ディープサウス - ひとりでうろつく京都 (β版)

城南宮へ七草粥を食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年2月11日(水)


城南宮へ七草粥を食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

城南宮。その名の通り、平安京の王城南方を守護する、ロイヤルな社です。
平安遷都以前からこの地に存在したという、神功皇后八千矛神を祀る真幡寸神社に、
遷都に際して国土の安泰を願い、国常立尊を併祀したことで生まれたともされている、城南宮。
その創建の由緒からしてロイヤルですが、平安末期には周囲で白河上皇鳥羽離宮造営を開始し、
院政の舞台にして我が国最大の離宮の中心へ立つこととなった城南宮は、鎮守の地位を確立。
また、この地は羅城門から伸びる鳥羽作道と淀川河港が接続するジャンクション地帯でもある為、
方角の災いから身を守り旅の無事を祈る方違え = 方除のロイヤルな宿所としても、地位を確立。
多くのやんごとなき方々が熊野石清水春日詣に際し、この社を精進所として身を清めたのでした。
そんな城南宮、離宮と共に栄華を極めた後、南北朝時代にはやはり離宮と共に一旦、荒廃。
しかし江戸期に入り、皇室への崇敬が回復したことで再興が成され、方除の神威への信仰も復活。
幕末には、この社の参道に置かれた大砲から鳥羽・伏見の戦いが始まり大変な目に遭うものの、
皇女和宮の江戸下向に際して方除祈祷を奉仕し、 「方除の大社」 の名声が更に広く流布。
現代に至り高度成長期に入れば、直近で名神高速道路が開通し、京都南インターチェンジも誕生、
城南宮は改めて 「京都の南の出入り口」 としての顔を確立し、新たな顧客である自動車も獲得。
「車の方除 = 交通安全」 として、自動車特化型の祈祷殿が出来るほどその信仰は盛んとなり、
現代のサウス民にとって城南宮は、恐らく 「南インターとこの車の神社」 に違いないのであります。
その盛んさは、 「車祈祷で儲かるから、庭園も出来たんやろ」 と勘ぐる輩が出そうなほどですが、
そんな下衆の勘ぐりを払拭する為か、城南宮、正月の七草粥はロイヤルなる旧暦にて開催。
で、今回はそのロイヤルなる七草粥を、車ではなく電車と徒歩で、ロイヤルに食べに行ったわけです。
ただ、粥だけではネタが足りず、しかも庭園は曲水の宴の際に見たので、社周辺の徘徊も決行。
IC近くのラブホ街をうろついたり、鳥羽離宮跡をうろついたり、やたら餅を食ったりしてます。
サウスな社の、ロイヤルさとロイヤルでなさ、共に楽しんでもらえると幸いです。

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石清水八幡宮のエジソン生誕祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年2月11日(水)


石清水八幡宮のエジソン生誕祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

エジソンと、絵馬。食い合わせの悪さは、確かに否定出来ません。
しかし、 「1%のひらめきと99%の努力」 を 「1%のひらめきと99%の訴訟」 ともじられるほど、
訴訟に明け暮れた俗物として名高く、数多くの黒歴史エピソードも残したこの 「発明王」 が、
その一方で宗教、更には 「あっち」 方面にも強い関心と探究心を抱いていたことは、割と有名です。
あらゆる宗教書を読破すると共に、ブラヴァツキー夫人達が神智学協会を設立すると即入会、
晩年は 「魂というエネルギーは死後も存在する」 と言って、霊界通信機の開発に挑んだ、エジソン。
天才ゆえの奇人的側面と嗤うのも、老化でボケたと一蹴するのも、共に簡単な話ではあります。
が、この 「メンロパークの魔術師」 にとって電気は、単に 「科学」 の領域で完結するものではなく、
背後に神の領域、未知なるハイヤーパワーの領域が広がるものだったのではないでしょうか。
ロマンに湿る科学者の眼ではなく、新たな商圏を追い求めるゲス商人の眼を持っていたからこそ、
彼には神の領域、ハイヤーパワーの領域が、極めて具体的に 「見えていた」 のではないでしょうか。
「見えていた」 からこそ、 「自分は宇宙エネルギーの触媒」 的なことさえも語った、エジソン。
そんなハイヤーパワーの僕たるエジソンが、人類を 「光」 のネクストフェーズへ導こうとした瞬間、
神仏習合の神・石清水八幡宮の神威が、和洋も習合し働いたのは、ある意味、必然かも知れません。
電球のフィラメント開発にあたり、より長時間使用が可能な植物をエジソンが世界中で探した末、
ここ八幡の真竹が選ばれたという、凄いと言えば凄いけど、どうでもいいと言えばどうでもいい逸話。
しかし、我々が見据えるべきなのは、この逸話の背後に隠された神々のシンクロニシティであり、
シンクロニシティの根源たるハイヤーパワーだけが生み出し得る、人類の真なる 「未来」 なのです。
石清水八幡宮に於いて、エジソン誕生日に行われるエジソン生誕祭は、無論、その為の企て。
「和洋もひったくれもなく乗っかれるもんなら何でも乗っかってしまえ」 的イベントなどでは断じてなく、
また 「偉人との縁でちょっと高価めの絵馬を作り一儲け」 的な企画などでも、断じてありません。
我々は、 「未来」 を見るのです。エジソンの視界に同期し、エジソンが見た 「未来」 を見るのです。
私の地元である石清水の力を借りて、見るのです。ちょっと高価めの絵馬越しに、見るのです。
という感じで、エジソン生誕祭、地元の者として厳粛に紹介させて頂きます。

