魔界 - ひとりでうろつく京都 (β版)

節分の平等院・鳳翔館へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2020年2月3日(月)


節分の平等院・鳳翔館へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

が退治された世界で生きるということ。我々はそのことを、もっと真剣に考えるべきです。
鬼に連れ去られることがない世界。鬼に殺されることがない世界。鬼に食われることがない世界。
それは果たして、真の意味で平和と呼べる世界なのか。果たして、幸福と言える世界なのか。
いや、無論それは幸福には違いありません。問題は、我々が幸福だけで満足できない点にあります。
鬼という存在によって秘かに満たされてきた、我々の欲望。連れ去り、殺し、食いたいという欲望。
これらの欲望を満たす機会を、鬼のいない平和な世界の代わりに、我々は手放したのではないのか。
またこの平和で幸福な世界は、単に鬼よりも巨大で極悪な権力に地均しされた地獄ではないのか。
こうした疑念を等閑視し、呑気に鬼を 「他者」 「外部」 として夢想するなど、欺瞞でしかありえません。
この世界で鬼と向き合うのなら、我々が鬼を殺した側であるという痛みを、まず見据えるべきです。
そして、その痛みを通じて、鬼退治後の世界に於ける平和・幸福の実相こそを、見据えるべきです。
そう考えた私は、恒例となった節分の鬼めぐりに於いて今回、平等院へ赴くことにしました。
平等院。言うまでもなく、京都・宇治に在って鳳凰堂で広く知られる、世界遺産のひとつであります。
離宮化→別荘化→寺化という平安後期の信仰&権力の様を物理的に現代へ伝える、正に名刹。
そんなロイヤル&パワフルな平等院へ節分に赴く理由は、その宝物殿・宇治の宝蔵に他なりません。
成敗された鬼の首は、都で帝の叡覧を経た後、蔵へ納められました。この蔵こそが、宇治の宝蔵。
権力に敗れた鬼の最期、またその骸が現代まで受け続ける辱めを、体現してる場所と言えるでしょう。
「いや、宇治の宝蔵って単なる伝承だよ」 と言うなら、鬼もまた、極めて伝説・伝承的な存在です。
そして、伝承が何かしらのリアルを含むのは、自明のこと。となれば、宇治の宝蔵も事情は同じはず。
鬼退治とは果たして、どういうことなのか。鬼のいない世界とは果たして、どういう世界なのか。
幻想と錯覚の中でしか触れ得ないそんな真実に触れるべく、私は2月の宇治へ向かったのでした。
ので、宇治茶を喫む暇など、あるわけありません。茶蕎麦を食う暇も、あるわけありません。

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ゲストハウスイン清水三年坂で聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2018年12月24日(月)


ゲストハウスイン清水三年坂で過ごす聖夜、前篇に続き後篇です。

「坂」 が、ある種の 「境界」 的な性質を孕む領域であることは、広く知られています。
物理的に外界との 「堺」 を築く山、そこへと向かう 「坂」 。自ずと、 「境界」 的になるわけですね。
山に囲まれた街・京都では、この傾向がより顕著です。清水・産寧坂も無論、例外ではありません。
そもそも産寧坂の別称・三年坂は、 「転ぶと三年以内に死ぬ」 という伝説から付いたとされるもの。
また、大日堂などの清水寺・境外塔頭は、かつてこの辺まで広がってた葬地・鳥辺野の名残とか。
「死」 が周囲に転がる、彼岸ゲートたる 「境界」 。その 「境界」 が引き寄せる、ある種のアジール性。
そんな産寧坂の 「境界」 性、水上勉に拠ると、昭和初期の頃までは残ってたようです。

産寧坂は、どうして、あんなに急で、人通りもまばらだったのだろう。両側は二階建てのしもた屋がな
らんでいた。急石段をのぼりながら、家々の戸口を見ると、どこも格子戸を固くしめて、提灯をつるして
いるのだった。いまは、この右側は、竹細工屋、餅屋、喫茶店など、とびとびにあって、観光客の男女
も、手をつないで出入りし、坂を登ってゆくが、昔は、ここの石段にへたりこんで、頭をさげては布施を
乞う乞食が大ぜいいた。
(水上勉 『私版京都図絵』 「東山二条 産寧坂」 )

では現在、この坂の 「境界」 性が全て脱臭されたのかといえば、そうでもありません。
国籍人種問わずベタな観光客が集う現在の産寧坂の様は、正にアジール or 魔界そのものでしょう。
それにそもそも 「産」 もまた、ある種の 「境界」 。無から有へと転じる、紛れもない 「境界」 です。
「死」 と 「生」 の 「境界」 としての、清水。生命がスクラップ・アンド・ビルドされる場としての、清水。
ベタに塗れるほど聖性を増す清水のタフな魅力の根源は、案外そんな所にあるのかも知れません。
というわけで、そんな清水に建つ 「境界」 宿・ゲストハウスイン清水三年坂での聖夜、後篇です。
後篇は、嘘と本当、現実と妄想、そして夜と朝の 「境界」 などを、見つめていきます。

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ゲストハウスイン清水三年坂で聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2018年12月24日(月)


