夜も、ひとり - ひとりでうろつく京都 (β版)

福知山の食房・和楽で光秀ききょう膳のぼたん小鍋を堪能しました。もちろん、ひとりで。

2023年1月26日(木)


福知山の食房・和楽で光秀ききょう膳のぼたん小鍋を堪能しました。もちろん、ひとりで。

福知山に雪が積もってる様を目にするたびに、心の何処かで意外さを感じたりします。
当サイトでは福知山を何度か訪れており、考えてみれば雪との遭遇率はかなり高いんですが、
にも関わらず、雪を見るたびに意外さを感じ、後で思い返す時でさえ意外に思ったりします。
同じ福知山市内でも、鬼の里の大江などに雪が積もることには特に意外性も違和感も感じません。
なのに、福知山駅のホームから街を見た時や駅前へ出た時などに雪を見ると、凄く驚くのです。
雪で白く染まった福知山城も、何度も見てるのに見るたび 「おっ」 とか思ったりします。
この妙な感慨は、何なのか。何から、生じてるのか。出元はきっと、福知山の地理に違いありません。
福知山は、京都府の中ではやや北の方に位置しますが、緯度そのものは逗子・葉山とほぼ同じ。
それでも気候はしっかり日本海側気候寄りであり、雪もしっかり降るんですが、一方で湿気も多め。
この湿気が肌感レベルの寒さを和らげ、底冷えの京都とは異なる空気感を生んでるのも、確かです。
京都府南部の者などは、冬の福知山に来てもその大半が 「思ってたより寒くない」 と思うでしょう。
そしてこの 「寒くない」 という経験が重なれば、今度は福知山の雪をレア視するようになると思います。
そう、福知山の雪に感じる意外さとは、京都府南部の者が抱きがちな錯覚ではないのかな、と。
この錯覚、鉄道/車を問わず訪福する者の多くが丹波を通過することも、かなり重要になる思います。
分水嶺たる丹波の最高海抜は、約200m。鉄道だと楽に通過してしまいますが、割と高めでしょう。
対して福知山駅の周辺の海抜は10m台と低めであり、この高低差も温度感には影響してるはずです。
そもそも京都市中心部でも、京都駅周辺の海抜は30m前後であり、それに比べても福知山は低め。
だから、福知山で雪を見ると意外に感じる。レアに感じる。少しだけ、お宝感も感じる。そんな感じ。
それがどうしたという話ではありますが、でもこれが、地理を体感するということなのかも知れません。
そんな雪の福知山で、ぼたん鍋企画、決行です。和知でぼたん鍋食った日の夜に、決行です。
駅近くにぼたん小鍋を出す店があるというので、やってみました。もちろん、温泉も込みで。

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宇治・六地蔵の民泊を借り切って、聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

2022年12月24日(土)


宇治・六地蔵の民泊を借り切って、聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

メリークリスマス!! 当サイト恒例の聖夜宿泊企画、2022年度版でございます。
今回は、宇治市京都市の境界である六地蔵にて、airbnbで見つけた民泊に泊まってみました。
理由は、当企画が本来持つ 「境界」というテーマを、改めてしっかり追及したくなったからです。
前年2021年は丹後・宮津へ赴き、貸切の宿で酒飲んで寿司食って寝て朝もまた美味い魚食って、
あまりに気持ち良く、あまりに最高だったんですが、ゆえに 「境界」 というテーマは雲散霧消しました。
本来この企画は、荒行として行って来たことです。ある意味、己への枷として続けて来たことです。
なのに、なってない。何より、自分の体がなってない方向へ全振りしてる。これでは、だめです。
もっと修行しなくてはいけない。もっと修行しなくてはいけない。もっと修行しなくてはいけない。
老化で体の無理が利かなくなったのなら、せめてテーマの追求は、しっかり行うべきではないか。
そう考え、テーマを深く追及できる場を探して、思い至りました。六地蔵が、良いかも知れない。
六地蔵。言うまでもなく、六地蔵めぐりの起点 = 大善寺の愛称がそのまま地名となったエリアです。
平安遷都前から奈良/宇治/近江/北陸の交通の要衝であり、隣の木幡と共に怪異譚も多く産出。
秀吉伏見城築城のため巨椋池宇治川改造した後は河港となり、宿場の歴史も持つ地です。
高い親水性ゆえ伏見の東口&水陸交通の接点として賑わう一方、高い親水性ゆえ水害もまた多発し、
山科川が暴れた際には地蔵めぐりの起点を担い得る程の彼我の境界ぶりを誇ったという、六地蔵。
しかし高度成長期も過ぎた頃になって治水が完了すると、ガラ空きの土地で都市化が一気に進行し、
宅地が増えて道が増え新しい駅地下鉄も生まれ、そのためさらに開発は進んで、人口は増加。
21世紀以降は新たな形で交通の要衝と化し、近年では特にマンションの建設ラッシュが加熱してます。
そう、現在の京都に於いて最も現在進行形の境界を体現してるのが、六地蔵エリアなのです。
その六地蔵で今回、Kyoto FUERTE 宇治六地蔵なる、昭和な民家を用いた民泊に泊まりました。
宿と民家の境界で見える境界が如何なるものか、じっくり向き合おうと思います。

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宮津の三上勘兵衛本店を借り切って聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2021年12月24日(金)