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八幡ナイトウォークをやってみました。もちろん、ひとりで。

2013年7月22日(月)


八幡ナイトウォークをやってみました。もちろん、ひとりで。

「そうだ 京都、行こう」 連携の夜間拝観をしている、2013年夏の石清水八幡宮
あれ行って、ライトアップを存分に堪能してから、あなた、どうしますか。そのまま、帰りますか。
「そうだ」 のロゴ入り提灯を返すため、ケーブル山上駅へ帰るしかない、と。そりゃまあ、そうですね。
で、ケーブルで下へ降りたら、そのまま真っ直ぐ京阪電車に乗る、と。で、帰る、と。
だって、しょうがないじゃないか、と。山上にも山下にも、めぼしい遊びスポットはないじゃないか、と。
駅前には、居酒屋が一軒あるだけじゃないか、と。他はあたり一面、漆黒の闇じゃないか、と。
確かに、そうです。そそくさと帰って、当然です。しかし、それでもやはり、惜しい。
八幡には、色々と面白い所があります。石清水八幡宮を中心に、色々と面白い所があります。
京都の裏鬼門を守護する社として、または源氏の武神として、あるいは厄除の神様として、
キナ臭い創建以来1000年以上に渡り、貴賎を問わない信仰を集め続けてきた、石清水八幡宮。
その歴史の痕跡は、鎮座する八幡山 = 男山の周囲に、様々な形で紛れ込んでいます。
あるものは、観光資源に化けそうな魅力を持ってたり。あるものは、観光化が絶対不能だったり。
電飾や映像技術で偽装された幽玄さに陶酔するのも大いに結構ではありますが、
現代生活と 「歴史」 がコンフリクトする、そんなリアルな町の姿も見たいとは思いませんか。
というわけで、夜間拝観の帰りに八幡をゆっくり巡るウォーキング、設定してみました。
名づけて、八幡ナイトウォーク。歩行距離、約12キロ。所要時間、約4時間。
グーグルで 「京都府八幡市」 と検索したら 「治安」 とキーワードが提示されるような町を、
夜、真っ暗の中、不審者全開でウロウロと歩きまわろうというわけです。
独男にしか、出来ないことであります。そして、独男だけの楽しみでもあります。
歴史丸出しなスポットから、単なる地元民愛着丸出しスポットまで、
生の八幡を感じるウォーキング、さあ、出発しましょう。

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石清水八幡宮の夏の夜間特別拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年7月20日(土)


石清水八幡宮の夏の夜間特別拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「そうだ 京都、行こう」
「人の住んでる所を、そうだ呼ばわれすんな」 と言いたくなるこのフレーズが、
JR東海による新幹線の広告キャンペーンに使われるようになり、もう20年もの時間が経ちました。
東京から2時間というタイム感を、 「そうだ」 という無礼千万な一言を用いて表現したことで、
より京都旅行をカジュアルに、そして気軽にリピートさせることにも成功した、「そうだ 京都、行こう」 。
古典的なパックツアーを、行き先だけちょこっと目先を変えて 「上質」 なるものに化けさせ、
おかげで狭い寺に大量動員をかけ、無茶苦茶な混雑を生んだりもしてる、「そうだ 京都、行こう」 。
自分で勉強したり調べたりするのは面倒だけど、 「私だけのお気に入り」 の京都は欲しい。
知性を圧迫してエゴだけが膨張した消費者の、そんな勝手極まるニーズにもしっかりと応え続け、
京都もまた奥が深いがゆえに、無茶な注文に対応が出来てたキャンペーンなわけです。
しかし、さすがに20年もやってるとネタ切れとなったのか、「そうだ 京都、行こう」 、
遂に私の地元である石清水八幡宮にまで、その魔の手を伸ばしてきました。
「まあ神社自体はそれなりに大きいけど、それ以外は特に目ぼしいスポットは、ないぞ」
「女子供に受けがいいメシ屋やスイーツなんか、全然ないぞ」 「夜なんかもう、ゴーストタウンだぞ」
と、地元民としては思うことしきりだったりするんですが、そんなのは全て、杞憂でした。
石清水八幡宮、従来は石清水灯燎華で3日間しか行われなかったライトアップを、
キャンペーンと提携した 「夏の夜間特別拝観」 として、7月中旬から8月末まで、1ヶ月半も開催。
地元商工会も、これを機に観光客を呼び込もうと、特設ステージやイベントを用意
「私のお気に入り」 になることを、目指すというわけです。鳩が、鷹になろうというわけです。
そんな地元の奮闘、 「絶対無理じゃ」 と思いながらも、観に行ってきました。

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八幡駅近観光をやってみました。もちろん、ひとりで。

2013年7月20日(土)


