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豊臣秀吉が死の直前に観たかも知れない名月を、伏見へ観に行きました。もちろん、ひとりで。

2024年9月17日(火)


豊臣秀吉が死の直前に観たかも知れない名月を、伏見へ観に行きました。もちろん、ひとりで。

豊臣秀吉が死んだのは、1598年8月18日です。死んだ場所は、伏見城です。
日付はもちろん、旧暦。ですので、中秋の名月 = 旧暦8月15日に近いことになります。
つまり秀吉は、伏見城内で中秋の名月を観てから数日後に死んだ、と言えるかも知れません。
月を愛し、此地の月を観るため指月城を築き、地震で潰れるとすぐ伏見城を建てた、秀吉。
「さらしなや 雄島の月も よそならん ただ伏見江の 秋の夕ぐれ」 なる歌も詠んだ、秀吉。
死の前は体も頭もボロボロだったらしいので、観る元気が残っていたかどうかはわかりません。
ただ単純に日付だけで考えると、満月前後の月を観て逝った可能性は充分あります。
というか、むしろ名月に呼ばれるように世を去った、そんな気さえするのです。
当サイトは先々月以来、御香宮高台寺と秀吉へフォーカスする記事を続けて展開してきました。
1番の理由は命日が近いからで、2番の理由はこれまで秀吉ネタを全くやって来なかったからですが、
何で今まで秀吉ネタをやってなかったのかと言えば、私が秀吉に興味も知識もなかったからです。
では、記事作成を通じて興味と知識が増したかと言えば、特にそんなこともなかったりするのですが、
ただ、以前から無知&門外漢なりに感じていたことを、改めてしみじみと感じるようにはなりました。
それは、この人はおかしいということ。 「おかしい人」 というより、存在がおかしいということ。
存在が、歪。時空が、変。 「月から来た人」 とでも言われた方が、まだしっくり来るかも。と。
そう思ったので、今回、 「月の人」 としての秀吉の最期を検証してみようと思うのです。
秀吉が末期の眼で眺めた月を同じ条件で観るべく、中秋の名月の夜、伏見へと趣いてみよう。
月を観る場所は、その名もずばりな観月橋、すぐに潰れたけどやはりその名もずばりな指月城跡、
秀吉が没した伏見城の跡地である桃山丘陵、あと伏見城を模した伏見桃山城キャッスルランド跡。
執念や体臭に続き、死という人間の有様に肉薄することで生身の秀吉にフォーカスしてみよう。
そして、そこから逆に、 「月の人」 としての異常性を浮かび上がらせようと思うのです。

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豊臣秀吉の命日に、高台寺の百鬼夜行展・夏の夜間特別拝観へ行きました。もちろん、ひとりで。

2024年8月18日(日)


豊臣秀吉の命日に、高台寺の百鬼夜行展・夏の夜間特別拝観へ行きました。もちろん、ひとりで。

豊臣秀吉の体臭。それは果たして、いかなるものだったのでしょうか。
一般的かつ世俗的なイメージから類推するなら、臭そうです。 「はげねずみ」 的、みたいな。
ゾンビのくさやにチーズを乗せて、しばらく腐らせた上に、悪趣味極まる香水をかけたような。
ひどいですか。なら、歯槽膿漏の野犬が魚食った口から飛ばした歯糞をパンに塗った感じとか。
とにかく、過剰に人間臭い何かと過剰に人間離れした何かが混ざった異臭を連想せざるを得ません。
秀吉が京都に建てた城郭の異常なまでの徹底破壊も、この異臭の存在を想定すれば然もありなん。
屍臭まで嗅がされた家康が 「何か臭い」 とか言って再建した伏見城まで潰したりとか。わはは。
あっ、下らない話だと思われたでしょうか。確かにこれは下らない話です。間違いなく下らない話です。
ただ秀吉を考える際、とりわけ京都との関係に於いて秀吉を考える際、不可欠な視座だと考えます。
疑いなく京都を改造した、秀吉。その痕跡が現代も濃密に残存するほど徹底的に改造した、秀吉。
にも関わらず、京都をめぐる言説に於いて秀吉の存在は、過度なまでに意識されることがありません。
「京都という町を形成した者」 を考える際、皇族以外でまず名が挙がるのは近世の町衆でしょうが、
長方形の地割御土居などを新設することで、その基盤を秀吉が構築したことも、間違いありません。
なのに、常に削除されがちな秀吉。 「はげねずみ」 だからなのか何なのか、削除されがちな秀吉。
これは、いけません。京都という都市を考えるなら、 「はげねずみ」 にこそ対峙する必要があります。
そして 「はげねずみ」 的なるものを検証するには、体臭からのアプローチこそ有効だと思えるのです。
秀吉に関するこの思い、高台寺の夏の夜間特別拝観へ今回出かけたことで新たにしました。
高台寺秀吉の妻・ねね縁の寺で、夏の夜間特別拝観は秀吉の命日 = 8月18日にちなむ企画です。
和風テーマパーク第1号なライトアップに加え、お盆で妖怪だらけな百鬼夜行展も楽しめる催しです。
あくまで普通の催しで、秀吉の体臭匂い玉とか屍臭の再現とかがあるのかといえば、もちろん否。
なのですが、にも関わらず、この特別拝観で私は、体臭の確かさこそを再確認したのでした。

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夏越祓の茅の輪を求めて旧・巨椋池南岸をうろつきました。もちろん、ひとりで。

2024年6月30日(日)


