神輿 - ひとりでうろつく京都 (β版)

稲荷祭の氏子祭を、8年にわたって観続けました。もちろん、ひとりで。 【3】 宮入

2019年4月28日(日)


稲荷祭、 【1】 【2】 に続き、いよいよラストの 【3】 でございます。

中世までの稲荷祭は、それこそ祇園祭とも並ぶような、華美で絢爛な祭だったようです。
平安末期の 『明衝往来』 によると、貴賤の人々は七条大路に桟敷を設けて祭の行列を見物し、
行列の先頭を行く馬長もその見物に足るべく、家十軒分に相当する派手な衣装を纏ったといいます。
この華美を支えたのは無論、東市から続く七条の富裕商人。13世紀頃も、羽振りは良かったとか。
また 『新猿楽記』 によると、御旅所では呪師・傀儡子・唐術・輪鼓・独相撲といった芸が繰り広げられ、
さらに室町時代の 『東寺執行日記』 によれば、数十の山鉾まで出現し、巡行も行ったそうです。
正に、中世の祇園祭について言われるような風流の世界が、稲荷祭でも展開されてたわけですね。
しかしそんな風流な稲荷祭も、応仁の乱で一旦ストップ。再開は、実に300年も後の江戸中期。
江戸期はそれでもまだ山車などが出てたそうですが、現代に入るとそうした風流要素も概ねストップ。
現在の稲荷祭は多分、かつての稲荷祭とはかなり違う祭として、再構築&継続されてるのでしょう。
が、私はそんな現在の稲荷祭が、良い雰囲気の祭に思えます。好きな雰囲気の祭に思えます。
隣の松尾祭のように、アーシーなノリと神々しさが同時に爆裂するようなテイストではありませんが、
擦れた街の空気&景観と、農耕神・稲荷来訪神として招くアーシーさが同時にある辺が、好きです。
何より、両方の要素のバランスが絶妙であり、その絶妙さに京都らしさを感じなくもありません。
何度も書いてますが、私は丹波人の親を持つ都合で、京都の最古の記憶が京都駅だったりします。
で、数十年前の京都駅周辺を見て感じた何かを、稲荷祭を観ると今でも感じたりするんですよ。
単に昭和な景観が残り気味という話かも知れませんが、そんな景観もこの8年でかなり変わりました。
しかし、祭の雰囲気は変わりません。この雰囲気は、土地の匂い的なものかも、と思ったりします。
そして、風流爆裂だった時代の人々も案外、この祭に同じ匂いを感じてたのかも、と思ったりします。
『明衝往来』 も、稲荷祭では神の立派さと心情の愉快さを同時に得れた、とか言ってるらしいし。
そんな稲荷祭を8年観続けた記事、ラストはいよいよ、宮入です。ひたすらに、宮入です。

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稲荷祭の氏子祭を、8年にわたって観続けました。もちろん、ひとりで。 【2】 氏子域巡行

2019年4月28日(日)


稲荷祭の氏子祭、 【1】 に続き、氏子域巡幸の 【2】 でございます。

【1】 では 「知らん」 とか言ってましたが、でも伏見稲荷の氏子域、本当は気になります。
伏見稲荷大社から、割と遠いという。また、遠いだけでなく、何となく不思議な感じもするという。
御旅所は、神社から離れた地へ神が訪れるための場所。なので、遠いこと自体は別にいいのです。
氏子域が伏見稲荷と接してる松尾大社の御旅所も、いい加減、遠いし。何なら、伏見稲荷より遠いし。
しかし伏見稲荷の場合、本社所在地が何故か藤森神社の氏子域だったりします。何とも、不思議。
それに、御旅所東寺に近いのも、謎。差し上げなども、東寺の神輿に見えたりしたりして、謎。
「つまり稲荷祭は、東寺の祭だ。全ては、空海の計略だ」 みたいな思念が、沸かないでもありません。
東寺は、遷都すぐの平安京を守護する官営の寺院として、西側の西寺とペアで建立されました。
現在の地勢で見れば、東寺の位置は京都の西南。しかし、元来あった太極殿から見れば、東南。
の守護を担った感じでしょう。ゆえに空海は東寺を得た際、同じ巽に建つ伏見稲荷をフィーチャー。
「稲荷神が東寺に来た」 とか言って、平安京東南部の民と稲荷とのマッチングを図ります。
元からあった藤森神をどかせて稲荷神を稲荷山麓へ召喚すると共に、東寺近くに御旅所をオープン。
また、下京の民の懐たる官営マーケット・東市の経済力を活用し、大祭・稲荷祭も大々的に展開。
これらの計略により空海は、めでたく叡山の牽制に成功しましたとさ。愉快、空海、イエズス会。
とか言ってると楽しいんですが、しかし平安京東南部の稲荷信仰は、空海以前にも既にあったとか。
それこそ、 『今昔物語集』 にある 「七条辺にて産れたりければ」 稲荷が産神、みたいな感じで。
ひょっとすると空海は、東寺運営に際してこの 「七条辺」 の信仰を、利用したのかも知れません。
逆に、空海が民間利用されてる可能性もあるけど。とにかく、何とも不思議な伏見稲荷の氏子域です。
というわけで、稲荷祭の 【2】 は、そんな伝説が息づく平安京東南部が舞台の神輿巡幸であります。
北は京都駅の北側や五条を越えた中堂寺、南は千本十条や高速が借景の河原町十条まで。
神輿や五重塔と共に、稲荷祭を千年以上担い続けてきた街の姿を、見つめていきます。

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稲荷祭の氏子祭を、8年にわたって観続けました。もちろん、ひとりで。 【1】 発輿

2019年4月28日(日)


