1月, 2012 - ひとりでうろつく京都 (β版)

石清水八幡宮の鬼やらい神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年1月29日(日)


石清水八幡宮の鬼やらい神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

鬼やらい。いわゆる節分の追灘というものです。
今なお深層意識の中では旧暦のタイムテーブルがしぶとく生き続けているためか、
「本来の年越し」みたいな感じで、ある意味正月以上の盛り上がりを見せる、京都の節分。
京都市内の多くの寺社が2月3日を中心に各種祭典を行ない、大きな賑わいを呼んでいますが、
我が地元である石清水八幡宮は、節分に一番近くて早い日曜日に、鬼やらい神事を開催。
ちょっと、フライングです。何故かといえば、まあ多分、客を呼ぶためじゃないかと。
この神事、始まったのは割と最近。最近といっても、もう25年くらいはやってるそうですが。
京都市内の節分行事も、実は結構歴史が浅い復活系のものが多かったりしますが、
八幡の鬼やらいはそれらに増して新しく、イベントテイストがより濃厚です。
本気というよりはお遊びであり、開催日を厳密に2月3日とする必要がないタイプの行事であり、
ついでに鬼のクオリティも若干の手作り感が否めないものだったりするのであります。
しかし、いやむしろそれゆえに、ある種の大らかさみたいなのは、炸裂。
出てる方にも、そして見てる方にも、率直な笑顔が溢れる鬼退治と言えるんじゃないでしょうか。
この数週間前には、某大河ドラマ清盛の舞の舞台となってた、石清水八幡宮。
初詣厄除大祭と続くボロ儲け月間を締めくくるのに相応しい混雑の中、
一足早い節分を楽しんできました。

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チャーミングチャーハンめぐりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年1月22日(日)


チャーミングチャーハンめぐりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

チャーミングチャーハン。
その恐るべきネーミングセンスで、京都はおろか日本全国を震撼させた中華料理店です。
死ぬほど暇な時に思わず検索欄へ打ち込んでしまいそうなワードを堂々と屋号に掲げ、
「焼きめし+チャーハン付き」などという、言語への挑戦のごときメニューをひっさげたこの店が、
移転先の堀川丸太町で突如ブレイクしたのは、もう何時のことになるのでしょうか。
ブレイク当初は 「ネットやマスコミから散々ネタにされ、消費され尽くされたところで、終了」 か、
「ネーミングをさらにエスカレートさせ、収拾つかなくなり、終了」 みたいな展開を想像してたんですが、
店は意外にも普通のお手頃中華屋として存続&出前サービスが効いて地域に定着。
遂には2011年の暮、今出川通へ支店まで出してしまいました。
もちろん支店の方も、チャーミングチャーハンの店名、「焼きめし+チャーハン付き」、ともに健在。
もしかしてチャーミングチャーハン、狙ってるんでしょうか、飛躍を。
かつて王将が、四条大宮の賃貸ビルから全国区へ羽ばたいたような、飛躍を。
かつて天下一品が、北白川の屋台から全国区へ羽ばたいたような、飛躍を。
そのあたりの腹を探るべく、新規オープンの今出川店、そして本店を、いっぺんにめぐってみました。

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石清水八幡宮の厄除大祭・焼納神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年1月19日(木)


石清水八幡宮の厄除大祭・焼納神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

石清水八幡宮はその創建時から、明確に王城守護を目的としています。
平安京陰陽道に基づいて展開した怨霊防衛線構築の最終ステージにおいて、
裏鬼門守護の責を担うべく、パワフルで雄弁な神・八幡神を勧請して建てられた、国策神社。
そう、石清水は紛れもなく「国のための神社」であり、地元の言い方だと「お上の神さん」なわけです。
それゆえ明治維新の際に神仏分離令が出ると、「お上」からのお達しと慌てふためき、
山中の仏教施設を片っ端からブッ壊したり売り飛ばしたりもするわけですが、それはともかく。
しかし、そんな「お上」第一な石清水八幡宮にも、民衆と切り結ぶ接点は存在します。
それが、厄除。いわゆる厄年とか、厄ばらいとかの、厄除です。
こちらも元々は、京への疫神侵入を阻止する朝廷の祭祀「畿内十処堺疫神祭」が由来であり、
疫神社 = 現在の山麓頓宮に道祖神を招き、国家安泰を祈願する「お上」なものでしたが、
やがて民衆からの厄除信仰の方が強くなり、1月15日~19日の祭儀は「法会」という名でお祭り化。
京都や大阪から大挙して参拝客が押しかけ、それを目当てにした土産店なども多数立ち、
田楽・舞楽・相撲の奉納も行われるなど、それは大層な賑わいだったといわれてます。
神仏分離で石清水がズタボロ化したのちも、民衆ベースである厄除信仰は根強く持続したようで、
敗戦で戦勝の神としての名声を失ってもなお、「法会」だけはしばらく隆盛を保ったそうです。
現在は「厄除大祭」と呼ばれるこの祭儀、古代祭祀のルーツは18日に斎行される 「青山祭」 に残り、
「お祭り」テイストの方は期間最後の日に行われるこの焼納神事が担ってる感じでしょうか。
焼納神事は要するに左義長 or どんど焼きであり、規模もそこそこなもんですが、
厄除開運餅がタダでもらえるということもあり、結構人気があります。
そんな焼納神事へ、「法会」の残り香を嗅ぎに行ってきました。

