京都府下 - ひとりでうろつく京都 (β版)

宮津の三上勘兵衛本店を借り切って聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2021年12月24日(金)


宮津の三上勘兵衛本店をひとりで借り切って過ごすクリスマス、前篇に続き後篇です。

丹後は、「海の京都」 という枠には収まり切らないエリアではないかと、たまに考えます。
当然と言えば、当然の話でしょう。ここはそもそも、大和と異なる王権の存在さえ想定される地。
平安京などが出来るずっと前より、海を介して交流を広げ、豊かな文化を築いて来たのです。
また、時代をずっと下って近世以降に話を限ってもなお、丹後は大きな広がりを持つ地と言えます。
西回り航路北前船の登場は、日本海沿岸を始め日本各地の交易範囲を劇的に拡大させましたが、
丹後に於いても久美浜・間人・由良などがこの恩恵を受けて、港町として大きな発展を果たしました。
無論、宮津も同様です。ので、和貴宮神社の玉垣にも 「播州」 「讃岐」 の名が並んでたわけです。
三上家を始めとする宮津の豪商も、海運の隆盛期には北海道~大阪を行き交う商船を所有・運用し、
丹後の品の輸出に留まらず各地の物品も売買するなど、地方廻船の枠を超える活動を展開しました。
全国区としての丹後。そんな考え方も、可能かも知れません。そういえば言葉も少し標準語的だし。
この辺を考えると、京都と丹後との距離感自体も、今と違ってたのではないかと思えてきます。
物理的な直線距離は、昔も今も京都は他都市より丹後に近いです。でも海路ならどうか、と。
西回り航路は、西日本を大きく迂回するルートでありながら、安全性で各地の 「距離」 を縮めました。
この西回り航路で丹後から物資を運ぶ場合、京都はそれこそ、播州や讃岐よりも遠くなるわけです。
そんな環境で交易を行った近世後期の丹後の人々は、京都をどのような目で見てたのでしょうか。
そして、現在の丹後が 「海の京都」 と呼ばれてるのを彼等が見たら、どのように感じるのでしょうか。
我々は、海運の身体知のようなものを通じて、丹後や宮津を考え直す必要があるのかも知れません。
お籠もりモードで敢行した今回の宮津投宿では、何故かこんな思念がよく頭の中に湧きました。
籠もってたため、人と話したりあちこち丁寧に見て回ったりはしてません。海も、ロクに見てません。
でも逆に、昔の船人が風待で籠もった際に感じただろう宮津は、幻視出来た気がするというか。
三上勘兵衛本店での聖夜、後篇も籠もったり抜けたりしながら、宮津を感じて行きます。

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宮津の三上勘兵衛本店を借り切って聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2021年12月24日(金)


宮津の三上勘兵衛本店を借り切って聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

クリスマスイブの単独宿泊。当サイトではそんな聖夜企画を、開設時からやってきました。
激安宿宿坊町家遊郭跡ラブホへの投宿や、温泉宿でのぼたん鍋爆食などを繰り返し、
2016年からは観光バブルの動向も見据えるべく、都市部で増殖した簡易宿も立て続けに特攻。
冬至祭としてのクリスマスにも注目し、「境界」 なるテーマも掲げて、企画を延々と続けて来ました。
しかしそんな楽しい聖夜企画も、2020年には途絶に至ります。理由は、言うまでもありません。
全く自慢になりませんが、私は小心者なので、聖夜企画に留まらずサイトの更新さえ中断しました。
が、状況が落ち着き始めた途端、私の中で 「どっか行きたい」 という思いも沸き始めたのです。
どっか行きたい。でも、怖い。でも、どっか行きたい。でも、怖い。でも、行きたい。でも、怖い。と。
この煩悩ループを止めるには、どこか遠くへ赴き、そこで籠もりっきりになる以外ないでしょう。
籠もらなければならないのです。2021年に聖夜企画をやるなら、籠もらなければならないのです。
常に己の内へと籠もり、己を見つめ、見つめ飽きてる独男も、籠もらなければならないのです。
そう考えて私は、今回、宮津への投宿を決めました。宮津の三上勘兵衛本店への投宿を決めました。
宮津。京都府宮津市、旧宮津町エリア。最も簡単な説明は、やはり 「天橋立の隣」 なんでしょうか。
天橋立&籠神社を擁する府中が古代より栄えたのに対して、宮津は戦国期の宮津城築城が魁の地。
江戸期には宮津城の城下町として発展する一方、西回り航路の開拓により北前船の寄港地となり、
全国の港湾都市と交易を繰り広げることで三上家などの豪商も生むに至った、文字通りの港町です。
そんな宮津が何故籠もるのに相応しいかと言えば、京都府の北部にあって割と遠いから。
海が近くて魚も美味いから、旅情は充分味わえそうだし。でも、天橋立ほどは人もいないだろうし。
天橋立では難しい埋立を江戸期から進めており、その新地には花街跡もあったりするので、楽しいし。
運良く、近年に貸切宿となった三上家本店の予約も取れました。これはもう、行くしかありません。
胃袋以外の全ての器官をクローズドにする覚悟と共に、私は冬の宮津へ向かったのです。

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けいはんな記念公園・水景園へ紅葉を観に行きました。もちろん、ひとりで。

2021年11月15日(月)