夏越祓の茅の輪を求めて旧・巨椋池南岸をうろつきました。もちろん、ひとりで。

干拓された巨椋池を、巨大な境界として考えてみる。というのは、どうでしょうか。
陸と水、あるいは存在と不在。過去と現在、または現実と幻影。それらの境界という線です。
最初にこう考えたのは、大山崎山荘美術館の訪問記事谷崎潤一郎 『蘆刈』 に触れた時でした。
「山城と摂津のくにざかい」 の大山崎を訪れ、桂川宇治川の合流点にある州へ渡った谷崎は、
謎の男に出会って、巨椋池の畔で暮らす夢のような女性 「お遊さん」 の話を聞かされたのでした。
この短編の発表は、巨椋池の干拓開始直前の昭和7年。色々と 「境界」 を感じたわけです。
実際の巨椋池は、かつて京都府南部の久御山町を中心として存在した、湖のように巨大な池であり、
桂川/宇治川/木津川が流入する不定形の遊水池として、洪水調整機能を長く果たしてきました。
淀川と直結しているため平安遷都の遙か前から舟の往来が盛んであり、淡水漁業ももちろん盛ん。
小島を望むその光景は貴族からも愛され、池の北畔は別荘が並ぶ景勝地であったとも言われます。
しかし古代以来のその姿は、秀吉伏見城築城に際して宇治川の流路を変えたことで、激変。
流入する水が減って水質は悪化。近代にはさらに減って蚊害も悪化。結果、干拓に至りました。
干拓の背景には食糧増産という戦時事情も存在したため、現在も池の跡地はその大半が農地です。
一方、京都の中心部では建設が困難な高速道路も池の跡地なら好き放題の作りまくり状態であり、
その高速が生む交通の利便性と豊富過ぎる土地と水を活かすべく、工場も多数誘致されています。
現代建築と農地の雑な共存。ある意味、これこそ現在の巨椋池跡の典型的な光景かも知れません。
この境界的な土地柄、当サイトが続ける 「境界」 なるテーマの探求にぴったりではないか。
当サイトは、阿呆極まる京都単独徘徊の背後に 「境界」 という高踏極まる裏テーマを掲げており、
神社を徒歩で巡り茅の輪をくぐりまくる水無月の外道企画でさえ、このテーマを追求してきました。
地理的にも歴史的にも 「境界」 である巨椋池は、このテーマの探求にぴったりではないか。
そう考えて今回、池跡で神社を巡ってみました。茅の輪には出会えるでしょうか。

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快活CLUB京都南インター店で聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2023年12月24日(日)


快活CLUB京都南インター店で聖夜、前篇からの続きです。

もちろん南インターは、わざわざ草津湊の場所を選んで作られたのではありません。
戦後に至るまで一帯はほぼ単なる農地だったため、土地の取得が比較的容易だからであり、
間違っても 「この地こそ、現代京都の陸の港に相応しい」 などと考えられたわけではないでしょう。
そもそも名神高速は名古屋と大阪・神戸とを結ぶ高速道路であり、ゆえに京都は一通過点に過ぎず、
北側へ大きく迂回して京都の中心部をわざわざ通るようなルートは可能な限り避けたいわけです。
おまけにこの街は山に包まれた天然要塞都市で、特に東山の貫通には大トンネルが欠かせません。
無論、洛中中心部の土地取得も困難を極め、実質的には解決不能の課題として屹立しています。
こうした要因から近代以降の高速交通は基本、京都市中心部の貫通を避け続けてきました。
国家の威信を賭けた省線・東海道線は流石に旧市街のほぼ最南端たる八条まで踏み込みましたが、
明治期には東山の貫通が叶わず、さらに南の稲荷山を南へ回り込む線形を余儀なくされています。
この南×南回りの東海道線旧線跡こそ、実は名神の山科~京都区間建設で転用された土地。
その西の稲荷山西麓~竹田一帯は旧軍用地でガラ空き、さらにその西の草津湊跡地周辺は農地、
また草津湊の地では整備済みのR1と接続できるため、此処に南インターが出来たのも当然でしょう。
しかし、それでも、当サイトとしては南インターと草津湊の縁を妄想せずにはいられません。
天然要塞都市として千年を生きる中で育まれたのであろう、京都という都市そのものが孕む生理。
それは即ち、全方位を山で完全包囲されているわけではなく、南側はすっぽり壁が抜けている地形と、
南へ向かって標高が下がるため全ての水が南側へ流れる地形が醸成した、身体レベルの偏見。
そういったものが今なお京都を拘束し、結果として南インターは草津湊の場所に出来たのではないか。
そして、未来に新たな交通システムが出現しても、その港はやはり此処に置かれるのではないか。
車のライトとラブホの照明が輝く南インターを見ていると、ふとそんなことを思ったりします。
・・・という出鱈目な戯言は置いといて、南インターの聖夜、インター詣でから続きです。

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快活CLUB京都南インター店で聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2023年12月24日(日)


快活CLUB京都南インター店で聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

メリークリスマス!!地獄のクリスマス単独お泊まりネタ、2023年版でございます。
といっても近年はネタ切れ感が著しく、コロナで色んなことが色んなことにもなったため、
中断したり日和ったり、あるいは単に酒呑んで寝てたりと不調気味ではありました。
そんな中、苦し紛れや悪あがきを続けながらも掴み始めたのが、 「港」 というキーワードです。
2021年に訪れたのは、海の京都の名勝・天橋立に近い門前都市として海運が大いに栄えた、宮津
2022年に訪れたのは、巨椋池の畔にて交通の要衝を一時担い、木幡関連の伝承も豊かな、六地蔵
共に、かつて栄えた後に衰退した歴史を持ち、そして現在は別の意味で変化が著しい場所でもあり、
「港」 という物理的境界の側面と、歴史の変化という時間的境界の側面を、併せ持っています。
当サイトが裏テーマとして掲げる 「境界」 の追求としても 「港」 は実に相応しい探訪先となるでしょう。
となれば、続く2023年もやはり 「港」 をテーマと定めて聖夜を過ごす場所を選ばねばなりません。
が、誠に遺憾ながら海の京都方面へ遠征する時間も金も、今の私にはありません。では、どうしよう。
そこで思いついたのが、南インターです。名神高速道路の、京都南インターチェンジです。
南インターが立つ京都市南部エリアの鳥羽一帯は、鴨川と桂川の合流点であるため水の利が良く、
鳥羽 aka 草津湊 aka 横大路として、淀川経由で瀬戸内海へ直結する舟運の港を長く担っていました。
また、この利便性を活かして、平安末期から中世にかけては鳥羽離宮が営まれた地でもあります。
そして何より、現在は高速のICとして現代京都の 「陸の港」 となっているのも、此地の面白いところ。
おかげで近辺にはラブホが偉い勢いで林立しており、境界ならではのアジール感も事欠きません。
正に此処は過去/現在の境界であり、同時に日常/非日常の境界でもあるのです。実に素晴らしい。
高速爆走で生死の境界を跨いだ後にラブホへ単独特攻するような真似は流石にもう出来ませんが、
上手い具合に、南インターの近くにはネットカフェ・快活クラブ南インター店が立ってます。
そこで今回はこのネカフェに投宿して、現代の京都の 「港」 を徘徊してみたのです。

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酔心京都駅前店で松茸と秋鱧を楽しみました。もちろん、ひとりで。

