松尾大社の還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2014年5月11日(日)


松尾大社の還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

松尾祭。文字通り、松尾大社のお祭りです。
平安遷都以前に右京一帯を開発した渡来系の秦氏によって創建された古社であり、
遷都以降は 「賀茂の厳神、松尾の猛霊」 として賀茂社と並び王城鎮護を果たした、松尾大社。
そんな猛烈に古い歴史を持ちながら、今なお完全に現役仕様の信仰を集める社でもあり、
その氏子域は 「洛西の総氏神」 の呼び名の通り、北は等持院・南は吉祥院・西は嵐山・東は朱雀と、
誇張でも何でもなく京都市の西側地域の大半が含まれるという無茶苦茶な規模を誇ってます。
そんな松尾大社が春に行う松尾祭は、 「総氏神」 の名に相応しいワイルドかつダイナミックなもの。
かつては賀茂社・葵祭と同じく勅祭であり、松尾使なる勅使の社参があったという松尾祭ですが、
時の流れと共に氏子域が農村地域と結合し、それに従い農村的な祭のテイストを導入、
6基の神輿が広大なエリアを動き回る、京都の祭の中でも極めてアーシーなものとなってます。
神輿が桂川を渡る舟渡御を挟む4月末の神幸祭は、2011年に当サイトでも記事にしていましたが、
神幸を追ったなら還幸も追おうと、今回は神輿6基が本社へ帰る様を追いかけてみました。
新暦導入以前は、 「お出」 こと神幸が卯の日、「お還り」 こと還幸が酉の日に行われていたため、
「うかうかとおいで、とっととおかえり」 とも呼ばれていたという松尾祭の神輿巡行ですが、
現在は神幸が4月20日以後の最近日曜、還幸はその3週間後である5月中旬に行われてます。
神幸は神幸でそれこそ舟渡御を含む無茶苦茶にハードなものですが、還幸もまた激ハード。
朝から神輿が氏子域をまわりまくり、昼には西寺公園 aka 旭の社にて神事、朱雀御旅所でも神事、
もちろんその道中のあちこちで神輿を何度も何度もさし上げまくるという、とんでもないものです。
余りにとんでもなくかつエリアが大規模であるため、とても全部を追いかけること出来ず、
昼の西寺公園集合から神輿中心に断続的に眺めるという、かなりヘタレな追尾となってます。
前半は特に移動一切なし、西寺公園の神輿と神事を集中的に御覧下さい。


九条七本松で市バスを降り、少し歩いて10:45の唐橋西寺公園へ到着したの図。
西寺公園、御覧の通り、公園であります。かつての西寺跡とはいえ、完全なる公園であります。
神輿は、まだ一基も来てません。早かったなかな。見物人はそれなりの数が集まってるんですけど。
露店が既に営業してますが、特に子供天国という感じでもなく、賑やかな日曜の朝の風情です。


進行が遅れてるのかなと思ったら、どこからか神輿のかけ声が聞こえました。
声がしてる方へ向かってみると、大宮社の神輿が御前八条の辺りで、御覧の様にさし上げ中。
こんな感じで全神輿が、朝の9時頃からそれぞれの氏子区域を回り、さし上げまくってるわけです。
で、先刻の公園へ集結し、松尾大社まで人力で向かうわけです。死ぬんじゃないかと思います。


近くまで来てるので、すぐ大宮社が入ると思い、西寺公園へ戻ってきたの図。
どうして松尾社の神輿が西寺跡へ集まるかといえば、かつてこの祭は西寺が主導してたからとか。
伏見稲荷・伏見祭の神輿が、東寺へ挨拶に寄るのは有名ですが、西側でも同じ事をしてたわけです。
西寺付近には平安京の西市があり、その住民が松尾社を信仰、西寺廃絶後も祭を維持した、と。


そんな遠大な歴史を感じ、集う民は感無量になってるかといえば、そんなことは全く無し。
そこら中で顔見知りの挨拶が交わされ、 「誰それが結婚した」 みたいな会話が交わされてます。
御覧の西寺史跡石標が立つ丘も、木陰で涼しいため、見物待ち+ピクニック気分でくつろぐ人、多し。
右の台は、大宮社を乗せる台。ここ唐橋の氏子が舁ぐ、松尾大社本社の神様を乗せた神輿です。


