まいづる細川幽斎田辺城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2018年5月27日(日)


まいづる細川幽斎田辺城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都には、城らしい城が、ありません。全くなくもないですが、あまり、ありません。
二条城淀城跡伏見桃山城。いずれも、城といえば城です。立派に城です。が、何か違う。
二条城は、離宮感が強過ぎて、城に全然見えない。淀城跡は、本当に単なる廃城跡でしかない。
伏見桃山城に至っては、昭和元禄の張りボテ遺産で、現在は入城さえ不可能。お粗末です。
「いやいや、日本各地の城だって、大半は昭和元禄の産物だよ」 とか思われるかも知れませんが、
再建にかけられた想いや、今もなお続く城への想いでは、かなり差があるんじゃないでしょうか。
端的に言うと、京都は城への関心が低いという。偽京都人である私の中でさえ、正直、低いという。
しかし、城を巡る京都のこうした微妙な温度感も、視野を府に拡げると、事情は変わってきます。
亀岡園部の城下町感、福知山のお城まつりに於ける盛況ぶりは、当サイトでもお伝えしてる通り。
そして、京都府のさらに北にあって、福知山と同じように 「城の街」 たり得てるのが、舞鶴でしょう。
舞鶴。日本海に面し、食・名所・産業などのあらゆる面で 「海の京都」 を体現してる街です。
この街に於いて最も高い知名度を誇ってるのは、現在に至るまで活躍し続けてる軍港の、舞鶴港
共に発展した街・東舞鶴も、正に軍都な趣を持ってます。が、これが 「城の街」 なのではありません。
「城の街」 は、反対の西舞鶴の方。 「城の街」 と呼ぶのは、ここが田辺城の城下町だったから。
肥後細川家の礎&御所伝授で知られる細川幽斎が、信長から南丹後を任され建てた城、田辺城。
プレ関ヶ原の籠城戦 「田辺城の戦い」 の舞台となり、別名 「舞鶴城」 は街の名にもなりました。
明治維新であえなく消滅しましたが、昭和初期から再建が始められ、平成には立派な城門も完成
この城門完成の頃より、毎年5月末には 『まいづる細川幽斎田辺城まつり』 も開催されてます。
実に、 「城の街」 です。ので今回、京都と城の関係をより精査すべく、祭りに遠征してみたのです。
城を中心に一体化してる街を見よう、とか思って。城を大事に思う心に触れよう、とか思って。
しかし、現地で見た 「城の街」 の姿や雰囲気は、何か独特のものだったのでした。

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京都府立植物園の桜ライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2018年4月5日(木)


京都府立植物園の桜ライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

植物園へ桜を観に行くというのは、ある意味、反則と言える行為かも知れません。
世界中の様々な植物を集めて栽培し、そして展示し、人々に教養と癒しを齎す場、植物園。
なので、桜も観れて、当たり前。しかも、種類が多くて開花時期も違うので、長く観れて、当たり前。
「短い間に必死こいて観る」 という桜のプレミアム感が、薄れるんですよね。で、ゆえに、反則と。
ただ、人の世は世知辛きものでして、桜をちょっと愛でる時間さえなくなるというのも、よくあること。
また、季節のない部屋へ籠って仕事してるうちに、桜が儚く散り去ってたというのも、よくあること。
帰り道などに路傍の桜が葉桜と化してるのを見て、 「春を取り戻したい」 「俺の春を返せ」 など怒り、
電飾によって着色された葉っぱでも何でもいいから桜を観たいと思うのも、人情というものでしょう。
また、やっとこさ桜ピーク時に京都の宿を予約したにも関わらず、開花が異常に早くなったりして、
京都へ着いた頃には桜が片っ端から葉桜になってた方なども、似たような気持ちになるのでしょう。
そんな桜難民と化した人にとって重宝な存在なのが、京都府立植物園の桜ライトアップです。
京都府立植物園。名の通り、京都府の植物園です。府立なのは、土地を買ったのが府だからです。
大正天皇即位に併せた大博覧会開催を企画した府は、田園だった半木神社周辺の土地を購入。
しかし計画破綻&土地転用で、1924年、日本最初の公立植物園としてこの植物園は開園しました。
第2次大戦敗戦直後には、GHQが米兵の為の住宅地として占領したりしましたが、1955年に再開園。
以後、 「指定管理者制度にせえ」 とか 「サッカー場にせえ」 とか言われながらも何とか乗り越え、
国内最大級の観覧温室も備えた堂々たる公設植物園として、市民の憩いの場であり続けてます。
そんな府立植物園、もちろん桜林もあって、ソメイヨシノ&ヤエベニシダレを中心に極めて充実。
しかも、 「せえ」 という声を跳ね除ける為なのか、植物園としては反則と思えるライトアップも実施。
特に枝垂系は遅くまで咲いてくれるので、葉桜を食らった難民の良い避難先になってます。
で、2018年は開花が凄く早く、私も見事に桜難民と化したので、避難してみました。

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京都御所へ梅と桃と桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2018年3月23日(金)


京都御所へ梅と桃と桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都御所。言うまでもなく、やんごとなき方々が住まわれた場所であります。
そして、これも言うまでもなく、一般人が自由に出入りできる場所ではないのであります。
我々が自由に出入りするのみならず、散歩したり昼寝したりもしてるのは、あくまでも、京都御苑
御所ではなく、御苑であります。あくまでも、御所の周囲を取り囲む部分、即ち外苑なのであります。
が、京都人の多くはそんなこと承知の上で、京都御苑を京都御所と呼ぶのではないでしょうか。
東京遷都に至るまでは、200軒以上もの公家宅が軒を連ねる公家町だったという、京都御苑の土地
遷都後は、東京で土地を与えられた為に公家が移住し、代わりに国へ上納された公家町は荒廃。
明治10年になって京都へ行幸した明治天皇が、この荒廃ぶりを目にして、公家町跡地の整備を指示。
予算も得た京都府は、喜んで整備を進め、近代皇国感溢れるだだっ広いレイアウトの外苑を完成。
その後は、国民公園化などを経ながら、基本的には街中の 「空白の場所」 として現在に至ってます。
では、そんな 「空白の場所」 を、どうして京都人の多くは京都御苑でなく京都御所と呼ぶのか。
適当な思い付きで答えるなら、その 「空白」 こそが京都御所の本質だと思ってるから、だと思います。
これまた言うまでもないことですが、京都御所には現在、やんごとなき方々は住まれてはいません。
「遷都の正式発表はされてない」 的な妄言を無視する限り、本物の御所もまた、 「空白」 なわけです。
天皇を失った京都はある意味、この 「空白」 をコアとする変態都市として、近代化を果たしました。
ので、 「空白」 にロイヤリティを見出してしまう。御所の近くの 「空白」 なら、尚のこと見出してしまう。
そんな無意識の動きが、御苑を御所と呼ばせているとか思うんですが、あなたどう思いますか。
という妄言はともかく、現代平民にとっての京都御所はあくまで散歩したり昼寝したりする所であり、
何より植物が原生林レベルで整備されてて、のんびりするにはうってつけのスポットとなってます。
春先には、梅と桃と桜が咲き、タイミングが良ければこの3種を一度に愛でることも可能。
で、今回は、そんなタイミングのいい日に、京都御所へと出かけてみました。

