節分の大江山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】 鬼瓦公園・日本の鬼の交流博物館

2018年2月3日(土)


節分の大江山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「異界」 は、それを希求する度合に応じて、物理的な距離を生じさせるものです。
有体に言うと、近過ぎては、いけない。といって、出かけるのが面倒なほど遠過ぎても、いけない。
「家に霊が出る」 とか 「地元で●●●●●を売ったり打ったりしてる」 とかいうのは、やはり困るし、
といって 「1か月かけて登頂した山で、遂にイエティに会えた」 みたいなのは、余りにしんど過ぎる。
ゲスな興味と、適度なお出かけ感。これらを上手く満たす場所こそが、 「異界」 になり得るのでしょう。
ので逆に、交通の発達などで人々の側の意識が変化すると、 「異界」 の適格地もまた移動します。
節分の日に 「異界」 を持ち込み、豆を以て外界へ再び追いやられるもまた、事情は同じです。
「むかし丹波の大江山」 なる歌で、京都のみならず全国的に知られる酒呑童子の棲処、 「鬼の里」 。
この 「鬼の里」 と比定される場所に関し、 「老ノ坂から大江山へシフトした」 という見方があります。
前者は、京都&丹波の境界・大枝にある坂。後者は、その先、丹波&丹後の境界に聳える山。
京都洛中にて鬼の恐怖が薄らぐのに連れ、 「異界」 性を仮託できる場所には距離が必要となり、
徒歩で日帰りも可能な老ノ坂から、遥かに遠い大江山へ 「鬼の里」 が移った、というわけです。
京都中心の、勝手な見方ではあります。が、勝手さを等閑視すれば、しっくり来る見方でもあります。
京都府南部の八幡に生まれ育ち、家庭の事情で幼少期に老ノ坂を日常的に通過してた私にとっても、
老ノ坂は渋滞を生む単にウザい坂であり、大江山こそが 「鬼の里」 を夢想し得る地、となります。
ので、一度は本物の 「鬼の里」 に、出かけてみたい。出来ることなら節分の日に、出かけてみたい。
そして、 「異界」 への興味をゲスく満たしてみたい。そんなお出かけを、私も実は夢想し続けてました。
で、2018年に至り、遂に時間と予算の確保が実現。で、今回、丸一日かけ出かけてみたわけです。
赴いたのは、鬼瓦公園日本の鬼の交流博物館元伊勢三社という、いわば大江山鉄板コース。
「おぬ」 がゆえに鬼が視界へ現前するような逆相の 「異界」 を期待し、雪中を徘徊したのでした。
で、実際の大江山は、そんな期待を不思議な形で受け止める場所だったのです。

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京町家 『鈴 紫野』 を借り切って聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2017年12月24日(日)


京町家 『鈴 紫野』 を借り切って過ごす聖夜、後篇です。

GHQ指導に因る財産税法制定まで、京都の町家は大半が借家だったといいます。
借家の大家を務めたのは、大きな商家など。住人の多くは、店子として町家に住んでたわけです。
祇園祭の運営に関する話とかで、よく耳にすることですね。 「店子は祭に参加出来ない」 的な。
そんなある種の階層社会の維持に励むと共に大家は、資産である町家の美観維持にも励んだとか。
資産というか、収入源ですし。こうした辺りからも、昔の町家の美しさは保たれてたそうであります。
が、財産税法制定の後、町家は、課税対象化。やがて大家の多くは、町家の借家維持が、困難化。
結果として、大家が店子に対して住んでる町家の購入を持ち掛けるケースが頻出したそうです。
恐らくは戦後に 「持ち家」 化し、家主により出鱈目な改装が施されたのであろう、昭和の町家の姿。
今なお街のあちこちで 「リアルな京都」 を感じさせてくれる、あの無秩序な看板建築町家の姿は、
実は、社会の激変に因るオーナー変更から生じた一過性の姿、と言い得るものなのかも知れません。
そう考えると、町家はそもそもが、流動性あるいは 「境界」 性を持つ建物とも思えてきます。
「継ぐべきもの」 として屹立し、愛着と共に疲労や悲しみを生むこともままある 「マイホーム」 ではなく、
大家は次の過客を呼び込むべく美観を整え、店子もまた各々の季節に伴って通り過ぎるという、
流動的でゆるやかで、ある種 「境界」 的である居住空間としての町家が、イメージ出来るというか。
いかにもな外観と単に暮らし易い中身を持つリノベ町家宿が、それらの直系とは言いませんが、
少なくとも、昭和後期に大量発生した生活感出し過ぎ改装の町家と同程度には高い一過性を持ち、
また、時代を生きる人々の 「何か」 も同程度に反映されたもの、とは言えるのではないでしょうか。
というわけで、そんな過剰なリノベによって何とも過ごし易い町家宿 『鈴 紫野』 での聖夜、後篇です。
後篇は、完備されたキッチンを駆使して京野菜を調理する晩餐、欠かせないクリスマスケーキ、
夜の精神戦を経て翌朝に不思議な音を耳にするまで、雪だるま君と一緒に一気に突っ走ります。
『鈴』 に相応しいジングルベルの音色は、果たして、鳴り響いてくれるのでしょうか。

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福知山お城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2017年4月2日(日)


