朝も、ひとり - ひとりでうろつく京都 (β版)

京丹波町和知の道の駅・和で、一人ぼたん鍋定食を堪能してきました。もちろん、ひとりで。

2023年1月26日(木)


京丹波町和知の道の駅・和で、一人ぼたん鍋定食を堪能してきました。もちろん、ひとりで。

当サイトに於けるぼたん鍋企画は、正直に言ってここ数年かなり停滞気味でした。
理由は、温泉入湯を企画の必須条件としたためです。それで、行く場所が限られたからです。
鍋はあるけど、温泉はなかったり。温泉はあるけど、鍋はなかったり。両方あっても、高価だったり。
企画第1弾たる大原の里への投宿時には、それこそ本物の温泉に入ってぼたん鍋を堪能しましたが、
以降は本数自体が増えず、また行ったら温泉が閉まってた的な下らないオチも連発しました。
結局、半分くらいの記事では入浴も出来てないんじゃないでしょうか。現実は厳しい。余りに、厳しい。
おまけに当サイトはひとりという条件も付くため、予約や入店が出来ないケースも少なくなかったり。
自業自得にして自縄自縛の限りではありますが、とにかく企画の進展に難儀してるわけです。
でもだからと言って、今になって入湯必須の条件を緩和したいかと言えば、そんなことはありません。
当サイトは、京都の表象にこだわるサイトです。ベタを写経の如く実践することが身上のサイトです。
表象を、表層的に嗤うのではなく、己の身体を通じて実践することで、観光の不毛さを超克する。
この大義のためには、目先の味に囚われず、より全人的な形でぼたん鍋を体感する必要があります。
要は、温まらなければならないのです。真冬に、温泉とぼたん鍋で温まらなければならんのです。
あくまでも温まることが目的なので、温泉の質など問いません。何なら別に風呂であっても構わない。
風呂さえ苦しくて、何らかの風呂的なものになってしまっても、しょうがないのでもう大目に見る。
それよりむしろ、表象として雪が欲しい。雪が積もる白銀の世界。そして出来れば、猪の国・丹波も。
こう考えて、何ならさらに厳しいこの縛りの組み合わせが揃うタイミングを、粘り強く待ち続けてました。
で、この組み合わせが具現化したのです。2023年1月26日に、具現化したのです。
この日の前日は、山科で東海道線の電車が何時間も立ち往生して騒ぎになるほどの、大雪。
雪害自体は全くもって大変ですが、でもこれだけ大雪で翌日が晴れなら、丹波はきっと、銀世界。
そう考え、一人ぼたん鍋定食なるものを出してる和知道の駅・和まで出かけてみたのです。

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宇治・六地蔵の民泊を借り切って、聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

2022年12月24日(土)


宇治・六地蔵の民泊を借り切って、聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

メリークリスマス!! 当サイト恒例の聖夜宿泊企画、2022年度版でございます。
今回は、宇治市京都市の境界である六地蔵にて、airbnbで見つけた民泊に泊まってみました。
理由は、当企画が本来持つ 「境界」というテーマを、改めてしっかり追及したくなったからです。
前年2021年は丹後・宮津へ赴き、貸切の宿で酒飲んで寿司食って寝て朝もまた美味い魚食って、
あまりに気持ち良く、あまりに最高だったんですが、ゆえに 「境界」 というテーマは雲散霧消しました。
本来この企画は、荒行として行って来たことです。ある意味、己への枷として続けて来たことです。
なのに、なってない。何より、自分の体がなってない方向へ全振りしてる。これでは、だめです。
もっと修行しなくてはいけない。もっと修行しなくてはいけない。もっと修行しなくてはいけない。
老化で体の無理が利かなくなったのなら、せめてテーマの追求は、しっかり行うべきではないか。
そう考え、テーマを深く追及できる場を探して、思い至りました。六地蔵が、良いかも知れない。
六地蔵。言うまでもなく、六地蔵めぐりの起点 = 大善寺の愛称がそのまま地名となったエリアです。
平安遷都前から奈良/宇治/近江/北陸の交通の要衝であり、隣の木幡と共に怪異譚も多く産出。
秀吉伏見城築城のため巨椋池宇治川改造した後は河港となり、宿場の歴史も持つ地です。
高い親水性ゆえ伏見の東口&水陸交通の接点として賑わう一方、高い親水性ゆえ水害もまた多発し、
山科川が暴れた際には地蔵めぐりの起点を担い得る程の彼我の境界ぶりを誇ったという、六地蔵。
しかし高度成長期も過ぎた頃になって治水が完了すると、ガラ空きの土地で都市化が一気に進行し、
宅地が増えて道が増え新しい駅地下鉄も生まれ、そのためさらに開発は進んで、人口は増加。
21世紀以降は新たな形で交通の要衝と化し、近年では特にマンションの建設ラッシュが加熱してます。
そう、現在の京都に於いて最も現在進行形の境界を体現してるのが、六地蔵エリアなのです。
その六地蔵で今回、Kyoto FUERTE 宇治六地蔵なる、昭和な民家を用いた民泊に泊まりました。
宿と民家の境界で見える境界が如何なるものか、じっくり向き合おうと思います。

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8月に舞鶴引揚記念館へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2022年8月29日(月)