2023年9月21日(木)


酔心京都駅前店で松茸と秋鱧を楽しみました。もちろん、ひとりで。

「駅前でその土地の名物を、雑に食べたい」 という欲求が、激しく湧くことがあります。
いわゆる名店とかではなく、名店の駅前店とかでもなく、単なる駅前の店で食べたいのです。
それこそ、昭和の頃から一見特化型の観光メニューばかり扱い続けてるような店が、むしろ良い。
18きっぷでどっかの街に途中下車した時などは、この妙な欲求、ことさら激しく湧き上がります。
持ち金が少なく店探すのも面倒だからではあるんですが、きっと理由はそれだけではありません。
大きな声では言えないけど、行きずりの郷土感みたいなものを積極的に味わいたいというか、
「あれこれ言うの、野暮だよ。わかってるよね」 みたいなのを、味わいたくなるのです。
裏暗いと言えば裏暗いこの欲求、観光都市・京都では、満たしてくれる所を案外と見かけません。
単に私が地元の人間だから、そもそも京都にあまり郷土感を感じられないこともあるんですが、
実は京都の側にも、この妙な距離感の郷土感を生じさせない何かがあるような気もしたりします。
観光客相手の店は、もちろん沢山あるわけです。そして、そうでない人向けの店も沢山あるわけです。
が、その間はあまりないという。前者は概ねガッツき過ぎで、後者はそれこそ一見さんお断りという。
「生理現象を持つ匿名的存在」 として通り過ぎることが出来る場所が、この街には割と少ないのです。
昔の鴨川の河原などは、あるいはそんな場所たり得てたのかも知れません。しかし、今は違います。
花街はそんな場所の極致とも言えますが、その一方で顔認証技術がない時代から顔認証空間です。
駅前的な距離感で京都を楽しむのは、難しい。田舎ながらも駅前育ちの私は、そう思ったりします。
ひょっとすると、鉄道が開通する遙か以前に都市が完成し、のみならず没落さえ進行してた京都では、
そもそも 「駅前感」 といったものを漂わせる駅前が結局は生まれ得なかったのかも知れません。
そんな京都に於いて、私が駅前感を感じられる場所を挙げるなら、京都駅前の酔心でしょうか。
酔心京都駅前店。京都のチェーン居酒屋であり、京都駅とも地下で直結してる庶民的な店です。
初秋には、初秋の京都名物・秋鱧&松茸も出してます。ので、雑に食べに行きました。

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祇園祭前祭・宵山のネット中継を四条河原町のネットカフェで観ました。もちろん、ひとりで。

2023年7月16日(日)


祇園祭前祭・宵山のネット中継を四条河原町のネットカフェで観ました。もちろん、ひとりで。

2023年7月16日夜に開催される祇園祭前祭・宵山は、何が何でも観なくてはいけません。
何せ、コロナによる休止/規制が完全に解除されるのです。見逃すわけには行かないでしょう。
現場は、暑いけど。言うと余計に暑くなるけど、だからって黙ってると発狂しそうなくらい、暑いけど。
人も多いし。多いというか、余りに多過ぎて生暖かい肉の海で遭難してる気分になるくらいだし。
コロナ明けで密集したがる輩とかも、多そうだしな。そういう輩に近寄られるの、ちょっとあれだしな。
どうしよう、と懸念も湧きはします。しかし、宵山の復活です。見逃すわけには行かないでしょう。
宵山。特に前祭の宵山。京都で最も多くの人を集める祭・祇園祭で、最も多くの人を集める行事です。
クライマックスたる山鉾巡行の前夜祭として行われてきた 「宵夜飾り」 が現代に入ると大化けに化け、
さらには昭和の道路拡張+歩行者天国化+山鉾巡行一本化で異常なまでに規模が拡大した、宵山。
後祭復活後も、16日の前祭・宵山は弩級の混雑が続いてることは、当サイトでもお伝えした通りです。
もちろん、こうした混雑を冷笑したいのではありません。 「やれやれ」 とか言いたいのではありません。
単なる観光でもなく、単なる信仰でもなく、単なる商売でもなく、単なる生活でもなく、言わばその全て。
そんな無茶苦茶な混淆、人が人であるが故に生じるカオスこそが当サイトが探求する 「京都」 であり、
前祭・宵山である7月16日の夜は、この 「京都」 が最大規模で四条通に現出する夜であると言えます。
そしてその宵山が、コロナ禍による休止や規制などの苦難を経て、遂に規制なしで開催されるのです。
正に、数年を経ての復活です。こんな機会は、もう二度と目撃出来ないかも知れません。
仮にも 「京都」 をめぐるサイトをやってる者であれば、絶対に見逃すわけには行かないでしょう。
現場は、暑いけど。言うと余計に暑くなるけど、だからって黙ってると発狂しそうなくらい、暑いけど。
人も多いし。多いというか、余りに多過ぎて生暖かい肉の海で遭難してる気分になるくらいだし。
コロナ明けで密集したがる輩とかも、多そうだしな。そういう輩に近寄られるの、ちょっとあれだしな。
どうしよう。絶対に見逃すわけには行かないけど、どうしよう。あ、そうだ。ネットの中継で観よう。

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夏越祓の茅の輪を求めて木津川市をうろつきました。もちろん、ひとりで。

2023年6月30日(金)