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京都・東山花灯路2018へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2018年3月13日(火)


京都・東山花灯路2018へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

これといった理由も動機もなく東山花灯路へ立ち寄ることが、たまにあります。
大抵は、北側ゲート近くの図書館から帰る時です。調べもので、帰りが遅くなった時とかです。
平安神宮の辺から神宮道をフラフラ南下して電飾ゾーンへ入り、そのまま写真も撮らず歩き続け、
プレッシャーがどうこうといったことも考えないまま、極めて適当な気分でうろついたりするわけです。
少し遠回りして帰る、というくらいの気持ちで。少しは運動もしなくては、というくらいの気持ちで。
そんな時に目にする花灯路は、つまり単なる通行人としてごくごくナチュラルな目で眺める花灯路は、
それこそ 「特攻じゃあ」 と意気込んでる時とは違って見えるかといえば、そんなことはありません。
安い集客を図るべく撒かれた電飾と、それに吸い寄せられる蛾の如き民が、蠢いてるだけです。
が、特攻時のようにそれを注視するのではなく、さらっと通り過ぎてると、気分は結構変わってきます。
楽しいかといえば、特にそんなことはない。では楽しくないかといえば、これもそんなこともない。
そんな、無な気分になるんですよね。で、こんな気分になる場所というのは、他にないんですよね。
桜開花前の閑散期に於ける集客イベントとして始まり、狙い通りの活況を生んだ、東山花灯路
その活況により生じる地獄の沙汰については、当サイトでも以前から延々とお伝えしてきた通りです。
が、その一方で、さらっと通り過ぎる際に感じるこの無な気分も、実は以前から気になってました。
この不思議な気分は一体、何なんだろう、と。この無は一体、何処から生じてるものなんだろう、と。
というわけで2018年花灯路特攻は、この無にこそ対峙しようと考え、先述の遠回り帰宅モードで決行。
平日の夜、客層を細かく見ず、写真もなるべく撮らず、散歩の如くうろついてみたのであります。
そして、無の発生源を確かめるべく、電飾で強調された闇などにこそ目を凝らしてみたのであります。
そう、これは新たな挑戦なのです。 「平熱の花灯路」 みたいなものを伝える為の、挑戦なのです。
決して、マンネリでやる気がすっかりゼロなのを、屁理屈で誤魔化してるのでは、ありません。
断じて、そもそも花粉症ゆえ細かく見るのが面倒臭かったのでも、ありません。

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亀岡の七谷川へ桜を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

2017年4月14日(金)


亀岡の七谷川へ桜を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

桜の名所は、かつて荒れ狂った川の堤防であることが多かったりします。
堤防の強度の維持にとって、桜の植樹が良いことなのかどうかは、私にはよくわかりませんが、
とにかく日本全国で見られる光景であり、京都では府下の桜の名所でよく見られるものです。
当サイトでも訪れた井手の玉川とか、我がホームたる八幡の背割堤とかは、正にその典型でしょう。
井手も八幡も共に、ひとたび洪水が起これば一帯が死の湖と化す、京都ディープサウスの街。
「死」 を孕む花である桜は、あるいは 「死」 に近い場所でこそ、狂い咲くものなのかも知れません。
いや無論、荒れ川の前科を持つ桜の名所は、サウスのみならず京都市&北部の府域にも多し。
「かつて保津峡を栓とする湖だった」 という神話を持つ口丹・亀岡にも、桜が咲き狂う川があります。
大堰川 aka 保津川 aka 桂川のことでは、ありません。その東を流れる、七谷川という川です。

七谷川ノ源ハ地蔵山ヲ発シ流程十三粁桂川ニ注グ流域荒廃洪水ノ際流出スル土砂ニヨリ被害甚大
ナルタメ治水ノ根本策トシテ砂防大堰堤建設ノ議起リ時ノ村長島津庫太氏関係者ヲ代表シ当局ニ
陳情昭和十六年国庫補助府直営工事トシテ起工一部施行セラレタルモ偶戦争苛烈トナリ工事中止
トナル戦後時局安定セルニヨリ村長広瀬富之助氏ガ復活ヲ強ク要望二十三年ヨリ継続施工セラレ
二十六年三月完成ヲ見ルニ至ル
( 「七谷川統水堰堤碑文」 『ふるさと千歳』 より)

愛宕山系の水を宿す七谷川は、亀岡盆地東山麓から千歳町を西へ流れ、大堰川へ入る川。
本流・臼木谷・桃原谷・馬路山谷・野々熊谷・畑谷・上谷が合流することから、その名が付いたとか。
名前だけ聞くと、虹でも架かりそうな優美な印象の川ですが、実際は古代より氾濫を起こしまくり。
上で引いた 「七谷川統水堰堤碑文」 が記すように、近現代に入ってようやく、治水が為されました。
昭和3年には、御大典記念として100本の桜を植樹。昭和48年にも、追加で100本をまた植樹。
昭和57年に入ると、沿岸に七谷川野外活動センターが創設されるのと共に、またまた500本を植樹。
これらの樹々が順調に育ちまくったことで、現在の七谷川は春が来る度、桜の一大名所化。
前科を反省してるのか、あるいは 「死」 に感応してるのか、物凄い狂い咲きぶりを見せてます。
そんな七谷川の桜、玉川や背割堤と同様に、浴びるが如く観て来ました。

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福知山お城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2017年4月2日(日)


