京都市内 - ひとりでうろつく京都 (β版)

横大路の流れ鮨三代目おとわ伏見店で鱧を食べ、鱧海道も散策しました。もちろん、ひとりで。

2021年7月19日(月)


横大路の流れ鮨三代目おとわ伏見店で鱧を食べ、鱧海道も散策しました。もちろん、ひとりで。

海の魚は、漁師 or 釣人を除く大半の人にとって、何処かから運ばれて来る食物です。
いや無論、そう極言するなら海産魚以外の大抵の食物もまた 「運ばれるもの」 なわけですが、
内陸部でも生産可能な穀物や肉よりかは、海の魚は 「運ばれる」 傾向が強いとは言えるでしょう。
そのため、物流や冷凍技術が貧弱だった近代以前の内陸部では、海産魚が珍重されました。
独自の食文化も生まれ、その多くは今も息づいてます。山梨のマグロ偏愛とかですね。
近代以前の京都もまた、純然たる海なし都市として海産魚の運輸問題に向き合ってきた街です。
海がないのに海の魚が食いたいあまり、鱧料理なる特殊な食文化を生み出したのも、御存知の通り。
骨が多いけど生命力が強い鱧を、生で運んで、食う。骨切りなる特殊な技を極めてまで、食う。
異常とも言えるこの鱧料理、京都の特性を体現するものとして、当サイトも向き合い続けてきました。
が、鱧が持つ 「運ばれるもの」 としての側面には、あまり注目して来なかったように思います。
骨切りが文化なら、運輸もまた文化ではないのか。鱧料理の一要素として注目すべきではないのか。
そんなことを考えるようになったのです。そしてそんな頃、 「鱧海道」 という言葉を知ったのです。
鱧海道。正直、地域興し的ワードではあります。が、そんな道があったのは、事実です。
京都市南部の草津湊にて水揚げされた鱧が、鳥羽街道で陸送されてた経緯を指してるわけですね。
草津湊があったのは、伏見から西へ行った横大路の西端。現代もなお運輸とは縁深いエリアです。
となれば、この横大路近辺で鱧を食せば 「運ばれるもの」 としての鱧をより体感できるのではないか。
また、運輸という要素の体感を通じて、鱧料理が持つ特殊性もより明確に認識できるかも知れない。
おまけに、横大路には三代目おとわなる回転寿司店があり、夏は鱧も出してます。これは、丁度いい。
そう思って今回、出かけたのです。御覧のトップ画像でも看板が目立つおとわに、出かけたのです。
え。エスラインギフのトラックしか見えないですって。滋賀産の飛び出し坊やしか見えないですって。
見えてるでしょ。愛知資本焼肉きんぐの彼方に、おとわの青い看板が見えてるでしょ。

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寿司のむさし・三条本店の鱧の押し寿司をテイクアウトで食べました。もちろん、ひとりで。

2020年8月28日(金)


寿司のむさし・三条本店の鱧の押し寿司をテイクアウトで食べました。もちろん、ひとりで。

京都で極限まで安くを食べることができるのは、どの店なんでしょうか。
最もメジャーなメニューである落としでも、居酒屋とかなら安くで出してるところはありそうです。
また、スーパー系も視野に入れるのであれば、京都資本のフレスコでも落としは売ってたりします。
あのフレスコの落とし、自分で天ぷらにすると割と美味いんですよね。価格も、500円オーバー程度。
フレスコでは鱧天を見かけることもあり、こちらも300円くらい。底値と言えば、充分に底値でしょう。
しかし私は、その底値の底を割りたい。割ってみたい。割った先にある世界を、この目で見てみたい。
そんな野望を抱きながら夏を過ごしてると、割った先の世界、河原町三条にありました。むさしです。
むさし。本名、寿司のむさし。河原町三条に本店がある、京都の回転寿司のチェーンであります。
チェーンと言っても、はっきりあるのは本店と八条口店で、上堀川店はあったりなかったりする感じ。
ほとんど個人店に近い感じですが、でもかなり安く、持ち帰りにも便利なので、長く愛されてる店です。
で、此処の鱧の押し寿司が安い。2020年時点で、一皿100円台。これは、安い。あまりにも、安い。
今まで5000円とか3000円とかの予算枠で 「苦しい」 などと言ってたのが阿呆らしく思えるほど、安い。
あまりにも安い為なのか何なのか、夏季限定ではなく年柄年中食えるのがやや風流に欠けますが、
しかし、この過剰なコンビニエントさこそ実は、京都の鱧食の本質に近いものとは言えるでしょう。
当サイトの企画 「ひとりで食べる鱧」 でも度々書いてきた通り、鱧食はとても人工的な食文化です。
海のない街で、何とか生きて運べる魚を骨切りしてまで、食う。まるで生魚を創造するかの如く、食う。
「海行けよ」 という声を遮って、加工による仮構であることも厭わずに、食う。もう無理矢理に、食う。
鱧食が本来持つこの仮構性、現代ではむしろ100円台の寿司にこそ立ち現れるものかも知れません。
そんな高等な思念と共に私は、シーチキン感溢れる寿司を食いに、河原町三条へ赴いたのでした。
断じて、コロナ下でもいい加減に何かネタをやろうかと思ったけど、出かける気は全然沸かず、
テイクアウトの飯ネタで適当にお茶を濁そうとしてるわけでは、ありません。

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2020年への年越しを、寺町通を歩きながら除夜の鐘を聴くだけで迎えました。もちろん、ひとりで。

2020年1月1日(水)