ゲストハウスイン清水三年坂で聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

メリークリスマス!! 『ひとりでうろつく京都』 恒例の聖夜企画、2018年度版です。
独男にとって精神的外圧が最も高まるクリスマスに決行されてきた、当サイトのひとり宿泊企画
初期こそネタ全開で激安宿寺の宿坊に投宿するも、やがて 「境界」 性がテーマとして浮上し、
長屋宿遊廓転業旅館元ラブホ街道の温泉と、平安京の 「四堺」 を押さえる形で転戦を展開。
さらに2016年以降は、インバウンド爆増で一気に魔界化した都心部の 「境界」 にも向き合うべく、
増殖しまくってる民泊の宿や、増殖しまくってる町家一棟貸しの宿でも、市街戦を繰り広げてきました。
で、そんな激戦を経る中で私は、やはりゲストハウスを押さえるべき、と思うようになったのです。
ゲストハウス。 「単なる家+雑魚寝」 というスタイルで安価を実現し、一気に爆増した、ゲストハウス。
爆増し過ぎて、最近は減少さえ始まった、ゲストハウス。正に、都心の 「境界」 宿の本丸でしょう。
しかし、当サイトでは正直、避けてました。何故なら、私はドミトリーが嫌だから。雑魚寝が嫌だから。
でも、押さえねば。と思ってたら、そんな私に最適な宿が現われました。ゲストハウスインです。
ゲストハウスの簡易さと、イン = 宿のホスピタリティを併せ持つという、宿ブランド・ゲストハウスイン。
公式サイトの写真でさえ部屋は単なるマンション全開状態なくらい、簡易さ加減は爆裂してますが、
でも、京都の宿泊状況のリアルを、個を尊びつつ体験するには、ぴったりとしか言いようがありません。
で、今回泊まってみたのです。しかも、数ある施設の中で、清水三年坂に泊まってみたのです。
ゲストハウスイン清水三年坂は、京都観光の本丸中の本丸である清水・産寧坂の、すぐ近くにある宿。
にも関わらず、施設はしっかり、マンション丸出し。というか、マンション以外の何物でもない状態。
パソコンまであるため、自部屋感あり過ぎ+旅情なさ過ぎではありますが、便利なのは間違いなし。
色んな意味で、京都の宿泊の 「今」 を、そして 「境界」 の 「今」 を、表す宿とは言えるでしょう。
そんな宿へ、 「境界」 性が高まる聖夜に泊まり、京都観光の新たな 「境界」 を見つめてみました。
日常と非日常の 「境界」 加減も濃い場所で、私はどんな 「今」 を見るのでしょうか。

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旅籠茶屋・池田屋はなの舞で、鱧の落としと鱧小鍋を食べました。もちろん、ひとりで。

2017年8月23日(水)


旅籠茶屋・池田屋はなの舞で鱧を食べました。もちろん、ひとりで。

池田屋事件が起きた夜の京都は、かなり蒸し暑かったのではないかと思ったりします。
元治元年6月5日・祇園祭の宵々山は、新暦でいえば、7月8日。正に、梅雨明け直前です。暑い。
実際、 『幕末維新京都町人日記』 によれば、事件前は雨続き。で、珠に陽が差す感じ。暑い。
で、こんな蒸し暑い盛りの京都の夜に、冷房などなく、下階では灯さえ燃えてる屋内にて、斬り合い。
しかも、何時間にも亘って、斬り合い。間欠泉の如く熱い血があちこちから吹き出す中、斬り合い。
それは一体、どういう状況なんでしょうか。血がスチーム効果を生むサウナ、みたいなもんでしょうか。
沖田総司は、持病でなく熱中症で戦線離脱したという説がありますが、暑さを思えば、さもありなん。
京都の夏を体で知る人なら、誰もが想像するだけで発狂しそうな地獄の沙汰、と言えるでしょう。
この池田屋事件、幕末日本にとっては無論、京都観光に視点を絞っても、極めて重要な事件です。
ゆえに、京都メジャースポットの単独特攻を趣旨とする当サイトとしては、スルーは許されません。
ので、池田屋の跡地たる居酒屋・池田屋はなの舞の訪問は、早い段階からずっと目論んでいました。
しかし同時に、 「訪問するなら、当日に溢れてたであろうこの暑気こそを絡めた形で」 とも思い、
現在の宵々山 = 7月15日に湿気が満ちるのを待ち続け、そのまま現在まで未訪となってたのでした。
7月15日頃の京都って、案外と涼しい場合が多いんですよね。いい感じで、風が吹いてたりして。
一般基準なら充分過ぎるくらいに地獄なんですが、京都水準的にはマシな場合が多いんですよね。
この程度の暑気では、池田屋事件のグダグダでドロドロの地獄感は、まず体感できないでしょう。
タイミングはズレても、グダグダでドロドロに暑い8月後半の方が、訪問には相応しいのではないか。
その方が、事件が持つ温度感や湿度感みたいなものに、より深い形でシンクロできるのではないか。
そんな高踏な考えに基づき、私は敢えて8月下旬の蒸し暑い日を選んで池田屋はなの舞を訪問し、
荒っぽく骨を斬り合った者達の青春に想いを馳せつつ、荒っぽい骨切りの鱧などを食ったのでした。
そう、これはあくまでも、新たな挑戦なのです。幕末への体感的共鳴を目指す、挑戦なのです。
断じて、 「夏終了前に企画 『ひとり鱧』 をもう一発」 と、雑な動機で出かけたのでは、ありません。
決して、 「どうせ行くならネタになる店に」 と、邪な動機で出かけたのでも、ありません。

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三条右近橘にて聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2016年12月24日(土)