宮津の三上勘兵衛本店をひとりで借り切って過ごすクリスマス、前篇に続き後篇です。

丹後は、「海の京都」 という枠には収まり切らないエリアではないかと、たまに考えます。
当然と言えば、当然の話でしょう。ここはそもそも、大和と異なる王権の存在さえ想定される地。
平安京などが出来るずっと前より、海を介して交流を広げ、豊かな文化を築いて来たのです。
また、時代をずっと下って近世以降に話を限ってもなお、丹後は大きな広がりを持つ地と言えます。
西回り航路北前船の登場は、日本海沿岸を始め日本各地の交易範囲を劇的に拡大させましたが、
丹後に於いても久美浜・間人・由良などがこの恩恵を受けて、港町として大きな発展を果たしました。
無論、宮津も同様です。ので、和貴宮神社の玉垣にも 「播州」 「讃岐」 の名が並んでたわけです。
三上家を始めとする宮津の豪商も、海運の隆盛期には北海道~大阪を行き交う商船を所有・運用し、
丹後の品の輸出に留まらず各地の物品も売買するなど、地方廻船の枠を超える活動を展開しました。
全国区としての丹後。そんな考え方も、可能かも知れません。そういえば言葉も少し標準語的だし。
この辺を考えると、京都と丹後との距離感自体も、今と違ってたのではないかと思えてきます。
物理的な直線距離は、昔も今も京都は他都市より丹後に近いです。でも海路ならどうか、と。
西回り航路は、西日本を大きく迂回するルートでありながら、安全性で各地の 「距離」 を縮めました。
この西回り航路で丹後から物資を運ぶ場合、京都はそれこそ、播州や讃岐よりも遠くなるわけです。
そんな環境で交易を行った近世後期の丹後の人々は、京都をどのような目で見てたのでしょうか。
そして、現在の丹後が 「海の京都」 と呼ばれてるのを彼等が見たら、どのように感じるのでしょうか。
我々は、海運の身体知のようなものを通じて、丹後や宮津を考え直す必要があるのかも知れません。
お籠もりモードで敢行した今回の宮津投宿では、何故かこんな思念がよく頭の中に湧きました。
籠もってたため、人と話したりあちこち丁寧に見て回ったりはしてません。海も、ロクに見てません。
でも逆に、昔の船人が風待で籠もった際に感じただろう宮津は、幻視出来た気がするというか。
三上勘兵衛本店での聖夜、後篇も籠もったり抜けたりしながら、宮津を感じて行きます。

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宮津の三上勘兵衛本店を借り切って聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2021年12月24日(金)


宮津の三上勘兵衛本店を借り切って聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

クリスマスイブの単独宿泊。当サイトではそんな聖夜企画を、開設時からやってきました。
激安宿宿坊町家遊郭跡ラブホへの投宿や、温泉宿でのぼたん鍋爆食などを繰り返し、
2016年からは観光バブルの動向も見据えるべく、都市部で増殖した簡易宿も立て続けに特攻。
冬至祭としてのクリスマスにも注目し、「境界」 なるテーマも掲げて、企画を延々と続けて来ました。
しかしそんな楽しい聖夜企画も、2020年には途絶に至ります。理由は、言うまでもありません。
全く自慢になりませんが、私は小心者なので、聖夜企画に留まらずサイトの更新さえ中断しました。
が、状況が落ち着き始めた途端、私の中で 「どっか行きたい」 という思いも沸き始めたのです。
どっか行きたい。でも、怖い。でも、どっか行きたい。でも、怖い。でも、行きたい。でも、怖い。と。
この煩悩ループを止めるには、どこか遠くへ赴き、そこで籠もりっきりになる以外ないでしょう。
籠もらなければならないのです。2021年に聖夜企画をやるなら、籠もらなければならないのです。
常に己の内へと籠もり、己を見つめ、見つめ飽きてる独男も、籠もらなければならないのです。
そう考えて私は、今回、宮津への投宿を決めました。宮津の三上勘兵衛本店への投宿を決めました。
宮津。京都府宮津市、旧宮津町エリア。最も簡単な説明は、やはり 「天橋立の隣」 なんでしょうか。
天橋立&籠神社を擁する府中が古代より栄えたのに対して、宮津は戦国期の宮津城築城が魁の地。
江戸期には宮津城の城下町として発展する一方、西回り航路の開拓により北前船の寄港地となり、
全国の港湾都市と交易を繰り広げることで三上家などの豪商も生むに至った、文字通りの港町です。
そんな宮津が何故籠もるのに相応しいかと言えば、京都府の北部にあって割と遠いから。
海が近くて魚も美味いから、旅情は充分味わえそうだし。でも、天橋立ほどは人もいないだろうし。
天橋立では難しい埋立を江戸期から進めており、その新地には花街跡もあったりするので、楽しいし。
運良く、近年に貸切宿となった三上家本店の予約も取れました。これはもう、行くしかありません。
胃袋以外の全ての器官をクローズドにする覚悟と共に、私は冬の宮津へ向かったのです。

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2020年への年越しを、寺町通を歩きながら除夜の鐘を聴くだけで迎えました。もちろん、ひとりで。

2020年1月1日(水)


2020年への年越しを、寺町通で除夜の鐘を聴くだけで迎えました。もちろん、ひとりで。

年越しは、ある意味、 「境界」 と言い得ます。というか、 「境界」 以外の何物でもありません。
古き年の死と、新しき年の再生。何なら、 「境界」 の魔力が最高潮となる瞬間とも言えるでしょう。
自虐という表皮の下で、 「境界」 との対峙なるテーマをアカデミックに追求してきた当サイトとしては、
この 「境界」 もまた探求の必要ありと考え、2018年には大霊苑・東山浄苑での年越しを決行しました。
生と死の 「境界」 の極致たる霊苑への訪問。そしてその訪問を、敢えて昼間に済ますという、洒脱。
「真冬の夜に出かけるの、いい加減キツい。なので、昼に済ませた」 わけでは全くないこの荒行で、
当サイトは、道化の皮を被った当サイトらしいやり方で 「境界」 の探求を深めることが出来たのです。
この訪問に続く形で 「境界」 としての年越しを探求するにあたり、私は寺町通に目を付けました。
寺町通。言うまでもなく、長いアーケードが築かれた、京都で最も有名な繁華街のひとつであります。
が、秀吉による寺院集積が名の由来たる通でもあり、そもそも平安京の東端であった通でもあります。
洛中と洛外を隔てる 「境界」 の鴨川に沿い、あらゆる意味でその影響を受けてきた、寺町通。
近世に入り、鴨川の東側が発展した後も、寺の集積によって死と生の 「境界」 たり得てきた、寺町通。
その 「境界」 性に導かれて遊興・芸能が集まるようになり、現代にまで続く遊興地となった、寺町通。
年越しという巨大な 「境界」 と向き合うに際し、ある意味、これほど相応しい場所はないでしょう。
そう考えた私は今回、寺町通に響く除夜の鐘を聴きながら、2020年の年越しを過ごすことにしました。
綺羅星の如く並ぶ寺々から響く鐘の音。その音へ耳を澄まし、 「境界」 と向き合おうとしたのです。
無論、自分で鐘を衝いたりはしません。2019年と同様、偽りの主体性へ乗りかかる暇はありません。
聴覚を通じて精神を研ぎ澄ませ、音像の彼方に顕れる英知と悟りを、魂の眼で見届けてきたのでした。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトであるために必要な挑戦なのです。
決して、大晦日が悪天だったので、アーケードのある道を特攻先に選んだわけでは、ありません。
断じて、立ち止まって音を聴くのさえダルいので、歩くだけで済ませたわけでも、ありません。