八幡駅近観光をやってみました。もちろん、ひとりで。

「八幡って、石清水八幡宮の他に何があるの?」
よく訊かれる質問、ではありません。そもそも大抵の人は、八幡にあまり興味がないので。
しかし2013年の夏は、石清水八幡宮がかの 「そうだ 京都、行こう」 の提携先に選ばれました。
捏造された京都幻想を抱えた幾ばくかの人が、捏造されたCMと全然違う八幡さんに落胆したのち、
懲りずに 「私のお気に入り」 を捜し求め、物欲しげに八幡市内をうろつくことが予想されます。
その中には、背景ボカシの彼方やフレーム外へ抹殺された真実を愛せる心を持ちながらも、
一時の気の迷いで 「そうだ」 の導きに乗っかってしまった、独な同志の方もいるかも知れません。
消費者ボケした享楽乞食のレミングなど、ポンコツ街道でスクラップにされてしまえばいいのですが、
同志の方が、ケーブル乗って、八幡さんをお参りして、何なら松花堂弁当も食って、
「ふーん」 という感慨だけ抱いて帰ってしまうというのも、それはそれで、残念ではあります。
というわけで、石清水八幡宮参拝のついでに小さめの観光スポットを回るコース、設定してみました。
八幡には、流れ橋松花堂など結構いろんなスポットがあるんですが、生憎、いずれも遠い。
流れ橋は、アクセスも、よろしくない。レンタサイクルは無料ですが、今の時期、暑い。
なので、駅から徒歩10分程度の範囲内にあるスポットだけで、コースを設定。
駅近で一番スペクタクルで面白いのは、神応寺の記事でも紹介した駅前渓谷なんですが、
ここは本当にスペクタクル過ぎて、雨が降った後とかだと怖過ぎるのでパスし、
平地の穏やかな門前町をめぐり、最後はおやつのかき氷で締める仕様としています。
幼少期の私の行動圏である、静かでのんびりした八幡を、お楽しみ下さい。

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八幡市文化センターで映画 『レ・ミゼラブル』 を観てきました。もちろん、ひとりで。

2013年6月16日(日)


八幡市文化センターで映画 『レ・ミゼラブル』 を観てきました。もちろん、ひとりで。

八幡市文化センター
私の地元・八幡が、かつて熱かった時代の遺産であります。
などという書き方をすると、今は冷めてしまってるのかという話になってしまいますが、
少なくとも30年前、人口が増えまくり市制に移行した前後の八幡は、今よりも熱かったはずです。
石清水八幡宮の門前にあって、長らく静かな町であり続けていた、京都府綴喜郡八幡町。
しかし、多くの参拝者が精進落としに励んだ橋本遊郭が、昭和33年の売春防止法を受けて、全廃。
税収の実に3分の1を失った八幡は、男山の大阪側に団地を誘致します。男山団地の誕生です。
団地以外の宅地化も進め、2万人だった人口はその3倍以上の7万人にまで、爆発的に増加。
「このまま行ったら、10万越え、確定」 と踏んだ当時の行政は、文化施設の建設も景気良く断行し、
1983年、市役所の向かいに巨大なる八幡市文化センターを、勢いに任せて完成させました。
収容人員1220人&残響可変装置完備の大ホールは、現在に至るも音響面の評判は上々ですが、
地の利の悪さ&身の丈に合わない箱モノの宿命が相まって、コンテンツは圧倒的に、不足気味
アーティストやオーケストラのコンサート、学生の演奏会など、それなりに活用はされつつも、
人口減少中の八幡にあって、廃墟、もといお荷物、もとい遺産な存在感を、日々強めつつあります。
そんな文化センター、たまに映画もやってて、この日上映されたのが、かの 『レ・ミゼラブル』
「最初から最後まで歌いっぱなし」 という無茶苦茶なつくりで、大ヒットしたミュージカル映画です。
音響が売りのホールで見るには、実に相応しい。なので、市民の義務として出かけてみました。
ついでに、八幡市駅からホールまでの、府道22号線とは違うルートも、御紹介。
のんびりとした本当の八幡を、感じてもらいましょう。

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石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。【2012年度版・後篇】

2012年9月15日(土)


