伏見稲荷 - ひとりでうろつく京都 (β版)

稲荷祭の氏子祭を、8年にわたって観続けました。もちろん、ひとりで。 【3】 宮入

2019年4月28日(日)


稲荷祭、 【1】 【2】 に続き、いよいよラストの 【3】 でございます。

中世までの稲荷祭は、それこそ祇園祭とも並ぶような、華美で絢爛な祭だったようです。
平安末期の 『明衝往来』 によると、貴賤の人々は七条大路に桟敷を設けて祭の行列を見物し、
行列の先頭を行く馬長もその見物に足るべく、家十軒分に相当する派手な衣装を纏ったといいます。
この華美を支えたのは無論、東市から続く七条の富裕商人。13世紀頃も、羽振りは良かったとか。
また 『新猿楽記』 によると、御旅所では呪師・傀儡子・唐術・輪鼓・独相撲といった芸が繰り広げられ、
さらに室町時代の 『東寺執行日記』 によれば、数十の山鉾まで出現し、巡行も行ったそうです。
正に、中世の祇園祭について言われるような風流の世界が、稲荷祭でも展開されてたわけですね。
しかしそんな風流な稲荷祭も、応仁の乱で一旦ストップ。再開は、実に300年も後の江戸中期。
江戸期はそれでもまだ山車などが出てたそうですが、現代に入るとそうした風流要素も概ねストップ。
現在の稲荷祭は多分、かつての稲荷祭とはかなり違う祭として、再構築&継続されてるのでしょう。
が、私はそんな現在の稲荷祭が、良い雰囲気の祭に思えます。好きな雰囲気の祭に思えます。
隣の松尾祭のように、アーシーなノリと神々しさが同時に爆裂するようなテイストではありませんが、
擦れた街の空気&景観と、農耕神・稲荷来訪神として招くアーシーさが同時にある辺が、好きです。
何より、両方の要素のバランスが絶妙であり、その絶妙さに京都らしさを感じなくもありません。
何度も書いてますが、私は丹波人の親を持つ都合で、京都の最古の記憶が京都駅だったりします。
で、数十年前の京都駅周辺を見て感じた何かを、稲荷祭を観ると今でも感じたりするんですよ。
単に昭和な景観が残り気味という話かも知れませんが、そんな景観もこの8年でかなり変わりました。
しかし、祭の雰囲気は変わりません。この雰囲気は、土地の匂い的なものかも、と思ったりします。
そして、風流爆裂だった時代の人々も案外、この祭に同じ匂いを感じてたのかも、と思ったりします。
『明衝往来』 も、稲荷祭では神の立派さと心情の愉快さを同時に得れた、とか言ってるらしいし。
そんな稲荷祭を8年観続けた記事、ラストはいよいよ、宮入です。ひたすらに、宮入です。

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稲荷祭の氏子祭を、8年にわたって観続けました。もちろん、ひとりで。 【2】 氏子域巡行

2019年4月28日(日)


