下鴨神社 - ひとりでうろつく京都 (β版)

下鴨神社の名月管絃祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年9月19日(木)


下鴨神社の名月管絃祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「美」 を追い求める人間は、とどのつまり、夜空の月へとたどり着く。
花をねぶり回し、鳥を追いかけ回し、風流に狂い回った 「美」 のプリズナーたちも、
最終的には夜空に浮かび静かな光を発する月に、究極の 「美」 を見い出す境地へと到達する。
と、こんな風に 「花鳥風月」 の意味が語られることがあります。 「ゆえに、最後が月」 的な。
この 「月 = 上がり」 説、実は全然ガセだそうですが、ただ、妙な説得力を感じる人は多いはずです。
月が体現している、 「美」 の究極。または、 「美」 のデッドエンド。あるいは、 「美」 の最終解脱。
時に人を狂気へ誘いかねない、逝ってしまった 「美」 の魔力を、明らかに、月は持ってます。
そして、そんな 「美」 が最も露になる時こそ、十五夜お月さん aka 仲秋の名月ではないでしょうか。
「月々に 月見る月は 多けれど 月見る月は この月の月 (詠み人知らず) 」 などという、
「ああ松島や」 級のトートロジー炸裂短歌が詠まれるほど、デッドエンドな 「美」 を誇る、初秋の満月。
石を投げたら 「美」 の最終解脱者に当たるくらい、市井のそこら中で濃い口の好事家が蠢き、
「チャーミングチャーハン」 なるトートロジー or 狂気が滲む屋号を生むクレージータウン・京都でも、
この逝けてる名月は 「月が月で月だから」 という勢いで、大いに鑑賞され、愛でられます。
大覚寺の観月の夕べをはじめとして、ロイヤルな趣向の月見イベントを催すロイヤルな寺社も多く、
今回特攻をかけた下鴨神社の名月管絃祭もまた、そんなロイヤルな月見イベントのひとつ。
平安期の神事 「御戸代会 (みとしろえ) 」 を、昭和38年に再現再開したというこちらの名月管絃祭、
秋の稔りを前に、天下泰平と五穀豊穣を祈願し、雅なる伝統芸能を奉納するというものです。
実にロイヤル。誠にロイヤル。で、お代もロイヤル。とか思いそうですが、しかし入場は基本、無料。
「観月茶席」 なる茶席こそ有料ですが、筝曲や尺八など芸能は無料で拝めるため、
街中の 「美」 の最終解脱者が大挙して押しかけ、雅ならざる混雑を呼ぶ催しとなってます。
そんな名月管絃祭、私も 「美」 を最終解脱すべく、行ってきました。

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下鴨神社・糺の森の納涼古本まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年8月11日(日)


下鴨神社・糺の森の納涼古本まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「納涼」 と冠されたものの多くは、実際、大して涼しくありません。
「納涼花火大会」 「納涼ビアガーデン」 「納涼盆踊り」 「納涼船」 など色々ありますが、
そのいずれもが実際はさほど涼しくないという 「真実」 を、知らない人は今やいないでしょう。
現代の夏において、最も効率良く涼が得られるのは、言うまでもなく、冷房が効いた部屋。
震災以降、様々な節電の動きが起こり、様々な 「冷房以外」 の納涼方法が模索されてますが、
画期的な手段は現れず、 「クーラーやっぱり最高」 と文明の利器を再認識しがちなのが現状です。
盆地性の性悪な暑気が充満しまくる京都の夏においても、この辺の事情は全く変わりません。
川からの熱風を感じながら 「風流だ風流だ風流だ」 と自己暗示をかけて飯を食う鴨川川床を筆頭に、
京都の野外で行われる様々な 「納涼」 イベントは、その大半が名に反し、暑苦しかったりします。
世界遺産・下鴨神社の糺の森において、8月中旬、お盆の頃に開催される 「納涼古本まつり」 もまた、
「納涼」 と冠しながら全く涼しくない、逆に暑苦しさが極限域でバーストする、恐怖のイベントです。
都会の真ん中ながら原生林に近い状態を誇る糺の森、そこに聳える大樹の陰を利用する形で、
葵祭・流鏑馬神事会場である馬場に大量の古書店&数十万の古書が並ぶ、 「納涼古本まつり」 。
「自然の恵みたる木陰の涼を感じながらの本探し」 と、文字にすると優雅かつ知的な感じがしますが、
世界遺産の木陰であろうが何であろうが、実際の現場は当然のように死ぬほど暑いのであり
そしてあまり人のことは言えませんが、古書市ゆえに集まるのは暑苦しい独男ばっかりなのであり、
そんな独男たちが汗だくになって本を探し、ゲットした大量の本を汗だくになって運ぶという、
体育会系の阿呆学生でさえ逃げ出しそうな、完全に体力勝負の世界が展開されるのであります。
暑さと共に、ネイティブ京都の妙な過剰さ、バースト感にも溢れてる気がする 「古本まつり」 、
私は単に本を探しに出かけてるんですが、2013年は特に面白いくらい暑かったので、
本を漁る最中にちょこちょこと写真を撮って、ざっくりと記事に仕立ててみました。
熱中死と背中合わせで古書を漁るバースト感、お楽しみ下さい。

