北区 - ひとりでうろつく京都 (β版)

五山送り火の左大文字を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

2018年8月16日(木)


五山送り火の左大文字を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

五山送り火の火というのは、通常は、火元から割と離れた場所で眺めるもんです。
一般的には、大文字山のあの感じこそが、送り火で連想される距離感、ではないでしょうか。
北大路の辺から大文字を観る、あの感じ。闇の中に 「大」 の字が浮かぶ、あの感じ。みたいな。
確かに、あの風情 or 美は、火元から距離をとらないと、得られません。離れるわけですね。
風情 or 美の濫獲に走らず、真摯に信仰行事として五山送り火を考える場合も、事情は割と同じ。
お盆に現世へ里帰りした精霊 aka おしょらいさんを、あの世へ送り返すのが、あの火の本来の役目。
精霊は、火に近付いて祈れば祈るほどスムーズに帰れるわけでもないでしょう。離れるわけですね。
そんなこんなで、多くの人は通常、火元から割と離れた場所で、送り火を眺めるわけであります。
しかし、風情も美もおしょらいさんも関係なく送り火を追ってる当サイトとしては、事情はまた、別です。
「一晩で五山コンプ」 という愚行に何度も何度も挑むも、それら全てが失敗に終わり猛省した後、
「5年かけ、1年に一山ずつ観る」 と決め2015年より発動された、当サイトの五山送り火5ヵ年計画
初年度は大文字を、2016年は妙法を、そして2017年は船形万燈籠を、それぞれ拝んできました。
が、そうやって何度も何度も火を観るうちに私は、もっと近くで火を観たい、と思うようになったのです。
送り火当日に於ける送り火実施山への部外者の入山 or 侵入は、無論、固く禁止されています。
何せ基本は、宗教行事。 「大」 を 「犬」 にするような類の輩の闖入は、厳に戒められるべきでしょう。
けど、近くで観たい。で、この欲求を満たせる場所は、実はなくもありません。それが、左大文字です。
その名の通り、送り火のキービジュアル 「大」 を、大文字山の逆側で浮き上がらせる、左大文字。
金閣寺に近いため、駐車場から 「大」 のベースを目にした方も、多いんじゃないでしょうか。
あのベースの距離感が示すように、ここの送り火は、近い。望遠なら、焚く人が見える程、近い。
つまり、火そのものを、熟視出来るのです。想いが託される火の真実を、熟視出来るのです。
で、5ヵ年計画4年目の今回は、そんな左大文字で、火ばかりを見つめてみました。

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京町家 『鈴 紫野』 を借り切って聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2017年12月24日(日)


京町家 『鈴 紫野』 を借り切って過ごす聖夜、後篇です。

GHQ指導に因る財産税法制定まで、京都の町家は大半が借家だったといいます。
借家の大家を務めたのは、大きな商家など。住人の多くは、店子として町家に住んでたわけです。
祇園祭の運営に関する話とかで、よく耳にすることですね。 「店子は祭に参加出来ない」 的な。
そんなある種の階層社会の維持に励むと共に大家は、資産である町家の美観維持にも励んだとか。
資産というか、収入源ですし。こうした辺りからも、昔の町家の美しさは保たれてたそうであります。
が、財産税法制定の後、町家は、課税対象化。やがて大家の多くは、町家の借家維持が、困難化。
結果として、大家が店子に対して住んでる町家の購入を持ち掛けるケースが頻出したそうです。
恐らくは戦後に 「持ち家」 化し、家主により出鱈目な改装が施されたのであろう、昭和の町家の姿。
今なお街のあちこちで 「リアルな京都」 を感じさせてくれる、あの無秩序な看板建築町家の姿は、
実は、社会の激変に因るオーナー変更から生じた一過性の姿、と言い得るものなのかも知れません。
そう考えると、町家はそもそもが、流動性あるいは 「境界」 性を持つ建物とも思えてきます。
「継ぐべきもの」 として屹立し、愛着と共に疲労や悲しみを生むこともままある 「マイホーム」 ではなく、
大家は次の過客を呼び込むべく美観を整え、店子もまた各々の季節に伴って通り過ぎるという、
流動的でゆるやかで、ある種 「境界」 的である居住空間としての町家が、イメージ出来るというか。
いかにもな外観と単に暮らし易い中身を持つリノベ町家宿が、それらの直系とは言いませんが、
少なくとも、昭和後期に大量発生した生活感出し過ぎ改装の町家と同程度には高い一過性を持ち、
また、時代を生きる人々の 「何か」 も同程度に反映されたもの、とは言えるのではないでしょうか。
というわけで、そんな過剰なリノベによって何とも過ごし易い町家宿 『鈴 紫野』 での聖夜、後篇です。
後篇は、完備されたキッチンを駆使して京野菜を調理する晩餐、欠かせないクリスマスケーキ、
夜の精神戦を経て翌朝に不思議な音を耳にするまで、雪だるま君と一緒に一気に突っ走ります。
『鈴』 に相応しいジングルベルの音色は、果たして、鳴り響いてくれるのでしょうか。

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京町家 『鈴 紫野』 を借り切って聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2017年12月24日(日)