夏越祓の茅の輪を求めて木津川市をうろつきました。もちろん、ひとりで。

夏越祓茅の輪くぐりまくりの舞台として、前から木津川市は気になり続けてました。
木津川市。京都府の最南端に位置し、むしろ隣接する奈良市との縁の方が深いエリアです。
「木津」 という地名が示す通り、元々は木材の津 = 河川港があることで知られた町であり、
その木材を運ぶ水運ハイウェイ = 木津川の近くに広がる旧木津町を中心として、栄えてきました。
木材の搬送先は隣の奈良が当然多く、そもそも平城京の外港として町が出来たとも言われるほどで、
その辺を考えれば、この町は京都以上に長く深い歴史を持つ町と言えるのかも知れません。
では、南都と縁が深いこの木津川市が何ゆえに夏越企画の舞台として気になり続けてたかと言えば、
正に奈良/京都の境界という地理が、夏越が孕む境界性とシンクロすると考えたからです。
当サイトは、境界というテーマにこだわり、こだわる中で1年を半分に分かつ夏越の境界性にも注目し、
祇園祭/稲荷祭の境界たる松原通にて水無月を食いまくるといった荒行などもしてきました。
そして、このテーマをさらに深く追究するには、本当の境界の地へ赴くべきと思うようになったのです。
都合の良いことに木津川市は、平城京レベルの古い歴史を持つがゆえに渋き古寺や古社が多く、
京都~木津の港~奈良を結ぶ奈良街道の周辺も、特に良さげな社が沢山存在してます。
また、奈良街道周辺の旧市街からやや離れた辺では宅地開発や道路建設が異常なほど活発で、
ある意味で町全体が過去/未来の境界と言える景観を生み出してるのも、味わい深かったりします。
この木津川市で茅の輪めぐりをしたら、面白いのではないか。境界の探求にもなるのではないか。
ルートはもちろん、奈良街道を基本で。それも、木津の港から南進して奈良県の境界を目指す形で。
となると、晴天の日は逆光で歩くことになるので、狙うなら悪天の日で。出来たらもう、雨天の日で。
そんなことを、ここ何年か考えてました。そして遂に2023年、企画決行に相応しい天気が訪れました。
この年の夏越の日 = 6月30日は、全く陽が指さない悪天。南進には、これ以上ない気候です。
天佑を感じながら木津川市へ向かい、茅の輪を求めて奈良街道を歩いてみました。

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福知山の食房・和楽で光秀ききょう膳のぼたん小鍋を堪能しました。もちろん、ひとりで。

2023年1月26日(木)


福知山の食房・和楽で光秀ききょう膳のぼたん小鍋を堪能しました。もちろん、ひとりで。

福知山に雪が積もってる様を目にするたびに、心の何処かで意外さを感じたりします。
当サイトでは福知山を何度か訪れており、考えてみれば雪との遭遇率はかなり高いんですが、
にも関わらず、雪を見るたびに意外さを感じ、後で思い返す時でさえ意外に思ったりします。
同じ福知山市内でも、鬼の里の大江などに雪が積もることには特に意外性も違和感も感じません。
なのに、福知山駅のホームから街を見た時や駅前へ出た時などに雪を見ると、凄く驚くのです。
雪で白く染まった福知山城も、何度も見てるのに見るたび 「おっ」 とか思ったりします。
この妙な感慨は、何なのか。何から、生じてるのか。出元はきっと、福知山の地理に違いありません。
福知山は、京都府の中ではやや北の方に位置しますが、緯度そのものは逗子・葉山とほぼ同じ。
それでも気候はしっかり日本海側気候寄りであり、雪もしっかり降るんですが、一方で湿気も多め。
この湿気が肌感レベルの寒さを和らげ、底冷えの京都とは異なる空気感を生んでるのも、確かです。
京都府南部の者などは、冬の福知山に来てもその大半が 「思ってたより寒くない」 と思うでしょう。
そしてこの 「寒くない」 という経験が重なれば、今度は福知山の雪をレア視するようになると思います。
そう、福知山の雪に感じる意外さとは、京都府南部の者が抱きがちな錯覚ではないのかな、と。
この錯覚、鉄道/車を問わず訪福する者の多くが丹波を通過することも、かなり重要になる思います。
分水嶺たる丹波の最高海抜は、約200m。鉄道だと楽に通過してしまいますが、割と高めでしょう。
対して福知山駅の周辺の海抜は10m台と低めであり、この高低差も温度感には影響してるはずです。
そもそも京都市中心部でも、京都駅周辺の海抜は30m前後であり、それに比べても福知山は低め。
だから、福知山で雪を見ると意外に感じる。レアに感じる。少しだけ、お宝感も感じる。そんな感じ。
それがどうしたという話ではありますが、でもこれが、地理を体感するということなのかも知れません。
そんな雪の福知山で、ぼたん鍋企画、決行です。和知でぼたん鍋食った日の夜に、決行です。
駅近くにぼたん小鍋を出す店があるというので、やってみました。もちろん、温泉も込みで。

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宇治・六地蔵の民泊を借り切って、聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

2022年12月24日(土)


宇治・六地蔵の民泊を借り切って、聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

メリークリスマス!! 当サイト恒例の聖夜宿泊企画、2022年度版でございます。
今回は、宇治市京都市の境界である六地蔵にて、airbnbで見つけた民泊に泊まってみました。
理由は、当企画が本来持つ 「境界」というテーマを、改めてしっかり追及したくなったからです。
前年2021年は丹後・宮津へ赴き、貸切の宿で酒飲んで寿司食って寝て朝もまた美味い魚食って、
あまりに気持ち良く、あまりに最高だったんですが、ゆえに 「境界」 というテーマは雲散霧消しました。
本来この企画は、荒行として行って来たことです。ある意味、己への枷として続けて来たことです。
なのに、なってない。何より、自分の体がなってない方向へ全振りしてる。これでは、だめです。
もっと修行しなくてはいけない。もっと修行しなくてはいけない。もっと修行しなくてはいけない。
老化で体の無理が利かなくなったのなら、せめてテーマの追求は、しっかり行うべきではないか。
そう考え、テーマを深く追及できる場を探して、思い至りました。六地蔵が、良いかも知れない。
六地蔵。言うまでもなく、六地蔵めぐりの起点 = 大善寺の愛称がそのまま地名となったエリアです。
平安遷都前から奈良/宇治/近江/北陸の交通の要衝であり、隣の木幡と共に怪異譚も多く産出。
秀吉伏見城築城のため巨椋池宇治川改造した後は河港となり、宿場の歴史も持つ地です。
高い親水性ゆえ伏見の東口&水陸交通の接点として賑わう一方、高い親水性ゆえ水害もまた多発し、
山科川が暴れた際には地蔵めぐりの起点を担い得る程の彼我の境界ぶりを誇ったという、六地蔵。
しかし高度成長期も過ぎた頃になって治水が完了すると、ガラ空きの土地で都市化が一気に進行し、
宅地が増えて道が増え新しい駅地下鉄も生まれ、そのためさらに開発は進んで、人口は増加。
21世紀以降は新たな形で交通の要衝と化し、近年では特にマンションの建設ラッシュが加熱してます。
そう、現在の京都に於いて最も現在進行形の境界を体現してるのが、六地蔵エリアなのです。
その六地蔵で今回、Kyoto FUERTE 宇治六地蔵なる、昭和な民家を用いた民泊に泊まりました。
宿と民家の境界で見える境界が如何なるものか、じっくり向き合おうと思います。

