2024年9月17日(火)

豊臣秀吉が死の直前に観たかも知れない名月を、伏見へ観に行きました。もちろん、ひとりで。
豊臣秀吉が死んだのは、1598年8月18日です。死んだ場所は、伏見城です。
日付はもちろん、旧暦。ですので、中秋の名月 = 旧暦8月15日に近いことになります。
つまり秀吉は、伏見城内で中秋の名月を観てから数日後に死んだ、と言えるかも知れません。
月を愛し、此地の月を観るため指月城を築き、地震で潰れるとすぐ伏見城を建てた、秀吉。
「さらしなや 雄島の月も よそならん ただ伏見江の 秋の夕ぐれ」 なる歌も詠んだ、秀吉。
死の前は体も頭もボロボロだったらしいので、観る元気が残っていたかどうかはわかりません。
ただ単純に日付だけで考えると、満月前後の月を観て逝った可能性は充分あります。
というか、むしろ名月に呼ばれるように世を去った、そんな気さえするのです。
当サイトは先々月以来、御香宮&高台寺と秀吉へフォーカスする記事を続けて展開してきました。
1番の理由は命日が近いからで、2番の理由はこれまで秀吉ネタを全くやって来なかったからですが、
何で今まで秀吉ネタをやってなかったのかと言えば、私が秀吉に興味も知識もなかったからです。
では、記事作成を通じて興味と知識が増したかと言えば、特にそんなこともなかったりするのですが、
ただ、以前から無知&門外漢なりに感じていたことを、改めてしみじみと感じるようにはなりました。
それは、この人はおかしいということ。 「おかしい人」 というより、存在がおかしいということ。
存在が、歪。時空が、変。 「月から来た人」 とでも言われた方が、まだしっくり来るかも。と。
そう思ったので、今回、 「月の人」 としての秀吉の最期を検証してみようと思うのです。
秀吉が末期の眼で眺めた月を同じ条件で観るべく、中秋の名月の夜、伏見へと趣いてみよう。
月を観る場所は、その名もずばりな観月橋、すぐに潰れたけどやはりその名もずばりな指月城跡、
秀吉が没した伏見城の跡地である桃山丘陵、あと伏見城を模した伏見桃山城キャッスルランド跡。
執念や体臭に続き、死という人間の有様に肉薄することで生身の秀吉にフォーカスしてみよう。
そして、そこから逆に、 「月の人」 としての異常性を浮かび上がらせようと思うのです。
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2024年6月30日(日)

夏越祓の茅の輪を求めて旧・巨椋池南岸をうろつきました。もちろん、ひとりで。
干拓された巨椋池を、巨大な境界として考えてみる。というのは、どうでしょうか。
陸と水、あるいは存在と不在。過去と現在、または現実と幻影。それらの境界という線です。
最初にこう考えたのは、大山崎山荘美術館の訪問記事で谷崎潤一郎 『蘆刈』 に触れた時でした。
「山城と摂津のくにざかい」 の大山崎を訪れ、桂川と宇治川の合流点にある州へ渡った谷崎は、
謎の男に出会って、巨椋池の畔で暮らす夢のような女性 「お遊さん」 の話を聞かされたのでした。
この短編の発表は、巨椋池の干拓開始直前の昭和7年。色々と 「境界」 を感じたわけです。
実際の巨椋池は、かつて京都府南部の久御山町を中心として存在した、湖のように巨大な池であり、
桂川/宇治川/木津川が流入する不定形の遊水池として、洪水調整機能を長く果たしてきました。
淀川と直結しているため平安遷都の遙か前から舟の往来が盛んであり、淡水漁業ももちろん盛ん。
小島を望むその光景は貴族からも愛され、池の北畔は別荘が並ぶ景勝地であったとも言われます。
しかし古代以来のその姿は、秀吉が伏見城築城に際して宇治川の流路を変えたことで、激変。
流入する水が減って水質は悪化。近代にはさらに減って蚊害も悪化。結果、干拓に至りました。
干拓の背景には食糧増産という戦時事情も存在したため、現在も池の跡地はその大半が農地です。
一方、京都の中心部では建設が困難な高速道路も池の跡地なら好き放題の作りまくり状態であり、
その高速が生む交通の利便性と豊富過ぎる土地と水を活かすべく、工場も多数誘致されています。
現代建築と農地の雑な共存。ある意味、これこそ現在の巨椋池跡の典型的な光景かも知れません。
この境界的な土地柄、当サイトが続ける 「境界」 なるテーマの探求にぴったりではないか。
当サイトは、阿呆極まる京都単独徘徊の背後に 「境界」 という高踏極まる裏テーマを掲げており、
神社を徒歩で巡り茅の輪をくぐりまくる水無月の外道企画でさえ、このテーマを追求してきました。
地理的にも歴史的にも 「境界」 である巨椋池は、このテーマの探求にぴったりではないか。
そう考えて今回、池跡で神社を巡ってみました。茅の輪には出会えるでしょうか。
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2024年4月10日(水)

中舞鶴の共楽公園へ散りかけの桜を観に行きました。もちろん、ひとりで。
桜は散って初めて、桜。そんな言い方も、あるいは可能なのかも知れません。
死体の如き青味を密かに帯びた花びらが、春風を受け、あっという間に散って行く。
この儚さこそ、桜。この風情こそ、桜。こういう考えも、あるのかも知れません。
「いやそれはソメイヨシノの風情で、近代以降の感慨に過ぎない」 と言う方もおられるでしょう。
確かにソメイヨシノは江戸後期に生まれ、何なら人為的に作られた可能性も高いとされる花です。
しかし逆に見れば、魔改造へ走るくらいに日本人はこの儚さを桜に求めている、とも言えます。
かつてはこの儚さを経由して、死のエクスタシーに満ち満ちた大日本帝国と熾烈な悪魔合体を果たし、
特に国家が前景化する軍/教育の局面で威力を発揮したがゆえに国花の如き地位さえ得た、桜。
どうやら日本人はこの儚さが大好きなようです。大好き過ぎて、たまに国ごと儚くしたりもするようです。
近代はおろか近世さえ全否定しがちな歴史終焉都市・京都の目線で、この儚さなるものを見ると、
旅の恥やら歴史妄想やらを捨ててさっぱりして帰る観光客の心性に似たものを感じなくもありません。
病的な鈍感さや無責任性に鼻白むというか。桜種も、京都は枝垂桜や山桜の人気が割と強いし。
しかし、もちろん京都だってれっきとした日本の一部分です。京都人だって一応は日本人のはずです。
京都人はそう思ってないかも知れませんが、法律や国籍的には日本人ということになるはずです。
であれば、この儚さにも共感しておくべきでしょう。せめて、教養としての理解は持っておくべきでしょう。
それにそもそも京都にも、徹底的に 「散る花」 としての桜を堪能出来るスポットが実は存在します。
そう、海の京都・東舞鶴です。かつて舞鶴鎮守府があり、現在は海上自衛隊がある東舞鶴です。
現在も港には多くの護衛艦が停泊し、春になれば桜と旭日旗のコラボが散見される地であります。
その舞鎮の西口であった中舞鶴には、共楽公園なる公園があり、桜が特に見事なんだとか。
公園からは港や艦もよく見えると言います。桜は当然、ソメイヨシノがメイン。中々良い感じです。
なので、敢えて散りかけの頃にこの公園を訪れ、儚さを履修出来るかどうか試してみました。
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2023年8月1日(火)