8月に舞鶴引揚記念館へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

終戦気分が高まる頃合とは言え、8月に舞鶴の引揚記念館へ行く理由は特にありません。
舞鶴引揚が始まったのは、10月だし。実際、舞鶴市は10月に引揚の記念日を制定してるし。
かなりの引揚者は、8月に戦争が終わらず地獄を見たわけだし。8月、関係ないわけです。
しかしそれでも、安直な8月の終戦気分で引揚記念館へ行くことには意味があると、私は考えます。
特に、歴史の痛みを知らぬ者がその痛みについて考える際、この姿勢は、むしろ重要とも考えます。
引揚記念館。舞鶴港での引揚の記憶を現代に伝承する、日本で唯一の引揚特化型博物館です。
1945年の敗戦後、外地に残された邦人約660万人の帰還のため引揚港に指定された軍港・舞鶴は、
平海兵団跡である舞鶴引揚援護局にて、主にソ連/旧満洲/朝鮮半島の引揚者を受け入れました。
特に1950年以降は国内唯一の引揚港となり、平桟橋に立つ 『岸壁の母』 が有名にもなりましたが、
1958年に引揚事業が終了すると、桟橋と援護局は荒れ果て、木工団地への整備後には痕跡も消滅。
この風化を避けるべく、1988年、援護局跡と桟橋跡を見下ろす高台に引揚記念館は建てられました。
以来この館は、引揚に関する資料を収集・展示し、戦争の愚かさを伝え続けてる、というわけです。
そんな引揚記念館へ8月に行くということ。それは、戦争を知らない己を体感することに他なりません。
戦争 = 8月という安直な先入観の真中で、最初から完全に間違ってる者として、存在するということ。
それを恥じながら対象と向き合うことで、己の存在を裂き、その裂け目から世界を見るということ。
安易に本物へ触れず、何も知らない己に恐れ慄き、その恐怖で己の外部を想像し続けるということ。
自分が何を見てないのか、見せられてないのか、見ようとしてないのかを、考えるのではなく体感する。
自分が何を知らないのか、知らされてないのか、知ろうとしてないのかを、考えるのではなく体感する。
場の悪さ/間の悪さとして体感する。場違い/間違いとして体感する。激しい気まずさとして体感する。
そんな思いから、8月に引揚記念館へ出かけました。まだ空が総懺悔色の8月末に、出かけました。
断じて、8月の鉄板ネタと思って出かけた後で、引揚と8月が無関係と気付いたわけではありません。

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祇園祭・後祭の山鉾巡行を、ホテルのテレビで観ました。もちろん、ひとりで。

2022年7月24日(日)


祇園祭・後祭の山鉾巡行を、ホテルのテレビで観ました。もちろん、ひとりで。

2022年7月24日に行われる祇園祭・後祭の山鉾巡行は、絶対に観なくてはいけません。
何せ、約200年も休止してた鷹山が巡行に復帰するのです。見逃すわけには行かないでしょう。
現場は、暑いけど。言いたくないけど、でもだからと言って黙ってると発狂しそうなくらい、暑いけど。
それにコロナも、もう大丈夫とは思うものの、少し気になるし。うつすのも、うつされるのも、何だし。
用もないのに密集したがる輩とかも、多そうだしな。そういう輩に近寄られるの、ちょっとあれだしな。
どうしよう、と懸念も湧きはします。しかし、鷹山の復活です。見逃すわけには行かないでしょう。
鷹山。応仁の乱以前から 「鷹つかい山」 として巡行に参加していたという、長き歴史を誇る山、鷹山
そのモチーフは在原行平光孝天皇の御幸で鷹狩を行う場面であり、御神体は鷹匠&犬飼&樽負。
初期は従者の樽負が粽を食すカラクリで人気を呼ぶ一方、罹災と復活を繰り返しながら拡大を続け、
戦国期には囃子方が乗り込む曳山となり、江戸期には曳山で初の屋根を設けて曳山の鉾化を牽引。
江戸後期には黒塗りの大屋根を構えて都大路に降臨し、鬮とらずで大船鉾の直前を巡行した、鷹山。
しかし、文政期には大雨による損傷で巡行中止に至り、蛤御門の変/どんどん焼けでは部材も焼失。
時代の激変のため復興は困難となり、近世~現代の約200年間は残った人形3体で居祭のみを続行。
近年に至り、町内に留まらず広く支援を得る形での復活に道筋が見えたことで復興の気運が高まり
囃子方復活と唐櫃巡行参加を経て山の再建も実現、本年2022年に巡行への復帰が実現した、鷹山。
正に、200年ぶりの復活です。こんなことは、もう二度と目撃出来ないかも知れません。
仮にも京都に関するサイトなどやってる者であれば、絶対に見逃すわけには行かないでしょう。
現場は、暑いけど。言いたくないけど、でもだからと言って黙ってると発狂しそうなくらい、暑いけど。
それにコロナも、もう大丈夫とは思うものの、少し気になるし。うつすのも、うつされるのも、何だし。
用もないのに密集したがる輩とかも、多そうだしな。そういう輩に近寄られるの、ちょっとあれだしな。
どうしよう。絶対に見逃すわけには行かないけど、どうしよう。あ、そうだ。テレビの中継で観よう。

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宮津の三上勘兵衛本店を借り切って聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2021年12月24日(金)


宮津の三上勘兵衛本店をひとりで借り切って過ごすクリスマス、前篇に続き後篇です。

丹後は、「海の京都」 という枠には収まり切らないエリアではないかと、たまに考えます。
当然と言えば、当然の話でしょう。ここはそもそも、大和と異なる王権の存在さえ想定される地。
平安京などが出来るずっと前より、海を介して交流を広げ、豊かな文化を築いて来たのです。
また、時代をずっと下って近世以降に話を限ってもなお、丹後は大きな広がりを持つ地と言えます。
西回り航路北前船の登場は、日本海沿岸を始め日本各地の交易範囲を劇的に拡大させましたが、
丹後に於いても久美浜・間人・由良などがこの恩恵を受けて、港町として大きな発展を果たしました。
無論、宮津も同様です。ので、和貴宮神社の玉垣にも 「播州」 「讃岐」 の名が並んでたわけです。
三上家を始めとする宮津の豪商も、海運の隆盛期には北海道~大阪を行き交う商船を所有・運用し、
丹後の品の輸出に留まらず各地の物品も売買するなど、地方廻船の枠を超える活動を展開しました。
全国区としての丹後。そんな考え方も、可能かも知れません。そういえば言葉も少し標準語的だし。
この辺を考えると、京都と丹後との距離感自体も、今と違ってたのではないかと思えてきます。
物理的な直線距離は、昔も今も京都は他都市より丹後に近いです。でも海路ならどうか、と。
西回り航路は、西日本を大きく迂回するルートでありながら、安全性で各地の 「距離」 を縮めました。
この西回り航路で丹後から物資を運ぶ場合、京都はそれこそ、播州や讃岐よりも遠くなるわけです。
そんな環境で交易を行った近世後期の丹後の人々は、京都をどのような目で見てたのでしょうか。
そして、現在の丹後が 「海の京都」 と呼ばれてるのを彼等が見たら、どのように感じるのでしょうか。
我々は、海運の身体知のようなものを通じて、丹後や宮津を考え直す必要があるのかも知れません。
お籠もりモードで敢行した今回の宮津投宿では、何故かこんな思念がよく頭の中に湧きました。
籠もってたため、人と話したりあちこち丁寧に見て回ったりはしてません。海も、ロクに見てません。
でも逆に、昔の船人が風待で籠もった際に感じただろう宮津は、幻視出来た気がするというか。
三上勘兵衛本店での聖夜、後篇も籠もったり抜けたりしながら、宮津を感じて行きます。

