節分の平等院・鳳翔館へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2020年2月3日(月)


節分の平等院・鳳翔館へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

が退治された世界で生きるということ。我々はそのことを、もっと真剣に考えるべきです。
鬼に連れ去られることがない世界。鬼に殺されることがない世界。鬼に食われることがない世界。
それは果たして、真の意味で平和と呼べる世界なのか。果たして、幸福と言える世界なのか。
いや、無論それは幸福には違いありません。問題は、我々が幸福だけで満足できない点にあります。
鬼という存在によって秘かに満たされてきた、我々の欲望。連れ去り、殺し、食いたいという欲望。
これらの欲望を満たす機会を、鬼のいない平和な世界の代わりに、我々は手放したのではないのか。
またこの平和で幸福な世界は、単に鬼よりも巨大で極悪な権力に地均しされた地獄ではないのか。
こうした疑念を等閑視し、呑気に鬼を 「他者」 「外部」 として夢想するなど、欺瞞でしかありえません。
この世界で鬼と向き合うのなら、我々が鬼を殺した側であるという痛みを、まず見据えるべきです。
そして、その痛みを通じて、鬼退治後の世界に於ける平和・幸福の実相こそを、見据えるべきです。
そう考えた私は、恒例となった節分の鬼めぐりに於いて今回、平等院へ赴くことにしました。
平等院。言うまでもなく、京都・宇治に在って鳳凰堂で広く知られる、世界遺産のひとつであります。
離宮化→別荘化→寺化という平安後期の信仰&権力の様を物理的に現代へ伝える、正に名刹。
そんなロイヤル&パワフルな平等院へ節分に赴く理由は、その宝物殿・宇治の宝蔵に他なりません。
成敗された鬼の首は、都で帝の叡覧を経た後、蔵へ納められました。この蔵こそが、宇治の宝蔵。
権力に敗れた鬼の最期、またその骸が現代まで受け続ける辱めを、体現してる場所と言えるでしょう。
「いや、宇治の宝蔵って単なる伝承だよ」 と言うなら、鬼もまた、極めて伝説・伝承的な存在です。
そして、伝承が何かしらのリアルを含むのは、自明のこと。となれば、宇治の宝蔵も事情は同じはず。
鬼退治とは果たして、どういうことなのか。鬼のいない世界とは果たして、どういう世界なのか。
幻想と錯覚の中でしか触れ得ないそんな真実に触れるべく、私は2月の宇治へ向かったのでした。
ので、宇治茶を喫む暇など、あるわけありません。茶蕎麦を食う暇も、あるわけありません。


節分当日の13時過ぎ、京阪で京阪宇治駅に到着した後、平等院へ行く前に宇治橋・三の間へ。
元は此辺に祀られてた鬼女・橋姫に、まずは御挨拶です。逃げた夫への嫉妬で鬼化した、あれです。
元祖・丑の刻参りの、橋姫。ただ、ダム完成後でも暴れまくるこの川から、橋を守る女神でもあります。
夫の遁走も、実は水死を意味するとも言われてたり。龍宮に入り浸ってたという話もあるらしいけど。


そういえば平等院って別名が龍宮だったなとか思いながら、鬼婆、ではなくて紫式部にも御挨拶。
剃り込み入れた死神が白眼でデスノート書いてるようにも見えますが、女神の如き美しさであります。
あ、宇治の宝蔵は鬼の首の他にも、 『源氏物語』 の幻の完結編 『雲隠六帖』 も収めてたそうですよ。
挨拶してる背後では、人力車の兄ちゃんたちが必死で客引き中。客が少なくて、死ぬほど暇みたい。


それでも私には目もくれない人力車の兄ちゃんたちに背中で別れを告げながら、平等院参道へ。
参道は、駅や橋と同じく、人通りは少なめ。以前に夏越で訪れた時と比べたら、半分くらいでしょうか。
コロナと2月の寒さが、応えてるみたいです。参道を埋めてた中国人も、減りました。いなくもないけど。
珠にいる中国人団体に、鬼のようにベルを鳴らす地元自転車を見かけると、何故かほっとしたりして。


