2016年6月23日(木)

大原・三千院へあじさいを観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
あじさいに、 「北」 の花というイメージはあるでしょうか。私には、あまりありません。
どちらかといえば、 「南」 な花、という印象を持ってました。生息域は東北辺りまで、みたいな。
この印象は無論、間違った思い込みに過ぎません。あじさいの生息域は、北海道にまで及びます。
それこそ、エゾアジサイもあるし。世界へ目を向ければ、ヒマラヤにもアジサイがあるらしいし。
少なくとも人が住める程度の北所や高所に於いて、あじさいが咲かないということはないようですよ。
にも関わらず、そんなあじさいに対して私が 「南」 な花という印象を、何なら今も持っているのは、
京都に於けるあじさいの名所が、京都市 or 京都府の南部に比較的多いからなのかも知れません。
藤森の藤森神社。宇治の三室戸寺。共に、著名なあじさいの名所です。で、所在地も共に、南部。
あじさいが咲く梅雨のテイストと、かつて巨椋池が存在した湿地帯的なるディープサウスのテイストを、
己の中で勝手に重ね、己の中で勝手に納得し、己の中で勝手に確定してたのかも知れません。
当然、こんな阿呆な類推・曲解・盲信に関係なく、京都の北部に於いてもあじさいはしっかり、開花。
見物客を多く呼び込むあじさいスポットもしっかり、存在します。そのひとつが、三千院です。
三千院。言うまでもなく、洛北にして 「京都の奥座敷」 とも呼ばれる大原を代表する名寺であります。
天台声明の聖地であり、建礼門院などの貴人が世を捨て隠棲したことでも知られる大原の里へ、
明治期に入って梶井門跡が移転し、声明寺院を統括していた政所に落ち着く形で生まれた、三千院。
アクセスは未舗装の鯖街道のみだった大原が、昭和の道路整備&バス開通で観光化した後は、
「京都・大原・三千院」 という三段活用と共に、そのランドマークとして認知されまくっている、三千院。
大原の 「侘」 を体現する極楽往生院を始めとして、見所が多く人気も高い名刹なわけですが、
梅雨時の稼働率も上げたいのか何なのか、境内にはあじさい苑も設けられ、こちらも結構な人気。
あじさいを 「南」 な花と思い込む私の臆見など無関係に、大原の梅雨を鮮やかに彩ってます。
で、そんな 「北」 のあじさいを拝むべく、サウスな私は鯖街道を北上したのでした。
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2014年2月9日(日)

三千院の幸せを呼ぶ初午大根焚きへ行ってきました。もちろん、ひとりで。
大根焚きは、12月にだけ行われるものではありません
2月でも、行われることがあります。何故なら、冬に食べる大根焚きは美味いからです。
まして、白い雪の中で白い湯気を立てながら熱々の大根を頂くとなれば、その美味さは尚更。
更に、その場所が風格ある門跡寺院なら、至福の喜びが五臓六腑に染み渡るというものでしょう。
そんなナイスなロケーションの大根焚きを2月に行うのが、洛北・大原の三千院であります。
三千院。もちろん 「きょ~と~、お~はらさ~んぜ~んい~~ん」 で知られる、あの三千院です。
最澄が開いた叡山・円融房に始まり、皇族の入寺により門跡化するも長きに渡り各地を転々、
明治初頭に至ってやっとこさ声明の聖地&念仏の里たる大原へ落ち着いた、門跡寺院・三千院。
そんな由緒や経緯より、昭和期に生まれた 「恋に疲れた女がひとりでやって来る」 というイメージや、
あるいはバリバリの観光寺院としての印象の方が強い気もしますが、とにかく偉い寺であります。
偉い寺ゆえか、観光寺院のイメージの割に客寄せイベントはさほど行わない三千院ですが、
たまに庶民テイストな行事もやってて、それが2月の初午に行われる 「幸せを呼ぶ初午大根焚き」 。
しば漬の産地として有名な大原の畑において、味がしみやすい大根を有機農法で栽培し、
特別祈祷した上で煮込んで冬空の下で頂くという、正に大原の地の利が生きた大根焚きです。
素晴らしい、実に素晴らしい。有り難い、実に有り難い。仏の御心が染み渡るというものであります。
あ、いや、仏の御心といっても、大根焚き、無料ではありませんよ。当然でしょう、門跡ですから。
拝観料、要ります。割引とかも、ありませんよ。通常料金です。当然でしょう、門跡ですから。
ただ、大根はおかわりし放題。何杯でも食えます。それこそが、仏の御心です。門跡の御心です。
そんな大根焚き、恋にも疲れたわけでもなく、女でもありませんが、出かけてみました。
出かけたのは奇しくも、大雪の次の日。幸せは、呼べるでしょうか。
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2011年5月7日(土)

