右京区 - ひとりでうろつく京都 (β版)

平岡八幡宮の花の天井・秋の特別拝観へ、9月に行きました。もちろん、ひとりで。

2022年9月26日(月)


平岡八幡宮の花の天井・秋の特別拝観へ、9月に行きました。もちろん、ひとりで。

仏教に於ける供花はそもそも、造花と生花との区別をさほど厳密にしないそうですよ。
大切なのはあくまでも仏を華々しく荘厳することであって、美しければ造花でもいいんだとか。
本来は外来宗教である、仏教。生花の調達が比較的楽な日本とは、話の前提が違うんでしょうか。
石清水八幡宮・石清水祭の供花神饌は、造花を用いる点で特殊だと私は思ってたんですが、
八幡神仏と混淆しまくる神であることを考えれば、むしろ普通なのかも知れません。

花の色は仏界のかざりなり。もし花なからむ時はまさに造れる花を用いるべし『三宝絵詞』

では、京都北西・周山街道沿いに建つ平岡八幡宮本殿天井に描かれた44種の花卉図が、
仏と混淆しまくった八幡神の荘厳を目的とするものなのかと言えば、それは無論不明ではあります。
ただ、石清水八幡宮の近くに長く住み、毎年のように9月15日に供花神饌を拝んでる身からすると、
平岡八幡の眼前に描かれた花々は、黒赤漆を贅沢に用いた本殿をさらに盛り立てる装飾というより、
神仏を荘厳するための供花、あるいは絵で描かれた供花神饌に見えて、仕様がありません。
平岡八幡宮。弘法大師・空海が神護寺の鎮守にすべく宇佐より勧請した、山城国最古の八幡神です。
平安初期、和気清麻呂創建の神願寺を任された空海は、この寺を神護寺へリニューアルし、
神が護もると言うからには護り神が要るだろうということで、和気氏と縁深き八幡神を京都へ初召喚。
御神体とする僧形八幡神像も自ら描き、神護寺の近くにてこの平岡八幡宮を809年に創建します。
その後、平岡八幡宮は興廃・移転を経て1826年、仁孝天皇の命を受けて切妻造様式の本殿を修復。
翌1826年には、画工・綾戸鐘次郎藤原之信によって本殿・内陣に件の花絵が描かれました。
この花絵 = 花の天井、基本的に非公開なんですが、定期的な特別拝観では御開帳。
秋は、9月15日頃に御開帳。そしてこの日は無論、石清水祭の日です。おおおおおおおおお。
供花神饌感を感じた私は、その感を確かめるべく、9月の周山街道を北上したのです。

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五山送り火の鳥居形を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

2019年8月16日(金)


五山送り火の鳥居形を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

五山送り火5ヵ年計画、本当に5年で完結することになってしまいました。
お盆に際し現世へ召喚された精霊 aka おしょらいさんを、冥界へ送還する万灯籠の習俗が、
大規模化した末に闇夜のページェントを現出させるに至った、京都の夏の風物詩たる五山送り火
そんな送り火の五山コンプを何度も何度も阿呆丸出しで挑むも、全てに失敗して深く深く反省した後、
「5年かけて、1年に一山ずつ観る」 べく2015年に発動したのが、当サイトの五山送り火5ヵ年計画。
初年度は代名詞たる大文字を、2016年は超豪雨の中で妙法を、2017年は六斎と共に船形万燈籠を、
そして2018年は左大文字を真近で拝み、そして今回、ラストの鳥居形に臨むこととなったのです。
そう、なったのです。なってしまったのです。なると思ってなかったのに、なってしまったのです。
発動した頃は正直、完結するなんて思ってませんでした。絶対に、途中で放棄すると思ってました。
何故なら、所詮は火を観るだけだから。 「人多い」 や 「暑過ぎ」 くらいのことしか言いようがないから。
「火を担う人の想い」 とか 「火に託す人の想い」 とか言って、他人の人生に乗っかるのではなく、
徹底して単にうろつく見物人の分を弁え、その立場を遵守する場合、面白味が発生しようがないから。
歴史をあれこれ言って逃げを打とうにも、そもそも送り火の歴史はよくわかってないから出来ないし。
だから、トンズラすると思ってました。が、完結するのです。完結へ私を導いたのは、惰性です。
「例年通り」 という京都の慣用句が示す、惰性の魔力。あるいは、拘束力。もっと言うなら、呪力。
都市に於ける日常が本質的に永遠でも普遍でもないことを知悉するがゆえに希求される、そんな力。
その希求は無論、ある種の祈りでもあります。後ろめたい真実を背後に含んだ、祈りでもあります。
送り火を観続ける中で私も、京都そのものとも言い得るそんな惰性に、いつしか囚われてたようです。
いや、真に祈りの場たる送り火ゆえ、見物人にも何らかの魔力が作用したと考えるべきでしょうか。
魔力により 「面倒臭い9割+残り無意識」 と魂がゾンビ化した私は、完結の感慨も特になく、
鳥居形が灯される嵯峨嵐山へと今回も 「例年通り」 出かけたのでした。

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2019年への年越しを、妙心寺で除夜の鐘を聴くだけで迎えました。もちろん、ひとりで。

2019年1月1日(火)