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宮津の三上勘兵衛本店を借り切って聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2021年12月24日(金)


宮津の三上勘兵衛本店をひとりで借り切って過ごすクリスマス、前篇に続き後篇です。

丹後は、「海の京都」 という枠には収まり切らないエリアではないかと、たまに考えます。
当然と言えば、当然の話でしょう。ここはそもそも、大和と異なる王権の存在さえ想定される地。
平安京などが出来るずっと前より、海を介して交流を広げ、豊かな文化を築いて来たのです。
また、時代をずっと下って近世以降に話を限ってもなお、丹後は大きな広がりを持つ地と言えます。
西回り航路北前船の登場は、日本海沿岸を始め日本各地の交易範囲を劇的に拡大させましたが、
丹後に於いても久美浜・間人・由良などがこの恩恵を受けて、港町として大きな発展を果たしました。
無論、宮津も同様です。ので、和貴宮神社の玉垣にも 「播州」 「讃岐」 の名が並んでたわけです。
三上家を始めとする宮津の豪商も、海運の隆盛期には北海道~大阪を行き交う商船を所有・運用し、
丹後の品の輸出に留まらず各地の物品も売買するなど、地方廻船の枠を超える活動を展開しました。
全国区としての丹後。そんな考え方も、可能かも知れません。そういえば言葉も少し標準語的だし。
この辺を考えると、京都と丹後との距離感自体も、今と違ってたのではないかと思えてきます。
物理的な直線距離は、昔も今も京都は他都市より丹後に近いです。でも海路ならどうか、と。
西回り航路は、西日本を大きく迂回するルートでありながら、安全性で各地の 「距離」 を縮めました。
この西回り航路で丹後から物資を運ぶ場合、京都はそれこそ、播州や讃岐よりも遠くなるわけです。
そんな環境で交易を行った近世後期の丹後の人々は、京都をどのような目で見てたのでしょうか。
そして、現在の丹後が 「海の京都」 と呼ばれてるのを彼等が見たら、どのように感じるのでしょうか。
我々は、海運の身体知のようなものを通じて、丹後や宮津を考え直す必要があるのかも知れません。
お籠もりモードで敢行した今回の宮津投宿では、何故かこんな思念がよく頭の中に湧きました。
籠もってたため、人と話したりあちこち丁寧に見て回ったりはしてません。海も、ロクに見てません。
でも逆に、昔の船人が風待で籠もった際に感じただろう宮津は、幻視出来た気がするというか。
三上勘兵衛本店での聖夜、後篇も籠もったり抜けたりしながら、宮津を感じて行きます。

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宮津の三上勘兵衛本店を借り切って聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2021年12月24日(金)


宮津の三上勘兵衛本店を借り切って聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

クリスマスイブの単独宿泊。当サイトではそんな聖夜企画を、開設時からやってきました。
激安宿宿坊町家遊郭跡ラブホへの投宿や、温泉宿でのぼたん鍋爆食などを繰り返し、
2016年からは観光バブルの動向も見据えるべく、都市部で増殖した簡易宿も立て続けに特攻。
冬至祭としてのクリスマスにも注目し、「境界」 なるテーマも掲げて、企画を延々と続けて来ました。
しかしそんな楽しい聖夜企画も、2020年には途絶に至ります。理由は、言うまでもありません。
全く自慢になりませんが、私は小心者なので、聖夜企画に留まらずサイトの更新さえ中断しました。
が、状況が落ち着き始めた途端、私の中で 「どっか行きたい」 という思いも沸き始めたのです。
どっか行きたい。でも、怖い。でも、どっか行きたい。でも、怖い。でも、行きたい。でも、怖い。と。
この煩悩ループを止めるには、どこか遠くへ赴き、そこで籠もりっきりになる以外ないでしょう。
籠もらなければならないのです。2021年に聖夜企画をやるなら、籠もらなければならないのです。
常に己の内へと籠もり、己を見つめ、見つめ飽きてる独男も、籠もらなければならないのです。
そう考えて私は、今回、宮津への投宿を決めました。宮津の三上勘兵衛本店への投宿を決めました。
宮津。京都府宮津市、旧宮津町エリア。最も簡単な説明は、やはり 「天橋立の隣」 なんでしょうか。
天橋立&籠神社を擁する府中が古代より栄えたのに対して、宮津は戦国期の宮津城築城が魁の地。
江戸期には宮津城の城下町として発展する一方、西回り航路の開拓により北前船の寄港地となり、
全国の港湾都市と交易を繰り広げることで三上家などの豪商も生むに至った、文字通りの港町です。
そんな宮津が何故籠もるのに相応しいかと言えば、京都府の北部にあって割と遠いから。
海が近くて魚も美味いから、旅情は充分味わえそうだし。でも、天橋立ほどは人もいないだろうし。
天橋立では難しい埋立を江戸期から進めており、その新地には花街跡もあったりするので、楽しいし。
運良く、近年に貸切宿となった三上家本店の予約も取れました。これはもう、行くしかありません。
胃袋以外の全ての器官をクローズドにする覚悟と共に、私は冬の宮津へ向かったのです。

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2020年への年越しを、寺町通を歩きながら除夜の鐘を聴くだけで迎えました。もちろん、ひとりで。

2020年1月1日(水)