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SAKURA TERRACE THE ATELIERで聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

2019年12月24日(火)


SAKURA TERRACE THE ATELIERで聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

メリークリスマス!! 当サイト恒例クリスマス単独お泊まり企画、2019年度版です。
当初は 「独男にとって精神的外圧が最も高まる聖夜の孤高な聖戦」 として始まった、当企画。
初期こそネタ全開で安宿宿坊に投宿してましたが、やがて企画に 「境界」 というテーマが浮上し、
「四堺」 を押さえる形で遊廓跡元ラブホといったアジール性の高い宿へ泊まるようになりました。
そうこうしてるうちに、インバウンド爆増によって洛中のど真中こそ魔宿が林立する魔界と化したため、
此地も新たな 「境界」 と認定し、増殖しまくった民泊町家一棟貸しゲストハウスなどにも特攻。
エリア的にもメジャー中のメジャーなエリアばかり選び、熾烈な市街戦を繰り広げて来たのでした。
で、今回の2019年度版も、この市街戦シリーズの続きとなります。戦場は、京都駅の南です。
人様の住む街を 「そうだ」 呼ばわれして観光地扱いする邪鬼が、大挙して降り立つ魔口・京都駅
当然、この邪鬼が落とす金を目当てにして、近年は様々な宿泊施設もまた林立するようになりました。
中でも、開発・発展・変貌が顕著に進んだのは、駅の南側に展開している東九条エリアでしょう。
観光バブル勃発以前は、コリアンタウンが拡がることで有名なエリアでしたが、その周囲に宿が林立。
大型ホテルが次々と建つと共に、民泊もそこら中に湧き、様々な問題も側聞するようになってます。
此処もまた、新たな 「境界」 に違いない。そう考え、東九条に泊まってみようと思ったのです。
投宿したのは、SAKURA TERRACE THE ATELIER。最近増えてる、おしゃれ系の安宿であります。
九条河原町の角に聳えるSAKURA TERRACE本店や、やたらゴージャスなTHE GALLERYなど、
姉妹店がこの界隈でインパクトを放ってるSAKURA TERRACEですが、中でもTHE ATELIERは最安。
といってもドミトリーではなく、狭いながらも一応個室宿であり、おしゃれ感は下手すると最も高め。
「安普請をデコで胡麻化してるんだろ」 という心の声さえ黙らせたら、かなり良さげな宿となってます。
ので、泊まりました。でもなるべく狭くない方をと、何故か取れた2段ベッドの部屋を取りました。
そして実際に泊まったら、妙に快適で、市街戦とかをすっかり忘れてしまったのです。

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綾部の大本本部・梅松苑へ夜の紅葉を観に行きました。もちろん、ひとりで。

2019年11月17日(日)


綾部の大本本部・梅松苑へ夜の紅葉を観に行きました。もちろん、ひとりで。

大本聖師・出口王仁三郎親父さんは、園部・船岡生まれなんだそうですよ。
「違う。本当の父親は●●●●●●だ。統の血を引く御落胤だ」 という話もなくはないですが、
とりあえず戸籍上では、船岡の紺屋に生まれた親父さんが、穴太の上田家に婿入りしたんだとか。
「違う。全ては渡辺ウメノの謀略だ。そして薩摩ワンワールド勢力が」 という話もなくはないですが、
とりあえず戸籍上では、王仁三郎は船岡にルーツを持つ人物と言えるかも知れないわけです。
ちょくちょく書いてることですが、私の親も船岡生まれ。私自身も、本籍地は今も船岡に置いたまま。
なので、大本に感じる妙な親近感はこうした所から生じてるのかと、思わないでもありません。
京都・丹波が生んだ新宗教の老舗、大本。当サイトでも、節分大祭七草粥で訪れてきました。
そしてそれらの記事の中で、 「大本に隣人のような印象を抱いてる」 といったことを書いてきました。
信仰はもちろんないし、教義もよくわからんし、都市伝説系の四方山話にもあまり興味はないですが、
若き日の王仁三郎の逸話などには、古い親戚に感じた丹波的な何かを感じたりするのです。
無論それは、妙な距離感と薄い関心量が生む勝手な感慨、幻覚の郷愁みたいなものに過ぎません。
しかしそれでも、こんな雰囲気を感じる大本へ偶に出向くことは、私には楽しいことではあるのです。
そういえば、開祖・出口なおの父方・桐村も、ルーツは桐ノ庄らしいし。桐ノ庄は、船岡の隣だし。
そんな大本、綾部・亀岡に聖地を持ちますが、綾部の本部・梅松苑は特に広く、紅葉も豊富。
綾部もみじまつりとして、近所・山家のもみじまつりと共に無料ライトアップも数日やってたりします。
となれば、集客&折伏全開かと思ったりしますが、七草粥や節分大祭と同様、これが全然なし。
実際行ってみると、無料が大好きな凡人が集まる、単なる紅葉タダ見大会みたいになってました。
実に気前が良く、おおらかな雰囲気が漂っており、その辺が丹波的というか、王仁三郎的というか。
「こういうのも、やらんとあかんで」 という王仁三郎の声が、聞こえてきそうな紅葉だったのです。
私が感じた、ほっこりするようなしないような雰囲気、是非とも感じてみて下さい。

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夕日ヶ浦木津温泉へ夕日を観に行きました。もちろん、ひとりで。

2019年9月19日(木)