京町家 『鈴 紫野』 を借り切って聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

メリー・クリスマス!! 恒例のクリスマスひとりお泊まり企画、2017年度版でございます。
独への精神的外圧が最高潮となる夜、世間の馬鹿騒ぎへ背を向け独男として投宿することで、
異教宗主生誕を姦淫&浪費で祝う日本のクリスマスを批判し続けてきた、当サイトの聖夜企画。
しかし激戦を重ねる内、クリスマスが内包する太陽祭というルーツから 「境界」 なるテーマが浮上し、
そのテーマを追求すべく、平安京のスピリチュアル・ゲート 「四堺」 を押さえる形へと企画が変容。
で、郊外&僻地の宿ばかり転戦してたら、今度はインバウンド激増で街中の宿泊状況が激変した為、
「四堺」 コンプ後はこの新たな 「境界」 とも対峙すべく、都心へと戦線を回帰させ、市街戦を開始。
前回となる2016年は、正に京都の真ん中である柳馬場三条下ルの簡易宿所・三条右近橘へ泊まり
京都と全然関係ない小津の映画を観たりもしながら、新たな 「境界」 との激戦を繰り広げたのでした。
というわけで、今回2017年度のネタは、その新たな 「境界」 を見据えるシリーズ、第2弾であります。
出向いたのは、京町家 『鈴 紫野』株式会社レアルが運営する、一棟貸しの町家宿です。
そう、町家です。町家宿は2012年聖夜も泊まってるので、いわば町家ネタとしても第2弾であります。
2010年代後半に入っても京都のインバウンド増加は全く止まらず、宿泊施設は圧倒的に不足し始め、
一時的なヤミ民泊の隆盛&衰退に続き、合法の簡易宿所や町家宿が大増殖するようになりました。
特に 「町家に泊まった」 というコト消費&リノベしまくりの利便性を併せ持つ町家宿の勢いは凄く、
町家の保存&簡便な室数確保が両立出来ることもあって、とにかく雨後の筍の如く増えまくってます。
中でも増えてるのが、 『鈴』 『Gest House Rinn』 などのブランドで展開されてる、レアルの町家宿
物件買い取りの為かKBS京都に企業CMも打ってたので、地元の知名度もあるんじゃないでしょうか。
で、その 『鈴』 群の中で、2017年12月24日に一番安く予約出来たのが、今回泊まった 『鈴 紫野』 。
名が示す通り、 西陣の端とも言える紫野の、極めて庶民的な街の中に立地する宿であります。
そんな 『鈴』 、2012年以来の雪だるま君と共に、ジングルベルな気分で借りてみました。

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五山送り火の船形万燈籠を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

2017年8月16日(水)


五山送り火の船形万燈籠を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

『京都人は日本一薄情か 落第小僧の京都案内 (倉部きよたか・著) 』 という、
死ぬほどしょうもない書名の割に案外面白い本では、 「賀茂人」 なる概念が提示されてます。
賀茂族」 ではなく、 「賀茂人」 。 「上京人」 「下京人」 と共に 「三京人」 を構成する、 「賀茂人」 。
上賀茂から西賀茂にかけての洛北・賀茂エリアに住むネイティブな人を、そう呼ぶというわけですね。
この賀茂の地はそもそも、上賀茂神社神領として平安遷都の以前から賀茂族が統べていた地。
中世以降は色々ごちゃごちゃしますが、とにかく上京や下京とは異なる歴史的経緯を持つエリアです。
で、倉部氏が同書で言うには、こうした経緯が 「賀茂人」 の気風を独特なものにしてるんだとか。
「適当な思いつき」 と、思われるかも知れません。が、私には、結構当たってる所もあると思えます。
賀茂、特に御薗橋以西の西賀茂の雰囲気は、確かに京都のどのエリアとも違い、何か独特です。
長閑な田畑が残る辺と、ゆえに開発が進んだ宅地の景観が入り混じる辺は、いかにも郊外的ですが、
そこに、他の京郊にはない雰囲気、何かしらどよ~んとした雰囲気が、立ち込めてるというか。
京郊にして元神領の八幡に住む私は、その辺に、強い親近感と違和感を同時に感じたりするのです。
で、船形を拝みに行ったこの日の西賀茂もやはり、何とも独特な雰囲気が立ち込めてたのでした。
自転車珍走などの阿呆な手段で幾度も五山のコンプリートへ挑むも、それらの全てが失敗に終わり
猛省の後に 「5年かけて、1年に一山ずつ見る」 と発動された、当サイトの五山送り火5ヵ年計画
初年度の2015年はまず本丸である大文字を、2016年は超豪雨の中で妙法を拝んできたわけですが、
3年目の今回訪れたのは、西賀茂・西方寺の檀家さんが点火を担うという、船形万燈籠であります。
西方寺を開いた慈覚大師・円仁が、留学先・唐からの帰国時に阿弥陀如来を召喚した船を表すとも、
精霊 aka おしょらいさんが現世からあの世へ帰る際に乗る燈籠流しの舟を表すともされる、船形。
西方寺での六斎念仏と、そして 「賀茂人」 が愛するサカイの冷麺と共に拝んだその送り火は、
やはり西賀茂独特の雰囲気と温度感の中で、独特な輝きを放ってたのでした。

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御霊神社の御霊祭へ5年連続で行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2016年5月18日(水)


