夢窓疎石の命日に相国寺へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
夢窓疎石の命日に相国寺へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
夢窓疎石は、1351年9月30日に、新暦で言うなら10月20日に、死にました。
その生涯を通じ、苔寺を始めとして数多の名庭を作庭し、枯山水の完成者とも言われる禅僧、疎石。
後醍醐帝と足利兄弟の両方から崇敬され、天龍寺創建のため天龍寺船も献案したという、疎石。
さらに、歌人にして五山文学の有力漢詩人でもあり、語録や 『夢中問答』 などの文物も残した、疎石。
マルチというか横該堅抹というか、とにかく幅広く活躍した中世禅僧界の超カリスマであります。
この手の人物は晩年に下手を打ちがちですが、疎石は存命中に得た人望・名声を保ったまま、入滅。
その死に際しては多くの門弟や僧が集まり、崇光天皇は悲嘆のあまり政務を執れなくなったとか。
「夢想国師」 などの国師号は死後も帝達から送られまくり、 「七朝帝師」 なる別名まで生まれました。
元来ひとりの修行を好んだという疎石、死後も続くこのモテ期は、きっと苦笑ものでしょう。
ただその一方で疎石の最も有名なこの歌は、死後の推しを推してるようにも見えます。
盛りをば 見る人多し 散る花の 後を訪ふこそ 情けなりけれ
この歌に倣うかの如く、帝の他にも疎石の後を訪う者は多し。法要を行う寺もあります。
京都では、天龍寺が開山忌をもちろん実施。あと忘れてはならないのが、相国寺でしょう。
相国寺。万年山相国寺。金閣寺&銀閣寺を山外塔頭として擁する、臨済宗相国寺派の大本山です。
足利義満によって花の御所の真隣で創建され、現在も京都御所の真北にて広大な境内を誇示。
五山文学の中心地でもあり、雪舟・等伯・応挙・若冲などの文化財も持つ、禅刹中の禅刹であります。
この相国寺がどうして夢窓疎石の命日に法要を行うのかと言えば、疎石が正式な開山だから。
相国寺の創建は1382年で、礎石の没年は先述通り1351年なので、数字は全然合ってないんですが、
実質の開山・春屋妙葩が疎石の門弟であり、師匠ラブのあまり疎石を追請開山にしたわけです。
正しく、後を訪う者ならぬ後を訪う寺。ゆえに10月20日には、最重要行事として法要が行われてます。
そんな10月20日の相国寺を、特別拝観も併せて拝むべく、訪うてみました。
京都御所の真北にて広大な境内を誇る、相国寺。最寄駅は御所と同じ、地下鉄今出川駅です。
当日14時、その今出川駅を出て東へ少し歩き、御所の今出川御門前まで来て相国寺通を望むの図。
周囲にいるのは、相国寺を完全包囲するかのように建つ同志社の学生ばかりで、後は普通の人と車。
御所に来た観光客がこの辺までウロウロしてたりしないかと思ったんですが、全然見当たりません。
相国寺通はもちろん相国寺の参道なので、真直ぐ北上すると御覧の相国寺総門に到達します。
相国寺。万年山相国寺。同志社の狭間で立ち退き拒否した小寺みたいに見えますが、大本山です。
総門も、同志社の校舎と並ぶと何だか小さく見えますが、1797年製で立派な府指定有形文化財です。
観光客は依然として見かけないけど。いるのは学生や散歩の人ばかり。特別拝観期間中なのにな。
相国寺、常に拝観を受け付けてるわけではありません。拝観は基本、春と秋の特別拝観のみ。
特別拝観で観れるのは、蟠龍図 aka 鳴き龍がある法堂、原在中などの襖絵&庭園で知られる方丈、
そして名庭 「龍渕水の庭」 の奥にて有縁宮家の位牌などと共に開山・夢窓疎石像を祀る開山堂です。
疎石の命日に疎石を祀る祠堂を拝観できるという、僥倖。参拝の意義もいや増すというものでしょう。
あ、法堂&方丈&開山堂の他は、相国寺、通行が自由です。同志社の学生も歩いてます。
なので私も、有料ゾーンへ入る前に無料ゾーンをしばし徘徊。微妙に秋付く葉を眺めてみたり。
総門からは想像できないくらい広い境内で、遠目で庫裏を眺めてみたり。
歌みたいな読経と重い鐘が響いてる法堂を、寄って拝んでみたり。
歌みたいな読経と重い鐘が響いてる法堂を、今度は引いて拝んでみたり。
境内を完全に通学路化してる同志社の学生を借景に、経蔵を仰いでみたり。
太陽と秋の雲を借景として、洪音楼を望んでみたり。
そして再び、微妙に秋付く葉を眺めてみたり。もう少ししたら、きっと良い色になるんでしょう。
無料ゾーンでも、相国寺、結構いい感じですね。でも今日は、あくまで特別拝観へ行くのです。