夕日ヶ浦木津温泉へ夕日を観に行きました。もちろん、ひとりで。

観光資源の濫掘を経た今もなお、京都は何故か、夕焼けスポットがあまりありません。
夕焼け自体がないわけでは、無論ないのです。この街も、夕日に染まることは多々あります。
夕日を背にした東寺・五重塔なんかは、京都のド定番ビジュアル or アイコンとさえ言い得るでしょう。
では、その東寺が見える場所が夕焼けスポットとして有名 or 人気かといえば、そうでもありません。
夕日を見れる場所全般についても、この街で人気を呼んでる話は、あまり聞いたことがありません。
これは一体、何故なのか。その理由は、京都が未来を感じさせない街だからだと、私は考えます。
細かく言うと、日没 or 夕日が死と同時に約束する未来を、この街は感じさせないからだと、考えます。
今日の喪失が、より豊かな明日を運んでくる。そんな、期待。というか、確信。あるいは、担保。
スクラップ・アンド・ビルドの高度成長期が、同時に 「夕日の時代」 としてもイメージされてるように、
あるいは、死の領域へ近接する遊戯に熱を上げるのが、概ね発情した若者ばかりであるように、
死や喪失が醸し出す切なさを楽しめるのは常に、未来に期待・確信・担保を持つ若き存在だけです。
そして、そんな期待・確信・担保は、京都にはありません。今までも、今後も、きっとありません。
ひたすら衰え、失い、無様になり続ける街。踏ん張るも、踏ん張れず、自ら斜陽を体現し続ける街。
そんな街に、夕日は似合わないのです。似合うのに必要な明日が、絶望的に欠けてるのです。
しかし、こうした京都の夕焼け事情も、府域にまで目線を広げた場合には、話が全然変わってきます。
未来どころか不死 or 来世の伝説が溢れまくる日本海側の丹後は、夕日スポットが特に目白押し。
夕日ヶ浦木津温泉、という名前の温泉街さえ、実在してたりします。これはもう、行くしかありません。
というわけで私は今回、そんな夕日ヶ浦へ赴き、未来と来世について思念を巡らせてみたのでした。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトであるために必要な挑戦なのです。
決して、超遅めの夏休みが出来たので、日帰りながら海へお出かけしたわけではありません。
断じて、夕日は実はついでで、メインはあくまで遊びと温泉だったわけでもありません。

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五山送り火の鳥居形を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

2019年8月16日(金)


五山送り火の鳥居形を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

五山送り火5ヵ年計画、本当に5年で完結することになってしまいました。
お盆に際し現世へ召喚された精霊 aka おしょらいさんを、冥界へ送還する万灯籠の習俗が、
大規模化した末に闇夜のページェントを現出させるに至った、京都の夏の風物詩たる五山送り火
そんな送り火の五山コンプを何度も何度も阿呆丸出しで挑むも、全てに失敗して深く深く反省した後、
「5年かけて、1年に一山ずつ観る」 べく2015年に発動したのが、当サイトの五山送り火5ヵ年計画。
初年度は代名詞たる大文字を、2016年は超豪雨の中で妙法を、2017年は六斎と共に船形万燈籠を、
そして2018年は左大文字を真近で拝み、そして今回、ラストの鳥居形に臨むこととなったのです。
そう、なったのです。なってしまったのです。なると思ってなかったのに、なってしまったのです。
発動した頃は正直、完結するなんて思ってませんでした。絶対に、途中で放棄すると思ってました。
何故なら、所詮は火を観るだけだから。 「人多い」 や 「暑過ぎ」 くらいのことしか言いようがないから。
「火を担う人の想い」 とか 「火に託す人の想い」 とか言って、他人の人生に乗っかるのではなく、
徹底して単にうろつく見物人の分を弁え、その立場を遵守する場合、面白味が発生しようがないから。
歴史をあれこれ言って逃げを打とうにも、そもそも送り火の歴史はよくわかってないから出来ないし。
だから、トンズラすると思ってました。が、完結するのです。完結へ私を導いたのは、惰性です。
「例年通り」 という京都の慣用句が示す、惰性の魔力。あるいは、拘束力。もっと言うなら、呪力。
都市に於ける日常が本質的に永遠でも普遍でもないことを知悉するがゆえに希求される、そんな力。
その希求は無論、ある種の祈りでもあります。後ろめたい真実を背後に含んだ、祈りでもあります。
送り火を観続ける中で私も、京都そのものとも言い得るそんな惰性に、いつしか囚われてたようです。
いや、真に祈りの場たる送り火ゆえ、見物人にも何らかの魔力が作用したと考えるべきでしょうか。
魔力により 「面倒臭い9割+残り無意識」 と魂がゾンビ化した私は、完結の感慨も特になく、
鳥居形が灯される嵯峨嵐山へと今回も 「例年通り」 出かけたのでした。

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向日神社へ旧暦タイムの夏越祓の茅の輪をくぐりに行きました。もちろん、ひとりで。

2019年7月31日(水)


向日神社へ旧暦タイムの夏越祓の茅の輪をくぐりに行きました。もちろん、ひとりで。

旧暦のタイムテーブルが生き続けてるのは、京都市街に限った話ではありません。
明治以降を全否定するかの如き勢いさえ感じさせる京都の旧暦の生き残りぶりは、確かに、
本来の正月 = 節分での異常な盛り上がりを筆頭として、当サイトでも何度かお伝えしてきた通り。
とはいえ、当然ながら京都以外の人もまた千年以上にわたって旧暦タイムを生きてきたわけであり、
その旧暦タイムの中で育まれてきた伝統行事も、タイミングはそうそう変えられなかったりします。
より季節感にフィットした旧暦タイムで各種行事を行い続ける寺社・地域は、京都以外でも実に多く、
季節感がよりビビットに反映される夏越祓については、7月末に実施する社も少なくありません。
京都・乙訓向日町に建つ向日神社も、そんな旧暦タイムの7月末に夏越祓を行う社のひとつです。
向日神社。 「むかえび」 でなく、日向の逆だからといって 「がひゅう」 でもない、むこうじんじゃ。
嵐山の辺から南東へ続く丘陵の先+古墳でもある向日山で、奈良時代に創建された古社であります。
プレ平安京たる長岡京はこの社を取り込むように造営され、平安遷都後も朝廷より崇敬を獲得。
近世以降は国学者の六人部是香を輩出し、本殿が明治神宮の元ネタになったことでも、有名でしょう。
一方で、中世には土一揆の会合の場となり、戦国時代以降には西国街道沿いに門前町を形成。
古社ゆえのロイヤルなる由緒&縁と、京郊ならではのアーシーなテイストを併せ持つ社なわけです。
そんな向日神社の旧暦の夏越は、ロイヤルでアーシーなものかといえば、そうでもありません。
市制施行から何十年経っても門前町の呼称が生き続ける向日町は、同時に宅地化が急激に進展。
高度成長期に至るまで宅地は増え続け、人口密度は京都市さえブチ抜いて府最高となりました。
いわば、ベタベタのベッドタウンです。旧暦どころか明治さえ踏み潰すような、昭和丸出しの町です。
なので向日神社の旧暦夏越も、徹底的に生活感爆裂路線かといえば、これまた違うんですよね。
生活者が多いからこそ生き続けるナチュラルな信仰と、この社独特のロケーションが相まり、
季節感にフィットした伝統を良い雰囲気で体感できる、そんな夏越だったのでした。

