大混雑 - ひとりでうろつく京都 (β版)

醍醐寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2019年4月5日(金)


醍醐寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

当サイト 『ひとりでうろつく京都』 にはこれまで、醍醐寺の桜記事が存在しませんでした。
メジャースポットへの単独特攻を身上とする、当サイト。醍醐寺スルーなど、基本、ありえません。
なのにスルーし続けてきた理由は、ただひとつ。豊太閤花見行列の時に、特攻したかったからです。
秀吉が己の命の散り際に華々しく催し、醍醐寺を名実共に桜の名所としたともいえる、醍醐の花見
そして、単なるコスプレ祭にも見えるものの、その醍醐の花見を現代に復活させた、豊太閤花見行列。
醍醐寺の桜を観るなら、この行列と共に観るのが、筋だろう。そう思い、機会を窺ってたわけですね。
で、サイトを始めた頃から2019年に至るまで、その機会がことごとく振られ続けてきたわけですね。
豊太閤花見行列が行われるのは、4月中旬。京都の桜は、散り際 or 完散のタイミングとなります。
「花見客を少しでも残そうとして、散り際にやってるんだろ」 と、思わず勘繰りたくなる間の悪さですが、
とにかくタイミングが合わないまま時は過ぎ、結果として何年もスルーし続けてしまってたのでした。
しかし、醍醐寺はやはり、醍醐寺。そんな理由で延々スルーなど、やはり許されないのです。
醍醐寺。真言宗醍醐派総本山、醍醐寺。秀吉が花見をするために建てた寺、では無論ありません。
平安時代初期に京都東南の醍醐山を丸ごと境内として創建されて以来、修験霊場として信仰を集め、
醍醐天皇を筆頭に皇室の庇護も厚く受けた、極めてロイヤルかつスピリチュアルな寺であります。
が、応仁の乱を食らって、醍醐天皇の冥福を祈る五重塔以外、壊滅。が、その後に秀吉が、出現。
秀吉からの帰依を得た醍醐寺は、伽藍の造営・改修と共に、醍醐の花見に向けた桜の植樹も実現。
この醍醐の花見により何とか盛り返し、以後も色々あるのもの、世界遺産として現在に至るわけです。
で、桜の方もまた、京都随一の桜メジャースポットと呼ばれるに相応しい威容を誇ってるわけです。
五重塔周囲に加えて、三宝院に博物館、タダ観ゾーンの桜馬場など、実に見所が多い醍醐寺の桜。
当然、シーズン中は平日だろうが何だろうが、大混雑。となれば、スルーはやはり、許されません。
そう思い今回、特攻したのでした。行事も何もない単なる普通の日に、特攻したのでした。

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笠置夏まつり花火大会へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2018年8月4日(土)


笠置夏まつり花火大会へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

笠置町。京都府で高齢化や人口減の話になると、必ずその名が上がる自治体です。
巨岩が並ぶ霊地であり、元弘の乱で後醍醐帝行幸した、笠置山。その笠置山を擁する、笠置。
擁するというか、町域の8割がこの山地などで占められるため、此地の主産業は無論、林業でした。
町を東西に流れる木津川上流を物流ルートとして、古くより奈良・京都へ木材を供給しており、
奈良・東大寺興福寺杣山や、また我がホーム・石清水八幡宮の神領&杣があった歴史もあり。
しかしそれゆえ、林業が衰退した現代に入ると、他に産業がないこの町の人口は減少し始めます。
やむなく観光に活路を見出した笠置町は、元弘の乱ゆかりの観光地として笠置山をアピールし、
後醍醐持ち上げ+足利逆賊の戦前では結構盛り上がりましたが、人民主権の戦後に入ると下火化。
高度成長期以降は、レジャーの多様化+街から半端に遠いことが災いして、さらに人気が下降。
現在は、 「出生数ゼロ」 「高齢化率50%」 などの話題で、京都新聞を賑わす地となってるわけです。
では、笠置町がひたすら過疎全開でゴーストタウンな町かといえば、そうでもありません。
傍目には血税を盗まれてるようにしか見えないですが、移住・定住推進の情宣なども、色々と展開。
また、キャンプ場カヌーといった木津川を活かしたレジャーは、凄く盛ん。イベントも、色々開催。
私は出かける度、割と賑やかな所に見えました。同様の印象を持つ方も、多いのではないでしょうか。
町が山間で狭いため、すぐ人口密度が上がるだけとも言えますが、賑やかに見えるんですよね。
もちろんその印象は、定住者の数とは全然関係がない話ですが、とにかく頑張ってる町であります。
そんな笠置町の最大のイベントともいえるのが、毎年8月上旬に行われる夏まつりの花火大会です。
木津川で1800発を打ち上げるこの花火、 「8割が山地」 という場所のため、音が反響しまくり。
規模こそやや小ぶりではあるものの、他所では体感不能の爆音サラウンド状態を現出させてます。
また、そもそも狭い+人少ない所へ客が密集するため、混雑が超々激化するのも、ある種の味。
そんな笠置の花火、混雑が超々々々激化した関西線に乗って、出向いてみました。

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山鉾が通る真下の回転鮨割烹・魚倖で、鱧づくしを食べました。もちろん、ひとりで。

2017年7月17日(月)


山鉾が通る真下の回転鮨割烹・魚倖で、鱧づくしを食べました。もちろん、ひとりで。

「鱧祭」 と呼ばれることもあるという、京都の夏の代名詞・祇園祭
無論、鱧もまた京都の夏の代名詞である為、こんな呼称が生まれるのも自然な流れでしょう。
山鉾巡行を見に来た人が、その前後の食事で旬の鱧の風味に触れることも、少なくないはずです。
「ビルに入った料亭から、山鉾を見下ろしながら、鱧を食す」 なんてことも、あるかも知れません。
正に、ベタとベタのベタなる組み合わせ。当サイトとしても、一度は試してみたい贅沢ではあります。
が、見下ろすのは、ちょっと、頂けません。山鉾を上から見下ろすのは、ちょっと、頂けません。
山鉾には、神が乗ってます。疫神の吸引こそが山鉾の本来の役目ですが、善神も色々乗ってます。
神か何かよくわからんのもありますが、とにかく何かが乗ってます。単なる山車ではないのです。
なので、上から見下ろすのはあんまり、よくないわけですね。出来ればやはり、下から見上げたい。
もし、巡行の最中に鱧を食すのであれば、鉾の車輪が軋む音を体感出来るような地平で、食いたい。
何ならその足元、いや足の下にまで潜り込み、群れ集う人々の足音まで感じながら、食いたい。
それが、礼儀ではないか。祭の本義を尊重しつつ愉悦にちゃっかり浸る他所者の、礼儀ではないか。
そう考えた当サイトは、企画 『ひとりで食べる鱧』 の一環として、地下で鱧を食することにしました。
それも、前祭・山鉾巡行の当日真っ最中、山鉾が進むその真下にて、鱧を食することにしました。
赴いた店は、回転鮨割烹・魚倖御池通の地下街に入る、その名の通りの回転寿司店であります。
御池通は御存知の通り、前祭・山鉾巡行の最終コース。正に足元にて、鱧を食うわけですね。
魚倖、回転寿司店ではありますがコースも出してて、夏場になれば鱧づくしコース3000円也も提供。
これが 『ひとりで食べる鱧』 の緊縮型新予算枠にも合致する為、今回、出かけてみたのでした。
前祭巡行当日+巡行終了直前の昼過ぎ、その真下の飯屋の混雑は、果たしてどんな感じなのか。
そして、京都といえど回転寿司は回転寿司なのか、あるいは回転寿司も京都は京都なのか。
そんなことを考えながら、 「鱧祭」 を求めて、地下へ潜ったのです。