三条右近橘にて過ごす聖夜、前篇の続きです。
 
「京都で暮らす」 ということ。それは、つまり、 「自分らしく暮らす」 ということ。
「自分らしく暮らす」 ということは、 「自分である」 ということであり、 「自分がある」 ということ。
歴史や伝統の尻尾を追いかけて、一代や二代ではなれるわけがない 「京都人」 になり切る努力は、
意味がないし、何より 「自分以外の誰かになれる」 と思い込める若さが、この街には似合わない。
必要なのは、 「自分」 を立ち上げること。そして、その上で、 「京都」 へ無駄にこだわらないこと。
「京都」 への無駄なこだわりは、この街のカルチャーを本当の意味で背負うには、邪魔になる。
都市の原動力は、いつだって、様々な文化の吸収。その駆動原理は、千年の都・京都だって、同じ。
人も文化も、外部からこの街へ入ってくるエレメントは、健全な血流の為には常に必要なもの。
「受け入れる」 という姿勢では、足りない。自ら積極的に取り入れるタフさを、持たなくてはならない。
外来のエレメントと蓄積された歴史を組み合わせて、立体的な創造を行う知力も、重要になる。
「京都」 への無駄なこだわりは、このタフさと知力の飛躍を阻む、壁。壊さなければならない、壁。
都市の駆動原理ゆえ、どんな子供でも簡単に皮肉ることができるほど混沌とした京都の真ん中で、
自分自身を保つ力を授け、新たな未来を創り出す力になってくれるのは、壁ではなく、 「自分らしさ」 。
誰もが 「自分らしい」 暮らしをしなやかに持ち、それぞれの 「らしさ」 がゆるやかに響き合う。
その共振だけが、柔軟な知性と未来への眼差しを生み、この街を更新していく――――――――
――――――――――――――――――――――――――――――
―――と、京都ブランドに乗って勝手&凡庸&無秩序な欲望を 「自分らしく」 発露しまくり、
その発露をポエミーな寝言で美化&正当化したくもなる魔力に満ちた新たな魔界たる洛中にて、
魔界ゆえ増殖している境界的簡易宿所のひとつ・三条右近橘に投宿し過ごしてる、2016年の聖夜。
私もまたその魔力に侵食され、 「自分らしさ」 全開で普段通りに文博行って小津の映画観たりと、
京都にもクリスマスにも全く関係ない挙動に好き勝手に励んでるわけですが、後篇はいよいよ、飯。
「隠れ家の食事処」 での夕食や、チキン&ケーキ爆食など、食の流れを一気に観てもらいます。
これこそが、新たに生まれた魔界で嗜む私にとっての 「自分らしい」 「京都の暮らし」 です。

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三条右近橘にて聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2016年12月24日(土)


三条右近橘にて聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

太陽神の生誕祭をルーツに持つクリスマスが、その内に孕んだ境界性を追求すべく、
当サイトでは、京都郊外にある境界 「四堺」 へと赴き、聖夜お泊まりを敢行し続けて来ました。
しかし、そんな崇高にしてアカデミックな荒行を、温泉浸ったり猪肉食ったりしながら続けてる内に、
辺境の真逆たる京都市中心部では、宿泊施設を巡り、事態が極めて激しく変化していたのです。
2011年には50万人強だった京都市の年間外国人宿泊者数は、2015年には300万人まで増加
宿泊施設が絶望的なまでに不足し始め、その不足によって生じる隙を狙った所謂ヤミ民泊も急増
行政は、ヤミ民泊を取り締まる一方で、グレーな施設に対しては旅館業法の許可取得を奨励
結果として、マンションや町家丸出しながら一応合法の簡易宿所が、激増することとなったのでした。
そう、極めて境界的なる性格を持つタイプの宿所が、都心にこそ溢れるようになってるわけです。
「本当の京都」 と有り難がられている洛中のど真ん中こそが、他所者が蠢く境界と化してるわけです。
「金余りの割にコンテンツ供給が足りてないバブル期に於けるセックス祭」 としての面が後退化し、
属性問わず人を消費へ誘う契機としてだけひたすら活用されてるようになったクリスマスを、
「教会祭」 ならぬ 「境界祭」 として認識し直し、その魔力との対峙を続けてきた当サイトとしては、
街中に新たな境界が出現し、氾濫&増殖しているこのカオスな状況、見過ごすわけにはいきません。
というわけで2016年の聖夜お泊まり企画は、これまでの辺境巡礼から一転して都心へと回帰し、
着物姿の某国人がマンションから団体で出て来る様をしょっちゅう見る洛中にて、敢行してみました。
泊まったのは、三条右近橘。怪しい宿では、ありません。日昇別荘が運営する、簡易宿所です。
では、宿代が安いだけの普通な宿かといえば、エントランスはトップ画像のような超ハードコアぶり。
マンション以外の何物でもありません。正に、民泊。相手にとって不足なし、と言うべきでしょう。
この宿にて聖夜を過ごすことで、新たな境界と向き合い、その素性を見極めんとしたのであります。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトである為に必要な、挑戦なのです。
決して、翌日に用事がある為、移動時間が読み難い郊外特攻を日和ったのでは、ありません。
断じて、そもそも郊外特攻そのものがいい加減面倒になってきたのでも、ありません。

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将軍塚へ、夜桜と夜景を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年4月4日(土)


将軍塚へ、夜桜と夜景を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

夜景を観たいという気持ちが、私は湧かないというか、そもそもよくわかりません。
函館長崎といった夜景で知られる街へ出かけた際も、特に観たいとは思いませんでした。
長崎では、道に迷った流れで偶然に夜景を観ることにはなりましたが、これといった感慨も湧かず、
むしろ迷路めいた街自体や、日常に紛れ込む被爆者向けの各種案内が印象に残ったものです。
人間には、空から地を見る人と、地から空を見る人の、2種類が存在するのかも知れません。
私はきっと、後者なんでしょう。空から地を見下しても、何かを読み取ることが出来ないんでしょう。
ある意味、 「夜景不感症」 なわけですが、この症状、京都の夜景がしょぼいことも一因と思われます。
巨大建造物も無く、海など自然の演出も無く、人々の細々とした生活が見えるだけの、京都の夜景。
不感症を誘発するネガティブ・イメージを植え付けられた人は、案外多いのではないでしょうか。
あんなん観て、どうすんのん、と。あんなん観て、何が面白いのん、と。阿呆ちゃうのん、と。
とはいえ、 「夜景は観るものではなく性的に活用するもの」 という元気な輩はどこにでもいるのであり、
また、己で己を 「空から地を見る人」 と言い聞かせたい煙のような習性を持つ輩もいるのであり、
こうした連中がしょぼ過ぎる夜景をわざわざ観るというスポットもまた、京都にはいくつか存在します。
その代表が、将軍塚。東山に連なる華頂山にあり、現在は青蓮院門跡・別院になってる塚です。
そもそもは、遷都先を探していた桓武天皇が、ここから盆地を見下ろし平安遷都を決めた場所であり、
遷都後は王城を霊的に守護すべく、完全武装した巨大な将軍像が埋められたという伝説もあり。
国家危機の際は、この将軍像が山を揺らし、鳴動を起こすというスピリチュアルな伝承も誇りますが、
高度成長期に東山ドライブウェイが開通すると、一転して夜景スポットしての世俗的な名声を獲得。
華頂山山中でサルベージされたという大日如来を祀る大日堂も、春・秋にはライトアップを展開し、
美しく照らし出された桜や紅葉がしょぼい夜景を盛り立てて、不感症の進行を防いでくれたりもします。
当サイトでは2011年、開花直前という意味不明なタイミングにて一度将軍塚を訪問してますが、
2014年に大規模な改装が行われたので、その確認も込みで今回、桜の季節に再訪してみました。
しょぼ過ぎる夜景は、桜の魔力により鮮やかな美景へと生まれ変わるのでしょうか。