福知山お城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

平均的な日本人にとって、いわゆるは、いったいどんな意味を持ってるのでしょう。
戦国末期より江戸前期にかけての100年の間に大半が作られた、いわゆる近世の、いわゆる城。
少なくとも私には、城がそれなりに大事なものとして、日本全国で認識されてるように見えます。
いや、 「それなりに」 どころの話ではありません。城は大抵、その街のシンボル or ランドマークです。
オリジナルが残ってるなら保存に励み、壊れてるなら再建に努める。そうなるのが、普通でしょう。
しかし、京都は違います。 「京都」 と見なされるエリアに、まともな城と呼べそうなものはありません。
あるのは、 「跡」 以外の存在感を見出すことが困難な淀城跡、離宮感が余りに濃過ぎる二条城
そして遊園地の人寄せパンダとして再建された挙句に会社から捨てられた伏見桃山城くらい。
徹底的に武士が嫌いなのか、あるいは 「江戸期なんか最近。保存する必要なし」 と思ってるのか、
「威容を誇ると共にその威容に相応しき敬意を集める城」 というのは、とにかく京都にはありません。
しかし、こんな京都の城事情というのも、視野を府域にまで広げた場合、話は変わってきます。
かつて城があった亀岡や園部では、城こそ残らずとも城下町的な雰囲気が今なお濃厚に漂うことは、
当サイトの大本七草粥記事@亀岡や、栗餅買い食いまくり記事@園部でも、お伝えしている通り。
そして、更に北の福知山市は、恐らく京都府では唯一、現在も城らしい城を持つ街と言えるでしょう。
信長より丹波平定の命を受けた明智光秀が、丹波山地の開けた盆地にて築いた、福知山城
光秀が本能寺の変をやらかした後も、税制緩和など善政を敷いた光秀を慕う民によって支えられ、
間違いなく福知山のシンボルというか、福知山という街そのものを生み出す基礎たる城となりました。
時代が明治に入ると、止むなく廃城となり、長らく本丸跡&天守台を残すのみだったといいますが、
昭和末期に至ると、市民などの寄付により総工費の内の5億円を賄う形で、大天守閣の再建を敢行。
「それなりに」 どころではない情熱により、現在もシンボル or ランドマークたり得てるわけです。
そんな福知山城とその城下町、毎年4月上旬にはお城まつりとして街を挙げてのイベントも開催。
で、そのお城まつりに、城見物と祭見物と街見物を一度にすべく、出かけてみました。

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三条右近橘にて聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2016年12月24日(土)


三条右近橘にて過ごす聖夜、前篇の続きです。
 
「京都で暮らす」 ということ。それは、つまり、 「自分らしく暮らす」 ということ。
「自分らしく暮らす」 ということは、 「自分である」 ということであり、 「自分がある」 ということ。
歴史や伝統の尻尾を追いかけて、一代や二代ではなれるわけがない 「京都人」 になり切る努力は、
意味がないし、何より 「自分以外の誰かになれる」 と思い込める若さが、この街には似合わない。
必要なのは、 「自分」 を立ち上げること。そして、その上で、 「京都」 へ無駄にこだわらないこと。
「京都」 への無駄なこだわりは、この街のカルチャーを本当の意味で背負うには、邪魔になる。
都市の原動力は、いつだって、様々な文化の吸収。その駆動原理は、千年の都・京都だって、同じ。
人も文化も、外部からこの街へ入ってくるエレメントは、健全な血流の為には常に必要なもの。
「受け入れる」 という姿勢では、足りない。自ら積極的に取り入れるタフさを、持たなくてはならない。
外来のエレメントと蓄積された歴史を組み合わせて、立体的な創造を行う知力も、重要になる。
「京都」 への無駄なこだわりは、このタフさと知力の飛躍を阻む、壁。壊さなければならない、壁。
都市の駆動原理ゆえ、どんな子供でも簡単に皮肉ることができるほど混沌とした京都の真ん中で、
自分自身を保つ力を授け、新たな未来を創り出す力になってくれるのは、壁ではなく、 「自分らしさ」 。
誰もが 「自分らしい」 暮らしをしなやかに持ち、それぞれの 「らしさ」 がゆるやかに響き合う。
その共振だけが、柔軟な知性と未来への眼差しを生み、この街を更新していく――――――――
――――――――――――――――――――――――――――――
―――と、京都ブランドに乗って勝手&凡庸&無秩序な欲望を 「自分らしく」 発露しまくり、
その発露をポエミーな寝言で美化&正当化したくもなる魔力に満ちた新たな魔界たる洛中にて、
魔界ゆえ増殖している境界的簡易宿所のひとつ・三条右近橘に投宿し過ごしてる、2016年の聖夜。
私もまたその魔力に侵食され、 「自分らしさ」 全開で普段通りに文博行って小津の映画観たりと、
京都にもクリスマスにも全く関係ない挙動に好き勝手に励んでるわけですが、後篇はいよいよ、飯。
「隠れ家の食事処」 での夕食や、チキン&ケーキ爆食など、食の流れを一気に観てもらいます。
これこそが、新たに生まれた魔界で嗜む私にとっての 「自分らしい」 「京都の暮らし」 です。

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京の民宿・大原の里にてぼたん鍋を食べて聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2015年12月24日(木)


京の民宿・大原の里でぼたん鍋を食べて過ごす聖夜、前篇の続きです。

ごく小さな子供の頃、野生の猪がウロウロしてるのを見かけた記憶があります。
両親の実家がある丹波のどっかの山奥にて、団体で野外すき焼きをやってた時のことでした。
子供の頃から団体行動が嫌いだった私は、すき焼きの場を逃げ出して周囲を徘徊してたんですが、
その際、歩いていこうとした道の先に、恐らくはまだ子供であろう猪がウロウロしてるのを見たのです。
こちらが一歩踏み出した瞬間に逃げてしまった為、本当に猪だったかは正直、よくわかりません。
が、そんな遭遇があっても不思議がない程、京都府域にも猪は多数生息してるという話であります。
御存知かどうか知りませんが、丹波というのは、京都市街から車だと1時間程度で行けるエリア。
そんなとこに野生動物がバンバカ生息するエリアがあるのも、京都の食文化を豊かにしてる一要素。
「京に田舎あり」 、なわけです。最近は、獣害の侵攻ラインもどんどん人界へ近付いてはいますが。
現代へ入ると、京都近郊に於けるそういった田舎の風情は、観光面でも大きな資産となり、
大原もまた、市街地に近い場所にありながら 「侘」 の風情が色濃いエリアとして、人気を獲得。
「京の奥座敷」 の呼称+ 「京都大原三千院」 のフレーズと共に、愛されるようになりました。
そんな大原、近年には観光資産の価値を更に高めるべく、先刻から私が入りまくってる温泉も掘削。
「侘」 の風情と天然温泉、現地で育まれた滋味溢れる野菜、そして体が芯から温まるぼたん鍋と、
これらをまとめて楽しめてしまう大原の里での冬の一夜は、正に至福の世界と言えるでしょう。
って、そんなグルメ&旅エッセイ気取りの戯言はいいんですよ。問題は、 「境界」 ですよ、 「境界」 。
「四堺」「艮」 、つまり鬼門に当たる最強 or 最凶の 「境界」 たる途中峠・和邇の攻略に際し、
猪肉の摂取により英気&霊気を養うべく臨んだ、今回の聖夜ひとりお泊まり@京の民宿・大原の里
後篇では、猪肉を煮込んだ鍋へ京地鶏も投入して食いまくり、食った後で温泉にもまた入りまくり、
更にはすぐ蒲団でダラダラしまくり、朝にはまたまた温泉に入りまくり、朝食もバカスカ食いまくります。
そう、今回のお泊まりはあくまでも、準備なのです。真なるミッションを達成する為の、準備なのです。
決して、心の底から猪肉と温泉を堪能し、全てがどうでもよくなり始めてるわけではありません。
断じて、峠を攻略する気なんか実は最初から更々なかったわけでもありません。