けいはんな記念公園・水景園へ紅葉を観に行きました。もちろん、ひとりで。

けいはんな記念公園。けいはんな学研都市の完成を記念して建設された公園です。
では、けいはんな学研都市とは何かと言えば、京阪奈丘陵を中心に作られた学研都市です。
作られ始めたのは、バブル期。出来たのは、バブル後。なので無論、プロジェクトは失敗しました。
いや、失敗と断言すると色々と問題がありそうですが、といって成功と断言するのも色々苦しい。
赤字を垂れ流した挙句ブっ潰れた 『私のしごと館』 を御記憶の方は、まだまだ多いかと思いますが、
あの 『私のしごと館』 の残骸を筆頭に、色々と上手く行ってない感じがしなくもないエリアであります。
この学研都市が 「都市開き」 を果たした翌年、即ち1995年に、けいはんな記念公園は開園しました。
本名、京都府立関西文化学術研究都市記念公園。長い。長い本名が示す通り、府立公園です。
平安建都1200年記念事業としても整備されたためか、割と豪勢な府立公園として建てられてます。
園内の目玉となるのは何と言っても、広大な池を構える広大な回遊式日本庭園・水景園
この庭園は、全長100m以上におよぶ歩廊橋・観月橋が池の水面の遙か上で壁の如く聳え立ち、
その奥では謎の巨石群が乱立しまくるという、意味・趣向こそ不明ながら凄みは溢れる代物。
元々は単なる野山であるため、園内は季節の草花類も充実しており、秋はもちろん紅葉が売り。
巨大橋+巨大岩+水+紅葉の競演は、需要の有無はともかく、他にはない景観でしょう。
いや、紅葉についてはこの公園、ちゃんとした利点もあります。紅葉の色づきが、少し早いことです。
京阪奈丘陵は、その名の通り京都・大阪・奈良の間に広がる丘陵であり、丘陵ゆえ標高もやや高め。
公園の立地も割と高地であり、おかげで山奥とかに行かなくても少し早く紅葉が観れるわけですね。
さらにここ、入園料が安い。2021年時点で、200円。安い。あまりにも、安い。安過ぎて、何かもう怖い。
血税をむしり取った罪悪感でもあるのか、維持費を今も血税から調達してるからか、とにかく、安い。
ので、行ってきました。場所が、奈良の方が近いくらい府の南部で遠いけど、行ってきました。
遠いので結局は往復の交通費が入園料の7倍くらいかかったけど、行ってきました。

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京丹波町・桧山の山下秀製菓へ丹波銘菓いが栗を買いに行きました。もちろん、ひとりで。

2020年10月20日(火)


京丹波町・桧山の山下秀製菓へ丹波銘菓いが栗を買いに行きました。もちろん、ひとりで。

山下秀製菓丹波銘菓いが栗、好きなんです。皆さんは御存知でしょうか、いが栗。
栗で知られる京丹波町にある、栗入りどら焼きで有名な菓子店の名物です。正しく、丹波銘菓。
となれば、栗が丸ごと入った野趣溢れる和菓子を連想されそうですが、そうではありません。
公式サイトのアドレスにさえなってる栗どらが、それこそ栗入りまくりの野趣全開仕様なのに対して、
いが栗は栗も入ってるけどココナッツも入ってて、また外観は完全にミニコロッケというお菓子。
素朴な秋の趣きだけを丹波に期待する方には、ちょっとニーズ違いのものに見えるかも知れません。
が、私は好きなんですよ、いが栗。好きなだけでなく、奥深い丹波らしさも感じるんですよ、いが栗。
そもそも丹波は、京都の辺境 or 食料庫としてのみ存在し続けて来たわけではありません。
日本の形さえ不確かだった古代には、文明の先端エリアたる日本海沿岸と一体で 「丹波」 を形成し、
ゆえに平安京を遙かに凌ぐ古さの渡来系伝承に事欠かない、開明的とも言える地であります。
また丹波の 「丹」 の字自体が、渡来した鉄鋼技術の色 = 赤を意味するという見方もあり、
「赤ワインで顔が紅潮した毛唐人」 を 「鬼」 と間違うような真っ赤な嘘が息づく地でもあります。
鉱物資源も実はかなり豊富であり、石油以前の生活必需品たる木材は当然のように産出されまくり。
渡来 or 交易といった観点は、丹波を考える上で、もっと重要視されていいかも知れません。
そんな丹波が持つ奥深さを、渡来系のココナッツによって表現してる気がしないでもない、いが栗。
私は、丹波マーケスにて初めて出会いました。大江山食品の佃煮を買いに寄った際、出会いました。
正直、土産品コーナーで失礼ながら冷やかし半分で買ったのですが、食べてみると美味しい。
食感も良く、何より食べてると不思議な多幸感が湧くのが好きで、箱でも買うようになったのでした。
このいが栗、秋も良いんですが、個人的には暑い夏に食べるとココナッツ感が実に心地良く、
また冬は白餡が美味しいんですが、それでも栗と言えば季節は秋で、秋と言えば京都は丹波。
どうせなら秋に本店で買ってみようと思い、京丹波町の桧山へ出かけてみたのです。

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犬甘野風土館・李楽へ行って蕎麦を食べて蕎麦の花も観てきました。もちろん、ひとりで。

2020年9月15日(火)


犬甘野風土館・李楽へ行って蕎麦を食べて蕎麦の花も観てきました。もちろん、ひとりで。

蕎麦。京都があまり得意としない食ジャンルのひとつ、と言えるかも知れません。
もちろん、いわゆる老舗として名高い店は存在しますし、それなりに評判も良かったりします。
が、実際に食べて、評判通りの感想を持ちましたか、貴方。端的に、美味いと思いましたか、貴方。
いや、新しい店ならちゃんとしてることも多いですが、そうでない場合はそうでないことも多いというか。
この現象について私は、京都では麺類全般がいわゆるオチキャラ扱いされてる為だと思ってます。
君らは別に、美味しくならなくてもいいよ。君らに求めてるのは、ほっこり感なんだから。みたいな。
「うどんって具合悪い時に食べるものでしょ (by 山下達郎)」 な見方が全麺類に及んでる、みたいな。
そういえば、戦後の薬事法改正まで麺類店では実際に風邪薬などを併売してたというので、
気張った味ではなく、癒し的なものを麺に求める文化が、この地では今も残ってるのかも知れません。
あるいは、禅+菓子+蕎麦という京都の蕎麦の起源に関係する話だったりして。とにかく、謎です。
こんな感じで、何とも蕎麦文化が薄い京都。ただ蕎麦自体の栽培は、案外してたりします。
京都府北部にあって舟屋で有名な伊根町は、 「筒川そば」 の名で通る蕎麦の栽培でも割と有名。
名実共に京都の食糧庫である丹波も、然り。美山町や夜久野町は近年、蕎麦の名産地になりました。
そして犬甘野もまた、丹波の蕎麦名産地として新たに名が知られるようになったエリアです。
犬甘野。読みはそのまんま、いぬかんの。口丹・亀岡市の西の方にある、標高400mの地であります。
地名の語感から亀岡名物・寒天を連想してしまいますが、元はその寒天作りが副業の稲作地帯。
寒天も作る一方で、減反政策ゆえ生まれた休耕田を活用すべく昭和末期から蕎麦の栽培を開始し、
平成以降は蕎麦も食える直売所の犬甘野風土館・李楽も出来て、すっかり蕎麦の名所となりました。
毎年9月中旬には、可愛らしい蕎麦の花が咲く様を京都新聞などが恒例のように紹介してるので、
行ったことはなくとも、風物詩のような親しみを感じてる方も少なくないのではないでしょうか。
そんな犬甘野の李楽へ9月に出かけて、蕎麦を食い、蕎麦の花も観たのでした。