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節分の吉田神社で、大元宮を見て年越し蕎麦を食べてきました。もちろん、ひとりで。

2017年2月3日(金)


節分の吉田神社で、大元宮を見て年越し蕎麦を食べてきました。もちろん、ひとりで。

2月3日の節分は、日本の現行法に於いて、いわゆる祝日と定められていません。
「現行法でなければ休みだったのか」 とか訊かれると困りますが、とにかく祝日ではありません。
節分が正月を凌ぐほどの盛り上がりを見せる京都であっても、この事情はもちろん同じです。
旧暦の年越しを喜ぶように盛り上がりつつも、現行の祝日法には従い、休みにはならないわけです。
なので、節分の京都を一日徘徊するというのは、土日でもない限り、割と、いやかなり、難しいと。
当サイトではこれまで、この難しさを無理矢理に超克する形で、節分の京都徘徊を続けてきました。
毎年毎年、一日中寺社を回りまくり、2016年は綾部の大本へ泊まりで出かけたりさえしました。
頑張ってたのであります。通すべき義理も通さず、切るべき仁義も切らず、頑張ってたのであります。
冷静に考えると、何を頑張ってきたのかよくわかりませんが、とにかく頑張ってきたのであります。
しかし今回は、遂に時間の都合が付かなくなったのです。暇丸出しの徘徊が、出来なくなったのです。
昼に2時間ほどの空きは何とか確保しましたが、それ以上はどうにも時間が取れなくなったのです。
どうしよう。2時間で、何処をどう巡ろうかな。というか、2時間で徘徊なんか、出来るかな。
「徘徊より何処か1ヵ所に絞った方がいいかも」 と考えていて、頭に浮かんだのが、吉田神社です。
吉田神社。都の鬼門・吉田山に立ち、ゆえに節分が 「京都の節分」 の代名詞たる盛況を誇る社です。
無論、当サイトでも既訪であり、露店の混雑や火炉祭の凄さは、お伝えしている通りであります。
サウスの八幡人ゆえ感じるであろう独特の異様さにも言及する形で、お伝えしている通りであります。
が、夜の吉田の凄まじさは見てても、昼間の吉田の節分は、私、見たことがありませんでした。
あと、参道の年越し蕎麦の露店も、新暦で動く偽京都人として、気になりながらもスルーしてました。
これは、いかんと。 「京都の節分」 の代名詞、全時間帯で見とくべきだと。蕎麦も、食うべきだと。
そう考えて2017年の節分めぐりは、真昼間の吉田神社を短時間で巡回し、済ますことにしたのです。
また、年越し蕎麦もしっかり食い、京都の 「本当の年越し」 を真に面白がることにしたのです。
更には、夜の訪問時には混雑で日和った吉田のコア・大元宮への参拝も、今回は忘れてません。
所要時間、1時間。しかし、 「京都の節分」 最深層は、垣間見えたかも知れません。

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長岡天満宮の夏まつりへ久世六斎念仏の奉納を観に行きました。もちろん、ひとりで。

2016年8月25日(木)


長岡天満宮の夏まつりへ久世六斎念仏の奉納を観に行きました。もちろん、ひとりで。

京都の六斎念仏の講中は、かつてお盆の頃、あちこちで興業を行なってたそうです。
市街地近郊の農村に於いて、農閑期の余暇を活用する形で発展した、近世京都の六斎念仏。
特に芸能六斎と呼ばれるタイプの六斎は、花の都に流行るあらゆる演芸を取り込みまくる形で発展、
念仏の原型がなくなるほどに芸能化されたその演舞で、人々から熱烈な人気を得たといいます。
無論、そんな芸能化された六斎の講中も、メイン活動は地元の寺社での奉納&棚経なわけですが、
人気と需要ゆえ、大八車へ道具を積んでの町場廻りなども行ない、貴重な現金収入を得てたとか。
そういった場での演舞は恐らく、よりコンパクトで芸能色が濃く、より 「余興」 的なものだったでしょう。
「移動型総合念仏エンターテイメント」 「踊る農閑渡世」 みたいな感じだったかも。面白そうですね。
しかし現代に至ると、こうした 「興業」 としての六斎奉納を見かける機会は、なくなりました。
現代の六斎シーンにあっても、ホーム以外の場所で積極的に奉納を行なう講中は多いですが、
そのプログラムは、ガチというか、いわゆるフルサイズの 「一山打ち」 である場合が大半。
かつての六斎が、メイン活動以外の場に於けるライトな演舞で放っていたかも知れない雰囲気、
ある種の 「営業」 感や 「余興」 感を想起させてくれるような奉納は、案外と見当たりません。
時の流れはこういう所にこそ克明に顕れる、という話ではあります。が、そこで、久世六斎ですよ。
京都市南区・久世にあって、駒形稚児を出す綾戸国中神社の隣である蔵王堂・光福寺をホームとし、
蔵王堂におけるホーム奉納ではそれこそガッチガチのディープな演舞を展開する、久世六斎念仏
六斎本来の太鼓曲が中心のセトリに始まって、客&場所から放たれるタイムスリップ感に至るまで、
「昔の六斎はこんな感じかも」 と思わせるそのガチさ加減は、当サイトでもお伝えしてる通りです。
が、長岡天満宮・夏まつりでのお呼ばれ奉納では、こちらの久世六斎、実にコンパクトな演舞を披露。
これはこれで、 「昔の六斎の興業はこんな感じかも」 と、強く思わせてくれるものとなってます。
そんな六斎の別の表情を拝むべく、長岡天満宮がある長岡京市へ出かけてきました。