2019年への年越しを、妙心寺で除夜の鐘を聴くだけで迎えました。もちろん、ひとりで。

聴くということ。耳を澄ませること、と言い換えても構いません。とにかく、聴くということ。
難しいことです。ネットの普及以降、視覚ばかり偏重される昨今では、なかなか難しいことです。
「見る暴力」 を行使する自由&権利が、ゼロ年代をまんま引き摺るような形で延々とデフレを続け、
愚鈍な視線が溢れ返ると共に、内省能力を喪失したイワシの如き民を大量発生させた、10年代。
イワシを見て 「やっとネットが漁場化した」 と考えた代理店は、社員を殺しながら民の家畜化を進め、
民は民で小さな画面の中へ認識を収束し、外部を負の感情の便所と見做すようになった、10年代。
見るということは、果てしなく安くなりました。大きな代償を支払うことで、果てしなく安くなりました。
この腐ったディケイドの最終年を迎えるに際し、私は、視覚偏重の風潮に異を唱えたくなったのです。
野蛮に見つめるのではなく、黙って聴くということ。むしろ、音 or 静寂から見つめ返されるということ。
聴覚の復権です。それはつまり、内省の復権です。この復権が今、必要であると思えるのです。
そう考えた私は、2019年の年越しを、妙心寺にて除夜の鐘を聴いて迎えることにしました。
妙心寺。言うまでもなく、臨済宗妙心寺派の大本山であり、禅寺の中の禅寺と言える大寺です。
京都・花園の巨大な境内は全域が禅テイストでまとめられ、質実&ストイックな精神世界を具現化。
また、国宝の梵鐘も持ち、そのレプリカで除夜の鐘も実施。で、この鐘が、参拝者は撞けないのです。
見るだけの無力さを痛感する前に偽りの主体性を得んと、鐘撞き体験へ走るイワシの愚さを排し、
耳を澄ませることで真の内省を促し、真のイニシエーションとしての年越しも成立させる、この姿勢。
正に、禅です。正に、己の内面と向き合う、禅ならではのスタンスです。正に、禅寺の中の禅寺です。
なので私も、真夜中の妙心寺で鐘の音に耳を澄ませ、聴くということに向き合ってみたのでした。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトである為に必要な挑戦なのです。
決して、並んだりせずに簡単に年越しネタを成立させたい一心で出かけたのでは、ありません。
断じて、単に写真が殆ど真暗になったから聴覚がどうとかゴネてるのでも、ありません。

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あらし山 遊月で鱧しゃぶコースと冷奴を楽しんで来ました。もちろん、ひとりで。

2018年8月29日(水)


あらし山 遊月で鱧しゃぶコースを楽しんで来ました。もちろん、ひとりで。

は、秋口にしゃぶしゃぶとかで食った方が、本当は美味い魚ではないだろうか。
そうしみじみ思ったのは、 『ひとりで食べる鱧』 にて、ひとり池田屋事件に臨んだ際のことです。
晩夏に敢行した、完全なネタモードの特攻。実際に落としは、ネタな期待に応えてくれるものでした。
しかし、鱧の小鍋は、違いました。あれは正直、美味かった。汁は辛過ぎたけど、鱧は美味かった。
鱧そのものの質は落としと同じはずなのに、茹でて温かい状態で食うと、段違いに美味かった。
で、しみじみ思ったのです。鱧は、夏らしく冷やして食うより、温食こそが相応しい魚ではないかと。
氷などを添えた落としよりも、鱧しゃぶといった鍋物の方が合う、晩夏以降に向いた魚ではないかと。
もちろん、秋鱧の美味さそのものは、広く知られています。夏ものよりも脂が乗って美味い、的な。
晩夏以降のもの、でなければ梅雨の水を吸った7月前半のものこそ、本当に美味い鱧というわけです。
実に食いたいところですが、当サイトは生憎、本当の美味さを求めるグルメサイトでは、ありません。
求めてるのは、常に京都の表象であり、その表象と現実の間に立ち現れる何かなのです。
ゆえに、鱧はあくまで 「夏の風物詩」 として重要なのであり、味などは二次的な問題に過ぎません。
いくら美味かろうが、鱧を秋に食うわけには、いかんのです。味ばかりを追及してては、いかんのです。
が、それでもやはり、食いたい。川床でもない限り空調はあるんだから、熱い鱧しゃぶ、食いたい。
秋に食ってはいけないのなら、せめて夏の終わりに、特攻とかでなくて落ち着いた感じで、食いたい。
などと思い、3000円台でひとりで鱧しゃぶ食える落ち着いた店を探してたら、ありました。遊月です。
遊月。あらし山 遊月。その名の通り、嵐山・中之島にあって、90年続くという料理店であります。
そう、あの如何にも高価そうな顔して中之島・大堰川右岸沿いに並ぶ料理店の、ひとつであります。
私も店の前は何度も通ってますが、金銭的にもひとり的にも縁なしと、意識野から消してたのでした。
が、ひとりでも予約出来たんですよ。で、鱧しゃぶコースは、税抜なら3000円台だったんですよ。
で、「夏の風物詩」 の別の味わいを楽しむべく、晩夏の嵐山へ出かけたのでした。

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花園・妙心寺北門前の京料理・萬長で、鱧づくし御膳を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

2018年8月10日(金)


京料理・萬長で、鱧づくし御膳を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

禅宗と、。関係がないと言われたら、あまりにも関係がない組み合わせです。
かたや、食さえも厳格に修行化すべく、殺生の一切を排す精進料理を生み出した、仏教思想。
かたや、遠海からでも運搬可能な生命力の塊をザクザクと骨を切って食らう、京都の夏の風物詩
禅の思想をそのままレシピ化した精進料理が、名に反して精を削ぐストイックさを誇るのに対し、
生命力溢れる鱧は、食えば食うほど精つきまくりの夏バテ防止策と、違うにも程があるという話です。
しかし私は、禅宗と鱧の間には何か近いものがある、と感じてます。関係がある、と思ってます。
厳密に言うなら、鱧の調理法には精進料理からの影響が感じられる、と言った方が正確でしょうか。
本当に美味しい鱧の落としを食した時などに感じる、 「技術によって、生魚が作られてる」 という印象。
あの、食材そのものよりも技術こそが 「生」 を生む感じは、精進料理の何かに近いのではないか。
鯰を瓢で得ようと無理を通す禅の心と、夏の京都に 「生魚」 を現出させることは、近いのではないか。
禅と鱧を巡るそんな思念を深めるべく、私は今回、妙心寺北門前の萬長へ赴いたのです。
妙心寺。言うまでもなく、臨済宗妙心寺派の大本山であり、禅寺の中の禅寺と言える大寺であります。
京都・花園の広い境内は、全域が禅テイストでまとめられ、質実&ストイックな精神世界を具現化。
数多の塔頭も擁し、その中の東林院が精進料理を供してるのは、うちの小豆粥記事でも触れた通り。
萬長は、そんな妙心寺の北門のすぐ前にあって、妙心寺と同様に質実な雰囲気を持つ料理店です。
夏は鱧も扱ってて、昼には 「鱧づくし御膳」 も提供。で、今回、これを食べに行ったのであります。
魚肉を食せぬ環境に於いて、それでも何とか肉食の満足を得んとして大きな発達を見た、精進料理。
そんな精進料理の影響を受けて発達した京料理の中で、夏の 「生魚」 を現出させた、鱧料理。
この両者の関係を、大禅刹の目前で 「鱧づくし御膳」 を食いながら哲学的に考えてみたのでした。
断じて、 『ひとりで食べる鱧』 の予算枠・3000円台に合致する店を検索してたら萬長を見つけ、
「鱧づくし御膳」 が税別ジャスト3000円なので行っただけ、なのではありません。

