超メジャー級 - ひとりでうろつく京都 (β版)

祇園祭・後祭の山鉾巡行を、ホテルのテレビで観ました。もちろん、ひとりで。

2022年7月24日(日)


祇園祭・後祭の山鉾巡行を、ホテルのテレビで観ました。もちろん、ひとりで。

2022年7月24日に行われる祇園祭・後祭の山鉾巡行は、絶対に観なくてはいけません。
何せ、約200年も休止してた鷹山が巡行に復帰するのです。見逃すわけには行かないでしょう。
現場は、暑いけど。言いたくないけど、でもだからと言って黙ってると発狂しそうなくらい、暑いけど。
それにコロナも、もう大丈夫とは思うものの、少し気になるし。うつすのも、うつされるのも、何だし。
用もないのに密集したがる輩とかも、多そうだしな。そういう輩に近寄られるの、ちょっとあれだしな。
どうしよう、と懸念も湧きはします。しかし、鷹山の復活です。見逃すわけには行かないでしょう。
鷹山。応仁の乱以前から 「鷹つかい山」 として巡行に参加していたという、長き歴史を誇る山、鷹山
そのモチーフは在原行平光孝天皇の御幸で鷹狩を行う場面であり、御神体は鷹匠&犬飼&樽負。
初期は従者の樽負が粽を食すカラクリで人気を呼ぶ一方、罹災と復活を繰り返しながら拡大を続け、
戦国期には囃子方が乗り込む曳山となり、江戸期には曳山で初の屋根を設けて曳山の鉾化を牽引。
江戸後期には黒塗りの大屋根を構えて都大路に降臨し、鬮とらずで大船鉾の直前を巡行した、鷹山。
しかし、文政期には大雨による損傷で巡行中止に至り、蛤御門の変/どんどん焼けでは部材も焼失。
時代の激変のため復興は困難となり、近世~現代の約200年間は残った人形3体で居祭のみを続行。
近年に至り、町内に留まらず広く支援を得る形での復活に道筋が見えたことで復興の気運が高まり
囃子方復活と唐櫃巡行参加を経て山の再建も実現、本年2022年に巡行への復帰が実現した、鷹山。
正に、200年ぶりの復活です。こんなことは、もう二度と目撃出来ないかも知れません。
仮にも京都に関するサイトなどやってる者であれば、絶対に見逃すわけには行かないでしょう。
現場は、暑いけど。言いたくないけど、でもだからと言って黙ってると発狂しそうなくらい、暑いけど。
それにコロナも、もう大丈夫とは思うものの、少し気になるし。うつすのも、うつされるのも、何だし。
用もないのに密集したがる輩とかも、多そうだしな。そういう輩に近寄られるの、ちょっとあれだしな。
どうしよう。絶対に見逃すわけには行かないけど、どうしよう。あ、そうだ。テレビの中継で観よう。

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節分の平等院・鳳翔館へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2020年2月3日(月)


節分の平等院・鳳翔館へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

が退治された世界で生きるということ。我々はそのことを、もっと真剣に考えるべきです。
鬼に連れ去られることがない世界。鬼に殺されることがない世界。鬼に食われることがない世界。
それは果たして、真の意味で平和と呼べる世界なのか。果たして、幸福と言える世界なのか。
いや、無論それは幸福には違いありません。問題は、我々が幸福だけで満足できない点にあります。
鬼という存在によって秘かに満たされてきた、我々の欲望。連れ去り、殺し、食いたいという欲望。
これらの欲望を満たす機会を、鬼のいない平和な世界の代わりに、我々は手放したのではないのか。
またこの平和で幸福な世界は、単に鬼よりも巨大で極悪な権力に地均しされた地獄ではないのか。
こうした疑念を等閑視し、呑気に鬼を 「他者」 「外部」 として夢想するなど、欺瞞でしかありえません。
この世界で鬼と向き合うのなら、我々が鬼を殺した側であるという痛みを、まず見据えるべきです。
そして、その痛みを通じて、鬼退治後の世界に於ける平和・幸福の実相こそを、見据えるべきです。
そう考えた私は、恒例となった節分の鬼めぐりに於いて今回、平等院へ赴くことにしました。
平等院。言うまでもなく、京都・宇治に在って鳳凰堂で広く知られる、世界遺産のひとつであります。
離宮化→別荘化→寺化という平安後期の信仰&権力の様を物理的に現代へ伝える、正に名刹。
そんなロイヤル&パワフルな平等院へ節分に赴く理由は、その宝物殿・宇治の宝蔵に他なりません。
成敗された鬼の首は、都で帝の叡覧を経た後、蔵へ納められました。この蔵こそが、宇治の宝蔵。
権力に敗れた鬼の最期、またその骸が現代まで受け続ける辱めを、体現してる場所と言えるでしょう。
「いや、宇治の宝蔵って単なる伝承だよ」 と言うなら、鬼もまた、極めて伝説・伝承的な存在です。
そして、伝承が何かしらのリアルを含むのは、自明のこと。となれば、宇治の宝蔵も事情は同じはず。
鬼退治とは果たして、どういうことなのか。鬼のいない世界とは果たして、どういう世界なのか。
幻想と錯覚の中でしか触れ得ないそんな真実に触れるべく、私は2月の宇治へ向かったのでした。
ので、宇治茶を喫む暇など、あるわけありません。茶蕎麦を食う暇も、あるわけありません。

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平安神宮へ京都薪能を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2019年6月1日(土)


