山鉾巡行 - ひとりでうろつく京都 (β版)

祇園祭・後祭の山鉾巡行を、ホテルのテレビで観ました。もちろん、ひとりで。

2022年7月24日(日)


祇園祭・後祭の山鉾巡行を、ホテルのテレビで観ました。もちろん、ひとりで。

2022年7月24日に行われる祇園祭・後祭の山鉾巡行は、絶対に観なくてはいけません。
何せ、約200年も休止してた鷹山が巡行に復帰するのです。見逃すわけには行かないでしょう。
現場は、暑いけど。言いたくないけど、でもだからと言って黙ってると発狂しそうなくらい、暑いけど。
それにコロナも、もう大丈夫とは思うものの、少し気になるし。うつすのも、うつされるのも、何だし。
用もないのに密集したがる輩とかも、多そうだしな。そういう輩に近寄られるの、ちょっとあれだしな。
どうしよう、と懸念も湧きはします。しかし、鷹山の復活です。見逃すわけには行かないでしょう。
鷹山。応仁の乱以前から 「鷹つかい山」 として巡行に参加していたという、長き歴史を誇る山、鷹山
そのモチーフは在原行平光孝天皇の御幸で鷹狩を行う場面であり、御神体は鷹匠&犬飼&樽負。
初期は従者の樽負が粽を食すカラクリで人気を呼ぶ一方、罹災と復活を繰り返しながら拡大を続け、
戦国期には囃子方が乗り込む曳山となり、江戸期には曳山で初の屋根を設けて曳山の鉾化を牽引。
江戸後期には黒塗りの大屋根を構えて都大路に降臨し、鬮とらずで大船鉾の直前を巡行した、鷹山。
しかし、文政期には大雨による損傷で巡行中止に至り、蛤御門の変/どんどん焼けでは部材も焼失。
時代の激変のため復興は困難となり、近世~現代の約200年間は残った人形3体で居祭のみを続行。
近年に至り、町内に留まらず広く支援を得る形での復活に道筋が見えたことで復興の気運が高まり
囃子方復活と唐櫃巡行参加を経て山の再建も実現、本年2022年に巡行への復帰が実現した、鷹山。
正に、200年ぶりの復活です。こんなことは、もう二度と目撃出来ないかも知れません。
仮にも京都に関するサイトなどやってる者であれば、絶対に見逃すわけには行かないでしょう。
現場は、暑いけど。言いたくないけど、でもだからと言って黙ってると発狂しそうなくらい、暑いけど。
それにコロナも、もう大丈夫とは思うものの、少し気になるし。うつすのも、うつされるのも、何だし。
用もないのに密集したがる輩とかも、多そうだしな。そういう輩に近寄られるの、ちょっとあれだしな。
どうしよう。絶対に見逃すわけには行かないけど、どうしよう。あ、そうだ。テレビの中継で観よう。

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後祭・山鉾巡行当日の京料理田ごと本店で、鱧を楽しみました。もちろん、ひとりで。

2018年7月24日(火)