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SAKURA TERRACE THE ATELIERで聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

2019年12月24日(火)


SAKURA TERRACE THE ATELIERで聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

メリークリスマス!! 当サイト恒例クリスマス単独お泊まり企画、2019年度版です。
当初は 「独男にとって精神的外圧が最も高まる聖夜の孤高な聖戦」 として始まった、当企画。
初期こそネタ全開で安宿宿坊に投宿してましたが、やがて企画に 「境界」 というテーマが浮上し、
「四堺」 を押さえる形で遊廓跡元ラブホといったアジール性の高い宿へ泊まるようになりました。
そうこうしてるうちに、インバウンド爆増によって洛中のど真中こそ魔宿が林立する魔界と化したため、
此地も新たな 「境界」 と認定し、増殖しまくった民泊町家一棟貸しゲストハウスなどにも特攻。
エリア的にもメジャー中のメジャーなエリアばかり選び、熾烈な市街戦を繰り広げて来たのでした。
で、今回の2019年度版も、この市街戦シリーズの続きとなります。戦場は、京都駅の南です。
人様の住む街を 「そうだ」 呼ばわれして観光地扱いする邪鬼が、大挙して降り立つ魔口・京都駅
当然、この邪鬼が落とす金を目当てにして、近年は様々な宿泊施設もまた林立するようになりました。
中でも、開発・発展・変貌が顕著に進んだのは、駅の南側に展開している東九条エリアでしょう。
観光バブル勃発以前は、コリアンタウンが拡がることで有名なエリアでしたが、その周囲に宿が林立。
大型ホテルが次々と建つと共に、民泊もそこら中に湧き、様々な問題も側聞するようになってます。
此処もまた、新たな 「境界」 に違いない。そう考え、東九条に泊まってみようと思ったのです。
投宿したのは、SAKURA TERRACE THE ATELIER。最近増えてる、おしゃれ系の安宿であります。
九条河原町の角に聳えるSAKURA TERRACE本店や、やたらゴージャスなTHE GALLERYなど、
姉妹店がこの界隈でインパクトを放ってるSAKURA TERRACEですが、中でもTHE ATELIERは最安。
といってもドミトリーではなく、狭いながらも一応個室宿であり、おしゃれ感は下手すると最も高め。
「安普請をデコで胡麻化してるんだろ」 という心の声さえ黙らせたら、かなり良さげな宿となってます。
ので、泊まりました。でもなるべく狭くない方をと、何故か取れた2段ベッドの部屋を取りました。
そして実際に泊まったら、妙に快適で、市街戦とかをすっかり忘れてしまったのです。

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夕日ヶ浦木津温泉へ夕日を観に行きました。もちろん、ひとりで。

2019年9月19日(木)


夕日ヶ浦木津温泉へ夕日を観に行きました。もちろん、ひとりで。

観光資源の濫掘を経た今もなお、京都は何故か、夕焼けスポットがあまりありません。
夕焼け自体がないわけでは、無論ないのです。この街も、夕日に染まることは多々あります。
夕日を背にした東寺・五重塔なんかは、京都のド定番ビジュアル or アイコンとさえ言い得るでしょう。
では、その東寺が見える場所が夕焼けスポットとして有名 or 人気かといえば、そうでもありません。
夕日を見れる場所全般についても、この街で人気を呼んでる話は、あまり聞いたことがありません。
これは一体、何故なのか。その理由は、京都が未来を感じさせない街だからだと、私は考えます。
細かく言うと、日没 or 夕日が死と同時に約束する未来を、この街は感じさせないからだと、考えます。
今日の喪失が、より豊かな明日を運んでくる。そんな、期待。というか、確信。あるいは、担保。
スクラップ・アンド・ビルドの高度成長期が、同時に 「夕日の時代」 としてもイメージされてるように、
あるいは、死の領域へ近接する遊戯に熱を上げるのが、概ね発情した若者ばかりであるように、
死や喪失が醸し出す切なさを楽しめるのは常に、未来に期待・確信・担保を持つ若き存在だけです。
そして、そんな期待・確信・担保は、京都にはありません。今までも、今後も、きっとありません。
ひたすら衰え、失い、無様になり続ける街。踏ん張るも、踏ん張れず、自ら斜陽を体現し続ける街。
そんな街に、夕日は似合わないのです。似合うのに必要な明日が、絶望的に欠けてるのです。
しかし、こうした京都の夕焼け事情も、府域にまで目線を広げた場合には、話が全然変わってきます。
未来どころか不死 or 来世の伝説が溢れまくる日本海側の丹後は、夕日スポットが特に目白押し。
夕日ヶ浦木津温泉、という名前の温泉街さえ、実在してたりします。これはもう、行くしかありません。
というわけで私は今回、そんな夕日ヶ浦へ赴き、未来と来世について思念を巡らせてみたのでした。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトであるために必要な挑戦なのです。
決して、超遅めの夏休みが出来たので、日帰りながら海へお出かけしたわけではありません。
断じて、夕日は実はついでで、メインはあくまで遊びと温泉だったわけでもありません。

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まいづる細川幽斎田辺城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2018年5月27日(日)