福知山お城まつり、福知山城を見物した前篇からの続きです。

「商都」 としての福知山を認識したのは、出口なおについて調べてた時のことです。
大本開祖であるなおは、福知山生まれ。広小路の上紺屋町の辺に、生家があったといいます。
で、当時の広小路は、 「福知千軒」 と呼ばれ、藩経済を支えるほどの商業的繁栄を見せてたとか。
節分大祭の記事を作る中、それを知り、私は驚きました。福知山を 「軍都」 と思い込んでたので。
城下町として成立し、廃城後は駐屯地の街となった、福知山。印象的には、かなり 「武」 です。
が、福知山城に防衛上の地の利を齎した由良川は、物流の面にて商人にも大きな恩恵を齎しました。
「塩船」 から始まったという由良川の水運は、朽木氏が入封した17世紀後半から急激に発展。
福知山は、重要な河港にして三丹・北国・京阪を結ぶ結節点となり、屈指の物産集積地へ化けます。
火隙地を作るべく町人屋敷の中央に開設された広小路では、舟渡が新設され、貨客も多数往来。
旅客相手の茶店や旅籠を営むべく有力商人も進出して、名実共に 「山陰の商都」 の顔となりました。 
また、通りの近くの御霊神社では、税制緩和などで慕われていた光秀を 「商売の神」 として合祀。
出口なおの頃には飢饉が続いてたそうですが、とにかく 「ブイブイいわしてる」 な街だったわけです。
しかしこの水運、明治中期以降は、衰退。製糸・養蚕などを展開した後、福知山は軍を迎えます。
「かごの鳥」歩兵第20連隊駐屯により、広小路は大正&昭和初期も繁華街・歓楽街として繁栄。
戦後に入っても陸上自衛隊鉄道管理局を誘致し、やはり繁華街・歓楽街として繁栄を続けたとか。
「軍都」 として生まれた街が、 「商都」 の性格を強め、その維持の為に 「軍都」 の仮面を被る。
そんな感じでしょうか。そう考えると、福知山はやはりしたたかでタフな 「商都」 なのかも知れません。
そして、城を支えた広小路がお城まつりのメイン会場であることも、当然なのかも知れません。
というわけで、お城まつり、後半です。後半は、城一切なしで、広小路周辺の祭徘徊がメインです。
地元との共生を図るべく奮闘する陸自の姿や、誘致された異形のゆるキャラ集団が放射する狂気、
魑魅魍魎が躍るパレード、そして街に漂う独特の雰囲気と若干のグルメを、楽しんで行きます。
「商都」 のしたたかさと、そのしたたかさが生むカオス加減、じっくりと御堪能下さい。

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福知山お城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2017年4月2日(日)


福知山お城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

平均的な日本人にとって、いわゆるは、いったいどんな意味を持ってるのでしょう。
戦国末期より江戸前期にかけての100年の間に大半が作られた、いわゆる近世の、いわゆる城。
少なくとも私には、城がそれなりに大事なものとして、日本全国で認識されてるように見えます。
いや、 「それなりに」 どころの話ではありません。城は大抵、その街のシンボル or ランドマークです。
オリジナルが残ってるなら保存に励み、壊れてるなら再建に努める。そうなるのが、普通でしょう。
しかし、京都は違います。 「京都」 と見なされるエリアに、まともな城と呼べそうなものはありません。
あるのは、 「跡」 以外の存在感を見出すことが困難な淀城跡、離宮感が余りに濃過ぎる二条城
そして遊園地の人寄せパンダとして再建された挙句に会社から捨てられた伏見桃山城くらい。
徹底的に武士が嫌いなのか、あるいは 「江戸期なんか最近。保存する必要なし」 と思ってるのか、
「威容を誇ると共にその威容に相応しき敬意を集める城」 というのは、とにかく京都にはありません。
しかし、こんな京都の城事情というのも、視野を府域にまで広げた場合、話は変わってきます。
かつて城があった亀岡や園部では、城こそ残らずとも城下町的な雰囲気が今なお濃厚に漂うことは、
当サイトの大本七草粥記事@亀岡や、栗餅買い食いまくり記事@園部でも、お伝えしている通り。
そして、更に北の福知山市は、恐らく京都府では唯一、現在も城らしい城を持つ街と言えるでしょう。
信長より丹波平定の命を受けた明智光秀が、丹波山地の開けた盆地にて築いた、福知山城
光秀が本能寺の変をやらかした後も、税制緩和など善政を敷いた光秀を慕う民によって支えられ、
間違いなく福知山のシンボルというか、福知山という街そのものを生み出す基礎たる城となりました。
時代が明治に入ると、止むなく廃城となり、長らく本丸跡&天守台を残すのみだったといいますが、
昭和末期に至ると、市民などの寄付により総工費の内の5億円を賄う形で、大天守閣の再建を敢行。
「それなりに」 どころではない情熱により、現在もシンボル or ランドマークたり得てるわけです。
そんな福知山城とその城下町、毎年4月上旬にはお城まつりとして街を挙げてのイベントも開催。
で、そのお城まつりに、城見物と祭見物と街見物を一度にすべく、出かけてみました。

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青谷梅林へ梅を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2017年3月12日(日)


青谷梅林へ梅を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

青谷。 「赤坂」 が赤い坂ではないのと同様、特に青い谷というわけではありません。
どちらかといえば、小高い場所に立地し、春先には青ではなく白い梅が咲き乱れる所であります。
場所は、京都と奈良の中間に位置する、城陽市。農地がベッドタウン化した典型例みたいな街です。
宅地化しなかった場所で咲く青谷の梅は、宅地化が進む遥か以前より栽培が行われてきたもの。
江戸期に染料の需要が高まると、ここで作られる鳥梅は、紅花染の色素定着材として高騰しました。
鳥梅とは、青い梅、ではなくて黒い梅です。焼き梅や黒梅とも呼ばれた、燻製状の加工された梅。
無論、青谷ではこの鳥梅を作りまくり、現在を遥かに凌ぐ規模で梅林が形成されたんだとか。

京都ヲ距ル南數里ニシテ、梅林アリ靑谿ト云フ、延袤二里斗リ、衆山回環蹲スル如ク伏スル如ク、
靑松ノ瀟漉、梅花ノ皓潔、之ガ衣トナリ之ガ裳トナル、而シテ市ノ邊、中村ノ二村家、其間ニ隱見シ、
宛然一仙郷ヲ爲ス、且京都ヨリ寧樂ノ舊都ニ通ズル鐡路ハ西麓ヲ過ギ、南北各半里弱ニシテ、
玉水長池ノ停車驛アリ、頗ル便利ノ地トス、予事ニ因テ屢此地ニ往來シ、其淸秀ヲ愛スルコト久シ、
到ル處恒ニ花時ノ風光ヲ說キ、且誇テ日和州月瀬ハ天下ノ勝ナリ、今試ニ靑谿ヲ以テ比スルニ
山水攅聚ノ奇、或ハ讓ル所アリト雖モ、遼廓眇忽規摸雄大、而シテ梅花ノ饒多ハ逈カニ之ニ過グ、
之ヲ本邦ノ羅浮ト稱スルモ我其溢れる溢美ニ非ルヲ信ズ
(山中青谿 『靑谿絶賞』 )