2020年への年越しを、寺町通で除夜の鐘を聴くだけで迎えました。もちろん、ひとりで。

年越しは、ある意味、 「境界」 と言い得ます。というか、 「境界」 以外の何物でもありません。
古き年の死と、新しき年の再生。何なら、 「境界」 の魔力が最高潮となる瞬間とも言えるでしょう。
自虐という表皮の下で、 「境界」 との対峙なるテーマをアカデミックに追求してきた当サイトとしては、
この 「境界」 もまた探求の必要ありと考え、2018年には大霊苑・東山浄苑での年越しを決行しました。
生と死の 「境界」 の極致たる霊苑への訪問。そしてその訪問を、敢えて昼間に済ますという、洒脱。
「真冬の夜に出かけるの、いい加減キツい。なので、昼に済ませた」 わけでは全くないこの荒行で、
当サイトは、道化の皮を被った当サイトらしいやり方で 「境界」 の探求を深めることが出来たのです。
この訪問に続く形で 「境界」 としての年越しを探求するにあたり、私は寺町通に目を付けました。
寺町通。言うまでもなく、長いアーケードが築かれた、京都で最も有名な繁華街のひとつであります。
が、秀吉による寺院集積が名の由来たる通でもあり、そもそも平安京の東端であった通でもあります。
洛中と洛外を隔てる 「境界」 の鴨川に沿い、あらゆる意味でその影響を受けてきた、寺町通。
近世に入り、鴨川の東側が発展した後も、寺の集積によって死と生の 「境界」 たり得てきた、寺町通。
その 「境界」 性に導かれて遊興・芸能が集まるようになり、現代にまで続く遊興地となった、寺町通。
年越しという巨大な 「境界」 と向き合うに際し、ある意味、これほど相応しい場所はないでしょう。
そう考えた私は今回、寺町通に響く除夜の鐘を聴きながら、2020年の年越しを過ごすことにしました。
綺羅星の如く並ぶ寺々から響く鐘の音。その音へ耳を澄まし、 「境界」 と向き合おうとしたのです。
無論、自分で鐘を衝いたりはしません。2019年と同様、偽りの主体性へ乗りかかる暇はありません。
聴覚を通じて精神を研ぎ澄ませ、音像の彼方に顕れる英知と悟りを、魂の眼で見届けてきたのでした。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトであるために必要な挑戦なのです。
決して、大晦日が悪天だったので、アーケードのある道を特攻先に選んだわけでは、ありません。
断じて、立ち止まって音を聴くのさえダルいので、歩くだけで済ませたわけでも、ありません。

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SAKURA TERRACE THE ATELIERで聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

2019年12月24日(火)


SAKURA TERRACE THE ATELIERで聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

メリークリスマス!! 当サイト恒例クリスマス単独お泊まり企画、2019年度版です。
当初は 「独男にとって精神的外圧が最も高まる聖夜の孤高な聖戦」 として始まった、当企画。
初期こそネタ全開で安宿宿坊に投宿してましたが、やがて企画に 「境界」 というテーマが浮上し、
「四堺」 を押さえる形で遊廓跡元ラブホといったアジール性の高い宿へ泊まるようになりました。
そうこうしてるうちに、インバウンド爆増によって洛中のど真中こそ魔宿が林立する魔界と化したため、
此地も新たな 「境界」 と認定し、増殖しまくった民泊町家一棟貸しゲストハウスなどにも特攻。
エリア的にもメジャー中のメジャーなエリアばかり選び、熾烈な市街戦を繰り広げて来たのでした。
で、今回の2019年度版も、この市街戦シリーズの続きとなります。戦場は、京都駅の南です。
人様の住む街を 「そうだ」 呼ばわれして観光地扱いする邪鬼が、大挙して降り立つ魔口・京都駅
当然、この邪鬼が落とす金を目当てにして、近年は様々な宿泊施設もまた林立するようになりました。
中でも、開発・発展・変貌が顕著に進んだのは、駅の南側に展開している東九条エリアでしょう。
観光バブル勃発以前は、コリアンタウンが拡がることで有名なエリアでしたが、その周囲に宿が林立。
大型ホテルが次々と建つと共に、民泊もそこら中に湧き、様々な問題も側聞するようになってます。
此処もまた、新たな 「境界」 に違いない。そう考え、東九条に泊まってみようと思ったのです。
投宿したのは、SAKURA TERRACE THE ATELIER。最近増えてる、おしゃれ系の安宿であります。
九条河原町の角に聳えるSAKURA TERRACE本店や、やたらゴージャスなTHE GALLERYなど、
姉妹店がこの界隈でインパクトを放ってるSAKURA TERRACEですが、中でもTHE ATELIERは最安。
といってもドミトリーではなく、狭いながらも一応個室宿であり、おしゃれ感は下手すると最も高め。
「安普請をデコで胡麻化してるんだろ」 という心の声さえ黙らせたら、かなり良さげな宿となってます。
ので、泊まりました。でもなるべく狭くない方をと、何故か取れた2段ベッドの部屋を取りました。
そして実際に泊まったら、妙に快適で、市街戦とかをすっかり忘れてしまったのです。

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川端四条の一平茶屋へ、かぶら蒸しを食べに行きました。もちろん、ひとりで。

2019年12月6日(金)


川端四条の一平茶屋へ、かぶら蒸しを食べに行きました。もちろん、ひとりで。

私は、京都の冬の風物詩であるかぶら蒸しを家庭料理として食したことが、ありません。
摺り下ろしたかぶらを卵白&具材と共に蒸し上げ、蕩みの利いた出汁をかけ食す、かぶら蒸し。
京野菜の恵みと丁寧な仕事が活きる、そして冬の底冷えも救う、実に京都らしい一品ではあります。
が、偽京都人 or おけいはんの民の私としては、かぶら蒸し、親が作ってくれた記憶はありません。
自分で作ろうと試みたことはありますが、面倒臭さに完敗しました。手がかかるんですよ、あれ。
結果として爆誕した謎のかぶら天つゆを啜り、己の身体的・生活的教養の欠如を痛感したものです。
正に、偽京都人。私のような 「外」 の人間は、家庭でかぶら蒸しを食うのが相応しくないのでしょう。
では、私や、あるいは私と同様 「外」 の存在たる人類の大半が、京都の冬の底冷えに遭遇し、
「かぶら蒸し食いたい」 と切に願ったのならば、食うのに相応しい場所とはいったい何処になるのか。
その適格地は川端四条であると、私は考えます。かの南座が建つ川端四条であると、考えます。
元来は、鴨川を隔てた洛の 「外」 であり、祇園神が洛中へ入る際の入口とされた、川端四条。
近世へ近づくに連れ妖しき傾奇者が集うようになり、やがて歌舞伎発祥の地となった、川端四条。
そして現代は、京阪で京郊の砂利が闖入し続ける、川端四条。正に 「外」 たる存在のアジールです。
「外」 の者が京都の冬の味覚を堪能するのに、ある意味、此処ほど相応しい地もないでしょう。
また何より此地には、かぶら蒸しの専門店とも言い得るような店も、存在してます。一平茶屋です。
かぶら蒸し定食が4000円超という値の張る店であり、ゆえに私は店の前を通り過ぎるばかりでしたが、
今回は意を決して、やはり冬の京都の代名詞である南座の顔見世真っ只中である12月に訪問。
家庭とは全く逆の、しかしアジールの人間らしい温もりを感じながら、かぶら蒸しを食したのでした。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトであるために必要な挑戦なのです。
決して、冬場のアクセス数を確保すべく、食い物ネタを増やそうと考えたわけでは、ありません。
断じて、歌舞伎とかぶら蒸しをカブ繋がりでカブらせようと考えたわけでも、ありません。

