長岡京ガラシャ祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2018年11月11日(日)


長岡京ガラシャ祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

細川ガラシャ。京都府下に於いては、色々と町おこしのネタになってる人物です。
明智光秀の娘として生まれ、細川忠興へ嫁ぎ、キリシタンとなって最後は爆死した、ガラシャ。
京都府には、ガラシャが嫁入りした頃の細川家が領地としていた乙訓・長岡丹後・宮津があり、
長岡は勝竜寺城での輿入れ、丹後は本能寺後の幽閉も行われてる為、ネタ化もまあ当然でしょう。
ただ、ガラシャが受洗を経ていわゆるガラシャとなったのは、御存知の通り、あくまで大坂での話
幽閉経験が受洗に繋がった可能性はありますが、所詮はプレ話。爆死のインパクトには適いません。
というか、より率直に言えば、そんなに盛り上がるもんか、と。君ら、そんなにガラシャ好きか、と。
不埒とも言えるこの疑念、輿入れというハッピーな逸話だけが残る長岡では、より強くなります。
長岡時代は、忠興から 「靡くなよ我が姫垣の女郎花 男山より風は吹くとも」 と歌われた、ガラシャ。
性欲山・秀吉の淫風が心配になる、花のような新妻のガラシャ。ハッピーであります。が、好きか、と。
と、思うのです。で、この疑念に色んな意味で応えてくれるのが、長岡京ガラシャ祭なのです。
江戸初期の勝竜寺城廃城後、長らく単なる農村だった長岡は、現代・高度成長期に入り発展を開始。
京都&大阪の良きベッドタウンとなったことで人口が爆増し、1972年には長岡京市として市制導入。
良水が要る大手電子企業も続々進出したことで、拡大は続き、その勢いはバブル期まで継続。
その勢いの余波を受ける形で90年代、勝竜寺城の復活と、長岡京ガラシャ祭は開始されました。
この長岡京ガラシャ祭は、勝竜寺城でのガラシャの輿入れを再現し、華麗な時代行列を展開する祭。
といっても、歴史蘊蓄などは希薄で、基本はコスプレ&露店。で、これが盛り上がってるんですよ。
「ガラシャ+結婚」 というネタが、旧市民も新市民も利害なく等距離で関われる点がマッチしたのか、
まとまる材料皆無の急造ベッドタウンにあって、観光客よりもむしろ地元住民の盛り上がりを獲得。
長岡京市という街を凝縮すると共に、歴史系町おこしのひとつの在り方も示す祭となってます。
そんなガラシャ祭、男山山麓に住む八幡人として、風な気分で出かけてみました。

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五山送り火の左大文字を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

2018年8月16日(木)


五山送り火の左大文字を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

五山送り火の火というのは、通常は、火元から割と離れた場所で眺めるもんです。
一般的には、大文字山のあの感じこそが、送り火で連想される距離感、ではないでしょうか。
北大路の辺から大文字を観る、あの感じ。闇の中に 「大」 の字が浮かぶ、あの感じ。みたいな。
確かに、あの風情 or 美は、火元から距離をとらないと、得られません。離れるわけですね。
風情 or 美の濫獲に走らず、真摯に信仰行事として五山送り火を考える場合も、事情は割と同じ。
お盆に現世へ里帰りした精霊 aka おしょらいさんを、あの世へ送り返すのが、あの火の本来の役目。
精霊は、火に近付いて祈れば祈るほどスムーズに帰れるわけでもないでしょう。離れるわけですね。
そんなこんなで、多くの人は通常、火元から割と離れた場所で、送り火を眺めるわけであります。
しかし、風情も美もおしょらいさんも関係なく送り火を追ってる当サイトとしては、事情はまた、別です。
「一晩で五山コンプ」 という愚行に何度も何度も挑むも、それら全てが失敗に終わり猛省した後、
「5年かけ、1年に一山ずつ観る」 と決め2015年より発動された、当サイトの五山送り火5ヵ年計画
初年度は大文字を、2016年は妙法を、そして2017年は船形万燈籠を、それぞれ拝んできました。
が、そうやって何度も何度も火を観るうちに私は、もっと近くで火を観たい、と思うようになったのです。
送り火当日に於ける送り火実施山への部外者の入山 or 侵入は、無論、固く禁止されています。
何せ基本は、宗教行事。 「大」 を 「犬」 にするような類の輩の闖入は、厳に戒められるべきでしょう。
けど、近くで観たい。で、この欲求を満たせる場所は、実はなくもありません。それが、左大文字です。
その名の通り、送り火のキービジュアル 「大」 を、大文字山の逆側で浮き上がらせる、左大文字。
金閣寺に近いため、駐車場から 「大」 のベースを目にした方も、多いんじゃないでしょうか。
あのベースの距離感が示すように、ここの送り火は、近い。望遠なら、焚く人が見える程、近い。
つまり、火そのものを、熟視出来るのです。想いが託される火の真実を、熟視出来るのです。
で、5ヵ年計画4年目の今回は、そんな左大文字で、火ばかりを見つめてみました。

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笠置夏まつり花火大会へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2018年8月4日(土)


笠置夏まつり花火大会へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

笠置町。京都府で高齢化や人口減の話になると、必ずその名が上がる自治体です。
巨岩が並ぶ霊地であり、元弘の乱で後醍醐帝行幸した、笠置山。その笠置山を擁する、笠置。
擁するというか、町域の8割がこの山地などで占められるため、此地の主産業は無論、林業でした。
町を東西に流れる木津川上流を物流ルートとして、古くより奈良・京都へ木材を供給しており、
奈良・東大寺興福寺杣山や、また我がホーム・石清水八幡宮の神領&杣があった歴史もあり。
しかしそれゆえ、林業が衰退した現代に入ると、他に産業がないこの町の人口は減少し始めます。
やむなく観光に活路を見出した笠置町は、元弘の乱ゆかりの観光地として笠置山をアピールし、
後醍醐持ち上げ+足利逆賊の戦前では結構盛り上がりましたが、人民主権の戦後に入ると下火化。
高度成長期以降は、レジャーの多様化+街から半端に遠いことが災いして、さらに人気が下降。
現在は、 「出生数ゼロ」 「高齢化率50%」 などの話題で、京都新聞を賑わす地となってるわけです。
では、笠置町がひたすら過疎全開でゴーストタウンな町かといえば、そうでもありません。
傍目には血税を盗まれてるようにしか見えないですが、移住・定住推進の情宣なども、色々と展開。
また、キャンプ場カヌーといった木津川を活かしたレジャーは、凄く盛ん。イベントも、色々開催。
私は出かける度、割と賑やかな所に見えました。同様の印象を持つ方も、多いのではないでしょうか。
町が山間で狭いため、すぐ人口密度が上がるだけとも言えますが、賑やかに見えるんですよね。
もちろんその印象は、定住者の数とは全然関係がない話ですが、とにかく頑張ってる町であります。
そんな笠置町の最大のイベントともいえるのが、毎年8月上旬に行われる夏まつりの花火大会です。
木津川で1800発を打ち上げるこの花火、 「8割が山地」 という場所のため、音が反響しまくり。
規模こそやや小ぶりではあるものの、他所では体感不能の爆音サラウンド状態を現出させてます。
また、そもそも狭い+人少ない所へ客が密集するため、混雑が超々激化するのも、ある種の味。
そんな笠置の花火、混雑が超々々々激化した関西線に乗って、出向いてみました。