明治以降は、化学染料の登場によって、鳥梅の需要が衰退。青谷梅林もまた、衰退したとか。
梅林の荒廃を憂慮した地元は、観光化を企図して、保勝会を結成&上記の 『靑谿絶賞』 も出版。
すぐ傍で奈良鉄道 = 現在のJR奈良線が開通したことも追い風となり、この誘客戦略は当たりました。
明治中頃には観梅スポットとして認知され、変遷を経ながらも、その名声は今なお確固たるもの。
「天下ノ勝」 たる 「月瀬」 に 「讓ル所」 あれど、京都からの利便性では勝てる名所となったわけです。
で、今回、そんな青谷にて梅を観るべく、空だけは真っ青な小春日和に出かけたわけであります。
もちろん、梅グルメだって、堪能しまくり。観梅だけで満足出来るわけ、ありません。

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京都・東山花灯路2017へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2017年3月9日(木)


京都・東山花灯路2017へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

人はどうして、美しい景色をひとり占めしたい、と考えてしまうのでしょう。
自分で作ったわけでもない景色。人に見せない理由は、ないはずです。なのに、見せたくない。
恥ずべき願望や性癖を具現化した景色であれば話は別ですが、そうでもないのに、見せたくない。
無論、そんなケチくさいことを考えず、美を多くの人と分かち合いたいと考える人もいるでしょう。
しかし、私も含め大抵の人々は、美しい景色に遭遇した時、その場に他人がいないことを望みます。
そして多くの場合、その願望の余りの理不尽さを自覚し、己の理不尽さに腹を立てたりもします。
この気持ちは一体、何なんでしょうか。何に因って生まれ、そして、何に因ってこじれるのでしょうか。
答えは、色々と想定し得るかも知れません。何なら、人の数だけ答えがあるのかも知れません。
もし私が答えを求められたとしたら、私はきっと 「恥ずかしさ」 こそがその理由だと答えるでしょう。
こんな時に、こんな所で、こんなことをしてて、いいのか。こんなことしてるのを、人に見られたくない。
私は、景色を 「ひとり占めしたい」 と思う時、常にこんな 「恥ずかしさ」 を同時に感じています。
この 「恥ずかしさ」 ゆえ、他人に対し何らかの攻撃的な感情を抱くことも、珍しくありません。
「邪魔、消えやがれ」 みたいなことも、思ってしまうのであります。実に、悲しいことであります。
こんな時に、こんな所で、こんなことをしてて、いいのか、的な気分が溢れる京都のイベントといえば、
何といっても3月初旬の閑散期対策として行われる、電飾使いまくりの集客イベント・東山花灯路
当サイトではこの東山花灯路、これまで一貫して 「恥ずかしさ」 を全身で感じる荒行日と定義し、
「こんなことしてる」 のを見られるべく、常に人が多いタイミングで単独特攻を敢行し続けてきました
が、もういい加減、疲れました。 「恥ずかしさ」 を感じ過ぎて、心の芯の方が何だか、疲れました。
あと、一度くらい 「邪魔、消えやがれ」 とか思わずに花灯路を観てみたい気持ちも、涌いてきました。
電飾が本当の意味で美しいかどうかはともかく、人の心を蛾に変えるこの灯りの魔力の正体を、
落ち着いた形で見据えるのも、それはそれで意義があるのではないか、と思うようになったのです。
というわけで、2017年の東山花灯路特攻は、人が少ないであろう平日の雨の日を選んで敢行。
「恥ずかしさ」 を大幅削減した目で、改めて花灯路を観てみたのでした。

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御霊神社の御霊祭へ5年連続で行ってきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2016年5月18日(水)


御霊祭の5年連続追尾シャッフル記事、前篇の続きでございます。

御霊祭を見てて毎年感じていたのは、アーシーな祭だな、ということです。
怨霊化こそしてるものの皇族を祭神とし、京都御所からは氏神として崇敬された、御霊神社
その御霊神社の大祭であり、祇園祭など御霊会形式の祭祀のプロトタイプとも目される、御霊祭。
神幸エリアも正に都の中心たる上京がその大半であり、果ては御所でも神輿を差し上げまくり。
そんなロイヤルかつ都会的な祭に、アーシーさを感じるというのは、何だかお門違いとも思えます。
が、アーシーなんですよ。氏神祭的に、アーシーなんですよ。で、その感じが、独特なんですよ。
確かに御霊神社は、殺した弟の怨霊に苦しむ桓武帝により創建されたというロイヤルな伝承も持ち、
怨霊を防衛する都市 = 怨霊を恐怖する都市である平安京に、極めてマッチした社ではあります。
が、同時にこの社は、平安遷都以前より存在した出雲寺の鎮守という見方もあるらしいんですよね。
出雲寺は、出雲郷という所にあった寺。出雲郷は、現在の出雲路の辺 = 御霊神社の氏子圏内。
出雲郷では、その名が示す通り出雲国より移住してきた出雲氏が 「出雲臣」 としてエリアを形成し、
氏寺として出雲寺を、氏神としてその鎮守たる御霊神社の前身の社を、それぞれ祀ってたんだとか。
御霊神社の境内では、平安期の時点でもう荒廃した出雲寺の瓦が、出土したりするようですよ。
いや無論、だからといって 「この祭のOSは千年の時を越えた出雲郷だ」 と言うのは無理過ぎますし、
また御霊神社は現在でも実際に氏神である為、氏神祭の雰囲気が出るのは全く当然の話です。
が、あちこちの祭を追尾した私の目には、御霊祭のアーシーさは、確実に独特なものに見えます。
街の祭の感じとしてアーシーな、あの感じ。やっぱり、出雲郷と何か、関係があるんでしょうか。
本多健一 『中近世京都の祭礼と空間構造』 では、御霊会を起源に持つ主要祭礼の中で御霊祭が、
「唯一官祭的性格を持たなかった祭礼」 としていますが、その辺も何か、関係あるんでしょうか。
というわけで、そんな独特のアーシーさの伝達を主軸にシャッフル構成とした今回の御霊祭記事、
後篇は、ロイヤルにしてアーシーな差し上げ@御所から宮入までを、御覧いただきましょう。
「だからちゃんとルート教えろ」 という方は、やっぱり自力で調べて下さい。