2012年度の石清水祭、御花神饌からラストまでの後篇です。

石清水祭の旧名は、石清水放生会。
もちろん、八幡神の元宮である宇佐神宮の祭儀・放生会が、そのルーツです。
8世紀初め、律令制の徹底を目指した朝廷に対し、南九州の隼人が起こした叛乱を、
「おれが行く」 と、自分から言い出して戦場へ殴りこみ、殺戮の果てに鎮圧した、宇佐の八幡神。
しかし、殺された隼人の祟りは凶作を招き、八幡神は 「放生会で霊を慰めろ」 と、託宣。
「仏教の戒律に基づいた法会を神社で行う」 という八幡宮独自の祭儀は、ここに始まりました。
贖罪テイストが濃い端緒であります。が、別の見方をすれば、叛乱完全鎮圧の宣言とも言えます。
国的には結構、めでたい儀式になるわけです。律令制完成の、めでたい儀式になるわけです。
おまけに当時の朝廷は国を統一するため、土俗的な信仰を超越する仏教をゴリ推してましたから、
統一祝賀+仏教全開の放生会は、やがて国家的事業の性質も帯びるようになりました。
「おれが行く」 と、また自分から言い出して移座した石清水でも、放生会のそんな傾向は変わらず。
というか、都へ接近したことで神仏習合も鎮護国家もさらにブーストされる形となり、
皇室からは供花にしか見えない御花神饌なるものまで、お供え物として届くようになります。
古代染めの和紙で作られた造花による特殊神饌、御花神饌。別名、 供花神饌。
極めて珍しいこの神饌、実に戦前に至るまで御所から届いてたそうですが、戦後は途絶。
しかし近年、三笠宮彬子女王殿下が代表を務める団体・心游舎「御花神饌プロジェクト」 として、
一般から参加を募った子供たちと共に、神饌作りへ関わられるようになりました。
言ってみれば、ほんのちょっと旧儀に返ったような感じなのであります。
石清水祭2012後篇、その御花神饌から、スタートです。

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石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。【2012年度版・前篇】

2012年9月15日(土)


2012年の石清水八幡宮・石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

勅祭・石清水祭
京都の裏鬼門に鎮座する石清水八幡宮に於いて、9月に行われる例大祭です。
二所宗廟の一つとして朝廷から崇敬された経緯ゆえ、現在も旧儀に則って勅使が派遣され、
知名度は今イチながら、賀茂祭春日祭と共に 「三勅祭」 と呼ばれる、ロイヤルな祭であります。
以前も書きましたが、私はこの祭の舞台となる頓宮のすぐ近所で、生まれ育ちました。
しかし、貧乏な流れ者の子だったためか、石清水祭についてほとんど何も知らないままでした。
その欠落を埋めるべく、2011年は5000円のロイヤルな参列料を払って祭に参列し、
朝の2時からオール&ノンストップで続く祭儀を、食うものも食わず&寝るものも寝ずに見続け
その全てを全5回の超冗長な記事にまとめたんですが、しかし、勅祭はやはり、甘くない。
倒れかけながら全てを見尽くしたつもりでも、実際にはいくつか見落としがありました。
まずは、石清水祭独特のものと言われる、御花神饌。そして、放生会終了後の、舞楽奉納。
どちらも、前回見ようと思えば見れたものです。でも、見なかった。だって、死ぬほど眠かったから。
腹も死ぬほど減ってた。1秒でも早く、帰りたかった。なので、スルーしました。見落としです。
御花神饌はともかく、舞楽はさほど興味が無いんですが、でも見落としは見落としです。
というわけで、2012年度はこれらのフォローに終始。で、その他は思いっきり、適当。
参列料を払う金もないので、タダ見できるところばかりを、ひたすらダラダラウロウロしています。
なので、祭儀の詳細の方は前年の記事を御覧いただくとして、今回は空気のようなもの、
一般的な神輿大騒ぎな祭とは少し違う、石清水祭の雰囲気みたいなものを、
適当な写真&文から感じとってもらえると、幸いです。

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高良神社の太鼓まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年7月18日(水)


高良神社の太鼓まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

高良神社
石清水八幡宮が鎮座する男山、その麓にある同宮の摂社です。
創建は、石清水とほぼ同時期。創建したのは、石清水を宇佐より勧請した、行教
かつては、石清水祭の舞台となる頓宮や極楽寺などと共に、壮麗な山麓下院を構成し、
そのゴージャスさは、『徒然草』 に登場したかの仁和寺の法師でさえ、石清水本殿と間違えるほど。
「何事にも先達はあらまほしきもの」 という教訓を生んだ場所としても、名高い社であります。
時が幕末に至ると、鳥羽伏見の戦い神仏分離の波乱で壊滅的なダメージを受け、
何をどう見ても石清水と間違えようのない小さな建物にはなりましたが、神社そのものは、存続。
皇族や武家などが御用達の、いわゆる 「お上の神さん」 である石清水八幡宮とは別に、
地元の住民たちを護る氏神として、現在もなお篤い崇敬を集め続けています。
太鼓まつりは、そんな高良神社で盛夏が始まる頃に行われる、例祭。
「男山の麓で、太鼓まつり」 と聞くと、ある種の性癖を持つ方は、ある種の連想をするのでしょう。
「褌一丁の男が荒々しいバチさばきを見せる」 みたいな。別方面の視線が熱い、みたいな。
しかし八幡の太鼓まつりは、そういった「太鼓の技を競う」 といったテイストの祭りではありません。
打ち鳴らすのは、いわゆる触れ太鼓のフレーズである 「ドンドンドドドン」 のみ。
この 「ドンドンドドドン」 を本当に延々と叩き続け、そのトランス的高揚で盛り上がる祭りです。
勅祭である石清水祭が 「お上の祭」 なら、こちらは正に地元の祭という感じでしょうか。
ゆえに、幼少の頃は確かにこの山麓下院で遊びまわっていたものの、
貧乏な移住者の子であった私には、正直今ひとつ馴染みがなかったりするんですが、
疎遠な母校の同窓会へ向うような気分で、とにかく行ってきました。