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五山送り火の鳥居形を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

2019年8月16日(金)


五山送り火の鳥居形を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

五山送り火5ヵ年計画、本当に5年で完結することになってしまいました。
お盆に際し現世へ召喚された精霊 aka おしょらいさんを、冥界へ送還する万灯籠の習俗が、
大規模化した末に闇夜のページェントを現出させるに至った、京都の夏の風物詩たる五山送り火
そんな送り火の五山コンプを何度も何度も阿呆丸出しで挑むも、全てに失敗して深く深く反省した後、
「5年かけて、1年に一山ずつ観る」 べく2015年に発動したのが、当サイトの五山送り火5ヵ年計画。
初年度は代名詞たる大文字を、2016年は超豪雨の中で妙法を、2017年は六斎と共に船形万燈籠を、
そして2018年は左大文字を真近で拝み、そして今回、ラストの鳥居形に臨むこととなったのです。
そう、なったのです。なってしまったのです。なると思ってなかったのに、なってしまったのです。
発動した頃は正直、完結するなんて思ってませんでした。絶対に、途中で放棄すると思ってました。
何故なら、所詮は火を観るだけだから。 「人多い」 や 「暑過ぎ」 くらいのことしか言いようがないから。
「火を担う人の想い」 とか 「火に託す人の想い」 とか言って、他人の人生に乗っかるのではなく、
徹底して単にうろつく見物人の分を弁え、その立場を遵守する場合、面白味が発生しようがないから。
歴史をあれこれ言って逃げを打とうにも、そもそも送り火の歴史はよくわかってないから出来ないし。
だから、トンズラすると思ってました。が、完結するのです。完結へ私を導いたのは、惰性です。
「例年通り」 という京都の慣用句が示す、惰性の魔力。あるいは、拘束力。もっと言うなら、呪力。
都市に於ける日常が本質的に永遠でも普遍でもないことを知悉するがゆえに希求される、そんな力。
その希求は無論、ある種の祈りでもあります。後ろめたい真実を背後に含んだ、祈りでもあります。
送り火を観続ける中で私も、京都そのものとも言い得るそんな惰性に、いつしか囚われてたようです。
いや、真に祈りの場たる送り火ゆえ、見物人にも何らかの魔力が作用したと考えるべきでしょうか。
魔力により 「面倒臭い9割+残り無意識」 と魂がゾンビ化した私は、完結の感慨も特になく、
鳥居形が灯される嵯峨嵐山へと今回も 「例年通り」 出かけたのでした。

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夏越祓の茅の輪を求めて山科をうろつきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2019年6月30日(日)


夏越祓の茅の輪めぐり@山科盆地・山裾、前篇に続いて後篇です。

子供の頃の私にとって、山科は、何だかとてもカオスな街に見えたものでした。
カオスな人達が住んでる街に見えたわけではありません。街の作りがカオスに見えたのです。
狭くて曲がりくねった道。見通しの利かない交差点、そこへ密集して建て込む家家家家家家家家。
さらには、生活するためだけに住む人が密集して住むことから生じる、濃過ぎるほどの生活感。
地元・八幡や、見慣れた京都市街とは異なるそんな景観を、親戚の家を訪れる際に車の窓から見て、
「こんな町、絶対に車で走りたくない」 と思うと同時に、わけのわからん異様さを感じたものでした。
車の普及をギリギリ想定し切れなかった頃の荒っぽい開発によって急激に都市化された山科が、
昭和の人口爆増&車爆増を経て、今もあちこちで渋滞を生む街となったのは、御存知の通り。
私が住む八幡はもうちょっと開発が後であり、京都市街は密住してても街が遥かに整然としてるため、
昭和丸出しの無秩序な増殖によって仕上がった山科のルックが、とても異様に見えたわけですね。
ただこの印象、今回の茅の輪めぐりを経て、理由は他にもあると思えるようになりました。
近隣の生活者にとって山科は、それこそ単に人口が増え過ぎたベッドタウンでしかないわけですが、
めぐりをすると、この街がとても芳醇な歴史&自然&オーラを持つエリアであることが、体感できます。
「知ることができた」 とかではなくて、体感です。山裾部の緑から得られる、生々しい体感です。
もっと厳密にいうなら、無秩序な排気ガスで汚された緑から得られる、霊気の生々しい体感です。
人間がいるからこそ成立する、神々しい自然。単なる自然ではそもそもありえない、神々しい自然。
そんな、逆説か順説かよくわからん本質みたいなものが、生々しい形で溢れてるように思えるのです。
そしてこの生々しさは、私が子供の頃感じた山科のカオスな印象に、不思議と似てたのでした。
人間と神と自然と車がカオスに密住しまくる山科での、雨に濡れながらの夏越祓の茅の輪めぐり、
後篇では、生々しい神と自然へもうちょっと寄った感じで、盆地山裾の社をめぐって行きます。
私が山科に感じたカオスの正体は、雨の彼方から姿を現してくれるでしょうか。

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夏越祓の茅の輪を求めて山科をうろつきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2019年6月30日(日)