稲荷祭の氏子祭を、8年にわたって観続けました。もちろん、ひとりで。

稲荷祭。ゴールデンウィークを挟む頃合で行われる、名前の通り、稲荷の祭です。
そして無論、京都で稲荷といえば伏見稲荷ですから、つまりは伏見稲荷大社の祭であります。
この稲荷祭、当サイトは実は、クライマックスともいえる氏子祭を8年にわたって追い続けてきました。
京都を考えるにあたり、この祭が極めて重要な祭であると思ったから追った、わけではありません。
多くの祭に於いて核となる御旅所システムを考える上では、確かにこの祭は重要となるはずですが、
しかしそんな難しいことは、純然たるチンピラサイトである当サイトには、あまり関係ありません。
追った理由は、雰囲気が何か好きなのと、数年追えば祭の全貌がコンプできる気がしたからです。
伏見稲荷の氏子域は、よく知られるように、本社から割と離れた京都駅周辺に広がってます。
そして伏見稲荷大社・稲荷祭の氏子祭では、この京都駅周辺の氏子域を、5基の神輿が巡幸します。
稲荷神が、神幸した東寺駅近くの御旅所を出発し、各々の地域を回って御旅所へ戻るわけです。
で、この巡幸エリアの距離感が、何年かかけて追うのに丁度良い感じに思えたんですよね。
巡幸の東北端は、きっと河原町通の五条を下った辺。東南端は、竹田街道を十条まで下った辺
西北端は、丹波口駅を超えて中堂寺の辺。そして西南端は、旧千本通をこれまた十条まで下った辺
曖昧な表現で恐縮ですが、多分こんな感じです。こんな範囲を、5基の神輿が回るわけです。
範囲が広過ぎて、絶対に追いきれない祭というのも、京都には存在します。松尾祭が典型でしょう。
早朝からとんでもない範囲を巡幸しまくり、とんでもない回数の差し上げをやりまくる、みたいな。
しかし稲荷祭は、そんな感じではありません。1年では無理でも、何年かだとコンプできそうなのです。
おまけに、氏子域の中心に京都駅があるから、それなりに、街。同時に、雰囲気も割と、アーシー。
そんな便利さ&都合の良さと、雰囲気の良さに釣られる感じで、何年も何年も観続けてしまいました。
で、追尾の記録を、式次第は概ね順守+時空はシャッフルで組んだのが、当記事であります。
伏見稲荷の本社は最後まで出て来ませんが、しかしこれが、伏見稲荷の祭です。

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福王子神社の秋季大祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年10月18日(日)


福王子神社の秋季大祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

明治維新に至るまでの約1000年、日本では神と仏が入り混じってました
大陸より伝来したばかりの頃の仏教は、日本人の魂へ忍び込むにあたって、へと接近。
素朴なスタイルの信仰から脱却することについて苦悩を深めていた神も、仏にその救済を希求。
結果、 「神の本来の姿は仏 = 本地」 ということになり、神社の傍には本地を祀る神宮寺が建てられ、
寺の近くでは神が鎮守となって仏を守護するという、混淆の信仰形態が誕生・定着したのでした。
ある意味で野合に見えるこの混淆は、アーシーな小寺社だけで起こったものでは、無論ありません。
ロイヤルな寺社、それこそやんごとなき方々より崇敬を受けるような寺社であっても、事情は同じ。
私の地元にある石清水八幡宮は、二所宗廟の一つでありながらも最初から 「宮寺」 として創建され、
神が住まう男山には、 「男山四十八坊」 と称される大量の仏教施設がバカスカ建ちまくってたほど。
「どちらが手を叩いて、どちらが叩かないのか」 といった些末な作法にこだわる必要が全く無い、
神前読経など当たり前の大らかで豊かな信仰世界が、この国では長く長く息づき続けていたのです。
神道一直線宣言 aka 明治の廃仏毀釈は、そんな神仏習合の世界を、ほぼ根絶やしにしました。
が、明治以降は基本全否定&古いものを何でも有り難がる京都では、混淆の風習がいくつか残存。
福王寺神社の神輿巡行も、そんなかつての時代の息吹を感じさせてくれるものと言えるでしょう。
宇多天皇御母・班子女王が祭神のこの社は、宇多天皇が創建した世界遺産・仁和寺の守護でもあり、
その秋季大祭では、仁和寺より譲渡されたという神輿が、巨大な二王門の前で差し上げを敢行。
のみならず、石段を登って門をくぐり、さらには御室御所にまで入り、神仏が入り混じる式典も執行。
由緒も格もロイヤル極まりない寺院に於いて、古の神仏習合の様が全開になってしまうのです。
そんな福王寺の神輿、巡幸を全部追うのはしんど過ぎる為、仁和寺周辺だけ見てきました。
神輿と交通環境との微妙な関係も、ある種の風味としてお楽しみください。

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御香宮神社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年10月12日(日)