稲荷祭の氏子祭、 【1】 に続き、氏子域巡幸の 【2】 でございます。

【1】 では 「知らん」 とか言ってましたが、でも伏見稲荷の氏子域、本当は気になります。
伏見稲荷大社から、割と遠いという。また、遠いだけでなく、何となく不思議な感じもするという。
御旅所は、神社から離れた地へ神が訪れるための場所。なので、遠いこと自体は別にいいのです。
氏子域が伏見稲荷と接してる松尾大社の御旅所も、いい加減、遠いし。何なら、伏見稲荷より遠いし。
しかし伏見稲荷の場合、本社所在地が何故か藤森神社の氏子域だったりします。何とも、不思議。
それに、御旅所東寺に近いのも、謎。差し上げなども、東寺の神輿に見えたりしたりして、謎。
「つまり稲荷祭は、東寺の祭だ。全ては、空海の計略だ」 みたいな思念が、沸かないでもありません。
東寺は、遷都すぐの平安京を守護する官営の寺院として、西側の西寺とペアで建立されました。
現在の地勢で見れば、東寺の位置は京都の西南。しかし、元来あった太極殿から見れば、東南。
の守護を担った感じでしょう。ゆえに空海は東寺を得た際、同じ巽に建つ伏見稲荷をフィーチャー。
「稲荷神が東寺に来た」 とか言って、平安京東南部の民と稲荷とのマッチングを図ります。
元からあった藤森神をどかせて稲荷神を稲荷山麓へ召喚すると共に、東寺近くに御旅所をオープン。
また、下京の民の懐たる官営マーケット・東市の経済力を活用し、大祭・稲荷祭も大々的に展開。
これらの計略により空海は、めでたく叡山の牽制に成功しましたとさ。愉快、空海、イエズス会。
とか言ってると楽しいんですが、しかし平安京東南部の稲荷信仰は、空海以前にも既にあったとか。
それこそ、 『今昔物語集』 にある 「七条辺にて産れたりければ」 稲荷が産神、みたいな感じで。
ひょっとすると空海は、東寺運営に際してこの 「七条辺」 の信仰を、利用したのかも知れません。
逆に、空海が民間利用されてる可能性もあるけど。とにかく、何とも不思議な伏見稲荷の氏子域です。
というわけで、稲荷祭の 【2】 は、そんな伝説が息づく平安京東南部が舞台の神輿巡幸であります。
北は京都駅の北側や五条を越えた中堂寺、南は千本十条や高速が借景の河原町十条まで。
神輿や五重塔と共に、稲荷祭を千年以上担い続けてきた街の姿を、見つめていきます。

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稲荷祭の氏子祭を、8年にわたって観続けました。もちろん、ひとりで。 【1】 発輿

2019年4月28日(日)


稲荷祭の氏子祭を、8年にわたって観続けました。もちろん、ひとりで。

稲荷祭。ゴールデンウィークを挟む頃合で行われる、名前の通り、稲荷の祭です。
そして無論、京都で稲荷といえば伏見稲荷ですから、つまりは伏見稲荷大社の祭であります。
この稲荷祭、当サイトは実は、クライマックスともいえる氏子祭を8年にわたって追い続けてきました。
京都を考えるにあたり、この祭が極めて重要な祭であると思ったから追った、わけではありません。
多くの祭に於いて核となる御旅所システムを考える上では、確かにこの祭は重要となるはずですが、
しかしそんな難しいことは、純然たるチンピラサイトである当サイトには、あまり関係ありません。
追った理由は、雰囲気が何か好きなのと、数年追えば祭の全貌がコンプできる気がしたからです。
伏見稲荷の氏子域は、よく知られるように、本社から割と離れた京都駅周辺に広がってます。
そして伏見稲荷大社・稲荷祭の氏子祭では、この京都駅周辺の氏子域を、5基の神輿が巡幸します。
稲荷神が、神幸した東寺駅近くの御旅所を出発し、各々の地域を回って御旅所へ戻るわけです。
で、この巡幸エリアの距離感が、何年かかけて追うのに丁度良い感じに思えたんですよね。
巡幸の東北端は、きっと河原町通の五条を下った辺。東南端は、竹田街道を十条まで下った辺
西北端は、丹波口駅を超えて中堂寺の辺。そして西南端は、旧千本通をこれまた十条まで下った辺
曖昧な表現で恐縮ですが、多分こんな感じです。こんな範囲を、5基の神輿が回るわけです。
範囲が広過ぎて、絶対に追いきれない祭というのも、京都には存在します。松尾祭が典型でしょう。
早朝からとんでもない範囲を巡幸しまくり、とんでもない回数の差し上げをやりまくる、みたいな。
しかし稲荷祭は、そんな感じではありません。1年では無理でも、何年かだとコンプできそうなのです。
おまけに、氏子域の中心に京都駅があるから、それなりに、街。同時に、雰囲気も割と、アーシー。
そんな便利さ&都合の良さと、雰囲気の良さに釣られる感じで、何年も何年も観続けてしまいました。
で、追尾の記録を、式次第は概ね順守+時空はシャッフルで組んだのが、当記事であります。
伏見稲荷の本社は最後まで出て来ませんが、しかしこれが、伏見稲荷の祭です。