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夏越祓の茅の輪を石清水八幡宮だけでくぐってきました。もちろん、ひとりで。

2018年6月30日(土)


夏越祓の茅の輪を石清水八幡宮だけでくぐってきました。もちろん、ひとりで。

夏越の日に茅の輪を求めて神社を彷徨い歩き、浅ましく祓力を貪り倒すという、愚行
のみならず、その祓い倒れ徘徊を 「マイナー神社紹介」 として己の内で正当化するという、悪行。
そもそも、本当の祓というのは、一回だけするものです。一回だけするからこそ、意味があるのです。
なのに、何度もくぐる。まるで、食べ歩きの如く、くぐる。そしてその所業を、善きことのように思い込む。
神の尊厳を踏みにじり、その神を奉る方々の信仰をも冒涜しかねないこうした行為については、
当サイトでもその犯罪性を重々に認識&反省し、禊として天王山登山などの荒行も決行してきました。
翌年にはその反省を完全に忘れ去り、茅の輪さえくぐらない宇治めぐり in 夏越なんかもしましたが、
それでも、常に信仰と伝統を重要視する形で、毎年の茅の輪くぐりまくりを展開してきたつもりです。
が、そんな偽罪悪感 or 偽反省よりも重要なことを、夏越ネタで忘れていたことに、私は気づきました。
地元である石清水八幡宮での夏越の茅の輪くぐりを、今まで一度たりともちゃんとやってない、と。
石清水八幡宮。言うまでもなく、二所宗廟のひとつであり、国家級の神社であります。
やんごとなき方々の崇敬も篤く、三勅祭のひとつ・石清水祭については当サイトでも触れてる通り
国家的除災行事 or 宮中祭祀である大祓にルーツを持つ夏越祓でも、当然、茅の輪が設置されます。
なので、近所の私はくぐろうと思えば、すぐにくぐれるのです。歩いて行って、すぐにくぐれるのです。
が、この簡単さこそゆえに私は、本来は絶対外せないはずの大社を、スルーし続けていたのでした。
これは、いかん。そう思った私は、有り余る時間・金・やる気を脇に置き、2018年の夏越を八幡で決行。
しかも、めぐり一切なしのワンショット・一発勝負で。大本命だけに、浮気も寄道も許されません。
一回だからこそ意味がある祓を、神事タイムも外した穏やかな時間帯に、しっとり行ってみたのでした。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトであるために必要な挑戦なのです。
決して、時間も金もやる気もいい加減ないので、近所でちゃちゃっと済ませたのでは、ありません。
断じて、この日が激暑+夕方から激雨のため、めぐりを日和ったのでも、ありません。

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まいづる細川幽斎田辺城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2018年5月27日(日)


まいづる細川幽斎田辺城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都には、城らしい城が、ありません。全くなくもないですが、あまり、ありません。
二条城淀城跡伏見桃山城。いずれも、城といえば城です。立派に城です。が、何か違う。
二条城は、離宮感が強過ぎて、城に全然見えない。淀城跡は、本当に単なる廃城跡でしかない。
伏見桃山城に至っては、昭和元禄の張りボテ遺産で、現在は入城さえ不可能。お粗末です。
「いやいや、日本各地の城だって、大半は昭和元禄の産物だよ」 とか思われるかも知れませんが、
再建にかけられた想いや、今もなお続く城への想いでは、かなり差があるんじゃないでしょうか。
端的に言うと、京都は城への関心が低いという。偽京都人である私の中でさえ、正直、低いという。
しかし、城を巡る京都のこうした微妙な温度感も、視野を府に拡げると、事情は変わってきます。
亀岡園部の城下町感、福知山のお城まつりに於ける盛況ぶりは、当サイトでもお伝えしてる通り。
そして、京都府のさらに北にあって、福知山と同じように 「城の街」 たり得てるのが、舞鶴でしょう。
舞鶴。日本海に面し、食・名所・産業などのあらゆる面で 「海の京都」 を体現してる街です。
この街に於いて最も高い知名度を誇ってるのは、現在に至るまで活躍し続けてる軍港の、舞鶴港
共に発展した街・東舞鶴も、正に軍都な趣を持ってます。が、これが 「城の街」 なのではありません。
「城の街」 は、反対の西舞鶴の方。 「城の街」 と呼ぶのは、ここが田辺城の城下町だったから。
肥後細川家の礎&御所伝授で知られる細川幽斎が、信長から南丹後を任され建てた城、田辺城。
プレ関ヶ原の籠城戦 「田辺城の戦い」 の舞台となり、別名 「舞鶴城」 は街の名にもなりました。
明治維新であえなく消滅しましたが、昭和初期から再建が始められ、平成には立派な城門も完成
この城門完成の頃より、毎年5月末には 『まいづる細川幽斎田辺城まつり』 も開催されてます。
実に、 「城の街」 です。ので今回、京都と城の関係をより精査すべく、祭りに遠征してみたのです。
城を中心に一体化してる街を見よう、とか思って。城を大事に思う心に触れよう、とか思って。
しかし、現地で見た 「城の街」 の姿や雰囲気は、何か独特のものだったのでした。

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京都御所へ梅と桃と桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2018年3月23日(金)