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ホテル洛西で聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2014年12月24日(水)


大枝のラブホ街にあるホテル洛西にて過ごす聖夜、前篇に続き後篇です。

「大枝」 と聞いたら、京都府民の多くは脊髄反射で 「柿」 と連想するでしょう。
実際、大枝の富有柿は名物ではあります。が、その歴史は、さほど古いものではありません。
御存知の方も多いでしょうが、富有柿の原産地は岐阜。大枝での栽培が始まったのは、昭和以降。
というか、徹底的に農村化したのも実は明治以降と、中々に面白い歴史をこの地は持ってます。
桓武天皇生母・高野新笠の母方のルーツたる大江氏から 「大江郷」 の名称が付いたという、大枝。
平安遷都以前から秦氏などの豪族が住んだとされ、現在も残る古墳が山のように作られましたが、
遷都以降は、平安京と山陰を結ぶ山陰道に於ける関所 = 「境界」 としての存在感が前景化。
都から見ると北西 = 鬼の進入口・乾に位置する為、中世までは酒呑童子伝説の恰好の舞台となり、
中世以後も、足利尊氏明智光秀といった反逆者が、ここから鬼の如く都へ侵攻したのでした。
近世に入り、鬼の住処も丹後の大江山へ移動すると、大枝は山陰街道の峠町としての存在感を強化。
旅人相手の商いを専業にする家が増え、茶屋や旅籠屋、休憩所が並ぶ宿場町となったのです。
そう、ここは明治以前の時点で既に、農業中心ではなくて商品経済に馴染んだ町だったわけですね。
維新後は、新峠建設で老ノ坂の峠町が衰退、明治32年の鉄道開通では大枝全体の状況も一変。
今は嵯峨野トロッコ鉄道として走るあの汽車へ、丹波の貨物はごっそり移り、山陰街道は急に閑散化。
街道で食ってた大枝は打撃を受け、商業中心から農業中心へと転進せざるを得なくなりました。
そこで、 「柿」 なわけですね。 作物を色々試した後、この地に合ったのが 「柿」 だったわけですね。
「柿」 と全く不似合いなインパクトを誇る大枝のラブホ街ですが、街道筋としての歴史を考えると、
ある意味、かつての時代の生々しい息吹 or 残り香を、現代に伝えるものと言えるのかも知れません。
大枝の変化は 「柿」 以降も止まることが無く、戦後は宅地に困った京都市の開発の歯牙にかかり、
「柿」 を潰す勢いでニュータウン開発が進行、文化的&景観的にラブホ街もなぎ倒す勢いです。
が、とりあえず今回は、ホテル洛西であります。元ラブホにて、ひとりで過ごす聖夜、続きであります。
京都魔界シーンのラスボス・首塚大明神の参拝から、飯、そしてラブホ窓から朝日を見るまで、
「境界」 が孕む妖しき魔力を見据えんとする孤独な精神戦、お付き合い下さい。

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上賀茂神社へ鳥相撲を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年9月9日(火)


上賀茂神社へ鳥相撲を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

重陽五節句の中でも、正直、浮かばれない印象が否めない節句です。
3月3日は、上巳の節句で雛祭5月5日は、端午の節句。そして7月7日は無論、七夕
ついでに言えば、1月1日・元旦の代わりたる1月7日もまた、人日の節句ということで七草粥と、
五節句を構成する他の節句がかなり or それなりの人気と盛況ぶりを見せてるのに対して、
9月9日の重陽の節句は、現状としてはぶっちゃけ、人気以前に認知度さえ高いとは言えません。
数多ある節日の中から奇数のゾロ目日を選び、室町期の頃から祝されていたという、五節句。
江戸期に入ると幕府公認の祝日 = 式日となったことで、民衆から圧倒的支持を受けるようになり、
明治維新の際に公式には廃止されるも、雛祭&端午の節句&七夕は継続して人気を獲得。
根強いのであります。ターゲットが子供だからか何なのか、他の節句は実に、根強いのであります。
しかし重陽は、仲秋の名月に押され気味なのか何なのか、若干、浮かばれないのであります。
菊花を浮かべた菊花酒で、長寿を祝う節句であるにも係わらず、若干、浮かばれないのであります。
そんな不遇さに同情するのか、または宮中行事として菊花宴が催された実績を重視するのか、
あるいは 「明治以降のものは基本、全否定」 という集合無意識による闇のフォースが作用するのか、
京都では超メジャー級を含むいくつかの寺社が、この浮かばれない節句を祝う行事を開催。
世界遺産・上賀茂神社で9月9日に行われる鳥相撲 (からすずもう) も、そんな行事のひとつです。
祭神・賀茂建角身命が、東征する神武天皇を八咫烏に変化し導いた伝承を持つ、上賀茂神社。
その祭神の祖父・賀茂建角身命が、神に相撲を上覧したことに始まるともされる烏相撲は、
刀禰が横飛び+鳥鳴きを披露し、子供相撲が同時開催されるという、実に不思議でのどかなもの。
とはいえ、雅な由緒をアピールするためか、葵祭の花形・斎王代がオブザーバーとして参列し、
さらには菊花酒の振る舞いが行われることもあり、不思議ながらも人気が高い行事となってます。
子供相撲が写真アップ禁止ゆえ、何やってるか全然わからんビジュアルが続く内容ですが、
とにかくそんな不思議な鳥相撲、菊の露の香りを感じながら御覧下さい。