大谷祖廟の暁天講座へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
大谷祖廟へ出かける理由を、当サイトを始めた当初からずっと探し続けてました。
「そんなもん、勝手に行けよ。さっさと」 と言われたら、それで終わってしまう話ではあります。
が、それで終わらないもの、終わらせるべきでないものがあると感じてるのも、確かだったりします。
大谷祖廟。言うまでもなく浄土真宗宗祖・親鸞聖人の墓所がある、東本願寺の飛地境内です。
が、隣には門徒専用の墓地・東大谷墓地があり、両者はペアで認識されることが少なくありません。
実際、私もかなりごっちゃに捉えてます。しかも 「親鸞の墓」 というよりは 「門徒さんの墓地」 寄りで。
おまけに私は親類縁者に門徒がいないので、此処は全くの赤の他人が眠る墓地、となるわけです。
東大谷万灯会なども行われる点で間違いなく京都のメジャースポットですが、でも、墓地なわけです。
全く無縁な墓地への、理由なき訪問。一般良識で考えると、控えるべき行為とは言えるでしょう。
「無敵の人」 の万能感を使い切った後の人間が、如何なる倫理を持って如何なる道を歩むべきか、
思索を深めながら京都徘徊を続ける当サイトが、斯様に浅薄な行為におよぶわけには行きません。
その割には化野念仏寺の千灯供養や東山浄苑の真昼の除夜の鐘撞きなどに行ってはいますが、
2020年代後半を見据えた生き方を考えた場合、この手の荒事はもう控えた方が良いのでしょう。
また、より正直に言わせてもらえば、他の墓地訪問とは違う何かを大谷祖廟に感じることも確かです。
それが何か言えば、大谷祖廟と大谷本廟と東山浄苑って何かややこしいなという話なんですけど。
特に祖廟と本廟って、何かややこしいな。本家と元祖とたかばしの違いみたいで、何かややこしいな。
そんな大声で言えない系の理由もあって、長らく大谷祖廟へ足が向かわず仕舞いだったのでした。
しかしそれでも大谷祖廟はやはり、大谷祖廟です。超メジャーです。やはり、行っとくべきです。
そう考えて今回、大谷祖廟が毎年8月初頭の早朝に開催してる暁天講座へ出かけることにしました。
暁天講座、誰でも入れる講座です。これなら、信心なしで行っても先祖の祟りとかないだろ。
と、けしからんことを徹夜明けの頭で考えながら、払暁の東山へ赴いたのでした。
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2023年6月12日(月)

さすてな京都へあじさいを観に行きました。もちろん、ひとりで。
京阪電車本線に於ける駅間距離の最長区間は、淀駅~中書島駅間の4.4kmであり、
淀駅の隣である八幡市に住む私は、所要時間約5分であるこの4.4kmを日常的に通ってます。
南向きの時は、巨椋池干拓地の空を見ながら。北向きの時は、横大路沼跡地の煙突を見ながら。
駅間距離が長いのは、敷設時点では横大路沼が存在し、大きな集落などがなかったためです。
横大路沼は、秀吉の伏見城築城&その水運確保のため行った宇治川改造の際に生まれた沼地で、
伏見と淀城を結ぶ京街道の足場 = 淀堤によって、巨椋池の北辺を分離する形で出現しました。
それ以前の一帯は、恐らくは水と陸との境界さえあやふやな沼地というか遊水地だったわけであり、
かの下鳥羽/草津港まで含めて、京都南部の水路/海路のゲートとして機能してたのでしょう。
現代に入るとこうした池や沼は干拓で姿を消しますが、横大路沼の干拓完了は比較的遅くて、戦後。
ある意味、水と縁深き洛南の景色を最後の最後まで留めてたのが、この沼なのかも知れません。
干拓後の横大路沼は、豊かな土地と水を活かすべく工場/施設が多く建つようになりました。
誰もがスーパーで目にするような和菓子のメーカーの工場を始め、多くの建物が林立してますが、
その中でずば抜けた存在感を放ってるのが、京都市の環境施設・京都市南部クリーンセンターです。
横大路沼の干拓が完了する以前の昭和11年から、横大路塵芥焼却場として処理業務を開始し、
干拓完了までは沼の畔で、完了後は敷地と施設を拡大しながら、増大する一方の市のごみを処理。
現在は1日最大1100tのごみを焼却出来る、京都市の環境政策に於ける重要拠点となってます。
居並ぶ他の煙突を圧倒するかのようにそびえるその紅白の煙突は、正に此地のランドマークであり、
京阪電車 or 京阪国道を通る人なら、京都市民でなくともその威容を日々目にしてることでしょう。
クリーンセンター、2019年には環境学習施設・さすてな京都が設立され、見学が簡単になりました。
で、このさすてな京都、あじさいが名物だったりします。その株数、実に1万株以上。中々です。
そんなあじさいを、水と縁深き洛南の幻影を求めるように小雨の中、観に行きました。
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2023年2月23日(木)