京都御所へ梅と桃と桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都御所。言うまでもなく、やんごとなき方々が住まわれた場所であります。
そして、これも言うまでもなく、一般人が自由に出入りできる場所ではないのであります。
我々が自由に出入りするのみならず、散歩したり昼寝したりもしてるのは、あくまでも、京都御苑
御所ではなく、御苑であります。あくまでも、御所の周囲を取り囲む部分、即ち外苑なのであります。
が、京都人の多くはそんなこと承知の上で、京都御苑を京都御所と呼ぶのではないでしょうか。
東京遷都に至るまでは、200軒以上もの公家宅が軒を連ねる公家町だったという、京都御苑の土地
遷都後は、東京で土地を与えられた為に公家が移住し、代わりに国へ上納された公家町は荒廃。
明治10年になって京都へ行幸した明治天皇が、この荒廃ぶりを目にして、公家町跡地の整備を指示。
予算も得た京都府は、喜んで整備を進め、近代皇国感溢れるだだっ広いレイアウトの外苑を完成。
その後は、国民公園化などを経ながら、基本的には街中の 「空白の場所」 として現在に至ってます。
では、そんな 「空白の場所」 を、どうして京都人の多くは京都御苑でなく京都御所と呼ぶのか。
適当な思い付きで答えるなら、その 「空白」 こそが京都御所の本質だと思ってるから、だと思います。
これまた言うまでもないことですが、京都御所には現在、やんごとなき方々は住まれてはいません。
「遷都の正式発表はされてない」 的な妄言を無視する限り、本物の御所もまた、 「空白」 なわけです。
天皇を失った京都はある意味、この 「空白」 をコアとする変態都市として、近代化を果たしました。
ので、 「空白」 にロイヤリティを見出してしまう。御所の近くの 「空白」 なら、尚のこと見出してしまう。
そんな無意識の動きが、御苑を御所と呼ばせているとか思うんですが、あなたどう思いますか。
という妄言はともかく、現代平民にとっての京都御所はあくまで散歩したり昼寝したりする所であり、
何より植物が原生林レベルで整備されてて、のんびりするにはうってつけのスポットとなってます。
春先には、梅と桃と桜が咲き、タイミングが良ければこの3種を一度に愛でることも可能。
で、今回は、そんなタイミングのいい日に、京都御所へと出かけてみました。

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京都・東山花灯路2018へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2018年3月13日(火)


京都・東山花灯路2018へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

これといった理由も動機もなく東山花灯路へ立ち寄ることが、たまにあります。
大抵は、北側ゲート近くの図書館から帰る時です。調べもので、帰りが遅くなった時とかです。
平安神宮の辺から神宮道をフラフラ南下して電飾ゾーンへ入り、そのまま写真も撮らず歩き続け、
プレッシャーがどうこうといったことも考えないまま、極めて適当な気分でうろついたりするわけです。
少し遠回りして帰る、というくらいの気持ちで。少しは運動もしなくては、というくらいの気持ちで。
そんな時に目にする花灯路は、つまり単なる通行人としてごくごくナチュラルな目で眺める花灯路は、
それこそ 「特攻じゃあ」 と意気込んでる時とは違って見えるかといえば、そんなことはありません。
安い集客を図るべく撒かれた電飾と、それに吸い寄せられる蛾の如き民が、蠢いてるだけです。
が、特攻時のようにそれを注視するのではなく、さらっと通り過ぎてると、気分は結構変わってきます。
楽しいかといえば、特にそんなことはない。では楽しくないかといえば、これもそんなこともない。
そんな、無な気分になるんですよね。で、こんな気分になる場所というのは、他にないんですよね。
桜開花前の閑散期に於ける集客イベントとして始まり、狙い通りの活況を生んだ、東山花灯路
その活況により生じる地獄の沙汰については、当サイトでも以前から延々とお伝えしてきた通りです。
が、その一方で、さらっと通り過ぎる際に感じるこの無な気分も、実は以前から気になってました。
この不思議な気分は一体、何なんだろう、と。この無は一体、何処から生じてるものなんだろう、と。
というわけで2018年花灯路特攻は、この無にこそ対峙しようと考え、先述の遠回り帰宅モードで決行。
平日の夜、客層を細かく見ず、写真もなるべく撮らず、散歩の如くうろついてみたのであります。
そして、無の発生源を確かめるべく、電飾で強調された闇などにこそ目を凝らしてみたのであります。
そう、これは新たな挑戦なのです。 「平熱の花灯路」 みたいなものを伝える為の、挑戦なのです。
決して、マンネリでやる気がすっかりゼロなのを、屁理屈で誤魔化してるのでは、ありません。
断じて、そもそも花粉症ゆえ細かく見るのが面倒臭かったのでも、ありません。

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大原野神社へ紅葉を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

2017年11月24日(金)


大原野神社へ紅葉を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

大原野神社。京都の大原野というエリアにある神社です。わかりやすい名前です。
「だから、その大原野というのが何処だ」 という疑問さえ抱かなければ、わかりやすい名前です。
場所は、京都のほぼ西の端の辺。 「京都大原三千院」 で有名な大原の辺では、断じてありません。
大原があるのは東北方面の果ての辺なので、むしろかなり、逆。真逆方向とさえ言えるでしょうか。
もし、どっちかをどっちかに間違えて出掛けたら、その日一日が潰れかねないほど、離れてます。
「そんなもん間違えるか」 という話ですが、ただバスしか公共の足がない点は、大原も大原野も同じ。
恋に疲れた女がひとり、 「バスでしか行けない」 という前情報と 「大原」 という言葉に幻惑されて、
何となくバスに乗ったら筍の直売所の前で降ろされた、なんてこともあったりするのかも知れません。
もっとも、バスでしか行けないくらい奥座敷的な場所ゆえに、自然が豊かなことでも両者は同様。
間違えたのが秋なら、むしろ間違えた自分を誉めたくなるような紅葉に、きっと出会えることでしょう。
で、そんな大原野に建つ、大原野神社。本来は、こんなふざけた紹介など許されない社です。
プレ平安京たる長岡京への遷都の際、桓武天皇が鷹狩を楽しんだ風光明媚の地・大原野に於いて、
国家鎮護を担うべく、藤原氏の氏神・春日大社の神霊を勧請する形で創建された、大原野神社。
こうした創建の由緒が示す通り、京都にあって 「京都以前」 のエッセンスを強く持つ古社であります。
平安遷都後も無論、藤原氏は娘が生まれる度に祈願を行い、朝廷も二十二社として奉幣を継続。
その雅なる様は紫式部にも愛され、 『源氏物語』 第29帖 「行幸」 に於いても描かれている通りです。
現代に入ると、周囲に増えた宅地住民の氏神的存在となりますが、まだまだ自然そのものも多く、
市内中心部 or 郊外 or 府下とは一味違う、このエリア独特のおおらかな美景を見せてくれてます。
そんな大原野神社、千眼桜や睡蓮、また名産・筍と、自然的には春 or 夏のイメージが強いですが、
「千世までも 心してふけ もみじ葉を 神もをしほの 山おろしの風」 で知られる通り、紅葉も名物
なので、その紅葉を拝むべく、出掛けてみました。もちろん、大原とは間違えずに。