夏越祓の茅の輪を求めて山科をうろつきました。もちろん、ひとりで。

改めて考えると、茅の輪くぐりまくりにおいて当サイトは、思い上がってました。
あちこちの社を茅の輪求めて彷徨い、 「これは小社を紹介するいい機会」 とか思ってました。
そして、その思い上がりを反省すると言って禊の天王山攻めなどをやり、それもネタにしてきました。
こうした所業は確かに、あまり良いこととは言えません。態度としては、明確にふざけてるでしょう。
愚かさを超克できず、糊塗することしかできない凡庸さから生まれる、この思い上がり。腐ってます。
が、だからといってこの愚昧&凡庸&腐敗を反省ばかりしてるのも、それはそれで非生産的です。
そもそも、反省の先に何があるというのか。部屋でじっとして、窓から雨粒でも数えてるべきなのか。
違う。それは日和だ。梅雨の雨中で徘徊したくないという日和の声が、内省心を偽装してるだけだ。
めぐりは、続けなければならない。めぐりが罪なら、その罪を一身に背負って続けなければならない。
その徘徊が、雨の中でのその徘徊こそが、めぐりびとにとって巡礼に、そして浄化にもなるはずだ。
私はそう考え、2019年の夏越は雨の中をとことん歩くことにしました。歩いたのは、山科です。
山科。京都の隣にあって、住宅地として猛烈に開発されたエリアであります。が、その歴史は古し。
古代には、大陸にも繋がる越の道の要衝となり、中臣氏が拠点と置くと共に天智天皇御陵も造営。
その縁もあってか山隣の平安京への遷都後は、公家の荘園・遊猟地ができ、寺社も相次ぎ創建。
中世以降は、決戦第2新本願寺ができたり禁裏御料地になったりしながら、山科七郷なる惣も築き、
明治に入れば鉄道の開通で都市化して、さらに昭和以降は京都のベッドタウンとして人口が爆増
そして近年は、地下鉄開通により利便性が増し、新たな形での宅地化が進んでるエリアであります。
そもそも山科という地名は 「山の窪み」 的な意味を持つらしく、その名の通り、エリアは盆地の中
まるで京都盆地を小さくしたような地形であり、外周にあたる山裾部には大小の様々な神社が林立。
で、 「これは山科の小社を紹介するいい機会」 と思って今回、その山裾をめぐったわけです。
山科盆地に降る雨は、めぐりびとが背負った罪を洗い流してくれるでしょうか。

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平安神宮へ京都薪能を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2019年6月1日(土)


平安神宮へ京都薪能を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

平安神宮には、普段は有料の神苑に無料で入れる日が、年に2日設定されてきました。
ひとつは、6月の4日頃。もうひとつは、9月の17日頃。共に、神苑の入苑料がタダになるわけです。
タダになる理由は、言うまでもないでしょう。6月も、9月も、観光客が少なくなるシーズンだから。
6月は、行事があまりなくて、蒸し暑いだけの季節。9月も、行事があまりなくて、蒸し暑いだけの季節。
通振りたい観光客に青もみじを押し売りしても、生理的苦痛を忘れさせるまでには至らないのか、
あるいはやはり単に雨が多いからなのか、とにかく今ひとつ盛り上がりに欠ける時期ではあります。
ので、タダ日があると。修学旅行生が6月に多いのも、その辺の事情が関係してるんでしょうか。
では、毎年6月に行われる薪能が、タダ日と同じ目的で始まったのかといえば、それはわかりません。
元ネタたる奈良・興福寺薪能と同じく、宗教的理由とかを持つ可能性も、充分あるとは思います。
が、地味な6月の京都にて最大の規模を誇る催事となってるのは、紛れもない事実ではあるでしょう。
薪能。正式名称、京都薪能。昭和25年より開始された、平安神宮にて開催される能公演です。
だだっ広い境内に特設舞台と客席を設け、日暮れ頃から薪を焚きながら展開されるのが、この公演。
1日&2日に開くことで梅雨の雨を避け、また雨天でも隣の京都会館が会場化出来ることがあって、
祇園祭がまだまだ遠い6月に彩を添える催事としてすっかり定着し、現在に至るまで継続されてます。
つまりこの薪能、明らかに大メジャーな行事です。が、当サイトでは今までスルーしてきました。
理由は、私が能に興味がないから。加えて、興味がない者にはチケットが高価過ぎると思えるから。
無論、興味がなくてもメジャー案件であれば、うちでは特攻をやってきました。をどりや、川床とか。
でも、少なくともをどりには、舞妓さんがいる。川床では、料理が食える。でも薪能には、どっちもない。
あるのは、眠い声と鼓の音。あとは、普段よく行く岡崎の雑音。行く気、しません。避けてました。
が、当サイトの趣旨はあくまでメジャーどころの単独特攻。これ以上、逃げることは許されません。
ので、行ってきました。高い金払って興味のないものを、夜どころか昼から観てきました。

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稲荷祭の氏子祭を、8年にわたって観続けました。もちろん、ひとりで。 【3】 宮入

2019年4月28日(日)


稲荷祭、 【1】 【2】 に続き、いよいよラストの 【3】 でございます。

中世までの稲荷祭は、それこそ祇園祭とも並ぶような、華美で絢爛な祭だったようです。
平安末期の 『明衝往来』 によると、貴賤の人々は七条大路に桟敷を設けて祭の行列を見物し、
行列の先頭を行く馬長もその見物に足るべく、家十軒分に相当する派手な衣装を纏ったといいます。
この華美を支えたのは無論、東市から続く七条の富裕商人。13世紀頃も、羽振りは良かったとか。
また 『新猿楽記』 によると、御旅所では呪師・傀儡子・唐術・輪鼓・独相撲といった芸が繰り広げられ、
さらに室町時代の 『東寺執行日記』 によれば、数十の山鉾まで出現し、巡行も行ったそうです。
正に、中世の祇園祭について言われるような風流の世界が、稲荷祭でも展開されてたわけですね。
しかしそんな風流な稲荷祭も、応仁の乱で一旦ストップ。再開は、実に300年も後の江戸中期。
江戸期はそれでもまだ山車などが出てたそうですが、現代に入るとそうした風流要素も概ねストップ。
現在の稲荷祭は多分、かつての稲荷祭とはかなり違う祭として、再構築&継続されてるのでしょう。
が、私はそんな現在の稲荷祭が、良い雰囲気の祭に思えます。好きな雰囲気の祭に思えます。
隣の松尾祭のように、アーシーなノリと神々しさが同時に爆裂するようなテイストではありませんが、
擦れた街の空気&景観と、農耕神・稲荷来訪神として招くアーシーさが同時にある辺が、好きです。
何より、両方の要素のバランスが絶妙であり、その絶妙さに京都らしさを感じなくもありません。
何度も書いてますが、私は丹波人の親を持つ都合で、京都の最古の記憶が京都駅だったりします。
で、数十年前の京都駅周辺を見て感じた何かを、稲荷祭を観ると今でも感じたりするんですよ。
単に昭和な景観が残り気味という話かも知れませんが、そんな景観もこの8年でかなり変わりました。
しかし、祭の雰囲気は変わりません。この雰囲気は、土地の匂い的なものかも、と思ったりします。
そして、風流爆裂だった時代の人々も案外、この祭に同じ匂いを感じてたのかも、と思ったりします。
『明衝往来』 も、稲荷祭では神の立派さと心情の愉快さを同時に得れた、とか言ってるらしいし。
そんな稲荷祭を8年観続けた記事、ラストはいよいよ、宮入です。ひたすらに、宮入です。