梅小路公園へ梅を観に行きました。もちろん、ひとりで。
梅ライン。京都の怨霊シーンを語る上では、決して見落とすことが許されないラインです。
それは即ち、北野天満宮から御前通を南下し、土御門家の屋敷があった梅小路へと至るライン。
梅を愛した怨霊神のカリスマと、スター陰陽師の子孫とが、このラインで直結してるわけです。
怨霊神のカリスマとは無論、菅原道真のこと。北野天満宮の主祭神である道真に、他なりません。
優秀ゆえ重用されるも、藤原時平を始めとする平安貴族一同に嫌われ、陰謀により太宰府へと下り、
梅を想いながら野垂れ死んだ後は怨霊化し、恐怖の里帰りを遂げて都へ雷火を落としまくった、道真。
陰謀関係者に片っ端からヴードゥー攻撃をお見舞いし、震え上がった朝廷が名誉回復を決めるも、
遂には御所にも弩級の雷火を叩き込み、醍醐天皇が心労死するくらい恐怖の底へ追い詰めた、道真。
この怨霊ジェノサイドが効きまくって、道真が天神として北野天満宮に祀られたのは、御存知の通り。
もちろん、愛する梅と共に。北野天満宮の梅苑は今なお梅の名所であり、訪れる人も絶えません。
かくして道真が怨霊神のカリスマとなった数世紀後、土御門家は梅小路に居を定めます。
土御門家。その先祖は当然、道真とほぼ同時期に活躍した陰陽師・安倍晴明。正しく、霊の名門です。
しかし、晴明の死後も晴明並みの超スター陰陽師を立て続けに輩出したかと言えば、そうも行かず。
権勢的には公卿になれたりと頑張りを見せたものの、肝心の霊的インパクトは欠けたまま時は流れ、
応仁の乱に至ると遂には都落ちの羽目となり、遁世先の若狭で暦を作ったりしてたわけです。
そんな土御門家が後に帰京出来た際、何を思ったのか。単に 「帰れて良かった」 とだけ思ったのか。
多分、違うでしょう。力が要る、と考えたでしょう。特に最近欠けてる霊の力が要る、と考えたでしょう。
そこで、道真に肖ろうとしたのではないか。怨霊神のカリスマと、梅経由の結縁を謀ったのではないか。
北野天満宮の真南である梅小路は昔、梅林が広がってたそうです。そう、正に梅ラインです。
京都の怨霊シーンと真摯に向き合い続ける当サイトとしては、この梅ライン、無視は出来ません。
そこで、梅小路公園にて折よく満開の梅を愛でた後、梅小路へ検証に行ってみたのです。
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2022年11月25日(金)

保津峡へ紅葉を観に行きました。もちろん、ひとりで。
金が、なくなりました。あったのに、なくなりました。前はあった金が、なくなりました。
おかしいと思って人に言ったら 「それ、お前が使ったからだ」 と言われましたが、それ、おかしい。
私の金は、私の金です。私の所に、私の名前で、振り込まれたり、支払われたりした金です。
その金が、なくなる。使ったというだけで、なくなる。それはちょっと、無茶苦茶な話だと思います。
貨幣経済とか、そういう話でしょうか。そういうの、無関係です。本質から、逃げてるだけです。
金がなくて幸せな人なんて、どこにもいないでしょう。なので、金がなくなることがまず、おかしい。
そもそも、金は使うとなくなるという仕組みの所から、何か間違ってるんじゃないでしょうか。
金で買った物はなくならないし、使ってもなくなりません。自動車も、掃除機も、なくなりません。
なのに、金は使うとなくなるなんて、ちょっと変だと思います。違和感、感じます。モヤモヤします。
はっきり言うと申し訳ないですが、こういう仕組み、昭和っぽいです。今の時代に合ってません。
デジタル化に置いて行かれた人が、必死で私達の足を引っ張ってるんじゃないでしょうか。
古い考え方を鵜呑みにするの、かっこ悪い。そういうのを振りかざして偉そうにするの、かっこ悪い。
ずっと前の当たり前をいつまでも正論のように言い続けるのって、もうハラスメントにしか思えません。
「対価を支払う」 とかいう大昔の価値観から、解放されたい。そういうのに捕まらず、自由でいたい。
おかしいおかしいと思いながら今日の今日まで自分を抑えて生きてきましたが、もう我慢できません。
違和感を我慢せず、モヤモヤを飲み込まず、全て自分らしく表現して、邪魔な壁を越えて行きたい。
金がないと、秋の紅葉が観れないのも、変です。内心、ずっと変だなと思ってました。
紅葉で金を取る人は、紅葉を発明でもしたんでしょうか。してないはずです。元は自然のはずです。
それに拝観料って何ですか。私達は紅葉に用があるんであって、神にも仏にも用はありません。
勝手に信者扱いにされると困ります。そういうのって、出るとこ出たら割とまずい話になるはずです。
紅葉は、金がなくても観れた方がいい。そう思います。なので、保津峡へ行きました。
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2019年11月17日(日)