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夏越祓の茅の輪を求めて山科をうろつきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2019年6月30日(日)


夏越祓の茅の輪めぐり@山科盆地・山裾、前篇に続いて後篇です。

子供の頃の私にとって、山科は、何だかとてもカオスな街に見えたものでした。
カオスな人達が住んでる街に見えたわけではありません。街の作りがカオスに見えたのです。
狭くて曲がりくねった道。見通しの利かない交差点、そこへ密集して建て込む家家家家家家家家。
さらには、生活するためだけに住む人が密集して住むことから生じる、濃過ぎるほどの生活感。
地元・八幡や、見慣れた京都市街とは異なるそんな景観を、親戚の家を訪れる際に車の窓から見て、
「こんな町、絶対に車で走りたくない」 と思うと同時に、わけのわからん異様さを感じたものでした。
車の普及をギリギリ想定し切れなかった頃の荒っぽい開発によって急激に都市化された山科が、
昭和の人口爆増&車爆増を経て、今もあちこちで渋滞を生む街となったのは、御存知の通り。
私が住む八幡はもうちょっと開発が後であり、京都市街は密住してても街が遥かに整然としてるため、
昭和丸出しの無秩序な増殖によって仕上がった山科のルックが、とても異様に見えたわけですね。
ただこの印象、今回の茅の輪めぐりを経て、理由は他にもあると思えるようになりました。
近隣の生活者にとって山科は、それこそ単に人口が増え過ぎたベッドタウンでしかないわけですが、
めぐりをすると、この街がとても芳醇な歴史&自然&オーラを持つエリアであることが、体感できます。
「知ることができた」 とかではなくて、体感です。山裾部の緑から得られる、生々しい体感です。
もっと厳密にいうなら、無秩序な排気ガスで汚された緑から得られる、霊気の生々しい体感です。
人間がいるからこそ成立する、神々しい自然。単なる自然ではそもそもありえない、神々しい自然。
そんな、逆説か順説かよくわからん本質みたいなものが、生々しい形で溢れてるように思えるのです。
そしてこの生々しさは、私が子供の頃感じた山科のカオスな印象に、不思議と似てたのでした。
人間と神と自然と車がカオスに密住しまくる山科での、雨に濡れながらの夏越祓の茅の輪めぐり、
後篇では、生々しい神と自然へもうちょっと寄った感じで、盆地山裾の社をめぐって行きます。
私が山科に感じたカオスの正体は、雨の彼方から姿を現してくれるでしょうか。

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平安神宮へ京都薪能を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2019年6月1日(土)


平安神宮へ京都薪能を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

平安神宮には、普段は有料の神苑に無料で入れる日が、年に2日設定されてきました。
ひとつは、6月の4日頃。もうひとつは、9月の17日頃。共に、神苑の入苑料がタダになるわけです。
タダになる理由は、言うまでもないでしょう。6月も、9月も、観光客が少なくなるシーズンだから。
6月は、行事があまりなくて、蒸し暑いだけの季節。9月も、行事があまりなくて、蒸し暑いだけの季節。
通振りたい観光客に青もみじを押し売りしても、生理的苦痛を忘れさせるまでには至らないのか、
あるいはやはり単に雨が多いからなのか、とにかく今ひとつ盛り上がりに欠ける時期ではあります。
ので、タダ日があると。修学旅行生が6月に多いのも、その辺の事情が関係してるんでしょうか。
では、毎年6月に行われる薪能が、タダ日と同じ目的で始まったのかといえば、それはわかりません。
元ネタたる奈良・興福寺薪能と同じく、宗教的理由とかを持つ可能性も、充分あるとは思います。
が、地味な6月の京都にて最大の規模を誇る催事となってるのは、紛れもない事実ではあるでしょう。
薪能。正式名称、京都薪能。昭和25年より開始された、平安神宮にて開催される能公演です。
だだっ広い境内に特設舞台と客席を設け、日暮れ頃から薪を焚きながら展開されるのが、この公演。
1日&2日に開くことで梅雨の雨を避け、また雨天でも隣の京都会館が会場化出来ることがあって、
祇園祭がまだまだ遠い6月に彩を添える催事としてすっかり定着し、現在に至るまで継続されてます。
つまりこの薪能、明らかに大メジャーな行事です。が、当サイトでは今までスルーしてきました。
理由は、私が能に興味がないから。加えて、興味がない者にはチケットが高価過ぎると思えるから。
無論、興味がなくてもメジャー案件であれば、うちでは特攻をやってきました。をどりや、川床とか。
でも、少なくともをどりには、舞妓さんがいる。川床では、料理が食える。でも薪能には、どっちもない。
あるのは、眠い声と鼓の音。あとは、普段よく行く岡崎の雑音。行く気、しません。避けてました。
が、当サイトの趣旨はあくまでメジャーどころの単独特攻。これ以上、逃げることは許されません。
ので、行ってきました。高い金払って興味のないものを、夜どころか昼から観てきました。

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稲荷祭の氏子祭を、8年にわたって観続けました。もちろん、ひとりで。 【3】 宮入

2019年4月28日(日)