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稲荷祭の氏子祭を、8年にわたって観続けました。もちろん、ひとりで。 【2】 氏子域巡行

2019年4月28日(日)


稲荷祭の氏子祭、 【1】 に続き、氏子域巡幸の 【2】 でございます。

【1】 では 「知らん」 とか言ってましたが、でも伏見稲荷の氏子域、本当は気になります。
伏見稲荷大社から、割と遠いという。また、遠いだけでなく、何となく不思議な感じもするという。
御旅所は、神社から離れた地へ神が訪れるための場所。なので、遠いこと自体は別にいいのです。
氏子域が伏見稲荷と接してる松尾大社の御旅所も、いい加減、遠いし。何なら、伏見稲荷より遠いし。
しかし伏見稲荷の場合、本社所在地が何故か藤森神社の氏子域だったりします。何とも、不思議。
それに、御旅所東寺に近いのも、謎。差し上げなども、東寺の神輿に見えたりしたりして、謎。
「つまり稲荷祭は、東寺の祭だ。全ては、空海の計略だ」 みたいな思念が、沸かないでもありません。
東寺は、遷都すぐの平安京を守護する官営の寺院として、西側の西寺とペアで建立されました。
現在の地勢で見れば、東寺の位置は京都の西南。しかし、元来あった太極殿から見れば、東南。
の守護を担った感じでしょう。ゆえに空海は東寺を得た際、同じ巽に建つ伏見稲荷をフィーチャー。
「稲荷神が東寺に来た」 とか言って、平安京東南部の民と稲荷とのマッチングを図ります。
元からあった藤森神をどかせて稲荷神を稲荷山麓へ召喚すると共に、東寺近くに御旅所をオープン。
また、下京の民の懐たる官営マーケット・東市の経済力を活用し、大祭・稲荷祭も大々的に展開。
これらの計略により空海は、めでたく叡山の牽制に成功しましたとさ。愉快、空海、イエズス会。
とか言ってると楽しいんですが、しかし平安京東南部の稲荷信仰は、空海以前にも既にあったとか。
それこそ、 『今昔物語集』 にある 「七条辺にて産れたりければ」 稲荷が産神、みたいな感じで。
ひょっとすると空海は、東寺運営に際してこの 「七条辺」 の信仰を、利用したのかも知れません。
逆に、空海が民間利用されてる可能性もあるけど。とにかく、何とも不思議な伏見稲荷の氏子域です。
というわけで、稲荷祭の 【2】 は、そんな伝説が息づく平安京東南部が舞台の神輿巡幸であります。
北は京都駅の北側や五条を越えた中堂寺、南は千本十条や高速が借景の河原町十条まで。
神輿や五重塔と共に、稲荷祭を千年以上担い続けてきた街の姿を、見つめていきます。

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稲荷祭の氏子祭を、8年にわたって観続けました。もちろん、ひとりで。 【1】 発輿

2019年4月28日(日)


稲荷祭の氏子祭を、8年にわたって観続けました。もちろん、ひとりで。

稲荷祭。ゴールデンウィークを挟む頃合で行われる、名前の通り、稲荷の祭です。
そして無論、京都で稲荷といえば伏見稲荷ですから、つまりは伏見稲荷大社の祭であります。
この稲荷祭、当サイトは実は、クライマックスともいえる氏子祭を8年にわたって追い続けてきました。
京都を考えるにあたり、この祭が極めて重要な祭であると思ったから追った、わけではありません。
多くの祭に於いて核となる御旅所システムを考える上では、確かにこの祭は重要となるはずですが、
しかしそんな難しいことは、純然たるチンピラサイトである当サイトには、あまり関係ありません。
追った理由は、雰囲気が何か好きなのと、数年追えば祭の全貌がコンプできる気がしたからです。
伏見稲荷の氏子域は、よく知られるように、本社から割と離れた京都駅周辺に広がってます。
そして伏見稲荷大社・稲荷祭の氏子祭では、この京都駅周辺の氏子域を、5基の神輿が巡幸します。
稲荷神が、神幸した東寺駅近くの御旅所を出発し、各々の地域を回って御旅所へ戻るわけです。
で、この巡幸エリアの距離感が、何年かかけて追うのに丁度良い感じに思えたんですよね。
巡幸の東北端は、きっと河原町通の五条を下った辺。東南端は、竹田街道を十条まで下った辺
西北端は、丹波口駅を超えて中堂寺の辺。そして西南端は、旧千本通をこれまた十条まで下った辺
曖昧な表現で恐縮ですが、多分こんな感じです。こんな範囲を、5基の神輿が回るわけです。
範囲が広過ぎて、絶対に追いきれない祭というのも、京都には存在します。松尾祭が典型でしょう。
早朝からとんでもない範囲を巡幸しまくり、とんでもない回数の差し上げをやりまくる、みたいな。
しかし稲荷祭は、そんな感じではありません。1年では無理でも、何年かだとコンプできそうなのです。
おまけに、氏子域の中心に京都駅があるから、それなりに、街。同時に、雰囲気も割と、アーシー。
そんな便利さ&都合の良さと、雰囲気の良さに釣られる感じで、何年も何年も観続けてしまいました。
で、追尾の記録を、式次第は概ね順守+時空はシャッフルで組んだのが、当記事であります。
伏見稲荷の本社は最後まで出て来ませんが、しかしこれが、伏見稲荷の祭です。

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醍醐寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2019年4月5日(金)