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下鴨神社の夏越・矢取神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年8月6日(火)


下鴨神社の矢取神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

旧暦。それは、今もなお京都を影で支配し続ける、ルール。
東京遷都以降の全てを否定したい」 という集合無意識が働いてるのか何なのか、
とにかく新暦導入から100年以上経過した現在も、京都では多くの局面で旧暦が稼働してます。
例えば、正月以上に盛り上がる本来の正月 = 節分。例えば、月送りの8月に営まれる、お盆
例えば、やはり月送りの8月に堂々と 「七夕」 を名乗り、電飾で集客を目論むイベント 「京の七夕」
などなど、この街のタイムテーブルを規定する旧暦の力は、21世紀も衰える様子はありません。
半期に一度のスピリチュアル・デトックスである夏越祓もまた、いくつかの神社は旧暦で実施。
一番有名なのは、祇園祭の〆として7月末日に茅の輪くぐりを行う八坂神社摂社・疫神社でしょうが、
伏見の氏神・御香宮神社、そしてかの世界遺産・下鴨神社も、旧暦タイムで夏越祓を行ってます。
下鴨神社の夏越祓に至っては、より本来の定義に準じた仕様とするためか、立秋前夜に、実施。
さらには、茅の輪のみならず、「裸男」 による水中斎串取り合い大会である 「矢取神事」 も、実施。
下鴨神社の祭神である玉依媛命が、糺の森の中を流れる瀬見の小川で川遊びをしてると、
丹塗矢が流れつき、それを持ち帰った玉依媛命は、上賀茂神社祭神・賀茂別雷命を懐妊したという、
何となくセクシャルなメタファーが散りばめられてる感じがしないでもない同社の神話に因み、
やはり何となくセクシャルな裸男が、何となくセクシャルな矢をめぐり大暴れを演じる、 矢取神事。
この荒行のインパクト&時期が他と隔絶してるため、夏越としての印象はやや希薄ですが、
旧暦の街・京都を代表する神社に相応しいタイミングの夏越祓であることは、間違いないでしょう。
そんな下鴨神社の夏越・矢取神事、暑さは全く立秋してませんが、行ってきました。
一瞬の大騒ぎで 「夏を越す」 その一瞬さ加減、御堪能下さい。

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下鴨神社の御粥祭へ小豆粥を食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年1月15日(火)