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2012年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。 【2】

2012年1月1日(日)


2012年への年越しを、京都で迎えました、の続きです。

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伏見稲荷の田植祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年6月10日(金)

田植する早乙女と老人カメラマン
伏見稲荷の田植祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

稲を荷うと書いて、イナリ。稲荷はあくまで、農耕神であります。
「ウソをつけ」と言いたくなるくらい、伏見稲荷の「お塚」にはあらゆる効能を誇るお社が密集し、
神々のラッシュアワー、あるいは神徳のワンストップサービスとでもいうべき状態を呈してますが、
しかし稲荷はあくまで、農耕神であります。だからこそ、これだけ幅広い欲望を集めるのであります。
なぜ集まるかといえば、それはおそらく、我々日本人が農耕民族だからでしょう。
自然にひれ伏すだけでなく、コントロールして収穫を得るという、テクノロジーの萌芽としての稲作。
その第一歩である 「苗を植える」 という小さな行為に、
産業・商売問わず、豊穣を生むあらゆるものの始まりをごく自然に連想できる、我々の感性。
どっかのわけのわからん映画で、猿が天へ向けて投げた骨が宇宙船に化けたように、
田に植えられた1本の苗は我々の魂の中で、スカイツリーにまで真っ直ぐ繋がっているのです。
神前に供する米を収穫する神田に、豊作祈願をしながら苗を植える、伏見稲荷の田植祭。
現代人の目には「のどか」に見え、その見た目に惹かれカメラマンや見物客が集まる神事ですが、
その混雑で「のどか」さがかき消されてる現実が表すように、ここに真に満ちているのは、欲望。
「食いたいものを、食いたいときに、食いたいだけ、食いたい」。
「やりたいことを、やりたい時に、やりたいだけ、やりたい」。
「撮りたいものを、撮りたい時に、撮りたいだけ、撮りたい」。
そんな欲望のカオスなのです。本当かと訊かれたらウソですが、とにかく稲荷なのです。

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2011年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。 【2】

2011年1月1日(土)


2011年への年越しを、京都で迎えました。の、続きです。

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クリスマス・イヴの伏見稲荷へ行きました。もちろん、ひとりで。

2010年12月24日(金)


クリスマス・イヴの伏見稲荷へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

メリークリスマス!!
聞けば、クリスマスというのは、キリストの誕生日ではないんだそうですよ。
2000年も前の大工の子倅が生まれた日なんか、誰もわからんそうです。そりゃそうですよね。
古代ローマの太陽祭に、キリストの生誕祭を乗っけたのが、いわばクリスマスの起源。
習合みたいなもんでしょうか。ローマの祭りですから、乱交も 「込み」 だったのかも知れません。
太陽の復活を祝い、豊穣を祈り、グチャグチャに交じり合う祝祭としての、クリスマス。
それが本当なら、「聖夜は愛する人と二人きり」などと近代的な恋愛観に基づいた戯言や、
「大事な家族と一緒に」などと現代的な家族観に基づいた戯言を言ってる場合ではありません。
入り混じらなければいけないのです。人も神も、見境なく、入り混じろなければいけないのです。
というわけで、大量の神々と全身で交わりまくるべく、聖夜の伏見稲荷を訪れました。
あらゆる御利益神が見境なく溢れる稲荷山ですから、どっかにクリスマスに効く神もいるはずです。
そのクリスマス神へ深き祈りを捧げ、是非ともクリスマス神力を発動していただき、
消費社会の上澄みのみを祝福する現代日本の偽クリスマスを、一掃してもらうのです。
吹けよ、クリスマス神風。唱える祝詞はもちろん、メリークリスマス!!

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