綾部の大本本部・梅松苑へ夜の紅葉を観に行きました。もちろん、ひとりで。
大本の聖師・出口王仁三郎の親父さんは、園部・船岡生まれなんだそうですよ。
「違う。本当の父親は有●●●●●●王だ。●統の血を引く御落胤だ」 という話もなくはないですが、
とりあえず戸籍上では、船岡の紺屋に生まれた親父さんが、穴太の上田家に婿入りしたんだとか。
「違う。全ては渡辺ウメノの謀略だ。そして薩摩ワンワールド勢力が」 という話もなくはないですが、
とりあえず戸籍上では、王仁三郎は船岡にルーツを持つ人物と言えるかも知れないわけです。
ちょくちょく書いてることですが、私の親も船岡生まれ。私自身も、本籍地は今も船岡に置いたまま。
なので、大本に感じる妙な親近感はこうした所から生じてるのかと、思わないでもありません。
京都・丹波が生んだ新宗教の老舗、大本。当サイトでも、節分大祭や七草粥で訪れてきました。
そしてそれらの記事の中で、 「大本に隣人のような印象を抱いてる」 といったことを書いてきました。
信仰はもちろんないし、教義もよくわからんし、都市伝説系の四方山話にもあまり興味はないですが、
若き日の王仁三郎の逸話などには、古い親戚に感じた丹波的な何かを感じたりするのです。
無論それは、妙な距離感と薄い関心量が生む勝手な感慨、幻覚の郷愁みたいなものに過ぎません。
しかしそれでも、こんな雰囲気を感じる大本へ偶に出向くことは、私には楽しいことではあるのです。
そういえば、開祖・出口なおの父方・桐村も、ルーツは桐ノ庄らしいし。桐ノ庄は、船岡の隣だし。
そんな大本、綾部・亀岡に聖地を持ちますが、綾部の本部・梅松苑は特に広く、紅葉も豊富。
綾部もみじまつりとして、近所・山家のもみじまつりと共に無料ライトアップも数日やってたりします。
となれば、集客&折伏全開かと思ったりしますが、七草粥や節分大祭と同様、これが全然なし。
実際行ってみると、無料が大好きな凡人が集まる、単なる紅葉タダ見大会みたいになってました。
実に気前が良く、おおらかな雰囲気が漂っており、その辺が丹波的というか、王仁三郎的というか。
「こういうのも、やらんとあかんで」 という王仁三郎の声が、聞こえてきそうな紅葉だったのです。
私が感じた、ほっこりするようなしないような雰囲気、是非とも感じてみて下さい。
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2019年9月19日(木)

夕日ヶ浦木津温泉へ夕日を観に行きました。もちろん、ひとりで。
観光資源の濫掘を経た今もなお、京都は何故か、夕焼けスポットがあまりありません。
夕焼け自体がないわけでは、無論ないのです。この街も、夕日に染まることは多々あります。
夕日を背にした東寺・五重塔なんかは、京都のド定番ビジュアル or アイコンとさえ言い得るでしょう。
では、その東寺が見える場所が夕焼けスポットとして有名 or 人気かといえば、そうでもありません。
夕日を見れる場所全般についても、この街で人気を呼んでる話は、あまり聞いたことがありません。
これは一体、何故なのか。その理由は、京都が未来を感じさせない街だからだと、私は考えます。
細かく言うと、日没 or 夕日が死と同時に約束する未来を、この街は感じさせないからだと、考えます。
今日の喪失が、より豊かな明日を運んでくる。そんな、期待。というか、確信。あるいは、担保。
スクラップ・アンド・ビルドの高度成長期が、同時に 「夕日の時代」 としてもイメージされてるように、
あるいは、死の領域へ近接する遊戯に熱を上げるのが、概ね発情した若者ばかりであるように、
死や喪失が醸し出す切なさを楽しめるのは常に、未来に期待・確信・担保を持つ若き存在だけです。
そして、そんな期待・確信・担保は、京都にはありません。今までも、今後も、きっとありません。
ひたすら衰え、失い、無様になり続ける街。踏ん張るも、踏ん張れず、自ら斜陽を体現し続ける街。
そんな街に、夕日は似合わないのです。似合うのに必要な明日が、絶望的に欠けてるのです。
しかし、こうした京都の夕焼け事情も、府域にまで目線を広げた場合には、話が全然変わってきます。
未来どころか不死 or 来世の伝説が溢れまくる日本海側の丹後は、夕日スポットが特に目白押し。
夕日ヶ浦木津温泉、という名前の温泉街さえ、実在してたりします。これはもう、行くしかありません。
というわけで私は今回、そんな夕日ヶ浦へ赴き、未来と来世について思念を巡らせてみたのでした。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトであるために必要な挑戦なのです。
決して、超遅めの夏休みが出来たので、日帰りながら海へお出かけしたわけではありません。
断じて、夕日は実はついでで、メインはあくまで遊びと温泉だったわけでもありません。
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2019年8月16日(金)

五山送り火の鳥居形を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。
五山送り火5ヵ年計画、本当に5年で完結することになってしまいました。
お盆に際し現世へ召喚された精霊 aka おしょらいさんを、冥界へ送還する万灯籠の習俗が、
大規模化した末に闇夜のページェントを現出させるに至った、京都の夏の風物詩たる五山送り火。
そんな送り火の五山コンプを何度も何度も阿呆丸出しで挑むも、全てに失敗して深く深く反省した後、
「5年かけて、1年に一山ずつ観る」 べく2015年に発動したのが、当サイトの五山送り火5ヵ年計画。
初年度は代名詞たる大文字を、2016年は超豪雨の中で妙法を、2017年は六斎と共に船形万燈籠を、
そして2018年は左大文字を真近で拝み、そして今回、ラストの鳥居形に臨むこととなったのです。
そう、なったのです。なってしまったのです。なると思ってなかったのに、なってしまったのです。
発動した頃は正直、完結するなんて思ってませんでした。絶対に、途中で放棄すると思ってました。
何故なら、所詮は火を観るだけだから。 「人多い」 や 「暑過ぎ」 くらいのことしか言いようがないから。
「火を担う人の想い」 とか 「火に託す人の想い」 とか言って、他人の人生に乗っかるのではなく、
徹底して単にうろつく見物人の分を弁え、その立場を遵守する場合、面白味が発生しようがないから。
歴史をあれこれ言って逃げを打とうにも、そもそも送り火の歴史はよくわかってないから出来ないし。
だから、トンズラすると思ってました。が、完結するのです。完結へ私を導いたのは、惰性です。
「例年通り」 という京都の慣用句が示す、惰性の魔力。あるいは、拘束力。もっと言うなら、呪力。
都市に於ける日常が本質的に永遠でも普遍でもないことを知悉するがゆえに希求される、そんな力。
その希求は無論、ある種の祈りでもあります。後ろめたい真実を背後に含んだ、祈りでもあります。
送り火を観続ける中で私も、京都そのものとも言い得るそんな惰性に、いつしか囚われてたようです。
いや、真に祈りの場たる送り火ゆえ、見物人にも何らかの魔力が作用したと考えるべきでしょうか。
魔力により 「面倒臭い9割+残り無意識」 と魂がゾンビ化した私は、完結の感慨も特になく、
鳥居形が灯される嵯峨嵐山へと今回も 「例年通り」 出かけたのでした。
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2019年7月31日(水)