下鴨神社の御粥祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

小豆には、魔力が秘められてるんだそうです。
といっても、昭和の相場師を狂わせた 「赤いダイヤ」 云々といった話ではありません。
また、夜の川で小豆を洗うという、何が恐いのかよくわからん妖怪・小豆洗いの話でもありません。
餡子にしたり赤飯炊いたりして食べる、いわゆる食物である、あの小豆の話であります。
小豆が持つ赤黒いビジュアルに、昔の人は何かしらスピリチュアルなパワーを感じてたようで、
年頭&夏越の祓には、その力で邪気を祓うべく、小豆を用いた食物を食す風習を生み出しました。
6月の夏越祓には、氷をイメージした外郎の如き生地に小豆をぶっこんだ、水無月を。
そして年頭に当たっては、白い粥の中で餅と共に小豆が点々と泳ぐ、小豆粥を。
特に小豆粥は、ものごとの変わり目に発生する境界領域に於いてパワーを発揮するとかで、
転居や葬式の際に食べる地方さえあるようですが、最もポピュラーなタイミングはやはり、小正月
宮中では平安時代の頃から、正月最初の満月の日 = 小正月に小豆粥が食されてたそうで、
そのスピリチュアルな食風習は、現在に至るも様々な形で日本全国に残ってます。
京都でも 「1月15日 = 小豆粥」 という認識は家庭の献立カレンダーレベルで根付いてますが、
あちこちの神社もまた、宮中行事を神事化した形で小豆粥の奉納 or 接待を斎行。
中でも、宮中との結びつきが強い上賀茂下鴨の両賀茂社では、御粥祭なるものが行われ、
下鴨の方は有料ながら小豆粥の接待もあるというので、私も出向いてみました。
相場師を狂わせ、謎の妖怪も生んだ、小豆。その魔力を食らう様、とくと御覧下さい。
当日は奇しくも初えと祭もやってたので、その様子も併せてどうぞ。

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下鴨神社の御蔭祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年5月12日(土)


下鴨神社の御蔭祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

毎年更新される、神。
と書くと、まるで神をカードか賃貸契約呼ばわりしてるみたいで恐縮ですが、
京都を名実共に代表する神社であり、三大祭の一つ・葵祭を行う上賀茂神社と下鴨神社は、
実際に毎年5月12日、その葵祭が開催される正に直前、「神の更新」 のようなことを行ってます。
その名を、上賀茂神社は、御阿礼 (ミアレ) 神事。下鴨神社は、御蔭 (ミカゲ) 祭。
「御生」 「御荒」 「御顕」 「産霊」 などなど、様々な字で 「ミアレ」 と表現されるこの神事は、
神地に新たに顕れた荒御魂を、本宮の和御魂と合体させ、霊力をより若々しきものにするもの。
正に、アップデートです。そう呼ぶと、何か神罰が下りそうですが、でも、アップデートです。
現在は学生バイト大量動員の平安コスプレパレードで知られる葵祭・路頭の儀も、
そもそもはこの更新された神に挨拶すべく、朝廷が勅使を派遣してるだけだったりします。
本当は、葵祭よりも重要な神事なのかも知れないのです。というか、多分、そうです。
二千年もの歴史を持つとも言われるこの更新、旧儀が途絶したり、名称が変わったりはしてますが、
生まれたてホヤホヤの神を扱うがゆえのスピリチュアルなテイストは、今なお猛烈に、健在。
特に下鴨神社の御蔭祭は、普段は元官営神社ならではの気高さを誇る同社が、
この日は一転してアーシーなまでのネイティブ感を全開にし、かつての神領域を巡行。
観光客&カメが喜ぶ平安装束のみならず、バス使用も辞さず祖社を回り、歓迎されるその様は、
賀茂の地に根づく信仰の深さと豊かさを、リアルなものとして感じさせてくれるはずです。
そんな御蔭祭、途中からではありますが、ちょっとしつこく追っかけてみました。
妙にバスの写真が多いですが、それこそリアルとご理解下さいませ。

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下鴨神社の流鏑馬神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年5月3日(木)