御香宮神社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

御香宮神社。洛南・伏見にあって、 「伏見の総鎮守」 と称される神社です。
清和天皇から名を贈られたと伝わるも、基本的には創建の詳細が不明なほどの歴史を誇り、
山村・石井村・船戸庄村・森村・久米村・北尾村・北内村・法安寺村・即成就院村という伏見の村々、
すなわち 「伏見九郷」 より、伏見城築城の遙か昔から総鎮守として信仰を集める社であります。
その伏見城築城の際には秀吉により移転させられますが、家康の代には現在地へ帰還し、
その家康により社殿も再建され、孫娘・千姫の誕生祝いとして2.3トンに及ぶ 「千姫神輿」 もゲット。
この神輿を得た御香宮神社の秋祭、通称 「伏見祭」 は、伏見城が廃城された後も更に活性化、
維新の波乱や現代の変化も乗り越え、神輿を分割した現在もその勢いは止まるところを知りません。
一週間以上に及ぶ期間、各種行事&子供が多いエリアゆえに活況を極める夜店が展開され、
中でも宵宮に行われる花傘パレードの凄まじさは、当サイトでも2011年にお伝えしてる通りです。
で、今回はその 「伏見祭」 最終日、正にクライマックスたる神幸祭に出かけたわけですが、
えと、あの、今回はいつもと比べてちょっと、いやかなり、いやはっきり言って非常に、日和ってます。
当サイトの祭記事は、ストーカーの如く神輿や行列を追尾しまくってるのが常態なんですが、
今回は門前付近で神輿などを淡々と待ち、宮入りだけ見るという、淡々モードの見物となってます。
待ってる時間もまた、淡々と露店を冷やかしてみたり、あるいは淡々と担々麺を食ってみたりと、
まるでサイト名が 『独虚坊の京都幸せおでかけ日記』 に化けたようなユルさ爆裂状態になってます。
何故こうも日和ったかといえば、 「伏見九郷」 を回る神輿の巡幸範囲が、広過ぎるからです。
酒蔵界隈は無論、北は深草、南は向島、東は六地蔵に及び、更に3基の神輿は別行動。追えません。
加えて、獅子舞や武者行列なども別ルートで参加し、おまけにこれらの全てが早朝から巡幸。
完全追尾はおろかチョイ見を重ねることさえ無理と判断し、淡々見物を渋々決断したのであります。
というわけで、担々麺に加えて豆腐ハンバーグまで混入するユル過ぎ記事となってますが、
しかし、あるいはそれ故に、街に充満する祭の気配は、よりリアルに感じられるかも知れません。
「洛南の大祭」 とも呼ばれる、その大祭ぶり、街の息吹と共に御覧下さい。

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松尾大社の還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2014年5月11日(日)


松尾大社の還幸祭追尾、前篇からの続きです。

このサイトを始めてから、私が最も衝撃を受けたのは、松尾祭です。
「半笑いで京都を面白がってやろう」 「それでゲスいアクセス集めて、広告で儲けてやろう」
「こんな面白いこと思いついて実行する俺って、最高」 と、糞の如き考えでネタ集めを始めた私に、
2011年4月に追尾した松尾祭の神幸祭は、凄まじいまでのショックを与えてくれたのでした。
当時の記事を読むと、わけのわからん熱気に憑かれた内容で、自分でも奇妙に思える程ですが、
何がそんなにショックだったかといえば、上手く言えませんが、本物だったからではないでしょうか。
「本物」 や 「ほんまもん」 といった括弧付のものではなく、単なる本物がそこにあったというか。
伝統保存系 or 町おこし系の、ある意味で辛気臭かったり胡散臭かったりする盛り上がり方とは違う、
町に生きる人間が自主的かつ好き勝手に盛り上がってるという、極めてリアリティのある祝祭。
それでいて単なる享楽のみならず、千年前からの歴史と現在が直結もしてるという、ダイナミックさ。
こんな祭が、こんな本物が、京都にあったのか。知らなかった。完全に、舐めていた。
本物の衝撃を正面から喰らったことで、ぼ~っと見てただけとはいえ腐り切った性根を叩き直され、
以後は、真摯に向き合うべき事象には出来る限りのリサーチと共に真摯な態度で向き合うよう心がけ、
そうでないものには半笑いではなく全笑いの態度で臨むようになったんですが、それはともかく。
そんな腐れナルシスの性根をも叩き直してしまった松尾祭、還幸祭追尾の後篇であります。
前半では、地元町内を巡行した6基の神輿が西寺公園へ集結+再び出発するまでを追いましたが、
後篇では、御前通北上+朱雀御旅所巡幸+旧街道巡幸+松尾大社への宮入りまでを、追尾。
いや追尾といっても、再三言ってるように、全貌を追うにはこの祭の規模は余りにもデカ過ぎるため、
ヘタレ気味にちょこちょこっと幾つかのポイントで覗いてる程度の内容ではありますけど。
おまけに後半は神輿写真の波状攻撃で、もはや何が何だかわからん世界になってますが、
本物の祭が持つ本物の熱気、気配くらいでも伝われば、幸いです。

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松尾大社の還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2014年5月11日(日)


松尾大社の還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

松尾祭。文字通り、松尾大社のお祭りです。
平安遷都以前に右京一帯を開発した渡来系の秦氏によって創建された古社であり、
遷都以降は 「賀茂の厳神、松尾の猛霊」 として賀茂社と並び王城鎮護を果たした、松尾大社。
そんな猛烈に古い歴史を持ちながら、今なお完全に現役仕様の信仰を集める社でもあり、
その氏子域は 「洛西の総氏神」 の呼び名の通り、北は等持院・南は吉祥院・西は嵐山・東は朱雀と、
誇張でも何でもなく京都市の西側地域の大半が含まれるという無茶苦茶な規模を誇ってます。
そんな松尾大社が春に行う松尾祭は、 「総氏神」 の名に相応しいワイルドかつダイナミックなもの。
かつては賀茂社・葵祭と同じく勅祭であり、松尾使なる勅使の社参があったという松尾祭ですが、
時の流れと共に氏子域が農村地域と結合し、それに従い農村的な祭のテイストを導入、
6基の神輿が広大なエリアを動き回る、京都の祭の中でも極めてアーシーなものとなってます。
神輿が桂川を渡る舟渡御を挟む4月末の神幸祭は、2011年に当サイトでも記事にしていましたが、
神幸を追ったなら還幸も追おうと、今回は神輿6基が本社へ帰る様を追いかけてみました。
新暦導入以前は、 「お出」 こと神幸が卯の日、「お還り」 こと還幸が酉の日に行われていたため、
「うかうかとおいで、とっととおかえり」 とも呼ばれていたという松尾祭の神輿巡行ですが、
現在は神幸が4月20日以後の最近日曜、還幸はその3週間後である5月中旬に行われてます。
神幸は神幸でそれこそ舟渡御を含む無茶苦茶にハードなものですが、還幸もまた激ハード。
朝から神輿が氏子域をまわりまくり、昼には西寺公園 aka 旭の社にて神事、朱雀御旅所でも神事、
もちろんその道中のあちこちで神輿を何度も何度もさし上げまくるという、とんでもないものです。
余りにとんでもなくかつエリアが大規模であるため、とても全部を追いかけること出来ず、
昼の西寺公園集合から神輿中心に断続的に眺めるという、かなりヘタレな追尾となってます。
前半は特に移動一切なし、西寺公園の神輿と神事を集中的に御覧下さい。

