舞鶴市 アーカイブ - ひとりでうろつく京都 (β版) ひとりでうろつく京都 (β版)

旧海軍記念日に海軍カレーを求めて東舞鶴へ出かけました。もちろん、ひとりで。

2024年5月27日(月)


旧海軍記念日に海軍カレーを求めて東舞鶴へ出かけました。もちろん、ひとりで。

海の京都・舞鶴海軍カレーをどのタイミングで食べるか、随分長く悩んでいました。
当サイトは、京都のメジャー案件を押さえるのがテーマ。海の京都の名物も、欠かせません。
「カレーのどこが名物だ、しかも海鮮が美味い舞鶴で」 などという逃げ口上は、言語道断。
自分で名物と名乗ってる以上は、名物なのです。そして名物であれば、食わねばならないのです。
出来れば、お日柄が良い方が望ましい。何ちゃら記念日とかなら、尚良ろし。あと季節感も割と大事。
カレーにとって良い季節というのも、何かよくわからないけど。海軍カレー記念日とか、あるのかな。
そもそもカレーは、年中食えるのが良いところじゃないのか。だから艦内でも食ってたんじゃないのか。
そして今は、波がある海鮮の隙間を補うアイテムとして、舞鶴の観光資源になってるんじゃないのか。
となれば、逆にむしろ平時に食うべきだろうか。いや、それはそれでやはり、あまりにも味気ない。
何かいいタイミング、ないかな。と思っているうちに、ふと、5月27日の旧海軍記念日に思い至りました。
海軍記念日。即ち、日露戦争で日本が大国ロシアに完勝した日本海海戦を記念する記念日です。
1905年5月27日、大日本帝国海軍連合艦隊は日本海上でロシアのバルチック艦隊を撃破しました。
この成果を称え、日本は毎年5月27日を海軍記念日と制定。以後、終戦に至るまで祝い続けます。
これ、いいんじゃないのか。戦前とはいえ 「海軍記念日」 ってはっきり言ってるし、いいんじゃないのか。
はっきり 「海軍カレー」 って名乗ってる名物を、名乗ってる通りの形で食う。これ、いいんじゃないのか。
確かに、日本海海戦と舞鶴は言うほど縁がありません。舞鶴湾内で戦闘したわけではありません。
戦場は対馬海峡周辺であり、今の新日本海フェリーの航路上でドンパチやったわけでもありません。
ただ、舞鶴が軍港化した契機は日露戦争で、その日露戦争の勝敗が決したのは日本海海戦です。
それに大きな声では言えませんが、舞鶴市は現在も市制記念日を5月27日としています。
これはもう、間違いありません。何が間違いないのかよくわかりませんが、間違いありません。
海軍記念日こそ、海軍カレーを食べるに相応しい日。そう確信して、舞鶴に出かけました。

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中舞鶴の共楽公園へ散りかけの桜を観に行きました。もちろん、ひとりで。

2024年4月10日(水)


中舞鶴の共楽公園へ散りかけの桜を観に行きました。もちろん、ひとりで。

は散って初めて、桜。そんな言い方も、あるいは可能なのかも知れません。
死体の如き青味を密かに帯びた花びらが、春風を受け、あっという間に散って行く。
この儚さこそ、桜。この風情こそ、桜。こういう考えも、あるのかも知れません。
「いやそれはソメイヨシノの風情で、近代以降の感慨に過ぎない」 と言う方もおられるでしょう。
確かにソメイヨシノは江戸後期に生まれ、何なら人為的に作られた可能性も高いとされる花です。
しかし逆に見れば、魔改造へ走るくらいに日本人はこの儚さを桜に求めている、とも言えます。
かつてはこの儚さを経由して、死のエクスタシーに満ち満ちた大日本帝国と熾烈な悪魔合体を果たし、
特に国家が前景化する軍/教育の局面で威力を発揮したがゆえに国花の如き地位さえ得た、桜。
どうやら日本人はこの儚さが大好きなようです。大好き過ぎて、たまに国ごと儚くしたりもするようです。
近代はおろか近世さえ全否定しがちな歴史終焉都市・京都の目線で、この儚さなるものを見ると、
旅の恥やら歴史妄想やらを捨ててさっぱりして帰る観光客の心性に似たものを感じなくもありません。
病的な鈍感さや無責任性に鼻白むというか。桜種も、京都は枝垂桜や山桜の人気が割と強いし。
しかし、もちろん京都だってれっきとした日本の一部分です。京都人だって一応は日本人のはずです。
京都人はそう思ってないかも知れませんが、法律や国籍的には日本人ということになるはずです。
であれば、この儚さにも共感しておくべきでしょう。せめて、教養としての理解は持っておくべきでしょう。
それにそもそも京都にも、徹底的に 「散る花」 としての桜を堪能出来るスポットが実は存在します。
そう、海の京都・東舞鶴です。かつて舞鶴鎮守府があり、現在は海上自衛隊がある東舞鶴です。
現在も港には多くの護衛艦が停泊し、春になれば桜と旭日旗のコラボが散見される地であります。
その舞鎮の西口であった中舞鶴には、共楽公園なる公園があり、桜が特に見事なんだとか。
公園からは港や艦もよく見えると言います。桜は当然、ソメイヨシノがメイン。中々良い感じです。
なので、敢えて散りかけの頃にこの公園を訪れ、儚さを履修出来るかどうか試してみました。