後祭・山鉾巡行当日の京料理田ごと本店で、鱧を楽しみました。もちろん、ひとりで。

御旅所祇園祭の宗教性を考える時、絶対に外すことができないファクターです。
そもそも祇園祭は、他の神社が行う大抵の祭と同様、神を街の中へと招き入れるための祭。
いや、他の神社と同様というより、祇園祭 = 祇園会こそこうした神幸祭の始祖とも言えそうですが、
とにかく、鴨川の向こう = 洛外の八坂神社より神輿に乗った神を招くのが、主たる目的なわけです。
ので、その他の祇園祭の行事は、基本的には、おまけ。神輿渡御に付随する行事に過ぎません。
一般的にはメイン中のメイン行事と思われてる山鉾巡行もまた、神輿のフロントアクトみたいなもの。
デコりまくったド派手な車体で路上を蠢く疫神を誘引&吸引し、神輿の巡幸路を清めてるのです。
2014年以降の山鉾巡行が17日&24日のW開催となったのも、イベントを増やすためでは断じてなく、
「両日の夕方に行われる神輿渡御のフロントアクト」 という元々の本義に、いわば単に従ってるだけ。
このように御旅所は、祇園祭の宗教性を考える時、絶対に外すことができないファクターなのです。
が、よくよく考えてみると、当サイトではこの御旅所、がっつり扱ったことがありませんでした。
扱ったのは、日和神楽くらい。後は、前を通るだけ。混雑が嫌で、四条通自体を避けることも、多し。
これでは、いかんのではないか。アカデミックな当サイトが、この体たらくでは、いかんのではないか。
御旅所、いや何なら、全国の祭の礎となった神幸形式のコアたる御旅というトポス・ロゴス・パトスを、
五感を駆使した形で体感的かつ総合的に会得し、そして広く伝播する必要があるのではないか。
真摯にそう考えた私は、後祭・山鉾巡行の当日、御旅町・田ごとにて鱧を食そうと決意したのでした。
田ごと。目前を山鉾と神輿が通る四条通・御旅町にありながら、路地の風情を誇る店であります。
そんな店で、鱧メインの特別御膳を食し、鱧祭たる祇園祭のコアを、主に舌で体感してみたのでした。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトであるために必要な挑戦なのです。
決して、また山鉾巡行ネタと鱧ネタを組み合わせ、アクセス増を狙ったわけでは、ありません。
断じて、そもそも追尾も徘徊も最早やる気が全然なくなったわけでも、ありません。

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山鉾が通る真下の回転鮨割烹・魚倖で、鱧づくしを食べました。もちろん、ひとりで。

2017年7月17日(月)


山鉾が通る真下の回転鮨割烹・魚倖で、鱧づくしを食べました。もちろん、ひとりで。

「鱧祭」 と呼ばれることもあるという、京都の夏の代名詞・祇園祭
無論、鱧もまた京都の夏の代名詞である為、こんな呼称が生まれるのも自然な流れでしょう。
山鉾巡行を見に来た人が、その前後の食事で旬の鱧の風味に触れることも、少なくないはずです。
「ビルに入った料亭から、山鉾を見下ろしながら、鱧を食す」 なんてことも、あるかも知れません。
正に、ベタとベタのベタなる組み合わせ。当サイトとしても、一度は試してみたい贅沢ではあります。
が、見下ろすのは、ちょっと、頂けません。山鉾を上から見下ろすのは、ちょっと、頂けません。
山鉾には、神が乗ってます。疫神の吸引こそが山鉾の本来の役目ですが、善神も色々乗ってます。
神か何かよくわからんのもありますが、とにかく何かが乗ってます。単なる山車ではないのです。
なので、上から見下ろすのはあんまり、よくないわけですね。出来ればやはり、下から見上げたい。
もし、巡行の最中に鱧を食すのであれば、鉾の車輪が軋む音を体感出来るような地平で、食いたい。
何ならその足元、いや足の下にまで潜り込み、群れ集う人々の足音まで感じながら、食いたい。
それが、礼儀ではないか。祭の本義を尊重しつつ愉悦にちゃっかり浸る他所者の、礼儀ではないか。
そう考えた当サイトは、企画 『ひとりで食べる鱧』 の一環として、地下で鱧を食することにしました。
それも、前祭・山鉾巡行の当日真っ最中、山鉾が進むその真下にて、鱧を食することにしました。
赴いた店は、回転鮨割烹・魚倖御池通の地下街に入る、その名の通りの回転寿司店であります。
御池通は御存知の通り、前祭・山鉾巡行の最終コース。正に足元にて、鱧を食うわけですね。
魚倖、回転寿司店ではありますがコースも出してて、夏場になれば鱧づくしコース3000円也も提供。
これが 『ひとりで食べる鱧』 の緊縮型新予算枠にも合致する為、今回、出かけてみたのでした。
前祭巡行当日+巡行終了直前の昼過ぎ、その真下の飯屋の混雑は、果たしてどんな感じなのか。
そして、京都といえど回転寿司は回転寿司なのか、あるいは回転寿司も京都は京都なのか。
そんなことを考えながら、 「鱧祭」 を求めて、地下へ潜ったのです。

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京都文化博物館へ映画 『祇園祭』 を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年7月24日(金)