上御霊神社の御霊祭へ5年連続で行ってきました。もちろん、ひとりで。

当サイトは、取材した全てのネタを、記事化してるわけではありません。
写真もメモもあるけど、記事にしてない。そんなケースが、全取材数の2割はあるでしょうか。
写真が今イチだとか、作る時間がないだとか、様々な理由でまあ、ペンディングしてるわけですね。
中には、 「毎年のように追尾していながら、今もって未記事化」 なんて祭も、なくはありません。
そのひとつが、御霊祭だったりします。それも、未記事化のまま、実に5年連続で追尾してたりします。
御霊祭。その名の通り、御霊神社の祭です。上と下がある御霊神社の内、上御霊神社の祭です。
最初にこの祭を追いかけたのは、2012年でした。で、上京を進む神幸列に、強い感銘を受けました。
また今出川口・小山郷・末廣会の神輿3基にも、強い感銘を受けました。が、写真が今イチでした。
なので、翌2013年も追尾しました。すると、神幸列も神輿も、前年とは全く違うルートを巡幸しました。
街中を進むあの感じを再び見たいと思い、2014年も追尾すると、巡幸ルートはまた全く別でした。
「なるほど、神輿が3基あるから氏子域も3つ存在し、ゆえに巡幸ルートもまた3通りあるのだ」 と考え、
ゆえに2015年は2012年と同ルートと踏み、四度追尾に挑むと、ルートはまたまた全く違いました。
で、2016年にはもう逆に、新ルートを楽しみに追尾へ出かけたら、今度は2012年と同じルートでした。
で、ああ4年周期かと納得し、ある程度の概観を得たとも考えて、今回の記事化に至ったわけです。
これだけ御霊祭の追尾を続けたのは、祭が持つ独特の雰囲気が一番の理由ではありますが、
5月18日に固定された開催日程と、巡幸範囲の手頃なサイジングもまた、理由の一部ではあります。
日程が固定だと、平日開催の年が当然多く、時間の都合がつかずに見落としが出るんですよね。
あと巡幸範囲は、かなり広いものの基本は街中であり、無理をすれば完全追尾も可能なんですよね。
そんなこんなで、追尾を5年もやってしまいました。で、記録も山のように溜まってしまいました。
というわけで当記事は、山のように溜まったその記録をフル活用すべく、時空を超えてシャッフルし、
ルートに拘らず、祭の大体の流れ+独特の空気感を伝えることを主軸に、まとめてみました。
「空気感とかいいから、ルート教えろ」 という方は、自力で調べて下さい。

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五山送り火の大文字を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

2015年8月16日(日)


五山送り火の大文字を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

五山送り火。ござんのおくりび。間違いなく、京都の夏に於ける最大級の風物詩です。
お盆に際し現世へ帰って来た精霊 aka おしょらいさんを、再び冥界へ送る万灯籠の習俗が、
花の都で様々な影響を受け大規模化した末、闇夜にページェントを現出させるに至った、送り火。
炎で描かれた 「大文字」 「妙法」 「舟形」 「左大文字」 「鳥居形」 が街を囲むそのビジュアルは、
本来の目的たる信仰を集めると共に、 「夏の風物詩」 の枠を越え京都観光そのもののアイコン化。
ホテル屋上で酒の肴に眺める仏罰必定の輩から、五山コンプへ挑む自転車の珍走団に至るまで、
様々な阿呆に阿呆な意欲をも湧かせる巨大イベントとなっていることは、誰もが知る所でしょう。
そんな五山送り火、京都の超メジャースポットへの単独正面突破をモットーとする当サイトとしては、
本来なら絶対に見逃すわけにはいかない、何を差し置いても押さえておくべき行事ではあります。
しかし、これまで当サイトに送り火記事は、存在しませんでした。あらゆる形で、存在しませんでした。
決して、避けてたわけではありません。被災木材拒否でウンザリし、避けてたわけではありません。
逆です。ネタの採取は毎年、敢行し続けてきたのです。そして、全てに失敗し続けてきたのです
採取を始めた2011年は、自転車による五山コンプに挑むも、嵐山へ珍走する途中で、タイムアウト。
2012年は、懲りずに自転車でコンプに挑むも、北山通の混雑で躓き、舟形の手前で貧血ダウン。
2013年は、混雑回避を考え、敢えて徒歩&公共交通機関で挑むも、妙法を過ぎた辺で早速、アウト。
2014年は、発狂して全徒歩コンプに挑むも、大文字以外全アウト。と、失敗し続けてきたのです。
そして、各山の点火時間が繰り上がった2015年、私は流石に考えました。コンプはもう、止めようと。
むしろ、1年に1山ずつ回る方がまだ、いいかも。その方が、うちには、合うかも。そうだ、そうしよう。
というわけで当サイトは、五山送り火を5年かけてコンプする5ヵ年計画の発動を、ここに宣言します。
計画発動期間中、彼女が出来てサイト更新を辞めたり、または私が死んだりするかも知れませんし、
外出の面倒さから年数が6ヵ年とか8ヵ年とかに化ける可能性もありますが、とにかく宣言します。
で、記念すべき5ヵ年計画初年度のターゲットは無論、大文字。東山・如意ヶ嶽に浮かぶ、大文字。
「大文字焼き」 なる呼称さえ生んだ、五山送り火にとってキービジュアル的な存在の山です。
この大文字を、出町から北大路までの大混雑する加茂川西岸から、拝んでみました。

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上賀茂神社へ鳥相撲を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年9月9日(火)