2020年への年越しを、寺町通で除夜の鐘を聴くだけで迎えました。もちろん、ひとりで。

年越しは、ある意味、 「境界」 と言い得ます。というか、 「境界」 以外の何物でもありません。
古き年の死と、新しき年の再生。何なら、 「境界」 の魔力が最高潮となる瞬間とも言えるでしょう。
自虐という表皮の下で、 「境界」 との対峙なるテーマをアカデミックに追求してきた当サイトとしては、
この 「境界」 もまた探求の必要ありと考え、2018年には大霊苑・東山浄苑での年越しを決行しました。
生と死の 「境界」 の極致たる霊苑への訪問。そしてその訪問を、敢えて昼間に済ますという、洒脱。
「真冬の夜に出かけるの、いい加減キツい。なので、昼に済ませた」 わけでは全くないこの荒行で、
当サイトは、道化の皮を被った当サイトらしいやり方で 「境界」 の探求を深めることが出来たのです。
この訪問に続く形で 「境界」 としての年越しを探求するにあたり、私は寺町通に目を付けました。
寺町通。言うまでもなく、長いアーケードが築かれた、京都で最も有名な繁華街のひとつであります。
が、秀吉による寺院集積が名の由来たる通でもあり、そもそも平安京の東端であった通でもあります。
洛中と洛外を隔てる 「境界」 の鴨川に沿い、あらゆる意味でその影響を受けてきた、寺町通。
近世に入り、鴨川の東側が発展した後も、寺の集積によって死と生の 「境界」 たり得てきた、寺町通。
その 「境界」 性に導かれて遊興・芸能が集まるようになり、現代にまで続く遊興地となった、寺町通。
年越しという巨大な 「境界」 と向き合うに際し、ある意味、これほど相応しい場所はないでしょう。
そう考えた私は今回、寺町通に響く除夜の鐘を聴きながら、2020年の年越しを過ごすことにしました。
綺羅星の如く並ぶ寺々から響く鐘の音。その音へ耳を澄まし、 「境界」 と向き合おうとしたのです。
無論、自分で鐘を衝いたりはしません。2019年と同様、偽りの主体性へ乗りかかる暇はありません。
聴覚を通じて精神を研ぎ澄ませ、音像の彼方に顕れる英知と悟りを、魂の眼で見届けてきたのでした。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトであるために必要な挑戦なのです。
決して、大晦日が悪天だったので、アーケードのある道を特攻先に選んだわけでは、ありません。
断じて、立ち止まって音を聴くのさえダルいので、歩くだけで済ませたわけでも、ありません。

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SAKURA TERRACE THE ATELIERで聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

2019年12月24日(火)


SAKURA TERRACE THE ATELIERで聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

メリークリスマス!! 当サイト恒例クリスマス単独お泊まり企画、2019年度版です。
当初は 「独男にとって精神的外圧が最も高まる聖夜の孤高な聖戦」 として始まった、当企画。
初期こそネタ全開で安宿宿坊に投宿してましたが、やがて企画に 「境界」 というテーマが浮上し、
「四堺」 を押さえる形で遊廓跡元ラブホといったアジール性の高い宿へ泊まるようになりました。
そうこうしてるうちに、インバウンド爆増によって洛中のど真中こそ魔宿が林立する魔界と化したため、
此地も新たな 「境界」 と認定し、増殖しまくった民泊町家一棟貸しゲストハウスなどにも特攻。
エリア的にもメジャー中のメジャーなエリアばかり選び、熾烈な市街戦を繰り広げて来たのでした。
で、今回の2019年度版も、この市街戦シリーズの続きとなります。戦場は、京都駅の南です。
人様の住む街を 「そうだ」 呼ばわれして観光地扱いする邪鬼が、大挙して降り立つ魔口・京都駅
当然、この邪鬼が落とす金を目当てにして、近年は様々な宿泊施設もまた林立するようになりました。
中でも、開発・発展・変貌が顕著に進んだのは、駅の南側に展開している東九条エリアでしょう。
観光バブル勃発以前は、コリアンタウンが拡がることで有名なエリアでしたが、その周囲に宿が林立。
大型ホテルが次々と建つと共に、民泊もそこら中に湧き、様々な問題も側聞するようになってます。
此処もまた、新たな 「境界」 に違いない。そう考え、東九条に泊まってみようと思ったのです。
投宿したのは、SAKURA TERRACE THE ATELIER。最近増えてる、おしゃれ系の安宿であります。
九条河原町の角に聳えるSAKURA TERRACE本店や、やたらゴージャスなTHE GALLERYなど、
姉妹店がこの界隈でインパクトを放ってるSAKURA TERRACEですが、中でもTHE ATELIERは最安。
といってもドミトリーではなく、狭いながらも一応個室宿であり、おしゃれ感は下手すると最も高め。
「安普請をデコで胡麻化してるんだろ」 という心の声さえ黙らせたら、かなり良さげな宿となってます。
ので、泊まりました。でもなるべく狭くない方をと、何故か取れた2段ベッドの部屋を取りました。
そして実際に泊まったら、妙に快適で、市街戦とかをすっかり忘れてしまったのです。

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綾部の大本本部・梅松苑へ夜の紅葉を観に行きました。もちろん、ひとりで。

2019年11月17日(日)


綾部の大本本部・梅松苑へ夜の紅葉を観に行きました。もちろん、ひとりで。

大本聖師・出口王仁三郎親父さんは、園部・船岡生まれなんだそうですよ。
「違う。本当の父親は●●●●●●だ。統の血を引く御落胤だ」 という話もなくはないですが、
とりあえず戸籍上では、船岡の紺屋に生まれた親父さんが、穴太の上田家に婿入りしたんだとか。
「違う。全ては渡辺ウメノの謀略だ。そして薩摩ワンワールド勢力が」 という話もなくはないですが、
とりあえず戸籍上では、王仁三郎は船岡にルーツを持つ人物と言えるかも知れないわけです。
ちょくちょく書いてることですが、私の親も船岡生まれ。私自身も、本籍地は今も船岡に置いたまま。
なので、大本に感じる妙な親近感はこうした所から生じてるのかと、思わないでもありません。
京都・丹波が生んだ新宗教の老舗、大本。当サイトでも、節分大祭七草粥で訪れてきました。
そしてそれらの記事の中で、 「大本に隣人のような印象を抱いてる」 といったことを書いてきました。
信仰はもちろんないし、教義もよくわからんし、都市伝説系の四方山話にもあまり興味はないですが、
若き日の王仁三郎の逸話などには、古い親戚に感じた丹波的な何かを感じたりするのです。
無論それは、妙な距離感と薄い関心量が生む勝手な感慨、幻覚の郷愁みたいなものに過ぎません。
しかしそれでも、こんな雰囲気を感じる大本へ偶に出向くことは、私には楽しいことではあるのです。
そういえば、開祖・出口なおの父方・桐村も、ルーツは桐ノ庄らしいし。桐ノ庄は、船岡の隣だし。
そんな大本、綾部・亀岡に聖地を持ちますが、綾部の本部・梅松苑は特に広く、紅葉も豊富。
綾部もみじまつりとして、近所・山家のもみじまつりと共に無料ライトアップも数日やってたりします。
となれば、集客&折伏全開かと思ったりしますが、七草粥や節分大祭と同様、これが全然なし。
実際行ってみると、無料が大好きな凡人が集まる、単なる紅葉タダ見大会みたいになってました。
実に気前が良く、おおらかな雰囲気が漂っており、その辺が丹波的というか、王仁三郎的というか。
「こういうのも、やらんとあかんで」 という王仁三郎の声が、聞こえてきそうな紅葉だったのです。
私が感じた、ほっこりするようなしないような雰囲気、是非とも感じてみて下さい。