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西舞鶴のはんなり食堂へ、いさざを食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

2020年3月21日(土)


西舞鶴のはんなり食堂へ、いさざを食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

篠田統 『すしの本』 を読んでると、「踊り食いは京都が発祥」 といった話が出てました。
同書に拠ると、大阪 『蛸竹』 の親父さんか誰かから、篠田氏はそう聞いた覚えがあるんだとか。
新鮮な魚が獲れる江戸では、 「新鮮ならいいってもんじゃねえよ」 となったそうです。大坂も、同じ。
ふ~んという話であります。そういえば、近世の鴨川に生魚料理店があったという話、聞きますね。
美濃吉に関するコピペ文でよく見る 「川魚生洲八軒」 がどうたらという、あれです。なるほど、と。
海が遠い、京都。ゆえに高まる、魚への欲求。結果的に鱧料理なる食文化も生んだ、魚への欲求。
踊り食いは案外、京都の特性から生じた極めて人工的&強引な食文化なのかも知れません。
とはいえ、それも冷蔵・冷凍の技術がなかった時代の話。現代では無論、踊り食い事情も異なります。
味自体が独特な鱧料理は残りましたが、イベント性が高い踊り食いを売りにする店は今では希少。
川魚生洲八軒も、殆ど消えたし。現代の生活者としての私も、踊り食いは京都と疎遠と思ってました。
が、これも日本海側へ行けば、話はまた別。春の舞鶴には、いさざの踊り食いがあるのです。
「海の京都」 を体現する街・舞鶴。いさざは、そんな舞鶴を流れて海に注ぐ川を、早春に遡上する魚。
ハゼ科の小さくて透明な魚であり、正式名称・シロウオとして九州などでも生でよく食されてるとか。
舞鶴でも当然、遡上してきたこの魚を、踊り食うのであります。春の風物として、踊り食うのであります。
このいさざの踊り食いに私が初めて出逢ったのは、2019年春、所用で訪舞した時のことでした。
あくまで所用だったため、食事はとにかく安く済まそうと思い、でも魚はそれなりに食いたいなと考え、
また観光客が少ない店を望み、海から離れたはんなり食堂なる店へ赴き、そこで出逢いました。
野菜炒め定食の香りが食欲を刺激するような店内で出逢ったいさざの踊り食いは、超ナチュラル。
人工的&強引に野趣を得るのではなく、あくまで 「近くで獲れたものを近くで食う」 という感じであり、
春の朗らかさな温度感&空気感も相まり、これぞ真の踊り食いといった印象を受けたのでした。
で、それが気に入ったので翌年、今度は純粋にいさざ目当てで、訪舞してみたのです。

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節分の平等院・鳳翔館へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2020年2月3日(月)


節分の平等院・鳳翔館へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

が退治された世界で生きるということ。我々はそのことを、もっと真剣に考えるべきです。
鬼に連れ去られることがない世界。鬼に殺されることがない世界。鬼に食われることがない世界。
それは果たして、真の意味で平和と呼べる世界なのか。果たして、幸福と言える世界なのか。
いや、無論それは幸福には違いありません。問題は、我々が幸福だけで満足できない点にあります。
鬼という存在によって秘かに満たされてきた、我々の欲望。連れ去り、殺し、食いたいという欲望。
これらの欲望を満たす機会を、鬼のいない平和な世界の代わりに、我々は手放したのではないのか。
またこの平和で幸福な世界は、単に鬼よりも巨大で極悪な権力に地均しされた地獄ではないのか。
こうした疑念を等閑視し、呑気に鬼を 「他者」 「外部」 として夢想するなど、欺瞞でしかありえません。
この世界で鬼と向き合うのなら、我々が鬼を殺した側であるという痛みを、まず見据えるべきです。
そして、その痛みを通じて、鬼退治後の世界に於ける平和・幸福の実相こそを、見据えるべきです。
そう考えた私は、恒例となった節分の鬼めぐりに於いて今回、平等院へ赴くことにしました。
平等院。言うまでもなく、京都・宇治に在って鳳凰堂で広く知られる、世界遺産のひとつであります。
離宮化→別荘化→寺化という平安後期の信仰&権力の様を物理的に現代へ伝える、正に名刹。
そんなロイヤル&パワフルな平等院へ節分に赴く理由は、その宝物殿・宇治の宝蔵に他なりません。
成敗された鬼の首は、都で帝の叡覧を経た後、蔵へ納められました。この蔵こそが、宇治の宝蔵。
権力に敗れた鬼の最期、またその骸が現代まで受け続ける辱めを、体現してる場所と言えるでしょう。
「いや、宇治の宝蔵って単なる伝承だよ」 と言うなら、鬼もまた、極めて伝説・伝承的な存在です。
そして、伝承が何かしらのリアルを含むのは、自明のこと。となれば、宇治の宝蔵も事情は同じはず。
鬼退治とは果たして、どういうことなのか。鬼のいない世界とは果たして、どういう世界なのか。
幻想と錯覚の中でしか触れ得ないそんな真実に触れるべく、私は2月の宇治へ向かったのでした。
ので、宇治茶を喫む暇など、あるわけありません。茶蕎麦を食う暇も、あるわけありません。

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綾部の大本本部・梅松苑へ夜の紅葉を観に行きました。もちろん、ひとりで。

2019年11月17日(日)