上賀茂神社へ鳥相撲を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

重陽五節句の中でも、正直、浮かばれない印象が否めない節句です。
3月3日は、上巳の節句で雛祭5月5日は、端午の節句。そして7月7日は無論、七夕
ついでに言えば、1月1日・元旦の代わりたる1月7日もまた、人日の節句ということで七草粥と、
五節句を構成する他の節句がかなり or それなりの人気と盛況ぶりを見せてるのに対して、
9月9日の重陽の節句は、現状としてはぶっちゃけ、人気以前に認知度さえ高いとは言えません。
数多ある節日の中から奇数のゾロ目日を選び、室町期の頃から祝されていたという、五節句。
江戸期に入ると幕府公認の祝日 = 式日となったことで、民衆から圧倒的支持を受けるようになり、
明治維新の際に公式には廃止されるも、雛祭&端午の節句&七夕は継続して人気を獲得。
根強いのであります。ターゲットが子供だからか何なのか、他の節句は実に、根強いのであります。
しかし重陽は、仲秋の名月に押され気味なのか何なのか、若干、浮かばれないのであります。
菊花を浮かべた菊花酒で、長寿を祝う節句であるにも係わらず、若干、浮かばれないのであります。
そんな不遇さに同情するのか、または宮中行事として菊花宴が催された実績を重視するのか、
あるいは 「明治以降のものは基本、全否定」 という集合無意識による闇のフォースが作用するのか、
京都では超メジャー級を含むいくつかの寺社が、この浮かばれない節句を祝う行事を開催。
世界遺産・上賀茂神社で9月9日に行われる鳥相撲 (からすずもう) も、そんな行事のひとつです。
祭神・賀茂建角身命が、東征する神武天皇を八咫烏に変化し導いた伝承を持つ、上賀茂神社。
その祭神の祖父・賀茂建角身命が、神に相撲を上覧したことに始まるともされる烏相撲は、
刀禰が横飛び+鳥鳴きを披露し、子供相撲が同時開催されるという、実に不思議でのどかなもの。
とはいえ、雅な由緒をアピールするためか、葵祭の花形・斎王代がオブザーバーとして参列し、
さらには菊花酒の振る舞いが行われることもあり、不思議ながらも人気が高い行事となってます。
子供相撲が写真アップ禁止ゆえ、何やってるか全然わからんビジュアルが続く内容ですが、
とにかくそんな不思議な鳥相撲、菊の露の香りを感じながら御覧下さい。

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平野神社の桜花祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年4月10日(木)


平野神社の桜花祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

平野神社の周囲はかつて、辺り一面が長閑な農地だったそうです。
住宅地&西大路通&そこを通る立命●●学生に囲まれる現在からは想像が困難ですが、
佐野藤右衛門分厚い桜本によると、実に昭和初期に至るまで農村の雰囲気は残ってたとか。
へ~、という話ではあります。ただ 「元農村」 が全く想像つかないかといえば、そうでもありません。
すぐ隣の北野天満宮には、道真以前から五穀豊穣を祈願する雷神信仰が存在したというし、
秋のずいき祭に登場するずいき神輿などは、正しくこの地の旧来の風土性を現在へ伝えるものです。
で、そんな 「農」 or 「土」 なこの地の歴史と性質を感じさせてくれるもう一つのエレメントこそ、
当の平野神社の名物 or アイデンティティ or レゾンデートルとして有名な、桜ではないでしょうか。
「平凡苗字神社」 と、当サイトで阿呆なタグをつけてるほど平凡な苗字の如きその名に反し、
桓武天皇によって平安遷都と同時に奈良から勧請された、極めてロイヤルな由緒を誇る、平野神社。
名物の桜もまた、花山天皇による手植えに始まるという、ロイヤルな由緒を誇るものであります。
応仁の乱の際には、西軍の拠点に近いため一度は社殿や領地ごとズタボロと化しましたが、
江戸期に至ると、宮司として社の再興を果たした西洞院時慶が、現在のベースとなる桜苑を整備。
さらに近くの西陣が織物で隆盛を誇り始めると、西陣に密着した桜の名所として、発展を果たしました。
故にというか何というか、私にはいかにも京都的な 「街中の桜」 に見える平野の桜ですが、
戦後すぐの頃は桜樹を取っ払って芋が植えられたというくらい、元来この土地は肥沃なのであり、
桜も芋も育んだその肥沃さは、農地に囲まれてたかつての時代に醸成されたものかも知れません。
そんな平野神社、桜シーズンの真っ只中に、祭を開催してます。その名もずばり、桜花祭。
花山天皇の時代に始まったとも言われてる祭礼を、大正期に復活させる形で開始されたこの祭は、
恐らく明治の上知以前の神領地だったエリアを、古式に則った祭礼列が回るというもの。
都市化された元の農地を、まるで桜を育んでくれた礼をするように、神が巡幸するわけです。
そんな桜花祭、ユルく追尾すると共に、桜苑もユルく鑑賞してきました。

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夏越祓の茅の輪をまたまたくぐりまくりました。もちろん、ひとりで。

2013年6月30日(日)


夏越祓の茅の輪をまたまたくぐりまくりました。もちろん、ひとりで。

いい歳をした、独男。その、穢れ切った精神と肉体。
肉体はあらぬ快楽で怒声を上げ続け、魂は無力感と万能感の狭間で腐り続け、
さらには、腐臭漂う己の生き様を、ネットを通じてなるべく広範に伝染させようと目論み、
自意識の臭気を汁にして目から飲ませるような暑苦しいサイトを作り続ける、筆の生えた糞袋。
そんなカス野郎の、穢れに穢れた穢れを祓おうとするなら、普通の祓いでは全く足りません。
質的にも量的にも肥大した糞袋っぷりを糺すには、質的にも量的にも肥大した祓いが必要なのです。
そう、例えば、大祓に用いられる茅の輪を、大量に、かつ連続して、くぐりまくるとか。
半年分の穢れをくぐり一発で祓うスピリチュアルリング = 茅の輪を、立て続けにくぐりまくれば、
あるいは独男の穢れ切った精神と肉体も、穢れなき少年のような輝きを取り戻すかも知れない・・・。
そんな藁をも掴む気持ちで、神社を求めウロウロ徘徊する夏越祓の茅の輪くぐりまくり、
2013年度上半期も、湿気爆発な梅雨真っ盛りの京都を舞台に、しっかりやってしまいました。
魂の救済というテーマを掲げ、でもやることは単なる街ブラ&嘘スピリチュアルという外道なこのネタ、
2011年度は東山周辺を中心に2012年度は堀川通を中心に、それぞれ徘徊しましたが、
2013年度のメインターゲットエリアは、一大観光地・嵐山をスタート地点とする、洛西・右京区。
理由は、特にありません。東と真ん中を攻めたのか、今度は西方面かな、と。そんな感じ。
また、厳密に西へこだわったわけでもなく、最後には北野一帯へ流れ付いたりと、極めて適当です。
が、適当に歩いても尚、かなりなボリュームの神社にかなりの頻度で遭遇する京都の濃さ、
そしてそんな濃さの中で息づくネイティブな匂いみたいなものは、多少は感じてもらえるかなと。
それでは半期に一度のスピリチュアル・デトックス or 存在の膿の大棚ざらえ、
梅雨真っ盛りの不快極まる梅雨空ですが、さあ、出発しましょう。