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2014年祇園祭・山鉾巡行の後祭巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年7月24日(木)


2014年祇園祭・山鉾巡行の後祭巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

このサイトでも何度か書いてますが、祇園祭の主役はあくまでも、神輿です。
山鉾巡行の果てしなき観光化+宵山の人間大密集のため、印象は薄いかも知れませんが、
17日の神幸24日の還幸こそが、祇園祭の最重要行事、スピリチュアル・コアなのであります。
そもそも山鉾巡行は、この神輿の巡幸路にいる疫神を集め浄めることこそが、本来の役目。
なので、本当は24日の還幸に於いても山鉾は、露払いとして巡行で道を浄めなくてはなりません。
が、その巡行すなわち後祭巡行は、2013年までの実に半世紀近くの間、無くなってました。
後祭。あとまつり。10基の山鉾による巡行が行われ、 「あとのまつり」 の語源ともされる、後祭。
そんな後祭は1966年、交通や観光への配慮で山鉾巡行が前祭の17日へ統一されたため、消滅。
以来、この合同巡行は48年に亘って続き、24日に山鉾が建つことは長らくなかったわけです。
半世紀近い時間が経過する間には、後祭を知らない世代も、大量増殖。というかむしろ、主流化。
「山鉾巡行 = 17日」 以外の認識を持ってる人は、現在では少なくなっているのも現実でしょう。
しかし、祭の当事者の方々は当然というか何というか、後祭の復活がずっと悲願であり続けたようで、
特に2010年以降になると、まるで不況に反比例するかの如くその動きが活性化+具体化。
再建が絶対に無理と思われていた後祭の最後尾・大船鉾が、まず150年ぶりに復活してしまい、
後祭そのもの復活も、2014年、ジャスト半世紀から少しフラゲする形で成されてしまったのでした。
というわけで、復活したその後祭巡行、特攻であります。先週の前祭に続き、特攻であります。
が、そもそも 「特攻」 となる混雑が生じるほど、人は来るのか。10基による巡行に、人は来るのか。
そもそも巡行自体、どうなるのか。 「新設に近い」 とも言われる巡行自体、どうなるのか。
単に、前祭と同じ混雑が出来するのか。それとも、今まで見たことのない景色が現出するのか。
その辺を目撃し、またも歴史の一証人となるべく、週跨ぎで追尾してみました。

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2014年祇園祭・山鉾巡行の前祭巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年7月17日(木)


2014年祇園祭・山鉾巡行の前祭巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

祇園祭山鉾巡行、恒例となった追尾の2014年度版であります。
いや、山鉾巡行に関しては正直、特に毎年追っかけようと思ってたわけではありません。
無論、京都観光のキング・オブ・キング、最早アイコンそのものと言える祇園祭のメインイベントを、
ベタスポット&ベタイベントの単独特攻を旨とするうちが、看過するわけには行かないでしょう。
しかし、毎年やるのはどうかと思ってます。より明確に言うなら、やりたくないと思ってます。
だって、しんど過ぎるし。比喩とか誇張でなく、リテラルに死の恐怖を感じるくらい、しんど過ぎるし。
憤死しそうな暑さが満ちる7月の京都で、人間が密集する中を走り回るなど、狂気の沙汰だし。
それに、他の三大祭も、別に毎年行ってないし。というか、祇園祭の他の行事も、全然行ってないし。
山鉾巡行だけ毎年毎年追いかけ続けなくてはならん理由は特に無い、という話なのであります。
にも関わらず毎年毎年追いかけ続けたのは、ここ数年の山鉾巡行に大きな変化が立て続けに起こり、
その変化が如何なる影響を及ぼしてるかが気になり、実態を見届けたかったからに他なりません。
2012年には、蛤御門の変の大火で焼失した大船鉾が、唐櫃ながら150年ぶりに巡行へ復帰。
2013年には、その大船鉾が本来最後尾を務めていた後祭巡行の2014年復活が決定したため、
半世紀に渡り続けられてきた、32基の山鉾が一斉に揃う17日の合同巡行が、最終年を迎えました。
そして今回2014年は、後祭が復活するのであります。24日の巡行が、復活するのであります。
それに伴い、17日の巡行は前祭の巡行となり、全23基の山鉾にて行われるのであります。
これはもう、歴史的な事態です。混雑や疲労やアウェー感を、どうこう言ってる場合ではないのです。
行かないわけには、いかないのです。というわけで、今回もまたまた追尾ということにしたのです。
本義へ立ち返り、神輿巡幸に対応した本来のフォーマットの巡行が、どういうものになるのか。
恐らく現行世代の大半が初めて目にすることになる 「本物」 の巡行は、如何なるものになるのか。
そして、それでもやっぱり気になる混雑・客層・ひとりの気まずさなどは、どうなるのか。
そのあたりを見届けるべく、またしても灼熱の四条通へのたくりこんだのでした。

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早朝の嵐山へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年4月7日(月)