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瀧尾神社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年9月29日(日)


瀧尾神社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

明治初頭に行われた荒っぽい神道国教化政策により、
平安期から日本で親しまれてきた神仏習合の信仰スタイルは、一掃されました。
ビッグネームな寺や神社が林立する京都も、この神仏分離政策は無論、しっかり適用範囲内。
ビッグゆえに 「お上」 と縁が深く、ゆえに 「お上」 の意向 or 顔色を窺う必要があったのか、
「祇園感神院→八坂神社」 を始め、多くの神社が改名したり、神宮寺が破却されたりしたわけです。
私の地元の石清水八幡宮などは、 「お上」 と縁深いのに神仏習合度が強かったため、
慌てた挙句、山中にあった数十の寺を全て破却する事態に至ったりしてますが、それはともかく。
そんな感じで、建物レベルや運営レベルではかなり徹底的に行われた神仏分離ですが、
しかし京都は一方で 「東京遷都以降は基本、全否定」 の精神がこっそりひっそり息づいてもいる街。
粟田祭における青蓮院への神輿突入や、新日吉祭における妙法院僧侶による神輿前読経など、
祭儀レベルでは、神と仏が入り交じるスタイルの儀式を持つ祭も、結構残存してたりします。
で、そんな神仏習合の残り香を、よりダイナミックかつエンターテイメント的に楽しめる祭といえば、
JR&京阪電車東福寺駅すぐそば、伏見街道沿いにある神社・瀧尾神社の神幸祭ではないでしょうか。
大丸の創業者・下村彦右衛門が、下積み時代の行商の道中に熱心な祈りを捧げたことで知られ、
後には同家&大丸の完全バックアップにより贅を尽くした社殿が建立された、瀧尾神社。
今は大丸がどう関わってるのか知りませんが、秋祭は神社の規模以上に賑やかなものであり、
神輿の差し上げは無論、京都独特の剣鉾の剣差し、さらには龍舞なども登場して、見所は実に多し。
中でも一番インパクトがあるのは、「御寺」 の呼称を持つ泉涌寺への神輿乱入でしょう。
皇室の菩提寺たる泉涌寺に、神輿が入り、のみならず坊さんが読経まで行ってしまうわけです。
神輿は近年復活したものだそうですが、祭儀が放つ香りは確かに古の祭の香り。
そんな古の祭の香り、東山南部へ嗅ぎに行ってきました。

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祇園祭の宵宮祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年7月15日(月)


祇園祭の宵宮祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

祇園祭を 「二つの祭が同時進行している」 と言ったのは、山路興造
いわく、平安期から八坂神社主体で行われている神輿渡御が中心の 「祇園御霊会」 と、
中世以降の下京町衆主体で行われる山鉾巡行中心の 「祇園祭り」 が、同時進行している、と。
( 平凡社刊 『別冊太陽 京の歳時記 今むかし』 中 「月次の京・七月」 の項より )
もちろん実際は、両者は密接に関わり合い、山鉾巡行もそもそもは神輿渡御の先触れです。
が、現場を歩くと、山鉾町と八坂神社近辺で空気が違うと感じられるのもまた、確かだったりします。
山鉾町に漂う、むしろこちらを 「御霊会」 と呼びたくなる、闇や恐怖さえ孕んだ独特の雰囲気。
そして八坂神社と門前の祇園町に漂う、一転してオーソドックスかつ大らかな、神祭りの雰囲気。
いろんな意味&点でややこしそうなので、私には何もわからんとしか言えない話ですが、
とにかく空気の違いは明白に存在し、その辺がクリアになるのがこの宵宮祭以降ではないかな、と。
もう充分に知られてるようで、案外やっぱり知られてないようですが、祇園祭にも神輿は出ます。
神輿は無論、神様の乗り物。ゆえに、神輿が出る場合、本殿から神様を遷す儀式が、必須。
というわけで、祇園祭でもこの儀式は当然執行され、行われる日は神幸の2日前である、7月15日。
一般的には 「宵々山」 の夜に、八坂神社では 「宵宮祭」 として遷霊神事が行われるわけです。
遷霊の儀式そのものは、境内の照明完全オフ+撮影も完全禁止という、極めて厳粛なもの。
厳粛過ぎて、何やってるのかわからんくらい地味だったりしますが、とにかく、極めて厳粛なもの。
しかし、門前の祇園商店街は、 「宵宮神賑奉納・前夜祭」 として様々なイベントを開催。
その賑わいの空気が、先述のように山鉾町とはちょっと違うテイストなのが、面白かったりします。
そんな宵宮祭、混雑の酷さは山鉾町よりほんの少しだけマシ or ほぼ変わりませんが、
より本義に近い儀式と賑わいの香りを嗅ぐべく、突っ込んでみました。

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亀岡祭の山鉾巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年10月25日(木)