綾部の大本本部・梅松苑へ夜の紅葉を観に行きました。もちろん、ひとりで。

大本聖師・出口王仁三郎親父さんは、園部・船岡生まれなんだそうですよ。
「違う。本当の父親は●●●●●●だ。統の血を引く御落胤だ」 という話もなくはないですが、
とりあえず戸籍上では、船岡の紺屋に生まれた親父さんが、穴太の上田家に婿入りしたんだとか。
「違う。全ては渡辺ウメノの謀略だ。そして薩摩ワンワールド勢力が」 という話もなくはないですが、
とりあえず戸籍上では、王仁三郎は船岡にルーツを持つ人物と言えるかも知れないわけです。
ちょくちょく書いてることですが、私の親も船岡生まれ。私自身も、本籍地は今も船岡に置いたまま。
なので、大本に感じる妙な親近感はこうした所から生じてるのかと、思わないでもありません。
京都・丹波が生んだ新宗教の老舗、大本。当サイトでも、節分大祭七草粥で訪れてきました。
そしてそれらの記事の中で、 「大本に隣人のような印象を抱いてる」 といったことを書いてきました。
信仰はもちろんないし、教義もよくわからんし、都市伝説系の四方山話にもあまり興味はないですが、
若き日の王仁三郎の逸話などには、古い親戚に感じた丹波的な何かを感じたりするのです。
無論それは、妙な距離感と薄い関心量が生む勝手な感慨、幻覚の郷愁みたいなものに過ぎません。
しかしそれでも、こんな雰囲気を感じる大本へ偶に出向くことは、私には楽しいことではあるのです。
そういえば、開祖・出口なおの父方・桐村も、ルーツは桐ノ庄らしいし。桐ノ庄は、船岡の隣だし。
そんな大本、綾部・亀岡に聖地を持ちますが、綾部の本部・梅松苑は特に広く、紅葉も豊富。
綾部もみじまつりとして、近所・山家のもみじまつりと共に無料ライトアップも数日やってたりします。
となれば、集客&折伏全開かと思ったりしますが、七草粥や節分大祭と同様、これが全然なし。
実際行ってみると、無料が大好きな凡人が集まる、単なる紅葉タダ見大会みたいになってました。
実に気前が良く、おおらかな雰囲気が漂っており、その辺が丹波的というか、王仁三郎的というか。
「こういうのも、やらんとあかんで」 という王仁三郎の声が、聞こえてきそうな紅葉だったのです。
私が感じた、ほっこりするようなしないような雰囲気、是非とも感じてみて下さい。

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京丹波・食の祭典へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2019年10月27日(日)


京丹波・食の祭典へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「車社会」 の文化と、京都。関係があるような、ないような、そんな話ではあります。
車を置く場所にも走らせる場所にも困る京都の中心部は、もちろん 「車社会」 ではありません。
逆に、全ての文化行動が徒歩圏で完結することこそ 「京都人」 の条件になるような、超狭隘都市。
自転車はあちこちで死の暴走を繰り広げてるものの、所謂 「車社会」 ではないと言えるでしょう。
では、中心部から外れた京郊の住宅地が 「車社会」 化してるかといえば、これまた案外、微妙。
「車社会」 化してる側面も大いにありますが、同時に府南部・山城エリアは、鉄道網が極めて充実。
車がなくても、割と生活できたりします。私自身も、そうだし。八幡も、割に便利なんですよね。
そんな京都ですが、府域には実に 「車社会」 な所も、なくはありません。京丹波町が、そうです。
京丹波町。その名の通り、丹波のど真ん中に位置し、鉄道との縁がかなり薄い自治体であります。
江戸期は山陰道の要衝として栄えましたが、明治になると鉄道・山陰線が此処を迂回する形で開通。
陸の孤島になるかと思いきや、現代に入るとモータリゼーションが進行して、一気に 「車社会」 化。
現代の山陰道・R9は激烈に混み、そのため縦貫道が出来たら今度は道の駅が雨後の筍の如く林立。
車の所有率も京都トップとなり、ある意味、京都の 「車社会」 文化の最先端を行くようになりました。
人口はしっかり減ってますが、私の本籍地たる隣の南丹よりは妙に景気良さげに見える町です。
そんな京丹波町が、車ではなく食のイベントとして毎年開催してるのが、 『京丹波・食の祭典』
食材の宝庫・丹波にて、収穫が盛んな秋に、その食材を活かしたグルメを楽しむイベントであります。
となれば、丹波的でアーシーなノリが渦巻いてるかと思ったら、行ってみると何か違うんですよね。
不思議なくらい、現代的で普通だったんですよ。 「車社会」 的 or イオン的に感じられたというか。
車でしか行けない所で、かなりのキャパでイベントやれば、そうなるのも道理といえば道理ですが、
そんなノリに驚き、そして興味深く感じながら、私は丹波の食をあれこれ食いまくったのでした。
食い物ばかりの写真から、私が感じた 「車社会」 な感じ、多少は伝わるでしょうか。

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夕日ヶ浦木津温泉へ夕日を観に行きました。もちろん、ひとりで。

2019年9月19日(木)


夕日ヶ浦木津温泉へ夕日を観に行きました。もちろん、ひとりで。

観光資源の濫掘を経た今もなお、京都は何故か、夕焼けスポットがあまりありません。
夕焼け自体がないわけでは、無論ないのです。この街も、夕日に染まることは多々あります。
夕日を背にした東寺・五重塔なんかは、京都のド定番ビジュアル or アイコンとさえ言い得るでしょう。
では、その東寺が見える場所が夕焼けスポットとして有名 or 人気かといえば、そうでもありません。
夕日を見れる場所全般についても、この街で人気を呼んでる話は、あまり聞いたことがありません。
これは一体、何故なのか。その理由は、京都が未来を感じさせない街だからだと、私は考えます。
細かく言うと、日没 or 夕日が死と同時に約束する未来を、この街は感じさせないからだと、考えます。
今日の喪失が、より豊かな明日を運んでくる。そんな、期待。というか、確信。あるいは、担保。
スクラップ・アンド・ビルドの高度成長期が、同時に 「夕日の時代」 としてもイメージされてるように、
あるいは、死の領域へ近接する遊戯に熱を上げるのが、概ね発情した若者ばかりであるように、
死や喪失が醸し出す切なさを楽しめるのは常に、未来に期待・確信・担保を持つ若き存在だけです。
そして、そんな期待・確信・担保は、京都にはありません。今までも、今後も、きっとありません。
ひたすら衰え、失い、無様になり続ける街。踏ん張るも、踏ん張れず、自ら斜陽を体現し続ける街。
そんな街に、夕日は似合わないのです。似合うのに必要な明日が、絶望的に欠けてるのです。
しかし、こうした京都の夕焼け事情も、府域にまで目線を広げた場合には、話が全然変わってきます。
未来どころか不死 or 来世の伝説が溢れまくる日本海側の丹後は、夕日スポットが特に目白押し。
夕日ヶ浦木津温泉、という名前の温泉街さえ、実在してたりします。これはもう、行くしかありません。
というわけで私は今回、そんな夕日ヶ浦へ赴き、未来と来世について思念を巡らせてみたのでした。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトであるために必要な挑戦なのです。
決して、超遅めの夏休みが出来たので、日帰りながら海へお出かけしたわけではありません。
断じて、夕日は実はついでで、メインはあくまで遊びと温泉だったわけでもありません。