平安神宮へ京都薪能を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

平安神宮には、普段は有料の神苑に無料で入れる日が、年に2日設定されてきました。
ひとつは、6月の4日頃。もうひとつは、9月の17日頃。共に、神苑の入苑料がタダになるわけです。
タダになる理由は、言うまでもないでしょう。6月も、9月も、観光客が少なくなるシーズンだから。
6月は、行事があまりなくて、蒸し暑いだけの季節。9月も、行事があまりなくて、蒸し暑いだけの季節。
通振りたい観光客に青もみじを押し売りしても、生理的苦痛を忘れさせるまでには至らないのか、
あるいはやはり単に雨が多いからなのか、とにかく今ひとつ盛り上がりに欠ける時期ではあります。
ので、タダ日があると。修学旅行生が6月に多いのも、その辺の事情が関係してるんでしょうか。
では、毎年6月に行われる薪能が、タダ日と同じ目的で始まったのかといえば、それはわかりません。
元ネタたる奈良・興福寺薪能と同じく、宗教的理由とかを持つ可能性も、充分あるとは思います。
が、地味な6月の京都にて最大の規模を誇る催事となってるのは、紛れもない事実ではあるでしょう。
薪能。正式名称、京都薪能。昭和25年より開始された、平安神宮にて開催される能公演です。
だだっ広い境内に特設舞台と客席を設け、日暮れ頃から薪を焚きながら展開されるのが、この公演。
1日&2日に開くことで梅雨の雨を避け、また雨天でも隣の京都会館が会場化出来ることがあって、
祇園祭がまだまだ遠い6月に彩を添える催事としてすっかり定着し、現在に至るまで継続されてます。
つまりこの薪能、明らかに大メジャーな行事です。が、当サイトでは今までスルーしてきました。
理由は、私が能に興味がないから。加えて、興味がない者にはチケットが高価過ぎると思えるから。
無論、興味がなくてもメジャー案件であれば、うちでは特攻をやってきました。をどりや、川床とか。
でも、少なくともをどりには、舞妓さんがいる。川床では、料理が食える。でも薪能には、どっちもない。
あるのは、眠い声と鼓の音。あとは、普段よく行く岡崎の雑音。行く気、しません。避けてました。
が、当サイトの趣旨はあくまでメジャーどころの単独特攻。これ以上、逃げることは許されません。
ので、行ってきました。高い金払って興味のないものを、夜どころか昼から観てきました。

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醍醐寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2019年4月5日(金)


醍醐寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

当サイト 『ひとりでうろつく京都』 にはこれまで、醍醐寺の桜記事が存在しませんでした。
メジャースポットへの単独特攻を身上とする、当サイト。醍醐寺スルーなど、基本、ありえません。
なのにスルーし続けてきた理由は、ただひとつ。豊太閤花見行列の時に、特攻したかったからです。
秀吉が己の命の散り際に華々しく催し、醍醐寺を名実共に桜の名所としたともいえる、醍醐の花見
そして、単なるコスプレ祭にも見えるものの、その醍醐の花見を現代に復活させた、豊太閤花見行列。
醍醐寺の桜を観るなら、この行列と共に観るのが、筋だろう。そう思い、機会を窺ってたわけですね。
で、サイトを始めた頃から2019年に至るまで、その機会がことごとく振られ続けてきたわけですね。
豊太閤花見行列が行われるのは、4月中旬。京都の桜は、散り際 or 完散のタイミングとなります。
「花見客を少しでも残そうとして、散り際にやってるんだろ」 と、思わず勘繰りたくなる間の悪さですが、
とにかくタイミングが合わないまま時は過ぎ、結果として何年もスルーし続けてしまってたのでした。
しかし、醍醐寺はやはり、醍醐寺。そんな理由で延々スルーなど、やはり許されないのです。
醍醐寺。真言宗醍醐派総本山、醍醐寺。秀吉が花見をするために建てた寺、では無論ありません。
平安時代初期に京都東南の醍醐山を丸ごと境内として創建されて以来、修験霊場として信仰を集め、
醍醐天皇を筆頭に皇室の庇護も厚く受けた、極めてロイヤルかつスピリチュアルな寺であります。
が、応仁の乱を食らって、醍醐天皇の冥福を祈る五重塔以外、壊滅。が、その後に秀吉が、出現。
秀吉からの帰依を得た醍醐寺は、伽藍の造営・改修と共に、醍醐の花見に向けた桜の植樹も実現。
この醍醐の花見により何とか盛り返し、以後も色々あるのもの、世界遺産として現在に至るわけです。
で、桜の方もまた、京都随一の桜メジャースポットと呼ばれるに相応しい威容を誇ってるわけです。
五重塔周囲に加えて、三宝院に博物館、タダ観ゾーンの桜馬場など、実に見所が多い醍醐寺の桜。
当然、シーズン中は平日だろうが何だろうが、大混雑。となれば、スルーはやはり、許されません。
そう思い今回、特攻したのでした。行事も何もない単なる普通の日に、特攻したのでした。

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京都・東山花灯路2018へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2018年3月13日(火)


京都・東山花灯路2018へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

これといった理由も動機もなく東山花灯路へ立ち寄ることが、たまにあります。
大抵は、北側ゲート近くの図書館から帰る時です。調べもので、帰りが遅くなった時とかです。
平安神宮の辺から神宮道をフラフラ南下して電飾ゾーンへ入り、そのまま写真も撮らず歩き続け、
プレッシャーがどうこうといったことも考えないまま、極めて適当な気分でうろついたりするわけです。
少し遠回りして帰る、というくらいの気持ちで。少しは運動もしなくては、というくらいの気持ちで。
そんな時に目にする花灯路は、つまり単なる通行人としてごくごくナチュラルな目で眺める花灯路は、
それこそ 「特攻じゃあ」 と意気込んでる時とは違って見えるかといえば、そんなことはありません。
安い集客を図るべく撒かれた電飾と、それに吸い寄せられる蛾の如き民が、蠢いてるだけです。
が、特攻時のようにそれを注視するのではなく、さらっと通り過ぎてると、気分は結構変わってきます。
楽しいかといえば、特にそんなことはない。では楽しくないかといえば、これもそんなこともない。
そんな、無な気分になるんですよね。で、こんな気分になる場所というのは、他にないんですよね。
桜開花前の閑散期に於ける集客イベントとして始まり、狙い通りの活況を生んだ、東山花灯路
その活況により生じる地獄の沙汰については、当サイトでも以前から延々とお伝えしてきた通りです。
が、その一方で、さらっと通り過ぎる際に感じるこの無な気分も、実は以前から気になってました。
この不思議な気分は一体、何なんだろう、と。この無は一体、何処から生じてるものなんだろう、と。
というわけで2018年花灯路特攻は、この無にこそ対峙しようと考え、先述の遠回り帰宅モードで決行。
平日の夜、客層を細かく見ず、写真もなるべく撮らず、散歩の如くうろついてみたのであります。
そして、無の発生源を確かめるべく、電飾で強調された闇などにこそ目を凝らしてみたのであります。
そう、これは新たな挑戦なのです。 「平熱の花灯路」 みたいなものを伝える為の、挑戦なのです。
決して、マンネリでやる気がすっかりゼロなのを、屁理屈で誤魔化してるのでは、ありません。
断じて、そもそも花粉症ゆえ細かく見るのが面倒臭かったのでも、ありません。