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広隆寺へ紅葉と聖徳太子御火焚祭と宝冠弥勒を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年11月22日(火)


広隆寺へ紅葉と聖徳太子御火焚祭と宝冠弥勒を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

「作りましょう。1日も早く、この仏像たちの町を (怪奇大作戦 『京都買います』 )」 と、
『京都買います』 のヒロイン・美弥子のように秦河勝が切々と語ったかどうかはわかりませんが、
とにかくその河勝が、聖徳太子より美しき仏像を得たことで、太秦・広隆寺の歴史は始まりました。
土木や養蚕などの技術を日本へ持ち込み、平安遷都以前の京都も開発した、渡来氏族・秦氏
その族長的存在であり、現在の太秦の辺を本拠地としながら、聖徳太子にも仕えて活躍した、河勝
側近としての活躍が評価されたのか、太子からは仏像も授かり、それを祀るべく河勝は寺を建立。
それが、広隆寺であります。創建の経緯については諸説ありますが、とにかく広隆寺であります。
太子より授かったとされる弥勒菩薩半跏思惟像 aka 宝冠弥勒は、国宝第1号として無論有名であり、
また本尊・聖徳太子立像は、天皇より贈られた黄櫨染御袍を着せる習わしが、現在に至るも継続。
実に、ロイヤルな寺なのです。由緒もロイヤル、寺宝もロイヤル、古習もロイヤルな寺なのです。
が、実際に行って受ける印象は、そうでもないんですよね。何か、アーシーな感じもあるんですよね。
広隆寺は、先述の 『京都買います』 のOPに登場します。で、割とアイロニカルに描かれてます。
「交通ラッシュ&観光客に晒され、仏像が安心して暮らせない街」 となった京都の象徴、みたいに。
現在も、広隆寺の前はまあ、あんな感じです。実に、 「誰も京都なんか愛してない証拠」 な感じです。
ではそのアーシーさ加減が、ひたすらに興醒めかといえば、これがまたそうでもないんですよね。
ロイヤルさと入り混じることで、他の寺にはあまりない、独特な魅力を生んでたりもするんですよね。
聖徳太子御火焚祭に合わせて、紅葉&仏像&護摩火を一度に見るべく出かけたこの日の広隆寺も、
狂気すら誘う超越的な美を誇る宝冠弥勒と、聖徳太子への信仰を守るアーシーな信者の人達、
そして太子への祈りの火と燃え上がるような紅葉が入り混じる、実に独特な魅力が溢れてました。
「京都」 への 「愛」 とは、何なのか。それ以前にそもそも 「京都」 とは、何処の、誰の、何なのか。
よろしければ、その辺のことも考えたりしながら、秋の日の広隆寺、お楽しみください。

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ロームイルミネーションへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年12月20日(日)


ロームイルミネーションへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

北山ウェディングストリートのクリスマスイルミネーションに、特攻したことがあります。
京都・北山には、そんなストリートがあるんですよ。式場などが集中的に建てられてるという。
で、そこが12月になると、イルミネーションなどを展開するわけです。で、それに特攻したわけです。
無論このサイトの為であり、 「行かねばならぬ」 という義務感の下、無論ひとりで出かけたわけです。
ゴダイゴのスティーブ・フォックスがやたらオーバーに 「わたしは確信しますっ、この二人がっ」 と、
身内の式で絶叫してるのを聞いた教会へも、不審者丸出しの風体で再訪したりしたわけです。
この特攻、やらかしたのはネタ採取を始めた2010年でした。が、現在に至るも記事化はしてません。
何故か。一言で言えば、しょぼかったからです。電飾的にも色ボケ的にも、しょぼかったからです。
スポットが点在してて規模が小さい印象が拭えず、肝心の 「ストリート」 も電飾がなく単なる道状態、
ぱこぱこと交尾へ至る為に使おうと群がる色ボケ衆による淫猥&殺伐とした混雑も、全然なし。
これでは特攻したことにならん。相手にとって不足あり。と、孤高の士たる私は断定したのでした。
そもそも、ライトを一発当てるだけでもそこそこ絵になる寺社がそこら中に林立してる京都に於いて、
強引に名所を捏造するイルミネーションは必要なく、ゆえにさもしい電飾スポットも成立し得ない。
などと考え、しばらくはクリスマスイルミネーション特攻のネタ展開そのものを、忘れていたのでした。
しかし、そして無論、京都にはそんな臆見を許さない一大イルミネーションが、しっかり存在します。
そう、ローム株式会社がクリスマスの時期に行う 「ロームイルミネーション」 が、それであります。
学生起業の町工場から始まり、社名の由来たる抵抗器での成長を経て、半導体でその地位を確立、
現在は京セラ村田製作所などと共に 「京都ベンチャー」 という言葉を体現してる企業、ローム
ロームシアターのネーミングライツ購入など、文化事業に力を入れてるのもここの特徴ですが、
その一環なのか、クリスマス当日までの1ヶ月間、西大路五条の本社一帯へ大々的に電飾を展開。
何にもないからこそ建設が出来たのであろう大社屋の周辺を、一気に電飾名所へ変えてくれてます。
東日本大震災発生以降はしばし中止され、すっかりその存在を忘れてましたが、知らん間に復活。
その電飾数は80万球というから、ぱこぱこな輩が蛾の如く群集してること、間違いありません。
で、特攻してきました。相手にとって不足ない輝きと混雑に、私は出会えるでしょうか。

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鹿王院へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年12月1日(火)