となれば、中村藤吉とかも全然空いてるかも。などと思って寄ったら、しっかり中国人で混雑中。
パーフェイ食いながら、IT界で鬼子扱いのファーウェイの行く末を考えたかったんですが、残念です。
そういえば、こういう場所で群れそうな愚鈍な餓鬼って、中国で 「小鬼」 って呼ばれてるんでしたっけ。
ひとりっこ政策のせいで我儘放題に育った、みたいな。いや、 「小鬼」 は日本人の蔑称でしたっけ。


で、そんな話とは関係なく、平等院、着きました。源融 aka 光源氏の別荘に始まる寺であります。
その別荘が離宮化し、その離宮を藤原道長がまた別荘化し、その子・頼通が寺化した寺であります。


そんな立派な平等院に600円で入れるんだから、人民主権の社会ってやっぱり最高ですよね。
券を買う際、鳳凰堂の池が工事中で水が少ないと説明されましたが、今日の私には関係ありません。


受付の周辺も人は少なめでしたが、門の先の境内も少なめ。ゼロには程遠いですが、少なめ。
別料金が必要な鳳凰堂内部の観覧客も、割といたりします。こちらも、今日の私には関係ないけど。


関係ないとはいえ、やはり一応拝んどきます、鳳凰堂。現世に阿弥陀浄土を現出させる堂です。
無論、龍宮もモチーフだと思います。本当に工事中で水が少ないですが、龍宮に見えると思います。


逆サイドから順光で見たら、龍宮に見えると思います。水が少なくても、龍宮に見えると思います。
何せ中世の叡山僧『渓嵐拾葉集』 にて 「宇治を以て竜宮と習わす」 とか言ってるくらいですから。
実際、巨椋池此辺まで広がってた近世以前は、より親水的なトポスを誇ってたのかも知れません。
此処を寺化した頼通が、死後に龍神と化して宇治川に棲んだという伝承も、よく知られるところです。


そして、そんな藤原長者が 「宇治入り」 という形で代々引き継いだ寺の蔵こそが、宇治の宝蔵。
で、宇治の宝蔵の現代版と言えるのが、こちらの博物館である平等院・鳳翔館。今日の目的地です。
多くの国宝を収蔵・展示すると共に、鳳凰堂内部をCGなどで再現する地下型の登録博物館、鳳翔館。
場所は、先刻の鳳凰堂の南西。宝蔵が鳳凰堂の南西に在ったとされることに、因んだんでしょうか。


田中貴子 『外法と愛法の中世』 によると、この世の真善美を収集し秘蔵したという宇治の宝蔵。
鬼の首や 『雲隠六帖』 の他にも、妖狐・玉藻前の骸や鬼神魔王・大嶽丸の首も秘蔵したといいます。
龍神と化した頼通はそれらを守るべく、丑の刻になれば川から出て蔵を見回り、闖入者は殺したとか。
あ、現代の宝蔵は、闖入して殺されるということはなし。鳳凰堂内部みたいな追加料金も、不要です。


で、何故か自動ではなく昭和っぽい手動ドアで入館。


入館し、クラウド菩薩の復元フィギュアを拝む。


その先で、プラ射出成形のように見える梵鐘も拝む。


照明が格好いいオリジナルの鳳凰も拝む。


で、オリジナルのクラウド菩薩も拝む。


私にとっては推し菩薩となる南12号も拝む。


南12号の、謝りながらトンズラするような様を愛でる。


南12号と共に私の推し菩薩である南3号も拝む。


南3号の、乾いた気合と1本だけ動いてる指を愛でる。


と、菩薩を愛でてる内に展示室が終わり、地上のショップに出ました。ので、ちょこちょこと購入。
絵馬や図版にも惹かれましたが、金が惜しいので、小パンフと推し菩薩の絵葉書2枚だけ買いました。


ショップの隣の宇治茶カフェにも、入店。で、茶道具が色々と多くて面白そうな煎茶をオーダー。
店員さんに淹れてもらい、砂時計で時間を測った煎茶は、超美味。でも自分で淹れたのは、超普通。