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石清水八幡宮の石清水灯燎華へ行きました。もちろん、ひとりで。

2012年5月5日(土)


石清水八幡宮の石清水灯燎華へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

石清水八幡宮と 「灯り」 は、様々な縁を持っています。
中世において油の独占的販売権を握り、その名と財力を轟かせた大山崎油座は、
そもそもは淀川を挟んで鎮座する石清水八幡宮に、灯油を納めるのを本務とした神人でした。
「だから何だ」 と言われると返す言葉がありませんが、そんな由緒もあるという話です。
また時代を下ると、かの発明王エジソンは電球開発の際にフィラメントの寿命で苦心、
世界中の竹を試した末、石清水八幡宮の竹が最適であることを発見、実用化にこぎつけました
これも 「だから何だ」 と言われると返す言葉がありませんが、そんな由緒もあるという話です。
さらに言うと、二股ソケットで日本中の家庭の電灯を消さずに済ませた松下幸之助は、
熱烈な石清水八幡宮崇敬者であり、初期松下の商標 「M矢」 は八幡御神矢がモチーフになってます。
これまた 「だから何だ」 と言われると返す言葉がありませんが、そんな由緒もあるという話です。
こんな感じで、どことなく希薄感は漂うものの、それなりに縁がある八幡と 「灯り」 。
その縁をより深きものにしようと、GWの夜に重文・本殿を始めとして境内一円をライトアップ、
期間限定の神札などパワスポ商品も用意して、観光客との縁もついでに深めてしまおうというのが、
石清水八幡宮、春の最大集客イベントである、石清水灯燎華でございます。
灯燎華の期間は3日間。しかし、私は地元民ゆえ二夜出かけ、見所を拾いまくってみました。
荘厳なビジュアルから、妙味溢れるアイテムまで、夜の 「八幡さん」 、たっぷりとご堪能ください。
あ、ちなみにTOP画像は、エジソン記念碑のフィラメント型ライトアップです。
ドクロベエでは、ありません。ウォーズマンでも、ありません。

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石清水八幡宮の鬼やらい神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年1月29日(日)


石清水八幡宮の鬼やらい神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

鬼やらい。いわゆる節分の追灘というものです。
今なお深層意識の中では旧暦のタイムテーブルがしぶとく生き続けているためか、
「本来の年越し」みたいな感じで、ある意味正月以上の盛り上がりを見せる、京都の節分。
京都市内の多くの寺社が2月3日を中心に各種祭典を行ない、大きな賑わいを呼んでいますが、
我が地元である石清水八幡宮は、節分に一番近くて早い日曜日に、鬼やらい神事を開催。
ちょっと、フライングです。何故かといえば、まあ多分、客を呼ぶためじゃないかと。
この神事、始まったのは割と最近。最近といっても、もう25年くらいはやってるそうですが。
京都市内の節分行事も、実は結構歴史が浅い復活系のものが多かったりしますが、
八幡の鬼やらいはそれらに増して新しく、イベントテイストがより濃厚です。
本気というよりはお遊びであり、開催日を厳密に2月3日とする必要がないタイプの行事であり、
ついでに鬼のクオリティも若干の手作り感が否めないものだったりするのであります。
しかし、いやむしろそれゆえに、ある種の大らかさみたいなのは、炸裂。
出てる方にも、そして見てる方にも、率直な笑顔が溢れる鬼退治と言えるんじゃないでしょうか。
この数週間前には、某大河ドラマ清盛の舞の舞台となってた、石清水八幡宮。
初詣厄除大祭と続くボロ儲け月間を締めくくるのに相応しい混雑の中、
一足早い節分を楽しんできました。

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石清水八幡宮の厄除大祭・焼納神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年1月19日(木)


石清水八幡宮の厄除大祭・焼納神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

石清水八幡宮はその創建時から、明確に王城守護を目的としています。
平安京陰陽道に基づいて展開した怨霊防衛線構築の最終ステージにおいて、
裏鬼門守護の責を担うべく、パワフルで雄弁な神・八幡神を勧請して建てられた、国策神社。
そう、石清水は紛れもなく「国のための神社」であり、地元の言い方だと「お上の神さん」なわけです。
それゆえ明治維新の際に神仏分離令が出ると、「お上」からのお達しと慌てふためき、
山中の仏教施設を片っ端からブッ壊したり売り飛ばしたりもするわけですが、それはともかく。
しかし、そんな「お上」第一な石清水八幡宮にも、民衆と切り結ぶ接点は存在します。
それが、厄除。いわゆる厄年とか、厄ばらいとかの、厄除です。
こちらも元々は、京への疫神侵入を阻止する朝廷の祭祀「畿内十処堺疫神祭」が由来であり、
疫神社 = 現在の山麓頓宮に道祖神を招き、国家安泰を祈願する「お上」なものでしたが、
やがて民衆からの厄除信仰の方が強くなり、1月15日~19日の祭儀は「法会」という名でお祭り化。
京都や大阪から大挙して参拝客が押しかけ、それを目当てにした土産店なども多数立ち、
田楽・舞楽・相撲の奉納も行われるなど、それは大層な賑わいだったといわれてます。
神仏分離で石清水がズタボロ化したのちも、民衆ベースである厄除信仰は根強く持続したようで、
敗戦で戦勝の神としての名声を失ってもなお、「法会」だけはしばらく隆盛を保ったそうです。
現在は「厄除大祭」と呼ばれるこの祭儀、古代祭祀のルーツは18日に斎行される 「青山祭」 に残り、
「お祭り」テイストの方は期間最後の日に行われるこの焼納神事が担ってる感じでしょうか。
焼納神事は要するに左義長 or どんど焼きであり、規模もそこそこなもんですが、
厄除開運餅がタダでもらえるということもあり、結構人気があります。
そんな焼納神事へ、「法会」の残り香を嗅ぎに行ってきました。

