺、そしてこちらの千本ゑんま堂でも、狂言と六斎の保存会は密接な関係にあるとか。
京都の三昧地のひとつであった蓮台野 = 紫野の入口に位置し、冥界の王・閻魔法王を本尊とし、
あの世とこの世で働きまくったダブルワーカー・小野篁の伝説も持つ、千本ゑんま堂。
衆生からは、鳥辺野・六原などと同じく 「あの世へ続く場所」 として今も昔も認識され続け、
お盆となれば、西陣近辺に於ける 「精霊迎え」 スポットとして、多くの善男善女で溢れかえります。
千本六斎の一山打ち、いわばホームでのフル公演が行われるのは、その精霊迎えの頃。
お盆期間の8月11日から15日にかけて、地域の個人宅を回る勧善廻りを行い、
そのクライマックスとして、ゑんま堂狂言も行われる特設舞台にて奉納が斎行されるのです。
迎え鐘の真横での、念仏踊り。それは、死霊との盆踊りみたいなもんかも知れません。
そんな宴の様、こっそり潜り込んで見つめてきました。

続きはこちら »

夏越祓の茅の輪をまたくぐりまくりました。もちろん、ひとりで。

2012年6月30日(土)


夏越祓の茅の輪をまたくぐりまくりました。もちろん、ひとりで。

私は、穢れている。どうしようもなく、穢れている。
いい歳こいた、独男。そのことだけで既に、臭気が漏れるほど、穢れている。
おまけに、肉体はあらぬことで日々悦びの声を上げ、魂は無力感に溺れて無為に腐り続け、
さらにはその腐り切った魂を、ネットを通じて無関係である他者へ伝染させてやろうなどと目論み、
自意識の臭気を汁にして飲ませるような、無駄に暑苦しいサイトを、日々作り続けている。
私は、穢れている。どうしようもなく、穢れている。果てしなく、穢れている。
祓わなくては、いけない。それも、なるべくたくさんのお社で、祓わなくては、いけない。
というわけで、2012年度上半期もやってしまいました。夏越祓の茅の輪、くぐりまくりであります。
正月から六月末までの半年間に溜まった穢れを、茅の輪をくぐることで祓う、夏越祓。
前回2011年度は、それなりに茅の輪が知られる神社をバスで回り、数をこなしたわけですが、
今回は穢れの影響か懐具合が非常によろしくなく、500円の市バス一日券を買う金さえ惜しいので、
スタートの東福寺から、ラストの檪谷七野神社まで、全行程、徒歩を貫いてみました。
徒歩貫徹といっても、特にハードな意思に基づくわけではなく、基本、ウロウロと街中をうろつくのみ。
適当に目がついた神社へ立ち寄り、茅の輪があればくぐるという、街ブラモード全開路線。
そんなユルユルな姿勢で、穢れ切った肉体と魂が祓われるかどうかは知りませんが、
祓われ過ぎると自分そのものが消滅するので、適度に加減した次第です。
立ち寄った神社全てと、茅の輪の有無を記したので、参考にする方は、参考にしてください。
それでは半期に一度のスピリチュアル・デトックス or 存在の膿の大棚ざらえ、
生憎の雨&曇天ですが、行ってみましょう。

続きはこちら »

上七軒へ北野をどりを観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年4月6日(金)

北野をどり・提灯
上七軒歌舞練場の北野をどりを観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

北野をどり。
京都最古の花街・上七軒の舞踊公演です。
室町時代にまで遡る歴史を持つ上七軒ですが、をどりが始まったのは比較的新しく、戦後。
昭和27年、氏神である北野天満宮の創建1050年記念万灯祭に際して
祭神・菅原道真の物語を舞踊劇にした「北野天神記」を奉納したことに始まります。
これをきっかけに、「北野をどり」を正式にスタート。今年は記念すべき60回目です。
花街としての規模も小さく、舞妓さん芸妓さんの数も決して多くはない上七軒ですが、
踊り手もお囃子もフル稼働で、セリフを多用したストーリー性の強い舞台を創出。
「通は上七軒のをどりを好む」といわれるほど、その芸への評判は高いものがあります。
最近まで4月中旬に開催されてた北野をどりですが、しばらく前、
第一回の開催日が3/25+天神さんの縁日に因み、3/25から2週間の開催に変更。
で、2012年の期間は、3/25~4/7。で、千秋楽の前日にあたる6日に行ってみました。
予約は、してません。前日に、行くことを思いついたからです。
予約なしで入れるコネは、ありません。当日券の一発勝負、飛び込みです。

続きはこちら »