醍醐寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

当サイト 『ひとりでうろつく京都』 にはこれまで、醍醐寺の桜記事が存在しませんでした。
メジャースポットへの単独特攻を身上とする、当サイト。醍醐寺スルーなど、基本、ありえません。
なのにスルーし続けてきた理由は、ただひとつ。豊太閤花見行列の時に、特攻したかったからです。
秀吉が己の命の散り際に華々しく催し、醍醐寺を名実共に桜の名所としたともいえる、醍醐の花見
そして、単なるコスプレ祭にも見えるものの、その醍醐の花見を現代に復活させた、豊太閤花見行列。
醍醐寺の桜を観るなら、この行列と共に観るのが、筋だろう。そう思い、機会を窺ってたわけですね。
で、サイトを始めた頃から2019年に至るまで、その機会がことごとく振られ続けてきたわけですね。
豊太閤花見行列が行われるのは、4月中旬。京都の桜は、散り際 or 完散のタイミングとなります。
「花見客を少しでも残そうとして、散り際にやってるんだろ」 と、思わず勘繰りたくなる間の悪さですが、
とにかくタイミングが合わないまま時は過ぎ、結果として何年もスルーし続けてしまってたのでした。
しかし、醍醐寺はやはり、醍醐寺。そんな理由で延々スルーなど、やはり許されないのです。
醍醐寺。真言宗醍醐派総本山、醍醐寺。秀吉が花見をするために建てた寺、では無論ありません。
平安時代初期に京都東南の醍醐山を丸ごと境内として創建されて以来、修験霊場として信仰を集め、
醍醐天皇を筆頭に皇室の庇護も厚く受けた、極めてロイヤルかつスピリチュアルな寺であります。
が、応仁の乱を食らって、醍醐天皇の冥福を祈る五重塔以外、壊滅。が、その後に秀吉が、出現。
秀吉からの帰依を得た醍醐寺は、伽藍の造営・改修と共に、醍醐の花見に向けた桜の植樹も実現。
この醍醐の花見により何とか盛り返し、以後も色々あるのもの、世界遺産として現在に至るわけです。
で、桜の方もまた、京都随一の桜メジャースポットと呼ばれるに相応しい威容を誇ってるわけです。
五重塔周囲に加えて、三宝院に博物館、タダ観ゾーンの桜馬場など、実に見所が多い醍醐寺の桜。
当然、シーズン中は平日だろうが何だろうが、大混雑。となれば、スルーはやはり、許されません。
そう思い今回、特攻したのでした。行事も何もない単なる普通の日に、特攻したのでした。

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城南宮へ梅を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

2019年3月8日(金)


城南宮へ梅を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

城南宮は狭い、と感じることがあります。概ね、何かの催しで行った際のことです。
実際の城南宮は、特に狭い神社ではありません。広大でもないですが、狭小でもありません。
名神南インターの眼前にあるその境内は外から見ても、巨大でこそないものの、それなりに広大。
また、現代の名物となってる自動車祈祷ゾーンは、当然のように車に対応できる敷地もしっかり確保。
少なくとも、普通の日に本殿周辺へお参りに行って 「狭いな」 と感じる人は、あまりいないでしょう。
近代には神領を上知され、現代には経済難で土地を売り、境内カツカツの社が多い京都にあっては、
城南宮は決して狭くはなく、どちらかといえば広めな境内を持つ神社、ということになるはずです。
が、狭く感じるんですよね。厳密にいえば、境内の中でも神苑が、何とも狭く感じるんですよね。
端的にこの気分を感じるのは、曲水の宴の時。狭過ぎの参観場所に死の混雑が生じる、あの感じ。
イレギュラーといえばイレギュラーなあの混み方こそが、何故か城南宮の本質に思えるんですよね。
この気分、曲水の宴の他にも感じる催しが、城南宮にはあります。しだれ梅と椿まつりです。
城南宮の神苑・楽水苑では、 『源氏物語』 に描かれた草木が植栽されており、花も季節ごとに開花。
梅もばっちり栽培され、洛南ゆえ少し早く咲く150本のしだれ梅が、春の訪れを京都へ告げてます。
で、このしだれ梅の観梅祭が、混むんですよね。それも何か、何とも昭和的に混むんですよね。
平安京すなわち宮城の南 = 城南にあって、 「方除の大社」 として幅広い崇敬を集める、城南宮。
もちろん平安時代より存在する古社ですが、現代の境内の佇まいが成立したのは、あくまでも現代。
車祈祷で儲かったからか何なのか、とにかく昭和以降、中根金作の作庭で神苑も整備されました。
で、この神苑が、昭和的というか。敷地が広い割に歩行スペースはやたら狭い辺が、昭和的というか。
「広いけどトイレは狭くて不便」 的な、ある種の昭和っぽい身体性が感じられる場所になってます。
この昭和感は、しだれ梅と椿まつりでも実に発揮され、客数の割に濃厚な混雑を現場へ召喚。
で、昭和の動態保存ともいえそうなそんな混雑の中で今回、梅を観てきたのです。

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節分の八瀬へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2019年2月3日(日)


節分の八瀬へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都のは、大江山に住むと考えられてます。いや、全国的にも、そう考えられてます。
老ノ坂・大枝丹波・大江かで議論は分かれますが、とにかく 「おおえ」 に住むとされるわけです。
が、この鬼 aka 酒呑童子、生まれも育ちも大江山という設定なわけではありません。出身地は、別。
越後に生まれ全国を放浪した後、京の近くの比叡山へ居着き、それから大江へ引っ越したとか。
酒好きの酒呑童子ゆえ、丹波名物のどぶろくに惹かれて引っ越したのかといえば、これもさにあらず。
引っ越さされたのです。最澄 aka 伝教大師が叡山に延暦寺を建てる際、追い出されたのです。
鬼は、叡山に未練たらたらだったとか。伝・世阿弥作の謡曲 『大江山』 でも、かなり愚痴ってます。

  我れ比叡山を重代の住家とし 年月を送りしに 大師坊というえせ人 嶺には根本中堂を
  建て 麓に七社の霊神を斉ひし無念さに 一夜に三十余丈の楠となって 奇瑞を見せし所
  に 大師坊 一首の歌に 「阿耨多羅三藐三菩提の仏たち 我が立つ杣に冥加あらせ給え」
  とありしかば 仏たちも大師坊にかたらはされ 出でよ出でよと責め給えば 力なきして 重
  代の比叡のお山を出でしなり
(謡曲 『大江山』 )

当サイトでは2018年の節分、長年の念願が叶い、鬼の里たる丹波・大江山の訪問を果たしました。
が、この訪問を経て私は、プレ大江山たる叡山を訪問する必要性も感じるようになったのです。
そもそも、京都の東北に聳える比叡山は、京都という都市を考える際には避けることが許されない山。
これはもう、登るしかない。そう考えて今回、鬼の日・節分を選んで登山を決行したのであります。
ので、この記事タイトルは、おかしいのです。八瀬でなく叡山へ行ったでなければ、おかしいのです。
写真も、おかしいのです。叡山山麓の八瀬で叡山とは関係ない鯖寿司を食うわけが、ないのです。
悪天+時間がないので、ちょこっと八瀬行って節分ネタを済ませたわけが、ないのです。