向日神社へ旧暦タイムの夏越祓の茅の輪をくぐりに行きました。もちろん、ひとりで。
旧暦のタイムテーブルが生き続けてるのは、京都市街に限った話ではありません。
明治以降を全否定するかの如き勢いさえ感じさせる京都の旧暦の生き残りぶりは、確かに、
本来の正月 = 節分での異常な盛り上がりを筆頭として、当サイトでも何度かお伝えしてきた通り。
とはいえ、当然ながら京都以外の人もまた千年以上にわたって旧暦タイムを生きてきたわけであり、
その旧暦タイムの中で育まれてきた伝統行事も、タイミングはそうそう変えられなかったりします。
より季節感にフィットした旧暦タイムで各種行事を行い続ける寺社・地域は、京都以外でも実に多く、
季節感がよりビビットに反映される夏越祓については、7月末に実施する社も少なくありません。
京都・乙訓の向日町に建つ向日神社も、そんな旧暦タイムの7月末に夏越祓を行う社のひとつです。
向日神社。 「むかえび」 でなく、日向の逆だからといって 「がひゅう」 でもない、むこうじんじゃ。
嵐山の辺から南東へ続く丘陵の先+古墳でもある向日山で、奈良時代に創建された古社であります。
プレ平安京たる長岡京はこの社を取り込むように造営され、平安遷都後も朝廷より崇敬を獲得。
近世以降は国学者の六人部是香を輩出し、本殿が明治神宮の元ネタになったことでも、有名でしょう。
一方で、中世には土一揆の会合の場となり、戦国時代以降には西国街道沿いに門前町を形成。
古社ゆえのロイヤルなる由緒&縁と、京郊ならではのアーシーなテイストを併せ持つ社なわけです。
そんな向日神社の旧暦の夏越は、ロイヤルでアーシーなものかといえば、そうでもありません。
市制施行から何十年経っても門前町の呼称が生き続ける向日町は、同時に宅地化が急激に進展。
高度成長期に至るまで宅地は増え続け、人口密度は京都市さえブチ抜いて府最高となりました。
いわば、ベタベタのベッドタウンです。旧暦どころか明治さえ踏み潰すような、昭和丸出しの町です。
なので向日神社の旧暦夏越も、徹底的に生活感爆裂路線かといえば、これまた違うんですよね。
生活者が多いからこそ生き続けるナチュラルな信仰と、この社独特のロケーションが相まり、
季節感にフィットした伝統を良い雰囲気で体感できる、そんな夏越だったのでした。
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2019年6月30日(日)

夏越祓の茅の輪めぐり@山科盆地・山裾、前篇に続いて後篇です。
子供の頃の私にとって、山科は、何だかとてもカオスな街に見えたものでした。
カオスな人達が住んでる街に見えたわけではありません。街の作りがカオスに見えたのです。
狭くて曲がりくねった道。見通しの利かない交差点、そこへ密集して建て込む家家家家家家家家。
さらには、生活するためだけに住む人が密集して住むことから生じる、濃過ぎるほどの生活感。
地元・八幡や、見慣れた京都市街とは異なるそんな景観を、親戚の家を訪れる際に車の窓から見て、
「こんな町、絶対に車で走りたくない」 と思うと同時に、わけのわからん異様さを感じたものでした。
車の普及をギリギリ想定し切れなかった頃の荒っぽい開発によって急激に都市化された山科が、
昭和の人口爆増&車爆増を経て、今もあちこちで渋滞を生む街となったのは、御存知の通り。
私が住む八幡はもうちょっと開発が後であり、京都市街は密住してても街が遥かに整然としてるため、
昭和丸出しの無秩序な増殖によって仕上がった山科のルックが、とても異様に見えたわけですね。
ただこの印象、今回の茅の輪めぐりを経て、理由は他にもあると思えるようになりました。
近隣の生活者にとって山科は、それこそ単に人口が増え過ぎたベッドタウンでしかないわけですが、
めぐりをすると、この街がとても芳醇な歴史&自然&オーラを持つエリアであることが、体感できます。
「知ることができた」 とかではなくて、体感です。山裾部の緑から得られる、生々しい体感です。
もっと厳密にいうなら、無秩序な排気ガスで汚された緑から得られる、霊気の生々しい体感です。
人間がいるからこそ成立する、神々しい自然。単なる自然ではそもそもありえない、神々しい自然。
そんな、逆説か順説かよくわからん本質みたいなものが、生々しい形で溢れてるように思えるのです。
そしてこの生々しさは、私が子供の頃感じた山科のカオスな印象に、不思議と似てたのでした。
人間と神と自然と車がカオスに密住しまくる山科での、雨に濡れながらの夏越祓の茅の輪めぐり、
後篇では、生々しい神と自然へもうちょっと寄った感じで、盆地山裾の社をめぐって行きます。
私が山科に感じたカオスの正体は、雨の彼方から姿を現してくれるでしょうか。
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2019年6月30日(日)

夏越祓の茅の輪を求めて山科をうろつきました。もちろん、ひとりで。
改めて考えると、茅の輪くぐりまくりにおいて当サイトは、思い上がってました。
あちこちの社を茅の輪求めて彷徨い、 「これは小社を紹介するいい機会」 とか思ってました。
そして、その思い上がりを反省すると言って禊の天王山攻めなどをやり、それもネタにしてきました。
こうした所業は確かに、あまり良いこととは言えません。態度としては、明確にふざけてるでしょう。
愚かさを超克できず、糊塗することしかできない凡庸さから生まれる、この思い上がり。腐ってます。
が、だからといってこの愚昧&凡庸&腐敗を反省ばかりしてるのも、それはそれで非生産的です。
そもそも、反省の先に何があるというのか。部屋でじっとして、窓から雨粒でも数えてるべきなのか。
違う。それは日和だ。梅雨の雨中で徘徊したくないという日和の声が、内省心を偽装してるだけだ。
めぐりは、続けなければならない。めぐりが罪なら、その罪を一身に背負って続けなければならない。
その徘徊が、雨の中でのその徘徊こそが、めぐりびとにとって巡礼に、そして浄化にもなるはずだ。
私はそう考え、2019年の夏越は雨の中をとことん歩くことにしました。歩いたのは、山科です。
山科。京都の隣にあって、住宅地として猛烈に開発されたエリアであります。が、その歴史は古し。
古代には、大陸にも繋がる越の道の要衝となり、中臣氏が拠点と置くと共に天智天皇の御陵も造営。
その縁もあってか山隣の平安京への遷都後は、公家の荘園・遊猟地ができ、寺社も相次ぎ創建。
中世以降は、決戦第2新本願寺ができたり禁裏御料地になったりしながら、山科七郷なる惣も築き、
明治に入れば鉄道の開通で都市化して、さらに昭和以降は京都のベッドタウンとして人口が爆増。
そして近年は、地下鉄開通により利便性が増し、新たな形での宅地化が進んでるエリアであります。
そもそも山科という地名は 「山の窪み」 的な意味を持つらしく、その名の通り、エリアは盆地の中。
まるで京都盆地を小さくしたような地形であり、外周にあたる山裾部には大小の様々な神社が林立。
で、 「これは山科の小社を紹介するいい機会」 と思って今回、その山裾をめぐったわけです。
山科盆地に降る雨は、めぐりびとが背負った罪を洗い流してくれるでしょうか。
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2019年4月28日(日)