京都文化博物館へ映画 『祇園祭』 を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

映画 『祇園祭』 。1968年に公開された、その名の通り祇園祭の映画です。
といっても、ドキュメンタリーや記録映画などの類ではありません。完全な劇映画であります。
時代劇の大スターである中村 aka 萬屋錦之助が代表を務める日本映画復興協会の制作により、
当時の京都府知事・蜷川虎三の全面支援も受け、独立系作品として撮られた映画であります。
主演は無論、錦之助。ヒロインは、岩下志麻。脇には、田村高廣三船敏郎志村喬渥美清など。
更には高倉健や美空ひばりまで特別出演と、五社協定の枠を超えるそのキャスティングは、超豪華。
しかし、監督・伊藤大輔の降板や黒幕・竹中労の離脱など、製作中から泥沼の如く問題が多発し、
またキャストが豪華過ぎて権利関係まで泥沼化したのか、現在に至るもあらゆる形でソフトは、未発。
基本、リアル祇園祭の時期に京都文化博物館 aka 文博にて行われる上映しか拝む機会がない為、
言葉通り 「幻の映画」 or 「幻の超大作」 となってしまっている、極めてレアな作品なのです。
では 『祇園祭』 、レアさ加減に見合う面白さを誇る映画かといえば、ぶっちゃけ、そうでもありません。
さほど面白くなく、ネタになるほど酷くもなく、やたら散漫で混乱してて、そしてひたすら長いという。
「そんな映画、祭の最中に観る意義、あるのか」 という話ですが、しかし私は意義、あると思います。
最大の意義は何といっても、当時の祇園祭を巡る時代の空気のようなものが、匂える点でしょう。
1968年という年は、山鉾巡行の17日一本化 = 前祭・後祭合同巡行が開始された1966年の、2年後。
そして、いわゆる造反有理な 「60年代」 の真っ只中でもあり、京都的には革新府政も真っ只中。
この映画にも、「町衆が権力に屈さず立ち上がり、差別を含む旧弊・信仰の呪縛から自立を果たす」
「全ての人が17日の新たな祭へ自主的に集う」 的な、合同巡行肯定&時代の左臭が漂ってます。
半世紀を経て、 「新たな祭」 たる合同巡行が生んだ観光の馬鹿騒ぎは何よりも古臭い風物詩となり、
2014年の後祭復活により、合同巡行そのものまでが過去の遺物となったのは、御存知の通り。
しかしそれ故、混乱&暑苦しさと共に当時の空気を伝えるこの映画の存在は、貴重に思えるのです。
祇園祭を巡る思念・執念・妄想・思い込みなどの中で、何が残り、何が古くなり、何が消えるのか。
そして祇園祭では、どんな想いが仮託することを許され、どんな想いが弾き飛ばされるのか。
その辺を知るべく、後祭当日、本物の祭を尻目に文博へ行ってきました。

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2014年祇園祭・山鉾巡行の後祭巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年7月24日(木)