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御霊神社の御霊祭へ5年連続で行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2016年5月18日(水)


上御霊神社の御霊祭へ5年連続で行ってきました。もちろん、ひとりで。

当サイトは、取材した全てのネタを、記事化してるわけではありません。
写真もメモもあるけど、記事にしてない。そんなケースが、全取材数の2割はあるでしょうか。
写真が今イチだとか、作る時間がないだとか、様々な理由でまあ、ペンディングしてるわけですね。
中には、 「毎年のように追尾していながら、今もって未記事化」 なんて祭も、なくはありません。
そのひとつが、御霊祭だったりします。それも、未記事化のまま、実に5年連続で追尾してたりします。
御霊祭。その名の通り、御霊神社の祭です。上と下がある御霊神社の内、上御霊神社の祭です。
最初にこの祭を追いかけたのは、2012年でした。で、上京を進む神幸列に、強い感銘を受けました。
また今出川口・小山郷・末廣会の神輿3基にも、強い感銘を受けました。が、写真が今イチでした。
なので、翌2013年も追尾しました。すると、神幸列も神輿も、前年とは全く違うルートを巡幸しました。
街中を進むあの感じを再び見たいと思い、2014年も追尾すると、巡幸ルートはまた全く別でした。
「なるほど、神輿が3基あるから氏子域も3つ存在し、ゆえに巡幸ルートもまた3通りあるのだ」 と考え、
ゆえに2015年は2012年と同ルートと踏み、四度追尾に挑むと、ルートはまたまた全く違いました。
で、2016年にはもう逆に、新ルートを楽しみに追尾へ出かけたら、今度は2012年と同じルートでした。
で、ああ4年周期かと納得し、ある程度の概観を得たとも考えて、今回の記事化に至ったわけです。
これだけ御霊祭の追尾を続けたのは、祭が持つ独特の雰囲気が一番の理由ではありますが、
5月18日に固定された開催日程と、巡幸範囲の手頃なサイジングもまた、理由の一部ではあります。
日程が固定だと、平日開催の年が当然多く、時間の都合がつかずに見落としが出るんですよね。
あと巡幸範囲は、かなり広いものの基本は街中であり、無理をすれば完全追尾も可能なんですよね。
そんなこんなで、追尾を5年もやってしまいました。で、記録も山のように溜まってしまいました。
というわけで当記事は、山のように溜まったその記録をフル活用すべく、時空を超えてシャッフルし、
ルートに拘らず、祭の大体の流れ+独特の空気感を伝えることを主軸に、まとめてみました。
「空気感とかいいから、ルート教えろ」 という方は、自力で調べて下さい。

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円福寺の春季萬人講へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年4月20日(水)


円福寺の春季萬人講へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「ホーさん」 の記憶というのが、辺境の地・八幡に生まれ育った私にもあります。
ディティール以上にその温度感で京都の恐怖を精緻に描いた入江敦彦 『怖いこわい京都』 で、
女学生の心へ謎の追跡恐怖を植え付ける 「怖いこわい人間」 として登場した、 「ホーさん」 。
その正体はといえば、単に禅宗の雲水さんが 「ほー」 と言いながら托鉢に出てるだけなんですが、
ただ、人間の声とも動物の声とも違う、そしてあらゆる自然の音とも違うあの声は、確かに、不気味。
「ほー」 と言いながら追いかけてくる恐怖をトラウマレベルで抱くことも、ない話ではないでしょう。
いや、僧侶や家元といったいわゆる 「白足袋族」 が社会ヒエラルキーの最上位を占める洛中では、
坊さん達のあの声は別の意味でホラーだったりするのかも知れませんが、その辺はまあともかく。
そんな洛中とは全然関係無い八幡の私が、何故この 「ホーさん」 の記憶を持つのかといえば、
八幡に禅宗の専門道場が存在し、そこの 「ホーさん」 が 「ほー」 と言いながら歩いてたからです。
その道場の名は、円福寺。正式名称、圓福寺。別名、達磨堂 or 江湖道場。山号は、なし。
筒井順慶の日和見で有名な洞ヶ峠の近くに立つ、臨済宗妙心寺派の最初の専門道場であります。
1783年、白隠の高弟&妙心寺塔頭・海福院第6世の斯経慧梁は、この地に道場建立を発願し、
聖徳太子自作と伝わる達磨尊像&寺号なども、地元の石清水八幡宮別当家・田中家からゲット。
かくして江湖道場が完成し、以後現在に至るまで雲水さんが托鉢などの修行に励んでるわけです。
大村しげの著作を読む方なら、文中に時折この寺名が登場するのを御記憶かも知れませんし、
山城地域の方には、毎冬 「ダイコンの木」 ニュースで登場する寺、として御馴染みかも知れません。
そんな円福寺、 「ホーさん」 の方は河岸を変えたのか、私はあまりその声を聞かなくなりましたが、
斯経禅師の遺命で始められた春&秋の萬人講 = 祈祷&お斎付き一般公開は、現在も盛況。
特に春季萬人講は、八幡名物・筍を主役にした精進料理を味わえる、いい機会にもなってます。
というわけで、精進ではなく精進料理を求め、近所の道場へ出かけてみました。

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十輪寺へなりひら櫻を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年3月31日(木)