鹿王院へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

こんなことを言うのはどうかなとも思いますが、はっきり言って、鹿王院は地味です。
権勢誇示が大好きな室町幕府三代将軍・足利義満が創建したにも関わらず、地味です。
やはり義満が創建した金閣寺の本名 「鹿苑寺」 と同じく 「鹿」 を冠するにも関わらず、地味です。
嵐山から徒歩移動も可能な距離にありながら、鹿王院の門前に観光の賑わいは、全然ありません。
門前町的な店や名物といったものも全然なく、せいぜい渋い銭湯・鹿王湯くらいしかありません。
塀でその存在を誇示することもなく、そもそも民家に完全包囲されてるため、誇示しようもありません。
「嵯峨の金閣」 とも称される舎利殿を始めとする見事な伽藍と、極めて格の高き由緒を持ちながら、
門前をスルーせずに済ませるのにも注意力が必要なこと請け合いの、実に地味な寺なのであります。
鹿王院。本名、覚雄山鹿王院。元々は、義満が創建した宝幢寺の開山塔として、造営されました。
宝幢寺は、 「宝幢菩薩を祀れば寿命が延びる」 という夢のお告げに従って、義満が建てた寺。
夢窓疎石の俗甥 or 義満のメンターである春屋妙葩 aka 天下僧録司 aka 普明国師を開山に迎え、
京都十刹第五の名刹としてその名を轟かせましたが、応仁の乱の後は衰退し、遂には完全消滅。
で、結局は妙葩が建てた鹿王院のみが残り、宝幢寺の寺籍を継ぐ形で現在まで存続してるわけです。
義満筆 「覚雄山」 の額を掲げる築600年の山門や、石畳の参道、嵐山を借景とする枯山水庭園、
さらには源実朝が宋国より招来したという仏牙舎利を安置する舎利殿と、鹿王院、見所は実に多し。
実際、訪れる客の数は、割と多かったりします。なのに存在感的には、凄く地味なのであります。
恐らくかつては、 「建てようと思った辺りに、鹿がうろついてたから」 という寺名の由来が示す通り、
嵯峨野的な鄙びた風情の中で 「嵯峨の金閣」 が屹立し、そのロイヤルな威容を誇ってたんでしょう。
しかし現代に入り、極めて右京区的な生活感溢れる宅地化により、周囲を完全包囲されたことで、
地味というか、独特のインパクトと存在感を持つ、妙味に満ちた寺になってる気がします。
そんな鹿王院、紅葉も名物。というわけで、地味さ&妙味さと共に堪能してきました。

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福王子神社の秋季大祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年10月18日(日)


福王子神社の秋季大祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

明治維新に至るまでの約1000年、日本では神と仏が入り混じってました
大陸より伝来したばかりの頃の仏教は、日本人の魂へ忍び込むにあたって、へと接近。
素朴なスタイルの信仰から脱却することについて苦悩を深めていた神も、仏にその救済を希求。
結果、 「神の本来の姿は仏 = 本地」 ということになり、神社の傍には本地を祀る神宮寺が建てられ、
寺の近くでは神が鎮守となって仏を守護するという、混淆の信仰形態が誕生・定着したのでした。
ある意味で野合に見えるこの混淆は、アーシーな小寺社だけで起こったものでは、無論ありません。
ロイヤルな寺社、それこそやんごとなき方々より崇敬を受けるような寺社であっても、事情は同じ。
私の地元にある石清水八幡宮は、二所宗廟の一つでありながらも最初から 「宮寺」 として創建され、
神が住まう男山には、 「男山四十八坊」 と称される大量の仏教施設がバカスカ建ちまくってたほど。
「どちらが手を叩いて、どちらが叩かないのか」 といった些末な作法にこだわる必要が全く無い、
神前読経など当たり前の大らかで豊かな信仰世界が、この国では長く長く息づき続けていたのです。
神道一直線宣言 aka 明治の廃仏毀釈は、そんな神仏習合の世界を、ほぼ根絶やしにしました。
が、明治以降は基本全否定&古いものを何でも有り難がる京都では、混淆の風習がいくつか残存。
福王寺神社の神輿巡行も、そんなかつての時代の息吹を感じさせてくれるものと言えるでしょう。
宇多天皇御母・班子女王が祭神のこの社は、宇多天皇が創建した世界遺産・仁和寺の守護でもあり、
その秋季大祭では、仁和寺より譲渡されたという神輿が、巨大な二王門の前で差し上げを敢行。
のみならず、石段を登って門をくぐり、さらには御室御所にまで入り、神仏が入り混じる式典も執行。
由緒も格もロイヤル極まりない寺院に於いて、古の神仏習合の様が全開になってしまうのです。
そんな福王寺の神輿、巡幸を全部追うのはしんど過ぎる為、仁和寺周辺だけ見てきました。
神輿と交通環境との微妙な関係も、ある種の風味としてお楽しみください。

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大覚寺の秋の夜間特別拝観・真紅の水鏡へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年11月28日(金)


大覚寺の秋の夜間特別拝観・真紅の水鏡へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

旧嵯峨御所大覚寺門跡に、私は 「赤」 のイメージを勝手に抱いてます。
嵯峨天皇が建立した離宮を前身とし、言うまでもなく真言宗大覚寺派本山である、大覚寺。
般若心経写経根本道場としても知られ、また 「いけばな嵯峨御流」 の総司所でもある、大覚寺。
別段、赤化した宗派 (何だそれ) の寺でも、赤化した流派 (何だそれ) の寺でもありません。
むしろ赤化の真逆を行くようにロイヤル極まる寺なんですが、私にとっては 「赤」 なのであります。
そう思う理由は、端的に言えば、宝塔です。宮廷文化の風情を伝える大沢池の畔に立つ、宝塔です。
大覚寺が寺化したきっかけである、嵯峨天皇の心経写経1150年を記念し建立された、心経宝塔。
この赤い宝塔、嵯峨野の深い闇の中でライトに照らされると、赤さがより印象的なんですよね。
それが、境外の一条通あたりからチラっと見えたりするのも、インパクトがあったりするんですよね。
当サイトは大覚寺、観月の夕べ宵弘法年越しなどなど、何故か夜にばっかり訪れているため、
闇の中に浮かび上がる宝塔の姿を見る機会が自然と増え、 「赤」 の姿が印象づけられたわけです。
「だから何だ」 と言われたら話が終わりの、個人的事情に基づく個人的感慨に過ぎませんが、
ただ 「赤化した門跡寺院」 という冗談が湧く程度には、大覚寺の 「赤」 、強烈という話であります。
それに、ロイヤル極まるこの寺の方から積極的に赤化を打ち出す機会も、ないわけではありません。
大沢池は 「日本初の花見」 ともされ、桜の名所としての知名度も非常に高い大覚寺ですが、
実は紅葉も充実しており、池畔に続く紅葉の並木道は京都でも他に例がないという話もあるほど。
秋になれば、ライトアップされた紅葉が大沢池の水面に映る夜間特別拝観も実施されており、
その夜間拝観が 『真紅の水鏡』 と題されるなど、なかなかな赤化加減を見せてくれてるのです。
そんな 「赤」 を堪能するべく、またぞろ夜の大覚寺へ出かけたのでした。