稲荷祭、 【1】 【2】 に続き、いよいよラストの 【3】 でございます。

中世までの稲荷祭は、それこそ祇園祭とも並ぶような、華美で絢爛な祭だったようです。
平安末期の 『明衝往来』 によると、貴賤の人々は七条大路に桟敷を設けて祭の行列を見物し、
行列の先頭を行く馬長もその見物に足るべく、家十軒分に相当する派手な衣装を纏ったといいます。
この華美を支えたのは無論、東市から続く七条の富裕商人。13世紀頃も、羽振りは良かったとか。
また 『新猿楽記』 によると、御旅所では呪師・傀儡子・唐術・輪鼓・独相撲といった芸が繰り広げられ、
さらに室町時代の 『東寺執行日記』 によれば、数十の山鉾まで出現し、巡行も行ったそうです。
正に、中世の祇園祭について言われるような風流の世界が、稲荷祭でも展開されてたわけですね。
しかしそんな風流な稲荷祭も、応仁の乱で一旦ストップ。再開は、実に300年も後の江戸中期。
江戸期はそれでもまだ山車などが出てたそうですが、現代に入るとそうした風流要素も概ねストップ。
現在の稲荷祭は多分、かつての稲荷祭とはかなり違う祭として、再構築&継続されてるのでしょう。
が、私はそんな現在の稲荷祭が、良い雰囲気の祭に思えます。好きな雰囲気の祭に思えます。
隣の松尾祭のように、アーシーなノリと神々しさが同時に爆裂するようなテイストではありませんが、
擦れた街の空気&景観と、農耕神・稲荷来訪神として招くアーシーさが同時にある辺が、好きです。
何より、両方の要素のバランスが絶妙であり、その絶妙さに京都らしさを感じなくもありません。
何度も書いてますが、私は丹波人の親を持つ都合で、京都の最古の記憶が京都駅だったりします。
で、数十年前の京都駅周辺を見て感じた何かを、稲荷祭を観ると今でも感じたりするんですよ。
単に昭和な景観が残り気味という話かも知れませんが、そんな景観もこの8年でかなり変わりました。
しかし、祭の雰囲気は変わりません。この雰囲気は、土地の匂い的なものかも、と思ったりします。
そして、風流爆裂だった時代の人々も案外、この祭に同じ匂いを感じてたのかも、と思ったりします。
『明衝往来』 も、稲荷祭では神の立派さと心情の愉快さを同時に得れた、とか言ってるらしいし。
そんな稲荷祭を8年観続けた記事、ラストはいよいよ、宮入です。ひたすらに、宮入です。

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2019年への年越しを、妙心寺で除夜の鐘を聴くだけで迎えました。もちろん、ひとりで。

2019年1月1日(火)


2019年への年越しを、妙心寺で除夜の鐘を聴くだけで迎えました。もちろん、ひとりで。

聴くということ。耳を澄ませること、と言い換えても構いません。とにかく、聴くということ。
難しいことです。ネットの普及以降、視覚ばかり偏重される昨今では、なかなか難しいことです。
「見る暴力」 を行使する自由&権利が、ゼロ年代をまんま引き摺るような形で延々とデフレを続け、
愚鈍な視線が溢れ返ると共に、内省能力を喪失したイワシの如き民を大量発生させた、10年代。
イワシを見て 「やっとネットが漁場化した」 と考えた代理店は、社員を殺しながら民の家畜化を進め、
民は民で小さな画面の中へ認識を収束し、外部を負の感情の便所と見做すようになった、10年代。
見るということは、果てしなく安くなりました。大きな代償を支払うことで、果てしなく安くなりました。
この腐ったディケイドの最終年を迎えるに際し、私は、視覚偏重の風潮に異を唱えたくなったのです。
野蛮に見つめるのではなく、黙って聴くということ。むしろ、音 or 静寂から見つめ返されるということ。
聴覚の復権です。それはつまり、内省の復権です。この復権が今、必要であると思えるのです。
そう考えた私は、2019年の年越しを、妙心寺にて除夜の鐘を聴いて迎えることにしました。
妙心寺。言うまでもなく、臨済宗妙心寺派の大本山であり、禅寺の中の禅寺と言える大寺です。
京都・花園の巨大な境内は全域が禅テイストでまとめられ、質実&ストイックな精神世界を具現化。
また、国宝の梵鐘も持ち、そのレプリカで除夜の鐘も実施。で、この鐘が、参拝者は撞けないのです。
見るだけの無力さを痛感する前に偽りの主体性を得んと、鐘撞き体験へ走るイワシの愚さを排し、
耳を澄ませることで真の内省を促し、真のイニシエーションとしての年越しも成立させる、この姿勢。
正に、禅です。正に、己の内面と向き合う、禅ならではのスタンスです。正に、禅寺の中の禅寺です。
なので私も、真夜中の妙心寺で鐘の音に耳を澄ませ、聴くということに向き合ってみたのでした。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトである為に必要な挑戦なのです。
決して、並んだりせずに簡単に年越しネタを成立させたい一心で出かけたのでは、ありません。
断じて、単に写真が殆ど真暗になったから聴覚がどうとかゴネてるのでも、ありません。

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ゲストハウスイン清水三年坂で聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2018年12月24日(月)


ゲストハウスイン清水三年坂で過ごす聖夜、前篇に続き後篇です。

「坂」 が、ある種の 「境界」 的な性質を孕む領域であることは、広く知られています。
物理的に外界との 「堺」 を築く山、そこへと向かう 「坂」 。自ずと、 「境界」 的になるわけですね。
山に囲まれた街・京都では、この傾向がより顕著です。清水・産寧坂も無論、例外ではありません。
そもそも産寧坂の別称・三年坂は、 「転ぶと三年以内に死ぬ」 という伝説から付いたとされるもの。
また、大日堂などの清水寺・境外塔頭は、かつてこの辺まで広がってた葬地・鳥辺野の名残とか。
「死」 が周囲に転がる、彼岸ゲートたる 「境界」 。その 「境界」 が引き寄せる、ある種のアジール性。
そんな産寧坂の 「境界」 性、水上勉に拠ると、昭和初期の頃までは残ってたようです。

産寧坂は、どうして、あんなに急で、人通りもまばらだったのだろう。両側は二階建てのしもた屋がな
らんでいた。急石段をのぼりながら、家々の戸口を見ると、どこも格子戸を固くしめて、提灯をつるして
いるのだった。いまは、この右側は、竹細工屋、餅屋、喫茶店など、とびとびにあって、観光客の男女
も、手をつないで出入りし、坂を登ってゆくが、昔は、ここの石段にへたりこんで、頭をさげては布施を
乞う乞食が大ぜいいた。
(水上勉 『私版京都図絵』 「東山二条 産寧坂」 )

では現在、この坂の 「境界」 性が全て脱臭されたのかといえば、そうでもありません。
国籍人種問わずベタな観光客が集う現在の産寧坂の様は、正にアジール or 魔界そのものでしょう。
それにそもそも 「産」 もまた、ある種の 「境界」 。無から有へと転じる、紛れもない 「境界」 です。
「死」 と 「生」 の 「境界」 としての、清水。生命がスクラップ・アンド・ビルドされる場としての、清水。
ベタに塗れるほど聖性を増す清水のタフな魅力の根源は、案外そんな所にあるのかも知れません。
というわけで、そんな清水に建つ 「境界」 宿・ゲストハウスイン清水三年坂での聖夜、後篇です。
後篇は、嘘と本当、現実と妄想、そして夜と朝の 「境界」 などを、見つめていきます。