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新旧・東海道を歩いて大乗寺へ酔芙蓉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2017年9月29日(金)


新旧・東海道を歩いて大乗寺へ酔芙蓉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

9月。それは、夏の終わりと秋の始まりが出会い、そして交錯する、季節の境目。
熱気を忘れるには未だ気怠く、狂騒へ酔うには余りにも切ない、いわば暑と涼の逢魔が時。
実に、境界的であります。寒季と暖季の狭間で桜が咲き狂う4月と同様、実に、境界的であります。
となれば、境界のアカデミックな探求を裏テーマとする当サイト 『ひとりでうろつく京都』 としては、
4月に桜を追いかけ右往左往するのと同様、9月にもまた、花を求めて右往左往すべきなんでしょう。
しかし、当サイトではこれまで、9月に花を追いかけるようなネタ展開は、全く行ってませんでした。
うち的には9月といえば、石清水祭なんですよね。地元・石清水八幡宮の、石清水祭なんですよね。
流民の子である私は別に何も関わってないんですけど、でも、積極的に推したくはあるですよね。
ただ、奇怪なコンセプトの孤独なチンピラサイトとはいえ、一応は京都サイトであると名乗ってる以上、
京都かどうかもよくわからんエリアの祭ばかり推しまくるのも、それはそれでどうかという話です。
境界の探求の面でも、9月に於ける境界的な花ネタ、もう少しやった方が良いのではないか。
そう考えた私は、今回、9月に咲く不思議な花・酔芙蓉を観に、大乗寺へ行くことにしたのでした。
大乗寺。法華宗・大乗寺。蹴上から東山を超えた山科区の日ノ岡の辺、旧東海道沿いにある寺です。
元は西ノ京あたりの本能寺末寺&尼寺だったそうですが、建物が傷んだ為、近年になって移転。
最近は、寄贈されたという酔芙蓉の生育が良く、 「酔芙蓉の寺」 としても知られるようになってます。
この酔芙蓉は、酒酔の如く朝から夕にかけて紅潮していく花。正に、境界を体現してる花でしょう。
そんな花を観に出掛け、どうせならと新旧・東海道の街道歩き+魔境・九条山の徒歩越境も敢行し、
夏と秋、素面と泥酔、新と旧、洛中と洛外、そして生と死の境界を、しかと見据えてみたのでした。
そう、これはあくまでも、新たな挑戦なのです。境界の探求を更に深化させる為の、挑戦なのです。
決して、9月のネタ採取を忘れ、月末になって慌てて適当に出掛けたわけでは、ありません。
断じて、花だけだとネタが足りんと思って街道歩きを足したわけでも、ありません。

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五山送り火の船形万燈籠を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

2017年8月16日(水)


五山送り火の船形万燈籠を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

『京都人は日本一薄情か 落第小僧の京都案内 (倉部きよたか・著) 』 という、
死ぬほどしょうもない書名の割に案外面白い本では、 「賀茂人」 なる概念が提示されてます。
賀茂族」 ではなく、 「賀茂人」 。 「上京人」 「下京人」 と共に 「三京人」 を構成する、 「賀茂人」 。
上賀茂から西賀茂にかけての洛北・賀茂エリアに住むネイティブな人を、そう呼ぶというわけですね。
この賀茂の地はそもそも、上賀茂神社神領として平安遷都の以前から賀茂族が統べていた地。
中世以降は色々ごちゃごちゃしますが、とにかく上京や下京とは異なる歴史的経緯を持つエリアです。
で、倉部氏が同書で言うには、こうした経緯が 「賀茂人」 の気風を独特なものにしてるんだとか。
「適当な思いつき」 と、思われるかも知れません。が、私には、結構当たってる所もあると思えます。
賀茂、特に御薗橋以西の西賀茂の雰囲気は、確かに京都のどのエリアとも違い、何か独特です。
長閑な田畑が残る辺と、ゆえに開発が進んだ宅地の景観が入り混じる辺は、いかにも郊外的ですが、
そこに、他の京郊にはない雰囲気、何かしらどよ~んとした雰囲気が、立ち込めてるというか。
京郊にして元神領の八幡に住む私は、その辺に、強い親近感と違和感を同時に感じたりするのです。
で、船形を拝みに行ったこの日の西賀茂もやはり、何とも独特な雰囲気が立ち込めてたのでした。
自転車珍走などの阿呆な手段で幾度も五山のコンプリートへ挑むも、それらの全てが失敗に終わり
猛省の後に 「5年かけて、1年に一山ずつ見る」 と発動された、当サイトの五山送り火5ヵ年計画
初年度の2015年はまず本丸である大文字を、2016年は超豪雨の中で妙法を拝んできたわけですが、
3年目の今回訪れたのは、西賀茂・西方寺の檀家さんが点火を担うという、船形万燈籠であります。
西方寺を開いた慈覚大師・円仁が、留学先・唐からの帰国時に阿弥陀如来を召喚した船を表すとも、
精霊 aka おしょらいさんが現世からあの世へ帰る際に乗る燈籠流しの舟を表すともされる、船形。
西方寺での六斎念仏と、そして 「賀茂人」 が愛するサカイの冷麺と共に拝んだその送り火は、
やはり西賀茂独特の雰囲気と温度感の中で、独特な輝きを放ってたのでした。

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亀岡の七谷川へ桜を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

2017年4月14日(金)


亀岡の七谷川へ桜を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

桜の名所は、かつて荒れ狂った川の堤防であることが多かったりします。
堤防の強度の維持にとって、桜の植樹が良いことなのかどうかは、私にはよくわかりませんが、
とにかく日本全国で見られる光景であり、京都では府下の桜の名所でよく見られるものです。
当サイトでも訪れた井手の玉川とか、我がホームたる八幡の背割堤とかは、正にその典型でしょう。
井手も八幡も共に、ひとたび洪水が起これば一帯が死の湖と化す、京都ディープサウスの街。
「死」 を孕む花である桜は、あるいは 「死」 に近い場所でこそ、狂い咲くものなのかも知れません。
いや無論、荒れ川の前科を持つ桜の名所は、サウスのみならず京都市&北部の府域にも多し。
「かつて保津峡を栓とする湖だった」 という神話を持つ口丹・亀岡にも、桜が咲き狂う川があります。
大堰川 aka 保津川 aka 桂川のことでは、ありません。その東を流れる、七谷川という川です。