下鴨神社の流鏑馬神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

春の都大路に華麗なる平安行列を再現する、葵祭
しかし、 「山城国風土記」 などに伝わる平安京成立以前の葵祭 = 賀茂祭は、
ほぼケンカ祭同然、DQNや輩な連中が大暴れする、かなりワイルドな祭だったようです。
欽明天皇の時代、凶作に苦しんだ賀茂氏と在地民は、賀茂別雷神の祟りを鎮めようと考えて、
鈴をつけた馬を4月吉日に走らせ、豊作を祈願したのが、賀茂祭のそもそもの始まり。
最初は極めてアーシーというか、オーソドックスに農耕テイストが漂う予祝祭だったわけです。
それが、単に馬を走らせてるだけではつまらなくなったのか、やがて笠懸などをおっ始め、
これに興奮した馬鹿どもが大暴れ、政府から何度も禁止令を食らうケンカ祭にまで成長しました。
正に、DQNであります。正に、輩であります。完全に、田舎祭りだったのであります。
そんな楽しく野蛮な賀茂祭が、その姿を大きく変えることになったのは、平安遷都前後の頃。
朝廷は賀茂氏の勢力取り込みを図るため、賀茂社を都の鬼門守護を担う社と位置づけ、
ローカルな祭だった賀茂祭を勅使の奉幣を受ける超メジャー級国家的祭祀に変貌させました。
以後、中断を挟みながらも、賀茂祭は 「雅」 モードで現代まで継承されているわけですが、
ワイルドな香りを残す神事もあり、それが前儀として行われる、流鏑馬神事です。
下鴨神社・糺の森の中、射手が猛スピードの馬で駆け抜けながら的を射抜くその姿は、
昭和48年の復刻とはいえ、原始の賀茂祭の息吹を伝えるものと言えるでしょう。
そんな流鏑馬、GW混雑のど真ん中ながら、のたくりこんできました。

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第42回鴨川納涼へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年8月7日(日)


第42回鴨川納涼へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

鴨川。それはいくつかの「不思議」を持った川。
まずは言わずと知れた、カップルが何故か等距離で川辺に座るという「不思議」。
それに、「加茂川」 or 「鴨川」と、ニアイコールな表記が入り混じるという「不思議」。
そして、そんな鴨川に関する数多の言説が、七条以南については急激に減少するという「不思議」。
加茂川と高野川の合流点である出町柳の「鴨川デルタ」が最近人気を呼んでるようですが、
それなら、かつてあの高瀬川が鴨川と平面交差していた「十条クロッシング」なんかにも、
もっとスポットが当たってもいいんじゃないかと思うんですが、あなた、どう思いますか。
それはともかく、いろんな意味で京都のシンボルであるそんな鴨川において、
夏の真っ盛りに行なわれる市民主体の夏祭りが、鴨川納涼。
例年、県人会の方によるB級グルメグランプリの如き出店と、昭和臭あふれる出し物が、
川岸に色を添えてましたが、去年からはそこに「京の七夕」なる電飾客引きイベントも、乱入。
カップルたちが蛾のように吸い寄せられるきらびやかなイルミネーションと、
各屋台の鉄板から放たれる油煙、そしてハワイアンや南京玉すだれのサウンドなどが入り混じる、
極めて特殊な空間が現出されるようになりました。
そんな鴨川納涼、今までは「君子危うきに近寄らず」で左岸から眺めるのみでしたが、
このサイトのモットーはあくまで単独正面突破、今年は意を決して右岸へ飛び込んでみました。

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下鴨神社の御手洗祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年7月21日(木)


下鴨神社の御手洗祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

御手洗池。
「おてあらいいけ」とは読みません。「みたらしいけ」です。一応。
世界遺産・下鴨神社の奥の方にある、名前の通りにもっぱらお清めを本業とする聖水です。
雛祭の雛飾りを流す禊や、葵祭の斎王代が行なう禊など、メジャーな神事でも名高いですが、
「みたらし」と聞いて誰もが思い浮かべる「みたらし団子」の発祥の地でもあります。
土用の丑の頃になるとこの池、地下から溢れ出す水の量が増えて、水泡を発生させるそうです。
その泡を模して、ちっちゃい団子が連なる「みたらし団子」は生まれたんだとか。
いや、本当です。多分、本当です。加茂みたらし茶屋がそう言ってるんだから、きっと本当です。
その土用の丑の日を中心にして開かれる御手洗祭は、
御手洗池の前に鎮座して、お祓いの神様である瀬織津比売命を祀る末社・井上社の、例祭。
読んで字の如く手を洗いまくる祭り、ではありません。足を洗いまくる祭りです。
ちょっと前の蛍茶会では蛍つかみ取り大会が発生してた御手洗池へ、今夜は人間を大放流。
善男善女が聖水に足を浸し、悪いところを水に流すわけであります。別名、足つけ神事。
平安貴族の清めの行事に由来する、いわゆる「千年の時を越え」た神事ですが、
どっちかといえば「千年の時を越え」て盆地の蒸し暑さに苦しむ京の民が、
「暑いから水につかりたい」と思ったのが由来じゃないかとも思える、結構庶民的な神事です。
率直なニーズに応えてる分、現代でも参拝者は多数。
神社側も、土用の丑の日を中心にした4日間、昼夜を問わず参拝に対応してます。
で、その初日の夜に、私も水につかりに行きました。