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夕日ヶ浦木津温泉へ夕日を観に行きました。もちろん、ひとりで。

2019年9月19日(木)


夕日ヶ浦木津温泉へ夕日を観に行きました。もちろん、ひとりで。

観光資源の濫掘を経た今もなお、京都は何故か、夕焼けスポットがあまりありません。
夕焼け自体がないわけでは、無論ないのです。この街も、夕日に染まることは多々あります。
夕日を背にした東寺・五重塔なんかは、京都のド定番ビジュアル or アイコンとさえ言い得るでしょう。
では、その東寺が見える場所が夕焼けスポットとして有名 or 人気かといえば、そうでもありません。
夕日を見れる場所全般についても、この街で人気を呼んでる話は、あまり聞いたことがありません。
これは一体、何故なのか。その理由は、京都が未来を感じさせない街だからだと、私は考えます。
細かく言うと、日没 or 夕日が死と同時に約束する未来を、この街は感じさせないからだと、考えます。
今日の喪失が、より豊かな明日を運んでくる。そんな、期待。というか、確信。あるいは、担保。
スクラップ・アンド・ビルドの高度成長期が、同時に 「夕日の時代」 としてもイメージされてるように、
あるいは、死の領域へ近接する遊戯に熱を上げるのが、概ね発情した若者ばかりであるように、
死や喪失が醸し出す切なさを楽しめるのは常に、未来に期待・確信・担保を持つ若き存在だけです。
そして、そんな期待・確信・担保は、京都にはありません。今までも、今後も、きっとありません。
ひたすら衰え、失い、無様になり続ける街。踏ん張るも、踏ん張れず、自ら斜陽を体現し続ける街。
そんな街に、夕日は似合わないのです。似合うのに必要な明日が、絶望的に欠けてるのです。
しかし、こうした京都の夕焼け事情も、府域にまで目線を広げた場合には、話が全然変わってきます。
未来どころか不死 or 来世の伝説が溢れまくる日本海側の丹後は、夕日スポットが特に目白押し。
夕日ヶ浦木津温泉、という名前の温泉街さえ、実在してたりします。これはもう、行くしかありません。
というわけで私は今回、そんな夕日ヶ浦へ赴き、未来と来世について思念を巡らせてみたのでした。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトであるために必要な挑戦なのです。
決して、超遅めの夏休みが出来たので、日帰りながら海へお出かけしたわけではありません。
断じて、夕日は実はついでで、メインはあくまで遊びと温泉だったわけでもありません。

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五山送り火の鳥居形を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

2019年8月16日(金)


五山送り火の鳥居形を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

五山送り火5ヵ年計画、本当に5年で完結することになってしまいました。
お盆に際し現世へ召喚された精霊 aka おしょらいさんを、冥界へ送還する万灯籠の習俗が、
大規模化した末に闇夜のページェントを現出させるに至った、京都の夏の風物詩たる五山送り火
そんな送り火の五山コンプを何度も何度も阿呆丸出しで挑むも、全てに失敗して深く深く反省した後、
「5年かけて、1年に一山ずつ観る」 べく2015年に発動したのが、当サイトの五山送り火5ヵ年計画。
初年度は代名詞たる大文字を、2016年は超豪雨の中で妙法を、2017年は六斎と共に船形万燈籠を、
そして2018年は左大文字を真近で拝み、そして今回、ラストの鳥居形に臨むこととなったのです。
そう、なったのです。なってしまったのです。なると思ってなかったのに、なってしまったのです。
発動した頃は正直、完結するなんて思ってませんでした。絶対に、途中で放棄すると思ってました。
何故なら、所詮は火を観るだけだから。 「人多い」 や 「暑過ぎ」 くらいのことしか言いようがないから。
「火を担う人の想い」 とか 「火に託す人の想い」 とか言って、他人の人生に乗っかるのではなく、
徹底して単にうろつく見物人の分を弁え、その立場を遵守する場合、面白味が発生しようがないから。
歴史をあれこれ言って逃げを打とうにも、そもそも送り火の歴史はよくわかってないから出来ないし。
だから、トンズラすると思ってました。が、完結するのです。完結へ私を導いたのは、惰性です。
「例年通り」 という京都の慣用句が示す、惰性の魔力。あるいは、拘束力。もっと言うなら、呪力。
都市に於ける日常が本質的に永遠でも普遍でもないことを知悉するがゆえに希求される、そんな力。
その希求は無論、ある種の祈りでもあります。後ろめたい真実を背後に含んだ、祈りでもあります。
送り火を観続ける中で私も、京都そのものとも言い得るそんな惰性に、いつしか囚われてたようです。
いや、真に祈りの場たる送り火ゆえ、見物人にも何らかの魔力が作用したと考えるべきでしょうか。
魔力により 「面倒臭い9割+残り無意識」 と魂がゾンビ化した私は、完結の感慨も特になく、
鳥居形が灯される嵯峨嵐山へと今回も 「例年通り」 出かけたのでした。

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向日神社へ旧暦タイムの夏越祓の茅の輪をくぐりに行きました。もちろん、ひとりで。

2019年7月31日(水)