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壇林寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年11月28日(金)


壇林寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

琴平町の 『川蝉』 へ結局行かず終いになったことを、悔やんでます。
琴平町は、京都ではなく香川 aka うどん県の町。 『川蝉』 は、そこにあったうどん屋です。
讃岐うどんに魅せられた 「巡礼者」 から、その無茶な値段設定や店主のキャラが秘かに愛され、
いつかは必ずその門をくぐらなければならぬラスボス的な感じで、伝説化さえしていた店であります。
『川蝉』 、私も一度は行きかけました。 「巡礼」 してた頃、行きかけました。が、店前で逃げました。
「日本一うまい」 と書かれた巨大幟&店前に散乱する●●にひるみつつ特攻しようとした瞬間、
店主らしきおっさんが出てきて、手に持つ丼から●●を目の前の川へ●●●したのを見て、逃げました。
見たくない何かを見せられる恐怖を感じて。または、香川に抱く幻想を破壊される恐怖を感じて。
あるいは、自分が吐き散らかした幻想の廃棄物を、濃縮ウランにして返されるような恐怖を感じて。
以来、勝負せねばと思いつつ逃げ続けてたんですが、 『川蝉』 、ストビューで現在地を見ると、更地
結局、私は逃げたままになったのでした。悔やんでます。もうこんなことは、繰り返したくない。
というわけで今回、檀林寺へ特攻したのです。香川から京都へ話を戻し、檀林寺へ特攻したのです。
九相図で知られる檀林皇后が、中国から禅僧を呼んで嵯峨野に建立するも廃絶した元・檀林寺を、
京都観光の大衆化が進んだ昭和の高度成長期になってどっかの誰かが再興した、現・檀林寺。
しかし、その実態は●●●とも言われ、ネット上では●●いだの●●だの●●●●●●だのと泣き喚く者が続出。
京都幻想や京都妄想を機嫌良く吐き散らかした末、 「本物」 ノイローゼに罹った輩に対して、
吐き散らかしたその廃棄物をウラン弾にしてお見舞いしまくってるようなスポットなのであります。
正直、私も避けてました。冷やかし目線さえ、バルタン星人の如くブーメランで返されるかもと感じて。
でも、 『川蝉』 クローズを受け、考えを改めたのです。全ては、諸行無常だと。一期一会だと。
それにここの紅葉は、 『川蝉』 のうどんが案外美味かったと言われるのにも似て、案外、好評。
この機会に、もう二度と悔やまないよう、嵯峨野へ出かけたのでした。

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野宮神社の斎宮行列を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年10月19日(日)


野宮神社の斎宮行列を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

葵祭のヒロイン or 花形である斎王には、モデルみたいなものがあります。
「いや、斎王代のモデルが斎王だろ」 とか言われそうですが、そういう話ではありません。
葵祭・斎王代のモデルである斎王 aka 賀茂斎院には、モデル or 先行者がいるのであります。
それが、斎宮伊勢神宮にて祭祀を司り、その宮殿名 「斎宮」 が呼称化した斎王のことです。
古くは 『日本書紀』 にまで遡るという斎宮の制度が、本格的に整備されたのは、天武天皇の時代。
壬申の乱で天武帝は、伊勢神宮に戦勝を祈願し、勝利。以来、伊勢を 「天下の宗廟」 と規定。
未婚の内親王 or 女王をかの地へ下向させ、祭祀を担わせる斎宮の制度を確立させたのでした。
以来、多くの御供を引き連れ伊勢へ向かう斎王の行列 = 群行は、平安期から中世にかけて存続し、
その群行の様を平安京の周辺のみで小じんまり踏襲した賀茂斎院の行列は、都の風物詩化。
で、その踏襲した賀茂斎院の行列こそが、現代葵祭に於ける斎王代の元ネタとなったわけですね。
「コスプレの元ネタに、さらに元ネタあり」 という話であります。雑な言い方過ぎて、恐縮ですけど。
葵祭・路上の儀が、往時の完コピを目指したコスプレで現在も継続してるのは御存知の通りですが、
では斎宮行列の方も、完コピを目指したコスプレ行列が行われているかといえば、これが難しい。
単純に、京都から伊勢って、遠いし。近鉄特急なら速いけど、徒歩だと5泊6日かかるそうだし。
なので、伊勢と京都それそれの由緒ある場所で、バラバラにイベントが開催されてるのが現状です。
伊勢では、有名な斎王まつり。で、京都では、今回出かけた野宮神社斎宮行列であります。
斎宮は、伊勢へ下向する前、洛外に設けられた 「野宮」 で厳重なる潔斎を行うのが決まりでした。
その 「野宮」 が数多く設けられたという嵯峨野には、 「野宮」 跡がいくつかが神社化して残存。
嵐山にて源氏物語の何ちゃらと縁結びが売りの野宮神社もまた、そんな 「野宮」 跡神社のひとつ。
その由緒と観光客寄せがクロスする形で、ミニ斎宮行列 「斎宮夢行列」 が平成に入って復活し、
2005年には 「斎宮行列」 と改称、嵐山の秋の風物詩として認知度を深めつつあります。
そんな斎宮行列、 「元ネタの元ネタのコスプレ」 を拝むべく、行ってきました。