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亀岡平和祭・保津川市民花火大会へ花火を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年8月7日(日)


亀岡平和祭・保津川市民花火大会へ花火を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

爆発を、 「美」 として描く or 堪能すること。それは、平和な状況でのみ可能な行為です。
いや無論、戦時下でも爆発の描写そのものは決して珍しくはなく、むしろ盛んに行われるでしょう。
しかしそれらは概ね、 「勝利」 「成果」 or 「悲劇」 「非人道性」 などを表象する為のものであり、
爆発によって四散する命をもエレメントとして取り入れるような 「美」 の表現には、まずなり得ません。
殺される側にとって爆発の惨状は、当然ながら 「美」 とは懸離れた地獄として現前するのであり、
また殺す側にとっても爆殺の美化は、どれだけ正当化のロジックを駆使してもなお困難を極めます。
死者に祈りを捧げると同時に、こっそりと死者の死の瞬間を審美する脳天気な 「美」 の享楽は、
脳天気な平和状況に於いてのみ成立するものであり、ある意味で、平和の証とも言えるわけです。
8月の日本に於いて、爆撃の再現としか思えない花火大会が平和祈願の名目で開かれるのは、
送り火の風習を持つ盂蘭盆会終戦記念日のタイミングが重なったという我が国固有の事情に加え、
爆発が享楽し得るほど我々は平和であると、死者を含む世界へ宣言する為なのかも知れません。
「亀岡平和祭」 と堂々銘打たれたイベントの一環として行われる京都府亀岡市の花火もまた、
平和ゆえに可能な爆発の享楽を、夜空に舞い踊る魂火の審美を、存分に楽しめる催しです。
口丹波の中核都市・亀岡市は、1955年に 「世界連邦平和都市宣言」 を発し、 「平和祭」 を開始。
同時に、市の真ん中を流れる保津川 = 大堰川 = 桂川にて、約5000発を爆発させる花火大会も開始。
南丹・八木の凄まじさに隠れてる印象がなくもないですが、その規模はなかなかに爆発的であり、
花火貧民たる京都市民にとっても、JRに乗って爆発の飢えを満たしに行く貴重な機会となってます。
そんな亀岡の花火、当サイトとしては夏の定番行事を押えるべく今回の特攻に挑んだんですが、
写真の方は、花火の爆発が持つ 「美」 、それこそ死すらも孕む 「美」 に、焦点を合わせてみました。
長時間露光で光を叙情的に描くのではなく、飛び散り弾け飛ぶ瞬間の光こそを動的に描くことで、
「美」 の真只中で四散した命へ脳天気にシンパサイズし、共に夜空を舞おうと考えたわけであります。
そう、これはあくまでも、新たな挑戦なのです。脳天気な平和を手放さない為の、挑戦なのです。
断じて、単に人が少ない遠方まで離れて望遠で撮ってみたら、妙な絵になったのではありません。
決して、手持ちゆえシャッター速度を上げ、妙な絵がもっと妙になったのでもありません。

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祇園祭・前祭の宵山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年7月16日(土)


祇園祭・前祭の宵山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

海がない街・京都に、忽然と海が現われる夜。それが、祇園祭の16日の宵山です。
海水の代わりに街中を流れるのは、人間。いや、より呼称のニュアンスにこだわるなら、人肉。
36度前後のじっとりした温度を持つ肉塊が、山鉾巡行&神輿巡幸の前夜に群れ集って肉海を生み、
その海に迷い込んだ者は、肉の潮目を読みながら泳ぐかの如き地獄を、味合わされるわけです。
また、肉温と気温がほぼ同温となる為、空気まで肉と化すように感じる無駄なまったり感が醸成され、
まるで湯の代わりに人間を張った肉風呂へ沈められるかの如き地獄も、味合わされるわけです。
恐ろしいのであります。京都最大級の動員を誇る行事@狭い街中 in 真夏。恐ろしいのであります。
「う回せよ」 というアラートを出されたら、素直にトンズラしたくなるくらい、恐ろしいのであります。
「京都の超メジャースポットへの単独正面突破」 を本義とする当サイトとしては、この恐るべき宵山、
その恐ろしさゆえに絶対避けられぬ行事と考え、ネタ採取を始めて早々に、特攻を決行しました
が、それ以来、出かけていません。17日の山鉾巡行には何度か行ってますが、出かけていません。
何故か。恐ろし過ぎたからです。地獄が、地獄過ぎたからです。肉が、肉過ぎたからです。
サイトの本義より健康が大事と判断し、人道的措置として長きに亘り 「う回」 を続けてきたのでした。
しかし、宵山のメジャーさ加減を改めて考えると、ずっと避け続けるというのも、ちょっと考えもの。
それに、2014年の後祭復活によって、16日 = 前祭の宵山も、多少は混雑が分散・緩和されたはず。
「近畿一円の阿呆な若者やDQNが大集結」 という古典的な馬鹿騒ぎも、多少は失速したはず。
いくら何でも、学ぶだろ。情報端末が普及して、阿呆な万能感まで普及する昨今だから、学ぶだろ。
再生産がこれだけ大変な御時世に、阿呆だけが無限&無尽に再生産され続けるわけ、ないだろ。
だから多分、大丈夫。みんな同じ人間なんだから、きっと分かり合えるよ。肉とか言っちゃ、駄目だよ。
と考え、今回、5年振り& 「前祭の宵山」 に戻ってからは初めて、16日の宵山へ行ってみました。
のみならず、山鉾の分散&客減少を見込み、前回は日和った山鉾町特攻+山鉾コンプにもトライ。
レッドアラートの先へ臆することなく突き進み、 「山鉾町の宵山」 の全てを観に行ったわけです。
時は奇しくも、土曜。果たして私は、肉海を無事に泳ぎ切ることが出来るでしょうか。

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高瀬川・木屋町通へ夜桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年4月2日(土)