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向日神社へ旧暦タイムの夏越祓の茅の輪をくぐりに行きました。もちろん、ひとりで。

2019年7月31日(水)


向日神社へ旧暦タイムの夏越祓の茅の輪をくぐりに行きました。もちろん、ひとりで。

旧暦のタイムテーブルが生き続けてるのは、京都市街に限った話ではありません。
明治以降を全否定するかの如き勢いさえ感じさせる京都の旧暦の生き残りぶりは、確かに、
本来の正月 = 節分での異常な盛り上がりを筆頭として、当サイトでも何度かお伝えしてきた通り。
とはいえ、当然ながら京都以外の人もまた千年以上にわたって旧暦タイムを生きてきたわけであり、
その旧暦タイムの中で育まれてきた伝統行事も、タイミングはそうそう変えられなかったりします。
より季節感にフィットした旧暦タイムで各種行事を行い続ける寺社・地域は、京都以外でも実に多く、
季節感がよりビビットに反映される夏越祓については、7月末に実施する社も少なくありません。
京都・乙訓向日町に建つ向日神社も、そんな旧暦タイムの7月末に夏越祓を行う社のひとつです。
向日神社。 「むかえび」 でなく、日向の逆だからといって 「がひゅう」 でもない、むこうじんじゃ。
嵐山の辺から南東へ続く丘陵の先+古墳でもある向日山で、奈良時代に創建された古社であります。
プレ平安京たる長岡京はこの社を取り込むように造営され、平安遷都後も朝廷より崇敬を獲得。
近世以降は国学者の六人部是香を輩出し、本殿が明治神宮の元ネタになったことでも、有名でしょう。
一方で、中世には土一揆の会合の場となり、戦国時代以降には西国街道沿いに門前町を形成。
古社ゆえのロイヤルなる由緒&縁と、京郊ならではのアーシーなテイストを併せ持つ社なわけです。
そんな向日神社の旧暦の夏越は、ロイヤルでアーシーなものかといえば、そうでもありません。
市制施行から何十年経っても門前町の呼称が生き続ける向日町は、同時に宅地化が急激に進展。
高度成長期に至るまで宅地は増え続け、人口密度は京都市さえブチ抜いて府最高となりました。
いわば、ベタベタのベッドタウンです。旧暦どころか明治さえ踏み潰すような、昭和丸出しの町です。
なので向日神社の旧暦夏越も、徹底的に生活感爆裂路線かといえば、これまた違うんですよね。
生活者が多いからこそ生き続けるナチュラルな信仰と、この社独特のロケーションが相まり、
季節感にフィットした伝統を良い雰囲気で体感できる、そんな夏越だったのでした。

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アサヒビール大山崎山荘美術館へ睡蓮を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2019年5月30日(木)


大山崎山荘美術館へ睡蓮を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

『蘆刈』谷崎は、新京阪で大山崎まで来て、巨椋池の話をする男に出会います。
いや、厳密に言えば男は巨椋池の話でなく、池の畔に住む 「お遊さん」 の話をするんですが。
モダニズム華やかなりし頃の阪神間に住み、 「山城と摂津のくにざかい」 へお出かけした谷崎に、
池畔の別荘で夢のように暮らす女の話を語り、男は夢のように淀川の中州から消えたわけです。
巨椋池は、大山崎・天王山八幡・男山の間をボトルネックにして出来たような、淀川水系の遊水池。
谷崎の友人である和辻哲郎書いてる通り、蓮見物で有名であり、多くの遊覧客も呼んでました。
が、戦時の食糧増産+湿地ゆえの超激烈な蚊害対策として、昭和8年からの干拓で姿を消してます。
『蘆刈』 が発表されたのは、昭和7年。谷崎が池の干拓を知ってた可能性は、充分あるでしょう。
開通直後の電車で楽に行ける場所にて、恐慌軍靴に蹴散らされる吞気な時代の残り香と、出会う。
当時生じてたかも知れない、そんな時代の 「くにざかい」 も、 『蘆刈』 は描いてるのかも知れません。
吞気な時代の残り香、実は現代の 「くにざかい」 にはまだ、残ってます。大山崎山荘です。
大山崎山荘。今の正式名称は、大山崎山荘美術館。もとい、アサヒビール大山崎山荘美術館。長い。
元は、大阪・船場のぼんである加賀正太郎が約30年かけて昭和初期に完成させた別荘であります。
正太郎は、渡欧経験を活かして自ら設計を行い、広大な庭園付き英国風山荘を作り上げました。
が、正太郎の死後は人手に渡りまくり、新たな時代の境界であるバブル時には解体の危機にも直面。
その危機を、うんこビルを建ててた頃のアサヒビールと行政に救われ、現在は美術館なわけです。
美術館としては、正太郎と交流があったアサヒビール創業者・山本為三郎のコレクションが軸であり、
バブルの残り香で仕込んだらしきモネ 『睡蓮』 も売りですが、建物自体や庭園もしっかりと見所。
巨椋池跡&その周辺は今でも蓮&睡蓮の咲き加減が良いんですが、此処もまた睡蓮が良く咲き、
夏前の睡蓮シーズンには、モネ 『睡蓮』 と庭園の生睡蓮との競演も大きな目玉となってます。
で、巨椋池の名残にも見えなくもないその睡蓮を、大量の蚊と共に拝んだのでした。

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久美浜へこのしろ寿司を食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

2019年2月14日(木)