まいづる細川幽斎田辺城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都には、城らしい城が、ありません。全くなくもないですが、あまり、ありません。
二条城淀城跡伏見桃山城。いずれも、城といえば城です。立派に城です。が、何か違う。
二条城は、離宮感が強過ぎて、城に全然見えない。淀城跡は、本当に単なる廃城跡でしかない。
伏見桃山城に至っては、昭和元禄の張りボテ遺産で、現在は入城さえ不可能。お粗末です。
「いやいや、日本各地の城だって、大半は昭和元禄の産物だよ」 とか思われるかも知れませんが、
再建にかけられた想いや、今もなお続く城への想いでは、かなり差があるんじゃないでしょうか。
端的に言うと、京都は城への関心が低いという。偽京都人である私の中でさえ、正直、低いという。
しかし、城を巡る京都のこうした微妙な温度感も、視野を府に拡げると、事情は変わってきます。
亀岡園部の城下町感、福知山のお城まつりに於ける盛況ぶりは、当サイトでもお伝えしてる通り。
そして、京都府のさらに北にあって、福知山と同じように 「城の街」 たり得てるのが、舞鶴でしょう。
舞鶴。日本海に面し、食・名所・産業などのあらゆる面で 「海の京都」 を体現してる街です。
この街に於いて最も高い知名度を誇ってるのは、現在に至るまで活躍し続けてる軍港の、舞鶴港
共に発展した街・東舞鶴も、正に軍都な趣を持ってます。が、これが 「城の街」 なのではありません。
「城の街」 は、反対の西舞鶴の方。 「城の街」 と呼ぶのは、ここが田辺城の城下町だったから。
肥後細川家の礎&御所伝授で知られる細川幽斎が、信長から南丹後を任され建てた城、田辺城。
プレ関ヶ原の籠城戦 「田辺城の戦い」 の舞台となり、別名 「舞鶴城」 は街の名にもなりました。
明治維新であえなく消滅しましたが、昭和初期から再建が始められ、平成には立派な城門も完成
この城門完成の頃より、毎年5月末には 『まいづる細川幽斎田辺城まつり』 も開催されてます。
実に、 「城の街」 です。ので今回、京都と城の関係をより精査すべく、祭りに遠征してみたのです。
城を中心に一体化してる街を見よう、とか思って。城を大事に思う心に触れよう、とか思って。
しかし、現地で見た 「城の街」 の姿や雰囲気は、何か独特のものだったのでした。

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節分の大江山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】 鬼瓦公園・日本の鬼の交流博物館

2018年2月3日(土)


節分の大江山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「異界」 は、それを希求する度合に応じて、物理的な距離を生じさせるものです。
有体に言うと、近過ぎては、いけない。といって、出かけるのが面倒なほど遠過ぎても、いけない。
「家に霊が出る」 とか 「地元で●●●●●を売ったり打ったりしてる」 とかいうのは、やはり困るし、
といって 「1か月かけて登頂した山で、遂にイエティに会えた」 みたいなのは、余りにしんど過ぎる。
ゲスな興味と、適度なお出かけ感。これらを上手く満たす場所こそが、 「異界」 になり得るのでしょう。
ので逆に、交通の発達などで人々の側の意識が変化すると、 「異界」 の適格地もまた移動します。
節分の日に 「異界」 を持ち込み、豆を以て外界へ再び追いやられるもまた、事情は同じです。
「むかし丹波の大江山」 なる歌で、京都のみならず全国的に知られる酒呑童子の棲処、 「鬼の里」 。
この 「鬼の里」 と比定される場所に関し、 「老ノ坂から大江山へシフトした」 という見方があります。
前者は、京都&丹波の境界・大枝にある坂。後者は、その先、丹波&丹後の境界に聳える山。
京都洛中にて鬼の恐怖が薄らぐのに連れ、 「異界」 性を仮託できる場所には距離が必要となり、
徒歩で日帰りも可能な老ノ坂から、遥かに遠い大江山へ 「鬼の里」 が移った、というわけです。
京都中心の、勝手な見方ではあります。が、勝手さを等閑視すれば、しっくり来る見方でもあります。
京都府南部の八幡に生まれ育ち、家庭の事情で幼少期に老ノ坂を日常的に通過してた私にとっても、
老ノ坂は渋滞を生む単にウザい坂であり、大江山こそが 「鬼の里」 を夢想し得る地、となります。
ので、一度は本物の 「鬼の里」 に、出かけてみたい。出来ることなら節分の日に、出かけてみたい。
そして、 「異界」 への興味をゲスく満たしてみたい。そんなお出かけを、私も実は夢想し続けてました。
で、2018年に至り、遂に時間と予算の確保が実現。で、今回、丸一日かけ出かけてみたわけです。
赴いたのは、鬼瓦公園日本の鬼の交流博物館元伊勢三社という、いわば大江山鉄板コース。
「おぬ」 がゆえに鬼が視界へ現前するような逆相の 「異界」 を期待し、雪中を徘徊したのでした。
で、実際の大江山は、そんな期待を不思議な形で受け止める場所だったのです。

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京町家 『鈴 紫野』 を借り切って聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2017年12月24日(日)


京町家 『鈴 紫野』 を借り切って過ごす聖夜、後篇です。

GHQ指導に因る財産税法制定まで、京都の町家は大半が借家だったといいます。
借家の大家を務めたのは、大きな商家など。住人の多くは、店子として町家に住んでたわけです。
祇園祭の運営に関する話とかで、よく耳にすることですね。 「店子は祭に参加出来ない」 的な。
そんなある種の階層社会の維持に励むと共に大家は、資産である町家の美観維持にも励んだとか。
資産というか、収入源ですし。こうした辺りからも、昔の町家の美しさは保たれてたそうであります。
が、財産税法制定の後、町家は、課税対象化。やがて大家の多くは、町家の借家維持が、困難化。
結果として、大家が店子に対して住んでる町家の購入を持ち掛けるケースが頻出したそうです。
恐らくは戦後に 「持ち家」 化し、家主により出鱈目な改装が施されたのであろう、昭和の町家の姿。
今なお街のあちこちで 「リアルな京都」 を感じさせてくれる、あの無秩序な看板建築町家の姿は、
実は、社会の激変に因るオーナー変更から生じた一過性の姿、と言い得るものなのかも知れません。
そう考えると、町家はそもそもが、流動性あるいは 「境界」 性を持つ建物とも思えてきます。
「継ぐべきもの」 として屹立し、愛着と共に疲労や悲しみを生むこともままある 「マイホーム」 ではなく、
大家は次の過客を呼び込むべく美観を整え、店子もまた各々の季節に伴って通り過ぎるという、
流動的でゆるやかで、ある種 「境界」 的である居住空間としての町家が、イメージ出来るというか。
いかにもな外観と単に暮らし易い中身を持つリノベ町家宿が、それらの直系とは言いませんが、
少なくとも、昭和後期に大量発生した生活感出し過ぎ改装の町家と同程度には高い一過性を持ち、
また、時代を生きる人々の 「何か」 も同程度に反映されたもの、とは言えるのではないでしょうか。
というわけで、そんな過剰なリノベによって何とも過ごし易い町家宿 『鈴 紫野』 での聖夜、後篇です。
後篇は、完備されたキッチンを駆使して京野菜を調理する晩餐、欠かせないクリスマスケーキ、
夜の精神戦を経て翌朝に不思議な音を耳にするまで、雪だるま君と一緒に一気に突っ走ります。
『鈴』 に相応しいジングルベルの音色は、果たして、鳴り響いてくれるのでしょうか。