高瀬川・木屋町通へ夜桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

木屋町通は電気の道だ」 みたいなことを、ふと、何となく、思ったりします。
エロき照明が夜な夜な輝いてるからではありません。歴史的経緯から、そう思ったりします。
いや、無論ここは、運河・高瀬川の開削によって材木商が集結し、その名が付けられた町&道。
そして高瀬川も無論、電気の無い時代に活躍し、電気の時代の到来と共に本来の役目を終えた川。
後はせいぜい、幕末に新時代を目指して京へ集った武者が、次々とブチ殺された地、というくらい。
一見、電気は関係無さそうです。歴史的経緯は、電気の無い時代に全てが仕上がってそうです。
が、京都の電化についてもこの道は割と大きな役割を果たし、その影響は現在も残ってるんですよ。
高瀬川を船が往来してた 「現役」 時代の木屋町通は、現在より遙かに幅が狭い道だったとか。
また、その名が端的に示す通り、沿道に建つのは材木などの蔵が多く、飲食店は少なかったとか。
多少なりとも幅がある現在の木屋町通が出来たのは、ここへ電車が走るようになった明治後期。
日本初の営業電車を走らせた京都電気鉄道は、2号線・木屋町線の用地として高瀬川沿いを選択。
クラシックな電車が走るスペースを確保すべく、木屋町通は現在のように拡張されたのでした。
更には、京都初の電力会社・京都電燈株式会社が、明治22年に本社&発電所を作ったのも、ここ。
京都電燈、開業日には沿道に電飾を灯しまくり、現代と同様な不夜城の世界を現出させたとか。
電車によって道の現在形が築かれ、最初期のライトアップが行われた地かも知れない、木屋町通。
こうなると、何となくどころか明確に 「電気の道」 だと思うと思うんですが、あなたどう思いますか。
そんな 「電気」 な経緯に因むのか、高瀬川沿いにて咲く桜を電飾で照らす毎年春のライトアップは、
かつて京電・木屋町線の電車が駆け抜けた木屋町二条から木屋町五条の間にて、主に実施。
エロき照明が特に輝く三条~四条の辺は、中に入れば色々ふんだくられそうな店が並んでますが、
しかし、歩くだけならタダなので、タダが好きそうな方々が市境も府境も国境も越えて、集まってます。
ならば、行かねばならぬ。その手の混雑への特攻が趣旨の当サイトとしては、行かねばならぬ。
と考え、桜が爆裂してる 「電気の道」 に、「電気の武者修行」 な気分で突っ込んでみました。
夜の高瀬川に、マンボ・サンは輝くのでしょうか。ゴングは鳴るのでしょうか。

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京都・東山花灯路2016へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年3月20日(日)


京都・東山花灯路2016へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

当サイトへの感想として、 「楽しそう」 という声を頂くことが、稀ながらあります。
京都に於ける超メジャースポットへの単独正面突破を趣旨とする、我が 『ひとりでうろつく京都』 。
ベッタベタのスポットへひとりで特攻し、ベッタベタの客に塗れることで、己が魂をズタズタに傷つけ、
その魂の傷から流れ出る血を以て現場のリアルを記すというのが、サイトの基本コンセプトです。
特攻により生じる苦痛を、ある種の 「ヤラレ芸」 として面白がってもらおうと思ってるわけでは全くなく、
また、自虐の裏返したるナルシズム or エリーティズムで共感を呼ぼうと思ってるわけでも全くなく、
苦痛を正面から受け止め、その苦痛を体感的かつ直接的に伝えることを考えて、更新を続けてます。
が、他人から見ると、崇高なる信念に基づくこの特攻&表現が、何か、楽しそうに見えるそうです。
花灯路の記事で 「震災を忘れていいのか」 的なことを書いてても、何か、楽しそうに見えるそうです。
そういう風に見えるということは、つまり、私はこの荒行を心のどこかで楽しんでるんでしょう。
文句を垂れながらもその一方で、こっそりと、ひっそりと、混雑や賑わいを楽しんでるんでしょう。
卑猥です。卑猥であることは必ずしも悪ではありませんが、独男が卑猥であることは多分、悪です。
そして、こういった卑猥さは、少なくともこのサイトに於いて私が求めているものではありません。
足りてない。苦痛が、足りてない。ディープな苦痛ではなく、凡庸にして浅薄な苦痛が、足りてない。
卑猥な享楽を許す隙などない、酸素自体が毒と化したような逃げ場なき苦痛が、足りてない。
そう考えた私は、2016年度の東山花灯路特攻を、徹底的に混雑する日を選んで決行してみました。
桜シーズン直前&紅葉シーズン直後という閑散期に、ベッタベタスポットである東山&嵐山にて、
電飾をビカビカ光らせて夜間の集客を図り、ひいては宿泊客増加も狙って開催される、京都花灯路
その客層は、光るもんがあれば脊髄反射で近付き群がるような、これまたベッタベタなものであり、
当サイトは崇高なる趣旨を示せる絶好の機会として、東山花灯路については特攻を毎年かけてます
特攻開始直後に震災があった為、個人的には電気について色々感慨が湧くイベントなんですが、
今回は、 「悪天が続いた会期の最終日目前+連休の中日+日曜」 を決行日としてわざわざ選び、
手前勝手な感慨や嘆息を許す隙などない、凡庸にして浅薄な苦痛の中へ飛び込んだわけです。
逃げ場なき混雑で感じた私の苦痛は、体感的かつ直接的に伝わるでしょうか。

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五山送り火の大文字を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

2015年8月16日(日)


五山送り火の大文字を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

五山送り火。ござんのおくりび。間違いなく、京都の夏に於ける最大級の風物詩です。
お盆に際し現世へ帰って来た精霊 aka おしょらいさんを、再び冥界へ送る万灯籠の習俗が、
花の都で様々な影響を受け大規模化した末、闇夜にページェントを現出させるに至った、送り火。
炎で描かれた 「大文字」 「妙法」 「舟形」 「左大文字」 「鳥居形」 が街を囲むそのビジュアルは、
本来の目的たる信仰を集めると共に、 「夏の風物詩」 の枠を越え京都観光そのもののアイコン化。
ホテル屋上で酒の肴に眺める仏罰必定の輩から、五山コンプへ挑む自転車の珍走団に至るまで、
様々な阿呆に阿呆な意欲をも湧かせる巨大イベントとなっていることは、誰もが知る所でしょう。
そんな五山送り火、京都の超メジャースポットへの単独正面突破をモットーとする当サイトとしては、
本来なら絶対に見逃すわけにはいかない、何を差し置いても押さえておくべき行事ではあります。
しかし、これまで当サイトに送り火記事は、存在しませんでした。あらゆる形で、存在しませんでした。
決して、避けてたわけではありません。被災木材拒否でウンザリし、避けてたわけではありません。
逆です。ネタの採取は毎年、敢行し続けてきたのです。そして、全てに失敗し続けてきたのです
採取を始めた2011年は、自転車による五山コンプに挑むも、嵐山へ珍走する途中で、タイムアウト。
2012年は、懲りずに自転車でコンプに挑むも、北山通の混雑で躓き、舟形の手前で貧血ダウン。
2013年は、混雑回避を考え、敢えて徒歩&公共交通機関で挑むも、妙法を過ぎた辺で早速、アウト。
2014年は、発狂して全徒歩コンプに挑むも、大文字以外全アウト。と、失敗し続けてきたのです。
そして、各山の点火時間が繰り上がった2015年、私は流石に考えました。コンプはもう、止めようと。
むしろ、1年に1山ずつ回る方がまだ、いいかも。その方が、うちには、合うかも。そうだ、そうしよう。
というわけで当サイトは、五山送り火を5年かけてコンプする5ヵ年計画の発動を、ここに宣言します。
計画発動期間中、彼女が出来てサイト更新を辞めたり、または私が死んだりするかも知れませんし、
外出の面倒さから年数が6ヵ年とか8ヵ年とかに化ける可能性もありますが、とにかく宣言します。
で、記念すべき5ヵ年計画初年度のターゲットは無論、大文字。東山・如意ヶ嶽に浮かぶ、大文字。
「大文字焼き」 なる呼称さえ生んだ、五山送り火にとってキービジュアル的な存在の山です。
この大文字を、出町から北大路までの大混雑する加茂川西岸から、拝んでみました。