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京都・東山花灯路2017へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2017年3月9日(木)


京都・東山花灯路2017へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

人はどうして、美しい景色をひとり占めしたい、と考えてしまうのでしょう。
自分で作ったわけでもない景色。人に見せない理由は、ないはずです。なのに、見せたくない。
恥ずべき願望や性癖を具現化した景色であれば話は別ですが、そうでもないのに、見せたくない。
無論、そんなケチくさいことを考えず、美を多くの人と分かち合いたいと考える人もいるでしょう。
しかし、私も含め大抵の人々は、美しい景色に遭遇した時、その場に他人がいないことを望みます。
そして多くの場合、その願望の余りの理不尽さを自覚し、己の理不尽さに腹を立てたりもします。
この気持ちは一体、何なんでしょうか。何に因って生まれ、そして、何に因ってこじれるのでしょうか。
答えは、色々と想定し得るかも知れません。何なら、人の数だけ答えがあるのかも知れません。
もし私が答えを求められたとしたら、私はきっと 「恥ずかしさ」 こそがその理由だと答えるでしょう。
こんな時に、こんな所で、こんなことをしてて、いいのか。こんなことしてるのを、人に見られたくない。
私は、景色を 「ひとり占めしたい」 と思う時、常にこんな 「恥ずかしさ」 を同時に感じています。
この 「恥ずかしさ」 ゆえ、他人に対し何らかの攻撃的な感情を抱くことも、珍しくありません。
「邪魔、消えやがれ」 みたいなことも、思ってしまうのであります。実に、悲しいことであります。
こんな時に、こんな所で、こんなことをしてて、いいのか、的な気分が溢れる京都のイベントといえば、
何といっても3月初旬の閑散期対策として行われる、電飾使いまくりの集客イベント・東山花灯路
当サイトではこの東山花灯路、これまで一貫して 「恥ずかしさ」 を全身で感じる荒行日と定義し、
「こんなことしてる」 のを見られるべく、常に人が多いタイミングで単独特攻を敢行し続けてきました
が、もういい加減、疲れました。 「恥ずかしさ」 を感じ過ぎて、心の芯の方が何だか、疲れました。
あと、一度くらい 「邪魔、消えやがれ」 とか思わずに花灯路を観てみたい気持ちも、涌いてきました。
電飾が本当の意味で美しいかどうかはともかく、人の心を蛾に変えるこの灯りの魔力の正体を、
落ち着いた形で見据えるのも、それはそれで意義があるのではないか、と思うようになったのです。
というわけで、2017年の東山花灯路特攻は、人が少ないであろう平日の雨の日を選んで敢行。
「恥ずかしさ」 を大幅削減した目で、改めて花灯路を観てみたのでした。

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祇園祭・前祭の宵山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年7月16日(土)


祇園祭・前祭の宵山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

海がない街・京都に、忽然と海が現われる夜。それが、祇園祭の16日の宵山です。
海水の代わりに街中を流れるのは、人間。いや、より呼称のニュアンスにこだわるなら、人肉。
36度前後のじっとりした温度を持つ肉塊が、山鉾巡行&神輿巡幸の前夜に群れ集って肉海を生み、
その海に迷い込んだ者は、肉の潮目を読みながら泳ぐかの如き地獄を、味合わされるわけです。
また、肉温と気温がほぼ同温となる為、空気まで肉と化すように感じる無駄なまったり感が醸成され、
まるで湯の代わりに人間を張った肉風呂へ沈められるかの如き地獄も、味合わされるわけです。
恐ろしいのであります。京都最大級の動員を誇る行事@狭い街中 in 真夏。恐ろしいのであります。
「う回せよ」 というアラートを出されたら、素直にトンズラしたくなるくらい、恐ろしいのであります。
「京都の超メジャースポットへの単独正面突破」 を本義とする当サイトとしては、この恐るべき宵山、
その恐ろしさゆえに絶対避けられぬ行事と考え、ネタ採取を始めて早々に、特攻を決行しました
が、それ以来、出かけていません。17日の山鉾巡行には何度か行ってますが、出かけていません。
何故か。恐ろし過ぎたからです。地獄が、地獄過ぎたからです。肉が、肉過ぎたからです。
サイトの本義より健康が大事と判断し、人道的措置として長きに亘り 「う回」 を続けてきたのでした。
しかし、宵山のメジャーさ加減を改めて考えると、ずっと避け続けるというのも、ちょっと考えもの。
それに、2014年の後祭復活によって、16日 = 前祭の宵山も、多少は混雑が分散・緩和されたはず。
「近畿一円の阿呆な若者やDQNが大集結」 という古典的な馬鹿騒ぎも、多少は失速したはず。
いくら何でも、学ぶだろ。情報端末が普及して、阿呆な万能感まで普及する昨今だから、学ぶだろ。
再生産がこれだけ大変な御時世に、阿呆だけが無限&無尽に再生産され続けるわけ、ないだろ。
だから多分、大丈夫。みんな同じ人間なんだから、きっと分かり合えるよ。肉とか言っちゃ、駄目だよ。
と考え、今回、5年振り& 「前祭の宵山」 に戻ってからは初めて、16日の宵山へ行ってみました。
のみならず、山鉾の分散&客減少を見込み、前回は日和った山鉾町特攻+山鉾コンプにもトライ。
レッドアラートの先へ臆することなく突き進み、 「山鉾町の宵山」 の全てを観に行ったわけです。
時は奇しくも、土曜。果たして私は、肉海を無事に泳ぎ切ることが出来るでしょうか。

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京都・東山花灯路2016へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年3月20日(日)