で、その大宮社の神輿が、公園西側からやってきました。


怒号と砂埃の中、西寺公園へ突入する、大宮社。


丘の上へ上る、大宮社。


神輿台に乗せられ、記念撮影などののち丘を降りる、大宮社。


そして、公園真ん中へ安座する、大宮社。
以後、同じような流れで、神輿が続々と帰って来ます。


まずは、四之社。


続いて、衣手社。


さらに、三宮社。


4基の神輿を借景に、卯之鳥神輿の宗像社。


5基の神輿を借景に、櫟谷社。揃いました。


あ、あと唐櫃の月読社もありますが。写真中央少し右に写ってるのが見えるでしょうか。
神輿が揃うと、この場で神事が始まります。祝詞奏上などに加え、特殊神饌が献饌されるのです。
特殊神饌とは、ここ唐橋の 「赤飯座」 なる講が作る神饌、そして吉祥院西ノ庄の講が作る粽の御供。
「旭の社」 なる別名を持つ地に相応しい神饌でしょう。何故そう呼ばれるかは、私も知らんけど・・・。


神事に参加するのは、各神輿の代表のみ。後は全員、休憩タイムとなります。
先述の丘を中心として、公園内の至るところで舁き手及びその身内がシートが広げ、昼食を開始。
長閑なピクニックの風景という感じでしょうか。旦那が昼寝というより卒倒 or 失神してることを除けば。
写真の奥にテントがあり、そこでも休憩民多数。九条通のコンビニ前でも、休憩民を見かけました。


そうこうするうちに神輿の前へ到着した、 「赤飯座」 の神饌が入った唐櫃。多分。
唐櫃を運び込むのは、松尾社の印が染めてある法被姿 「赤飯座」 の 「神役」 なる人たち。多分。
あ、 「赤飯座」 の読みは 「せきはんざ」 ではなく、 「あかいざ」 です。多分、ではなくこれは、確定。
神饌の中の一品である白蒸が、江戸時代は小豆の蒸物だったことから、この名前が付いたとか。


「赤飯座」 の座員は、神輿到着直前に交代制の当家宅に集まり、到着と同時に出発。
葵を挿した神官たちの前で、やはり葵を挿した白衣姿で準備を行い、完了すれば献饌であります。
かなり葵推しな松尾祭ですが、そもそも賀茂と松尾の人々はかつて同じお告げの夢を見たそうです。
貴人の女性が出てきて、 「賀茂と松尾は一体である」 「祭には葵を飾れ」 と、お告げしたんだとか。


超望遠で垣間見た、「赤飯座」 の特殊神饌。内容、ちゃんと判別できるでしょうか。
まずは 「赤飯座」 の名の由来である、江戸時代は小豆製で現在は餅米製という冑形の白蒸と、
加えて若布が一握り、小鯛が一尾、生蕗を10本ほどくくったもの、そして箸を乗せた折敷が、一膳。
もう一膳は、神酒、鰆、白紙で巻いた鯣、そして紅白の亀形の落雁一対。亀の落雁、欲しい・・・。


続いて神輿には、西ノ庄の粽講が調製したという御供が献饌されます。
が、超望遠でも撮るのを失敗したので、2012年にちょこっと立ち寄った際に撮った写真で失敬。
御供、練米で作った粽を真菰の根元に挟んで芯にしてます。多分。蕗みたいなのしか見えませんが。
半紙でくくった鯣+紙で束ねた蕗も饗されるそうなので、そっちが写ってるのかも知れません。謎。


で、特殊神饌の献饌が終わり、13時前、巡幸再開。


まずは、四之社。


続いて、衣手社。


次は、三宮社。


さらに、宗像社。


そして、櫟谷社。


ラストは、大宮社。
ラストだからかホームだからか、ここだけさし上げを決めてから出発です。


住所標に 「西寺」 の名が残る通を進む、大宮社の神輿。
神輿はいずれも、このちょっと先で台車に乗り、曳きで移動を開始します。以下、後篇

松尾大社の還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】 へ続く。

松尾大社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 (1) 発御祭
松尾大社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 (2) 船渡御
松尾大社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 (3) 七条通巡幸


松尾祭・還幸祭
神幸祭の21日目の日曜日 開催

唐橋西寺公園
京都府京都市南区唐橋平垣町45−1
入場自由

京都市バス 九条七本松下車 徒歩約5分
JR東海道線 西大路駅下車 徒歩約6分

西寺 – Wikipedia
 

松尾大社 – 公式

還幸祭 – 松尾大社

松尾大社 – Wikipedia