亀岡祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

山鉾巡行は、祇園祭だけの専売特許というわけではありません。
「山車」 でも、「屋台」 でも、あるいは 「だんじり」 でも、名前は何でもいいですが、
「曳山を曳いて盛り上がる」 祭礼というのは、日本全国に数え切れないくらい存在するわけです。
もちろん当の京都でも、近郊には多くの祭があり、その内のいくつかは曳山祭だったりします。
そして、近郊であるがゆえに、祇園祭から強い影響を受けた曳山祭も、存在したりします。
中でも、極めて似てて、極めて規模が大きく、そして極めて魅力的なビジュアルを持つ祭といえば、
京都府亀岡市の城下町を舞台に繰り広げられる、鍬山神社例祭・亀岡祭でしょう。
京都から出雲へ続く山陰道の要衝として、古くより軍事的に重要視されてきた亀岡 = 亀山は、
信長にブチ切れる前の明智光秀亀山城を建てたことで、城下町として一気に発展。
この地を開拓したという伝説を持つ地元の氏神・鍬山神社も、手厚い保護を受けるようになり、
長く途絶していた例祭もまた江戸前期に復興、城主の援助もあり、規模が拡大します。
江戸中期になると町衆達も多彩な練り物を出すようになり、その流れで、山鉾もまた、出現。
近郊というか、実際の交流も盛んであるがゆえに、祇園祭の影響を受けまくった10数基の山鉾が、
西陣織や海外から取り入れた豪華な織物で懸装し、城下を練り歩くようにまでなりました。
「口丹波の祇園祭」 としてその名を轟かせた亀岡祭でしたが、城が消滅した明治以降は、衰退。
昭和期は大半の山鉾が巡行を休んでたそうですが、平成に入ると、祭復興の気運が上昇。
山鉾が次々復活し、最近は全ての鉾が勢ぞろいしての城下町巡行も開始されてます。
現在もかなり天然で残る亀岡の城下町ビジュアルの中、本家によく似た山鉾が進む様は、
ある意味、本家以上のマジなタイムスリップ感が堪能できること、請け合い。
で、知名度はもうひとつゆえに、そんな醍醐味が至近距離で楽しめるわけです。
そんな亀岡祭、早朝から夕方まで、潜りこんでみました。

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鞍馬の火祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2012年10月22日(月)


鞍馬の火祭・後篇、いよいよ祭本番です。

鞍馬の火祭は、ただいたずらに松明を大量に燃やして、
アホの外人が 「ファ━━イアァ━━━━ッ」 などと絶叫するだけのものではありません。
ちゃんと神輿も出ます。神幸祭なのですから、本殿から御旅所へ向けて、ちゃんと神輿も出ます。
天皇の病や天変地異に際し、五条天神と共に社前へ閉門・流罪の印である靫を掲げられ、
スピリチュアルなスケープゴート的役割を担ってきたという、靫明神 = 由岐神社
そして、現在はその由岐神社の相殿に 「客神」 として合祀されているものの、
かつては鞍馬寺の鎮守社であり、鞍馬山上に独立した社殿も構えていたという、八所大明神。
この二神を乗せた神輿が、鞍馬の町を巡幸することこそ、鞍馬の火祭の本義なのです。
本当かどうかは知りませんが、元来の鞍馬の火祭は、ここまで松明燃えまくりだったわけではなく、
神輿と剣鉾こそが祭のメインという、極めてオーソドックスな神幸祭の形を持ってたとか。
もちろんそれは、祭の本義というものを考えれば、当然といえる話であります。
やはり重点的に見るべきは、燃えさかる松明ではなく、神輿ということになるのであります。
百数十本の松明が鞍馬寺門前に集まる松明集合も、本義を考えれば、見なくていいのであります。
凄まじい炎の中で行われるという注連縄切りも、本義を考えれば、見なくてもいいのであります。
「これを見なければ、鞍馬の火祭を見たことにならない。絶対、見たい。見せろ」 と、
怒り出す奴がいたとしても、本義を考えれば、見なくてもいいのであります。
と、先の流れがほとんど読めること書いてますが、鞍馬の火祭レポート、いよいよ本番です。
セコいコネ使って民家へ上がり込んだり、隅っこで屏風見てクールな観察者を気取ったりせず、
超絶的な混雑へ真正面から特攻したらどうなるか、それを全身で確認してきました。
火の粉の中で燃え上がる、怒り、苛立ち、徒労、疲労、絶望、尿意、空腹、
そして興奮や歓喜などを、とことん体感的に御堪能下さい。

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鞍馬の火祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2012年10月22日(月)


鞍馬の火祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

鞍馬の火祭。京都で最もメジャーな火祭です。
今宮神社のやすらい祭広隆寺の牛祭と共に、京都三大奇祭のひとつでもあり、
京都のみならず、全国的にもかなりな知名度と集客力を誇っている火祭と言えるでしょう。
正しくは鞍馬寺ではなく、同寺境内にある由岐神社の秋季大祭である、鞍馬の火祭。
御所内に祀られていたという靫明神が、940年、朱雀天皇の勅命で鞍馬の地へ遷されることになり、
その際、鞍馬の村人たちが篝火を焚いて神を出迎えたことから、始まったとされてます。
祭の舞台は、鞍馬寺の門前集落として、また若狭街道筋の交通集落として栄えた、鞍馬町、全体。
今なお木造家屋が多く軒を連ねる町中を、数mもある松明が火の粉を散らしながら練り歩き、
最後は町内全焼+山火事大爆発の恐怖もいとわず、その松明百数十本を集め、燃やしまくり。
実に、恐るべき祭りです。が、鞍馬の火祭の真の恐怖は、火にはありません。
この祭りの開催日は、10月22日。雅なるコスプレパレード・時代祭の開催日と、同じであります。
時間的にちょうど良い感じのハシゴができるため、流れて来る観光客は極めて、多し。
しかし、鞍馬に一度でも行ったことがある人は御存知でしょうが、あそこはとても、狭い町です。
道もほぼ一本で、これまた、狭い。そこへ1万人以上の人間と、百本以上の松明が、集まるのです。
圧死の恐怖。踏死の恐怖。トイレがなくて、失禁の恐怖。食事ができず、行き倒れの恐怖。
足を滑らせ鞍馬川へ落ちて溺死 or 凍死の恐怖。などなど、恐い、考えただけで、怖い。
鞍馬の狭さを知る人なら、誰もがこの恐怖を想像し、近づきたいとは思わないんじゃないでしょうか。
私も正直、できたら、いやなるべく、いや本当はかなり絶対に、行きたくなかったりします。
が、このサイトの趣旨は、ベタスポットの単独正面突破。逃げるわけにはいきません。
というわけで、炎の狂乱と混雑の狂気の中へ、正面から飛び込んでみました。
人圧と炎熱がスパークする奇祭の様、とくと御堪能下さい。