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上賀茂神社の賀茂競馬へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年5月5日(日)


上賀茂神社の賀茂競馬へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

Godspeed You 。ゴッドスピード・ユー。
「あなたの成功を祈ります」 「幸運を祈ります」 みたいな意味のフレーズです。
が、語尾に 「Black Emperor」 と付けると、暴走族映画のタイトルに化けてしまう通り、
日本ではその筋の嗜好と思考を持つ方々から重用され、高い認知度を誇る慣用句であります。
「God」 + 「speed」 。故に、 「神速」 。DQN的なセンス溢れる誤訳とは言えるでしょう。
しかし、それが本当に単なる誤訳、脊髄反射レベルの誤訳に過ぎないとは、私は思いません。
むしろ 「Godspeed」 という言葉の深層には、神とスピードの間にある親和性が潜むと考えます。
「宇宙で神に遭遇した」 とか言い出し、後には教団へ入ったりした、どっかの宇宙飛行士。
「S字で神を見た」 とか言い出し、後には自分も天高く昇天してしまった、どっかの音速の貴公子。
現代であっても、死と隣り合わせの速度の中にいる人たちは、何かと神を感じがちです。
モータリゼーション皆無時代の人々なら、その親和性に一層、敏感だったのではないでしょうか。
多くの神社で行われる、馬の奉納。または、競馬等の形式で行われる、馬の速度そのものの奉納。
それらの伝承は、私たちに 「Godspeed」 的なる何かを、力強く語りかけてる気がします。
神は、スピードである。スピードは、神である。そんなこと、感じたことはありませんか。
と、別の意味のスピードが好きな人が聞いたら、瞬間冷凍で大喜びそうな与太話はともかく、
京都の神社で馬が爆走するといえば、競馬の神様・藤森神社の駆馬神事が、あまりにも有名です。
が、駆馬神事と同じ5月5日に、葵祭の前儀として行われる上賀茂神社・賀茂競馬もまた、有名。
平安期の宮中武徳殿に於いて、端午の節会に行われたという 「くらべうま」 に始まり、
賀茂氏人が引き継いだ後も、現在に至るまで雅なるマナーで受け継がれてきた、賀茂競馬。
しかし、神のために爆走する馬が発するスピード感、そして衝撃波の如き音と風は、
単に雅なだけの鑑賞神事ではない、 生々しいまでの 「Godspeed」 を感じさせてくれます。
そんな賀茂競馬、奮発して千円のセレブなる有料席で観てみました。

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大宮交通公園へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年4月5日(金)


大宮交通公園へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

大宮通の北端と聞いて、貴方はどの辺りを連想するでしょうか。
本来は御所の隣を通るが故にその名が付けられた、正に都を代表する通であり、
さらには平安遷都以前から存在して都市計画の基準になったとも言われる、大宮通、その北端。
私の場合、恐ろしいことに、四条大宮を連想します。知識と関係なく、四条大宮を連想します。
御存知の方は御存知でしょうが、大宮通、あそこで北へ向かって急に細くなるんですよね。
大きい道は、市電由来の何かよくわからん斜め道となり、その先で千本通と合流してしまうという。
サウス民であり、自転車で毎日のように東寺から大宮通を北上してた時期もある私は、
その 「急に細くなる」 印象ゆえ 「大宮通は四条大宮で終わり」 と反射的に考えてしまいます。
もちろん実際の大宮通は、二条城に寸断されたりしつつも北へ向かって細長く続き、
上京を越えた辺からは 「新大宮商店街」 という名のダラダラ果てしなく続くユルい商店街を形成、
確認したことはないですが、とりあえず御薗橋近くのどっかで北端に達するわけです。
が、生活圏が全然違う私は、あんな北の方まで大宮通が続いてることに、正直、混乱します。
そして、その北端近くに大宮交通公園なるものがあることにも、正直、混乱します。
大宮で 「交通」 といえば、四条大宮じゃないか。阪急と嵐電を乗り換える、四条大宮じゃないか。
トロリーバスの始発点だった、四条大宮じゃないか。市電車庫が近くにあった、四条大宮じゃないか。
市電の車庫はバスの車庫から操車場になり、その傍には 「ベンガル湾」 というカレー屋があって、
あそこあまり美味くはなかったけど出来ればもう一回食いたいぞの、四条大宮じゃないか。
と、全くどうでもいいことを書いてるのは、大宮交通公園に関して何も書くことが無いからですが、
では、何故そんな興味のない公園へ行ったかといえば、ここの桜がなかなか見事だから。
何といっても植えたのが、桜守・佐野藤右衛門。1969年の開園時に植えたとか。
植樹から30年という良い頃合の時が経ち、現在の桜は正に良い頃合。
そんな桜、児童と保護者だらけの中、観に行ってきました。