宇治茶した後は、境内を徘徊。初代・通圓の墓も拝んだりして、平等院をすっかり満喫しました。
鬼の首は、なかったけど。いや、鳳凰堂の屋根では、鳳凰や龍と共に鬼瓦も睨みを効かせてたけど。


で、何処にでもある鬼瓦の他は鬼的な物を見ないまま、平等院を退院。で、しばし周囲を散策。
全く何もなかったですね、鬼。でも、多分そこが大事なのです。鬼は、 「おぬ」 ことでもあるのだから。


平等院を建てた頼通が、宇治川の龍神と見られるようになったのは、藤原氏の没落後だそうです。
摂関の権威を霊力で保持しようと、頼通を持ち上げたんだとか。宇治の宝蔵も、そう。鬼の首も、そう。
型落ちの愛欲が惰性のように描かれる 『宇治十帖』 の舞台で、型落ちの権力を担保した、不在の首。
何か、お似合いな気もしてきます。そして、優れて現代的な憂鬱 = ブルージーという気もしてきます。


格落ちの演者が、出来損ないの2次創作みたいに無意味な浮遊を続ける、 『宇治十帖』 の世界。
平和といえば、平和です。幸福といえば、幸福です。ただ空虚さは、鬼の首の不在さ加減といい勝負。
いや、この空虚こそが、鬼ということなんでしょうか。人は空虚を得る毎に、鬼の力を得るのでしょうか。
となれば、より出来損ないで、 『雲隠』 のように存在も怪しい現代の我々は、既に鬼なんでしょうか。


空虚ゆえに我々が鬼の力を得たのなら、幸福だけで満足できないのも、道理かも知れません。
とはいえ、こんな不確かで不埒で 「憂じ」 な世界から脱出したくなるのも、人情としては当然でしょう。
通圓本店の前には、数多の走り屋が冥界へ遁走した宇治川ラインの石標が、墓標の如く立ってます。
おまけにこの 「宇治川ライン」 は元来、川上流でダムに沈んだリゾートの呼称。いわば、死称です。


黄泉の上に板子一枚で浮いてるようでもある、宇治。むしろこの感じこそが、 「憂じ」 なのかも。
そんなことを考えてると、私も急に生の実感が欲しくなりました。ので、通圓にて茶蕎麦を食べました。
「食ってる場合じゃない」 とか言いましたが、今日は節分。年越し蕎麦として、充分食ってる場合です。
なので山盛りの茶蕎麦をがっついてると、窓に薄く映った自分の顔が少し、鬼みたいに見えました。

客層の記述はあまり意味がない時節にも思えますが、
一応書いておくなら、この日の平等院の客層はごく普通に観光客が中心。
もちろん、修学旅行のやりなおしみたいな輩も多いですが、関西近隣系も割と多し。
で、そのいずれもが、清水寺などよりも数段は格落ちする感じがするという。
中国人&修学旅行生は少なく、全然混んでませんが、でも全然空いてもいません。
ひとり客は、それなりにいて、層的にも色んな感じで烏合でした。

そんな平等院・鳳翔館での、節分。
好きな人と行けば、より 「おぬ」 なんでしょう。
でも、ひとりで行っても、 「おぬ」 です。

【客層】 (客層表記について)
カップル:2
女性グループ:1
男性グループ:微
混成グループ:2
子供:0
中高年夫婦:若干
中高年女性グループ:2
中高年団体 or グループ:2
単身女性:微
単身男性:微

【ひとりに向いてる度】
★★
中国人がいなくても、やっぱり観光地。
完全なオフシーズンであっても、やっぱり観光地。
清水寺みたいに面白いほど酷いというわけではないが、
基本的には修行 or 諦めの境地で行くのがいい。

【条件】
平日+節分 13:00~15:30


 
 
 
 
 

平等院・鳳翔館
京都府宇治市宇治蓮華116
9:00~17:00

京阪電車 京阪駅下車 徒歩約10分
JR奈良線 宇治駅下車 徒歩約10分

平等院・鳳翔館 – 公式