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石清水八幡宮のエジソン生誕祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年2月11日(水)


石清水八幡宮のエジソン生誕祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

エジソンと、絵馬。食い合わせの悪さは、確かに否定出来ません。
しかし、 「1%のひらめきと99%の努力」 を 「1%のひらめきと99%の訴訟」 ともじられるほど、
訴訟に明け暮れた俗物として名高く、数多くの黒歴史エピソードも残したこの 「発明王」 が、
その一方で宗教、更には 「あっち」 方面にも強い関心と探究心を抱いていたことは、割と有名です。
あらゆる宗教書を読破すると共に、ブラヴァツキー夫人達が神智学協会を設立すると即入会、
晩年は 「魂というエネルギーは死後も存在する」 と言って、霊界通信機の開発に挑んだ、エジソン。
天才ゆえの奇人的側面と嗤うのも、老化でボケたと一蹴するのも、共に簡単な話ではあります。
が、この 「メンロパークの魔術師」 にとって電気は、単に 「科学」 の領域で完結するものではなく、
背後に神の領域、未知なるハイヤーパワーの領域が広がるものだったのではないでしょうか。
ロマンに湿る科学者の眼ではなく、新たな商圏を追い求めるゲス商人の眼を持っていたからこそ、
彼には神の領域、ハイヤーパワーの領域が、極めて具体的に 「見えていた」 のではないでしょうか。
「見えていた」 からこそ、 「自分は宇宙エネルギーの触媒」 的なことさえも語った、エジソン。
そんなハイヤーパワーの僕たるエジソンが、人類を 「光」 のネクストフェーズへ導こうとした瞬間、
神仏習合の神・石清水八幡宮の神威が、和洋も習合し働いたのは、ある意味、必然かも知れません。
電球のフィラメント開発にあたり、より長時間使用が可能な植物をエジソンが世界中で探した末、
ここ八幡の真竹が選ばれたという、凄いと言えば凄いけど、どうでもいいと言えばどうでもいい逸話。
しかし、我々が見据えるべきなのは、この逸話の背後に隠された神々のシンクロニシティであり、
シンクロニシティの根源たるハイヤーパワーだけが生み出し得る、人類の真なる 「未来」 なのです。
石清水八幡宮に於いて、エジソン誕生日に行われるエジソン生誕祭は、無論、その為の企て。
「和洋もひったくれもなく乗っかれるもんなら何でも乗っかってしまえ」 的イベントなどでは断じてなく、
また 「偉人との縁でちょっと高価めの絵馬を作り一儲け」 的な企画などでも、断じてありません。
我々は、 「未来」 を見るのです。エジソンの視界に同期し、エジソンが見た 「未来」 を見るのです。
私の地元である石清水の力を借りて、見るのです。ちょっと高価めの絵馬越しに、見るのです。
という感じで、エジソン生誕祭、地元の者として厳粛に紹介させて頂きます。

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ホテル洛西で聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2014年12月24日(水)


大枝のラブホ街にあるホテル洛西にて過ごす聖夜、前篇に続き後篇です。

「大枝」 と聞いたら、京都府民の多くは脊髄反射で 「柿」 と連想するでしょう。
実際、大枝の富有柿は名物ではあります。が、その歴史は、さほど古いものではありません。
御存知の方も多いでしょうが、富有柿の原産地は岐阜。大枝での栽培が始まったのは、昭和以降。
というか、徹底的に農村化したのも実は明治以降と、中々に面白い歴史をこの地は持ってます。
桓武天皇生母・高野新笠の母方のルーツたる大江氏から 「大江郷」 の名称が付いたという、大枝。
平安遷都以前から秦氏などの豪族が住んだとされ、現在も残る古墳が山のように作られましたが、
遷都以降は、平安京と山陰を結ぶ山陰道に於ける関所 = 「境界」 としての存在感が前景化。
都から見ると北西 = 鬼の進入口・乾に位置する為、中世までは酒呑童子伝説の恰好の舞台となり、
中世以後も、足利尊氏明智光秀といった反逆者が、ここから鬼の如く都へ侵攻したのでした。
近世に入り、鬼の住処も丹後の大江山へ移動すると、大枝は山陰街道の峠町としての存在感を強化。
旅人相手の商いを専業にする家が増え、茶屋や旅籠屋、休憩所が並ぶ宿場町となったのです。
そう、ここは明治以前の時点で既に、農業中心ではなくて商品経済に馴染んだ町だったわけですね。
維新後は、新峠建設で老ノ坂の峠町が衰退、明治32年の鉄道開通では大枝全体の状況も一変。
今は嵯峨野トロッコ鉄道として走るあの汽車へ、丹波の貨物はごっそり移り、山陰街道は急に閑散化。
街道で食ってた大枝は打撃を受け、商業中心から農業中心へと転進せざるを得なくなりました。
そこで、 「柿」 なわけですね。 作物を色々試した後、この地に合ったのが 「柿」 だったわけですね。
「柿」 と全く不似合いなインパクトを誇る大枝のラブホ街ですが、街道筋としての歴史を考えると、
ある意味、かつての時代の生々しい息吹 or 残り香を、現代に伝えるものと言えるのかも知れません。
大枝の変化は 「柿」 以降も止まることが無く、戦後は宅地に困った京都市の開発の歯牙にかかり、
「柿」 を潰す勢いでニュータウン開発が進行、文化的&景観的にラブホ街もなぎ倒す勢いです。
が、とりあえず今回は、ホテル洛西であります。元ラブホにて、ひとりで過ごす聖夜、続きであります。
京都魔界シーンのラスボス・首塚大明神の参拝から、飯、そしてラブホ窓から朝日を見るまで、
「境界」 が孕む妖しき魔力を見据えんとする孤独な精神戦、お付き合い下さい。