七谷川ノ源ハ地蔵山ヲ発シ流程十三粁桂川ニ注グ流域荒廃洪水ノ際流出スル土砂ニヨリ被害甚大
ナルタメ治水ノ根本策トシテ砂防大堰堤建設ノ議起リ時ノ村長島津庫太氏関係者ヲ代表シ当局ニ
陳情昭和十六年国庫補助府直営工事トシテ起工一部施行セラレタルモ偶戦争苛烈トナリ工事中止
トナル戦後時局安定セルニヨリ村長広瀬富之助氏ガ復活ヲ強ク要望二十三年ヨリ継続施工セラレ
二十六年三月完成ヲ見ルニ至ル
( 「七谷川統水堰堤碑文」 『ふるさと千歳』 より)

愛宕山系の水を宿す七谷川は、亀岡盆地東山麓から千歳町を西へ流れ、大堰川へ入る川。
本流・臼木谷・桃原谷・馬路山谷・野々熊谷・畑谷・上谷が合流することから、その名が付いたとか。
名前だけ聞くと、虹でも架かりそうな優美な印象の川ですが、実際は古代より氾濫を起こしまくり。
上で引いた 「七谷川統水堰堤碑文」 が記すように、近現代に入ってようやく、治水が為されました。
昭和3年には、御大典記念として100本の桜を植樹。昭和48年にも、追加で100本をまた植樹。
昭和57年に入ると、沿岸に七谷川野外活動センターが創設されるのと共に、またまた500本を植樹。
これらの樹々が順調に育ちまくったことで、現在の七谷川は春が来る度、桜の一大名所化。
前科を反省してるのか、あるいは 「死」 に感応してるのか、物凄い狂い咲きぶりを見せてます。
そんな七谷川の桜、玉川や背割堤と同様に、浴びるが如く観て来ました。

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福知山お城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2017年4月2日(日)


福知山お城まつり、福知山城を見物した前篇からの続きです。

「商都」 としての福知山を認識したのは、出口なおについて調べてた時のことです。
大本開祖であるなおは、福知山生まれ。広小路の上紺屋町の辺に、生家があったといいます。
で、当時の広小路は、 「福知千軒」 と呼ばれ、藩経済を支えるほどの商業的繁栄を見せてたとか。
節分大祭の記事を作る中、それを知り、私は驚きました。福知山を 「軍都」 と思い込んでたので。
城下町として成立し、廃城後は駐屯地の街となった、福知山。印象的には、かなり 「武」 です。
が、福知山城に防衛上の地の利を齎した由良川は、物流の面にて商人にも大きな恩恵を齎しました。
「塩船」 から始まったという由良川の水運は、朽木氏が入封した17世紀後半から急激に発展。
福知山は、重要な河港にして三丹・北国・京阪を結ぶ結節点となり、屈指の物産集積地へ化けます。
火隙地を作るべく町人屋敷の中央に開設された広小路では、舟渡が新設され、貨客も多数往来。
旅客相手の茶店や旅籠を営むべく有力商人も進出して、名実共に 「山陰の商都」 の顔となりました。 
また、通りの近くの御霊神社では、税制緩和などで慕われていた光秀を 「商売の神」 として合祀。
出口なおの頃には飢饉が続いてたそうですが、とにかく 「ブイブイいわしてる」 な街だったわけです。
しかしこの水運、明治中期以降は、衰退。製糸・養蚕などを展開した後、福知山は軍を迎えます。
「かごの鳥」歩兵第20連隊駐屯により、広小路は大正&昭和初期も繁華街・歓楽街として繁栄。
戦後に入っても陸上自衛隊鉄道管理局を誘致し、やはり繁華街・歓楽街として繁栄を続けたとか。
「軍都」 として生まれた街が、 「商都」 の性格を強め、その維持の為に 「軍都」 の仮面を被る。
そんな感じでしょうか。そう考えると、福知山はやはりしたたかでタフな 「商都」 なのかも知れません。
そして、城を支えた広小路がお城まつりのメイン会場であることも、当然なのかも知れません。
というわけで、お城まつり、後半です。後半は、城一切なしで、広小路周辺の祭徘徊がメインです。
地元との共生を図るべく奮闘する陸自の姿や、誘致された異形のゆるキャラ集団が放射する狂気、
魑魅魍魎が躍るパレード、そして街に漂う独特の雰囲気と若干のグルメを、楽しんで行きます。
「商都」 のしたたかさと、そのしたたかさが生むカオス加減、じっくりと御堪能下さい。

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福知山お城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2017年4月2日(日)


福知山お城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

平均的な日本人にとって、いわゆるは、いったいどんな意味を持ってるのでしょう。
戦国末期より江戸前期にかけての100年の間に大半が作られた、いわゆる近世の、いわゆる城。
少なくとも私には、城がそれなりに大事なものとして、日本全国で認識されてるように見えます。
いや、 「それなりに」 どころの話ではありません。城は大抵、その街のシンボル or ランドマークです。
オリジナルが残ってるなら保存に励み、壊れてるなら再建に努める。そうなるのが、普通でしょう。
しかし、京都は違います。 「京都」 と見なされるエリアに、まともな城と呼べそうなものはありません。
あるのは、 「跡」 以外の存在感を見出すことが困難な淀城跡、離宮感が余りに濃過ぎる二条城
そして遊園地の人寄せパンダとして再建された挙句に会社から捨てられた伏見桃山城くらい。
徹底的に武士が嫌いなのか、あるいは 「江戸期なんか最近。保存する必要なし」 と思ってるのか、
「威容を誇ると共にその威容に相応しき敬意を集める城」 というのは、とにかく京都にはありません。
しかし、こんな京都の城事情というのも、視野を府域にまで広げた場合、話は変わってきます。
かつて城があった亀岡や園部では、城こそ残らずとも城下町的な雰囲気が今なお濃厚に漂うことは、
当サイトの大本七草粥記事@亀岡や、栗餅買い食いまくり記事@園部でも、お伝えしている通り。
そして、更に北の福知山市は、恐らく京都府では唯一、現在も城らしい城を持つ街と言えるでしょう。
信長より丹波平定の命を受けた明智光秀が、丹波山地の開けた盆地にて築いた、福知山城
光秀が本能寺の変をやらかした後も、税制緩和など善政を敷いた光秀を慕う民によって支えられ、
間違いなく福知山のシンボルというか、福知山という街そのものを生み出す基礎たる城となりました。
時代が明治に入ると、止むなく廃城となり、長らく本丸跡&天守台を残すのみだったといいますが、
昭和末期に至ると、市民などの寄付により総工費の内の5億円を賄う形で、大天守閣の再建を敢行。
「それなりに」 どころではない情熱により、現在もシンボル or ランドマークたり得てるわけです。
そんな福知山城とその城下町、毎年4月上旬にはお城まつりとして街を挙げてのイベントも開催。
で、そのお城まつりに、城見物と祭見物と街見物を一度にすべく、出かけてみました。