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ゲストハウスイン清水三年坂で聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2018年12月24日(月)


ゲストハウスイン清水三年坂で聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

メリークリスマス!! 『ひとりでうろつく京都』 恒例の聖夜企画、2018年度版です。
独男にとって精神的外圧が最も高まるクリスマスに決行されてきた、当サイトのひとり宿泊企画
初期こそネタ全開で激安宿寺の宿坊に投宿するも、やがて 「境界」 性がテーマとして浮上し、
長屋宿遊廓転業旅館元ラブホ街道の温泉と、平安京の 「四堺」 を押さえる形で転戦を展開。
さらに2016年以降は、インバウンド爆増で一気に魔界化した都心部の 「境界」 にも向き合うべく、
増殖しまくってる民泊の宿や、増殖しまくってる町家一棟貸しの宿でも、市街戦を繰り広げてきました。
で、そんな激戦を経る中で私は、やはりゲストハウスを押さえるべき、と思うようになったのです。
ゲストハウス。 「単なる家+雑魚寝」 というスタイルで安価を実現し、一気に爆増した、ゲストハウス。
爆増し過ぎて、最近は減少さえ始まった、ゲストハウス。正に、都心の 「境界」 宿の本丸でしょう。
しかし、当サイトでは正直、避けてました。何故なら、私はドミトリーが嫌だから。雑魚寝が嫌だから。
でも、押さえねば。と思ってたら、そんな私に最適な宿が現われました。ゲストハウスインです。
ゲストハウスの簡易さと、イン = 宿のホスピタリティを併せ持つという、宿ブランド・ゲストハウスイン。
公式サイトの写真でさえ部屋は単なるマンション全開状態なくらい、簡易さ加減は爆裂してますが、
でも、京都の宿泊状況のリアルを、個を尊びつつ体験するには、ぴったりとしか言いようがありません。
で、今回泊まってみたのです。しかも、数ある施設の中で、清水三年坂に泊まってみたのです。
ゲストハウスイン清水三年坂は、京都観光の本丸中の本丸である清水・産寧坂の、すぐ近くにある宿。
にも関わらず、施設はしっかり、マンション丸出し。というか、マンション以外の何物でもない状態。
パソコンまであるため、自部屋感あり過ぎ+旅情なさ過ぎではありますが、便利なのは間違いなし。
色んな意味で、京都の宿泊の 「今」 を、そして 「境界」 の 「今」 を、表す宿とは言えるでしょう。
そんな宿へ、 「境界」 性が高まる聖夜に泊まり、京都観光の新たな 「境界」 を見つめてみました。
日常と非日常の 「境界」 加減も濃い場所で、私はどんな 「今」 を見るのでしょうか。

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笠置山もみじ公園のもみじライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2018年11月18日(日)


笠置山もみじ公園のもみじライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

笠置といえば、何といってもまず、笠置山です。そして、そこに建つ笠置寺です。
大友皇子が再訪時の目印として巨岩に笠を置いたことから、その名が付いたという、笠置山。
標高こそ289mながら、至る所に巨岩が露出するその姿から、古より信仰を集めてきた霊峰であり、
また無論、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒した元弘の乱に於いて、挙兵地となった山でもあります。
で、そんな笠置山に鎮座するのが、大友皇子が掘らせたという磨崖仏を本尊とする、笠置寺。
平安期は天皇や藤原氏からの信仰を獲得し、鎌倉期は戒律の復興者たる貞慶を得て隆盛を誇り、
また仏教伝来前の巨石&山岳信仰も含め、生々しい信仰の息吹を今に伝える名刹であります。
共に、笠置へ訪れた際は、必ず出向かわなければならない地です。スルーは、断じて許されません。
が、この3か月前に花火を観に笠置を訪れた際、私は笠置山登頂&笠置寺参拝を、忌避しました。
理由は、登るのが面倒臭かったから。徒歩で登るには、参道の坂がとんでもなくきつかったから。
当日は真夏+激暑で、絶対に汗だくになると思ったから。車がないと絶対に無理と思ったから。
いや、仮に車があって登れても、あの日は花火の超大混雑で、笠置から多分出れなかったから。
といったわけで、結局は花火の反響音に山の存在を感じただけで、この地をトンズラしたのでした。
いけません。歴史の重みと浅薄な享楽を常に体感的に併せ飲む当サイトが、これでは、いけません。
何より、山が私を呼んでるのが、聞こえる。笠置山が、私を呼んでる。笠置寺が、私を呼んでる。
あの背後霊みたいな磨崖仏が、南の彼方から 「挨拶はないのか」 と私を呼んでるのが、聞こえる。
と、霊が高まったので、気温が下がった秋、私は笠置山へ改めて挨拶しに行くことにしました。
笠置山、霊峰としても名高いですが、春は桜、そして秋は紅葉の名所として有名だったりします。
おまけに、紅葉が集結する山中のもみじ公園は、11月の夜間にライトアップも実施。いい感じです。
ので、霊気が高まる夜に、紅葉が色づく笠置山へ赴いてみました。今度は、自力で登山して。
磨崖仏だって、拝んだに決まってるのです。拝んでなければ、おかしいのです。

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亀岡祭の宵山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2018年10月24日(水)