久美浜へこのしろ寿司を食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

久美浜。京都の 「端」 の中でも、最も 「端」 な佇まいを持つ町といえるでしょう。
立地するのは、京都府の最北である京丹後市の、最北西。伊根や経が岬がある辺の、さらに西。
最北ゆえ、すぐ北にあるのは日本海です。が、町が直で面するのは、外海から隔てられた潟湖
真青な空と真青な海が穏やかな美しさを誇るその景観は、 「タンゴブルー」 と呼ばれ、高い定評あり。
また当然ながら海の幸も豊富であり、王道のカニに加えて牡蠣の美味さも有名だったりします。
となれば、どんどん出かけて観たり食ったりしたいところなんですが、そうするには久美浜、遠い。
私が住む南部の八幡からだと、公共交通機関で行ける京都府の町としては、恐らく一番遠いです。
ほとんど南の端から北の端へ行くようなものなので、遠い。なのでもちろん、かかる交通費も高価い。
鉄道がない伊根より、高価い。多分、延々とバスに乗らなければいけない美山よりも、遠くて高価い。
ので、京都の 「端」 や 「境界」 を裏テーマとする当サイトも、ずっと行けずじまいだったのでした。
しかし、それでもなお出かけたくなる理由が、冬の久美浜にはあります。このしろ寿司です。
このしろ寿司。いわゆるコハダが少し大きくなった魚・このしろを用いた寿司ということになります。
であれば、それこそコハダの握りみたいなのを想像するんですが、これが全く違うらしいんですよね。
ベースになるのは、シャリでなく、おから。また作りも、江戸前の握りとも上方の箱寿司とも違うという。
おから寿司そのものは、日本の各地に割とあるものですが、少なくとも京都ではあまりありません。
また、コハダ自体が京都 or 関西ではマイナー。このしろも同様です。なのでこれは、実に珍しい。
「端」 や 「境界」 ならではの食文化に触れられるのではないかと、興味をそそられたのでした。
おまけに、カニみたいに高価くない。牡蠣ほどの値段さえしない。一本、500円もしない。いい感じです。
ので今回、時間・金・興味のバランスを何とか整えて、遠路はるばる出かけて見たのであります。
で、実際に食したこのしろ寿司によって、斜め上どころではない凄まじい衝撃を、受けたのでした。
そしてその衝撃は、久美浜の印象さえ、大きく変えてくれるものだったのでした。

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笠置山もみじ公園のもみじライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2018年11月18日(日)


笠置山もみじ公園のもみじライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

笠置といえば、何といってもまず、笠置山です。そして、そこに建つ笠置寺です。
大友皇子が再訪時の目印として巨岩に笠を置いたことから、その名が付いたという、笠置山。
標高こそ289mながら、至る所に巨岩が露出するその姿から、古より信仰を集めてきた霊峰であり、
また無論、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒した元弘の乱に於いて、挙兵地となった山でもあります。
で、そんな笠置山に鎮座するのが、大友皇子が掘らせたという磨崖仏を本尊とする、笠置寺。
平安期は天皇や藤原氏からの信仰を獲得し、鎌倉期は戒律の復興者たる貞慶を得て隆盛を誇り、
また仏教伝来前の巨石&山岳信仰も含め、生々しい信仰の息吹を今に伝える名刹であります。
共に、笠置へ訪れた際は、必ず出向かわなければならない地です。スルーは、断じて許されません。
が、この3か月前に花火を観に笠置を訪れた際、私は笠置山登頂&笠置寺参拝を、忌避しました。
理由は、登るのが面倒臭かったから。徒歩で登るには、参道の坂がとんでもなくきつかったから。
当日は真夏+激暑で、絶対に汗だくになると思ったから。車がないと絶対に無理と思ったから。
いや、仮に車があって登れても、あの日は花火の超大混雑で、笠置から多分出れなかったから。
といったわけで、結局は花火の反響音に山の存在を感じただけで、この地をトンズラしたのでした。
いけません。歴史の重みと浅薄な享楽を常に体感的に併せ飲む当サイトが、これでは、いけません。
何より、山が私を呼んでるのが、聞こえる。笠置山が、私を呼んでる。笠置寺が、私を呼んでる。
あの背後霊みたいな磨崖仏が、南の彼方から 「挨拶はないのか」 と私を呼んでるのが、聞こえる。
と、霊が高まったので、気温が下がった秋、私は笠置山へ改めて挨拶しに行くことにしました。
笠置山、霊峰としても名高いですが、春は桜、そして秋は紅葉の名所として有名だったりします。
おまけに、紅葉が集結する山中のもみじ公園は、11月の夜間にライトアップも実施。いい感じです。
ので、霊気が高まる夜に、紅葉が色づく笠置山へ赴いてみました。今度は、自力で登山して。
磨崖仏だって、拝んだに決まってるのです。拝んでなければ、おかしいのです。

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長岡京ガラシャ祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2018年11月11日(日)


長岡京ガラシャ祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

細川ガラシャ。京都府下に於いては、色々と町おこしのネタになってる人物です。
明智光秀の娘として生まれ、細川忠興へ嫁ぎ、キリシタンとなって最後は爆死した、ガラシャ。
京都府には、ガラシャが嫁入りした頃の細川家が領地としていた乙訓・長岡丹後・宮津があり、
長岡は勝竜寺城での輿入れ、丹後は本能寺後の幽閉も行われてる為、ネタ化もまあ当然でしょう。
ただ、ガラシャが受洗を経ていわゆるガラシャとなったのは、御存知の通り、あくまで大坂での話
幽閉経験が受洗に繋がった可能性はありますが、所詮はプレ話。爆死のインパクトには適いません。
というか、より率直に言えば、そんなに盛り上がるもんか、と。君ら、そんなにガラシャ好きか、と。
不埒とも言えるこの疑念、輿入れというハッピーな逸話だけが残る長岡では、より強くなります。
長岡時代は、忠興から 「靡くなよ我が姫垣の女郎花 男山より風は吹くとも」 と歌われた、ガラシャ。
性欲山・秀吉の淫風が心配になる、花のような新妻のガラシャ。ハッピーであります。が、好きか、と。
と、思うのです。で、この疑念に色んな意味で応えてくれるのが、長岡京ガラシャ祭なのです。
江戸初期の勝竜寺城廃城後、長らく単なる農村だった長岡は、現代・高度成長期に入り発展を開始。
京都&大阪の良きベッドタウンとなったことで人口が爆増し、1972年には長岡京市として市制導入。
良水が要る大手電子企業も続々進出したことで、拡大は続き、その勢いはバブル期まで継続。
その勢いの余波を受ける形で90年代、勝竜寺城の復活と、長岡京ガラシャ祭は開始されました。
この長岡京ガラシャ祭は、勝竜寺城でのガラシャの輿入れを再現し、華麗な時代行列を展開する祭。
といっても、歴史蘊蓄などは希薄で、基本はコスプレ&露店。で、これが盛り上がってるんですよ。
「ガラシャ+結婚」 というネタが、旧市民も新市民も利害なく等距離で関われる点がマッチしたのか、
まとまる材料皆無の急造ベッドタウンにあって、観光客よりもむしろ地元住民の盛り上がりを獲得。
長岡京市という街を凝縮すると共に、歴史系町おこしのひとつの在り方も示す祭となってます。
そんなガラシャ祭、男山山麓に住む八幡人として、風な気分で出かけてみました。