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福知山お城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2017年4月2日(日)


福知山お城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

平均的な日本人にとって、いわゆるは、いったいどんな意味を持ってるのでしょう。
戦国末期より江戸前期にかけての100年の間に大半が作られた、いわゆる近世の、いわゆる城。
少なくとも私には、城がそれなりに大事なものとして、日本全国で認識されてるように見えます。
いや、 「それなりに」 どころの話ではありません。城は大抵、その街のシンボル or ランドマークです。
オリジナルが残ってるなら保存に励み、壊れてるなら再建に努める。そうなるのが、普通でしょう。
しかし、京都は違います。 「京都」 と見なされるエリアに、まともな城と呼べそうなものはありません。
あるのは、 「跡」 以外の存在感を見出すことが困難な淀城跡、離宮感が余りに濃過ぎる二条城
そして遊園地の人寄せパンダとして再建された挙句に会社から捨てられた伏見桃山城くらい。
徹底的に武士が嫌いなのか、あるいは 「江戸期なんか最近。保存する必要なし」 と思ってるのか、
「威容を誇ると共にその威容に相応しき敬意を集める城」 というのは、とにかく京都にはありません。
しかし、こんな京都の城事情というのも、視野を府域にまで広げた場合、話は変わってきます。
かつて城があった亀岡や園部では、城こそ残らずとも城下町的な雰囲気が今なお濃厚に漂うことは、
当サイトの大本七草粥記事@亀岡や、栗餅買い食いまくり記事@園部でも、お伝えしている通り。
そして、更に北の福知山市は、恐らく京都府では唯一、現在も城らしい城を持つ街と言えるでしょう。
信長より丹波平定の命を受けた明智光秀が、丹波山地の開けた盆地にて築いた、福知山城
光秀が本能寺の変をやらかした後も、税制緩和など善政を敷いた光秀を慕う民によって支えられ、
間違いなく福知山のシンボルというか、福知山という街そのものを生み出す基礎たる城となりました。
時代が明治に入ると、止むなく廃城となり、長らく本丸跡&天守台を残すのみだったといいますが、
昭和末期に至ると、市民などの寄付により総工費の内の5億円を賄う形で、大天守閣の再建を敢行。
「それなりに」 どころではない情熱により、現在もシンボル or ランドマークたり得てるわけです。
そんな福知山城とその城下町、毎年4月上旬にはお城まつりとして街を挙げてのイベントも開催。
で、そのお城まつりに、城見物と祭見物と街見物を一度にすべく、出かけてみました。

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三条右近橘にて聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2016年12月24日(土)


三条右近橘にて過ごす聖夜、前篇の続きです。
 
「京都で暮らす」 ということ。それは、つまり、 「自分らしく暮らす」 ということ。
「自分らしく暮らす」 ということは、 「自分である」 ということであり、 「自分がある」 ということ。
歴史や伝統の尻尾を追いかけて、一代や二代ではなれるわけがない 「京都人」 になり切る努力は、
意味がないし、何より 「自分以外の誰かになれる」 と思い込める若さが、この街には似合わない。
必要なのは、 「自分」 を立ち上げること。そして、その上で、 「京都」 へ無駄にこだわらないこと。
「京都」 への無駄なこだわりは、この街のカルチャーを本当の意味で背負うには、邪魔になる。
都市の原動力は、いつだって、様々な文化の吸収。その駆動原理は、千年の都・京都だって、同じ。
人も文化も、外部からこの街へ入ってくるエレメントは、健全な血流の為には常に必要なもの。
「受け入れる」 という姿勢では、足りない。自ら積極的に取り入れるタフさを、持たなくてはならない。
外来のエレメントと蓄積された歴史を組み合わせて、立体的な創造を行う知力も、重要になる。
「京都」 への無駄なこだわりは、このタフさと知力の飛躍を阻む、壁。壊さなければならない、壁。
都市の駆動原理ゆえ、どんな子供でも簡単に皮肉ることができるほど混沌とした京都の真ん中で、
自分自身を保つ力を授け、新たな未来を創り出す力になってくれるのは、壁ではなく、 「自分らしさ」 。
誰もが 「自分らしい」 暮らしをしなやかに持ち、それぞれの 「らしさ」 がゆるやかに響き合う。
その共振だけが、柔軟な知性と未来への眼差しを生み、この街を更新していく――――――――
――――――――――――――――――――――――――――――
―――と、京都ブランドに乗って勝手&凡庸&無秩序な欲望を 「自分らしく」 発露しまくり、
その発露をポエミーな寝言で美化&正当化したくもなる魔力に満ちた新たな魔界たる洛中にて、
魔界ゆえ増殖している境界的簡易宿所のひとつ・三条右近橘に投宿し過ごしてる、2016年の聖夜。
私もまたその魔力に侵食され、 「自分らしさ」 全開で普段通りに文博行って小津の映画観たりと、
京都にもクリスマスにも全く関係ない挙動に好き勝手に励んでるわけですが、後篇はいよいよ、飯。
「隠れ家の食事処」 での夕食や、チキン&ケーキ爆食など、食の流れを一気に観てもらいます。
これこそが、新たに生まれた魔界で嗜む私にとっての 「自分らしい」 「京都の暮らし」 です。

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京の民宿・大原の里にてぼたん鍋を食べて聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2015年12月24日(木)