向日神社へ旧暦タイムの夏越祓の茅の輪をくぐりに行きました。もちろん、ひとりで。

旧暦のタイムテーブルが生き続けてるのは、京都市街に限った話ではありません。
明治以降を全否定するかの如き勢いさえ感じさせる京都の旧暦の生き残りぶりは、確かに、
本来の正月 = 節分での異常な盛り上がりを筆頭として、当サイトでも何度かお伝えしてきた通り。
とはいえ、当然ながら京都以外の人もまた千年以上にわたって旧暦タイムを生きてきたわけであり、
その旧暦タイムの中で育まれてきた伝統行事も、タイミングはそうそう変えられなかったりします。
より季節感にフィットした旧暦タイムで各種行事を行い続ける寺社・地域は、京都以外でも実に多く、
季節感がよりビビットに反映される夏越祓については、7月末に実施する社も少なくありません。
京都・乙訓向日町に建つ向日神社も、そんな旧暦タイムの7月末に夏越祓を行う社のひとつです。
向日神社。 「むかえび」 でなく、日向の逆だからといって 「がひゅう」 でもない、むこうじんじゃ。
嵐山の辺から南東へ続く丘陵の先+古墳でもある向日山で、奈良時代に創建された古社であります。
プレ平安京たる長岡京はこの社を取り込むように造営され、平安遷都後も朝廷より崇敬を獲得。
近世以降は国学者の六人部是香を輩出し、本殿が明治神宮の元ネタになったことでも、有名でしょう。
一方で、中世には土一揆の会合の場となり、戦国時代以降には西国街道沿いに門前町を形成。
古社ゆえのロイヤルなる由緒&縁と、京郊ならではのアーシーなテイストを併せ持つ社なわけです。
そんな向日神社の旧暦の夏越は、ロイヤルでアーシーなものかといえば、そうでもありません。
市制施行から何十年経っても門前町の呼称が生き続ける向日町は、同時に宅地化が急激に進展。
高度成長期に至るまで宅地は増え続け、人口密度は京都市さえブチ抜いて府最高となりました。
いわば、ベタベタのベッドタウンです。旧暦どころか明治さえ踏み潰すような、昭和丸出しの町です。
なので向日神社の旧暦夏越も、徹底的に生活感爆裂路線かといえば、これまた違うんですよね。
生活者が多いからこそ生き続けるナチュラルな信仰と、この社独特のロケーションが相まり、
季節感にフィットした伝統を良い雰囲気で体感できる、そんな夏越だったのでした。

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夏越祓の茅の輪を求めて山科をうろつきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2019年6月30日(日)


夏越祓の茅の輪めぐり@山科盆地・山裾、前篇に続いて後篇です。

子供の頃の私にとって、山科は、何だかとてもカオスな街に見えたものでした。
カオスな人達が住んでる街に見えたわけではありません。街の作りがカオスに見えたのです。
狭くて曲がりくねった道。見通しの利かない交差点、そこへ密集して建て込む家家家家家家家家。
さらには、生活するためだけに住む人が密集して住むことから生じる、濃過ぎるほどの生活感。
地元・八幡や、見慣れた京都市街とは異なるそんな景観を、親戚の家を訪れる際に車の窓から見て、
「こんな町、絶対に車で走りたくない」 と思うと同時に、わけのわからん異様さを感じたものでした。
車の普及をギリギリ想定し切れなかった頃の荒っぽい開発によって急激に都市化された山科が、
昭和の人口爆増&車爆増を経て、今もあちこちで渋滞を生む街となったのは、御存知の通り。
私が住む八幡はもうちょっと開発が後であり、京都市街は密住してても街が遥かに整然としてるため、
昭和丸出しの無秩序な増殖によって仕上がった山科のルックが、とても異様に見えたわけですね。
ただこの印象、今回の茅の輪めぐりを経て、理由は他にもあると思えるようになりました。
近隣の生活者にとって山科は、それこそ単に人口が増え過ぎたベッドタウンでしかないわけですが、
めぐりをすると、この街がとても芳醇な歴史&自然&オーラを持つエリアであることが、体感できます。
「知ることができた」 とかではなくて、体感です。山裾部の緑から得られる、生々しい体感です。
もっと厳密にいうなら、無秩序な排気ガスで汚された緑から得られる、霊気の生々しい体感です。
人間がいるからこそ成立する、神々しい自然。単なる自然ではそもそもありえない、神々しい自然。
そんな、逆説か順説かよくわからん本質みたいなものが、生々しい形で溢れてるように思えるのです。
そしてこの生々しさは、私が子供の頃感じた山科のカオスな印象に、不思議と似てたのでした。
人間と神と自然と車がカオスに密住しまくる山科での、雨に濡れながらの夏越祓の茅の輪めぐり、
後篇では、生々しい神と自然へもうちょっと寄った感じで、盆地山裾の社をめぐって行きます。
私が山科に感じたカオスの正体は、雨の彼方から姿を現してくれるでしょうか。

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平安神宮へ京都薪能を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2019年6月1日(土)


平安神宮へ京都薪能を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

平安神宮には、普段は有料の神苑に無料で入れる日が、年に2日設定されてきました。
ひとつは、6月の4日頃。もうひとつは、9月の17日頃。共に、神苑の入苑料がタダになるわけです。
タダになる理由は、言うまでもないでしょう。6月も、9月も、観光客が少なくなるシーズンだから。
6月は、行事があまりなくて、蒸し暑いだけの季節。9月も、行事があまりなくて、蒸し暑いだけの季節。
通振りたい観光客に青もみじを押し売りしても、生理的苦痛を忘れさせるまでには至らないのか、
あるいはやはり単に雨が多いからなのか、とにかく今ひとつ盛り上がりに欠ける時期ではあります。
ので、タダ日があると。修学旅行生が6月に多いのも、その辺の事情が関係してるんでしょうか。
では、毎年6月に行われる薪能が、タダ日と同じ目的で始まったのかといえば、それはわかりません。
元ネタたる奈良・興福寺薪能と同じく、宗教的理由とかを持つ可能性も、充分あるとは思います。
が、地味な6月の京都にて最大の規模を誇る催事となってるのは、紛れもない事実ではあるでしょう。
薪能。正式名称、京都薪能。昭和25年より開始された、平安神宮にて開催される能公演です。
だだっ広い境内に特設舞台と客席を設け、日暮れ頃から薪を焚きながら展開されるのが、この公演。
1日&2日に開くことで梅雨の雨を避け、また雨天でも隣の京都会館が会場化出来ることがあって、
祇園祭がまだまだ遠い6月に彩を添える催事としてすっかり定着し、現在に至るまで継続されてます。
つまりこの薪能、明らかに大メジャーな行事です。が、当サイトでは今までスルーしてきました。
理由は、私が能に興味がないから。加えて、興味がない者にはチケットが高価過ぎると思えるから。
無論、興味がなくてもメジャー案件であれば、うちでは特攻をやってきました。をどりや、川床とか。
でも、少なくともをどりには、舞妓さんがいる。川床では、料理が食える。でも薪能には、どっちもない。
あるのは、眠い声と鼓の音。あとは、普段よく行く岡崎の雑音。行く気、しません。避けてました。
が、当サイトの趣旨はあくまでメジャーどころの単独特攻。これ以上、逃げることは許されません。
ので、行ってきました。高い金払って興味のないものを、夜どころか昼から観てきました。

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