早朝の嵐山へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年に早朝の嵐山の桜を見に行った際
「朝の嵐山が好きだ。仕事の匂いがするのが好きだ」 みたいなことを、書きました。
かつて丹波より保津川を下りやって来た木材の集積場&湊町として栄えた時代の残り香と、
あちこちの宿や飲食店が放つ何とも言えない昭和テイストな出汁の仕込み香が漂う、朝の嵐山。
そういった 「仕事」 の顔が感じられるタイムだから好きだ、というようなことを書いたわけです。
しかし、言うまでもないですが、嵐山がそもそも貴族の遊興地であったこともまた、確かであります。
そして、この嵐山の春を彩る桜が、雅なルーツを持つものであることも、確かであります。
この地に亀山御殿を築造した後嵯峨上皇が、吉野の桜を移植したことに始まるという、嵐山の桜。
本家である吉野には比ぶべくも無いですが、程良くコンパクトにまとまったそのサイズ感と、
それでも京都の街中と比べたら圧倒的なスケール感&スペクタクル感を誇りまくるそのビジュアルは、
貴族の庭的な雅さ&ダイナミズムを併せ持つ 「王朝時代から続く観光地」 としての面目躍如、
嵐山の 「仕事」 あるいは 「本業」 の魅力が、明確に具現化されたものと言えるのではないでしょうか。
そんな嵐山の 「本業」 の匂いを改めて吸い込んでみたくなった、というのは半分くらい嘘で、
残り半分は単に思いつき一発ではありますが、とにかくまた嵐山朝行をやってみることにしました。
前回は右岸をウロウロしましたが、今回は中之島から左岸、そして亀山の展望台へ行く感じ。
うちのサイトの趣旨からすると、人の少ない時間帯に出かけるというのは反則に当たるわけですが、
「本業」 の顔を見るなら、こちらも 「人間観察が趣味です」 みたいな冷やかし根性は捨て、
「私だけの嵐山を見つける」 とか言いそうな 「本業」 阿呆観光客の如き気持ちで赴くべきと考え、
でもそんな気持ちでガチ混雑時に出かけるのはガチで辛いので、朝に行ったわけです。
かくも情けない独男に、嵐山は 「本業」 の桜を見せてくれるでしょうか。

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善法律寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年11月29日(金)


善法律寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

善法寺家といえば、石清水八幡宮の社家であります。
世間的には某アニメキャラの姓としての知名度の方が高いのかも知れませんが、
少なくとも八幡人的に善法寺家といえば、石清水八幡宮社家たる善法寺家のことであります。
善法寺家。鎌倉期の頃から嫡流の田中家と共に、石清水の別当 = トップを担った家です。
のみならず、室町期には同家の紀良子2代将軍・足利義詮の側室となり3代将軍・義満を出産、
その縁ゆえか何なのか、義満は石清水をたびたび参拝し、石清水と幕府との関係を強化。
また、良子の母である智泉聖通は四辻宮善統親王の孫 = 順徳天皇の曾孫ともいわれたため、
義満の皇胤説が生まれる要因になったりと、様々な形で歴史に関連する由緒を持つ家でもあります。
あ、神社のトップが 「宮司」 ではなく 「別当」 となってるのが、妙に思われるかも知れませんが、
日本は明治維新に至るまで、神と仏が入り交じり習合しているのがそもそも基本的な信仰スタイル。
特に石清水八幡宮は、かつては 「石清水八幡宮寺」 と呼ばれるほど、その傾向が顕著でした。
山上の本殿には僧形八幡像がどっしりと安座し、その前では祝詞の声と読経の声が日々入り乱れ、
山内には 「男山四十八坊」 とOTK48的な呼称が生まれるほど、宿坊が林立してたわけです。
善法寺家もまた、社務を務める一方で山麓に寺院も建立しました。それが、善法律寺。
律の字が入ってるのは、律宗寺院だから。創建時に招いたのは、東大寺の僧だそうですが。
善法寺家の私邸を寺化して創建された善法律寺には、のちに玉の輿に乗った良子が紅葉を寄進。
ずっと時代が下って明治の神仏分離の際は、山上本殿の僧形八幡像が運び込まれました。
善法寺家は明治に還俗して名前を変え、以降どうなったか私は全然知らないんですが、
善法律寺は現存し、僧形八幡像と、そして良子由来の紅葉を護り続けています。
「紅葉寺」 という別名の由来ともなったその紅葉、観てきました。

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山鉾を一切見ずに2013年の祇園祭・山鉾巡行を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

2013年7月17日(水)


山鉾を一切見ずに祇園祭・山鉾巡行を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

菊地成孔+大谷能生 『M/D マイルス・デューイ・デイヴィスIII世研究』 では、
マイルスの最高傑作である 『Kind Of Blue』 について、一切言及がなされてません。
アーティスト研究を行う上で、外すことが絶対出来ない作品を、敢えて空白にするという、暴挙。
そして、対象の中心を隠蔽するその暴挙が、対象の本質をより浮かび上がらせるという、マジック。
よくわからんけど、そういうの、何か格好いい。よくわからんけど、そういうの、やってみたい。
という高踏極まる動機から、2013年の山鉾巡行追尾は、山鉾をほぼ一切見ずにやってみました。
祇園祭の顔、いや、京都観光のアイコンとも言える山鉾巡行の中心を、敢えて隠蔽する。
その暴挙により、京都観光、いや、京都そのものの本質を、浮かび上がせてみようと思うのです。
いやあ、格好いい。こんなことを思いついた俺、実に格好いい。うひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ。
えと、いや、あの、山鉾隠蔽には他にも一応、動機があります。後祭の復興が、そうであります。
観光集客力アップ+交通規制日削減+仕事止まるの堪忍しとくれやすなどの理由から、
元来は17日前祭+24日後祭の2回開催だった山鉾巡行が17日に一本化されたのは、昭和41年。
以来、巡行が持つ信仰の空洞化&周囲の馬鹿騒ぎ化は果てしなく進行したわけですが、
そんな高度経済成長期的アホアホメタボリズムを捨て、2014年、後祭が復活するのであります。
それは、当事者である山鉾町の人たちにとっては当然、悲願の旧儀復興となるのでしょう。
が、私のような外野の人間からすると、「昭和の無形遺産が消える」 という印象がしなくもありません。
馬鹿のような暑さの中で、馬鹿のような混雑の中を歩き回り、巡行後半は客の大半が半死半生。
そんな 「昭和」 な馬鹿騒ぎが、消えるかも知れない。そう思うと、少し寂しくなったのです。
という意味不明な感傷+先述の中二病+おまけに当日の天気も今イチで写真が撮りにくいため、
思い切って山鉾には目を向けず、肥大化の末に消えていく外縁ばかりを見つめてみました。
やはりマイルスのアルバム 『In A Silent Way』 の 「Shhh/Peaceful」 において、
テーマを全カットした編集が音響の新しい地平を開いたようなマジックが、ここでも起こるのか。
それとも、ただ単に 「肉抜きの牛丼」 みたいなもんに成り果てるだけで、終わるのか。
中心を隠すことで浮かび上がった本質、その目でお確かめ下さい。