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京都・東山花灯路2015へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年3月13日(金)


京都・東山花灯路2015へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

紅葉終了直後の12月&桜開花直前の3月という観光閑散期に、
電飾を導入した無料の客寄せイベントとして嵐山&東山にて始まった、京都花灯路
その客層は、蛾の如く光へ群がる輩+蟻の如く無料を喜ぶ輩のWパンチという美しきものであり、
「京都観光の超メジャースポットへの単独正面突破」 という崇高なる趣旨を明確に示せる機会として、
当サイトでは2011年度の東山花灯路を皮切りとして、このイベントの定例特攻を続けてきました
が、その2011年は無論、東日本大震災が発生した年。それも、発生数日後に花灯路が始まった年。
関東圏を中心に各地で電気が止まる中、混乱状態で開催されたこの年の印象が強過ぎた為か、
私は花灯路について現在でも、阿呆な観光客を眺めて面白がるという阿呆な冷やかし根性と、
震災により叩きつけられたある種の根源的懐疑が、同時に惹起させられるという状態が続いてます。
グリーン発電であろうが何であろうが、ライトアップそのものが孕む何かに対する、根源的懐疑。
そして、実は京阪神エリアもまた地方へ原発を押しつけ続けてるという事実に対する、根源的懐疑。
震災から4年経ち、その懐疑に何らかの答えが出たかと言えば、そんなことは一切ありません。
また、問題の主因たる消費社会への反省が深まっているかと言えば、そんなことも一切ありません。
というか、事態の根源的などうにもならなさは、むしろより明確な姿となって我々の眼前に現前し、
そのどうにもならなさ故、一時はあちこちで乱用されていた 「絆」 や 「祈」 の文字も、段々と後景化。
東山花灯路2015の行灯文字でも、以前の 「祈」 に変わって、 「京」 の字が登場してたのでした。
ある種の積極性の回避という気配を除けば、無意味な記号性しか感じられない、 「京」 の字。
「あ~」 という感じなのであります。納得でもなく、落胆でもない、 「あ~」 という感じなのであります。
それこそ、無意味な記号のような響きで 「あ~」 という声が漏れる、そんな感じなのであります。
で、2015年はこんな感じだと言われたら、確かにそんな感じもするんですが、あなたどう思いますか。
そんな 「あ~」 な感じの東山花灯路2015、 「どんな感じだ」 という話になってて大変恐縮ですが、
今回も冷やかし根性と根源的懐疑が交錯してクラクラする頭で、特攻、やってきました。
適当な写真の羅列から 「あ~」 な感慨、感じてもらえると幸いです。

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野宮神社の斎宮行列を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年10月19日(日)


野宮神社の斎宮行列を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

葵祭のヒロイン or 花形である斎王には、モデルみたいなものがあります。
「いや、斎王代のモデルが斎王だろ」 とか言われそうですが、そういう話ではありません。
葵祭・斎王代のモデルである斎王 aka 賀茂斎院には、モデル or 先行者がいるのであります。
それが、斎宮伊勢神宮にて祭祀を司り、その宮殿名 「斎宮」 が呼称化した斎王のことです。
古くは 『日本書紀』 にまで遡るという斎宮の制度が、本格的に整備されたのは、天武天皇の時代。
壬申の乱で天武帝は、伊勢神宮に戦勝を祈願し、勝利。以来、伊勢を 「天下の宗廟」 と規定。
未婚の内親王 or 女王をかの地へ下向させ、祭祀を担わせる斎宮の制度を確立させたのでした。
以来、多くの御供を引き連れ伊勢へ向かう斎王の行列 = 群行は、平安期から中世にかけて存続し、
その群行の様を平安京の周辺のみで小じんまり踏襲した賀茂斎院の行列は、都の風物詩化。
で、その踏襲した賀茂斎院の行列こそが、現代葵祭に於ける斎王代の元ネタとなったわけですね。
「コスプレの元ネタに、さらに元ネタあり」 という話であります。雑な言い方過ぎて、恐縮ですけど。
葵祭・路上の儀が、往時の完コピを目指したコスプレで現在も継続してるのは御存知の通りですが、
では斎宮行列の方も、完コピを目指したコスプレ行列が行われているかといえば、これが難しい。
単純に、京都から伊勢って、遠いし。近鉄特急なら速いけど、徒歩だと5泊6日かかるそうだし。
なので、伊勢と京都それそれの由緒ある場所で、バラバラにイベントが開催されてるのが現状です。
伊勢では、有名な斎王まつり。で、京都では、今回出かけた野宮神社斎宮行列であります。
斎宮は、伊勢へ下向する前、洛外に設けられた 「野宮」 で厳重なる潔斎を行うのが決まりでした。
その 「野宮」 が数多く設けられたという嵯峨野には、 「野宮」 跡がいくつかが神社化して残存。
嵐山にて源氏物語の何ちゃらと縁結びが売りの野宮神社もまた、そんな 「野宮」 跡神社のひとつ。
その由緒と観光客寄せがクロスする形で、ミニ斎宮行列 「斎宮夢行列」 が平成に入って復活し、
2005年には 「斎宮行列」 と改称、嵐山の秋の風物詩として認知度を深めつつあります。
そんな斎宮行列、 「元ネタの元ネタのコスプレ」 を拝むべく、行ってきました。