稲荷祭、 【1】 【2】 に続き、いよいよラストの 【3】 でございます。
中世までの稲荷祭は、それこそ祇園祭とも並ぶような、華美で絢爛な祭だったようです。
平安末期の 『明衝往来』 によると、貴賤の人々は七条大路に桟敷を設けて祭の行列を見物し、
行列の先頭を行く馬長もその見物に足るべく、家十軒分に相当する派手な衣装を纏ったといいます。
この華美を支えたのは無論、東市から続く七条の富裕商人。13世紀頃も、羽振りは良かったとか。
また 『新猿楽記』 によると、御旅所では呪師・傀儡子・唐術・輪鼓・独相撲といった芸が繰り広げられ、
さらに室町時代の 『東寺執行日記』 によれば、数十の山鉾まで出現し、巡行も行ったそうです。
正に、中世の祇園祭について言われるような風流の世界が、稲荷祭でも展開されてたわけですね。
しかしそんな風流な稲荷祭も、応仁の乱で一旦ストップ。再開は、実に300年も後の江戸中期。
江戸期はそれでもまだ山車などが出てたそうですが、現代に入るとそうした風流要素も概ねストップ。
現在の稲荷祭は多分、かつての稲荷祭とはかなり違う祭として、再構築&継続されてるのでしょう。
が、私はそんな現在の稲荷祭が、良い雰囲気の祭に思えます。好きな雰囲気の祭に思えます。
隣の松尾祭のように、アーシーなノリと神々しさが同時に爆裂するようなテイストではありませんが、
擦れた街の空気&景観と、農耕神・稲荷を来訪神として招くアーシーさが同時にある辺が、好きです。
何より、両方の要素のバランスが絶妙であり、その絶妙さに京都らしさを感じなくもありません。
何度も書いてますが、私は丹波人の親を持つ都合で、京都の最古の記憶が京都駅だったりします。
で、数十年前の京都駅周辺を見て感じた何かを、稲荷祭を観ると今でも感じたりするんですよ。
単に昭和な景観が残り気味という話かも知れませんが、そんな景観もこの8年でかなり変わりました。
しかし、祭の雰囲気は変わりません。この雰囲気は、土地の匂い的なものかも、と思ったりします。
そして、風流爆裂だった時代の人々も案外、この祭に同じ匂いを感じてたのかも、と思ったりします。
『明衝往来』 も、稲荷祭では神の立派さと心情の愉快さを同時に得れた、とか言ってるらしいし。
そんな稲荷祭を8年観続けた記事、ラストはいよいよ、宮入です。ひたすらに、宮入です。
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2019年4月28日(日)

稲荷祭の氏子祭、 【1】 に続き、氏子域巡幸の 【2】 でございます。
【1】 では 「知らん」 とか言ってましたが、でも伏見稲荷の氏子域、本当は気になります。
伏見稲荷大社から、割と遠いという。また、遠いだけでなく、何となく不思議な感じもするという。
御旅所は、神社から離れた地へ神が訪れるための場所。なので、遠いこと自体は別にいいのです。
氏子域が伏見稲荷と接してる松尾大社の御旅所も、いい加減、遠いし。何なら、伏見稲荷より遠いし。
しかし伏見稲荷の場合、本社所在地が何故か藤森神社の氏子域だったりします。何とも、不思議。
それに、御旅所が東寺に近いのも、謎。差し上げなども、東寺の神輿に見えたりしたりして、謎。
「つまり稲荷祭は、東寺の祭だ。全ては、空海の計略だ」 みたいな思念が、沸かないでもありません。
東寺は、遷都すぐの平安京を守護する官営の寺院として、西側の西寺とペアで建立されました。
現在の地勢で見れば、東寺の位置は京都の西南。しかし、元来あった太極殿から見れば、東南。
巽の守護を担った感じでしょう。ゆえに空海は東寺を得た際、同じ巽に建つ伏見稲荷をフィーチャー。
「稲荷神が東寺に来た」 とか言って、平安京東南部の民と稲荷とのマッチングを図ります。
元からあった藤森神をどかせて稲荷神を稲荷山麓へ召喚すると共に、東寺近くに御旅所をオープン。
また、下京の民の懐たる官営マーケット・東市の経済力を活用し、大祭・稲荷祭も大々的に展開。
これらの計略により空海は、めでたく叡山の牽制に成功しましたとさ。愉快、空海、イエズス会。
とか言ってると楽しいんですが、しかし平安京東南部の稲荷信仰は、空海以前にも既にあったとか。
それこそ、 『今昔物語集』 にある 「七条辺にて産れたりければ」 稲荷が産神、みたいな感じで。
ひょっとすると空海は、東寺運営に際してこの 「七条辺」 の信仰を、利用したのかも知れません。
逆に、空海が民間利用されてる可能性もあるけど。とにかく、何とも不思議な伏見稲荷の氏子域です。
というわけで、稲荷祭の 【2】 は、そんな伝説が息づく平安京東南部が舞台の神輿巡幸であります。
北は京都駅の北側や五条を越えた中堂寺、南は千本十条や高速が借景の河原町十条まで。
神輿や五重塔と共に、稲荷祭を千年以上担い続けてきた街の姿を、見つめていきます。
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2019年4月28日(日)