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石清水八幡宮の青山祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年1月18日(水)


石清水八幡宮の青山祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

青山祭。もちろん、青山学院大学の学園祭ではありません。
呪術都市・平安京が構築した悪霊・疫病・厄神防衛線の名残を、現代にまで伝える神事です。
「悪しきものは、人と同じく道を歩いて都へ入る」という当時のセキュリティ思想に基づき、
平安京の国境には、怨霊の水際対策として霊的城壁を築くべく、強力な寺社が建立されました。
鬼門封じの猿ラインは言うに及ばず、四方を固める大将軍各社や逢坂山蝉丸神社
あるいはパワーが強過ぎていまや心霊スポットとしか思われてない老ノ坂の首塚大明神などなど。
中でも、裏鬼門であることに加え、都と瀬戸内海と直結する水路のゲートでもあり、
さらには魔の国・大阪と山を介さず接している数少ないポイントに鎮座する石清水八幡宮には、
より強い霊的パワーが求められ、そのニーズは古代祭祀が消滅した後世も継続。
厄神防衛線の各社で斎行されたという祭儀「畿内十処堺疫神祭」は、
石清水では道餐祭として残り、斎場を囲む青柴垣に由来して「青山祭」と名称を変化。
八幡の厄除としての評判が民間にも広まるに連れ、正月以上に人を集めるお祭りへ変貌しました。
と、青山祭についてざっと調べると、こんな感じの話がいろいろと出てきます。
が、実際の内容についての情報が、妙に少ない。現在、何をどうやってるのかの情報が、少ない。
秘儀なんでしょうか。現在もこっそり、呪術とか、魔界とか、やってるんでしょうか。
私、子供の頃は近所に住んでましたが、そんな話、聞いたことありません。
やはり、秘儀か。そのあたりを確認すべく、日の暮れかかる山麓下院へと出かけてみました。
そして、そこで目にした「真実」は、実に驚くべきものでした。

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正月の石清水八幡宮へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年1月5日(木)


正月の石清水八幡宮へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

八幡の八幡さん(やわたのはちまんさん)、地元ゆえ再び初詣です。
元旦には、今イチながらも初日の出まで拝ませてもらった石清水八幡宮ですが、
昼間の混み加減も一応チェックしておきたくなって、改めて参拝させていただきました。
混雑度を見るなら何といっても元日、せめて三が日の間に行っとくべきなのですが、
諸般の事情で4日まで身動きとれず、5日に至ってのデータ取得となってます。ご了承下さいませ。
「世は変われども、神は変わらず」というキャッチコピーの通り、
例年と特に変わるところのない、賑やかかつ穏やかな八幡の八幡さんの正月ではあるのですが、
去年の年末にはこの石清水八幡宮、国史跡に指定されるというトピックがありました。
それも本殿のみならず、明治以前の神仏習合の遺跡を含めての指定。
ちょっと前には松花堂昭乗の滝本坊跡で「空中茶席」なるものの遺構が発見されるなど、
静かに盛り上がりを見せていた八幡さんの発掘ですが、この指定でより拍車がかかることでしょう。
八幡さんの参道の横にずらっと並ぶ、石垣。あれ、遺構なんですよ。かつて林立していた宿坊の。
でも、参拝される方の多くは登ることに必死で、全然そんなことに気にしてくれません。
ので、ちょっとその辺にも触れながらの初詣記事にしてみます。興味を持ってもらえたら、幸いです。
あ、トップの龍は、本殿にいる奴。辰年ということで、フィーチャアしてみました。

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石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【5】 還幸の儀

2011年9月15日(木)