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亀岡祭の宵山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2018年10月24日(水)


亀岡祭の宵山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

祇園祭・宵山には、独特の気配、はっきり言えば 「死」 の気配が漂ってると感じます。
『京都思想逍遥』 では 「滅び」 と表現してましたが、私が感じるのは寧ろギラついた 「死」 です。
無論そんな 「死」 は、露店&大混雑で覆い隠されてます。が、ちょっとした隅とかに、すぐ現れます。
比較的人が少なめとなる後祭・宵山が復活した後は、さらにあちこちで感じられるようになりました。
「単に辺りが暗いから、そう思うだけだ」 と思われるかもしれませんが、ちょっと違うんですよね。
「祭は元来、そういうものだ。カーニバルだ」 とも思われるかもしれませんが、ちょっと違うんですよね。
街が背負う祭の重責が、異様な気配を生んでるというか。しかも、それが千年分重なってるというか。
千年分重なった愛着・憎悪・恐怖・徒労などが、濃厚に混ざり、ギラつく暗黒色を生じてるというか。
で、そんな暗黒色から沸き立つ 「死」 の気配こそが、チャラい混雑も引き寄せてる気がするというか。
妄想や思い込みが甚だしい上、全く誰も得しない話で恐縮ではありますが、あなたどう思いますか。
祇園祭・宵山へのこの印象、実は、逆説的に裏付けてくれた祭があります。亀岡祭です。
丹波の最南端にある亀岡の地を、巨大な鍬を以て切り開いたという伝説を持つ鍬山神社の例祭が、
明智光秀による亀山城築城を経て、江戸期には城下町の祭として規模を拡大するに至った、亀岡祭。
城下町の町衆達は多彩な練り物を出し始め、祇園祭の影響を受けまくった10数基の山鉾も出現。
リアル京都に至近なこともあって、本物顔負けの豪華な山鉾が城下を練り歩くようにまでなりました。
城が消滅した明治以降は衰退しますが、平成に入ると復興の気運が上昇し、山鉾も立て続けに復活。
最近では全鉾による山鉾巡行も行われ、 「口丹波の祇園祭」 の名を確固たるものにしてます。
そんな亀岡祭、巡行前夜には宵山も開催。で、この宵山が、本家と似てるようで、違うんですよね。
残りまくる城下町が、祇園祭以上に祇園祭的に映える一方、全く違う何かも見せてくれるんですよね。
「死」 や暗黒が渦巻くことなく、ひたすら大らかに、そして美しく、山鉾が寿がれてるんですよね。
そんな亀岡祭の宵山、夢コスモス園でコスモスを見た帰り、のんびり歩いてみました。

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亀岡夢コスモス園へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2018年10月24日(水)


亀岡夢コスモス園へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

巖谷國士は、宇野亜喜良美しい挿画に彩られた本の中で、コスモスに触れてます。
曰く、旅先のメキシコにてコスモスに出会ったと。そして、コスモス本来の姿を見た気がしたと。
「乙女の真心」 なる花言葉を持ち、可憐な姿からヨーロッパの花と思われることも多い、コスモス。
しかし、原産地はメキシコであり、その原産地で見たコスモスは、乾いた荒地に伸び広がっていたと。
南米の青空の下で咲く姿は、竜舌蘭やサボテンにさえ負けない野生を潜ませてるようであったと。
日本では、想像もつかない世界であります。が、全く想像不能かといえば、そうでもなかったりします。
よく考えると、何もない所に観光スポットを急拵えする際、コスモスを活用する地域は多いものです。
休耕地や遊休地でも、平気で咲く、コスモス。日本でも、タフな可憐さを結構、発揮してるわけですね。
野蛮なタフさと表裏一体の、可憐さ。魅力的です。何なら、可憐さの本質に見えなくもありません。
強奪したシトロエン2CVを駆って、コスモスが咲く欧州の野道を爆走した、あの9月の花嫁のように。
そんなコスモスの可憐さと野蛮さを感じられる場所が、京都府にもあります。亀岡です。
明智かめまるではなく明智光秀によって築城された、亀山城。その城下町として形成された、亀岡
しかし、市制導入と同時に行われた合併で、市域は爆発的に拡大し、現状はその大半が、農地。
京野菜の多くを出荷するほどそれら農地の生産力はパワフルですが、でも余る土地は余るのであり、
そんな土地を利用したスポットとして、亀岡夢コスモス園が20年程前から開かれるようになりました。
秋だけ開かれるこの夢コスモス園では、約4.2haの敷地に、様々な種類のコスモス約800万本が開花。
また、丹波の味覚が集まる 「丹波味わい市」 や、農地らしい創作かかしコンテストも、同時開催。
特に創作かかしコンテストでは、某夜更かしでグランプリに選出された某デラックスな方のかかしが、
可憐なコスモスの海の中で特異な存在感を放つという、野蛮といえば野蛮な奇観も現出してます。
そんな可憐で野蛮な夢コスモス園、深まる秋風に誘われるように、何となく出かけて見ました。
ひょっとしたら、私も野蛮に爆走する 「乙女の真心」 に、出会えたりするのでしょうか。

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笠置夏まつり花火大会へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2018年8月4日(土)