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西陣桜めぐりをしてみました。もちろん、ひとりで。

2013年4月4日(木)


西陣桜めぐりをしてみました。もちろん、ひとりで。

西陣。言うまでもなく、「織物の街」 です。
平安期は宮廷の 「織部町」 として、鎌倉期は公家や武家相手の 「大舎人町」 として、
そして応仁の乱以降は、山名宗全が本丸を置いた西陣跡で再建されたために 「西陣」 として、
現在に至るまで京都 or 日本の工芸技術 or 文化を代表する 「織物の街」 であり続け、
あり続けるがゆえに、色んな事が色々大変になってたりもするエリアであります。
そんな西陣の生み出す西陣織といえば、生産工程が高度に分業化されてることで、有名です。
で、分業化してると、当然というか何というか、お互いが近所に住んでる方が便利なので、
織物に関連したあらゆる業種の人たちが密集して暮らしてることでも、有名です。
現在は工場が郊外へ出たり、産業自体のが衰退したりで、往年の密集感はありませんが、
町並にはその名残が濃厚に残っており、特に残り香を感じさせてくれるのが、寺ではないかな、と。
人間が密集して生活するとなれば、昔の 「生活必需品」 だった宗教も入り用となるわけで、
西陣にはかなりの密度で、寺が、それも町衆からの信仰が篤い法華宗の寺が、林立してます。
それらの寺の多くは、観光化されるわけでもなく、檀家以外立入禁止というわけでもなく、
でも小さな寺から本山クラスの寺に至るまで、どこも不思議な現役稼働感みたいなのが漂ってて、
よそ者である私としては、その辺に何となく西陣独特の雰囲気を感じるというか。
そんな西陣の寺には、やはり観光化されるわけでもなく、身内以外見所がないわけでもない、
実に程良いサイジングで、程良い味のある桜が、あちこちでさりげなく咲いてます。
立本寺の桜にすっかり気を良くしたので、そんな西陣の寺の桜、愛でて回ってみました。
密集してるがゆえに、徒歩で楽にこなせる桜巡り、お付き合い下さい。

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金閣寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年11月25日(日)


金閣寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

「また焼いたるぞ」 。
昭和25年7月3日、21歳の学僧による放火で金閣が全焼した翌日、
住職・村上慈海との会見を許された産経新聞記者・福田定一、のちの司馬遼太郎が、
庫裏の黒板に書かれてるのを見て 「異常な気分になった」 という言葉です。(水上勉 『金閣炎上』
再建前の金閣が、狂気に近い嫉妬を駆らせるほど美しかったのか、私にはよくわかりません。
水上三島の作品で、紙面から精液の匂いがしそうなほど独男的に描かれた学僧の、
恐らく実際その通りであっただろう心の内も、わかるような気はするけど、正直よくわかりません。
でも、その場の勢いで思わず黒板に 「また焼いたるぞ」 と書いてしまうような、
ボンクラ極まる調子乗りたちの持ってた 「異常な気分」 は、少しわかるような気がします。
超メジャーな観光寺院として金が入りまくり、宗教面と齟齬を起こしてたという、当時の金閣寺。
そんな矛盾の中で、札束の海へ泳ぐのでもなく、放火テロで腐敗を弾劾するのでもなく、
時折憂い、時折おちょくり、時折怒ったりしながら、その場にへばりつき続ける、大半の凡夫たち。
その姿は、歴史や文化に深い愛情や尊敬の念を抱くと共に、冷笑&嘲笑もやらかし、
「金にならんかな」 てなことも思いつつ、こんなサイトやってる自分と変わらぬものに思えるのです。
と同時に、凡夫に支えられ、焼かれることもなく、美を提供し続ける再建金閣そのものが、
金欲と信仰の矛盾の真っ只中を生き、伝統を誇りながらも実は大して古いものはない京都の、
美の側面と俗の側面を極限までデフォルメした自画像のようにも思えたりするのです。
ある意味で、金閣は最も京都的な寺なのかも知れません。故に、地元からは忌避されるという。
あなた、そう思いませんか。全然、思いませんか。実は私も、あんまり思いません。
そんな金閣、秋の紅葉大混雑シーズンに、銀閣に続き特攻してみました。
炎のような紅葉に囲まれた美と俗の様、ご覧ください。

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等持院へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年11月21日(水)


等持院へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

かつて時代祭「室町時代」 はありませんでした。
理由は、室町幕府を開いた足利尊氏が、天皇に刃を向けた 「逆賊」 だから。
いや、冗談ではありません。本当です。 「逆賊」 ゆえ、実に2007年に至るまでなかったのです。
金閣寺&銀閣寺という超キング級の観光資源を残し、多くの文化が花開いた、室町時代。
親族間の揉め事から都市を焼き尽くすという鬼畜の所業・応仁の乱もやらかしてはいますが、
何であれ、京都にとって極めて重要な時代であることは、疑う余地がありません。
しかし、時代祭に 「室町時代」 はなかった。祭が開始されてから100年もの間、なかった。
もちろん、開始された明治期における尊皇の風潮は無視できませんが、それを全て差し引いても、
京都における室町時代、いや足利尊氏の影の薄さ・人気の無さは、なかなかなものです。
尊氏、そして歴代足利将軍の墓が祀られる等持院にも、そんな不人気は、色濃く反映されています。
天龍寺創建で組んだ夢窓疎石と共に、尊氏が、兵士を祀るため作り上げた、等持院。
実に立派な寺ですが、かつてここで修行していた水上勉『私版京都図絵』 でボヤいてる通り、
財政の悪化した寺は境内の土地を次々と切り売りして、周囲は民家が林立&完全包囲。
庭園の向こうには立命館の学舎が奇怪な借景を演出し、墓地もまた分断。ある意味、凄いです。
伽藍も映画へ貸し出して、日本映画の父・マキノ省三はここに 「等持院撮影所」 を設立。
おかげで、境内にはまるで開基のような顔でマキノ先生像が屹立しています。
尊氏さんよ、これではあんたがあまりにも可哀想だ。あんたは結構、いい仕事したんだよ。
そんな思いを、尊氏の墓へ伝えるために等持院へ赴いた、というのは全く嘘で、
ただただ紅葉を観るためだけに出かけたのでした。

