大徳寺塔頭・総見院と黄梅院と興臨院の秋の特別公開へ行きました。もちろん、ひとりで。

大徳寺塔頭・総見院と黄梅院と興臨院の秋の特別公開へ行きました。もちろん、ひとりで。
大して興味を持っていない対象について、何かを述べなくてはならない。
そんな時に、果たして人はいったい、どのような態度で叙述に臨むべきなのでしょうか。
距離を縮めようと努力するべきでしょうか。あるいは、距離を保って黙るべきでしょうか。
叙述への情熱は持つものの、叙述対象への誠実さが欠けている場合、言葉は空回りしがちです。
関係ない他人事を自分事と自分に言い聞かせるため、過剰な表出をエスカレートさせてしまいます。
まるで、ゲームで奇声を上げる子供のように。あるいは、社会問題で奇声を上げる大人のように。
といって、誠実さゆえに沈黙を続けるのも、今では誠実さとして機能しないのかも知れません。
分別ゆえの沈黙。それが現代では、むしろ何かの腐敗を加速させている気がしてなりません。
「そういう基本的なことは自分で勉強して」 というスルーの連鎖が、市井の知性を腐らせたように。
他の道はないのだろうか。他人事を正しく扱う道はないのだろうか。そんなことを、今、強く思います。
無責任にもならず、無限責任にもならず、他人事を正しく扱う叙述。そんなものが、今、必要です。
そう考えたので私は、別に興味がない信長の墓を訪れ、その記事を作ることにしました。
私、興味ないんすよね、信長。というか、武将全般に興味ない。そもそもよく知らん。
ただ、京都サイトをやるなら無視するわけにもいかん。ので、墓を訪れることにしました。
どうして本能寺でなく墓かと問われたら、興味がないからこそ、ネタでも本能寺には行く気がしない。
それに墓がある場所がちょうどいい。あるのは、かの一休禅師との縁も深き禅刹・大徳寺、その塔頭。
信長の葬儀は、大徳寺にて秀吉により開かれ、後には墓を守る塔頭・総見院が建てられましたが、
この総見院などの塔頭が、普段は非公開ながら、葬儀が行われた新暦11月頃には特別拝観を実施。
これはいい。信長に興味のない人間が適当に信長ネタを押さえるには、ちょうどいい。行くしかない。
おまけにこの時期は、紅葉が売りの黄梅院など他の塔頭も公開中。ついでに観とくか。
そう考え、大徳寺へ行きました。私は、信長を他人事として正しく叙述出来るでしょうか。