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ホテル洛西で聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2014年12月24日(水)


大枝・沓掛のホテル洛西で聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

メリークリスマス!!当サイト恒例の聖夜お泊まりネタ、2014年度版です。
異教の宗主生誕を姦淫&浪費で祝福する日本のクリスマスに、背を向け続けるこの阿呆企画、
プレハブ宿 or 寺の宿坊 or 町家宿一棟借りと、2010年より阿呆なお泊まりを延々続けてきましたが、
しかし2013年に至り、こんなアホ企画も何かしらテーマ的なものを孕むことになってしまいました。
2013年の聖夜を過ごしたのは、私の地元・八幡にある遊廓跡・橋本。そこの転業旅館・多津見旅館
京都と大阪の国境にして石清水八幡宮門前という、実に 「境界」 的な地で聖夜を過ごした結果、
私は、仇敵・クリスマスの本質の如きものとして、 「境界」 を意識することになってしまったのです。
本来の起源がローマの 「太陽神誕生祭」 = 冬至の日であるように、根元から様々な 「境界」 を孕み、
その 「境界」 性が、遊興や性的放埓へ人を駆り立てる魔力を発揮してると思われる、クリスマス。
そんな本質の如きものが、見えてしまった。単なる思いつきではあるものの、一応、見えてしまった。
見えてしまったのなら、追求すべきです。発端が思いつきであっても、テーマは追求すべきです。
というわけで、この適当テーマの深化を図り、2014年聖夜も 「境界」 にて過ごすことにしたのでした。
今回泊まったのは、ホテル洛西。西京区・大枝に建つ、ラブホが転業したホテルであります。
山陰道で京都から丹波へ抜ける老ノ坂の入口に位置し、古より国境として認識され続けてきた、大枝。
それ故に、都の北西 = 乾の方角より侵入するエイリアン = 鬼の住む地なる伝説も長く持つ、大枝。
現代にあっても、 「境界」 に多発しがちな心霊スポットを京都最強 or 最凶レベルで複数保持し、
これまた聖と聖が交錯する 「境界」 に多発しがちなエロゾーンも、現役ラブホ街としてしっかり保持。
郊外の開発で見え難くなった 「都の境」 を、ある意味、最も生々しく現在へ伝える場所なのです。
今回泊まったホテル洛西は、そんなラブホ街の一軒であり、一般ひとり客の宿泊も大丈夫なホテル。
「境界」 的な場所に建つゆえ、アクセスは若干不便ながら料金お手頃+部屋確保も楽とあって、
繁忙期に宿泊場所で困った観光客を中心として、色んな意味で色んな注目を集めてる宿であります。
そんな元ラブホでの聖夜お泊まり、件の心霊スポット訪問などと併せて、やらかしてみました。
クリスマスの本質は、 「境界」 が孕む魔力の本質は、見えるのでしょうか。

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壇林寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年11月28日(金)


壇林寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

琴平町の 『川蝉』 へ結局行かず終いになったことを、悔やんでます。
琴平町は、京都ではなく香川 aka うどん県の町。 『川蝉』 は、そこにあったうどん屋です。
讃岐うどんに魅せられた 「巡礼者」 から、その無茶な値段設定や店主のキャラが秘かに愛され、
いつかは必ずその門をくぐらなければならぬラスボス的な感じで、伝説化さえしていた店であります。
『川蝉』 、私も一度は行きかけました。 「巡礼」 してた頃、行きかけました。が、店前で逃げました。
「日本一うまい」 と書かれた巨大幟&店前に散乱する●●にひるみつつ特攻しようとした瞬間、
店主らしきおっさんが出てきて、手に持つ丼から●●を目の前の川へ●●●したのを見て、逃げました。
見たくない何かを見せられる恐怖を感じて。または、香川に抱く幻想を破壊される恐怖を感じて。
あるいは、自分が吐き散らかした幻想の廃棄物を、濃縮ウランにして返されるような恐怖を感じて。
以来、勝負せねばと思いつつ逃げ続けてたんですが、 『川蝉』 、ストビューで現在地を見ると、更地
結局、私は逃げたままになったのでした。悔やんでます。もうこんなことは、繰り返したくない。
というわけで今回、檀林寺へ特攻したのです。香川から京都へ話を戻し、檀林寺へ特攻したのです。
九相図で知られる檀林皇后が、中国から禅僧を呼んで嵯峨野に建立するも廃絶した元・檀林寺を、
京都観光の大衆化が進んだ昭和の高度成長期になってどっかの誰かが再興した、現・檀林寺。
しかし、その実態は●●●とも言われ、ネット上では●●いだの●●だの●●●●●●だのと泣き喚く者が続出。
京都幻想や京都妄想を機嫌良く吐き散らかした末、 「本物」 ノイローゼに罹った輩に対して、
吐き散らかしたその廃棄物をウラン弾にしてお見舞いしまくってるようなスポットなのであります。
正直、私も避けてました。冷やかし目線さえ、バルタン星人の如くブーメランで返されるかもと感じて。
でも、 『川蝉』 クローズを受け、考えを改めたのです。全ては、諸行無常だと。一期一会だと。
それにここの紅葉は、 『川蝉』 のうどんが案外美味かったと言われるのにも似て、案外、好評。
この機会に、もう二度と悔やまないよう、嵯峨野へ出かけたのでした。

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八幡ナイトウォークをやってみました。もちろん、ひとりで。

2013年7月22日(月)