京都・東山花灯路2016へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

当サイトへの感想として、 「楽しそう」 という声を頂くことが、稀ながらあります。
京都に於ける超メジャースポットへの単独正面突破を趣旨とする、我が 『ひとりでうろつく京都』 。
ベッタベタのスポットへひとりで特攻し、ベッタベタの客に塗れることで、己が魂をズタズタに傷つけ、
その魂の傷から流れ出る血を以て現場のリアルを記すというのが、サイトの基本コンセプトです。
特攻により生じる苦痛を、ある種の 「ヤラレ芸」 として面白がってもらおうと思ってるわけでは全くなく、
また、自虐の裏返したるナルシズム or エリーティズムで共感を呼ぼうと思ってるわけでも全くなく、
苦痛を正面から受け止め、その苦痛を体感的かつ直接的に伝えることを考えて、更新を続けてます。
が、他人から見ると、崇高なる信念に基づくこの特攻&表現が、何か、楽しそうに見えるそうです。
花灯路の記事で 「震災を忘れていいのか」 的なことを書いてても、何か、楽しそうに見えるそうです。
そういう風に見えるということは、つまり、私はこの荒行を心のどこかで楽しんでるんでしょう。
文句を垂れながらもその一方で、こっそりと、ひっそりと、混雑や賑わいを楽しんでるんでしょう。
卑猥です。卑猥であることは必ずしも悪ではありませんが、独男が卑猥であることは多分、悪です。
そして、こういった卑猥さは、少なくともこのサイトに於いて私が求めているものではありません。
足りてない。苦痛が、足りてない。ディープな苦痛ではなく、凡庸にして浅薄な苦痛が、足りてない。
卑猥な享楽を許す隙などない、酸素自体が毒と化したような逃げ場なき苦痛が、足りてない。
そう考えた私は、2016年度の東山花灯路特攻を、徹底的に混雑する日を選んで決行してみました。
桜シーズン直前&紅葉シーズン直後という閑散期に、ベッタベタスポットである東山&嵐山にて、
電飾をビカビカ光らせて夜間の集客を図り、ひいては宿泊客増加も狙って開催される、京都花灯路
その客層は、光るもんがあれば脊髄反射で近付き群がるような、これまたベッタベタなものであり、
当サイトは崇高なる趣旨を示せる絶好の機会として、東山花灯路については特攻を毎年かけてます
特攻開始直後に震災があった為、個人的には電気について色々感慨が湧くイベントなんですが、
今回は、 「悪天が続いた会期の最終日目前+連休の中日+日曜」 を決行日としてわざわざ選び、
手前勝手な感慨や嘆息を許す隙などない、凡庸にして浅薄な苦痛の中へ飛び込んだわけです。
逃げ場なき混雑で感じた私の苦痛は、体感的かつ直接的に伝わるでしょうか。

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五山送り火の大文字を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

2015年8月16日(日)


五山送り火の大文字を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

五山送り火。ござんのおくりび。間違いなく、京都の夏に於ける最大級の風物詩です。
お盆に際し現世へ帰って来た精霊 aka おしょらいさんを、再び冥界へ送る万灯籠の習俗が、
花の都で様々な影響を受け大規模化した末、闇夜にページェントを現出させるに至った、送り火。
炎で描かれた 「大文字」 「妙法」 「舟形」 「左大文字」 「鳥居形」 が街を囲むそのビジュアルは、
本来の目的たる信仰を集めると共に、 「夏の風物詩」 の枠を越え京都観光そのもののアイコン化。
ホテル屋上で酒の肴に眺める仏罰必定の輩から、五山コンプへ挑む自転車の珍走団に至るまで、
様々な阿呆に阿呆な意欲をも湧かせる巨大イベントとなっていることは、誰もが知る所でしょう。
そんな五山送り火、京都の超メジャースポットへの単独正面突破をモットーとする当サイトとしては、
本来なら絶対に見逃すわけにはいかない、何を差し置いても押さえておくべき行事ではあります。
しかし、これまで当サイトに送り火記事は、存在しませんでした。あらゆる形で、存在しませんでした。
決して、避けてたわけではありません。被災木材拒否でウンザリし、避けてたわけではありません。
逆です。ネタの採取は毎年、敢行し続けてきたのです。そして、全てに失敗し続けてきたのです
採取を始めた2011年は、自転車による五山コンプに挑むも、嵐山へ珍走する途中で、タイムアウト。
2012年は、懲りずに自転車でコンプに挑むも、北山通の混雑で躓き、舟形の手前で貧血ダウン。
2013年は、混雑回避を考え、敢えて徒歩&公共交通機関で挑むも、妙法を過ぎた辺で早速、アウト。
2014年は、発狂して全徒歩コンプに挑むも、大文字以外全アウト。と、失敗し続けてきたのです。
そして、各山の点火時間が繰り上がった2015年、私は流石に考えました。コンプはもう、止めようと。
むしろ、1年に1山ずつ回る方がまだ、いいかも。その方が、うちには、合うかも。そうだ、そうしよう。
というわけで当サイトは、五山送り火を5年かけてコンプする5ヵ年計画の発動を、ここに宣言します。
計画発動期間中、彼女が出来てサイト更新を辞めたり、または私が死んだりするかも知れませんし、
外出の面倒さから年数が6ヵ年とか8ヵ年とかに化ける可能性もありますが、とにかく宣言します。
で、記念すべき5ヵ年計画初年度のターゲットは無論、大文字。東山・如意ヶ嶽に浮かぶ、大文字。
「大文字焼き」 なる呼称さえ生んだ、五山送り火にとってキービジュアル的な存在の山です。
この大文字を、出町から北大路までの大混雑する加茂川西岸から、拝んでみました。

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祇園祭・後祭の宵山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年7月23日(木)