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下鴨神社の蛍火の茶会へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年6月11日(土)


下鴨神社の蛍火の茶会へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

蛍火の茶会。
文字通り、下鴨神社・糺の森を飛び交う蛍の灯りを眺めながら、お茶を嗜む催しです。
都市部にありながら、太古以来の山城原野の植生を残すという、糺の森。
特に5月から6月にかけては緑が美しく、神の森というイメージが強いスポットであります。
が、ここ、江戸時代には庶民の憩いの場として、茶店も立ち並んだりしたんだとか。
森の中を流れる川に船を浮かべての納涼茶会、また能や相撲なども行われたそうです。
しかし明治維新以後、下鴨神社は国の管理下に置かれ、茶会などの庶民的行事はどんどん消滅。
昭和に入ると、周囲が開発されたことで糺の森の環境も悪化。
川には上流からの農薬が流れ込み、蛍はもちろん昆虫類も絶滅寸前に至ったそうです。
現在の蛍火の茶会は、地元の人たちにより糺の森周辺の川が繰り返し清掃され、
放流された蛍が定着したことをうけての復活もの。明治の廃絶から実に100年ぶり。
重文である橋殿・細殿で夕方から茶が供され、夜には御手洗池で大量の蛍を放流。
加えて、神服殿では下鴨神社名物・十二単の着付が行われ、各種音曲の披露もあります。
そんな風流な茶会へ行ってきました。と言っても、私は茶会そのものには参加してませんが。
お茶のこと、知らないし。それに事前申し込みしないと駄目だし。
ただただ、蛍を見に行っただけです。

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葵祭・路頭の儀を追尾してみました。もちろん、ひとりで。 (2)

2011年5月15日(日)

賀茂川堤の斎王代列
葵祭・路頭の儀のフル追尾、続きです。

京都の人にとって、葵祭は「それほどでもない」んだそうです。
『京都大不満』 という本に、そう書いてありました。曰く、三大祭の中では「それほどでもない」。
祇園祭は愛着度が高い、と。誰が見てもわかります。で、時代祭は全然だ、と。これもわかります。
が、葵祭の「それほどでもない」という感じは、ちょっと微妙なニュアンスの世界かも知れません。
しかし、私にはわかる気がします。一応、勅祭が行われる八幡の民としては、わかる気がします。
勅祭って基本、じっと見るしかしょうがないんですよね。
ほとんど無形無実とはいえ皇族が関わる祭ですから、平民はおいそれと参加できないわけです。
その割には学生バイトが動員されまくってるし、ボランティアの方も多く関わってるんでしょうが、
自分達で作る自分達の自主的な祭というのとは、何かが決定的に違う。
今でも「お上の祭」なわけです。当の「お上」が御所にいなくなっても、「お上の祭」なわけです。
神が街を巡幸することはなく、あるのはコスプレ行列のみ。それらをただ、見る。じっと、見る。
牛車を、風流傘を、知らん間に知らん所で決定される斎王代などを、つくづくと見る。
「見る」側の優位性がとかく強調され、無能ゆえの万能感を膨張しやすい現代において、
葵祭は、見ることしか出来ない平民の無力さを改めて教える儀礼なのかもしれません(大層な)。
5月のよく晴れた都大路を、コスプレ追いかけて走りまわる、そのみっともなさ。
もちろん現代の我々は、そのみっともなさをマゾヒスティックに享受する自由も持ってるわけですが。
社頭の儀を終えた下鴨神社からゴールの上賀茂神社までのパレード後半戦、
同志のあなたもマゾヒスティックに、無能に、追走してみますか。