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京町家一軒貸し宿泊処・懐古庵を一軒借りして、聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【3】

2012年12月24日(月)


町家・懐古庵を一軒借りしての聖夜、いよいよ最終回です。

子供の頃に見た町家は、ただただ暗い気分にさせられるものでした。
下松屋町通沿いに住む親戚の家は、古い壁に虫籠窓が開いた、ただ単に古い町家。
中もまたただ単に古く、狭くて暗くて圧迫感のある部屋、得体の知れない化物が並ぶ台所、
至る所から響いてくる木の悲鳴、そして何より家そのものから濃厚に漂う不気味なオーラを感じて、
子供心に 「こんな狭くて暗くて気味悪いところには、絶対住みたくない」 と思ったものでした。
あ、為念で言っておきますが、この頃の我家は4畳半&6畳のアパート暮らし。狭いもいいとこです。
にも関わらず、町家は狭く見えたのでした。それも、自分の家と比べて、狭く見えたのでした。
何かが、いるんですよ。何かが、あるんですよ。で、それが、空間を圧迫してるんですよ。
こんな原体験を持つためか、私は現在に至るも、町家が人気を呼ぶ理由が、よくわかりません。
元から住んでた人が、家を大事に想ったり、大事に使い続けようとするのはわかりますが、
「憧れの町家」 みたいな狂気のフレーズと共に、他所の人が有り難がる理由が、よくわかりません。
90年代後半あたりから、『超力ロボ ガラット』 の主題歌で有名な某女性作詞家を始めとして、
アート or オサレな連中が多く町家へ移住しましたが、あの感じが未だに受け続けてるんでしょうか。
あるいは、リノベのオサレさが受けてるとか。でもそんなの、すぐ陳腐化するしな。
ひょっとすると、町家ブームがここまで長続き&拡大してる理由は、オサレやリノベなどではなく、
私が子供の頃に感じた町家独特の不気味さみたいなものにこそあるのかも知れません。
オサレの影で生き続ける、何か。丸出しにされると引くけど、オサレに包まれると魅かれる、何か。
人間が凄まじく狭いところへ密集し、何世紀にも渡って生活しないと醸成されない、何か。
そんな何かが町家ブームの背後で暗躍してくれてると楽しいんですが、そんな戯言はともかく、
そんな何かがかなり丸出しになってる懐古庵でのクリスマス、いよいよ最終回です。
ラストは、夜散歩、炭酸晩酌、そして狂気の朝食まで、一気に突っ走ります。
孤独、寒さ、太鼓、そして白味噌と戦う様、とくと御覧下さい。

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石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。【2012年度版・後篇】

2012年9月15日(土)


2012年度の石清水祭、御花神饌からラストまでの後篇です。

石清水祭の旧名は、石清水放生会。
もちろん、八幡神の元宮である宇佐神宮の祭儀・放生会が、そのルーツです。
8世紀初め、律令制の徹底を目指した朝廷に対し、南九州の隼人が起こした叛乱を、
「おれが行く」 と、自分から言い出して戦場へ殴りこみ、殺戮の果てに鎮圧した、宇佐の八幡神。
しかし、殺された隼人の祟りは凶作を招き、八幡神は 「放生会で霊を慰めろ」 と、託宣。
「仏教の戒律に基づいた法会を神社で行う」 という八幡宮独自の祭儀は、ここに始まりました。
贖罪テイストが濃い端緒であります。が、別の見方をすれば、叛乱完全鎮圧の宣言とも言えます。
国的には結構、めでたい儀式になるわけです。律令制完成の、めでたい儀式になるわけです。
おまけに当時の朝廷は国を統一するため、土俗的な信仰を超越する仏教をゴリ推してましたから、
統一祝賀+仏教全開の放生会は、やがて国家的事業の性質も帯びるようになりました。
「おれが行く」 と、また自分から言い出して移座した石清水でも、放生会のそんな傾向は変わらず。
というか、都へ接近したことで神仏習合も鎮護国家もさらにブーストされる形となり、
皇室からは供花にしか見えない御花神饌なるものまで、お供え物として届くようになります。
古代染めの和紙で作られた造花による特殊神饌、御花神饌。別名、 供花神饌。
極めて珍しいこの神饌、実に戦前に至るまで御所から届いてたそうですが、戦後は途絶。
しかし近年、三笠宮彬子女王殿下が代表を務める団体・心游舎「御花神饌プロジェクト」 として、
一般から参加を募った子供たちと共に、神饌作りへ関わられるようになりました。
言ってみれば、ほんのちょっと旧儀に返ったような感じなのであります。
石清水祭2012後篇、その御花神饌から、スタートです。

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石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。【2012年度版・前篇】

2012年9月15日(土)