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8月に舞鶴引揚記念館へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2022年8月29日(月)


8月に舞鶴引揚記念館へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

終戦気分が高まる頃合とは言え、8月に舞鶴の引揚記念館へ行く理由は特にありません。
舞鶴引揚が始まったのは、10月だし。実際、舞鶴市は10月に引揚の記念日を制定してるし。
かなりの引揚者は、8月に戦争が終わらず地獄を見たわけだし。8月、関係ないわけです。
しかしそれでも、安直な8月の終戦気分で引揚記念館へ行くことには意味があると、私は考えます。
特に、歴史の痛みを知らぬ者がその痛みについて考える際、この姿勢は、むしろ重要とも考えます。
引揚記念館。舞鶴港での引揚の記憶を現代に伝承する、日本で唯一の引揚特化型博物館です。
1945年の敗戦後、外地に残された邦人約660万人の帰還のため引揚港に指定された軍港・舞鶴は、
平海兵団跡である舞鶴引揚援護局にて、主にソ連/旧満洲/朝鮮半島の引揚者を受け入れました。
特に1950年以降は国内唯一の引揚港となり、平桟橋に立つ 『岸壁の母』 が有名にもなりましたが、
1958年に引揚事業が終了すると、桟橋と援護局は荒れ果て、木工団地への整備後には痕跡も消滅。
この風化を避けるべく、1988年、援護局跡と桟橋跡を見下ろす高台に引揚記念館は建てられました。
以来この館は、引揚に関する資料を収集・展示し、戦争の愚かさを伝え続けてる、というわけです。
そんな引揚記念館へ8月に行くということ。それは、戦争を知らない己を体感することに他なりません。
戦争 = 8月という安直な先入観の真中で、最初から完全に間違ってる者として、存在するということ。
それを恥じながら対象と向き合うことで、己の存在を裂き、その裂け目から世界を見るということ。
安易に本物へ触れず、何も知らない己に恐れ慄き、その恐怖で己の外部を想像し続けるということ。
自分が何を見てないのか、見せられてないのか、見ようとしてないのかを、考えるのではなく体感する。
自分が何を知らないのか、知らされてないのか、知ろうとしてないのかを、考えるのではなく体感する。
場の悪さ/間の悪さとして体感する。場違い/間違いとして体感する。激しい気まずさとして体感する。
そんな思いから、8月に引揚記念館へ出かけました。まだ空が総懺悔色の8月末に、出かけました。
断じて、8月の鉄板ネタと思って出かけた後で、引揚と8月が無関係と気付いたわけではありません。

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西舞鶴のはんなり食堂へ、いさざを食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

2020年3月21日(土)