祇園祭・後祭の宵山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

祇園祭・宵山への単独特攻、2011年の敢行以来、4年振りの復活でございます。
といっても今回特攻をかけたのは、7月16日の宵山ではなく、7月23日の宵山の方ですけど。
そう、山鉾巡行・後祭巡行の復活に伴い、こちらも復活成った 「あとのまつり」 の宵山であります。
山鉾巡行の本義は元来、祇園祭の神輿巡幸路に散在する疫神を掃除機の如く吸引し、浄めること。
神輿は、17日に八坂神社→御旅所の神幸24日に御旅所→八坂神社の還幸が行われるので、
山鉾巡行も当然ながら両日に行う必要がある、というか実際、ずっとそういう形で行われて来ました。
が、時代が昭和の高度成長期に至り、交通麻痺緩和&観光客の集中的集客を考えた京都市は、
山鉾巡行の前祭巡行&後祭巡行の統合、即ち、昭和モードとして認識されている合同巡行を提起。
1966年に山鉾巡行の17日一本化は開始され、前夜の宵山もまた16日へ一本化されたのであります。
以降、山鉾巡行の観光化は果てしなく進み、それと同時 or それ以上の勢いで宵山もまた、観光化。
浴衣コスプレの観光客&近隣エリアのDQNが10万単位で大量に集結する馬鹿騒ぎと成り果て、
あらゆる独な者にとって鬼門たる行事となっていたのは、2011年の特攻記事でも触れてる通りです。
しかし、祭を本来の形へ戻したいという山鉾町の願いは強く、21世紀以降は旧儀復活が本格化、
2014年には大船鉾と共に24日の後祭巡行が復活し、それに併せて23日の宵山も復活したのでした。
実に目出度い目出度いという話ですが、しかし約半世紀という長きブランクを挟んでの復活に際し、
後祭巡行は 「復活というより新設に等しい」 とも言われ、その辺の事情は後祭宵山もまた同じ。
その辺、どうなるかという話であります。外野の人間としては、実に無責任な興味が涌く点であります。
「宵山」 と聞けば蛾の如く集まる観光客&DQNにより、馬鹿騒ぎの日が増えるだけになるのか。
あるいは逆に、知名度が全然浸透せず、混雑が発生するほどの人出もない地味なものになるのか。
その辺を確認し、そして 「新設」 の雰囲気がどんなものなのかを、ざっくり拝ませてもらいました。
加えて、宵山の重要行事である日和神楽&南観音山の 「謎」 な風習・あばれ観音も、目撃。
「最新型」 の宵山は、独な者でも楽しみ方が見い出せるものになってるでしょうか。

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京都・東山花灯路2015へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年3月13日(金)


京都・東山花灯路2015へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

紅葉終了直後の12月&桜開花直前の3月という観光閑散期に、
電飾を導入した無料の客寄せイベントとして嵐山&東山にて始まった、京都花灯路
その客層は、蛾の如く光へ群がる輩+蟻の如く無料を喜ぶ輩のWパンチという美しきものであり、
「京都観光の超メジャースポットへの単独正面突破」 という崇高なる趣旨を明確に示せる機会として、
当サイトでは2011年度の東山花灯路を皮切りとして、このイベントの定例特攻を続けてきました
が、その2011年は無論、東日本大震災が発生した年。それも、発生数日後に花灯路が始まった年。
関東圏を中心に各地で電気が止まる中、混乱状態で開催されたこの年の印象が強過ぎた為か、
私は花灯路について現在でも、阿呆な観光客を眺めて面白がるという阿呆な冷やかし根性と、
震災により叩きつけられたある種の根源的懐疑が、同時に惹起させられるという状態が続いてます。
グリーン発電であろうが何であろうが、ライトアップそのものが孕む何かに対する、根源的懐疑。
そして、実は京阪神エリアもまた地方へ原発を押しつけ続けてるという事実に対する、根源的懐疑。
震災から4年経ち、その懐疑に何らかの答えが出たかと言えば、そんなことは一切ありません。
また、問題の主因たる消費社会への反省が深まっているかと言えば、そんなことも一切ありません。
というか、事態の根源的などうにもならなさは、むしろより明確な姿となって我々の眼前に現前し、
そのどうにもならなさ故、一時はあちこちで乱用されていた 「絆」 や 「祈」 の文字も、段々と後景化。
東山花灯路2015の行灯文字でも、以前の 「祈」 に変わって、 「京」 の字が登場してたのでした。
ある種の積極性の回避という気配を除けば、無意味な記号性しか感じられない、 「京」 の字。
「あ~」 という感じなのであります。納得でもなく、落胆でもない、 「あ~」 という感じなのであります。
それこそ、無意味な記号のような響きで 「あ~」 という声が漏れる、そんな感じなのであります。
で、2015年はこんな感じだと言われたら、確かにそんな感じもするんですが、あなたどう思いますか。
そんな 「あ~」 な感じの東山花灯路2015、 「どんな感じだ」 という話になってて大変恐縮ですが、
今回も冷やかし根性と根源的懐疑が交錯してクラクラする頭で、特攻、やってきました。
適当な写真の羅列から 「あ~」 な感慨、感じてもらえると幸いです。

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祇園祭・後祭の山鉾曳初めへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年7月20日(日)


祇園祭・後祭の山鉾曳初めへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

曳初め。読みは、ひきぞめ。いわゆる、山鉾の試し曳きのことです。
巡行の一週間あたり前から始まる鉾建て&山建てにより路上へ姿を現わした山鉾は、
問題なく運行が出来るかどうかをチェックする試運転が行われますが、これこそが、曳初め。
本番の巡行では、屈強なるボランティアや学生で構成される曳き手がエンジンを担うわけですが、
曳初めに於いて縄を引っ張るのは、その場に居合わせた、年齢も性別も不問の一般人大勢。
つまり、誰もが鉾を曳く体験が出来るわけであり、故に本番とは違う熱気に溢れる行事となることは、
うちでも2012年の長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾・鶏鉾・月鉾の曳初め記事にてお伝えしてる通りです。
で、その曳初めへ再び特攻してみたわけですが、今回は2012年と事情が大きく異なります。
山鉾巡行の本義は、17日神幸24日還幸で巡幸する八坂神社の神輿の露払いにこそあるので、
17日は前祭として、24日は後祭として、週またぎで2回開催するのが、正しいフォーマット。
しかし高度成長期の1966年、渋滞の緩和や観光客の集客、また日常業務のストップを回避すべく、
後祭の山を前祭の後尾につける17日の合同巡行が始まり、それが半世紀近く続いてました。
そんな後祭が、2014年、復活。で、今回出かけたのは、その復活した後祭の曳初めであります。
実に49年ぶりの、後祭の曳初めであります。後祭 「列」 の曳初めでなく、後祭の曳初めであります。
また今回は、150年ぶりに復活する大船鉾の路上走行デビューも、大きなトピックでしょう。
蛤御門の変の際に焼失して以来、100年以上に渡り居祭りを続けてきた四条町の大船鉾ですが、
90年代以降の囃子方の復活+無形文化遺産登録+ヨドバシでの何ちゃらかんちゃらに加え、
京都青年会議所+京都ライオンズクラブ+一般寄付もあり、超ド級の鉾の再建をこの時代に実現。
バブル期でさえ絶対無理と思えた難事業を成し遂げ、めでたく 「出港」 の日を迎えたわけです。
その威容を一目見たいと集まった群集が形成する人間の海へ、堂々と 「出港」 する様を、
私もまた人間の海の一部となって拝み、歴史の一証人となったのでした。