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石清水八幡宮の青山祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年1月18日(水)


石清水八幡宮の青山祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

青山祭。もちろん、青山学院大学の学園祭ではありません。
呪術都市・平安京が構築した悪霊・疫病・厄神防衛線の名残を、現代にまで伝える神事です。
「悪しきものは、人と同じく道を歩いて都へ入る」という当時のセキュリティ思想に基づき、
平安京の国境には、怨霊の水際対策として霊的城壁を築くべく、強力な寺社が建立されました。
鬼門封じの猿ラインは言うに及ばず、四方を固める大将軍各社や逢坂山蝉丸神社
あるいはパワーが強過ぎていまや心霊スポットとしか思われてない老ノ坂の首塚大明神などなど。
中でも、裏鬼門であることに加え、都と瀬戸内海と直結する水路のゲートでもあり、
さらには魔の国・大阪と山を介さず接している数少ないポイントに鎮座する石清水八幡宮には、
より強い霊的パワーが求められ、そのニーズは古代祭祀が消滅した後世も継続。
厄神防衛線の各社で斎行されたという祭儀「畿内十処堺疫神祭」は、
石清水では道餐祭として残り、斎場を囲む青柴垣に由来して「青山祭」と名称を変化。
八幡の厄除としての評判が民間にも広まるに連れ、正月以上に人を集めるお祭りへ変貌しました。
と、青山祭についてざっと調べると、こんな感じの話がいろいろと出てきます。
が、実際の内容についての情報が、妙に少ない。現在、何をどうやってるのかの情報が、少ない。
秘儀なんでしょうか。現在もこっそり、呪術とか、魔界とか、やってるんでしょうか。
私、子供の頃は近所に住んでましたが、そんな話、聞いたことありません。
やはり、秘儀か。そのあたりを確認すべく、日の暮れかかる山麓下院へと出かけてみました。
そして、そこで目にした「真実」は、実に驚くべきものでした。

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三十三間堂の楊枝のお加持と通し矢へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年1月15日(日)


三十三間堂の楊枝のお加持と通し矢へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

等身大の観音像を、千一体、並べる。
それは一体、どんな精神状態から生まれる発想なのでしょう。
「でっかい寺 or 仏像を作る」なら、わかります。大きいことはいいことだ、と。
数的膨張も、伏見稲荷の鳥居のような闇雲さがあれば、まだ人の体温が感じられるというものです。
しかし、三十三堂の千一体観音は、そのどちらとも違う印象を見る者に与えます。
熱狂を感じさせない、冷たく醒めた過剰さ。そしてそこに響く、救済を求める無言の絶叫。
普通の人間が考えつくものではない。少なくとも私は、そんなことを感じたりします。
後白河法皇。普通の人間ではないといえば、確かに普通の人間ではありません。天皇だし。
「今様狂い」「比類少きの暗主」と揶揄されるほど過剰な遊蕩に呆けながら、
源平を手玉に取って権力に固執し、なおかつその全てを放り出して熊野を何度も何度も詣でまくり。
勝負には絶対負けたくないが、勝ったところで全ては遊びだとも知っている、大天狗。
まこと「もののけ」と呼ぶにふさわしい、院政期を体現したような強烈なるパーソナリティです。
そして、その院から発願された三十三堂もまた、強烈なインフレーション感に溢れた建造物です。
そもそもは院の頭痛平癒を祈願して建てられながら、いわゆる癒しテイストは皆無、
だだっ広いにも関わらず開放感がなく、閉塞感+強迫観念=偏頭痛誘引効果が爆裂状態。
むしろ偏頭痛者のパースペクティブをそのまま具現化したようにさえ感じられ、
疾病退散の加持より、矢でこの頭を吹っ飛ばしてくれと頼みたくなること、しきりです。
そんな三十三堂の成人の日名物である、楊枝のお加持通し矢
「どんなだ」という話ですが、無料開放で頭痛がしそうな堂内へ、とにかく突入してきました。