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粟田神社の粟田祭・神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年10月8日(月)


粟田神社の粟田祭・神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

粟田祭は、面白い。
「面白い」 は 「funny」 と 「interesting」 、両方の意味で使われますが、
粟田祭は、その両方が習合したような、興味深さと爆笑誘引力を兼ね備えてる気がします。
何せトップ画像のような巨大物体・粟田大燈呂が闊歩するわけです。それはもう、笑えるわけです。
と同時に、こんな物体にも神仏習合が色濃く残るあたりが、興味深かったりもするわけです。
そもそもは祇園感神院 aka 八坂神社の新宮として、粟田口に創建された社、粟田神社。
言うまでもなく由緒正しき神社であり、その大祭・粟田祭もまた長い歴史を持つ、由緒正しき祭。
それもただ単に千年以上やってるというだけでなく、名物の剣鉾は祇園祭の山鉾の原型とも言われ、
戦乱などで祇園祭が催行不能に陥った際は代理も務めたほど、大御所な祭なのであります。
しかしそれでも、粟田祭は、面白い。現在進行形でかつ、怪しいまでに、面白い。
その怪しさを集中的に担うのはもちろん、京都造形芸大により近年復活した粟田大燈呂ですが、
こちらも本来は青森ねぶたのルーツである可能性も考えられるほど、歴史を持つ風流灯籠。
何も怪しくなく、何もおかしくないのです。しかし路上へ出た途端、爆笑が止まらない。
さらには、京都のネイティブな町並とのギャップ感 or サイズバランスが、どうにも面白過ぎる。
京都には他にも、怪しい案件が登場する祭や、奇景を呈する祭が存在しますが、
全体のスケールとバランス、そして何より 「これからどうなる」 「どこまで行く」 という点に於いて、
爆笑と教養、神と仏、そして歴史の継続と未来への挑戦が習合する粟田祭は、
現在の京都で最も目の離せない祭と言えるのではないでしょうか。いや、知らんけど。
そんな粟田祭、前年2011年は爆発的に怪しい夜渡り神事を中心に見物させてもらいましたが、
2012年度は、神幸祭で白昼の大燈呂+剣鉾+神輿をメインに追っかけてみました。
面白さがどこまで伝わるのか、あるいはこのトップ画像だけでもう充分なのか。
いろいろ不安ですが、とにかくお楽しみください。

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北野天満宮・ずいき祭の還幸祭へ行きました。もちろん、ひとりで。

2012年10月4日(木)


北野天満宮・ずいき祭の還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

ずいき御輿。
完成した際に氏子が随喜の涙を流したからその名が付いた、というのは、嘘です。
ずいき = 里芋の茎で葺かれた屋根を始め、ボディ全域を野菜でデコられた、アーシーな御輿。
それがずいき御輿であり、その巡幸を行うのが北野天満宮秋の大祭・ずいき祭であります。
普通、北野天満宮といえば、平安朝の文人・菅原道真。そして、菅原道真といえば、怨霊。
陰謀により大宰府へ左遷され、結局その地で死に果てた道真は、怨霊化して都へストライクバック。
御所に雷を落として憎い相手を焼き殺すなど、無茶苦茶をやらかし都人を恐怖のどん底へ。
何とか道真の魂を鎮めるべく、朝廷は北野に社を建立。北野天満宮の、有名な創建の由緒です。
どちらかといえば 「魔界」 などのワードが似合う、首都ならではの物騒な由緒を持つ社であり、
芋の茎で屋根が出来た御輿の牧歌性は、あまり関係なさそうに見えたりもします。
しかし、この辺は元々、農村だったとか。天満宮創建前から、天神地祇を祀る聖地だったとか。
都市化された現在の姿からは想像もできませんが、農村のテイストは昭和初期まで残ってたそうで、
野菜に穀物、蔬菜や湯葉に麩などの乾物類で覆われたずいき御輿は、ある意味、
太古の昔から続くこの地の農耕文化の伝統を、最も深く引き継ぐものなのかも知れません。
時代の変遷の中で、時には途絶したり、時には逆に増殖したりもした、ずいき御輿。
現代に至ると農村の方がほとんど消滅しましたが、それでも祭と御輿はしっかり、存続。
祭のクライマックスである還幸祭では、道真+嫁+息子が乗る鳳輦や、牛車などの行列と共に、
ネイティブテイストが溢れる激渋な街中を、野菜全開の姿で巡幸してくれます。
ちょっと不思議で味のあるそんな風景、たっぷりと見てきました。

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晴明神社の晴明祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年9月22日(土)