笠置夏まつり花火大会へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

笠置町。京都府で高齢化や人口減の話になると、必ずその名が上がる自治体です。
巨岩が並ぶ霊地であり、元弘の乱で後醍醐帝行幸した、笠置山。その笠置山を擁する、笠置。
擁するというか、町域の8割がこの山地などで占められるため、此地の主産業は無論、林業でした。
町を東西に流れる木津川上流を物流ルートとして、古くより奈良・京都へ木材を供給しており、
奈良・東大寺興福寺杣山や、また我がホーム・石清水八幡宮の神領&杣があった歴史もあり。
しかしそれゆえ、林業が衰退した現代に入ると、他に産業がないこの町の人口は減少し始めます。
やむなく観光に活路を見出した笠置町は、元弘の乱ゆかりの観光地として笠置山をアピールし、
後醍醐持ち上げ+足利逆賊の戦前では結構盛り上がりましたが、人民主権の戦後に入ると下火化。
高度成長期以降は、レジャーの多様化+街から半端に遠いことが災いして、さらに人気が下降。
現在は、 「出生数ゼロ」 「高齢化率50%」 などの話題で、京都新聞を賑わす地となってるわけです。
では、笠置町がひたすら過疎全開でゴーストタウンな町かといえば、そうでもありません。
傍目には血税を盗まれてるようにしか見えないですが、移住・定住推進の情宣なども、色々と展開。
また、キャンプ場カヌーといった木津川を活かしたレジャーは、凄く盛ん。イベントも、色々開催。
私は出かける度、割と賑やかな所に見えました。同様の印象を持つ方も、多いのではないでしょうか。
町が山間で狭いため、すぐ人口密度が上がるだけとも言えますが、賑やかに見えるんですよね。
もちろんその印象は、定住者の数とは全然関係がない話ですが、とにかく頑張ってる町であります。
そんな笠置町の最大のイベントともいえるのが、毎年8月上旬に行われる夏まつりの花火大会です。
木津川で1800発を打ち上げるこの花火、 「8割が山地」 という場所のため、音が反響しまくり。
規模こそやや小ぶりではあるものの、他所では体感不能の爆音サラウンド状態を現出させてます。
また、そもそも狭い+人少ない所へ客が密集するため、混雑が超々激化するのも、ある種の味。
そんな笠置の花火、混雑が超々々々激化した関西線に乗って、出向いてみました。

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夏越祓の茅の輪を石清水八幡宮だけでくぐってきました。もちろん、ひとりで。

2018年6月30日(土)


夏越祓の茅の輪を石清水八幡宮だけでくぐってきました。もちろん、ひとりで。

夏越の日に茅の輪を求めて神社を彷徨い歩き、浅ましく祓力を貪り倒すという、愚行
のみならず、その祓い倒れ徘徊を 「マイナー神社紹介」 として己の内で正当化するという、悪行。
そもそも、本当の祓というのは、一回だけするものです。一回だけするからこそ、意味があるのです。
なのに、何度もくぐる。まるで、食べ歩きの如く、くぐる。そしてその所業を、善きことのように思い込む。
神の尊厳を踏みにじり、その神を奉る方々の信仰をも冒涜しかねないこうした行為については、
当サイトでもその犯罪性を重々に認識&反省し、禊として天王山登山などの荒行も決行してきました。
翌年にはその反省を完全に忘れ去り、茅の輪さえくぐらない宇治めぐり in 夏越なんかもしましたが、
それでも、常に信仰と伝統を重要視する形で、毎年の茅の輪くぐりまくりを展開してきたつもりです。
が、そんな偽罪悪感 or 偽反省よりも重要なことを、夏越ネタで忘れていたことに、私は気づきました。
地元である石清水八幡宮での夏越の茅の輪くぐりを、今まで一度たりともちゃんとやってない、と。
石清水八幡宮。言うまでもなく、二所宗廟のひとつであり、国家級の神社であります。
やんごとなき方々の崇敬も篤く、三勅祭のひとつ・石清水祭については当サイトでも触れてる通り
国家的除災行事 or 宮中祭祀である大祓にルーツを持つ夏越祓でも、当然、茅の輪が設置されます。
なので、近所の私はくぐろうと思えば、すぐにくぐれるのです。歩いて行って、すぐにくぐれるのです。
が、この簡単さこそゆえに私は、本来は絶対外せないはずの大社を、スルーし続けていたのでした。
これは、いかん。そう思った私は、有り余る時間・金・やる気を脇に置き、2018年の夏越を八幡で決行。
しかも、めぐり一切なしのワンショット・一発勝負で。大本命だけに、浮気も寄道も許されません。
一回だからこそ意味がある祓を、神事タイムも外した穏やかな時間帯に、しっとり行ってみたのでした。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトであるために必要な挑戦なのです。
決して、時間も金もやる気もいい加減ないので、近所でちゃちゃっと済ませたのでは、ありません。
断じて、この日が激暑+夕方から激雨のため、めぐりを日和ったのでも、ありません。

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当尾・岩船寺へあじさいを観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2018年6月21日(木)


当尾・岩船寺へあじさいを観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

「京都の端」 というのは、本当に単なる 「京都の端」 であるとは限りません。
実際にかなりな山が聳え、人界がその彼方にしかないような鯖街道 or 口丹波エリアであれば、
確かに 「端」 感 or 「どんつき」 感みたいなものを、多くの人が体感的に感じることでしょう。
しかし、 「端」 といっても隣府県とほぼ地続きな山城エリア南部では、この事情も変わってきます。
ざっくり言えば、お隣の文化的影響を色濃く受けた風土みたいなのが、形成されるわけですね。
正月や七五三などの行事がある度に、石清水八幡宮の駐車場へ大阪ナンバーの車が停まりまくり、
住民の大半の最寄駅が大阪府枚方市・樟葉駅だったりする我がホーム・八幡などは、その典型。
また、淀川を挟んでその八幡と向き合う山崎などは、大阪との境界線さえ何となく曖昧であり、
ランドマークのはずの山崎蒸留所まで大阪府島本町にあるくらい、 「端」 ならぬ 「端」 だったりします。
単なる 「京都の端」 ではない、もう少し変わった何かが、こうしたエリアには生まれるわけですね。
京都府最南端にあり、隣接する奈良とほぼ同然な当尾も、そんな 「京都の端」 です。
平城京の外郭浄土とされ、平安遷都前より南都仏教の影響を受け続けてきた、遠野ならぬ当尾。
世俗化を厭い、官寺では果たせぬ悟りの境地を求める奈良の僧侶は、こぞってこの地に草庵を結び、
やがて舎利塔が尾根を成すほど並んだことから、 「塔尾」 「当尾」 の名が付いたといいます。
鎌倉期に入ると、東大寺を再興すべく来日した南宋の石工・伊行末らによって多くの石仏も作られ、
現代まで残ったそれらの仏像は、当尾磨崖仏文化財環境保全地区 aka 「当尾の石仏の里」 も形成。
「端」 と呼ぶには、余りにゴージャスな文化遺産を持ち、そして徹底的に奈良な地なわけですね。
そんな当尾、通常ならもちろん仏像ハイキングと行きたいわけですが、近年はあじさいも割と有名。
浄瑠璃寺と並ぶ石仏の宝庫として、阿弥陀如来坐像や普賢菩薩騎象像を持つ岩船寺が、
昭和初期から栽培されてるというあじさいで評判を呼び、名所として京都・奈良で知られてます。
で、そんな 「端」 ならぬ 「端」 の地のあじさいを、今回観に行ってみました。

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