十輪寺へなりひら櫻を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

阪急バスは、京都に於いて、何とも不思議な存在感を放ってると感じます。
何が不思議かといえば、まず、色が不思議です。吐瀉物を思わせるあの色が、不思議です。
電車の方の阪急はかの 「阪急マルーン」 で彩られ、車体からもハイブランド感を醸成してますが、
阪急バスの方は、そんな高級感をとことん排除したゲロの如きカラーリングを、徹底して死守。
ゲロとは無関係なはずのスカイブルーが妙にゲロ感をブーストしてる辺も含め、実に不思議です。
阪神圏のように運行範囲が広ければ目も慣れるでしょうが、京都は狭いので全然慣れないというか。
で、その運行範囲の狭さと、運行している経路そのものもまた、何だか不思議に思えたりします。
大半の路線は、阪急の乗客が住む住宅地、それこそ不思議も何も無い住宅地を走ってるんですが、
ほとんど山岳路線化する善峯寺行きなんてのも中には混じっており、ギャップ、半端ありません。
阪急京都線は元々京阪が造ったものですが、京都に於ける阪急バスもまた元々は京阪系列でおり、
更にその京阪統括成立以前は、淀川右岸の各地にて零細業者が各々バスを運行してたとか。
こうした時代の名残が、ある種の不思議さを生んでるのかなと思うんですが、あなたどう思いますか。
そんな阪急バス@京都、西山エリアでは唯一の公共アクセスになってる名勝が幾つか存在し、
その内のひとつが、当サイトでも訪れた善峯寺であり、その手前にあるのが今回行った十輪寺です。
十輪寺。正式名称は、小塩山十輪寺。通称は、かの在原業平との縁に因んで、 「なりひら寺」 。
藤原明子 aka 染殿后の安産を祈願すべく、延命地蔵尊を本尊として円仁の弟子・恵亮が開創し、
応仁の乱で衰退するも江戸期に花山院家が再興、現在まで続いている天台宗の古刹であります。
屋根が鳳輦の形をした本堂や、寛文期に作られた鐘楼など、貴重な文化財を擁する十輪寺ですが、
最大の見所は、推定樹齢150~200歳におよぶという、やはり業平の名を借りた 「なりひら櫻」 。
その美しさから某 「そうだ」 に推され、一時は 「見つけた」 感を貪る輩が押し寄せたらしいですが、
ゲロ色のバスの他に公共アクセスが無い為か、現在はほど良く侘を保ってる様に見えます。
そんな十輪寺の 「なりひら櫻」 、無論阪急バスに乗って、観に行きました。

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京都・東山花灯路2016へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年3月20日(日)


京都・東山花灯路2016へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

当サイトへの感想として、 「楽しそう」 という声を頂くことが、稀ながらあります。
京都に於ける超メジャースポットへの単独正面突破を趣旨とする、我が 『ひとりでうろつく京都』 。
ベッタベタのスポットへひとりで特攻し、ベッタベタの客に塗れることで、己が魂をズタズタに傷つけ、
その魂の傷から流れ出る血を以て現場のリアルを記すというのが、サイトの基本コンセプトです。
特攻により生じる苦痛を、ある種の 「ヤラレ芸」 として面白がってもらおうと思ってるわけでは全くなく、
また、自虐の裏返したるナルシズム or エリーティズムで共感を呼ぼうと思ってるわけでも全くなく、
苦痛を正面から受け止め、その苦痛を体感的かつ直接的に伝えることを考えて、更新を続けてます。
が、他人から見ると、崇高なる信念に基づくこの特攻&表現が、何か、楽しそうに見えるそうです。
花灯路の記事で 「震災を忘れていいのか」 的なことを書いてても、何か、楽しそうに見えるそうです。
そういう風に見えるということは、つまり、私はこの荒行を心のどこかで楽しんでるんでしょう。
文句を垂れながらもその一方で、こっそりと、ひっそりと、混雑や賑わいを楽しんでるんでしょう。
卑猥です。卑猥であることは必ずしも悪ではありませんが、独男が卑猥であることは多分、悪です。
そして、こういった卑猥さは、少なくともこのサイトに於いて私が求めているものではありません。
足りてない。苦痛が、足りてない。ディープな苦痛ではなく、凡庸にして浅薄な苦痛が、足りてない。
卑猥な享楽を許す隙などない、酸素自体が毒と化したような逃げ場なき苦痛が、足りてない。
そう考えた私は、2016年度の東山花灯路特攻を、徹底的に混雑する日を選んで決行してみました。
桜シーズン直前&紅葉シーズン直後という閑散期に、ベッタベタスポットである東山&嵐山にて、
電飾をビカビカ光らせて夜間の集客を図り、ひいては宿泊客増加も狙って開催される、京都花灯路
その客層は、光るもんがあれば脊髄反射で近付き群がるような、これまたベッタベタなものであり、
当サイトは崇高なる趣旨を示せる絶好の機会として、東山花灯路については特攻を毎年かけてます
特攻開始直後に震災があった為、個人的には電気について色々感慨が湧くイベントなんですが、
今回は、 「悪天が続いた会期の最終日目前+連休の中日+日曜」 を決行日としてわざわざ選び、
手前勝手な感慨や嘆息を許す隙などない、凡庸にして浅薄な苦痛の中へ飛び込んだわけです。
逃げ場なき混雑で感じた私の苦痛は、体感的かつ直接的に伝わるでしょうか。

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新熊野神社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年5月5日(火)


新熊野神社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「新」 と書いて、 「しん」 と読まずして、 「いま」 と読む。
「本当」 と書いて 「マジ」 と読む類の話ではありません。新熊野神社の話です。マジです。
平安末期、陰謀&戦乱で忙しい後白河法皇が、その忙しさへ追い打ちをかけて熊野信仰へハマり、
何十回と紀州熊野詣を行うも気が済まず、京都・若王子へ熊野神を勧請するもまだ気が済まず、
より 「なう」 感覚を導入するかの如く、院政の舞台・法住寺殿の鎮守として創建された、新熊野神社
清盛らが担った造営に於いては、リアル熊野がある那智の砂が運び込まれたという説もあるなど、
後白河院個人のオブセッションを強く反映される形で創建された印象のある社ではあります。
が、後白河院亡き後もこの社は、現在では想像できない広大な社領&荘園を持つ社として、継続。
また、熊野は修験道の聖地でもある為、新熊野社に於いても多くの山伏が旺盛な活動を展開。
さらに室町時代に至ると、観阿弥世阿弥親子による猿楽能を、足利義満がこの社で初めて見物し、
能が幕府の庇護を受けるきっかけとなった 「能楽発祥の地」 としてのエピソードも、有名でしょう。
応仁の乱の兵火で一時 「わず」 状態へ陥りますが、江戸期に入ると聖護院などの力を借りて、再興。
「いま」 は、すっかり宅地化した今熊野の氏神的存在として、ネイティブで強い信仰を集めてます。
そんな新熊野神社が毎年5月5日のこどもの日、年に一度の例大祭として執行する神幸祭は、
千年単位のロイヤルな由緒と、 「なう」 な現在進行形の信仰の両方を、垣間見させてくれる祭です。
子供の神輿&マーチングバンドが登場するあたりは、実に宅地のネイティブ祭という感じですが、
氏子域の巡行にあたって神が乗るのは、一般的な神輿ではなくクラシックな鳳輦と、極めてロイヤル。
また聖護院との深き縁に因むのか、山伏による神仏習合全開な行列同行+鳳輦への読経もあり、
さらには獅子舞の演舞も大々的にフィーチャーするなど、賑やかで面白い祭となってます。
そんな 「いま」 の神幸祭、のんびり拝ませて頂きました。