晴明神社の晴明祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

晴明神社は元々、名づけの神様として親しまれてたそうです。
何ゆえに名づけの神になったかといえば、「晴明」 = 「せーめー」 = 「姓名」 だと。
スピリチュアルな世界とグダグダな日常が恐ろしいまでに混在する京都らしいエピソードですが、
しかし、私が晴明神社のことを知った頃には、ここは既にいわゆる 「聖地」 と化してました。
「母親は狐だった」 「何ちゃらを駆使して怨霊と戦った」 「箱の中身を思い通りに変化させた」
「死者を復活させることができた」 「自分も一旦死んで、骨にまでなったが、何ちゃらで復活した」
「小さい鬼を操った」 「でも嫁にそいつらキモいから家入れんなと言われ、橋の下の石櫃に隠した」
「隠したままほったらかしにされた石櫃が千年後になって出てきて、大騒ぎなった」 などなど、
無理目なエピソードが千年の時を越えて無限に捏造、もとい二次創作されまくる、陰陽師・安倍晴明
その邸宅跡に建てられた晴明神社は、晴明に最もゆかりが深い特級のパワースポットとして、
陰陽師ブームの発生以降、ややこしい思考や嗜好を持つ人達の間で、一気に聖地化。
拡張された敷地には式神オブジェが立ち、近所には五芒星グッズを売る店が現れて神社と揉め、
今や隣の西陣織会館を凌ぐ勢いを誇る、一大観光スポットと化したのであります。
しかしそれ以前は先述のように、地元の人の為の駄洒落爆発な名づけの神様だったのであり、
明治期に荒れた神社を救ったのも、「晴明」 を 「清く明るいことやろ」 とか言いそうな氏子さんたち。
また現在も西陣の人達にとって 「せーめーさん」 はごくごく普通の氏神さんのようで、
その辺のネイティブ感がよく現れてるのが、その名もずばりの例祭 「晴明祭」 ではないでしょうか。
陰陽大爆発な世界を連想したくなる名前ですが、実際に行われるのは、ごく普通の神幸。
でも、神輿や法被にはもちろん、五芒星。で、ネイティブな西陣の街中を進む、と。
混在してます。ある意味、極めて京都らしい神幸と言えるかも知れません。
そんな晴明祭、暇にまかせて追いかけてみました。

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縣神社の縣祭りへ行って来ました。もちろん、ひとりで。

2012年6月5日(火)


宇治の縣祭りへ行って来ました。もちろん、ひとりで。

「暗闇の中で、見知らぬ男女が乱交を繰り広げる、奇祭」 。
「日本の奇祭」 的な企画が雑誌やネットである度、こんなアオリで名が挙がるのが、
茶処・宇治にて新茶の季節に開かれる、縣 (あがた) 祭り、通称 「くらやみ祭り」 であります。
平等院の鎮守だった縣神社の例祭が、江戸中期の信徒圏拡大と共に膨大な客を集めるようになり、
宇治神社御旅所から行われる男根ライクな梵天渡御、祭神・木花開耶姫の安産&良縁の霊験、
そしてその両神が 「逢引」 してるかのように見えることなどもあって、祭は、何というか、無法地帯化。
無料開放された真夜中の周辺民家で、男女が文字通りの何でもありとなるこの至福の祝祭は、
「暗闇の奇祭」 「くらやみ祭り」 の名で愛され、明治維新以降も、さらには昭和以降も、継続しました。
しかし、戦後社会でそんな祭が許されるわけもなく、高度成長期あたりから乱交は、後景化。
現在では、近隣DQNこそ多く集結するものの、路上で見境無く交尾るということも特になく、
威勢の良い梵天渡御&大量の屋台がメインの、健康優良&地元密着路線の祭りとなってます。
が、縣祭りが 「奇祭」 の名に全く相応しくなくなったかといえば、案外そうでもありません。
21世紀に入り、それまで梵天渡御を担ってきた奉賛会側と、縣神社側が、決裂。
昔から両者の関係は 「神」 をめぐって裁判さえ発生するほどややこしいものだったようですが、
2003年に奉賛会が梵天を縣神社へ還す神事をすっ飛ばしたことで、対立が一気に悪化。
「神の拉致だ」 とブチ切れた縣神社側が、独自に梵天を製作&渡御を始めたため、
現在の縣祭りは、まるで 「本家」 と 「元祖」 のように、二つの梵天が存在することとなりました。
信仰が根強く息づくゆえの事態とも言えますが、根強過ぎるとも言える、ややこしき事態。
かつてとは別の意味で 「奇祭」 化しつつある、そんな縣祭りの今の姿を、
近隣ゆえ終電お構いなし、DQNまみれの中で見てきました。

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嵯峨祭・還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年5月27日(日)


嵯峨祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

嵯峨祭。言うまでもなく、嵯峨の祭です。
極めてまんまな名の通り、その時々の嵯峨の状況をヴィヴィッドに反映し、
度々姿を変えながらも、現代まで脈々と受け継がれている、洛西の春祭であります。
嵯峨天皇による離宮造営以来、風光明媚の遊興地として多くの貴人たちに愛された、嵯峨野
しかし、離宮の後身である大覚寺が京における南朝の拠点となった南北朝時代以降は、
皇族や武士や坊主たちが、この美しき地で金と武力と宗派を巡るパワーゲームを、大々的に展開。
大覚寺。その大覚寺をどうにかしたい、室町幕府。その幕府によってブッ建てられた、天龍寺
その天龍寺の金満ぶりに焦った大覚寺が、財政基盤確立のため掌中に収めようとした、清涼寺
その清涼寺と浅からぬ縁を持つゆえ、大覚寺がついでにゲットしようと目論んだ、愛宕神社
そして、斎宮の潔斎所としての存在感をなくし、身の振りように困ってた野宮神社
これらプレイヤーたちの思惑が絡みに絡み、その結果をヴィヴィッドに反映した嵯峨祭は、
小さな村祭から、愛宕神社&野宮神社のダブル神輿が巡幸する大掛かりなものへと、変貌しました。
さらに、プレイヤー間のパワーバランスが変わるごとに、祭の内容・性質・主催者まで、変化。
かなり、ややこしい祭なのです。そして、そこが極めて面白いとも言える祭なのです。
状況のヴィヴィッドな反映は現代も続いており、住宅地化による人口増+若者の伝統回帰で、
嵯峨祭を考察した数少ない書である古川修氏の 『嵯峨祭の歩み』 によると、
現在嵯峨祭は参加人数が増えまくり、その勢いは 「最盛期に近づいている」 んだとか。
鉾差しなど生きた文化財を体現する祭衆、増幅し続け未定型の混雑に対応し切れてない警備、
そしてそんな盛り上がりに舌打ちする無関心な住民が入り乱れる、嵯峨の祭・嵯峨祭。
常に動態、そして現在進行形であり続ける伝統の姿、ご堪能ください。