稲荷祭の氏子祭を、8年にわたって観続けました。もちろん、ひとりで。
稲荷祭。ゴールデンウィークを挟む頃合で行われる、名前の通り、稲荷の祭です。
そして無論、京都で稲荷といえば伏見稲荷ですから、つまりは伏見稲荷大社の祭であります。
この稲荷祭、当サイトは実は、クライマックスともいえる氏子祭を8年にわたって追い続けてきました。
京都を考えるにあたり、この祭が極めて重要な祭であると思ったから追った、わけではありません。
多くの祭に於いて核となる御旅所システムを考える上では、確かにこの祭は重要となるはずですが、
しかしそんな難しいことは、純然たるチンピラサイトである当サイトには、あまり関係ありません。
追った理由は、雰囲気が何か好きなのと、数年追えば祭の全貌がコンプできる気がしたからです。
伏見稲荷の氏子域は、よく知られるように、本社から割と離れた京都駅周辺に広がってます。
そして伏見稲荷大社・稲荷祭の氏子祭では、この京都駅周辺の氏子域を、5基の神輿が巡幸します。
稲荷神が、神幸した東寺駅近くの御旅所を出発し、各々の地域を回って御旅所へ戻るわけです。
で、この巡幸エリアの距離感が、何年かかけて追うのに丁度良い感じに思えたんですよね。
巡幸の東北端は、きっと河原町通の五条を下った辺。東南端は、竹田街道を十条まで下った辺。
西北端は、丹波口駅を超えて中堂寺の辺。そして西南端は、旧千本通をこれまた十条まで下った辺。
曖昧な表現で恐縮ですが、多分こんな感じです。こんな範囲を、5基の神輿が回るわけです。
範囲が広過ぎて、絶対に追いきれない祭というのも、京都には存在します。松尾祭が典型でしょう。
早朝からとんでもない範囲を巡幸しまくり、とんでもない回数の差し上げをやりまくる、みたいな。
しかし稲荷祭は、そんな感じではありません。1年では無理でも、何年かだとコンプできそうなのです。
おまけに、氏子域の中心に京都駅があるから、それなりに、街。同時に、雰囲気も割と、アーシー。
そんな便利さ&都合の良さと、雰囲気の良さに釣られる感じで、何年も何年も観続けてしまいました。
で、追尾の記録を、式次第は概ね順守+時空はシャッフルで組んだのが、当記事であります。
伏見稲荷の本社は最後まで出て来ませんが、しかしこれが、伏見稲荷の祭です。
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2019年1月1日(火)

2019年への年越しを、妙心寺で除夜の鐘を聴くだけで迎えました。もちろん、ひとりで。
聴くということ。耳を澄ませること、と言い換えても構いません。とにかく、聴くということ。
難しいことです。ネットの普及以降、視覚ばかり偏重される昨今では、なかなか難しいことです。
「見る暴力」 を行使する自由&権利が、ゼロ年代をまんま引き摺るような形で延々とデフレを続け、
愚鈍な視線が溢れ返ると共に、内省能力を喪失したイワシの如き民を大量発生させた、10年代。
イワシを見て 「やっとネットが漁場化した」 と考えた代理店は、社員を殺しながら民の家畜化を進め、
民は民で小さな画面の中へ認識を収束し、外部を負の感情の便所と見做すようになった、10年代。
見るということは、果てしなく安くなりました。大きな代償を支払うことで、果てしなく安くなりました。
この腐ったディケイドの最終年を迎えるに際し、私は、視覚偏重の風潮に異を唱えたくなったのです。
野蛮に見つめるのではなく、黙って聴くということ。むしろ、音 or 静寂から見つめ返されるということ。
聴覚の復権です。それはつまり、内省の復権です。この復権が今、必要であると思えるのです。
そう考えた私は、2019年の年越しを、妙心寺にて除夜の鐘を聴いて迎えることにしました。
妙心寺。言うまでもなく、臨済宗妙心寺派の大本山であり、禅寺の中の禅寺と言える大寺です。
京都・花園の巨大な境内は全域が禅テイストでまとめられ、質実&ストイックな精神世界を具現化。
また、国宝の梵鐘も持ち、そのレプリカで除夜の鐘も実施。で、この鐘が、参拝者は撞けないのです。
見るだけの無力さを痛感する前に偽りの主体性を得んと、鐘撞き体験へ走るイワシの愚さを排し、
耳を澄ませることで真の内省を促し、真のイニシエーションとしての年越しも成立させる、この姿勢。
正に、禅です。正に、己の内面と向き合う、禅ならではのスタンスです。正に、禅寺の中の禅寺です。
なので私も、真夜中の妙心寺で鐘の音に耳を澄ませ、聴くということに向き合ってみたのでした。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトである為に必要な挑戦なのです。
決して、並んだりせずに簡単に年越しネタを成立させたい一心で出かけたのでは、ありません。
断じて、単に写真が殆ど真暗になったから聴覚がどうとかゴネてるのでも、ありません。
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2018年11月18日(日)