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2014年祇園祭・山鉾巡行の前祭巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年7月17日(木)


2014年祇園祭・山鉾巡行の前祭巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

祇園祭山鉾巡行、恒例となった追尾の2014年度版であります。
いや、山鉾巡行に関しては正直、特に毎年追っかけようと思ってたわけではありません。
無論、京都観光のキング・オブ・キング、最早アイコンそのものと言える祇園祭のメインイベントを、
ベタスポット&ベタイベントの単独特攻を旨とするうちが、看過するわけには行かないでしょう。
しかし、毎年やるのはどうかと思ってます。より明確に言うなら、やりたくないと思ってます。
だって、しんど過ぎるし。比喩とか誇張でなく、リテラルに死の恐怖を感じるくらい、しんど過ぎるし。
憤死しそうな暑さが満ちる7月の京都で、人間が密集する中を走り回るなど、狂気の沙汰だし。
それに、他の三大祭も、別に毎年行ってないし。というか、祇園祭の他の行事も、全然行ってないし。
山鉾巡行だけ毎年毎年追いかけ続けなくてはならん理由は特に無い、という話なのであります。
にも関わらず毎年毎年追いかけ続けたのは、ここ数年の山鉾巡行に大きな変化が立て続けに起こり、
その変化が如何なる影響を及ぼしてるかが気になり、実態を見届けたかったからに他なりません。
2012年には、蛤御門の変の大火で焼失した大船鉾が、唐櫃ながら150年ぶりに巡行へ復帰。
2013年には、その大船鉾が本来最後尾を務めていた後祭巡行の2014年復活が決定したため、
半世紀に渡り続けられてきた、32基の山鉾が一斉に揃う17日の合同巡行が、最終年を迎えました。
そして今回2014年は、後祭が復活するのであります。24日の巡行が、復活するのであります。
それに伴い、17日の巡行は前祭の巡行となり、全23基の山鉾にて行われるのであります。
これはもう、歴史的な事態です。混雑や疲労やアウェー感を、どうこう言ってる場合ではないのです。
行かないわけには、いかないのです。というわけで、今回もまたまた追尾ということにしたのです。
本義へ立ち返り、神輿巡幸に対応した本来のフォーマットの巡行が、どういうものになるのか。
恐らく現行世代の大半が初めて目にすることになる 「本物」 の巡行は、如何なるものになるのか。
そして、それでもやっぱり気になる混雑・客層・ひとりの気まずさなどは、どうなるのか。
そのあたりを見届けるべく、またしても灼熱の四条通へのたくりこんだのでした。

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京都・東山花灯路2014へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年3月16日(日)


京都・東山花灯路2014へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

人は何故、光を求めるのか。何故、闇の中に光を求めるのか。
「暗いから」 「暗いと何も見えへんから」 「何も見えへんと不便やから」 と答える輩には、
「暗くなったら寝え。日照時間だけ起きとけ」 としか返し様のない、深淵なる問いであります。
本能の名残なのか何なのかは知りませんが、人は実用的な理由が無くとも光を求めるものです。
震災以降も多発するライトアップ or イルミネーションの人気は、その証明に違いありません。
「いや、それは交尾へのステップという極めて実用的な理由があるんだよ」 という下衆の輩には、
交尾へ全く繋がらないのに、こうして2014年も花灯路へ特攻する私の動機を説明できないでしょう。
正直、私は東山花灯路に、ある種、大きな声では言えない類の魅力を感じ始めてます。
光を求める人間の根源的なオブセッションと、それを垂れ流しで露出する快感を感じ始めてます。
そんなことを、震災関係の展示が激減した今回の春の花灯路で、自覚させられたのです。
閑散期における純然たる電飾客寄せイベントとして始まり、今やすっかり定着した、京都花灯路。
勝手ながら私にとっては、初めてまともに特攻したのが震災直後の2011年春であったため、
「光とは何か」 or 「灯とは何か」 みたいなことを、考えさせられるイベントだったりします。
同時に、 「その影に生じる闇とは何か」 みたいなこともまた、考えさせられるイベントだったりします。
電力不足による終了フラグをひりひりと感じさせられた前回前々回前々々回とは異なり、
震災の事を忘れたかの如く展開された今回の東山花灯路でも、その印象は特に変わりません。
いや、むしろそれ故に、光へのオブセッション&その影に生じる闇を、強く感じさせられたのでした。
人は何故、闇の中に光を求めるのか。正確に言えば、何故、わざわざ闇の中で求めるのか。
凡庸な客寄せイベントだからこそ、そんな問いを丸出しで転がしてる東山花灯路2014、
例年よりやや暗めの写真で、影&闇の魔力と共にお楽しみ下さい。

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2013年の時代祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年10月22日(火)


2013年の時代祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

時代祭。言うまでもなく、京都三大祭のひとつであります。
しかしこの祭、他の二祭と比べると始まったのが明治の中頃と、割に最近です。
東京遷都で衰退した京都は、振興策として明治28年に 『平安遷都千百年紀念祭』 を開催。
紀念殿として、5/8サイズの平安京大内裏レプリカを、当時田んぼだらけの岡崎に建設しました。
首都の座を実質失っていた江戸時代でも、かろうじてプライドは担保してくれていた天皇を遂に失い、
思わずアイデンティティを平安時代に求めてしまった京都人は、その小さいレプリカを、神社化。
祭神は、平安遷都を成した桓武天皇と、京都最後の天皇である孝明天皇。氏子は、京都市民全員。
例大祭の日は、平安遷都の日・10月22日と決められました。平安神宮&時代祭の始まりです。
延暦時代から明治維新までの各時代の装束で都大路を練り歩く時代祭名物・時代行列も、
初回こそ完全なる客寄せコスプレイベントでしたが、恒例化して回を重ねる内にラインナップも拡充。
市域の拡大につれて徴員される人が増えたり、花街から芸妓さん呼んで婦人列を新設したり、
「逆賊」 扱いの足利将軍が開催100年目にしてようやく参加を許されたりながら、現在に至ってます。
と、まともにイントロ書くのが面倒臭くなったので、思わず2011年度分をリライトしましたが、
とにかく京都市が誇る一大コスプレ・ヒストリカル・パレードである時代祭の追尾、2013年度版です。
2011年も全行程4.5キロを追っかけたのに、何故もう一度追尾することにしたかといえば、
伝統を死守してるようで実は日々刻々と変化し続ける京都の 「今」 を捉えるため、ではありません。
2011年度が、雨天順延&写真が酷かったので、22日でリトライしたかっただけであります。
当然ながら今回も、行列の全行程4.5キロを、追尾。行列から少しずつ遅れながら徒歩で、追尾。
「動く歴史絵巻」 が凡庸な地方都市を進む絵面ばっかりで、また全時代を網羅してみました。
ビルや車や通行人などを背景ボカシの彼方へ抹殺して偽造した 「雅」 さではなく、
「雅」 さが普通の街中に転がる京都のストレンジさ、改めて御堪能下さい。