延々と続けてきた石清水祭レポート、遂に最終回でございます。

地元民の思い入れゆえ延々と続けたのかというと、そういうわけでもありません。
私は、この祭りが斎行される頓宮から徒歩5分のところで生まれ育ち、
正に頓宮、放生川、あるいは八幡山全域を遊び場として、幼少期を過ごしてます。
が、この祭儀のことについては一切知りませんでした。私の親もまた、知りませんでした。
たまたまウチが流れ者の貧乏一家だから知らなかった、というわけでもないでしょう。
祭りといえば、ただ縁日に行くのみ。多くの八幡人にとって、石清水祭はこんな感じだと思います。
要するに石清水八幡宮って、お上の神さんなんですよね。
京都の裏鬼門守護のため建立され、例大祭には天皇陛下の使者が直々に派遣され、
国家の一大事には山が鳴動する神社。あくまで鎮護国家、国のための神さまというわけです。
なので平民の我々は、神の間近にいても何をやってるのか全然、見えない、気づかない。
祭りだって気軽に観れる時間にやらないし、気軽に払える金で観せないし、気軽な格好も許さない。
京都市内の神社の祭りに多く溢れる熱気や一体感、町衆自治の誇り、
あるいは神社そのものに漂う、人々から愛されてることに由来する優しさやあったかさ。
そういったものは、ここにはありません。それは確かに、少し寂しいことなのかも知れません。
が、それゆえに、かつてのやんごとなき方々への態度、やんごとなき祭りへの態度を、
生臭いまでに現代へ伝承してるかも知れないのです。
そんな石清水祭のフィナーレである還幸の儀、タダ見可能な行列部分は大幅カット、
大金払わないと見れない「神のおかえり」を、お楽しみください。

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石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【4】 放生会-法華三昧

2011年9月15日(木)


石清水祭、遂に午前中の行事ラストの放生会でございます。

ご存知の方も多いかも知れませんが、石清水八幡宮はもともと神仏習合の宮寺でした。
もちろん、幕末までの大きな神社はどこもそんな感じではあり、
京都でも八坂神社がかつて「祇園感神院」と仏教丸出しの名前で呼ばれていたことは、有名です。
特に「仏教に帰依して、国家鎮護の神とならん」とか言ってしまう八幡神はその傾向が強かったようで、
京都の裏鬼門・男山に鎮座して以降、石清水八幡宮でも神と仏は濃厚に入り混じり続けました。
「男山四十八坊」と呼ばれた宿坊が山のそこら中に建ち、その寺には数百人の僧が住み、
神社の管理もまた僧が担当し、あげく名称も「石清水八幡宮寺」という思いっきり寺全開状態。
それが明治初頭の神仏分離により、寺はほぼ完全に破却、文化財は流出、僧はトンズラ。
現在の「山の頂上に本殿があり、あとは野生」という清々しい神社ができあがってしまいました。
当然、石清水祭も神仏分離の影響を蒙って、旧儀廃絶・名称変更・再興を繰り返してるわけですが、
現在に至るまで元通りに再興できなかったのが、かつて祭の名称であった、放生会。
「放生会」という仏教的な名のとおり、僧参列のもと執り行われるのが本来の姿だったそうですが、
明治維新以降は仏教色を排し、神道式による行事として今日まで斎行。
それを元の神仏混合に戻そうと、2004年には特別行事として比叡山の僧職と共に放生会を開催。
そしてついに今年、やはり比叡山の僧職に出仕を賜り、
石清水祭の当日に国家鎮護の神仏が相集う形で、めでたく放生会を行うことになりました。
実に140年ぶりのことであります。

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石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【3】 奉幣の儀

2011年9月15日(木)


石清水八幡宮の石清水祭、ひとりで行ってます。続きです。

宇佐の地から京都の裏鬼門・男山へ八幡神が勧請された4年後の863年、
石清水八幡宮の例祭・石清水祭は、「石清水放生会」として始められました。
始めは単なる私祭でしたが、承平天慶の乱の調伏などで八幡宮が朝廷の崇敬を得るようになると、
勅使の御差遣が開始され、勅祭化。やがて、雅楽寮の楽人舞人による楽舞も、開始。
賀茂・松尾・春日・平野などに比べると新参もいいところの石清水は、凄まじい成り上がりを見せ、
遂には伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟としての地位を確立、
放生会には、太政官の最上位である上卿が、参議以下の諸官を率いて参向するようになりました。
と、上り調子だった石清水八幡宮ですが、応仁の乱により祭りは200年ほど、中絶。
江戸時代に再興されますが、明治維新の神仏分離で祭りどころか神社そのものがズタボロに。
のちに明治天皇が旧儀復興を仰せ出されたおかげで、何とか官祭としてまた再興しますが、
敗戦後の昭和20年にまたしても旧儀、中絶。24年には三度、再興。で、現在に至ります。
【2】でも触れましたが、「勅祭・石清水祭」、現行の制度上では全てが、私祭です。官祭ではなく。
現代の勅使を担当する掌典職は、皇室の宮中祭祀を担当する部門。
政教分離のため、給与は天皇家の内廷費、ポケットマネーから支払われています。
いわば、天皇家の私的使用人に相当するわけです。宮内庁職員 or 国家公務員ではないわけです。
が、石清水祭のパンフレットなどでは堂々と「私祭」「官祭」という言葉を、大々的に使用。
「まだ戦争は終わってないっていうか (by 電気グルーヴ)」な勢いを感じることしきりですが、
これから始まる奉幣の儀は、戦争どころか平安時代さえまだ終わってないような、
荘厳と雅を極め倒す祭儀が繰り広げられるのであります。
勅祭の勅祭たるパート、官祭のコアブロック、とくと御堪能ください。

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石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【2】 神幸の儀-絹屋殿の儀

2011年9月15日(木)