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松尾大社の還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2014年5月11日(日)


松尾大社の還幸祭追尾、前篇からの続きです。

このサイトを始めてから、私が最も衝撃を受けたのは、松尾祭です。
「半笑いで京都を面白がってやろう」 「それでゲスいアクセス集めて、広告で儲けてやろう」
「こんな面白いこと思いついて実行する俺って、最高」 と、糞の如き考えでネタ集めを始めた私に、
2011年4月に追尾した松尾祭の神幸祭は、凄まじいまでのショックを与えてくれたのでした。
当時の記事を読むと、わけのわからん熱気に憑かれた内容で、自分でも奇妙に思える程ですが、
何がそんなにショックだったかといえば、上手く言えませんが、本物だったからではないでしょうか。
「本物」 や 「ほんまもん」 といった括弧付のものではなく、単なる本物がそこにあったというか。
伝統保存系 or 町おこし系の、ある意味で辛気臭かったり胡散臭かったりする盛り上がり方とは違う、
町に生きる人間が自主的かつ好き勝手に盛り上がってるという、極めてリアリティのある祝祭。
それでいて単なる享楽のみならず、千年前からの歴史と現在が直結もしてるという、ダイナミックさ。
こんな祭が、こんな本物が、京都にあったのか。知らなかった。完全に、舐めていた。
本物の衝撃を正面から喰らったことで、ぼ~っと見てただけとはいえ腐り切った性根を叩き直され、
以後は、真摯に向き合うべき事象には出来る限りのリサーチと共に真摯な態度で向き合うよう心がけ、
そうでないものには半笑いではなく全笑いの態度で臨むようになったんですが、それはともかく。
そんな腐れナルシスの性根をも叩き直してしまった松尾祭、還幸祭追尾の後篇であります。
前半では、地元町内を巡行した6基の神輿が西寺公園へ集結+再び出発するまでを追いましたが、
後篇では、御前通北上+朱雀御旅所巡幸+旧街道巡幸+松尾大社への宮入りまでを、追尾。
いや追尾といっても、再三言ってるように、全貌を追うにはこの祭の規模は余りにもデカ過ぎるため、
ヘタレ気味にちょこちょこっと幾つかのポイントで覗いてる程度の内容ではありますけど。
おまけに後半は神輿写真の波状攻撃で、もはや何が何だかわからん世界になってますが、
本物の祭が持つ本物の熱気、気配くらいでも伝われば、幸いです。

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早朝の嵐山へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年4月7日(月)


早朝の嵐山へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年に早朝の嵐山の桜を見に行った際
「朝の嵐山が好きだ。仕事の匂いがするのが好きだ」 みたいなことを、書きました。
かつて丹波より保津川を下りやって来た木材の集積場&湊町として栄えた時代の残り香と、
あちこちの宿や飲食店が放つ何とも言えない昭和テイストな出汁の仕込み香が漂う、朝の嵐山。
そういった 「仕事」 の顔が感じられるタイムだから好きだ、というようなことを書いたわけです。
しかし、言うまでもないですが、嵐山がそもそも貴族の遊興地であったこともまた、確かであります。
そして、この嵐山の春を彩る桜が、雅なルーツを持つものであることも、確かであります。
この地に亀山御殿を築造した後嵯峨上皇が、吉野の桜を移植したことに始まるという、嵐山の桜。
本家である吉野には比ぶべくも無いですが、程良くコンパクトにまとまったそのサイズ感と、
それでも京都の街中と比べたら圧倒的なスケール感&スペクタクル感を誇りまくるそのビジュアルは、
貴族の庭的な雅さ&ダイナミズムを併せ持つ 「王朝時代から続く観光地」 としての面目躍如、
嵐山の 「仕事」 あるいは 「本業」 の魅力が、明確に具現化されたものと言えるのではないでしょうか。
そんな嵐山の 「本業」 の匂いを改めて吸い込んでみたくなった、というのは半分くらい嘘で、
残り半分は単に思いつき一発ではありますが、とにかくまた嵐山朝行をやってみることにしました。
前回は右岸をウロウロしましたが、今回は中之島から左岸、そして亀山の展望台へ行く感じ。
うちのサイトの趣旨からすると、人の少ない時間帯に出かけるというのは反則に当たるわけですが、
「本業」 の顔を見るなら、こちらも 「人間観察が趣味です」 みたいな冷やかし根性は捨て、
「私だけの嵐山を見つける」 とか言いそうな 「本業」 阿呆観光客の如き気持ちで赴くべきと考え、
でもそんな気持ちでガチ混雑時に出かけるのはガチで辛いので、朝に行ったわけです。
かくも情けない独男に、嵐山は 「本業」 の桜を見せてくれるでしょうか。

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バレンタイン・スイーツラリーをやらかしてみました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2014年2月14日(金)


バレンタイン・スイーツラリー、続きです。

前篇のイントロでは適当なことを大仰に書きましたが、
今回のネタをやる気になったのは、単にスイーツラリーをやりたかったからです。
で、今までバレンタインネタを全くやらなかったのは、単にネタを思いつかなかったからです。
何をやるか思いつかなかったというだけでなく、そもそも意識に上ることさえ全然なかったというか。
それくらい私は、バレンタインに縁がありません。ひがみも起こらないほど、縁がありません。
じゃあ毎年やってるクリスマスネタは多少なりとも縁があるのかといえば、やはり全然ないんですが、
ただ、クリスマスとバレンタインでは、プレッシャーの規模や圧みたいなのが、全然違います。
当日の1ヶ月以上前から、電力を浪費し倒すイルミネーションがそこら中で輝くクリスマスと比べたら、
節分以降になってようやく情宣が本格化し始めるバレンタインなど、敵ではありません。
それに、京都へ上手く絡めたバレンタインネタというのも、ちょっと思いつかないし。
どっかの和菓子屋が出してるゲテモノバレンタイン和菓子を買って食うだけだと、動きがないし。
と思ってたところに降って沸いたのが、嵐電の閑散期対策であるスイーツラリーでした。
沿線にある和洋スイーツ店と連携して、観光客&通学客が激減する時期を盛り上げようという、企画。
これとバレンタインを絡めたら、何とか京都ならではの独男バレンタインネタになるんじゃないか。
加えて、人気のスイーツ店を巡れば、堅気の人も間違って検索流入するんじゃないか。
実はそんな黒いことをたっぷりと考えて始めた、今回のバレンタイン・スイーツラリーであります。
5軒のスイーツ店をバレンタインデー1日で回り切ろうという、この下らないネタ、
前篇では、唐突な大雪が積もる嵐電沿線で、ひとりぼっちの市街戦を甘ったるく開始、
京都チョコ界の本丸・Dari Kバレンタイン弁当なる怪物を、嵐山決戦で撃破しましたが、
後篇はさらなる転戦、そして終盤になって現れた 「伏兵」 との攻防など、
それなりに手に汗握る展開となっていく、と思います、多分。