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山鉾を一切見ずに2013年の祇園祭・山鉾巡行を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

2013年7月17日(水)


山鉾を一切見ずに祇園祭・山鉾巡行を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

菊地成孔+大谷能生 『M/D マイルス・デューイ・デイヴィスIII世研究』 では、
マイルスの最高傑作である 『Kind Of Blue』 について、一切言及がなされてません。
アーティスト研究を行う上で、外すことが絶対出来ない作品を、敢えて空白にするという、暴挙。
そして、対象の中心を隠蔽するその暴挙が、対象の本質をより浮かび上がらせるという、マジック。
よくわからんけど、そういうの、何か格好いい。よくわからんけど、そういうの、やってみたい。
という高踏極まる動機から、2013年の山鉾巡行追尾は、山鉾をほぼ一切見ずにやってみました。
祇園祭の顔、いや、京都観光のアイコンとも言える山鉾巡行の中心を、敢えて隠蔽する。
その暴挙により、京都観光、いや、京都そのものの本質を、浮かび上がせてみようと思うのです。
いやあ、格好いい。こんなことを思いついた俺、実に格好いい。うひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ。
えと、いや、あの、山鉾隠蔽には他にも一応、動機があります。後祭の復興が、そうであります。
観光集客力アップ+交通規制日削減+仕事止まるの堪忍しとくれやすなどの理由から、
元来は17日前祭+24日後祭の2回開催だった山鉾巡行が17日に一本化されたのは、昭和41年。
以来、巡行が持つ信仰の空洞化&周囲の馬鹿騒ぎ化は果てしなく進行したわけですが、
そんな高度経済成長期的アホアホメタボリズムを捨て、2014年、後祭が復活するのであります。
それは、当事者である山鉾町の人たちにとっては当然、悲願の旧儀復興となるのでしょう。
が、私のような外野の人間からすると、「昭和の無形遺産が消える」 という印象がしなくもありません。
馬鹿のような暑さの中で、馬鹿のような混雑の中を歩き回り、巡行後半は客の大半が半死半生。
そんな 「昭和」 な馬鹿騒ぎが、消えるかも知れない。そう思うと、少し寂しくなったのです。
という意味不明な感傷+先述の中二病+おまけに当日の天気も今イチで写真が撮りにくいため、
思い切って山鉾には目を向けず、肥大化の末に消えていく外縁ばかりを見つめてみました。
やはりマイルスのアルバム 『In A Silent Way』 の 「Shhh/Peaceful」 において、
テーマを全カットした編集が音響の新しい地平を開いたようなマジックが、ここでも起こるのか。
それとも、ただ単に 「肉抜きの牛丼」 みたいなもんに成り果てるだけで、終わるのか。
中心を隠すことで浮かび上がった本質、その目でお確かめ下さい。

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祇園祭の宵宮祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年7月15日(月)


祇園祭の宵宮祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

祇園祭を 「二つの祭が同時進行している」 と言ったのは、山路興造
いわく、平安期から八坂神社主体で行われている神輿渡御が中心の 「祇園御霊会」 と、
中世以降の下京町衆主体で行われる山鉾巡行中心の 「祇園祭り」 が、同時進行している、と。
( 平凡社刊 『別冊太陽 京の歳時記 今むかし』 中 「月次の京・七月」 の項より )
もちろん実際は、両者は密接に関わり合い、山鉾巡行もそもそもは神輿渡御の先触れです。
が、現場を歩くと、山鉾町と八坂神社近辺で空気が違うと感じられるのもまた、確かだったりします。
山鉾町に漂う、むしろこちらを 「御霊会」 と呼びたくなる、闇や恐怖さえ孕んだ独特の雰囲気。
そして八坂神社と門前の祇園町に漂う、一転してオーソドックスかつ大らかな、神祭りの雰囲気。
いろんな意味&点でややこしそうなので、私には何もわからんとしか言えない話ですが、
とにかく空気の違いは明白に存在し、その辺がクリアになるのがこの宵宮祭以降ではないかな、と。
もう充分に知られてるようで、案外やっぱり知られてないようですが、祇園祭にも神輿は出ます。
神輿は無論、神様の乗り物。ゆえに、神輿が出る場合、本殿から神様を遷す儀式が、必須。
というわけで、祇園祭でもこの儀式は当然執行され、行われる日は神幸の2日前である、7月15日。
一般的には 「宵々山」 の夜に、八坂神社では 「宵宮祭」 として遷霊神事が行われるわけです。
遷霊の儀式そのものは、境内の照明完全オフ+撮影も完全禁止という、極めて厳粛なもの。
厳粛過ぎて、何やってるのかわからんくらい地味だったりしますが、とにかく、極めて厳粛なもの。
しかし、門前の祇園商店街は、 「宵宮神賑奉納・前夜祭」 として様々なイベントを開催。
その賑わいの空気が、先述のように山鉾町とはちょっと違うテイストなのが、面白かったりします。
そんな宵宮祭、混雑の酷さは山鉾町よりほんの少しだけマシ or ほぼ変わりませんが、
より本義に近い儀式と賑わいの香りを嗅ぐべく、突っ込んでみました。

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祇園祭の長刀鉾町稚児舞披露を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年7月5日(金)