亀岡祭の宵山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

祇園祭・宵山には、独特の気配、はっきり言えば 「死」 の気配が漂ってると感じます。
『京都思想逍遥』 では 「滅び」 と表現してましたが、私が感じるのは寧ろギラついた 「死」 です。
無論そんな 「死」 は、露店&大混雑で覆い隠されてます。が、ちょっとした隅とかに、すぐ現れます。
比較的人が少なめとなる後祭・宵山が復活した後は、さらにあちこちで感じられるようになりました。
「単に辺りが暗いから、そう思うだけだ」 と思われるかもしれませんが、ちょっと違うんですよね。
「祭は元来、そういうものだ。カーニバルだ」 とも思われるかもしれませんが、ちょっと違うんですよね。
街が背負う祭の重責が、異様な気配を生んでるというか。しかも、それが千年分重なってるというか。
千年分重なった愛着・憎悪・恐怖・徒労などが、濃厚に混ざり、ギラつく暗黒色を生じてるというか。
で、そんな暗黒色から沸き立つ 「死」 の気配こそが、チャラい混雑も引き寄せてる気がするというか。
妄想や思い込みが甚だしい上、全く誰も得しない話で恐縮ではありますが、あなたどう思いますか。
祇園祭・宵山へのこの印象、実は、逆説的に裏付けてくれた祭があります。亀岡祭です。
丹波の最南端にある亀岡の地を、巨大な鍬を以て切り開いたという伝説を持つ鍬山神社の例祭が、
明智光秀による亀山城築城を経て、江戸期には城下町の祭として規模を拡大するに至った、亀岡祭。
城下町の町衆達は多彩な練り物を出し始め、祇園祭の影響を受けまくった10数基の山鉾も出現。
リアル京都に至近なこともあって、本物顔負けの豪華な山鉾が城下を練り歩くようにまでなりました。
城が消滅した明治以降は衰退しますが、平成に入ると復興の気運が上昇し、山鉾も立て続けに復活。
最近では全鉾による山鉾巡行も行われ、 「口丹波の祇園祭」 の名を確固たるものにしてます。
そんな亀岡祭、巡行前夜には宵山も開催。で、この宵山が、本家と似てるようで、違うんですよね。
残りまくる城下町が、祇園祭以上に祇園祭的に映える一方、全く違う何かも見せてくれるんですよね。
「死」 や暗黒が渦巻くことなく、ひたすら大らかに、そして美しく、山鉾が寿がれてるんですよね。
そんな亀岡祭の宵山、夢コスモス園でコスモスを見た帰り、のんびり歩いてみました。

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五山送り火の左大文字を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

2018年8月16日(木)


五山送り火の左大文字を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

五山送り火の火というのは、通常は、火元から割と離れた場所で眺めるもんです。
一般的には、大文字山のあの感じこそが、送り火で連想される距離感、ではないでしょうか。
北大路の辺から大文字を観る、あの感じ。闇の中に 「大」 の字が浮かぶ、あの感じ。みたいな。
確かに、あの風情 or 美は、火元から距離をとらないと、得られません。離れるわけですね。
風情 or 美の濫獲に走らず、真摯に信仰行事として五山送り火を考える場合も、事情は割と同じ。
お盆に現世へ里帰りした精霊 aka おしょらいさんを、あの世へ送り返すのが、あの火の本来の役目。
精霊は、火に近付いて祈れば祈るほどスムーズに帰れるわけでもないでしょう。離れるわけですね。
そんなこんなで、多くの人は通常、火元から割と離れた場所で、送り火を眺めるわけであります。
しかし、風情も美もおしょらいさんも関係なく送り火を追ってる当サイトとしては、事情はまた、別です。
「一晩で五山コンプ」 という愚行に何度も何度も挑むも、それら全てが失敗に終わり猛省した後、
「5年かけ、1年に一山ずつ観る」 と決め2015年より発動された、当サイトの五山送り火5ヵ年計画
初年度は大文字を、2016年は妙法を、そして2017年は船形万燈籠を、それぞれ拝んできました。
が、そうやって何度も何度も火を観るうちに私は、もっと近くで火を観たい、と思うようになったのです。
送り火当日に於ける送り火実施山への部外者の入山 or 侵入は、無論、固く禁止されています。
何せ基本は、宗教行事。 「大」 を 「犬」 にするような類の輩の闖入は、厳に戒められるべきでしょう。
けど、近くで観たい。で、この欲求を満たせる場所は、実はなくもありません。それが、左大文字です。
その名の通り、送り火のキービジュアル 「大」 を、大文字山の逆側で浮き上がらせる、左大文字。
金閣寺に近いため、駐車場から 「大」 のベースを目にした方も、多いんじゃないでしょうか。
あのベースの距離感が示すように、ここの送り火は、近い。望遠なら、焚く人が見える程、近い。
つまり、火そのものを、熟視出来るのです。想いが託される火の真実を、熟視出来るのです。
で、5ヵ年計画4年目の今回は、そんな左大文字で、火ばかりを見つめてみました。

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笠置夏まつり花火大会へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2018年8月4日(土)


笠置夏まつり花火大会へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

笠置町。京都府で高齢化や人口減の話になると、必ずその名が上がる自治体です。
巨岩が並ぶ霊地であり、元弘の乱で後醍醐帝行幸した、笠置山。その笠置山を擁する、笠置。
擁するというか、町域の8割がこの山地などで占められるため、此地の主産業は無論、林業でした。
町を東西に流れる木津川上流を物流ルートとして、古くより奈良・京都へ木材を供給しており、
奈良・東大寺興福寺杣山や、また我がホーム・石清水八幡宮の神領&杣があった歴史もあり。
しかしそれゆえ、林業が衰退した現代に入ると、他に産業がないこの町の人口は減少し始めます。
やむなく観光に活路を見出した笠置町は、元弘の乱ゆかりの観光地として笠置山をアピールし、
後醍醐持ち上げ+足利逆賊の戦前では結構盛り上がりましたが、人民主権の戦後に入ると下火化。
高度成長期以降は、レジャーの多様化+街から半端に遠いことが災いして、さらに人気が下降。
現在は、 「出生数ゼロ」 「高齢化率50%」 などの話題で、京都新聞を賑わす地となってるわけです。
では、笠置町がひたすら過疎全開でゴーストタウンな町かといえば、そうでもありません。
傍目には血税を盗まれてるようにしか見えないですが、移住・定住推進の情宣なども、色々と展開。
また、キャンプ場カヌーといった木津川を活かしたレジャーは、凄く盛ん。イベントも、色々開催。
私は出かける度、割と賑やかな所に見えました。同様の印象を持つ方も、多いのではないでしょうか。
町が山間で狭いため、すぐ人口密度が上がるだけとも言えますが、賑やかに見えるんですよね。
もちろんその印象は、定住者の数とは全然関係がない話ですが、とにかく頑張ってる町であります。
そんな笠置町の最大のイベントともいえるのが、毎年8月上旬に行われる夏まつりの花火大会です。
木津川で1800発を打ち上げるこの花火、 「8割が山地」 という場所のため、音が反響しまくり。
規模こそやや小ぶりではあるものの、他所では体感不能の爆音サラウンド状態を現出させてます。
また、そもそも狭い+人少ない所へ客が密集するため、混雑が超々激化するのも、ある種の味。
そんな笠置の花火、混雑が超々々々激化した関西線に乗って、出向いてみました。

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