京の民宿・大原の里でぼたん鍋を食べて過ごす聖夜、前篇の続きです。

ごく小さな子供の頃、野生の猪がウロウロしてるのを見かけた記憶があります。
両親の実家がある丹波のどっかの山奥にて、団体で野外すき焼きをやってた時のことでした。
子供の頃から団体行動が嫌いだった私は、すき焼きの場を逃げ出して周囲を徘徊してたんですが、
その際、歩いていこうとした道の先に、恐らくはまだ子供であろう猪がウロウロしてるのを見たのです。
こちらが一歩踏み出した瞬間に逃げてしまった為、本当に猪だったかは正直、よくわかりません。
が、そんな遭遇があっても不思議がない程、京都府域にも猪は多数生息してるという話であります。
御存知かどうか知りませんが、丹波というのは、京都市街から車だと1時間程度で行けるエリア。
そんなとこに野生動物がバンバカ生息するエリアがあるのも、京都の食文化を豊かにしてる一要素。
「京に田舎あり」 、なわけです。最近は、獣害の侵攻ラインもどんどん人界へ近付いてはいますが。
現代へ入ると、京都近郊に於けるそういった田舎の風情は、観光面でも大きな資産となり、
大原もまた、市街地に近い場所にありながら 「侘」 の風情が色濃いエリアとして、人気を獲得。
「京の奥座敷」 の呼称+ 「京都大原三千院」 のフレーズと共に、愛されるようになりました。
そんな大原、近年には観光資産の価値を更に高めるべく、先刻から私が入りまくってる温泉も掘削。
「侘」 の風情と天然温泉、現地で育まれた滋味溢れる野菜、そして体が芯から温まるぼたん鍋と、
これらをまとめて楽しめてしまう大原の里での冬の一夜は、正に至福の世界と言えるでしょう。
って、そんなグルメ&旅エッセイ気取りの戯言はいいんですよ。問題は、 「境界」 ですよ、 「境界」 。
「四堺」「艮」 、つまり鬼門に当たる最強 or 最凶の 「境界」 たる途中峠・和邇の攻略に際し、
猪肉の摂取により英気&霊気を養うべく臨んだ、今回の聖夜ひとりお泊まり@京の民宿・大原の里
後篇では、猪肉を煮込んだ鍋へ京地鶏も投入して食いまくり、食った後で温泉にもまた入りまくり、
更にはすぐ蒲団でダラダラしまくり、朝にはまたまた温泉に入りまくり、朝食もバカスカ食いまくります。
そう、今回のお泊まりはあくまでも、準備なのです。真なるミッションを達成する為の、準備なのです。
決して、心の底から猪肉と温泉を堪能し、全てがどうでもよくなり始めてるわけではありません。
断じて、峠を攻略する気なんか実は最初から更々なかったわけでもありません。

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ホテル洛西で聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2014年12月24日(水)


大枝のラブホ街にあるホテル洛西にて過ごす聖夜、前篇に続き後篇です。

「大枝」 と聞いたら、京都府民の多くは脊髄反射で 「柿」 と連想するでしょう。
実際、大枝の富有柿は名物ではあります。が、その歴史は、さほど古いものではありません。
御存知の方も多いでしょうが、富有柿の原産地は岐阜。大枝での栽培が始まったのは、昭和以降。
というか、徹底的に農村化したのも実は明治以降と、中々に面白い歴史をこの地は持ってます。
桓武天皇生母・高野新笠の母方のルーツたる大江氏から 「大江郷」 の名称が付いたという、大枝。
平安遷都以前から秦氏などの豪族が住んだとされ、現在も残る古墳が山のように作られましたが、
遷都以降は、平安京と山陰を結ぶ山陰道に於ける関所 = 「境界」 としての存在感が前景化。
都から見ると北西 = 鬼の進入口・乾に位置する為、中世までは酒呑童子伝説の恰好の舞台となり、
中世以後も、足利尊氏明智光秀といった反逆者が、ここから鬼の如く都へ侵攻したのでした。
近世に入り、鬼の住処も丹後の大江山へ移動すると、大枝は山陰街道の峠町としての存在感を強化。
旅人相手の商いを専業にする家が増え、茶屋や旅籠屋、休憩所が並ぶ宿場町となったのです。
そう、ここは明治以前の時点で既に、農業中心ではなくて商品経済に馴染んだ町だったわけですね。
維新後は、新峠建設で老ノ坂の峠町が衰退、明治32年の鉄道開通では大枝全体の状況も一変。
今は嵯峨野トロッコ鉄道として走るあの汽車へ、丹波の貨物はごっそり移り、山陰街道は急に閑散化。
街道で食ってた大枝は打撃を受け、商業中心から農業中心へと転進せざるを得なくなりました。
そこで、 「柿」 なわけですね。 作物を色々試した後、この地に合ったのが 「柿」 だったわけですね。
「柿」 と全く不似合いなインパクトを誇る大枝のラブホ街ですが、街道筋としての歴史を考えると、
ある意味、かつての時代の生々しい息吹 or 残り香を、現代に伝えるものと言えるのかも知れません。
大枝の変化は 「柿」 以降も止まることが無く、戦後は宅地に困った京都市の開発の歯牙にかかり、
「柿」 を潰す勢いでニュータウン開発が進行、文化的&景観的にラブホ街もなぎ倒す勢いです。
が、とりあえず今回は、ホテル洛西であります。元ラブホにて、ひとりで過ごす聖夜、続きであります。
京都魔界シーンのラスボス・首塚大明神の参拝から、飯、そしてラブホ窓から朝日を見るまで、
「境界」 が孕む妖しき魔力を見据えんとする孤独な精神戦、お付き合い下さい。

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上賀茂神社へ鳥相撲を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年9月9日(火)


上賀茂神社へ鳥相撲を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

重陽五節句の中でも、正直、浮かばれない印象が否めない節句です。
3月3日は、上巳の節句で雛祭5月5日は、端午の節句。そして7月7日は無論、七夕
ついでに言えば、1月1日・元旦の代わりたる1月7日もまた、人日の節句ということで七草粥と、
五節句を構成する他の節句がかなり or それなりの人気と盛況ぶりを見せてるのに対して、
9月9日の重陽の節句は、現状としてはぶっちゃけ、人気以前に認知度さえ高いとは言えません。
数多ある節日の中から奇数のゾロ目日を選び、室町期の頃から祝されていたという、五節句。
江戸期に入ると幕府公認の祝日 = 式日となったことで、民衆から圧倒的支持を受けるようになり、
明治維新の際に公式には廃止されるも、雛祭&端午の節句&七夕は継続して人気を獲得。
根強いのであります。ターゲットが子供だからか何なのか、他の節句は実に、根強いのであります。
しかし重陽は、仲秋の名月に押され気味なのか何なのか、若干、浮かばれないのであります。
菊花を浮かべた菊花酒で、長寿を祝う節句であるにも係わらず、若干、浮かばれないのであります。
そんな不遇さに同情するのか、または宮中行事として菊花宴が催された実績を重視するのか、
あるいは 「明治以降のものは基本、全否定」 という集合無意識による闇のフォースが作用するのか、
京都では超メジャー級を含むいくつかの寺社が、この浮かばれない節句を祝う行事を開催。
世界遺産・上賀茂神社で9月9日に行われる鳥相撲 (からすずもう) も、そんな行事のひとつです。
祭神・賀茂建角身命が、東征する神武天皇を八咫烏に変化し導いた伝承を持つ、上賀茂神社。
その祭神の祖父・賀茂建角身命が、神に相撲を上覧したことに始まるともされる烏相撲は、
刀禰が横飛び+鳥鳴きを披露し、子供相撲が同時開催されるという、実に不思議でのどかなもの。
とはいえ、雅な由緒をアピールするためか、葵祭の花形・斎王代がオブザーバーとして参列し、
さらには菊花酒の振る舞いが行われることもあり、不思議ながらも人気が高い行事となってます。
子供相撲が写真アップ禁止ゆえ、何やってるか全然わからんビジュアルが続く内容ですが、
とにかくそんな不思議な鳥相撲、菊の露の香りを感じながら御覧下さい。