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青谷梅林へ梅を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2017年3月12日(日)


青谷梅林へ梅を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

青谷。 「赤坂」 が赤い坂ではないのと同様、特に青い谷というわけではありません。
どちらかといえば、小高い場所に立地し、春先には青ではなく白い梅が咲き乱れる所であります。
場所は、京都と奈良の中間に位置する、城陽市。農地がベッドタウン化した典型例みたいな街です。
宅地化しなかった場所で咲く青谷の梅は、宅地化が進む遥か以前より栽培が行われてきたもの。
江戸期に染料の需要が高まると、ここで作られる鳥梅は、紅花染の色素定着材として高騰しました。
鳥梅とは、青い梅、ではなくて黒い梅です。焼き梅や黒梅とも呼ばれた、燻製状の加工された梅。
無論、青谷ではこの鳥梅を作りまくり、現在を遥かに凌ぐ規模で梅林が形成されたんだとか。

京都ヲ距ル南數里ニシテ、梅林アリ靑谿ト云フ、延袤二里斗リ、衆山回環蹲スル如ク伏スル如ク、
靑松ノ瀟漉、梅花ノ皓潔、之ガ衣トナリ之ガ裳トナル、而シテ市ノ邊、中村ノ二村家、其間ニ隱見シ、
宛然一仙郷ヲ爲ス、且京都ヨリ寧樂ノ舊都ニ通ズル鐡路ハ西麓ヲ過ギ、南北各半里弱ニシテ、
玉水長池ノ停車驛アリ、頗ル便利ノ地トス、予事ニ因テ屢此地ニ往來シ、其淸秀ヲ愛スルコト久シ、
到ル處恒ニ花時ノ風光ヲ說キ、且誇テ日和州月瀬ハ天下ノ勝ナリ、今試ニ靑谿ヲ以テ比スルニ
山水攅聚ノ奇、或ハ讓ル所アリト雖モ、遼廓眇忽規摸雄大、而シテ梅花ノ饒多ハ逈カニ之ニ過グ、
之ヲ本邦ノ羅浮ト稱スルモ我其溢れる溢美ニ非ルヲ信ズ
(山中青谿 『靑谿絶賞』 )

明治以降は、化学染料の登場によって、鳥梅の需要が衰退。青谷梅林もまた、衰退したとか。
梅林の荒廃を憂慮した地元は、観光化を企図して、保勝会を結成&上記の 『靑谿絶賞』 も出版。
すぐ傍で奈良鉄道 = 現在のJR奈良線が開通したことも追い風となり、この誘客戦略は当たりました。
明治中頃には観梅スポットとして認知され、変遷を経ながらも、その名声は今なお確固たるもの。
「天下ノ勝」 たる 「月瀬」 に 「讓ル所」 あれど、京都からの利便性では勝てる名所となったわけです。
で、今回、そんな青谷にて梅を観るべく、空だけは真っ青な小春日和に出かけたわけであります。
もちろん、梅グルメだって、堪能しまくり。観梅だけで満足出来るわけ、ありません。

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京都・東山花灯路2017へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2017年3月9日(木)


京都・東山花灯路2017へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

人はどうして、美しい景色をひとり占めしたい、と考えてしまうのでしょう。
自分で作ったわけでもない景色。人に見せない理由は、ないはずです。なのに、見せたくない。
恥ずべき願望や性癖を具現化した景色であれば話は別ですが、そうでもないのに、見せたくない。
無論、そんなケチくさいことを考えず、美を多くの人と分かち合いたいと考える人もいるでしょう。
しかし、私も含め大抵の人々は、美しい景色に遭遇した時、その場に他人がいないことを望みます。
そして多くの場合、その願望の余りの理不尽さを自覚し、己の理不尽さに腹を立てたりもします。
この気持ちは一体、何なんでしょうか。何に因って生まれ、そして、何に因ってこじれるのでしょうか。
答えは、色々と想定し得るかも知れません。何なら、人の数だけ答えがあるのかも知れません。
もし私が答えを求められたとしたら、私はきっと 「恥ずかしさ」 こそがその理由だと答えるでしょう。
こんな時に、こんな所で、こんなことをしてて、いいのか。こんなことしてるのを、人に見られたくない。
私は、景色を 「ひとり占めしたい」 と思う時、常にこんな 「恥ずかしさ」 を同時に感じています。
この 「恥ずかしさ」 ゆえ、他人に対し何らかの攻撃的な感情を抱くことも、珍しくありません。
「邪魔、消えやがれ」 みたいなことも、思ってしまうのであります。実に、悲しいことであります。
こんな時に、こんな所で、こんなことをしてて、いいのか、的な気分が溢れる京都のイベントといえば、
何といっても3月初旬の閑散期対策として行われる、電飾使いまくりの集客イベント・東山花灯路
当サイトではこの東山花灯路、これまで一貫して 「恥ずかしさ」 を全身で感じる荒行日と定義し、
「こんなことしてる」 のを見られるべく、常に人が多いタイミングで単独特攻を敢行し続けてきました
が、もういい加減、疲れました。 「恥ずかしさ」 を感じ過ぎて、心の芯の方が何だか、疲れました。
あと、一度くらい 「邪魔、消えやがれ」 とか思わずに花灯路を観てみたい気持ちも、涌いてきました。
電飾が本当の意味で美しいかどうかはともかく、人の心を蛾に変えるこの灯りの魔力の正体を、
落ち着いた形で見据えるのも、それはそれで意義があるのではないか、と思うようになったのです。
というわけで、2017年の東山花灯路特攻は、人が少ないであろう平日の雨の日を選んで敢行。
「恥ずかしさ」 を大幅削減した目で、改めて花灯路を観てみたのでした。

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節分の吉田神社で、大元宮を見て年越し蕎麦を食べてきました。もちろん、ひとりで。

2017年2月3日(金)