八幡ナイトウォークをやってみました。もちろん、ひとりで。

「そうだ 京都、行こう」 連携の夜間拝観をしている、2013年夏の石清水八幡宮
あれ行って、ライトアップを存分に堪能してから、あなた、どうしますか。そのまま、帰りますか。
「そうだ」 のロゴ入り提灯を返すため、ケーブル山上駅へ帰るしかない、と。そりゃまあ、そうですね。
で、ケーブルで下へ降りたら、そのまま真っ直ぐ京阪電車に乗る、と。で、帰る、と。
だって、しょうがないじゃないか、と。山上にも山下にも、めぼしい遊びスポットはないじゃないか、と。
駅前には、居酒屋が一軒あるだけじゃないか、と。他はあたり一面、漆黒の闇じゃないか、と。
確かに、そうです。そそくさと帰って、当然です。しかし、それでもやはり、惜しい。
八幡には、色々と面白い所があります。石清水八幡宮を中心に、色々と面白い所があります。
京都の裏鬼門を守護する社として、または源氏の武神として、あるいは厄除の神様として、
キナ臭い創建以来1000年以上に渡り、貴賎を問わない信仰を集め続けてきた、石清水八幡宮。
その歴史の痕跡は、鎮座する八幡山 = 男山の周囲に、様々な形で紛れ込んでいます。
あるものは、観光資源に化けそうな魅力を持ってたり。あるものは、観光化が絶対不能だったり。
電飾や映像技術で偽装された幽玄さに陶酔するのも大いに結構ではありますが、
現代生活と 「歴史」 がコンフリクトする、そんなリアルな町の姿も見たいとは思いませんか。
というわけで、夜間拝観の帰りに八幡をゆっくり巡るウォーキング、設定してみました。
名づけて、八幡ナイトウォーク。歩行距離、約12キロ。所要時間、約4時間。
グーグルで 「京都府八幡市」 と検索したら 「治安」 とキーワードが提示されるような町を、
夜、真っ暗の中、不審者全開でウロウロと歩きまわろうというわけです。
独男にしか、出来ないことであります。そして、独男だけの楽しみでもあります。
歴史丸出しなスポットから、単なる地元民愛着丸出しスポットまで、
生の八幡を感じるウォーキング、さあ、出発しましょう。

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安井金毘羅宮の櫛まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年9月24日(月)


安井金毘羅宮の櫛まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

髪と、愛欲。共に独男には縁のないものです。
中には、サラサラのロン毛を誇る同志の方もいらっしゃるのかも知れませんが、
その髪を撫でられることがない点では、ロン毛でも坊主でも、事情はさほど変わらないでしょう。
魂は、常に禁欲。禁じられてるわけでもなく、自ら禁じてるわけでもないけど、何か、禁欲。
軍国少年の硬直性だけを理由も無く継承したような我々にとって、髪も、愛欲も、共に邪魔です。
人によっては、抜け毛のために排水口が世界最恐の恐怖スポットに化けてしまったり、
慣れない愛欲のために貯蓄のみならず命まで盗られたりと、基本、ロクなことがありません。
近づかないのに越したことはないのであります。君子危うきに近寄らずなのであります。
が、このサイトの趣旨は何度も何度も書いてるように、ベタスポット&イベントの単独正面突破。
「花街ならではの技術で各時代の髪型を再現し、その髪型で祇園の街を練り歩く、女だけの時代祭」
みたいなことを言われたら、危うきであろうが何だろうが、逃げるわけにはいきません。
甲部&宮川町など花街に近い立地ゆえ、ややこしい愛欲に苦しむ舞妓はん&芸妓はんから、
また最近では歪んだ愛欲に悩む一般婦女子からも信仰を集める、縁切りスポット・安井金毘羅宮
「切る」 のは愛欲に限らず、酒 or タバコ or ヤクなんかもズバっといってくれるそうで、
その繋がりか、あるいはやはり土地柄なのか、切るのが仕事の美容師からも信仰されてます。
昭和中頃には、商売道具である櫛を祀る櫛塚ならぬ 「久志塚」 を、境内に建立。
櫛供養と時代風俗行列も開始されました。それが、9月第4月曜に開催される、櫛まつり。
古墳時代から現代に至る各時代の女性の髪型を、考証に基づき再現したモデルさん達が、
祇園の街を練り歩く様は、京都の初秋を彩る風物詩としてすっかり定着してます。
そんな櫛まつり、髪の恐怖も愛欲の恐怖も何のそのと、行ってきました。
で、そこで目にしたのは、それらとは全く別の恐怖でした。

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晴明神社の晴明祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年9月22日(土)


晴明神社の晴明祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

晴明神社は元々、名づけの神様として親しまれてたそうです。
何ゆえに名づけの神になったかといえば、「晴明」 = 「せーめー」 = 「姓名」 だと。
スピリチュアルな世界とグダグダな日常が恐ろしいまでに混在する京都らしいエピソードですが、
しかし、私が晴明神社のことを知った頃には、ここは既にいわゆる 「聖地」 と化してました。
「母親は狐だった」 「何ちゃらを駆使して怨霊と戦った」 「箱の中身を思い通りに変化させた」
「死者を復活させることができた」 「自分も一旦死んで、骨にまでなったが、何ちゃらで復活した」
「小さい鬼を操った」 「でも嫁にそいつらキモいから家入れんなと言われ、橋の下の石櫃に隠した」
「隠したままほったらかしにされた石櫃が千年後になって出てきて、大騒ぎなった」 などなど、
無理目なエピソードが千年の時を越えて無限に捏造、もとい二次創作されまくる、陰陽師・安倍晴明
その邸宅跡に建てられた晴明神社は、晴明に最もゆかりが深い特級のパワースポットとして、
陰陽師ブームの発生以降、ややこしい思考や嗜好を持つ人達の間で、一気に聖地化。
拡張された敷地には式神オブジェが立ち、近所には五芒星グッズを売る店が現れて神社と揉め、
今や隣の西陣織会館を凌ぐ勢いを誇る、一大観光スポットと化したのであります。
しかしそれ以前は先述のように、地元の人の為の駄洒落爆発な名づけの神様だったのであり、
明治期に荒れた神社を救ったのも、「晴明」 を 「清く明るいことやろ」 とか言いそうな氏子さんたち。
また現在も西陣の人達にとって 「せーめーさん」 はごくごく普通の氏神さんのようで、
その辺のネイティブ感がよく現れてるのが、その名もずばりの例祭 「晴明祭」 ではないでしょうか。
陰陽大爆発な世界を連想したくなる名前ですが、実際に行われるのは、ごく普通の神幸。
でも、神輿や法被にはもちろん、五芒星。で、ネイティブな西陣の街中を進む、と。
混在してます。ある意味、極めて京都らしい神幸と言えるかも知れません。
そんな晴明祭、暇にまかせて追いかけてみました。