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2014年祇園祭・山鉾巡行の後祭巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年7月24日(木)


2014年祇園祭・山鉾巡行の後祭巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

このサイトでも何度か書いてますが、祇園祭の主役はあくまでも、神輿です。
山鉾巡行の果てしなき観光化+宵山の人間大密集のため、印象は薄いかも知れませんが、
17日の神幸24日の還幸こそが、祇園祭の最重要行事、スピリチュアル・コアなのであります。
そもそも山鉾巡行は、この神輿の巡幸路にいる疫神を集め浄めることこそが、本来の役目。
なので、本当は24日の還幸に於いても山鉾は、露払いとして巡行で道を浄めなくてはなりません。
が、その巡行すなわち後祭巡行は、2013年までの実に半世紀近くの間、無くなってました。
後祭。あとまつり。10基の山鉾による巡行が行われ、 「あとのまつり」 の語源ともされる、後祭。
そんな後祭は1966年、交通や観光への配慮で山鉾巡行が前祭の17日へ統一されたため、消滅。
以来、この合同巡行は48年に亘って続き、24日に山鉾が建つことは長らくなかったわけです。
半世紀近い時間が経過する間には、後祭を知らない世代も、大量増殖。というかむしろ、主流化。
「山鉾巡行 = 17日」 以外の認識を持ってる人は、現在では少なくなっているのも現実でしょう。
しかし、祭の当事者の方々は当然というか何というか、後祭の復活がずっと悲願であり続けたようで、
特に2010年以降になると、まるで不況に反比例するかの如くその動きが活性化+具体化。
再建が絶対に無理と思われていた後祭の最後尾・大船鉾が、まず150年ぶりに復活してしまい、
後祭そのもの復活も、2014年、ジャスト半世紀から少しフラゲする形で成されてしまったのでした。
というわけで、復活したその後祭巡行、特攻であります。先週の前祭に続き、特攻であります。
が、そもそも 「特攻」 となる混雑が生じるほど、人は来るのか。10基による巡行に、人は来るのか。
そもそも巡行自体、どうなるのか。 「新設に近い」 とも言われる巡行自体、どうなるのか。
単に、前祭と同じ混雑が出来するのか。それとも、今まで見たことのない景色が現出するのか。
その辺を目撃し、またも歴史の一証人となるべく、週跨ぎで追尾してみました。

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2014年祇園祭・山鉾巡行の前祭巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年7月17日(木)


2014年祇園祭・山鉾巡行の前祭巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

祇園祭山鉾巡行、恒例となった追尾の2014年度版であります。
いや、山鉾巡行に関しては正直、特に毎年追っかけようと思ってたわけではありません。
無論、京都観光のキング・オブ・キング、最早アイコンそのものと言える祇園祭のメインイベントを、
ベタスポット&ベタイベントの単独特攻を旨とするうちが、看過するわけには行かないでしょう。
しかし、毎年やるのはどうかと思ってます。より明確に言うなら、やりたくないと思ってます。
だって、しんど過ぎるし。比喩とか誇張でなく、リテラルに死の恐怖を感じるくらい、しんど過ぎるし。
憤死しそうな暑さが満ちる7月の京都で、人間が密集する中を走り回るなど、狂気の沙汰だし。
それに、他の三大祭も、別に毎年行ってないし。というか、祇園祭の他の行事も、全然行ってないし。
山鉾巡行だけ毎年毎年追いかけ続けなくてはならん理由は特に無い、という話なのであります。
にも関わらず毎年毎年追いかけ続けたのは、ここ数年の山鉾巡行に大きな変化が立て続けに起こり、
その変化が如何なる影響を及ぼしてるかが気になり、実態を見届けたかったからに他なりません。
2012年には、蛤御門の変の大火で焼失した大船鉾が、唐櫃ながら150年ぶりに巡行へ復帰。
2013年には、その大船鉾が本来最後尾を務めていた後祭巡行の2014年復活が決定したため、
半世紀に渡り続けられてきた、32基の山鉾が一斉に揃う17日の合同巡行が、最終年を迎えました。
そして今回2014年は、後祭が復活するのであります。24日の巡行が、復活するのであります。
それに伴い、17日の巡行は前祭の巡行となり、全23基の山鉾にて行われるのであります。
これはもう、歴史的な事態です。混雑や疲労やアウェー感を、どうこう言ってる場合ではないのです。
行かないわけには、いかないのです。というわけで、今回もまたまた追尾ということにしたのです。
本義へ立ち返り、神輿巡幸に対応した本来のフォーマットの巡行が、どういうものになるのか。
恐らく現行世代の大半が初めて目にすることになる 「本物」 の巡行は、如何なるものになるのか。
そして、それでもやっぱり気になる混雑・客層・ひとりの気まずさなどは、どうなるのか。
そのあたりを見届けるべく、またしても灼熱の四条通へのたくりこんだのでした。

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早朝の嵐山へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年4月7日(月)