特別拝観の入口は、さっき眺めた庫裏の辺。その両側に、法堂と開山堂があります。行きます。
行こうとすると、さっき読経の声が響いてた法堂から坊さんが出てきて、開山堂へ移動し始めました。
あれはひょっとすると、疎石の法要をやるんじゃないでしょうか。これは、良いところに出くわせたかも。
今日来て、良かった。疎石の命日に来て、良かった。すぐ申込を済ませ、中に入れてもらいましょう。
と入口へ行くと、特別拝観、その法要のために休止。ガ━━━━━━━━━━━━ン。
何でや━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━っ (×2) 。
いやいや。ほんまはお前、今日が休みってこと、知ってたやろ (ギロリ from 萬年山) 。
はい、知ってました。知ってて、わざとやりました。すんません。萬年山さん、睨まんといて下さい。
休止の張紙、境内で何回も見ました。その前に、公式サイトにも休止って書いてました。すんません。
確かに知ってはいたんですが、でもこんなにがっつり疎石の法要をしてるとは思ってなかったのです。
名義貸しの開山に形だけやってるとか思ってたら、全く違うんですね。相国寺さんにも、すんません。
とはいえこのまま帰ると、相国寺、疎石と無関係に無料ゾーンを何となく散歩しただけです。
少しは疎石の何かを拝もうと、特別拝観用の予算を転用して承天閣美術館に寄って行きます。
承天閣美術館は、相&金&銀のお宝美術館。庭、やはり無料ゾーンより良いとか思ったり。
そしてチケットの若冲を観たら、もうすぐに疎石のことを忘れたり。
で、若冲の絵を観て、若冲はやはり色なしの方が良いとか思ったり。
あと、武家の何ちゃらという企画展示も観たり。
企画展では疎石の像も展示されてて、何かよくわからんけど夢想疎石な感じがしたり。
疎石の直筆文字も展示されてて、やっぱり何かよくわからんけど夢想疎石な感じがしたり。
どうでもいいけど、承天閣美術館、中は騒がしめ。特別拝観にアブれた人が多いんでしょうか。
夢想疎石な感じ、何とか感じることが出来ました。退館すると、外はもう随分と黄昏れてます。
人生の黄昏に至っても疎石は支持を集め、死の直前でさえ結願を望む僧俗は数千人に達したとか。
それだけ傑物だったという話ですが、同時にその優秀さを多くの人達が理解できたとも言えるでしょう。
あるいは、同時代の彼等も夢窓疎石な感じなるものを感知し、そこに反応してたのかも知れません。
やがて疎石は 「転身一路 横該堅抹 畢竟如何 彭八刺札」 という辞世の頌を残して、逝きました。
遺偈の意味は 「私の逝き先は縦横無尽、全てに行き渡るぞ。究極で満ち溢れるぞ」 てな感じ。多分。
確かに夢窓疎石な感じは、言わば渋くてチャラい感じとして後世の私達にも行き渡ってる気がします。
さらに、苔寺を愛したジョブズとかにも満ち溢れてる気がします。そう、あの渋くてチャラい感じとして。
では、その渋くてチャラい感じが現代の相国寺にあるかと言えば、それがそうでもないんですけど。
自分用の土産のためにグッズ売場へ寄り、「盛りをば」 の色紙とかあれば買おうかと思ったんですが、
あるのは若冲絵葉書や若冲マグネットや若冲手拭ばかりで、疎石ものは特に見当たりませんでした。
しょうがないので図録を買って帰り、疎石の頂相とかを観て、夢窓疎石な感じの後を訪いましたとさ。
疎石の命日の相国寺、
無料ゾーンの客層は観光客がたまにいる程度で、属性は中高年のグループ/夫婦ばかり。
そして、その10倍から20倍くらいの数である同志社の学生が、通学路として境内を通ってます。
美術館内は、高齢夫婦と高齢女性単独、妙齢女性単独と独男数名、そして頭のおかしい若い男。
この内、高齢夫婦と頭のおかしい若い男だけが大声で騒いでるような、不思議で凡庸な感じ。
美術館、開館中はいつもこんな感じなのかどうかは、知りません。
気まずさはほぼないため、ひとりに向いてる度は★★★★としましたが、
誰が行っても面白いと感じられるかどうかは、微妙です。
そんな、疎石の命日の相国寺。
好きな人と行けば、より追請開山なんでしょう。
でも、ひとりで行っても、追請開山です。
相国寺
京都府京都市上京区相国寺門前町701
10:00~16:00
市営地下鉄 今出川駅下車 徒歩約3分
相国寺 臨済宗相国寺派 – 公式
承天閣美術館
京都府京都市上京区相国寺門前町701
10:00~17:00 企画展期間のみ開館
市営地下鉄 今出川駅下車 徒歩約3分
相国寺 承天閣美術館 – 公式