大原・宝泉院の春の夜灯りへ行ってきました。もちろん、ひとりで。
宝泉院。いわゆる「額縁の庭園」で有名な寺です。
客殿の柱の間の空間を額縁に見立て、「立ち去りがたき」庭園・盤桓園を鑑賞するという、あれ。
京都を「そうだ」呼ばわりしてださってどうもありがとうな某CMでフィーチャアされてから特に、
絵画のようなその美しいビジュアルが人気を博するようになりました。
独立した寺ではなく、すぐそばに建つ勝林院の僧坊。やはりすぐそばの実光院とともに創設。
70年ほど昔は高浜虚子によって「大原や 無住の寺の 五葉の松」と詠まれる無住寺だったとか。
それが今では「閑」を求めてやってきた観光客ですっかり人だらけ、などということはありません。
三千院&勝林院よりさらに奥にあるという立地、そもそも大原自体が市街地から遠いアクセス性、
加えて昼間でも強制的にお茶とお菓子がいただけて800円という拝観料設定が、
紅葉などのピークタイムを除いてこの寺の侘びの味をしっかりと動態保存。
大原名物・声明の響きの中で落ち着いたときを過ごせる空間を、現在も作り出しています。
そんな宝泉院が4月下旬からGWにかけて行うのが、春の夜灯り。
新緑に萌える庭園をライトアップで彩り、立ち去り難き風景をさらに立ち去り難くするというものです。
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2011年5月7日(土)

大原女まつりの大原女時代行列へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
大原女と書いて、おはらめ。
隠棲の里・大原より、独特のスタイルで薪や農作物を京へ売りにやってくる女性達の通称です。
そのルーツは、壇の浦で我が子を抱いて入水するも死にきれず、寂光院に隠棲した建礼門院。
院に仕えた阿波内侍の作業着姿を、地元娘たちが真似。それが大原女の始祖と考えられてます。
鄙の中にも御所由来のセンスが光るその姿は、古くから歌に詠まれ、絵にも描かれ、
単なる行商としてのみならず、一種の雅な風物詩として長らく都の人から愛されたとか。
しかし大原女、実際は雅どころではない重労働です。大原から京都までの移動は、もちろん、徒歩。
バスなど、走ってません。そもそもバスが走れるような道さえ、最近までありませんでした
だからこそ行商に意味があったわけですが、交通が開けるとその意味が薄まり、大原女は減少。
今の大原女は、観光用ばっかり。で、それではいかんと奮い立ったのが、当の大原観光保勝会。
地元以外の若い女性にも大原女の衣装を着てもらおうと、「大原女まつり」なるイベントを企画。
大量の変身大原女を動員して、時代行列も開催。それに絡めて、フォトコンテストも開催。
「変わった格好したい」女と、「女を撮りまくりたい」男が集結するイベントとして、
人気を博するようになりました。
「それ、要するにコスプレ撮影会ですよね」と言われたら、全くその通りです。
ただ、カメコの平均年齢が普通の撮影会の3~4倍高いのが、大きな特徴であります。
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