節分の吉田神社で、大元宮を見て年越し蕎麦を食べてきました。もちろん、ひとりで。

2月3日の節分は、日本の現行法に於いて、いわゆる祝日と定められていません。
「現行法でなければ休みだったのか」 とか訊かれると困りますが、とにかく祝日ではありません。
節分が正月を凌ぐほどの盛り上がりを見せる京都であっても、この事情はもちろん同じです。
旧暦の年越しを喜ぶように盛り上がりつつも、現行の祝日法には従い、休みにはならないわけです。
なので、節分の京都を一日徘徊するというのは、土日でもない限り、割と、いやかなり、難しいと。
当サイトではこれまで、この難しさを無理矢理に超克する形で、節分の京都徘徊を続けてきました。
毎年毎年、一日中寺社を回りまくり、2016年は綾部の大本へ泊まりで出かけたりさえしました。
頑張ってたのであります。通すべき義理も通さず、切るべき仁義も切らず、頑張ってたのであります。
冷静に考えると、何を頑張ってきたのかよくわかりませんが、とにかく頑張ってきたのであります。
しかし今回は、遂に時間の都合が付かなくなったのです。暇丸出しの徘徊が、出来なくなったのです。
昼に2時間ほどの空きは何とか確保しましたが、それ以上はどうにも時間が取れなくなったのです。
どうしよう。2時間で、何処をどう巡ろうかな。というか、2時間で徘徊なんか、出来るかな。
「徘徊より何処か1ヵ所に絞った方がいいかも」 と考えていて、頭に浮かんだのが、吉田神社です。
吉田神社。都の鬼門・吉田山に立ち、ゆえに節分が 「京都の節分」 の代名詞たる盛況を誇る社です。
無論、当サイトでも既訪であり、露店の混雑や火炉祭の凄さは、お伝えしている通りであります。
サウスの八幡人ゆえ感じるであろう独特の異様さにも言及する形で、お伝えしている通りであります。
が、夜の吉田の凄まじさは見てても、昼間の吉田の節分は、私、見たことがありませんでした。
あと、参道の年越し蕎麦の露店も、新暦で動く偽京都人として、気になりながらもスルーしてました。
これは、いかんと。 「京都の節分」 の代名詞、全時間帯で見とくべきだと。蕎麦も、食うべきだと。
そう考えて2017年の節分めぐりは、真昼間の吉田神社を短時間で巡回し、済ますことにしたのです。
また、年越し蕎麦もしっかり食い、京都の 「本当の年越し」 を真に面白がることにしたのです。
更には、夜の訪問時には混雑で日和った吉田のコア・大元宮への参拝も、今回は忘れてません。
所要時間、1時間。しかし、 「京都の節分」 最深層は、垣間見えたかも知れません。

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2017年への年越しを、永観堂で写経だけをして迎えました。もちろん、ひとりで。

2017年1月1日(日)


2017年への年越しを、永観堂で写経だけをして迎えました。もちろん、ひとりで。

当サイトではこれまで毎年の年越しに際し、様々な寺で除夜の鐘を撞いてきました。
徘徊の挙句に撞けなかった年もありますが、とにかく他所者としてネイティブな場へ紛れ込み、
本来は近所の人が顔を合わせて撞く鐘を、気後れと気まずさを感じながら、撞いてきたわけです。
この気後れと気まずさ、地元・八幡でさえ 「移民の子」 という自覚ゆえ逃れられなかった私は、
やがて払拭を求めるようになり、2016年には本籍地の隣・南丹市船枝に立つ京都帝釈天へ遠征
ルーツとも言える地にて、参道に並ぶ108個の鐘を遠慮なく&思う存分撞きまくったんですが、
この撞きまくりにより、私の中にあった鐘への欲求は何か、昇華されてしまいました。
鐘は、もういい。撞く必要性を、感じない。そもそも、年越しだから鐘を撞くなんて、もう古いですよ。
むしろ、鐘に捉われないことにより、今まで見ることが出来なかった年越しの相貌を見てみたい。
欲求の昇華により、魂が次のステージに入ったのか、私はそう考えるようになったのでした。
とはいえ、単に除夜の鐘をやってない寺を訪れ、何らかの祈願をするだけでは、流石に味気ない。
鐘は撞かず、でも多少は年越し感のある行事をやってる寺へ、行きたい。でも、そんな寺、あるかな。
という疑問を速攻で抱きましたが、その答えはやはり速攻で見つかりました。永観堂です。
永観堂。正式名称 「秋はもみじの永観堂」 。というのはもちろん嘘で、聖衆来迎山無量寿院禅林寺。
浄土宗西山禅林寺派総本山なわけですが、一般的には無論、紅葉の名所として有名であります。
ゆえに、紅葉以外には幼稚園の園児募集ポスターぐらいしかイメージがない寺なんですが、
年越しでは 「聖衆来迎」 の名に相応しく、無量ならぬ無料で鐘楼を開放して、除夜の鐘を実施。
のみならず、名物 「みかえり阿弥陀」 を祀る阿弥陀堂では、写経も行われるのです。これですよ。
というわけで今回の年越しは、写経の為だけに、永観堂を訪寺。鐘は、撞きません。
「にらみ鯛」 ならぬ 「にらみ鐘」 とでも呼ぶべき新たな年越しスタイルを提案したいと思います。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトである為に必要な挑戦なのです。
決して、鐘を待って並んだり突っ立ったりするのが、単純にしんどくなったのでは、ありません。
断じて、年越しネタ自体がいい加減ネタ切れ+飽きが来てるわけでも、ありません。

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鷺森神社へ紅葉を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

2016年11月25日(金)


鷺森神社へ紅葉を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

紅葉の季節が終わる度に、何故か持ち金が減ってることに、気が付いたりします。
よくよく考えると、不思議なことはありません。金が減るのは、当然、その分を使ったからです。
紅葉を観に入った寺の拝観料とか、そこへの移動費とか、多少の飲食費とかで、使ったからです。
一件ごとに見れば、小銭の範疇でしょう。実際、紅葉徘徊の最中も、散財の自覚はありません。
が、使ってる、確実に。で、減っていく、確実に。この 「使」 と 「減」 が10件とかになれば、どうなるか。
ここ数年の当サイトに於ける紅葉記事は、年3~4本というしょぼいペースのアップになってますが、
実は記事化してない訪問も結構あって、結局は毎年毎年10件近くは紅葉を拝みに行ってたりします。
なので、トータルの出費は、そこそこの額になるわけですね。で、毎年、財布を見て驚くわけですね。
ただ、さらによくよく考えるとこうした出費、旅行者の方はもっとエグい形で味わってるわけですよ。
私が1~2週間で使う額を、下手すると1日で使う場合も、充分想定できます。これは確かに、キツい。
拝観受付とかで 「また金か」 とボヤく観光客を見る度に、私は 「小銭だろ」 とか思ってしまうんですが、
そこへ至るまでに同様の小銭を何度も払って来たなら、ボヤきたくなるのも人情としては普通です。
さらにさらによくよく考えれば、ひとり客であるがゆえに、連れ相手にボヤきを漏らすことも出来ず、
キツさを噛み殺して、じっと出費に耐えてる同志の方も、かなりの規模で存在するのかも知れません。
大変です。さらにさらにさらによくよく考えると、何が大変かよくわからなくなりますが、でも大変です。
なので、そんな出費疲れを癒やしてくれる紅葉も紹介すべく、今回、鷺森神社へ出かけてみました。
鷺森神社修学院離宮の近くにあって、修学院&山端エリアの氏神として信仰されてる社であります。
と同時に、現・修学院離宮の地から移転する為、霊元天皇より現社地を下賜された社でもあります。
アーシーなる信仰とロイヤルなる由緒を併せ持つ、実に市井の京都らしい社とも言える神社でしょう。
そんな鷺森神社、ロイヤルな社地ゆえか参道が大きく、道沿いの樹々は秋になれば実に紅化。
参道自体はコンクリ丸出しの殺風景な代物である為か、所謂 「穴場」 化は今も左程してませんが、
写真の写りは妙に良く、無料で拝める紅葉としては破格のクオリティを誇るものだと思います。
そんな鷺森神社の紅葉、拝観料のみならず交通費もケチって観に行ってみました。