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大本亀岡本部へ七草粥を食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年1月7日(土)


大本亀岡本部へ七草粥を食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

大本についての説明、どれくらい必要なんでしょうか。
本籍地を丹波に置きっぱなしの私にとっては、何となく「知ってて、普通」な感じなんですが、
一般的知名度はそれほどでもないのかも知れません。そうでもないのかな。
大本。平仮名で書くと、おほもと。読みは普通に、おおもと。
いわゆる新宗教の老舗です。「新」なのに「老舗」というのも変ですが。
明治中頃、京都北丹・綾部で開祖・出口なおが「御筆先」を記したことで始まる神道系の教団ですが、
教団を巨大化させたのは、『霊界物語』などで今なおカリスマ的人気を誇る、出口王仁三郎
メディア戦略に天才的な才能を持つ王仁三郎は、勃興期にあった新聞&ラジオを大々的に活用、
教団を爆発的に拡大させ、「万教同根」の真理に基づいて大陸にも進出、世界各国の宗教とも提携し、
遂には郷里・亀岡の亀山城をまるごと購入、綾部と共に聖地としました。
インテリ・貴族・軍人までも巻き込むその勢いに、特高は目をつけ、大正・昭和と二度にわたり弾圧
特に戦中行われた「第二次大本事件」と呼ばれる二度目の弾圧は熾烈を極め、
「大本を地上から抹殺する」と、1300本のダイナマイトで教団施設を城ごとぶっ飛ばしました。
壊滅状態に陥った大本は、追い討ちをかけられるようにカリスマ・王仁三郎も失いますが、
何とか自主再建を果たし、ズタボロになった亀山城址も何とか再整備。
戦前の勢いはないにせよ、平和運動・農業運動・芸術運動などに力を入れ、現在も活動を続けてます。
そんな大本が、信者以外にも無料で振舞ってるのが、1月7日の七草粥。
普段は拝観に申込が要る亀山城も、一般開放。なので、城見物をかねて出かけてみました。

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正月の石清水八幡宮へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年1月5日(木)


正月の石清水八幡宮へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

八幡の八幡さん(やわたのはちまんさん)、地元ゆえ再び初詣です。
元旦には、今イチながらも初日の出まで拝ませてもらった石清水八幡宮ですが、
昼間の混み加減も一応チェックしておきたくなって、改めて参拝させていただきました。
混雑度を見るなら何といっても元日、せめて三が日の間に行っとくべきなのですが、
諸般の事情で4日まで身動きとれず、5日に至ってのデータ取得となってます。ご了承下さいませ。
「世は変われども、神は変わらず」というキャッチコピーの通り、
例年と特に変わるところのない、賑やかかつ穏やかな八幡の八幡さんの正月ではあるのですが、
去年の年末にはこの石清水八幡宮、国史跡に指定されるというトピックがありました。
それも本殿のみならず、明治以前の神仏習合の遺跡を含めての指定。
ちょっと前には松花堂昭乗の滝本坊跡で「空中茶席」なるものの遺構が発見されるなど、
静かに盛り上がりを見せていた八幡さんの発掘ですが、この指定でより拍車がかかることでしょう。
八幡さんの参道の横にずらっと並ぶ、石垣。あれ、遺構なんですよ。かつて林立していた宿坊の。
でも、参拝される方の多くは登ることに必死で、全然そんなことに気にしてくれません。
ので、ちょっとその辺にも触れながらの初詣記事にしてみます。興味を持ってもらえたら、幸いです。
あ、トップの龍は、本殿にいる奴。辰年ということで、フィーチャアしてみました。

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2012年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。 【2】

2012年1月1日(日)


2012年への年越しを、京都で迎えました、の続きです。

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2012年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。 【1】

2012年1月1日(日)


2012年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。

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