祇園祭の長刀鉾町稚児舞披露を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

注連縄切りで山鉾巡行をスタートさせる、長刀鉾の生稚児。
正に祇園祭の 「顔」 的存在ですが、同時に、実にミステリアスな存在でもあります。
初期の祇園会に於いて貴人より調進されたという 「神の寄り坐し」 としての稚児・馬長童とも、
中世以降の祭で激化した風流の羯鼓稚児とも言われる、そのルーツからして既に、ミステリアス。
また、 「神の使い」 扱いとはいえ十万石の大名と同じ格式を授けられるのもミステリアスなら、
かつては船鉾以外の全ての鉾に乗ってたのに現在は長刀鉾にのみ残るというのも、ミステリアス。
さらに、葵祭の斎王代と同じく知らんところで知らん間に選考決定されるのもミステリアスなら、
でも決まった子供の家は常に誰もが知ってる有名な家だったりするあたりもやはり、ミステリアス。
実にミステリアスなのであります。いろんな意味で、実にミステリアスなのであります。
そんなミステリアスな生稚児が、まだ祭のムードも希薄な7月初頭の街中へ突如として登場し、
山鉾巡行の際と同じ舞を、大半が仕事中の通行人に向かい披露するのが、7月5日の吉符入りです。
吉符入りとは、祇園祭の開始にあたって各山鉾町にて行われる神事始めのことですが、
唯一鉾に乗る生稚児を擁する長刀鉾では、この神事始めに於いて稚児の紹介や盃などに加えて、
山鉾巡行の際に舞う 「太平の舞」 の神前披露および町会役員による審査が行われます。
のみならず、めでたく審査に合格した生稚児は、会所二階を鉾に見立て、外へ向かって舞を披露。
無論、当日の会所前には好き者が集いまくるため、その若干無法気味な混雑も相まって、
事情を知らない人からすれば、かなりミステリアスに見えるであろう奇景が展開されるわけです。
祇園祭の端緒を飾る、そんなミステリアスな稚児舞披露、出かけてみました。
一般人が観れるのは舞のみゆえ、ネタ不足を補うべく街ブラが多量に混入してますが、
その辺から伝わるかも知れない街の温度感も楽しんでもらえると、幸いです。

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東山花灯路2013と清水寺特別夜間拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年3月9日(土)


東山花灯路2013協賛の清水寺夜間拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

桜シーズン目前+紅葉シーズン直後という閑散期の京都で、
ベタ名所の東山&嵐山をライトアップし、夜間集客を図る電飾イベント・京都花灯路
無料のもの&光るものが好きな蛾の如き民ばかり集めて、経済効果があるのかは知りませんが、
とにかく2003年の初回以来、徐々に規模と知名度を上げつつ順調に回数を重ねてきました。
しかし2011年、そんな花灯路に試練が訪れます。言うまでもなく、東日本大震災です。
発生直後に始まった東山花灯路は、『東山祈りの灯り』 なる灯火管制モードに変更を余儀なくされ、
世間では原発が止まり、ライトアップどころか家庭レベルでまで節電が要求される事態が出来。
あの日を境に、私たちにとっての電気の意味は、完全に変わってしまったのであります。
正直、花灯路は終わったと思いました。のみならず、ライトアップ全般が終わったと思いました。
電気が余ってると思われてた頃から、浪費的にも宗教的にも批判が多かった、ライトアップ。
節電中にやれるものではないでしょう。それに、電気があり余る世の中は、恐らくもう、やって来ない。
2012年の東山花灯路は、開始から10周年ということで盛大に盛り上がってはいましたが、
「こんな馬鹿騒ぎも、これで見納めかもな」 という予感は全く払拭されることがなく、
そんな予感と共に見た電飾の光景は、言うのは嫌ですが、少し魅力的に見えたりもしたのでした。
で、その予感は、何ら終了の気配もなく例年通りに開かれた2013年の花灯路でも、
ゆとり溢れる阿呆の子たちが例年通りに騒ぎ倒す2013年の花灯路でも、実は消えてません。
うちでももちろん例年通りに特攻を行った、花灯路、そして提携の清水寺夜間拝観。
パッと見レベルでの変化の無さと、その下に隠れる危うさ&根源的な懐疑の変化の無さ、
私たちの生活が持つ矛盾・欺瞞・危うさは何ら解決も解消もされてない感じを、
写真から溢れる徒労感と共に味わってもらえると、幸いです。

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金閣寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年11月25日(日)


金閣寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

「また焼いたるぞ」 。
昭和25年7月3日、21歳の学僧による放火で金閣が全焼した翌日、
住職・村上慈海との会見を許された産経新聞記者・福田定一、のちの司馬遼太郎が、
庫裏の黒板に書かれてるのを見て 「異常な気分になった」 という言葉です。(水上勉 『金閣炎上』
再建前の金閣が、狂気に近い嫉妬を駆らせるほど美しかったのか、私にはよくわかりません。
水上三島の作品で、紙面から精液の匂いがしそうなほど独男的に描かれた学僧の、
恐らく実際その通りであっただろう心の内も、わかるような気はするけど、正直よくわかりません。
でも、その場の勢いで思わず黒板に 「また焼いたるぞ」 と書いてしまうような、
ボンクラ極まる調子乗りたちの持ってた 「異常な気分」 は、少しわかるような気がします。
超メジャーな観光寺院として金が入りまくり、宗教面と齟齬を起こしてたという、当時の金閣寺。
そんな矛盾の中で、札束の海へ泳ぐのでもなく、放火テロで腐敗を弾劾するのでもなく、
時折憂い、時折おちょくり、時折怒ったりしながら、その場にへばりつき続ける、大半の凡夫たち。
その姿は、歴史や文化に深い愛情や尊敬の念を抱くと共に、冷笑&嘲笑もやらかし、
「金にならんかな」 てなことも思いつつ、こんなサイトやってる自分と変わらぬものに思えるのです。
と同時に、凡夫に支えられ、焼かれることもなく、美を提供し続ける再建金閣そのものが、
金欲と信仰の矛盾の真っ只中を生き、伝統を誇りながらも実は大して古いものはない京都の、
美の側面と俗の側面を極限までデフォルメした自画像のようにも思えたりするのです。
ある意味で、金閣は最も京都的な寺なのかも知れません。故に、地元からは忌避されるという。
あなた、そう思いませんか。全然、思いませんか。実は私も、あんまり思いません。
そんな金閣、秋の紅葉大混雑シーズンに、銀閣に続き特攻してみました。
炎のような紅葉に囲まれた美と俗の様、ご覧ください。

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