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2014年祇園祭・山鉾巡行の後祭巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年7月24日(木)


2014年祇園祭・山鉾巡行の後祭巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

このサイトでも何度か書いてますが、祇園祭の主役はあくまでも、神輿です。
山鉾巡行の果てしなき観光化+宵山の人間大密集のため、印象は薄いかも知れませんが、
17日の神幸24日の還幸こそが、祇園祭の最重要行事、スピリチュアル・コアなのであります。
そもそも山鉾巡行は、この神輿の巡幸路にいる疫神を集め浄めることこそが、本来の役目。
なので、本当は24日の還幸に於いても山鉾は、露払いとして巡行で道を浄めなくてはなりません。
が、その巡行すなわち後祭巡行は、2013年までの実に半世紀近くの間、無くなってました。
後祭。あとまつり。10基の山鉾による巡行が行われ、 「あとのまつり」 の語源ともされる、後祭。
そんな後祭は1966年、交通や観光への配慮で山鉾巡行が前祭の17日へ統一されたため、消滅。
以来、この合同巡行は48年に亘って続き、24日に山鉾が建つことは長らくなかったわけです。
半世紀近い時間が経過する間には、後祭を知らない世代も、大量増殖。というかむしろ、主流化。
「山鉾巡行 = 17日」 以外の認識を持ってる人は、現在では少なくなっているのも現実でしょう。
しかし、祭の当事者の方々は当然というか何というか、後祭の復活がずっと悲願であり続けたようで、
特に2010年以降になると、まるで不況に反比例するかの如くその動きが活性化+具体化。
再建が絶対に無理と思われていた後祭の最後尾・大船鉾が、まず150年ぶりに復活してしまい、
後祭そのもの復活も、2014年、ジャスト半世紀から少しフラゲする形で成されてしまったのでした。
というわけで、復活したその後祭巡行、特攻であります。先週の前祭に続き、特攻であります。
が、そもそも 「特攻」 となる混雑が生じるほど、人は来るのか。10基による巡行に、人は来るのか。
そもそも巡行自体、どうなるのか。 「新設に近い」 とも言われる巡行自体、どうなるのか。
単に、前祭と同じ混雑が出来するのか。それとも、今まで見たことのない景色が現出するのか。
その辺を目撃し、またも歴史の一証人となるべく、週跨ぎで追尾してみました。

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祇園祭・後祭の山鉾曳初めへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年7月20日(日)


祇園祭・後祭の山鉾曳初めへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

曳初め。読みは、ひきぞめ。いわゆる、山鉾の試し曳きのことです。
巡行の一週間あたり前から始まる鉾建て&山建てにより路上へ姿を現わした山鉾は、
問題なく運行が出来るかどうかをチェックする試運転が行われますが、これこそが、曳初め。
本番の巡行では、屈強なるボランティアや学生で構成される曳き手がエンジンを担うわけですが、
曳初めに於いて縄を引っ張るのは、その場に居合わせた、年齢も性別も不問の一般人大勢。
つまり、誰もが鉾を曳く体験が出来るわけであり、故に本番とは違う熱気に溢れる行事となることは、
うちでも2012年の長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾・鶏鉾・月鉾の曳初め記事にてお伝えしてる通りです。
で、その曳初めへ再び特攻してみたわけですが、今回は2012年と事情が大きく異なります。
山鉾巡行の本義は、17日神幸24日還幸で巡幸する八坂神社の神輿の露払いにこそあるので、
17日は前祭として、24日は後祭として、週またぎで2回開催するのが、正しいフォーマット。
しかし高度成長期の1966年、渋滞の緩和や観光客の集客、また日常業務のストップを回避すべく、
後祭の山を前祭の後尾につける17日の合同巡行が始まり、それが半世紀近く続いてました。
そんな後祭が、2014年、復活。で、今回出かけたのは、その復活した後祭の曳初めであります。
実に49年ぶりの、後祭の曳初めであります。後祭 「列」 の曳初めでなく、後祭の曳初めであります。
また今回は、150年ぶりに復活する大船鉾の路上走行デビューも、大きなトピックでしょう。
蛤御門の変の際に焼失して以来、100年以上に渡り居祭りを続けてきた四条町の大船鉾ですが、
90年代以降の囃子方の復活+無形文化遺産登録+ヨドバシでの何ちゃらかんちゃらに加え、
京都青年会議所+京都ライオンズクラブ+一般寄付もあり、超ド級の鉾の再建をこの時代に実現。
バブル期でさえ絶対無理と思えた難事業を成し遂げ、めでたく 「出港」 の日を迎えたわけです。
その威容を一目見たいと集まった群集が形成する人間の海へ、堂々と 「出港」 する様を、
私もまた人間の海の一部となって拝み、歴史の一証人となったのでした。

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2014年祇園祭・山鉾巡行の前祭巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年7月17日(木)


2014年祇園祭・山鉾巡行の前祭巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

祇園祭山鉾巡行、恒例となった追尾の2014年度版であります。
いや、山鉾巡行に関しては正直、特に毎年追っかけようと思ってたわけではありません。
無論、京都観光のキング・オブ・キング、最早アイコンそのものと言える祇園祭のメインイベントを、
ベタスポット&ベタイベントの単独特攻を旨とするうちが、看過するわけには行かないでしょう。
しかし、毎年やるのはどうかと思ってます。より明確に言うなら、やりたくないと思ってます。
だって、しんど過ぎるし。比喩とか誇張でなく、リテラルに死の恐怖を感じるくらい、しんど過ぎるし。
憤死しそうな暑さが満ちる7月の京都で、人間が密集する中を走り回るなど、狂気の沙汰だし。
それに、他の三大祭も、別に毎年行ってないし。というか、祇園祭の他の行事も、全然行ってないし。
山鉾巡行だけ毎年毎年追いかけ続けなくてはならん理由は特に無い、という話なのであります。
にも関わらず毎年毎年追いかけ続けたのは、ここ数年の山鉾巡行に大きな変化が立て続けに起こり、
その変化が如何なる影響を及ぼしてるかが気になり、実態を見届けたかったからに他なりません。
2012年には、蛤御門の変の大火で焼失した大船鉾が、唐櫃ながら150年ぶりに巡行へ復帰。
2013年には、その大船鉾が本来最後尾を務めていた後祭巡行の2014年復活が決定したため、
半世紀に渡り続けられてきた、32基の山鉾が一斉に揃う17日の合同巡行が、最終年を迎えました。
そして今回2014年は、後祭が復活するのであります。24日の巡行が、復活するのであります。
それに伴い、17日の巡行は前祭の巡行となり、全23基の山鉾にて行われるのであります。
これはもう、歴史的な事態です。混雑や疲労やアウェー感を、どうこう言ってる場合ではないのです。
行かないわけには、いかないのです。というわけで、今回もまたまた追尾ということにしたのです。
本義へ立ち返り、神輿巡幸に対応した本来のフォーマットの巡行が、どういうものになるのか。
恐らく現行世代の大半が初めて目にすることになる 「本物」 の巡行は、如何なるものになるのか。
そして、それでもやっぱり気になる混雑・客層・ひとりの気まずさなどは、どうなるのか。
そのあたりを見届けるべく、またしても灼熱の四条通へのたくりこんだのでした。