西舞鶴のはんなり食堂へ、いさざを食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

篠田統 『すしの本』 を読んでると、「踊り食いは京都が発祥」 といった話が出てました。
同書に拠ると、大阪 『蛸竹』 の親父さんか誰かから、篠田氏はそう聞いた覚えがあるんだとか。
新鮮な魚が獲れる江戸では、 「新鮮ならいいってもんじゃねえよ」 となったそうです。大坂も、同じ。
ふ~んという話であります。そういえば、近世の鴨川に生魚料理店があったという話、聞きますね。
美濃吉に関するコピペ文でよく見る 「川魚生洲八軒」 がどうたらという、あれです。なるほど、と。
海が遠い、京都。ゆえに高まる、魚への欲求。結果的に鱧料理なる食文化も生んだ、魚への欲求。
踊り食いは案外、京都の特性から生じた極めて人工的&強引な食文化なのかも知れません。
とはいえ、それも冷蔵・冷凍の技術がなかった時代の話。現代では無論、踊り食い事情も異なります。
味自体が独特な鱧料理は残りましたが、イベント性が高い踊り食いを売りにする店は今では希少。
川魚生洲八軒も、殆ど消えたし。現代の生活者としての私も、踊り食いは京都と疎遠と思ってました。
が、これも日本海側へ行けば、話はまた別。春の舞鶴には、いさざの踊り食いがあるのです。
「海の京都」 を体現する街・舞鶴。いさざは、そんな舞鶴を流れて海に注ぐ川を、早春に遡上する魚。
ハゼ科の小さくて透明な魚であり、正式名称・シロウオとして九州などでも生でよく食されてるとか。
舞鶴でも当然、遡上してきたこの魚を、踊り食うのであります。春の風物として、踊り食うのであります。
このいさざの踊り食いに私が初めて出逢ったのは、2019年春、所用で訪舞した時のことでした。
あくまで所用だったため、食事はとにかく安く済まそうと思い、でも魚はそれなりに食いたいなと考え、
また観光客が少ない店を望み、海から離れたはんなり食堂なる店へ赴き、そこで出逢いました。
野菜炒め定食の香りが食欲を刺激するような店内で出逢ったいさざの踊り食いは、超ナチュラル。
人工的&強引に野趣を得るのではなく、あくまで 「近くで獲れたものを近くで食う」 という感じであり、
春の朗らかさな温度感&空気感も相まり、これぞ真の踊り食いといった印象を受けたのでした。
で、それが気に入ったので翌年、今度は純粋にいさざ目当てで、訪舞してみたのです。

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まいづる細川幽斎田辺城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2018年5月27日(日)


まいづる細川幽斎田辺城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都には、城らしい城が、ありません。全くなくもないですが、あまり、ありません。
二条城淀城跡伏見桃山城。いずれも、城といえば城です。立派に城です。が、何か違う。
二条城は、離宮感が強過ぎて、城に全然見えない。淀城跡は、本当に単なる廃城跡でしかない。
伏見桃山城に至っては、昭和元禄の張りボテ遺産で、現在は入城さえ不可能。お粗末です。
「いやいや、日本各地の城だって、大半は昭和元禄の産物だよ」 とか思われるかも知れませんが、
再建にかけられた想いや、今もなお続く城への想いでは、かなり差があるんじゃないでしょうか。
端的に言うと、京都は城への関心が低いという。偽京都人である私の中でさえ、正直、低いという。
しかし、城を巡る京都のこうした微妙な温度感も、視野を府に拡げると、事情は変わってきます。
亀岡園部の城下町感、福知山のお城まつりに於ける盛況ぶりは、当サイトでもお伝えしてる通り。
そして、京都府のさらに北にあって、福知山と同じように 「城の街」 たり得てるのが、舞鶴でしょう。
舞鶴。日本海に面し、食・名所・産業などのあらゆる面で 「海の京都」 を体現してる街です。
この街に於いて最も高い知名度を誇ってるのは、現在に至るまで活躍し続けてる軍港の、舞鶴港
共に発展した街・東舞鶴も、正に軍都な趣を持ってます。が、これが 「城の街」 なのではありません。
「城の街」 は、反対の西舞鶴の方。 「城の街」 と呼ぶのは、ここが田辺城の城下町だったから。
肥後細川家の礎&御所伝授で知られる細川幽斎が、信長から南丹後を任され建てた城、田辺城。
プレ関ヶ原の籠城戦 「田辺城の戦い」 の舞台となり、別名 「舞鶴城」 は街の名にもなりました。
明治維新であえなく消滅しましたが、昭和初期から再建が始められ、平成には立派な城門も完成
この城門完成の頃より、毎年5月末には 『まいづる細川幽斎田辺城まつり』 も開催されてます。
実に、 「城の街」 です。ので今回、京都と城の関係をより精査すべく、祭りに遠征してみたのです。
城を中心に一体化してる街を見よう、とか思って。城を大事に思う心に触れよう、とか思って。
しかし、現地で見た 「城の街」 の姿や雰囲気は、何か独特のものだったのでした。

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