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2019年への年越しを、妙心寺で除夜の鐘を聴くだけで迎えました。もちろん、ひとりで。

2019年1月1日(火)


2019年への年越しを、妙心寺で除夜の鐘を聴くだけで迎えました。もちろん、ひとりで。

聴くということ。耳を澄ませること、と言い換えても構いません。とにかく、聴くということ。
難しいことです。ネットの普及以降、視覚ばかり偏重される昨今では、なかなか難しいことです。
「見る暴力」 を行使する自由&権利が、ゼロ年代をまんま引き摺るような形で延々とデフレを続け、
愚鈍な視線が溢れ返ると共に、内省能力を喪失したイワシの如き民を大量発生させた、10年代。
イワシを見て 「やっとネットが漁場化した」 と考えた代理店は、社員を殺しながら民の家畜化を進め、
民は民で小さな画面の中へ認識を収束し、外部を負の感情の便所と見做すようになった、10年代。
見るということは、果てしなく安くなりました。大きな代償を支払うことで、果てしなく安くなりました。
この腐ったディケイドの最終年を迎えるに際し、私は、視覚偏重の風潮に異を唱えたくなったのです。
野蛮に見つめるのではなく、黙って聴くということ。むしろ、音 or 静寂から見つめ返されるということ。
聴覚の復権です。それはつまり、内省の復権です。この復権が今、必要であると思えるのです。
そう考えた私は、2019年の年越しを、妙心寺にて除夜の鐘を聴いて迎えることにしました。
妙心寺。言うまでもなく、臨済宗妙心寺派の大本山であり、禅寺の中の禅寺と言える大寺です。
京都・花園の巨大な境内は全域が禅テイストでまとめられ、質実&ストイックな精神世界を具現化。
また、国宝の梵鐘も持ち、そのレプリカで除夜の鐘も実施。で、この鐘が、参拝者は撞けないのです。
見るだけの無力さを痛感する前に偽りの主体性を得んと、鐘撞き体験へ走るイワシの愚さを排し、
耳を澄ませることで真の内省を促し、真のイニシエーションとしての年越しも成立させる、この姿勢。
正に、禅です。正に、己の内面と向き合う、禅ならではのスタンスです。正に、禅寺の中の禅寺です。
なので私も、真夜中の妙心寺で鐘の音に耳を澄ませ、聴くということに向き合ってみたのでした。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトである為に必要な挑戦なのです。
決して、並んだりせずに簡単に年越しネタを成立させたい一心で出かけたのでは、ありません。
断じて、単に写真が殆ど真暗になったから聴覚がどうとかゴネてるのでも、ありません。

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ゲストハウスイン清水三年坂で聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2018年12月24日(月)


ゲストハウスイン清水三年坂で過ごす聖夜、前篇に続き後篇です。

「坂」 が、ある種の 「境界」 的な性質を孕む領域であることは、広く知られています。
物理的に外界との 「堺」 を築く山、そこへと向かう 「坂」 。自ずと、 「境界」 的になるわけですね。
山に囲まれた街・京都では、この傾向がより顕著です。清水・産寧坂も無論、例外ではありません。
そもそも産寧坂の別称・三年坂は、 「転ぶと三年以内に死ぬ」 という伝説から付いたとされるもの。
また、大日堂などの清水寺・境外塔頭は、かつてこの辺まで広がってた葬地・鳥辺野の名残とか。
「死」 が周囲に転がる、彼岸ゲートたる 「境界」 。その 「境界」 が引き寄せる、ある種のアジール性。
そんな産寧坂の 「境界」 性、水上勉に拠ると、昭和初期の頃までは残ってたようです。

産寧坂は、どうして、あんなに急で、人通りもまばらだったのだろう。両側は二階建てのしもた屋がな
らんでいた。急石段をのぼりながら、家々の戸口を見ると、どこも格子戸を固くしめて、提灯をつるして
いるのだった。いまは、この右側は、竹細工屋、餅屋、喫茶店など、とびとびにあって、観光客の男女
も、手をつないで出入りし、坂を登ってゆくが、昔は、ここの石段にへたりこんで、頭をさげては布施を
乞う乞食が大ぜいいた。
(水上勉 『私版京都図絵』 「東山二条 産寧坂」 )

では現在、この坂の 「境界」 性が全て脱臭されたのかといえば、そうでもありません。
国籍人種問わずベタな観光客が集う現在の産寧坂の様は、正にアジール or 魔界そのものでしょう。
それにそもそも 「産」 もまた、ある種の 「境界」 。無から有へと転じる、紛れもない 「境界」 です。
「死」 と 「生」 の 「境界」 としての、清水。生命がスクラップ・アンド・ビルドされる場としての、清水。
ベタに塗れるほど聖性を増す清水のタフな魅力の根源は、案外そんな所にあるのかも知れません。
というわけで、そんな清水に建つ 「境界」 宿・ゲストハウスイン清水三年坂での聖夜、後篇です。
後篇は、嘘と本当、現実と妄想、そして夜と朝の 「境界」 などを、見つめていきます。

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ゲストハウスイン清水三年坂で聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2018年12月24日(月)


ゲストハウスイン清水三年坂で聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

メリークリスマス!! 『ひとりでうろつく京都』 恒例の聖夜企画、2018年度版です。
独男にとって精神的外圧が最も高まるクリスマスに決行されてきた、当サイトのひとり宿泊企画
初期こそネタ全開で激安宿寺の宿坊に投宿するも、やがて 「境界」 性がテーマとして浮上し、
長屋宿遊廓転業旅館元ラブホ街道の温泉と、平安京の 「四堺」 を押さえる形で転戦を展開。
さらに2016年以降は、インバウンド爆増で一気に魔界化した都心部の 「境界」 にも向き合うべく、
増殖しまくってる民泊の宿や、増殖しまくってる町家一棟貸しの宿でも、市街戦を繰り広げてきました。
で、そんな激戦を経る中で私は、やはりゲストハウスを押さえるべき、と思うようになったのです。
ゲストハウス。 「単なる家+雑魚寝」 というスタイルで安価を実現し、一気に爆増した、ゲストハウス。
爆増し過ぎて、最近は減少さえ始まった、ゲストハウス。正に、都心の 「境界」 宿の本丸でしょう。
しかし、当サイトでは正直、避けてました。何故なら、私はドミトリーが嫌だから。雑魚寝が嫌だから。
でも、押さえねば。と思ってたら、そんな私に最適な宿が現われました。ゲストハウスインです。
ゲストハウスの簡易さと、イン = 宿のホスピタリティを併せ持つという、宿ブランド・ゲストハウスイン。
公式サイトの写真でさえ部屋は単なるマンション全開状態なくらい、簡易さ加減は爆裂してますが、
でも、京都の宿泊状況のリアルを、個を尊びつつ体験するには、ぴったりとしか言いようがありません。
で、今回泊まってみたのです。しかも、数ある施設の中で、清水三年坂に泊まってみたのです。
ゲストハウスイン清水三年坂は、京都観光の本丸中の本丸である清水・産寧坂の、すぐ近くにある宿。
にも関わらず、施設はしっかり、マンション丸出し。というか、マンション以外の何物でもない状態。
パソコンまであるため、自部屋感あり過ぎ+旅情なさ過ぎではありますが、便利なのは間違いなし。
色んな意味で、京都の宿泊の 「今」 を、そして 「境界」 の 「今」 を、表す宿とは言えるでしょう。
そんな宿へ、 「境界」 性が高まる聖夜に泊まり、京都観光の新たな 「境界」 を見つめてみました。
日常と非日常の 「境界」 加減も濃い場所で、私はどんな 「今」 を見るのでしょうか。