2012年の石清水八幡宮・石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

勅祭・石清水祭
京都の裏鬼門に鎮座する石清水八幡宮に於いて、9月に行われる例大祭です。
二所宗廟の一つとして朝廷から崇敬された経緯ゆえ、現在も旧儀に則って勅使が派遣され、
知名度は今イチながら、賀茂祭春日祭と共に 「三勅祭」 と呼ばれる、ロイヤルな祭であります。
以前も書きましたが、私はこの祭の舞台となる頓宮のすぐ近所で、生まれ育ちました。
しかし、貧乏な流れ者の子だったためか、石清水祭についてほとんど何も知らないままでした。
その欠落を埋めるべく、2011年は5000円のロイヤルな参列料を払って祭に参列し、
朝の2時からオール&ノンストップで続く祭儀を、食うものも食わず&寝るものも寝ずに見続け
その全てを全5回の超冗長な記事にまとめたんですが、しかし、勅祭はやはり、甘くない。
倒れかけながら全てを見尽くしたつもりでも、実際にはいくつか見落としがありました。
まずは、石清水祭独特のものと言われる、御花神饌。そして、放生会終了後の、舞楽奉納。
どちらも、前回見ようと思えば見れたものです。でも、見なかった。だって、死ぬほど眠かったから。
腹も死ぬほど減ってた。1秒でも早く、帰りたかった。なので、スルーしました。見落としです。
御花神饌はともかく、舞楽はさほど興味が無いんですが、でも見落としは見落としです。
というわけで、2012年度はこれらのフォローに終始。で、その他は思いっきり、適当。
参列料を払う金もないので、タダ見できるところばかりを、ひたすらダラダラウロウロしています。
なので、祭儀の詳細の方は前年の記事を御覧いただくとして、今回は空気のようなもの、
一般的な神輿大騒ぎな祭とは少し違う、石清水祭の雰囲気みたいなものを、
適当な写真&文から感じとってもらえると、幸いです。

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2012年の祇園祭・山鉾巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。【後篇】

2012年7月17日(火)


2012年の山鉾巡行追尾録、前篇に続き後篇です。

そういえば、2012年巡行では、放下鉾の喧嘩騒ぎがありました。
当日から 「放下鉾 喧嘩」 で検索して飛んできた人がいたので、何のことかと思ってたら、
鉾の保存会と囃子方の保存会が揉め、巡行の途中で囃子方が鉾から降りてしまったんだとか。
実は私、放下鉾から囃子方が降りてる現場を、数10mほど離れた所から見てました。
新町御池あたりで止まったまま動かず、後続の山にどんどん追い抜かれていく、放下鉾。
のみならず、通常は激しい尿意を催しても降りることが許されないという山鉾から、人が降りている。
変だな、とは確かに思いました。でも、近くに寄って事態を確認しようとは思いませんでした。
何故なら、面倒くさかったから。何故面倒くさかったかといえば、暑かったから。
もうね、何時間も直射日光浴びながらウロウロしてるとね、数10mを動くのもイヤになるんですよ。
あと、御池通自体が、暑いし。道が広くて日陰がないので、逃げ場がなくて、暑いし。
目もね、かすんできますよ。いや、見えてるんだけど、画像の信号が脳に届かない状態というか。
耳も、きつい。聞こえてるけど、聞こえてない。世界が、遠い。ちょっとした、離人状態です。
それくらい、暑かったんですよ。あんまり暑いと、下衆な好奇心って、蒸発するもんなんですよ。
多分、喧嘩の理由も多分、暑かったからですよ。暑いと、腹立ってきますもんね、うん。
と、狂ったイントロと共に、河原町通北上から山鉾解体に至るまでの後篇、スタートであります。
モチベーションと体力がダダ下がりの中、灼熱のストリートを這いずり回る感覚を、
またしても文章超手抜き+単なる写真の羅列状態で味わってください。

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2012年の祇園祭・山鉾巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。【前篇】

2012年7月17日(火)


2012年の祇園祭・山鉾巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

山鉾巡行、2012年度の追尾録でございます。
千年前から超過密都市であるため、疫病が死に直結する時代が長く続いた、京都。
梅雨明け+盛夏初頭あたりは特に怖い季節であり、氾濫する疫病の元・疫神を何とか祓うべく、
華麗な山車で街中を巡行し、厄神を吸引してまわることこそが、そもそもの山鉾巡行の本義でした。
その巡行が、疫神を祓うどころか疫人たる観光客を大量に呼び込むショーと化した時期こそ、
疫病の恐怖が消え、産業と観光重視の思想が前面化した、昭和の高度経済成長期。
17日 「さきのまつり」 +24日 「あとのまつり」 の二週またぎ開催だった巡行が17日に一本化、
ルートも大幅に変更され、現在生きてる大半の人にとっての 「山鉾巡行」 の形が出来たわけです。
しかし、昭和終了からもそれなりの時間が経ち、経済成長の夢もまた跡形もなく消え去った今、
山鉾町や行政など祭に関わる人たちの関心は、旧儀の復活の方により向いてます。
「さきのまつり」+「あとのまつり」 の二週またぎ開催早期復活が、現実的に協議されるようになり、
2012年の今回は、実に140年も休み山だった大船鉾が、巡行に復帰することになりました。
全てが 「例年通り」 のようでいて、実は激しく形を変え続けている、山鉾巡行。
ひょっとすると現行の昭和フォーマットでの巡行は、逆にあと数年で見納めとなるかも知れません。
正午を過ぎてからの疲労よ、さらば。無残なまでにカラッポになる有料席よ、さらば。
そんな哀惜の念を抱きながら眺めたというのは大嘘ですが、とにかく2012年も追尾です。
朝7時の飾りつけから14時過ぎの解体まで、延々と追っかけてみました。
あまりに暑過ぎて記憶が曖昧なため、ほとんど写真の羅列のみで恐縮ですが、
現場の興奮と猛暑と疲労を感じていただければ、幸いです。

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知恩院のミッドナイト念仏へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年4月18日(水)