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将軍塚へ、夜桜と夜景を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年4月4日(土)


将軍塚へ、夜桜と夜景を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

夜景を観たいという気持ちが、私は湧かないというか、そもそもよくわかりません。
函館長崎といった夜景で知られる街へ出かけた際も、特に観たいとは思いませんでした。
長崎では、道に迷った流れで偶然に夜景を観ることにはなりましたが、これといった感慨も湧かず、
むしろ迷路めいた街自体や、日常に紛れ込む被爆者向けの各種案内が印象に残ったものです。
人間には、空から地を見る人と、地から空を見る人の、2種類が存在するのかも知れません。
私はきっと、後者なんでしょう。空から地を見下しても、何かを読み取ることが出来ないんでしょう。
ある意味、 「夜景不感症」 なわけですが、この症状、京都の夜景がしょぼいことも一因と思われます。
巨大建造物も無く、海など自然の演出も無く、人々の細々とした生活が見えるだけの、京都の夜景。
不感症を誘発するネガティブ・イメージを植え付けられた人は、案外多いのではないでしょうか。
あんなん観て、どうすんのん、と。あんなん観て、何が面白いのん、と。阿呆ちゃうのん、と。
とはいえ、 「夜景は観るものではなく性的に活用するもの」 という元気な輩はどこにでもいるのであり、
また、己で己を 「空から地を見る人」 と言い聞かせたい煙のような習性を持つ輩もいるのであり、
こうした連中がしょぼ過ぎる夜景をわざわざ観るというスポットもまた、京都にはいくつか存在します。
その代表が、将軍塚。東山に連なる華頂山にあり、現在は青蓮院門跡・別院になってる塚です。
そもそもは、遷都先を探していた桓武天皇が、ここから盆地を見下ろし平安遷都を決めた場所であり、
遷都後は王城を霊的に守護すべく、完全武装した巨大な将軍像が埋められたという伝説もあり。
国家危機の際は、この将軍像が山を揺らし、鳴動を起こすというスピリチュアルな伝承も誇りますが、
高度成長期に東山ドライブウェイが開通すると、一転して夜景スポットしての世俗的な名声を獲得。
華頂山山中でサルベージされたという大日如来を祀る大日堂も、春・秋にはライトアップを展開し、
美しく照らし出された桜や紅葉がしょぼい夜景を盛り立てて、不感症の進行を防いでくれたりもします。
当サイトでは2011年、開花直前という意味不明なタイミングにて一度将軍塚を訪問してますが、
2014年に大規模な改装が行われたので、その確認も込みで今回、桜の季節に再訪してみました。
しょぼ過ぎる夜景は、桜の魔力により鮮やかな美景へと生まれ変わるのでしょうか。

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伏見桃山城へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年4月2日(木)


伏見桃山城へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

再生産への強い欲求を示す数多くのエピソードを残しながらも、
その欲求の報われなさ加減に、ある種の 「呪い」 の存在さえ考えたくなる、豊臣秀吉
実子かどうかも怪しい実子・秀頼など、遺された豊臣宗家が辿った末路の悲惨さは言うに及ばず、
バカスカ建てまくり桃山文化を築いた豪華絢爛たる建築物もまた、その多くが現存しません。
無論それら建築物の破壊は、極めて現実的な政治的都合に左右された結果の場合が大半ですが、
中には、聚楽第のように存命中の秀吉自身が半狂乱で地上から完全抹殺したものもあったり、
昭和期まで生き残ったにも関わらず火災で焼失してしまった方広寺の大仏みたいなのもあったりと、
その 「跡」 の残らなさ加減は、何かの魔力、それこそ 「呪い」 の存在を勘ぐりたくなるほどです。
聚楽第&方広寺大仏の消滅が示す通り、京都はその 「呪い」 の傾向が異様なまでに顕著であり、
町を改造されて怒り心頭の町衆や、洛外へ強制移転させられて恨み骨髄の寺の坊主たちが、
1000年単位の呪いを集団でかけたんじゃないかとか思ったりするんですが、あなたどう思いますか。
で、今回訪れた伏見桃山城もまた、そんな 「呪い」 が作用してると思えてしまうスポットです。
秀吉が死した城・伏見城を、名城のエッセンスを寄せ集める形で昭和期に再建された、伏見桃山城。
築城された当時は近鉄電車が管理を行い、城の隣には 「キャッスルランド」 なる遊園地も開園、
城と一体化したレジャー施設としてそれなりの存在感を示してましたが、90年代以降は競合で苦戦。
結局、2003年に 「キャッスルランド」 が閉園し、ついでに城の管理も近鉄は放棄&京都市へ譲渡。
城の解体は何とか免れましたが、耐震性に問題があり、対策費用を捻出できないことも発覚し、
現在は内部への出入は完全禁止となり、昭和元禄の遺産としての存在感を日々増してます。
これはもう、 「呪い」 です。再建であっても、秀吉ゆかりの建造物は、京都では生き残れないのです。
と、適当過ぎる冗談はともかくとして、この昭和遺産に於いて近年良い感じで咲いてるのが、桜。
「呪い」 に対抗して秀吉の遺恨が作用したのか何なのか、大量の桜が見事に咲くようになりました。
あるいはその美しさもまた、城が孕む破滅の予兆に感応してのものかも知れませんが、
「夢の跡」 を模した 「夢」 の抜け殻に咲く夢、とにかく観てきました。

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大石神社へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年3月31日(火)