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今宮神社のやすらい祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年4月8日(日)


今宮神社のやすらい祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

やすらい祭。漢字にすると、夜須礼祭。
広隆寺の牛祭、鞍馬の火祭と共に、京の三奇祭に数えられる今宮神社の祭りです。
遷都以前から紫野の地にあり、既に疫神が祀られていたとも言われる今宮神社ですが、
本格的に疫病退散を祈願されまくるようになったのは、人間密集都市・平安京が成立して以降。
遷都の頃はまだ水が残ってたという元・湖の盆地なんかへ、大量の人間が密集して住んだため、
暑気+洪水+死体腐敗などの合わせ技が発生、この街には伝染病が流行りまくります。
特に春から夏かけては人がバッタバッタと死にまくりますが、当時の人々には何ら打つ手はなし。
しょうがないので、この災厄を疫神の仕業と断定。そして、この疫神の慰撫を企画。
風流や歌舞音曲で疫病を鎮めようと、あちこちの神社でお祭り騒ぎを開くようになりました。
それが、御霊会。平仮名だと、ごりょうえ。祇園祭のルーツと言われる、あれです。
祇園祭は山鉾などが過激に発展し、街が一ヶ月丸ごと祝祭空間化する現代の形になりましたが、
やすらい祭は、もう少しクラシックな御霊会の形を現代に継承してると言われてます。
桜や椿を挿した、山鉾のアーキタイプたる花傘。赤毛や黒毛を振り乱して路上で乱舞する、大鬼。
そして、ブルージーなメロディで 「や~す~ら~い~は~な~や」 と歌われる、やすらい歌。
やすらい祭の名物とも言えるそれらが放つ、実にストレンジで 「奇祭」 な雰囲気は、
一条天皇の時代に船岡山で開かれて以来、ずっとこの地に残ってる御霊会本来の息吹を、
ある意味、形式以上のリアルさをもって伝えているのかも知れません。
そんな 「奇祭」 の空気、たっぷりと堪能してきました。

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高桐院へ紅葉を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

2011年12月4日(日)


高桐院へ紅葉を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

高桐院
美しき禅寺・大徳寺の、美しき塔頭です。
秀吉による信長の菩提寺・総見院の建立以降、大徳寺では武将の塔頭建立が相次ぎますが、
こちらの高桐院もまた、細川忠興 aka 三斎が、父・幽斉の菩提所として創建。
戦国時代きっての冷徹な智将にして、キリシタン&明智光秀の娘・ガラシャを嫁とし
隠居後は茶の道も究め三斎流の開祖ともなった、細川忠興。
かの千利休は、利休七哲の一人として認めるほどこの三斎が気に入ってたようで、
こちらの高桐院には利休邸からの移築されたと伝えられる書院・意北軒が残り、
また、北野大茶湯のために作られ利休の茶を忠実に継承したとされる茶室・松向軒も、設置。
さらに利休は、自らの灯籠を三斎の墓塔として贈り、これを気に入った秀吉が横取りしようとすると、
「こっちの方が風流だ」と塔の一部を削るなどという、実に性格の悪いことをやらかしたそうです。
心温まるんだか温まらないんだかよくわからんそんな数々の伝承と共に、
三斎&ガラシャ、三斎の三回忌に殉死した興津弥五衛門、そして何故か出雲阿国が眠る、高桐院。
年中無休で拝観謝絶の塔頭が多い大徳寺にあって、こちらは常時、拝観を受入。
もちろん紅葉シーズンも開いてます。そしてもちろん、混みます。
紅葉がすっかり落ちた頃に出かけましたが、それでも全然、混んでました。

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鷹峰の源光庵へ紅葉を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年11月25日(金)


鷹峰源光庵へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

迷いの窓。そして、悟りの窓。
片や人間の生涯の四苦八苦を表す、角窓。片や大宇宙や真理を表現する、丸窓。
の哲学を具現化したこの二つの窓で知られるのが、北区鷹峰に立つ禅寺・源光庵であります。
1346年に臨済宗大徳寺二世の徹翁義亨が隠居所として創建しましたが、のちに荒廃。
時代が下って1694年、加賀国大聖寺の曹洞宗僧侶・卍山道白によって再興され、その際に改宗。
再興後に再建された本堂には、廃城となった伏見城の遺構である血天井が流用され、
養源院宝泉院正伝寺などと並ぶ「京都血天井めぐり」のスポットとしても、有名です。
禅が全開の、窓。そのピュアな精神性を諸行無常にブーストする、血天井。
そして「鉄道なし+バス少なめ+坂めっさキツい」という、単純にアクセス不便気味な立地条件。
本来は、なかなかに渋好みな寺なわけです。実際、普段は本当に渋好みな寺なわけです。
が、秋になったら窓の向こうに紅葉が見えてしまうもんから、もう大変。
額縁効果が効いた紅葉を見よう or 撮ろうと、観光ハイで生老病苦も忘れたツアー客の方々が、
大型バスに乗り大挙してやってくるスポットになり果ててしまうのであります。
そんな源光庵、今年は今いちではあるものの、わざわざ紅葉のピークに訪れてみました。
人間だらけの状況で、迷いの窓と悟りの窓は、どんな相貌を見せてくれるでしょうか。