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葵祭・路頭の儀を追尾してみました。もちろん、ひとりで。 (1)

2011年5月15日(日)

御所の斎王代
葵祭・路頭の儀をフルで追尾してみました。もちろん、ひとりで。

葵祭。言うまでもなく、京都三大祭のひとつです。
夏の祇園祭、秋の時代祭と並んで、春の京都の重要な観光資源でございます。
本名、賀茂祭。上賀茂神社と下鴨神社、両賀茂社の例祭であり、
私の地元の石清水祭・奈良の春日祭と共に、勅使が派遣される三大勅祭のひとつでもあります。
そもそも京に於いて「祭」といえばこの賀茂祭のみを指したくらい、その重要性は高く、歴史も長し。
平安遷都以前から「猪殺して乱闘しまくり」の喧嘩祭として、何度も禁制食らうほどの大盛り上がり。
遷都以降は賀茂社の王城鎮護指定を受け、勅祭化。また都の祭として、洗練化。
特に、御所から社までを天皇の使い・勅使とその行列が華麗な姿で行進する路頭の儀は、
雅な姿がさながらファッションショーの如き人気を呼び、見物人の場所取りで諍いが起こるほどに。
以後、応仁の乱でしばらく途絶したり、明治維新や第二次大戦などによる中断を挟みつつも、
そのたびに何とか復興、戦後は斎王代も導入し、一貫して京の「祭」であり続けてます。
流鏑馬神事・歩射神事・競馬会神事・御阿礼神事・そして御影祭などなど、
単体でも集客力のある神事が並ぶ葵祭ですが、一番の客寄せパンダはもちろん、この路頭の儀。
新緑眩しい都大路に華麗なる王朝絵巻を再現する、全長1キロもの日雇いバイトのコスプレ行列。
しかし着ている衣装は全部本物、下手すると着てる人間より高価だったりするので、あなどれません。
そんな路頭の儀、スタートの御所からゴールの上賀茂神社までは実に8kmに及びますが、
最初から最後まで、徒歩のみで追いかけてみました。何故って、暇だし・・・。

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下鴨神社の流し雛へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年3月3日(木)


下鴨神社の流し雛へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

流し雛。雛祭りのルーツといわれる行事です。
3月3日の上巳 or 桃の節句に、紙で作った人形へ己の穢れを移し、川や海へ流す。
そのことにより無病息災を祈願するという、実にお祓いスピリットあふれる風習であります。
元は 「上巳の節供」 なる中国の習慣だったそうですが、日本でネイティブなお祓い魂と、野合。
さらに時代が下って室町時代になると、貴族間の子女が行われていた 「ひいなあそび」 とも、野合。
もっと時代が下ると、武家や庶民の間でも 「雛祭り」 が行われるようになり、人形もゴージャス化。
ゴージャス化したら流すわけにもいかず、流さないとなればさらにゴージャス化は勢いがつき、
家の財力を誇示するアイテムに成り下がった雛壇からは、本来のお祓い魂は何処かに忘れ去られ、
ついでにユニセックスだったのも女子専用と化し、雛祭りは現代へ至るわけであります。
流し雛は、そうなる前のプロトタイプ。Zガンダムでいうところの、百式 or メタスです (意味不明)。
この風習、地方へ行くとかなり現存してるようですが、京都にも残ってます。
有名どころでは、下鴨神社で人形業者が大々的にイベント化して行われる、流し雛でしょうか。
イベント正式名称、 「京の流しびな」 。「雛」 の漢字忌避に、早くも女子感が漂います。
「雅」 全開の平安時代には、女子専用どころか闘鶏見て盛り上がってたという桃の節句ですが、
現在の現実としてはあくまで、女の子のお祭り。そこへ行こう、と。ひとりで行こう、と。
不審者扱いされるんじゃないだろうか。変質者扱いされるんじゃないだろうか。
そんなことを考えながら、一人囃子で糺の森を歩いて行ったのです。

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2011年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。 【3】

2011年1月1日(土)


2011年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。 ラストです。

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