福知山お城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2017年4月2日(日)


福知山お城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

平均的な日本人にとって、いわゆるは、いったいどんな意味を持ってるのでしょう。
戦国末期より江戸前期にかけての100年の間に大半が作られた、いわゆる近世の、いわゆる城。
少なくとも私には、城がそれなりに大事なものとして、日本全国で認識されてるように見えます。
いや、 「それなりに」 どころの話ではありません。城は大抵、その街のシンボル or ランドマークです。
オリジナルが残ってるなら保存に励み、壊れてるなら再建に努める。そうなるのが、普通でしょう。
しかし、京都は違います。 「京都」 と見なされるエリアに、まともな城と呼べそうなものはありません。
あるのは、 「跡」 以外の存在感を見出すことが困難な淀城跡、離宮感が余りに濃過ぎる二条城
そして遊園地の人寄せパンダとして再建された挙句に会社から捨てられた伏見桃山城くらい。
徹底的に武士が嫌いなのか、あるいは 「江戸期なんか最近。保存する必要なし」 と思ってるのか、
「威容を誇ると共にその威容に相応しき敬意を集める城」 というのは、とにかく京都にはありません。
しかし、こんな京都の城事情というのも、視野を府域にまで広げた場合、話は変わってきます。
かつて城があった亀岡や園部では、城こそ残らずとも城下町的な雰囲気が今なお濃厚に漂うことは、
当サイトの大本七草粥記事@亀岡や、栗餅買い食いまくり記事@園部でも、お伝えしている通り。
そして、更に北の福知山市は、恐らく京都府では唯一、現在も城らしい城を持つ街と言えるでしょう。
信長より丹波平定の命を受けた明智光秀が、丹波山地の開けた盆地にて築いた、福知山城
光秀が本能寺の変をやらかした後も、税制緩和など善政を敷いた光秀を慕う民によって支えられ、
間違いなく福知山のシンボルというか、福知山という街そのものを生み出す基礎たる城となりました。
時代が明治に入ると、止むなく廃城となり、長らく本丸跡&天守台を残すのみだったといいますが、
昭和末期に至ると、市民などの寄付により総工費の内の5億円を賄う形で、大天守閣の再建を敢行。
「それなりに」 どころではない情熱により、現在もシンボル or ランドマークたり得てるわけです。
そんな福知山城とその城下町、毎年4月上旬にはお城まつりとして街を挙げてのイベントも開催。
で、そのお城まつりに、城見物と祭見物と街見物を一度にすべく、出かけてみました。


福知山城の最寄駅は、もちろんJR福知山駅。早朝から鈍行で出かけ、10時頃に到着しました。
駅員さんがいる改札で1480円の切符を渡し、手動改札の割に作りは現代的な構内を抜けて、外へ。
駅前には、踊る女体像あり。 「ドッコイセー」 で知られる福知山音頭の像です。スタイリッシュですね。
お城まつり、実は2日間やってて、前日はこの福知山音頭の総踊りパレード的なのもやってたとか。


まつりの催しは、城より広小路エリアの方が全然多め。ですが、まず城へ行っとくべきでしょう。
城があるのは、駅東側。徒歩で、約15分。バスもなくはないですが、お城通りを歩いて向かいます。
福知山の街は、隣の綾部とは違って、かなり普通に街。流石に 「北近畿の都」 という感じでしょうか。
銀行や官公庁系のビル or 塔が妙に威圧的だなとか思いながら歩いてると、城が見えてきました。


で、城の東側へ回り込んで、堀に架かる橋を渡って入城する形の福知山城・入口へ到着。
まずは、流麗な橋を前景として、小高い平山に乗っかる城郭を望む。


橋の擬宝珠を前景として、橋の上から入口傍の何ちゃら記念館を望む


開花には早かった桜を前景として、釣鐘門と大天守を、望遠で望む。


少し引いて、橋そのものが描くアールを前景として、城郭を遠目で望む。


頂上に立つ天守閣へ向かうべく上る、かなりきつめの坂道。


坂道がきついので、休憩がてら無意味に見つめる、案内の看板。


坂道がきつ過ぎ、休憩がてら立ち止まって見上げる、石垣。


へとへとの状態になりながら、やっとこさ潜る、城内への釣鐘門。


で、やっとこさ到着した、大天守前。まつりイベントの琴演奏の音が、出迎えてくれました。
舌状丘陵を利用した天然の要害・横山城を修築&改名の上、近世城郭として出現した、福知山城。
北に丸の内、南に庭園、西に武士屋敷、更なる北・広小路方面に町人屋敷を持つ、総構えの城です。
小柄な佇まいですが、フォルムは、美麗。築城された天正時代そのままの姿に、再建したんだとか。