石清水祭は、大きく分けて以下の次第で行なわれます。

①神幸の儀 (AM2:00)
 御鳳輦(ごほうれん)に御神霊を乗せ、約500名の神職・楽人・神人と共に山をおりる祭儀。
②絹屋殿の儀 (AM3:40)
 下院頓宮前に設けられた絹屋殿にて、里神楽奉納、そして勅使が頓宮まで案内申し上げる祭儀。
③奉幣の儀 (AM5:30)
 頓宮へ奉遷された御神霊に、天皇陛下より賜る御幣物、そして神饌が奉献される古儀。
④放生会 (AM8:00)
 男山山麓を流れる放生川へ魚鳥を放つと共に、太鼓橋にて童による胡蝶の舞が奉納される祭儀。
⑤還幸の儀 (PM5:00)
 再び御鳳輦に遷された御神霊が、約500名のお供を連れて、山上本殿へ還幸になる祭儀。

このうちからはほぼ、ノンストップ。文字通りの、オールナイト状態。過酷であります。
ちなみに有料参列者しか見れないのは、および。情報が極端に少ないのも、ここです。
なお、今年はに比叡山延暦寺の僧職そして天台座主が出仕され、後に法華三昧法要も厳修。
あと、ハーフタイムとも言えるの間には、頓宮前舞台にて舞楽・演武奉納が行なわれます。

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石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【1】 イントロダクション

2011年9月15日(木)


石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

石清水祭。
京都の裏鬼門を守護する八幡市の石清水八幡宮に於いて、毎年9月15日に行われる例祭です。
上下賀茂神社の葵祭、そして春日神社の春日祭と並び、
天皇陛下の使者である勅使がじきじきに差し遣わせられる三大勅祭のひとつであります。
別名、南祭。対応する北祭とは何かといえば、もちろん京におけるもうひとつの勅祭・葵祭。
この二つの勅祭、実に対照的だったりします。
白昼の都大路に平安絵巻を現出させ、巨大な観光資産でもある葵祭が「表」の祭りだとすれば、
観光客がアクセス困難な真夜中に、僻地にて行われる石清水祭は、いわば「裏」の祭り。
鞍馬寺のウエサク祭でさえ参拝客に考慮して早めに終了するこの御時世に、
日時変更一切なし、大雨食らいがちな季節なのに雨天順延もなしという、強気過ぎるスタンス。
人間よりも神の都合を最優先して斎行され続けてる祭りなのであります。

しょっちゅう書いてることですが、私は八幡市の住民です。
なので、この石清水祭も何度か見てます。が、肝心の祭儀そのものは見たことありません。
勅使参向の祭儀を見るには、奉賛金を払わなくてはいけないからです。その金額、5000円。
500円ではありません。5000円です。五千円。
普通なら即時撤退の額ですが、しかし今年は思い切って大枚払い、参列してみることにしました。
理由は、石清水祭に関する情報が少ないから。特に、参列の情報がすごく少ない。
単に需要がないからかも知れませんが、それならそれで新たに八幡の魅力を知ってもらいたい。
そんな思いで身銭を切り、見れるものを全て見てきました。
そしてその経験は、私の故郷に対する認識を大きく改めさせられるものでした。
このネタは、ちょっと真面目にやります。真面目かつ、しつこくやります。元出かかってますからね。
まずは前日の宵宮などをイントロダクションとして、お楽しみ下さい。

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藤森神社の駆馬神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年5月5日(木)

疾走する駆馬とそれを止める男達
藤森神社の藤森祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

藤森神社。その筋の方には、競馬の神様として有名です。
京阪乗って淀の京都競馬場で勝負する前に、途中下車して必勝祈願、みたいな。
ファンのみならず、騎手や馬主など関係者の参拝も多いというから、筋金入りの馬神社であります。
ではこの社の祭神は馬かといえば、そうではありません。祭神は、神功皇后を始めとする十二柱。
新羅を攻略して凱旋した皇后が、戦旗と武器を納めたのが、この神社の始まりだそうです。
こんな勇ましい由来を持つわけですから、藤森神社は当然のように、武神。勝軍の神。
今も昔も「勝ち」を欲する人々から篤い崇敬を受け続けています。
勝負で直接メシを食う戦国大名たちはこの社の鳥居前を通る際には敬意を払って槍を下げ、
明治に入れば武運にあやかろうとしたのか陸軍第十六師団が隣の敷地へ駐屯し、
一応平和ということになってる現代では競馬の受験に勝利をもたらす神となってるのであります。
そんな藤森神社の大祭は、藤森祭。菖蒲の節句、すなわち端午の節句の開催です。
武神ゆえ菖蒲 = 勝負ということでこの日を選んでるのかどうかは知りませんが、
5月5日を男の子のお祭りの日として武者人形を飾るのは、この祭が発祥なんだとか。
早良親王が陸奥国の反乱鎮圧で出陣した様をなぞらえたという武者行列、
京都で最も優雅な神輿が何故か伏見稲荷あたりまで行ってしまう神輿巡幸、
そしてもちろん有名な駆馬神事と、実に男の子な行事が目白押しな祭なのであります。
そんな男の子の祭、男ひとりで行ってきました。

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