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バレンタイン・スイーツラリーをやらかしてみました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2014年2月14日(金)


バレンタイン・スイーツラリーをやらかしてみました。もちろん、ひとりで。

大切なのは、「動き」 を自分から起こすことです。
停滞している状況、逆風に煽られてる状況、そんな困難を打ち破るためには、
神風が吹くのを待つのではなく、自らが風となりフィールドへ駆け出すことが、何より大切です。
たとえそれが、消防署と放火魔を兼任するような、マッチポンプ的な行為であっても、です。
事件の少ない夏期、高校生に熱中死スレスレの野球大会をやらせる、どっかの新聞社のように。
紅葉直後&桜直前の閑散期に、電飾で無理矢理客を寄せ集める、どっかの古都のように。
そして、2月にチョコを売るべく、バレンタインなる愛欲祭日を捏造した、どっかの製菓業界のように。
誤解しないで下さい。私は彼等を 「インチキだ」 とキャンキャン批判したいのではありません。
彼等はいわば、猛者です。いずれも、自ら 「動き」 を作り出し、自らの苦境を克服した、猛者です。
そんな猛者の 「動き」 をもし批判したいと思うのなら、その 「動き」 へ充分敬意を払った上で、
自らフィールドへ駆け出し、新たな 「動き」 を作り出すことで、超克するべきなのです。
というわけで、私、2014年のバレンタインは、スイーツラリーをやってみました。
「何じゃそれは」 と言えば、嵐電がそんな企画をやってるんですよ。閑散期の 「動き」 として。
沿線の甘味処と提携し、店で幾らかの買い物でスタンプ&それ集めると景品、という。
このラリーを、バレンタインデーに回ろうというわけです。名付けて、バレンタイン・スイーツラリー。
嵐電スイーツラリー、別段バレンタイン限定ではなく、一日で回る必要も特にないんですが、
バレンタインの新たな過ごし方 for 独男を、積極的に提示したくて、やってみました。
奇しくも当日は、大雪。幾分早いものの、白銀の世界と冷んやりした空気感は、まるで、226。
鉄風味&蹶起風味という独男好みなテイストと共に巡る、過剰な甘味の連食が、
私たちの 「動き」 の蹶起となるのか、それとも単なる徒労&無駄遣いに終わるのか。
肉体的+精神的+金銭的にハードな戦いぶり、御覧下さい。

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妙心寺塔頭・東林院の 「小豆粥で初春を祝う会」 へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年1月16日(木)


東林院の 「小豆粥で初春を祝う会」 へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「関西の薄味は、味が薄いのではなく、色が薄いだけ」 。
某夜更かし発のそんな理解が広まりつつある、昨今の関西薄味事情であります。
否定は、しません。薄口醤油の塩分濃度など持ち出されずとも、我々は濃い味が大好きです。
京都にも、濃厚嗜好は歴然と存在します。特にラーメン領域では、それが露骨に顕在化。
脂を大量に投入する背脂系、炒飯まで真っ黒な新福・第一旭系、スープに箸が立つ天一などなど。
いずれも、病的です。異常です。薄味和食への欲求不満で発狂したかの如く、変態です。
が、その薄味和食にしても、出汁レベルでは塩分以上に濃厚だったりするのであり、
「ダシは張り込め」 を合言葉に、一般家庭でも案外と旨味に金と手間がかけられてたりします。
我々は濃い味が大好きです。単に醤油を煮詰めたような味は、やはり病的に嫌いですが。
とはいえ、本当に薄味を極め、素材の力を極限まで引き出す料理もまた京都には存在するのであり、
その典型が、寺院、特に禅宗寺院で食される精進料理であることは、言うまでもありません。
道元禅師の教えに従って、禅の思想を食でも実現し、後には和食の原点にもなった、精進料理。
もちろん現在でも寺で食され、京都でもいくつかの禅院では一般人も食することができます。
「沙羅双樹の寺」 こと妙心寺塔頭・東林院も、そんな精進料理が食せる寺のひとつ。
食せるのみならず、料理教室や宿坊でも知られる東林院ですが、様々な催しも行っていて、
「沙羅の花を愛でる会」 、そして1月中旬から月末まで開かれる 「小豆粥で初春を祝う会」 は、有名。
特に 「小豆粥で~」 は、精進料理のひとつとして禅宗で大切に継承されてきたという小豆粥を、
小正月に合わせていただき一年中の邪気を祓うという、精進度が高い感じの催しです。
ちなみに会費も精進度が高く、3700円。370円ではありません。3700円。
「何だそれは」 と、額に興味はあったものの、額ゆえに行く気は起きなかったんですが、
今年は奮発して、高価い小豆粥で一発、精進してみることにしました。
割高な精進に励む様から精進落としまで、お楽しみください。

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京都・嵐山花灯路2013へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年12月14日(土)