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祇園祭の神輿洗式へまた行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年7月28日(木)


祇園祭の神輿洗式へまた行ってきました。もちろん、ひとりで。

神輿洗式。10日にも同じ神事がありましたが、基本、内容も同じです。
主祭神・素盞嗚尊が乗る中御座の神輿が、四条大橋まで出向き、神水を浴びて清められるという。
10日のは「祭りの準備」としてのお清めでしたが、28日の今回は言わば「仕舞い」。
この儀式終了後、三基の神輿は境内の神輿庫へ入り、来年の夏までお休みです。
まだちょこちょこ神事各種は残ってますが、祇園祭の締めに近い行事ではないでしょうか。
ところでこの神輿洗、実は神輿を洗ってるのでなく、鴨川の神を送迎してるという考え方があります。
荒くれ川・鴨川の神を祇園祭へ招き、機嫌をとり、何とか夏の「荒れ」を回避しようという。
確かに、四条大橋の上で執り行われる儀式は、榊で鴨川の水をチャッチャとかけるだけ。
「洗う」感じにはちょっと、見えません。でも「神様を遷してる」なら、見えなくもありません。
鴨川の夏の風物詩・川床も、この「鴨川の神」の「お出かけ」に由来するといいます。
神様が留守だ、と。なら、多少宴席を設けても構わんだろう、と。で、川床が生まれた、と。
実際、江戸時代の川床は、前と後の神輿洗の間だけの超期間限定営業だったそうです。
「なら現在の川床は神の・・・」とかいらんことを言いたくなりますが、とにかく神輿洗であります。
10日とは違い、お迎え提灯の行列がない分、シンプルに神事を見れる、28日の神輿洗。
祭りの終わりの気分を感じながら、ご覧下さい。

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祇園祭の還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年7月24日(日)


祇園祭の還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

還幸祭。祇園祭であっても、還幸祭は還幸祭であります。
御旅所に着御していた神輿が神社へ還る、いわゆる文字通りの還幸祭であります。
で、山鉾巡行を中心に観光化された祇園祭にあって、正直、かなり地味な扱いの神事であります。
西楼門前の差し上げに人気のある神幸祭は、メディアなどでも大きく取り上げられる昨今ですが、
還幸祭はその数分の一の扱いだったり、あるいは数行のフォローだったりします。
しかし、山鉾が主役化する室町時代以前は、この還幸祭こそが「祇園会」と呼ばれてたそうです。
神幸祭の呼び名が「神輿迎」、還幸祭は「祇園会」あるいは「祇園御霊会」。
後白河院をはじめ多くの貴顕が三条通の桟敷で還幸を見物し、着飾った騎馬の童・馬長を寄進。
この「御霊会の馬長」は、清少納言の枕草子で「心地よげなるもの」として挙げられたりもしてます。
が、後白河院が「もう金、ない。お前ら、出せ」と、洛内の有力町衆「潤屋の賎民」に命じて以降、
祇園祭は町衆主体の「民営化路線」を突っ走り、山鉾町は数百年に渡って祭を継続・発展・巨大化。
現代に入り、山鉾巡行が一本化で更なる観光化を推し進めると、宵山とのペアで一人勝ちが確定。
還幸祭は、今や、ガイドブック等に載らないようにさえなりました。
しかし還幸祭、神事としての重要性は今も変わっていません。それがわかるのが、神輿の巡行ルート。
神幸祭より距離的が圧倒的に長いです。長くなるのは、三条御供所と神泉苑へ出向くため。
祇園祭のルーツである御霊会が催された神泉苑、その神泉苑の池の汀だったという三条御供所。
共に、祇園祭発祥の地であり、「千年以上続く祭り」を文字通りの形で確認できる場でもあります。
数キロという本当に長大な巡行であり、おまけに3基の神輿がバラバラのルートを進むので、
全部のフォローは諦め、神宝奉持列の冒頭と中御座を追っかけてみました。

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祇園祭の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年7月17日(日)


祇園祭の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「祇園祭は山鉾巡行だけではない」。
こんな物言いも、最近ではすっかり馴染のものとなりました。でもないでしょうか。
神事や行事やイベントなどが、7月1日から31日まで延々と続く、祇園祭。
中には宵山のように山鉾巡行の倍以上の客を動員するイベントもありますが、
「山鉾巡行だけではない」という言葉を最も言葉通りの意味で体現してるのは、
山鉾巡行当日の夜に行われるこの神幸祭をおいて他にはないでしょう。
神幸祭。文字通り、神幸祭です。神がおいでになる、神幸祭です。
神の御霊を遷した神輿が、神社を出て氏子の町内を巡幸してから御旅所へ入る、神幸祭です。
祇園祭の神幸祭も、当然そういう形で行われます。神輿が舁かれ、町内を巡幸します。
超ド派手な山鉾巡行と比べたら、極めてオーソドックスなスタイルの神事と言えるでしょう。
が、やることはオーソドックスでも、やる場所はオーソドックスではありません。
八坂神社は、祇園の真ん中に立つ神社。というか、神社の周りに祇園ができたんですが。
近所にはお膝元の祇園はもちろん、木屋町、先斗町、河原町、寺町と、京都の歓楽街が揃い踏み。
神幸祭の巡行は、氏子区域の東側にあたるそんな歓楽街をメインに行われます。
色っぽい街に神様がおいでになり、伝統・信仰・奉仕・疲労・享楽・景観破壊・無関心などなど、
その全てを祝祭の中でひとつにする、本当の祇園祭が始まるのです。

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