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宇治田楽まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年10月15日(土)


宇治田楽まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

宇治田楽まつり。宇治名物・茶団子に田楽味噌を付けて食いまくる祭、ではありません。
また、いわゆる田植舞などの農耕色が濃い民俗芸能が披露される祭、というわけでもありません。
平安後期から鎌倉期にかけて宇治の地で隆盛を誇ったという 「幻の芸能」 である 「田楽」 を、
現代らしい的な形で復活させようと宇治の人々が考え、1998年より開催されてるイベントであります。
宇治は無論、世界遺産・平等院をコアに擁し、『源氏物語』 宇治十帖の舞台としても名高い地。
これら栄華の源泉たる藤原氏摂関期以前から、貴族達は別荘で宇治の風光を愛でていたものの、
摂関期以後はセレブ化が更に進み、そのセレブ化進行が近隣住民の生活や祭礼にも強く影響。
元来は郷民が競馬などで盛り上がってたという氏神・離宮八幡宮の祭礼・離宮祭も、華美化が進み、
禁令が出るほどの煌びやかな衣装と共に、カオスな 「躍り」 系芸能としての 「田楽」 が、隆盛化。
この 「田楽」 は、編木 (ビンザサラ) や腰鼓などを奏でつつ躍動的に踊るという渡来的なフォームで、
高足など散楽の曲芸に加え、後には猿楽の要素さえ取り込んだという、風流の魁のようなもの。
どこが 「田」 だという感じのカオスの中では、農耕と全然関係ないプロ芸能者・田楽法師 が活躍し、
更にはそのプロを模倣した 「やってみた」 系のアマチュア下級武士まで混入するなど、中々にカオス。
洛中では、末法カオスの真最中に 「永長の大田楽」 なる風流パンデミック状態まで発生しますが、
宇治では、白川金色院周辺にプロ集団・本座が勃興し、先述の離宮祭を中心に派手な活動を展開。
本座は、京都や奈良の寺社でも芸を披露し、遂には春日若宮おん祭へも参勤するに至りますが、
やがて新興のプレ能たる猿楽に圧され始め、幕府の庇護が猿楽へ向かった室町以後は一気に衰退。
「田楽」 そのものも歴史の彼方へ姿を消し、芸態も詳細不明な 「幻の芸能」 となったのでした。
で、この 「幻の芸能」 を、宇治市民自ら躍って復活させるという公演が、宇治田楽まつりであります。
詳細不明ゆえ、その内容は基本的によさこい的な創作系で、カオスな高揚をこそ目指す感じ。
しかし、その開かれた感じと、市民自らが躍る楽しさが相まって、人気は年々上がってるようです。
そんな宇治田楽、茶団子も田楽味噌も食わずに、ひたすらカオスな舞踊を観てきました。

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長岡天満宮の夏まつりへ久世六斎念仏の奉納を観に行きました。もちろん、ひとりで。

2016年8月25日(木)


長岡天満宮の夏まつりへ久世六斎念仏の奉納を観に行きました。もちろん、ひとりで。

京都の六斎念仏の講中は、かつてお盆の頃、あちこちで興業を行なってたそうです。
市街地近郊の農村に於いて、農閑期の余暇を活用する形で発展した、近世京都の六斎念仏。
特に芸能六斎と呼ばれるタイプの六斎は、花の都に流行るあらゆる演芸を取り込みまくる形で発展、
念仏の原型がなくなるほどに芸能化されたその演舞で、人々から熱烈な人気を得たといいます。
無論、そんな芸能化された六斎の講中も、メイン活動は地元の寺社での奉納&棚経なわけですが、
人気と需要ゆえ、大八車へ道具を積んでの町場廻りなども行ない、貴重な現金収入を得てたとか。
そういった場での演舞は恐らく、よりコンパクトで芸能色が濃く、より 「余興」 的なものだったでしょう。
「移動型総合念仏エンターテイメント」 「踊る農閑渡世」 みたいな感じだったかも。面白そうですね。
しかし現代に至ると、こうした 「興業」 としての六斎奉納を見かける機会は、なくなりました。
現代の六斎シーンにあっても、ホーム以外の場所で積極的に奉納を行なう講中は多いですが、
そのプログラムは、ガチというか、いわゆるフルサイズの 「一山打ち」 である場合が大半。
かつての六斎が、メイン活動以外の場に於けるライトな演舞で放っていたかも知れない雰囲気、
ある種の 「営業」 感や 「余興」 感を想起させてくれるような奉納は、案外と見当たりません。
時の流れはこういう所にこそ克明に顕れる、という話ではあります。が、そこで、久世六斎ですよ。
京都市南区・久世にあって、駒形稚児を出す綾戸国中神社の隣である蔵王堂・光福寺をホームとし、
蔵王堂におけるホーム奉納ではそれこそガッチガチのディープな演舞を展開する、久世六斎念仏
六斎本来の太鼓曲が中心のセトリに始まって、客&場所から放たれるタイムスリップ感に至るまで、
「昔の六斎はこんな感じかも」 と思わせるそのガチさ加減は、当サイトでもお伝えしてる通りです。
が、長岡天満宮・夏まつりでのお呼ばれ奉納では、こちらの久世六斎、実にコンパクトな演舞を披露。
これはこれで、 「昔の六斎の興業はこんな感じかも」 と、強く思わせてくれるものとなってます。
そんな六斎の別の表情を拝むべく、長岡天満宮がある長岡京市へ出かけてきました。

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