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狸谷山不動院の火渡り祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年7月28日(土)


狸谷山不動院の火渡り祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

火渡り祭。読んで字の如く、火の中を渡る行事です。
タヌキの置物&自動車祈祷&ガン封じで知られる、一乗寺奥の狸谷山不動院にて、
護摩火をバンバカ焚きまくった後、その残り火の中を一般参拝者が裸足で歩く、火渡り。
何ゆえ夏の一番暑い時に、そんなデンジャラスな灼熱地獄を味わねばならんのかといえば、
無論、我々が穢れ切っているからであり、その穢れを聖なる炎で焼き尽くす必要があるからです。
この一ヶ月ほど前にあった夏越祓の茅の輪くぐりまくり記事でも、似たことを書いてますが、
タヌキゆえ手抜きでコピペしてるのではなく、こちらの火渡り祭もまた、夏越祓の一種。
八坂神社・疫神社伏見・御幸宮神社の茅の輪、または下鴨神社の矢取り神事などと同じく、
旧暦のタイミングで穢れを祓い、夏を乗り切るための健全な心身を手に入れようというわけです。
一ヶ月しか経ってないのに、また祓うのか。茅の輪くぐりまくりでは、清め切れなかったのか。
そう問われると、「何も考えず興味本位で行ったんだよ~ん」 と、魂の真実を告げたくなりますが、
しかし、盛夏へ突入するにあたり、スピリチュアルな調整が必要なのもまた、確かなこと。
夏は、誰にとっても、我々独男にとってもなお、煩悩を刺激されやすいシーズンであります。
健全な人間が煩悩を刺激されたのなら、勝手に盛り上がって人口でも増やしとけという話ですが、
我々独男が下手に夏の煩悩を刺激されると、色々と厄介な事態が出来しがちであります。
個人の恥的にも、社会的にも、時に人道的にも、厄介な事態が出来しがちであります。
危険なのです。夏は、危険な季節なのです。なので、前もって穢れの始末をつけておきたい。
しっかりと、蓋をしてしまいたい。できることなら、完全に燃やし尽くしてしまいたい。
そんな思いに駆られ、一乗寺の坂を登ったというのはやはり大嘘ですが、
暑い季節の熱い行事、とにかく行ってきました。

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石清水八幡宮の青山祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年1月18日(水)


石清水八幡宮の青山祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

青山祭。もちろん、青山学院大学の学園祭ではありません。
呪術都市・平安京が構築した悪霊・疫病・厄神防衛線の名残を、現代にまで伝える神事です。
「悪しきものは、人と同じく道を歩いて都へ入る」という当時のセキュリティ思想に基づき、
平安京の国境には、怨霊の水際対策として霊的城壁を築くべく、強力な寺社が建立されました。
鬼門封じの猿ラインは言うに及ばず、四方を固める大将軍各社や逢坂山蝉丸神社
あるいはパワーが強過ぎていまや心霊スポットとしか思われてない老ノ坂の首塚大明神などなど。
中でも、裏鬼門であることに加え、都と瀬戸内海と直結する水路のゲートでもあり、
さらには魔の国・大阪と山を介さず接している数少ないポイントに鎮座する石清水八幡宮には、
より強い霊的パワーが求められ、そのニーズは古代祭祀が消滅した後世も継続。
厄神防衛線の各社で斎行されたという祭儀「畿内十処堺疫神祭」は、
石清水では道餐祭として残り、斎場を囲む青柴垣に由来して「青山祭」と名称を変化。
八幡の厄除としての評判が民間にも広まるに連れ、正月以上に人を集めるお祭りへ変貌しました。
と、青山祭についてざっと調べると、こんな感じの話がいろいろと出てきます。
が、実際の内容についての情報が、妙に少ない。現在、何をどうやってるのかの情報が、少ない。
秘儀なんでしょうか。現在もこっそり、呪術とか、魔界とか、やってるんでしょうか。
私、子供の頃は近所に住んでましたが、そんな話、聞いたことありません。
やはり、秘儀か。そのあたりを確認すべく、日の暮れかかる山麓下院へと出かけてみました。
そして、そこで目にした「真実」は、実に驚くべきものでした。

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貴船もみじ灯篭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年11月27日(日)


貴船もみじ灯篭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

もみじが誘う、恋の道。
「恋の道」と入力したら「鯉の道」と変換してくれたマシンを持つ独男の私には、
実に無縁極まるキャッチコピーを持つのが、貴船の秋の集客イベント・もみじ灯篭です。
春は新緑が輝き、夏は言わずと知れた川床、そして秋は美しい紅葉+冬眠前の熊出没注意と、
季節ごとに豊かな、時に豊か過ぎるほどの自然に恵まれる、京の奥座敷・貴船。
市街地より気温が数度低く、真夏でも涼しいことは有名ですが、そのぶん冬の冷え込みは、熾烈。
ぼたん鍋は美味くなるものの、「ひろや」のように冬季はまるっきり休業する店もあるほどです。
なので、秋の内にちょっとでも稼ごうと考えたのか、2002年から一帯で紅葉のライトアップを開始。
貴船神社貴船街道の飲食店街、そして貴船への重要なアクセス手段である叡山電車が連携し、
叡電沿線の「もみじのトンネル」から貴船神社奥宮までを、様々な電飾で盛り上げてます。
それが、貴船もみじ灯篭。それが、もみじが誘う、恋の道。
何故「恋の道」かと言えば、光りものへ蛾の如く寄りつくカップルがそぞろ歩くからではありません。
平安時代中期の女流歌人・和泉式部が、夫である藤原保昌との復縁を願い、
縁結びの神でもある貴船神社へ参拝する際、この貴船街道を通ったことに由来します。
「夫と疎遠になったのは、お前が他の男と遊び呆けたからだろ。それでも恋の道ってか」
などということは、大の大人が言ってはいけません。
また、どっちかといえば「恋の道」より、丑の刻参りで歩く「呪の道」がふさわしい気もしますが、
そういうことも、大の大人が言ってはいけません。