早朝の嵐山へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年に早朝の嵐山の桜を見に行った際
「朝の嵐山が好きだ。仕事の匂いがするのが好きだ」 みたいなことを、書きました。
かつて丹波より保津川を下りやって来た木材の集積場&湊町として栄えた時代の残り香と、
あちこちの宿や飲食店が放つ何とも言えない昭和テイストな出汁の仕込み香が漂う、朝の嵐山。
そういった 「仕事」 の顔が感じられるタイムだから好きだ、というようなことを書いたわけです。
しかし、言うまでもないですが、嵐山がそもそも貴族の遊興地であったこともまた、確かであります。
そして、この嵐山の春を彩る桜が、雅なルーツを持つものであることも、確かであります。
この地に亀山御殿を築造した後嵯峨上皇が、吉野の桜を移植したことに始まるという、嵐山の桜。
本家である吉野には比ぶべくも無いですが、程良くコンパクトにまとまったそのサイズ感と、
それでも京都の街中と比べたら圧倒的なスケール感&スペクタクル感を誇りまくるそのビジュアルは、
貴族の庭的な雅さ&ダイナミズムを併せ持つ 「王朝時代から続く観光地」 としての面目躍如、
嵐山の 「仕事」 あるいは 「本業」 の魅力が、明確に具現化されたものと言えるのではないでしょうか。
そんな嵐山の 「本業」 の匂いを改めて吸い込んでみたくなった、というのは半分くらい嘘で、
残り半分は単に思いつき一発ではありますが、とにかくまた嵐山朝行をやってみることにしました。
前回は右岸をウロウロしましたが、今回は中之島から左岸、そして亀山の展望台へ行く感じ。
うちのサイトの趣旨からすると、人の少ない時間帯に出かけるというのは反則に当たるわけですが、
「本業」 の顔を見るなら、こちらも 「人間観察が趣味です」 みたいな冷やかし根性は捨て、
「私だけの嵐山を見つける」 とか言いそうな 「本業」 阿呆観光客の如き気持ちで赴くべきと考え、
でもそんな気持ちでガチ混雑時に出かけるのはガチで辛いので、朝に行ったわけです。
かくも情けない独男に、嵐山は 「本業」 の桜を見せてくれるでしょうか。

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善法律寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年11月29日(金)


善法律寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

善法寺家といえば、石清水八幡宮の社家であります。
世間的には某アニメキャラの姓としての知名度の方が高いのかも知れませんが、
少なくとも八幡人的に善法寺家といえば、石清水八幡宮社家たる善法寺家のことであります。
善法寺家。鎌倉期の頃から嫡流の田中家と共に、石清水の別当 = トップを担った家です。
のみならず、室町期には同家の紀良子2代将軍・足利義詮の側室となり3代将軍・義満を出産、
その縁ゆえか何なのか、義満は石清水をたびたび参拝し、石清水と幕府との関係を強化。
また、良子の母である智泉聖通は四辻宮善統親王の孫 = 順徳天皇の曾孫ともいわれたため、
義満の皇胤説が生まれる要因になったりと、様々な形で歴史に関連する由緒を持つ家でもあります。
あ、神社のトップが 「宮司」 ではなく 「別当」 となってるのが、妙に思われるかも知れませんが、
日本は明治維新に至るまで、神と仏が入り交じり習合しているのがそもそも基本的な信仰スタイル。
特に石清水八幡宮は、かつては 「石清水八幡宮寺」 と呼ばれるほど、その傾向が顕著でした。
山上の本殿には僧形八幡像がどっしりと安座し、その前では祝詞の声と読経の声が日々入り乱れ、
山内には 「男山四十八坊」 とOTK48的な呼称が生まれるほど、宿坊が林立してたわけです。
善法寺家もまた、社務を務める一方で山麓に寺院も建立しました。それが、善法律寺。
律の字が入ってるのは、律宗寺院だから。創建時に招いたのは、東大寺の僧だそうですが。
善法寺家の私邸を寺化して創建された善法律寺には、のちに玉の輿に乗った良子が紅葉を寄進。
ずっと時代が下って明治の神仏分離の際は、山上本殿の僧形八幡像が運び込まれました。
善法寺家は明治に還俗して名前を変え、以降どうなったか私は全然知らないんですが、
善法律寺は現存し、僧形八幡像と、そして良子由来の紅葉を護り続けています。
「紅葉寺」 という別名の由来ともなったその紅葉、観てきました。

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山鉾を一切見ずに2013年の祇園祭・山鉾巡行を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

2013年7月17日(水)


山鉾を一切見ずに祇園祭・山鉾巡行を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

菊地成孔+大谷能生 『M/D マイルス・デューイ・デイヴィスIII世研究』 では、
マイルスの最高傑作である 『Kind Of Blue』 について、一切言及がなされてません。
アーティスト研究を行う上で、外すことが絶対出来ない作品を、敢えて空白にするという、暴挙。
そして、対象の中心を隠蔽するその暴挙が、対象の本質をより浮かび上がらせるという、マジック。
よくわからんけど、そういうの、何か格好いい。よくわからんけど、そういうの、やってみたい。
という高踏極まる動機から、2013年の山鉾巡行追尾は、山鉾をほぼ一切見ずにやってみました。
祇園祭の顔、いや、京都観光のアイコンとも言える山鉾巡行の中心を、敢えて隠蔽する。
その暴挙により、京都観光、いや、京都そのものの本質を、浮かび上がせてみようと思うのです。
いやあ、格好いい。こんなことを思いついた俺、実に格好いい。うひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ。
えと、いや、あの、山鉾隠蔽には他にも一応、動機があります。後祭の復興が、そうであります。
観光集客力アップ+交通規制日削減+仕事止まるの堪忍しとくれやすなどの理由から、
元来は17日前祭+24日後祭の2回開催だった山鉾巡行が17日に一本化されたのは、昭和41年。
以来、巡行が持つ信仰の空洞化&周囲の馬鹿騒ぎ化は果てしなく進行したわけですが、
そんな高度経済成長期的アホアホメタボリズムを捨て、2014年、後祭が復活するのであります。
それは、当事者である山鉾町の人たちにとっては当然、悲願の旧儀復興となるのでしょう。
が、私のような外野の人間からすると、「昭和の無形遺産が消える」 という印象がしなくもありません。
馬鹿のような暑さの中で、馬鹿のような混雑の中を歩き回り、巡行後半は客の大半が半死半生。
そんな 「昭和」 な馬鹿騒ぎが、消えるかも知れない。そう思うと、少し寂しくなったのです。
という意味不明な感傷+先述の中二病+おまけに当日の天気も今イチで写真が撮りにくいため、
思い切って山鉾には目を向けず、肥大化の末に消えていく外縁ばかりを見つめてみました。
やはりマイルスのアルバム 『In A Silent Way』 の 「Shhh/Peaceful」 において、
テーマを全カットした編集が音響の新しい地平を開いたようなマジックが、ここでも起こるのか。
それとも、ただ単に 「肉抜きの牛丼」 みたいなもんに成り果てるだけで、終わるのか。
中心を隠すことで浮かび上がった本質、その目でお確かめ下さい。

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