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鞍馬寺の竹伐り会式へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年6月20日(金)


鞍馬寺の竹伐り会式へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「金星」 「650万年前」 「宇宙エネルギー」 「サマートクマラ」 などなど、
ややアストラルな検索ワードでうちへ飛んでくる方も多い、京都パワスポ界の雄・鞍馬寺
実際、それこそ金星人やアセンションといった 「あっち」 な話題の多いスポットではありますが、
現世に於いても千年を超す古刹として、もうちょっと 「こっち」 な由緒もまたこの寺院は持ってます。
平安遷都以前の770年、鑑真和上の高弟・鑑禎がこの地にて毘沙門天像を祀ったことに始まり、
遷都後には造東寺長官・藤原伊勢人が、千手観世音を追加で祀ると共に、堂塔伽藍を建立。
平安中期には東寺の高僧・峯延が根本別当に就任、後に中興の祖と崇められる働きを見せたことで、
鞍馬寺は特に金星人の力を借りることも無く、洛北の名刹としての道を歩むようになったわけです。
ただこの峯延上人、東寺出身らしく呪術に長け、 「あっち」 的とも言える逸話もあったりします。
修行中の上人にある日、 「舌長きこと三尺ばかり、さながら火炎の如し」 という大蛇が襲来しますが、
上人はひるまず、当時恐らくバリバリだった東寺仕込みの真言を唱え、霊力のみで大蛇を呪殺。
朝廷より派遣された人夫50人で運んだ大蛇の死体は、刀でぶった切られ、崖へ捨てられたそうです。
「あっち的」 というよりは完全に 「あっち」 というか、とにかく色んな意味でパワフルな逸話ですが、
鞍馬寺ではこの逸話に因んだ儀式を今も続けており、それこそが今回訪れた竹伐り会式であります。
鞍馬寺の門前組織・七仲間の最有力集団であり、 「鞍馬の火祭」 でも活躍する大惣法師仲間が、
大蛇に見立てた竹を往時の僧兵の如き姿で勇ましく叩き割る、毎年6月20日開催の竹伐り会。
2つの座がその年の豊作を賭け速さを競い合うルールも手伝い、実にワイルドとなるその伐りの様は、
牛若丸&弁慶&天狗の伝説をも想起させる、鞍馬らしいロマンに溢れたものと言えるでしょう。
そんな竹伐り会式、6月の湿気に満ちた暑さの中、テクテクと徒歩で山を登り、出かけてきました。
「あっち」 と 「こっち」 が交錯するロマンと、 そのロマンに引き寄せられた大量の人民が、
山上の境内で汗まみれになって集結し入り乱れてる様、とくと御覧下さい。

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上賀茂神社へ斎王代御禊の儀を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年5月4日(日)


上賀茂神社へ斎王代御禊の儀を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

斎王代になる方法」 という検索ワードで飛んで来る方が、
うちのようなチンピラ or アングラ or ゲテモノサイトにも、たまにいらっしゃいます。
かつて伊勢神宮 or 賀茂社に奉仕した未婚の女性皇族・斎王を、戦後に民間の手で再現し、
京都三大祭のひとつ・葵祭路頭の儀に於いては文字通り花形として降臨する、斎王代
そんな斎王代になりたい、と。なる方法が知りたい、と。検索したらどっかにあるだろその方法、と。
しかし、斎王代の選考過程は公にされておらず、そもそも一般公募も特に行われてはいません。
やはり三大祭のひとつ・祇園祭に於ける最大のミステリーである長刀鉾の生稚児と同じく、
誰も知らないところで決定され、でも決定したら誰もが知ってる家の子弟だったりするのであります。
要するに、そういう類のもんなのであります。なろうと思ってなれるもんでは、ないのであります。
ゆえに、 「斎王代になる方法」 などという情報は、うちの如きチンピラサイトにあるわけがなく、
またそんなもんは最初から存在もせず、一番の近道は結局 「来世に賭けろ」 となるのであります。
あ、私は別に 「斎王代は公募で民主的に決めるべき」 とか思ってるわけではありませんよ。
むしろ、逆です。そういうのがあってもいい、と思ってます。何か、人類の教養みたいなもんとして。
それに、誰より斎王代になった当人が、なった理由ゆえに不条理を感じてるとも限りませんしね。
糞暑い十二単着せられて不条理、とかね。ムサいカメに写真撮られまくって不条理、とかね。
図々しく撮る奴も不快だけど、私みたいに申し訳無さげに撮る奴もこれまた不快で不条理、とかね。
そんな大変かも知れない斎王代が、本番たる葵祭・路頭の儀の前に行うのが、御禊の儀。
上賀茂神社 or 下鴨神社にて身を清め、 「天皇の御杖代」 の資格を正式に得るという儀式です。
リアル斎王は、この御禊&路頭の儀だけが斎王の御所 = 斎院から外出できる機会であり、
ゆえに都大路にはその雅な行列を一目見んと、貴賎問わず多くの群衆が集まったそうですが、
現代の御禊の儀もまた、往時の如き賑わいがしっかりと現出する神事になってます。
雅と雅ならざるものが交錯するそんな御禊、行ってきました。

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京都・東山花灯路2014へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年3月16日(日)