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安井金毘羅宮の例大祭・神幸渡御へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年10月9日(日)


安井金毘羅宮の例大祭・神幸渡御へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「課長と奥さんが早く別れて私と一緒になってくれますように」。実際は、その課長の姓名はもちろん年齢から会社名まで書いてあったのだが、それだけなら珍しくもない不倫成就の嘆願である。祇園に近く水商売関係の参詣者も多いだろう土地柄か、ここに掛けられる絵馬の二割近くが不倫絡みなのだ。問題は奉納者名の後の空スペースに、あきらかに異なる筆跡で記されていた文字である。
「そうはなるものか」
鉛筆書きの尖った文字が突き刺さっているようであった。 (入江敦彦 『京都人だけが知っている』

この文章がきっかけになったのかどうかは知りませんが、
とにかく、愛情が呪いの域に達した恐怖絵馬で一気に名を上げた、安井金毘羅宮。
一応、縁結びの神様でもあるわけですが、奉納される絵馬は相変わらず縁切り祈願が大多数。
「あの人と別れたい」「あの人とあの人が別れて欲しい」といったベーシックなものならず、
「あの人がこの世と縁が切れますように」と、現世との縁切りを祈願するものも多数、奉納。
中には、部署名・配偶者名・子供の名前まで記入して「逝ってくれ」と願うものなどもあって、
愛欲に無縁な私にとっては、もはや恐怖を越え、不可解・不条理極まる世界であります。
何でそんなに人が好きになるんだ? 何でそんなに人が嫌いになるんだ?
10月初旬に行なわれる例大祭は、そんな疑問に答えてくれるもの、ではありません。
安井といえば、9月第4月曜に美容業界が定休日返上でバックアップする「櫛祭り」が有名ですが、
この日の祭りは全然オーソドックスな、神輿巡幸。もちろん、縁切り神輿とかも、ありません。

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化野念仏寺の千灯供養と愛宕古道街道灯しへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年8月24日(水)


化野念仏寺の千灯供養と愛宕古道街道灯しへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

化野。平仮名にすると、あだしの。
お好きな方はとっても大好き、「化」の字からしてその手のオーラを放つエリアであります。
もともとは鳥辺野・蓮台野などと共に、平安時代の都の葬地であり、
当時はキレイに葬ってもらえる死人なんてほとんどいませんから、一帯には放置された死体が散乱。
その有様をあまりにあんまりだと思った弘法大師・空海が、「埋めたら?」と、土葬をサジェスト。
そして時を経て、法然上人が、この地に念仏道場をビルド。現在の化野念仏寺の始まりです。
土葬が一般化したのはいいですが、埋めたところで何百年も経てば、みんな素性不明の石化&骨化。
明治の中頃には、周辺から出土した由来不明の石塊や石仏は8000にも及び、
それらは化野念仏寺境内の「西院の河原」に無縁仏として結集、供養されるようになりました。
お盆にこの寺で行なわれる千灯供養は、その無縁仏に蝋燭の灯りを奉納する供養。
「京都のお盆」といえば、高い確率でこの仏事が取り上げられる、人気(?)イベントであります。
で、愛宕古道街道灯しは、嵯峨野保勝会が千灯供養に連携して開催する、ライトアップのイベント。
清涼寺から愛宕神社一の鳥居までの古道を、手作りの行灯各種で楽しませてくれるというものです。
7月の借りを返すようなとんでもない猛暑の中、鳥居本の坂を登るのは極めて億劫ですが、
「無縁仏」のオーラにわけのわからん吸引力を感じ、出かけてみました。

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嵐電・妖怪電車に乗ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年8月21日(日)


嵐電・妖怪電車に乗ってきました。もちろん、ひとりで。

妖怪電車。
それは怨霊都市・京都が生み出した、路面電車の妖怪変化。
かつては市内交通の花形として活躍したにも関わらず、マイカー普及で邪魔者扱いされた挙句、
遂には現役半ばで命を絶たれ、忘却の彼方へ追いやられた京都の路面電車たち。
無念の死を遂げた者が怨霊と化すのは、京の道理。
芋も揚げも「さん」づけする奇怪なアニミズムが、路面電車に魂を吹き込むのも、京の道理。
というわけでこの街には、電車に関する様々な呪いがうずまくこととなりました。
利便性のみならず、ルックスが街並に調和してたことでも人気が高い、京都市電の呪い。
各地で晒しものにされる、特に八幡ポンコツ街道で無残に朽ち果てた姿を晒される、市電車輌の呪い。
京津線路面区間廃止+東西線乗り入れで、二重運賃に苦しめられる山科区民&大津市民の呪い。
これらの呪いは盆の季節になると、京都唯一の路面区間を持つ嵐電へ、集結。
観光客で一杯の車内を、化け物がうろつく魔界へ変化せしめる・・・というのはもちろん、大嘘です。
山科区民&大津市民が呪ってるのは本当かも知れないけど、あくまで大嘘です。
ポンコツ街道の「熊野」行きも、熊野古道まで行きそうな霊気を放ってますが、あくまで大嘘です。
妖怪電車は、嵐電2007年の単発企画・鬼太郎ラッピング電車「化け電」が、慣例化したもの。
以後、学生ボランティアの力を借りて着ぐるみや車内装飾にも気合を入れ、
今や京都の夏の風物詩としての認知度さえ誇る、企画列車なのであります。

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