知恩院のミッドナイト念仏へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「今夜はオールで、念仏三昧」 。
末法テイスト溢れるそんなセリフを、現実に実行する催しが、春の京都にはあります。
といっても、妖しきクラブへ妖しき者たちが集い、妖しき飛び薬を吸ったり打ったりしながら、
「ブッダ・トランス」 とかわけのわからぬ音源を聴いて不穏な法悦に浸る類のものでは、ありません。
また、さらに妖しき者たちが、人もまばらな山中をパワースポットなどと称して参集し、
アセンションだの次元アゲアゲだの言いつつ、念仏と共に朝日を迎える類のものでも、ありません。
催しの名は、ミッドナイト念仏。行われる場所は、かの浄土宗総本山・知恩院
そう、マジなのです。メジャー中のメジャーである寺にて、オールナイトで念仏が行われるのです。
真に末法の時代であった平安末期、旧来の仏教教団からの弾圧にも屈することなく、
南無阿弥陀仏を唱えるだけで救済される専修念仏を民衆に広く説いた、浄土宗開祖・法然上人
上人が没した地・知恩院ではその遺徳を偲ぶべく、忌日に合わせ御忌大会を大々的に開催。
法要に加え様々な行事も行われ、ミッドナイト念仏もその一環というわけであります。
真面目な催しなのです。名前はほとんど面白半分な感じですが、真面目な催しなのです。
真剣に念仏を唱える人々と共に、興味本位&冷かし丸出しの若者や、酔っ払いなどが入り混じり、
全員でポクポクと木魚叩いて念仏トランスを目指す様は、奇観といえば、確かに奇観。
しかしその混沌こそ、無差別の救済を目指した上人の御心に沿うものとも言えるのでしょう。
そんな懐の大きいミッドナイト念仏、今回私はフルで参加してみることにしました。
20時のスタートから翌朝の終了まで、途中日和ってますが、ぶっ通しでポクポクしてきました。
闇の中の念仏で、何を見たのか。その果ての光の中で、何を見たのか。
真面目に、かつ興味本位&冷かし丸出しで、御覧下さい。

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石清水八幡宮の厄除大祭・焼納神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年1月19日(木)


石清水八幡宮の厄除大祭・焼納神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

石清水八幡宮はその創建時から、明確に王城守護を目的としています。
平安京陰陽道に基づいて展開した怨霊防衛線構築の最終ステージにおいて、
裏鬼門守護の責を担うべく、パワフルで雄弁な神・八幡神を勧請して建てられた、国策神社。
そう、石清水は紛れもなく「国のための神社」であり、地元の言い方だと「お上の神さん」なわけです。
それゆえ明治維新の際に神仏分離令が出ると、「お上」からのお達しと慌てふためき、
山中の仏教施設を片っ端からブッ壊したり売り飛ばしたりもするわけですが、それはともかく。
しかし、そんな「お上」第一な石清水八幡宮にも、民衆と切り結ぶ接点は存在します。
それが、厄除。いわゆる厄年とか、厄ばらいとかの、厄除です。
こちらも元々は、京への疫神侵入を阻止する朝廷の祭祀「畿内十処堺疫神祭」が由来であり、
疫神社 = 現在の山麓頓宮に道祖神を招き、国家安泰を祈願する「お上」なものでしたが、
やがて民衆からの厄除信仰の方が強くなり、1月15日~19日の祭儀は「法会」という名でお祭り化。
京都や大阪から大挙して参拝客が押しかけ、それを目当てにした土産店なども多数立ち、
田楽・舞楽・相撲の奉納も行われるなど、それは大層な賑わいだったといわれてます。
神仏分離で石清水がズタボロ化したのちも、民衆ベースである厄除信仰は根強く持続したようで、
敗戦で戦勝の神としての名声を失ってもなお、「法会」だけはしばらく隆盛を保ったそうです。
現在は「厄除大祭」と呼ばれるこの祭儀、古代祭祀のルーツは18日に斎行される 「青山祭」 に残り、
「お祭り」テイストの方は期間最後の日に行われるこの焼納神事が担ってる感じでしょうか。
焼納神事は要するに左義長 or どんど焼きであり、規模もそこそこなもんですが、
厄除開運餅がタダでもらえるということもあり、結構人気があります。
そんな焼納神事へ、「法会」の残り香を嗅ぎに行ってきました。

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妙蓮寺宿坊で聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。【後編】

2011年12月25日(日)


クリスマス・イヴ@妙蓮寺宿坊、続きです。

日本人にとってのクリスマスとは、一体何だったのでしょう。
「だった」と過去形なのは、最盛期の馬鹿騒ぎが現在のクリスマスには、ないからです。
姦淫を以て主の生誕を祝う不埒の輩どもが地虫の如く涌いた、20世紀後半の日本。
飴玉をもらった子供のように浅ましく「聖」と「性」を貪る当時の熱狂は、現在はもう、ありません。
凡庸な性的レジャーとしてのクリスマスを楽しんだ凡庸な人間たちの多くは、
消費社会の成熟や不況の深化とともに、凡庸な家庭や凡庸な友人たちとの集いへ帰っていきました。
今となっては、本気で「クリスマスで何とかしよう」と焦る人など、きっと少数派なのでしょう。
「そんなことはねえっ!!!!!!!!!!」 「イルミネーションのプレッシャーは年々増す一方だっ!!!!!!!!!!」
「仮に恋愛プレッシャーはなくなっても、凡庸な家庭や凡庸な友人すら俺にはねえっ!!!!!!!!!!!!!」
と叫んでしまう同志の方もいるかも知れませんが、しかしそんな方でも、
クリスマスの拡散に伴う陳腐化と性的衰退は、心のどこかでしっかり感じているはずです。
私達の戦いの半分は、終わりました。土俵へ上がる前に。
残った敵は、別の何かに対する、別の浅ましさ。その浅ましさが、今なお、私達を叩き続けている。
そして、昔とは違う形の袋叩きとして、現代日本のクリスマスは機能し始めている。
そんな気が、しませんか。私はあんまり、しないんですけど。
というわけで、どういうわけかわかりませんが、宿坊の聖夜、前編に続き後編であります。
妙味爆裂のクリスマス和菓子を用いた狂乱のひとりパーティーから、
法華曼荼羅の世界へ導かれる朝のお勤めまで、妙なる聖夜をお楽しみ下さい。

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