笠置山もみじ公園のもみじライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。
笠置といえば、何といってもまず、笠置山です。そして、そこに建つ笠置寺です。
大友皇子が再訪時の目印として巨岩に笠を置いたことから、その名が付いたという、笠置山。
標高こそ289mながら、至る所に巨岩が露出するその姿から、古より信仰を集めてきた霊峰であり、
また無論、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒した元弘の乱に於いて、挙兵地となった山でもあります。
で、そんな笠置山に鎮座するのが、大友皇子が掘らせたという磨崖仏を本尊とする、笠置寺。
平安期は天皇や藤原氏からの信仰を獲得し、鎌倉期は戒律の復興者たる貞慶を得て隆盛を誇り、
また仏教伝来前の巨石&山岳信仰も含め、生々しい信仰の息吹を今に伝える名刹であります。
共に、笠置へ訪れた際は、必ず出向かわなければならない地です。スルーは、断じて許されません。
が、この3か月前に花火を観に笠置を訪れた際、私は笠置山登頂&笠置寺参拝を、忌避しました。
理由は、登るのが面倒臭かったから。徒歩で登るには、参道の坂がとんでもなくきつかったから。
当日は真夏+激暑で、絶対に汗だくになると思ったから。車がないと絶対に無理と思ったから。
いや、仮に車があって登れても、あの日は花火の超大混雑で、笠置から多分出れなかったから。
といったわけで、結局は花火の反響音に山の存在を感じただけで、この地をトンズラしたのでした。
いけません。歴史の重みと浅薄な享楽を常に体感的に併せ飲む当サイトが、これでは、いけません。
何より、山が私を呼んでるのが、聞こえる。笠置山が、私を呼んでる。笠置寺が、私を呼んでる。
あの背後霊みたいな磨崖仏が、南の彼方から 「挨拶はないのか」 と私を呼んでるのが、聞こえる。
と、霊が高まったので、気温が下がった秋、私は笠置山へ改めて挨拶しに行くことにしました。
笠置山、霊峰としても名高いですが、春は桜、そして秋は紅葉の名所として有名だったりします。
おまけに、紅葉が集結する山中のもみじ公園は、11月の夜間にライトアップも実施。いい感じです。
ので、霊気が高まる夜に、紅葉が色づく笠置山へ赴いてみました。今度は、自力で登山して。
磨崖仏だって、拝んだに決まってるのです。拝んでなければ、おかしいのです。
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2018年11月11日(日)

長岡京ガラシャ祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
細川ガラシャ。京都府下に於いては、色々と町おこしのネタになってる人物です。
明智光秀の娘として生まれ、細川忠興へ嫁ぎ、キリシタンとなって最後は爆死した、ガラシャ。
京都府には、ガラシャが嫁入りした頃の細川家が領地としていた乙訓・長岡&丹後・宮津があり、
長岡は勝竜寺城での輿入れ、丹後は本能寺後の幽閉も行われてる為、ネタ化もまあ当然でしょう。
ただ、ガラシャが受洗を経ていわゆるガラシャとなったのは、御存知の通り、あくまで大坂での話。
幽閉経験が受洗に繋がった可能性はありますが、所詮はプレ話。爆死のインパクトには適いません。
というか、より率直に言えば、そんなに盛り上がるもんか、と。君ら、そんなにガラシャ好きか、と。
不埒とも言えるこの疑念、輿入れというハッピーな逸話だけが残る長岡では、より強くなります。
長岡時代は、忠興から 「靡くなよ我が姫垣の女郎花 男山より風は吹くとも」 と歌われた、ガラシャ。
性欲山・秀吉の淫風が心配になる、花のような新妻のガラシャ。ハッピーであります。が、好きか、と。
と、思うのです。で、この疑念に色んな意味で応えてくれるのが、長岡京ガラシャ祭なのです。
江戸初期の勝竜寺城廃城後、長らく単なる農村だった長岡は、現代・高度成長期に入り発展を開始。
京都&大阪の良きベッドタウンとなったことで人口が爆増し、1972年には長岡京市として市制導入。
良水が要る大手電子企業も続々進出したことで、拡大は続き、その勢いはバブル期まで継続。
その勢いの余波を受ける形で90年代、勝竜寺城の復活と、長岡京ガラシャ祭は開始されました。
この長岡京ガラシャ祭は、勝竜寺城でのガラシャの輿入れを再現し、華麗な時代行列を展開する祭。
といっても、歴史蘊蓄などは希薄で、基本はコスプレ&露店。で、これが盛り上がってるんですよ。
「ガラシャ+結婚」 というネタが、旧市民も新市民も利害なく等距離で関われる点がマッチしたのか、
まとまる材料皆無の急造ベッドタウンにあって、観光客よりもむしろ地元住民の盛り上がりを獲得。
長岡京市という街を凝縮すると共に、歴史系町おこしのひとつの在り方も示す祭となってます。
そんなガラシャ祭、男山山麓に住む八幡人として、風な気分で出かけてみました。
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2018年8月16日(木)

五山送り火の左大文字を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。
五山送り火の火というのは、通常は、火元から割と離れた場所で眺めるもんです。
一般的には、大文字山のあの感じこそが、送り火で連想される距離感、ではないでしょうか。
北大路の辺から大文字を観る、あの感じ。闇の中に 「大」 の字が浮かぶ、あの感じ。みたいな。
確かに、あの風情 or 美は、火元から距離をとらないと、得られません。離れるわけですね。
風情 or 美の濫獲に走らず、真摯に信仰行事として五山送り火を考える場合も、事情は割と同じ。
お盆に現世へ里帰りした精霊 aka おしょらいさんを、あの世へ送り返すのが、あの火の本来の役目。
精霊は、火に近付いて祈れば祈るほどスムーズに帰れるわけでもないでしょう。離れるわけですね。
そんなこんなで、多くの人は通常、火元から割と離れた場所で、送り火を眺めるわけであります。
しかし、風情も美もおしょらいさんも関係なく送り火を追ってる当サイトとしては、事情はまた、別です。
「一晩で五山コンプ」 という愚行に何度も何度も挑むも、それら全てが失敗に終わり猛省した後、
「5年かけ、1年に一山ずつ観る」 と決め2015年より発動された、当サイトの五山送り火5ヵ年計画。
初年度は大文字を、2016年は妙法を、そして2017年は船形万燈籠を、それぞれ拝んできました。
が、そうやって何度も何度も火を観るうちに私は、もっと近くで火を観たい、と思うようになったのです。
送り火当日に於ける送り火実施山への部外者の入山 or 侵入は、無論、固く禁止されています。
何せ基本は、宗教行事。 「大」 を 「犬」 にするような類の輩の闖入は、厳に戒められるべきでしょう。
けど、近くで観たい。で、この欲求を満たせる場所は、実はなくもありません。それが、左大文字です。
その名の通り、送り火のキービジュアル 「大」 を、大文字山の逆側で浮き上がらせる、左大文字。
金閣寺に近いため、駐車場から 「大」 のベースを目にした方も、多いんじゃないでしょうか。
あのベースの距離感が示すように、ここの送り火は、近い。望遠なら、焚く人が見える程、近い。
つまり、火そのものを、熟視出来るのです。想いが託される火の真実を、熟視出来るのです。
で、5ヵ年計画4年目の今回は、そんな左大文字で、火ばかりを見つめてみました。
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