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リプトン三条本店で、丹波栗のロイヤルミルクティを楽しんできました。もちろん、ひとりで。

2018年11月15日(木)


リプトン三条本店で、丹波栗のロイヤルミルクティを楽しんできました。もちろん、ひとりで。

明治維新後の京都に於ける近代化で、三条通という道は、大きな役割を担いました。
江戸時代から、東方の江戸へ続く東海道のターミナルとして、既に人荷が行き交ってた、三条通。
維新後は、文明開化の都となった東京に直結する通として、賑わいと重要性を増して行きます。
東から、夜明けの光の如く入ってくる、新しい文化。東京を経由し、世界から入ってくる、新しい文化。
そんな文化のゲートに、三条通はなったわけです。牛肉も、近江から入洛したのは、この通だとか。
現在の市域東部に残る疏水発電所、そして最中心部の烏丸通に至るまで展開される旧洋館群は、
東方より入った近代文化の種子が、古来の文化を滋養として開花した跡なのかも知れません。
が、この三条通、実は西側でも近代の京都に貢献しました。いわば、丹波のゲートとして。
嵐山から三条通の西・千本三条へと丹波材を流す運河・西高瀬川は、幕末に至って拡幅を実現。
元治の大火で焦土と化した京都は切実に建材を求めていた為、千本三条は材木業で一気に活況化。
後に物流は鉄道・山陰線にシフトするも、二条駅が千本三条の目前に建ち、活況はさらに加速。
荒い輩も集まるこの地で木材運送業をシメてた千本組は、加速する活況を受けて、どんどん巨大化。
後には、丹波をルーツに持つマキノ一族との縁で、近代文化の極たる映画制作にも関与しました。
洋風文化と丹波。東と西の両軸にて、三条通は近代の京都を彩ってたというわけですね。
この彩りを、秋の味覚として楽しめる店が、現代の三条通にはあります。リプトン三条本店です。
王室御用達・英国リプトン本社が直轄する喫茶部、その極東支店として生まれた、リプトン三条本店。
現在もロイヤルミルクティが名物のティーハウスとして人気の高い店であり、季節メニューも多彩。
で、この季節メニューとして、秋には、丹波栗を載せた丹波栗ロイヤルミルクティが出るんですよね。
英国紅茶という洋風文化と、丹波名物の代表・栗の、融合。実に、三条通です。実に、近代です。
丹波系の牧野省三が、近代の光で新たな歴史表現を生んだかのようです。飲まねばなりません。
というわけで、飲みに出かけました。ついでに、栗のパスタも勢いで食べてみました。

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京・旬野菜料理 直會撰で、松茸と地鶏のすき焼き膳を楽しんで来ました。もちろん、ひとりで。

2018年9月27日(木)


京・旬野菜料理 直會撰で、松茸と地鶏のすき焼き膳を楽しんで来ました。もちろん、ひとりで。

松茸を有難がる気持ちが、私にはよくわかりません。両親が、丹波の出だからです。
といっても、美味い松茸を食い慣れてるから、有難味がわからないのではありません。逆です。
かつての我が家には、林業か何かに関わる親戚から、秋になる度に松茸が送られて来ました。
無論、身内から無料で送られて来る松茸ですから、商品にならない残骸のような代物となります。
ひょっとすると案外美味かったのかも知れませんが、しかし当時の私の舌には完全に、単なる菌類。
丹波の出身ながら、貧しくて食の教養がない私の親にとっても、この松茸はやはり、単なる菌類。
京都の年配の方は、 「昔は松茸なんかフライで揚げてソースかけて食ってた」 的な話をよくしますが、
正しくそのようなノリで、我が家ではもらいもんの菌類を極めて適当かつ雑に、食ってたのでした。
なので、私にとって松茸の原風景は、 「ちょっと変な匂いが付いたキノコの残骸」 でしかありません。
匂いが付いてるだけで、何が嬉しい。あんなもんに高い金を払って、何が楽しい。というわけです。
とはいえ、秋といえばやはり、松茸。京都に於いても当然、秋といえばやはり、松茸。
特に、丹波なる一大生産地をすぐ近くに擁するこの街では、松茸はより大きな意味を持ってます。
死ぬほど暑いか死ぬほど寒いか以外、実は体感レベルでの季節感は希薄な人口過密都市、京都。
それゆえに、行事や食の季節ものには病的なまでの執着を見せるわけですが、松茸もまた然り。
初松茸が届けばニュースとして報道され、和食店でも当たり前のように松茸の土瓶蒸しが供されます。
つまり、メジャー案件ということです。となれば、当サイトとしては、特攻をかけねばならんのです。
そう考えた私は、松茸特攻の行先を物色するようになりました。無論、なるべくなら安価に済む形で。
で、今回出かけたのが、寺町三条の直會撰。京都の四季特産を扱うとり市老舗の、料理店です。
とり市老舗は、初松茸ニュースによく登場する店。なので直會撰も、秋は松茸メニューを展開。
しかも、最安の松茸御飯食べ放題は、千円強。行き易くて、食い易くて、値段も安い。最高です。
というわけで、丹波ではなく街のど真ん中へと、秋の香りを嗅ぎに出かけたのでした。

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