京都・嵐山花灯路2013へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年の嵐山は、大変でした。
何が大変だったかといえば、言うまでもなく9月にやって来た台風18号です。
愛知に上陸した18号は、近畿にも甚大な被害を齎しましたが、京都もまた集中豪雨を食らい、
嵐山では大堰川が溢れかえって、周辺観光地一帯で未曾有の冠水被害が発生しました。
とはいえ、橋が毎年流れるような八幡の人間としては、結構どうってことない洪水に見えたんですが、
濁流に呑みこまれる渡月橋のビジュアルは、全国区的にはなかなかインパクトを与えたようで、
嵐山の店舗や寺社のホームページなどでは、台風から数ヶ月経った現在でもなお、
「既に復旧しました」 とか 「被害はありませんでした」 みたいな告知を、よく見かけたりします。
そう、嵐山は全然、大丈夫なのです。あの渡月橋だって全然、大丈夫なのです。
そもそも渡月橋はバリバリの鉄筋コンクリート製なので、あんな大水ではびくともしないのです。
そして、大丈夫だからこそ、今年も嵐山花灯路は例年通り、ごく普通に行われるのです。
東山は桜シーズンの開始直前、そしてこちらの嵐山は紅葉シーズンの終了直後と、
本来は観光客の入りがガタ減りになる閑散期に、観光地一帯を電飾で無理矢理飾り立て、
光と見れば蛾の如く寄ってくるカップルを中心に浮ついた客層を多く集客してきた、京都・花灯路
独男にとっては、もはや笑うしかないくらいアウェー極まる客層&内容を誇るイベントであり、
2010年2012年と特攻済みであることもあって、2013年はスルーと思ってたんですが、しかし。
私も一応、人間の心を持ってます。嵐山の復活を応援したい気持ちも、あったりします。
というわけで、応援どころか邪魔なだけかも知れませんが、ノコノコと初日に出かけてみました。
御馴染の山照らし、御馴染の青光り竹林、そして御馴染の無駄に元気な客層と、
御馴染の光景がしっかり展開されてる様、御覧下さい。

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鳴滝・了徳寺の大根焚へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年12月9日(月)


鳴滝・了徳寺の大根焚へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「大根滝」 なるものが存在するとしたら、それは如何なるものでしょうか。
大根が滝の如く流れるものでしょうか。あるいは、滝が大根の如く流れるものでしょうか。
もし後者のような滝だとしたら、 「大根の如く流れる滝」 とは、如何なる状態を指すのでしょうか。
日本語の根源、いやもう言語そのものの根源さえ問い正しかねないそんな深遠なる疑問に、
正面から答えてくれるのこそ鳴滝は了徳寺の大根焚、というのは無論、完全なる大嘘であります。
鳴滝の大根焚。断じて、鳴焚の大根滝ではありません。京都の大根焚き界を代表する、大根焚です。
『蜻蛉日記』 において愛の籠城戦が展開される 「鳴滝籠り」 で著名な、京都洛西の鳴滝。
芭蕉も訪れた文学の香り高きこの地に立つ了徳寺は、浄土真宗開祖・親鸞に因んで創建された寺。
愛宕山に師・法然の遺跡を訪ねた親鸞聖人は、その帰りに鳴滝へ立ち寄り、しばし滞在&説法。
里人には饗応するものがなく、やむなく塩煮の大根を出しますが、聖人はこれに大変御満悦。
お礼にと、筆代わりにすすきの穂を持って 「帰命尽十方石寺光如来」 なる十文字の名号を授与。
で、そのエピソードが伝承+蓮如も訪問+了徳寺が創建+大根焚は報恩講として恒例行事化、と。
近年は京都のあちこちの寺で 「冬の到来を告げる風物詩」 的に行われる大根焚きですが、
鳴滝・了徳寺は、その由緒からも元祖と見なされ、凄まじい数の老若男女を狭い境内に集客しまくり。
いや、客層はより正確に言うなら、「中風除けの御利益を求める老老男女」 といった感じですが、
とにかく 「キング・オブ・大根焚」 と呼びたくなるような盛況ぶりを、12月の度に見せてます。
そんな鳴滝の大根焚、私も栄養的&呪術的にパワーアップを図るべく、頂きに出かけてみました。
狭い寺へ滝の如く人間が流入する混雑のため、大根焚自体のネタ採集がさほど出来ず、
補遺として、鳴滝の地名の由来となった鳴焚の大根滝ならぬリアル鳴滝も、訪問。
湯気+熱気+飛沫が舞う冬の風物詩、狂った駄洒落と共に御堪能下さい。

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宝筐院へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年11月24日(日)


宝筐院へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

「筐体」 を、長らく 「とくたい」 と読んでいた阿呆は、この私です。
PC関連でよく見かけた、 「筐体」 。でも、生の読みを聞いたことが無かった 「筐体」 。
でも何となく、 「とく」 っぽいな。 「秘匿」 の 「匿」 の字にも、似てるしな。そうだ、多分、そうだ。
そんな阿呆な思い込み+日常で使うことがなかったため、己の中で定着してしまった、 「とくたい」。
恋人どころか友人さえロクにいない、孤立上等を謳う独男には、発生しがちな事態ではあります。
誤読の時期はかなり長く続き、ゆえに嵐山に建つこちらの宝筐院もまた 「ほうとくいん」 などと誤読し、
近所の人からは 「ほうとくさん」 と親しまれてるのではないかと勝手に妄想したりもしたのですが、
無論、宝筐院はあくまでも宝筐院であり、 「ほうとくいん」 でも 「ほうとくさん」 でもないのであります。
宝筐院。豊胸院でも豊頬院でもない、宝筐院。楠木正行 aka 小楠公ゆかりの寺です。
元々は平安末期に白河天皇が善入寺として創建し、これを後に夢窓国師の高弟・黙庵が再興。
黙庵は小楠公と交流を持っていたため、 四條畷の合戦で討ち死した小楠公の首級をこの寺に埋葬。
室町二代将軍・足利義詮は、この黙庵に帰依し、さらには黙庵の知り合いたる小楠公にもハマり、
ハマり過ぎて小楠公の隣に葬れと命じ、義詮と小楠公の菩提寺化+名前も宝筐院へ変更。
その後、応仁の乱でまた荒廃し、江戸期は天龍寺の末寺となり、幕末にはとうとう廃寺となりますが、
明治期にやはり小楠公にハマってた京都府知事・北垣国道が伽藍を復興、現在に至ります。
何かすぐ近所の祇王寺と似た経緯で再興された寺ですが、紅葉の方も祇王寺同様に良く、
嵐山の他の名刹と共に、秋ともなれば紅葉狩りの人民が押しかける寺なわけです。
そんな豊凶院でも宝鏡院でもない宝筐院、出かけてきました。

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