大石神社へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

大石神社。京都・山科にあって、その名が示す通り、大石を祀る神社です。
といっても、巨大な石を御神体的に祀るといった、プリミティブな信仰が息づく社ではありません。
何ちゃらの何ちゃらとして余りにも有名な、大石良雄 aka 大石内蔵助を祀る神社であります。
大石内蔵助。江戸期の何ちゃら藩にあって何ちゃらに何ちゃらするものの、その何ちゃらが何ちゃら。
直ちに何ちゃらの為に何ちゃらを決意した大石は、入念なる何ちゃらを行った後、見事、何ちゃら。
その何ちゃら振りは 『何ちゃら』 として物語化され、日本人の心性に合ったのか神話レベルで浸透。
近年は日本のみならず、ハリウッドでRNN47的に何ちゃら化されたのも、記憶に新しいところです。
そんな大石が、何ちゃらの為に何ちゃらをする準備段階の際、隠棲してた地こそが、京都・山科。
何ちゃらの気配を敵に気取られぬ為の偽装か、あるいは単に都会に来て何ちゃらしたくなったのか、
伏見の色街・橦木町へ出かけては 「隠棲」 ならぬ 「淫性」 に励んだという説もあったりしますが、
とにかくそんな隠棲に於ける大石との縁に基づき創建されたのが、こちら大石神社なのであります。
創建されたのは昭和初期と、かなり最近。創建を提唱したのは、上方の浪曲師・吉田大和之丞
境内には、 『何ちゃら』 を演じたスターから奉納されたお宝アイテムを多数所蔵する宝物館が建ち、
また、戦前の関西圏に於ける芸能パワーの残り香が感じられる点でも興味深いスポットなんですが、
それと同時に、いや近年はある意味でそれ以上に人気を呼んでるのが、 「大石桜」 なる名の桜
神社創建の際、建設地に生えてた枝垂れ桜を境内に定植して、御神木にされたというこちらの桜は、
元々は名無しの御神木だったそうですが、親しまれる内に自然と 「大石桜」 なる呼称が定着。
現在は桜の名木として、正直さほどアクセスが良くない立地ながら、多くの参拝者を集めてます。
そんな大石桜、何ちゃらの何ちゃらを何ちゃらすべく、観に行ってきました。

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京都・東山花灯路2015へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年3月13日(金)


京都・東山花灯路2015へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

紅葉終了直後の12月&桜開花直前の3月という観光閑散期に、
電飾を導入した無料の客寄せイベントとして嵐山&東山にて始まった、京都花灯路
その客層は、蛾の如く光へ群がる輩+蟻の如く無料を喜ぶ輩のWパンチという美しきものであり、
「京都観光の超メジャースポットへの単独正面突破」 という崇高なる趣旨を明確に示せる機会として、
当サイトでは2011年度の東山花灯路を皮切りとして、このイベントの定例特攻を続けてきました
が、その2011年は無論、東日本大震災が発生した年。それも、発生数日後に花灯路が始まった年。
関東圏を中心に各地で電気が止まる中、混乱状態で開催されたこの年の印象が強過ぎた為か、
私は花灯路について現在でも、阿呆な観光客を眺めて面白がるという阿呆な冷やかし根性と、
震災により叩きつけられたある種の根源的懐疑が、同時に惹起させられるという状態が続いてます。
グリーン発電であろうが何であろうが、ライトアップそのものが孕む何かに対する、根源的懐疑。
そして、実は京阪神エリアもまた地方へ原発を押しつけ続けてるという事実に対する、根源的懐疑。
震災から4年経ち、その懐疑に何らかの答えが出たかと言えば、そんなことは一切ありません。
また、問題の主因たる消費社会への反省が深まっているかと言えば、そんなことも一切ありません。
というか、事態の根源的などうにもならなさは、むしろより明確な姿となって我々の眼前に現前し、
そのどうにもならなさ故、一時はあちこちで乱用されていた 「絆」 や 「祈」 の文字も、段々と後景化。
東山花灯路2015の行灯文字でも、以前の 「祈」 に変わって、 「京」 の字が登場してたのでした。
ある種の積極性の回避という気配を除けば、無意味な記号性しか感じられない、 「京」 の字。
「あ~」 という感じなのであります。納得でもなく、落胆でもない、 「あ~」 という感じなのであります。
それこそ、無意味な記号のような響きで 「あ~」 という声が漏れる、そんな感じなのであります。
で、2015年はこんな感じだと言われたら、確かにそんな感じもするんですが、あなたどう思いますか。
そんな 「あ~」 な感じの東山花灯路2015、 「どんな感じだ」 という話になってて大変恐縮ですが、
今回も冷やかし根性と根源的懐疑が交錯してクラクラする頭で、特攻、やってきました。
適当な写真の羅列から 「あ~」 な感慨、感じてもらえると幸いです。

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松尾大社の還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2014年5月11日(日)


松尾大社の還幸祭追尾、前篇からの続きです。

このサイトを始めてから、私が最も衝撃を受けたのは、松尾祭です。
「半笑いで京都を面白がってやろう」 「それでゲスいアクセス集めて、広告で儲けてやろう」
「こんな面白いこと思いついて実行する俺って、最高」 と、糞の如き考えでネタ集めを始めた私に、
2011年4月に追尾した松尾祭の神幸祭は、凄まじいまでのショックを与えてくれたのでした。
当時の記事を読むと、わけのわからん熱気に憑かれた内容で、自分でも奇妙に思える程ですが、
何がそんなにショックだったかといえば、上手く言えませんが、本物だったからではないでしょうか。
「本物」 や 「ほんまもん」 といった括弧付のものではなく、単なる本物がそこにあったというか。
伝統保存系 or 町おこし系の、ある意味で辛気臭かったり胡散臭かったりする盛り上がり方とは違う、
町に生きる人間が自主的かつ好き勝手に盛り上がってるという、極めてリアリティのある祝祭。
それでいて単なる享楽のみならず、千年前からの歴史と現在が直結もしてるという、ダイナミックさ。
こんな祭が、こんな本物が、京都にあったのか。知らなかった。完全に、舐めていた。
本物の衝撃を正面から喰らったことで、ぼ~っと見てただけとはいえ腐り切った性根を叩き直され、
以後は、真摯に向き合うべき事象には出来る限りのリサーチと共に真摯な態度で向き合うよう心がけ、
そうでないものには半笑いではなく全笑いの態度で臨むようになったんですが、それはともかく。
そんな腐れナルシスの性根をも叩き直してしまった松尾祭、還幸祭追尾の後篇であります。
前半では、地元町内を巡行した6基の神輿が西寺公園へ集結+再び出発するまでを追いましたが、
後篇では、御前通北上+朱雀御旅所巡幸+旧街道巡幸+松尾大社への宮入りまでを、追尾。
いや追尾といっても、再三言ってるように、全貌を追うにはこの祭の規模は余りにもデカ過ぎるため、
ヘタレ気味にちょこちょこっと幾つかのポイントで覗いてる程度の内容ではありますけど。
おまけに後半は神輿写真の波状攻撃で、もはや何が何だかわからん世界になってますが、
本物の祭が持つ本物の熱気、気配くらいでも伝われば、幸いです。

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