京都・東山花灯路2014へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

人は何故、光を求めるのか。何故、闇の中に光を求めるのか。
「暗いから」 「暗いと何も見えへんから」 「何も見えへんと不便やから」 と答える輩には、
「暗くなったら寝え。日照時間だけ起きとけ」 としか返し様のない、深淵なる問いであります。
本能の名残なのか何なのかは知りませんが、人は実用的な理由が無くとも光を求めるものです。
震災以降も多発するライトアップ or イルミネーションの人気は、その証明に違いありません。
「いや、それは交尾へのステップという極めて実用的な理由があるんだよ」 という下衆の輩には、
交尾へ全く繋がらないのに、こうして2014年も花灯路へ特攻する私の動機を説明できないでしょう。
正直、私は東山花灯路に、ある種、大きな声では言えない類の魅力を感じ始めてます。
光を求める人間の根源的なオブセッションと、それを垂れ流しで露出する快感を感じ始めてます。
そんなことを、震災関係の展示が激減した今回の春の花灯路で、自覚させられたのです。
閑散期における純然たる電飾客寄せイベントとして始まり、今やすっかり定着した、京都花灯路。
勝手ながら私にとっては、初めてまともに特攻したのが震災直後の2011年春であったため、
「光とは何か」 or 「灯とは何か」 みたいなことを、考えさせられるイベントだったりします。
同時に、 「その影に生じる闇とは何か」 みたいなこともまた、考えさせられるイベントだったりします。
電力不足による終了フラグをひりひりと感じさせられた前回前々回前々々回とは異なり、
震災の事を忘れたかの如く展開された今回の東山花灯路でも、その印象は特に変わりません。
いや、むしろそれ故に、光へのオブセッション&その影に生じる闇を、強く感じさせられたのでした。
人は何故、闇の中に光を求めるのか。正確に言えば、何故、わざわざ闇の中で求めるのか。
凡庸な客寄せイベントだからこそ、そんな問いを丸出しで転がしてる東山花灯路2014、
例年よりやや暗めの写真で、影&闇の魔力と共にお楽しみ下さい。

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山鉾を一切見ずに2013年の祇園祭・山鉾巡行を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

2013年7月17日(水)


山鉾を一切見ずに祇園祭・山鉾巡行を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

菊地成孔+大谷能生 『M/D マイルス・デューイ・デイヴィスIII世研究』 では、
マイルスの最高傑作である 『Kind Of Blue』 について、一切言及がなされてません。
アーティスト研究を行う上で、外すことが絶対出来ない作品を、敢えて空白にするという、暴挙。
そして、対象の中心を隠蔽するその暴挙が、対象の本質をより浮かび上がらせるという、マジック。
よくわからんけど、そういうの、何か格好いい。よくわからんけど、そういうの、やってみたい。
という高踏極まる動機から、2013年の山鉾巡行追尾は、山鉾をほぼ一切見ずにやってみました。
祇園祭の顔、いや、京都観光のアイコンとも言える山鉾巡行の中心を、敢えて隠蔽する。
その暴挙により、京都観光、いや、京都そのものの本質を、浮かび上がせてみようと思うのです。
いやあ、格好いい。こんなことを思いついた俺、実に格好いい。うひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ。
えと、いや、あの、山鉾隠蔽には他にも一応、動機があります。後祭の復興が、そうであります。
観光集客力アップ+交通規制日削減+仕事止まるの堪忍しとくれやすなどの理由から、
元来は17日前祭+24日後祭の2回開催だった山鉾巡行が17日に一本化されたのは、昭和41年。
以来、巡行が持つ信仰の空洞化&周囲の馬鹿騒ぎ化は果てしなく進行したわけですが、
そんな高度経済成長期的アホアホメタボリズムを捨て、2014年、後祭が復活するのであります。
それは、当事者である山鉾町の人たちにとっては当然、悲願の旧儀復興となるのでしょう。
が、私のような外野の人間からすると、「昭和の無形遺産が消える」 という印象がしなくもありません。
馬鹿のような暑さの中で、馬鹿のような混雑の中を歩き回り、巡行後半は客の大半が半死半生。
そんな 「昭和」 な馬鹿騒ぎが、消えるかも知れない。そう思うと、少し寂しくなったのです。
という意味不明な感傷+先述の中二病+おまけに当日の天気も今イチで写真が撮りにくいため、
思い切って山鉾には目を向けず、肥大化の末に消えていく外縁ばかりを見つめてみました。
やはりマイルスのアルバム 『In A Silent Way』 の 「Shhh/Peaceful」 において、
テーマを全カットした編集が音響の新しい地平を開いたようなマジックが、ここでも起こるのか。
それとも、ただ単に 「肉抜きの牛丼」 みたいなもんに成り果てるだけで、終わるのか。
中心を隠すことで浮かび上がった本質、その目でお確かめ下さい。

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祇園祭の宵宮祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年7月15日(月)


祇園祭の宵宮祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

祇園祭を 「二つの祭が同時進行している」 と言ったのは、山路興造
いわく、平安期から八坂神社主体で行われている神輿渡御が中心の 「祇園御霊会」 と、
中世以降の下京町衆主体で行われる山鉾巡行中心の 「祇園祭り」 が、同時進行している、と。
( 平凡社刊 『別冊太陽 京の歳時記 今むかし』 中 「月次の京・七月」 の項より )
もちろん実際は、両者は密接に関わり合い、山鉾巡行もそもそもは神輿渡御の先触れです。
が、現場を歩くと、山鉾町と八坂神社近辺で空気が違うと感じられるのもまた、確かだったりします。
山鉾町に漂う、むしろこちらを 「御霊会」 と呼びたくなる、闇や恐怖さえ孕んだ独特の雰囲気。
そして八坂神社と門前の祇園町に漂う、一転してオーソドックスかつ大らかな、神祭りの雰囲気。
いろんな意味&点でややこしそうなので、私には何もわからんとしか言えない話ですが、
とにかく空気の違いは明白に存在し、その辺がクリアになるのがこの宵宮祭以降ではないかな、と。
もう充分に知られてるようで、案外やっぱり知られてないようですが、祇園祭にも神輿は出ます。
神輿は無論、神様の乗り物。ゆえに、神輿が出る場合、本殿から神様を遷す儀式が、必須。
というわけで、祇園祭でもこの儀式は当然執行され、行われる日は神幸の2日前である、7月15日。
一般的には 「宵々山」 の夜に、八坂神社では 「宵宮祭」 として遷霊神事が行われるわけです。
遷霊の儀式そのものは、境内の照明完全オフ+撮影も完全禁止という、極めて厳粛なもの。
厳粛過ぎて、何やってるのかわからんくらい地味だったりしますが、とにかく、極めて厳粛なもの。
しかし、門前の祇園商店街は、 「宵宮神賑奉納・前夜祭」 として様々なイベントを開催。
その賑わいの空気が、先述のように山鉾町とはちょっと違うテイストなのが、面白かったりします。
そんな宵宮祭、混雑の酷さは山鉾町よりほんの少しだけマシ or ほぼ変わりませんが、
より本義に近い儀式と賑わいの香りを嗅ぐべく、突っ込んでみました。

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