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相生餅・新町店へあん餅うどんを食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年11月20日(日)


相生餅・新町店であん餅うどんを食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

「あん餅うどん」。
そう聞いて、かなくま餅福田「あん餅雑煮うどん」を思い浮かべたあなたは、うどん者ですね。
アンコの入った餅を白味噌で煮込む、香川独特の郷土料理・あん餅雑煮
それを強引にうどん化した西讃の猛者、香川県観音寺・かなくま餅福田の「あん餅雑煮うどん」。
私、数年前までは最低でも月一、下手すると毎週渡讃してたほどのうどん好きでして、
かなくま餅福田のある観音寺へも、何度となく足を運んでます。
「かじまや」 「大喜多」 「柳川」に始まり、 「まり」改め「ゆり」味噌汁うどんまで食いましたが、
結局今に至るまで「あん餅雑煮うどん」には手を出してません。
理由は、怖かったから。香川が嫌いになりそうで、怖かったから。
餅を入れるのはともかくとして、よりによって、餡餅って。甘いもん、放り込むって。
でも、よくよく考えてみたら、京都の餅系食堂ではワシ、うどんとおはぎを普通に食っとるな。
それも、順番に食うんと違うて、ごっちゃに食っとるな。で、うどんと甘味って結構、合うわな。
そう思い至ったのは、経済的にも時間的にも容易に渡讃ができなくなってた頃でした。
日ごと高まる「あん餅雑煮うどん、結構イケるんちゃうやろか」の思い。
しかし今の私には、観音寺はあまりにも遠い。
18切符を使うと、姫路岡山間がつらいフェリーは、爆音で2度鳴る「風が恋を運ぶ~」がつらい。
なので、かなくま餅福田の代わりに、北大路新町の相生餅へ行くことにしました。
そして、京都の「あん餅うどん」なるものを食すことにしたのです。

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北野白梅町のだいりき亭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年11月13日(日)


北野白梅町のだいりき亭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

北野白梅町といえば、イズミヤです。
嵐電・北野白梅町駅に隣接する、というより圧倒するようにそびえ立つ、イズミヤ白梅町店。
私、ここのトイレをよく借ります。といっても、別段このへんに用事が多いわけではありません。
が、散歩でウロウロしてる時などに立ち寄る回数は、妙に多かったりします。
何か、足が向くんですよ。そこら中にある公衆便所や観光トイレではなく、イズミヤに。
何にそんなに惹かれるかといえば、あの郊外感ではないかなと。
郊外型スーパーが希少な京都市内中心部にあって、堂々と凡庸さを誇る、その雄姿。
郊外に住む私には、その凡庸さこそ馴染むというか、ライフラインが繋がった感慨さえ抱くんですよ。
あと、京都の公衆便所にはちょっとした個人的トラウマもあるし。
梅小路公園のトイレで大いなる用を足してる時、壁の上からこちらを覗く同性の方と目があって以来、
私、京都の公衆便所が苦手です。全くどうでもいいことですが。
そんな(どんなだ)イズミヤ、そしてそんなイズミヤのある北野白梅町。
商店街との闘争を呼んだこの大型スーパーも、今となっては昭和の動態保存に見える現代にあって、
「街」の象徴ともいえる餅系食堂はしっかり、健在。その名も、だいりき亭。
力餅→大力餅→大力という流れを確信させる店名ですが、全然関係なかったら、ごめんなさい。
神護寺ライトアップへ向かうバスを待つついでに、寄らせてもらいました。

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上賀茂神社の夏越大祓へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年6月30日(木)


上賀茂神社の夏越大祓へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

夏越祓の茅の輪をくぐりまくり、オーラスです。
小さめの神社を一日中駆けずり回り、茅の輪をくぐりまくった夏越デイでしたが、
締めはやはり世界遺産、超メジャー級で行こうじゃないかということで、上賀茂神社であります。
といっても「みなづきのなごしのはらえするひとはちとせのいのちのぶというなり」と言いながら
輪をくぐるだけではありません。結構な神事も行われるので、そっちも見物しました。
上賀茂神社は、祓、禊祓を非常に重要視してるそうです。
理由は、祭神である賀茂別雷神が母・玉依比売命の禊の最中に降臨したからだとか。
大和国・葛城から、山城国、そして上賀茂地域に定住した賀茂県主族は、神を求めた、と。
一族の祭祀の権を与えられた玉依比売命は、神の降臨を願って毎日川辺で禊をした、と。
すると、川上から仁塗の矢が流れてきたので、持ち帰った、と。
その夜、何か神を感じ、子供が生まれた、と。で、その御子が祭神・賀茂別雷神だった、と。
このような由緒ゆえ祓を大切にし、この夜の夏越大祓&人型流しも荘厳に執り行われます。
元々夏越祓は12月の晦日に共に「大祓」という国家的な除災行事だったそうで、
奈良時代には朱雀門前に百官が集まり、大祓詞を読み上げるという大層なものだったとか。
上賀茂神社の夏越大祓はもしかすると、そんな平安以前の祓の姿を伝えてるかも知れませ
地元の神社で地元の人たちがささやかに無病息災を願うのとは一味違う、
世界遺産ならではの祓いの儀、ご堪能ください。

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