本丸は、狭し。こんな感じで見上げるばかりになりますが、でもフォルムはやはり、美麗。
廃藩置県を経て廃城した後、全建造物が当時の豊岡県により公売に付されてしまった、福知山城。
幾度か再建機運が高まるも、大変さゆえに実らず、1986年に至って遂に天守閣の再建が成りました。
時期的に 「バブルの箱物か」 と思ってしまいますが、先述通り、費用の多くは寄付で賄われたとか。


福知山城、オリジナルを築城したのはこれも先述通り、明智光秀。時に、天正7年 (1579年) 。
本能寺の変は、この3年後。ゆえに、光秀が実際に福知山城に関わった期間は、3年にもなりません。
また、城を実質的に完成させたのは有馬豊氏で、安定した藩勢を実現したのは朽木氏と言われます。
しかし、福知山が抱く光秀への思いは篤し。街のゆるキャラだって、 「光秀くんとひろこさん」 です。


福知山統治にあたり光秀は、地子銭免除令などの善政を敷き、人心を強烈に掌握しました。
民の感謝の念は消えず、江戸中期には城下町の社へ光秀を合祀。最早、神なのかも知れません。
そういえば光秀、寺から盗った塔などでこの城の石垣を組んでますが、それさえ不問に付されてます。
何せ、福知山音頭の掛声 「ドッコイセー」 も、その石垣を運んだ声がルーツとされてるくらいです。


とか思いながら見据える、宝篋印塔などが使われた、石垣。


狂った稲葉紀通がここから飛脚を撃ったのかも知れない、狭間。


海面下に達する地点まで掘られ、今も水をたたえる、豊磐井。


かつて、この社だけがこの場所に安座していたという、朝暉神社。


で、せっかくなので320円払って入城して、大天守から城下町を望む。


幾つか開いてる石落としの穴より、イベントでやってる琴の演奏を望む。


城内を約5分で堪能し尽くした後、外へ出て城の全景を改めて望む。


で、オリジナルが残る銅門番所の横から、盆地の中の町も改めて望む。
という感じの、城でありました。が、催しはさほどないので、城下町方面へ行ってみましょう。


「自衛隊の太鼓が」 などと老人が話してるのを聞きながら、内記歩道橋を渡り、広小路へ。
そう、福知山は駐屯地としても長い歴史を持つ街であります。何なら、むしろそっちの方が有名かも。
戦後駐屯してる陸自は、お城まつりにも参加。城でも、隊員さんをよく見ました。演習でもするのかな。
城も含めて、実に 「軍都」 だなあ。みたいなことを思いながら、これまた内記な内記新町商店街へ。


「内記」 は、城下町の新名とか。基本シャッター街ながら、頑張ってる店もある商店街を、北へ。
「頑張ってる」 と言うべきかどうか不明ですが、福知山鉄道館ポッポランドも頑張って開いてました。
「河川敷を走ってた」 という驚異の伝説を持つ北丹鉄道の、記念館です。面白いものでも見れるかな。
と思って寄ろうとしたら、広小路の方からイベント音あり。先に向こう行くかと思い直して、また北へ。


で、広小路に到着であります。いかにも、地方の 「拡張しました」 感が漂う道であります。
車の増加を見越して拡張するも、車が思ったほど増えず、空き地になってる感が漂う道であります。
が、これが違うんですよ。拡張が始まったのは、江戸期。火隙地として拡張したとか。で、 「広小路」 。
イベントをやってるのは、この先、明智光秀を祀る御霊神社の前。行ってみましょう。で、以下後篇。

福知山お城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】 へ続く
 


 
 
福知山お城まつり
毎年4月 福知山城&広小路一帯にて開催

福知山お城まつり – Facebook
 

福知山城
京都府福知山市字内記5
通常 9:00~17:00 火曜休館

JR山陰本線 福知山駅下車 徒歩約17分
京都交通バス 福知山城公園前下車 徒歩約5分
 

福知山城 (郷土資料館) – 福知山市

福知山城 – Wikipedia