2014年祇園祭・山鉾巡行の後祭巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

このサイトでも何度か書いてますが、祇園祭の主役はあくまでも、神輿です。
山鉾巡行の果てしなき観光化+宵山の人間大密集のため、印象は薄いかも知れませんが、
17日の神幸24日の還幸こそが、祇園祭の最重要行事、スピリチュアル・コアなのであります。
そもそも山鉾巡行は、この神輿の巡幸路にいる疫神を集め浄めることこそが、本来の役目。
なので、本当は24日の還幸に於いても山鉾は、露払いとして巡行で道を浄めなくてはなりません。
が、その巡行すなわち後祭巡行は、2013年までの実に半世紀近くの間、無くなってました。
後祭。あとまつり。10基の山鉾による巡行が行われ、 「あとのまつり」 の語源ともされる、後祭。
そんな後祭は1966年、交通や観光への配慮で山鉾巡行が前祭の17日へ統一されたため、消滅。
以来、この合同巡行は48年に亘って続き、24日に山鉾が建つことは長らくなかったわけです。
半世紀近い時間が経過する間には、後祭を知らない世代も、大量増殖。というかむしろ、主流化。
「山鉾巡行 = 17日」 以外の認識を持ってる人は、現在では少なくなっているのも現実でしょう。
しかし、祭の当事者の方々は当然というか何というか、後祭の復活がずっと悲願であり続けたようで、
特に2010年以降になると、まるで不況に反比例するかの如くその動きが活性化+具体化。
再建が絶対に無理と思われていた後祭の最後尾・大船鉾が、まず150年ぶりに復活してしまい、
後祭そのもの復活も、2014年、ジャスト半世紀から少しフラゲする形で成されてしまったのでした。
というわけで、復活したその後祭巡行、特攻であります。先週の前祭に続き、特攻であります。
が、そもそも 「特攻」 となる混雑が生じるほど、人は来るのか。10基による巡行に、人は来るのか。
そもそも巡行自体、どうなるのか。 「新設に近い」 とも言われる巡行自体、どうなるのか。
単に、前祭と同じ混雑が出来するのか。それとも、今まで見たことのない景色が現出するのか。
その辺を目撃し、またも歴史の一証人となるべく、週跨ぎで追尾してみました。

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2014年祇園祭・山鉾巡行の前祭巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年7月17日(木)


2014年祇園祭・山鉾巡行の前祭巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

祇園祭山鉾巡行、恒例となった追尾の2014年度版であります。
いや、山鉾巡行に関しては正直、特に毎年追っかけようと思ってたわけではありません。
無論、京都観光のキング・オブ・キング、最早アイコンそのものと言える祇園祭のメインイベントを、
ベタスポット&ベタイベントの単独特攻を旨とするうちが、看過するわけには行かないでしょう。
しかし、毎年やるのはどうかと思ってます。より明確に言うなら、やりたくないと思ってます。
だって、しんど過ぎるし。比喩とか誇張でなく、リテラルに死の恐怖を感じるくらい、しんど過ぎるし。
憤死しそうな暑さが満ちる7月の京都で、人間が密集する中を走り回るなど、狂気の沙汰だし。
それに、他の三大祭も、別に毎年行ってないし。というか、祇園祭の他の行事も、全然行ってないし。
山鉾巡行だけ毎年毎年追いかけ続けなくてはならん理由は特に無い、という話なのであります。
にも関わらず毎年毎年追いかけ続けたのは、ここ数年の山鉾巡行に大きな変化が立て続けに起こり、
その変化が如何なる影響を及ぼしてるかが気になり、実態を見届けたかったからに他なりません。
2012年には、蛤御門の変の大火で焼失した大船鉾が、唐櫃ながら150年ぶりに巡行へ復帰。
2013年には、その大船鉾が本来最後尾を務めていた後祭巡行の2014年復活が決定したため、
半世紀に渡り続けられてきた、32基の山鉾が一斉に揃う17日の合同巡行が、最終年を迎えました。
そして今回2014年は、後祭が復活するのであります。24日の巡行が、復活するのであります。
それに伴い、17日の巡行は前祭の巡行となり、全23基の山鉾にて行われるのであります。
これはもう、歴史的な事態です。混雑や疲労やアウェー感を、どうこう言ってる場合ではないのです。
行かないわけには、いかないのです。というわけで、今回もまたまた追尾ということにしたのです。
本義へ立ち返り、神輿巡幸に対応した本来のフォーマットの巡行が、どういうものになるのか。
恐らく現行世代の大半が初めて目にすることになる 「本物」 の巡行は、如何なるものになるのか。
そして、それでもやっぱり気になる混雑・客層・ひとりの気まずさなどは、どうなるのか。
そのあたりを見届けるべく、またしても灼熱の四条通へのたくりこんだのでした。

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山鉾を一切見ずに2013年の祇園祭・山鉾巡行を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

2013年7月17日(水)


山鉾を一切見ずに祇園祭・山鉾巡行を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

菊地成孔+大谷能生 『M/D マイルス・デューイ・デイヴィスIII世研究』 では、
マイルスの最高傑作である 『Kind Of Blue』 について、一切言及がなされてません。
アーティスト研究を行う上で、外すことが絶対出来ない作品を、敢えて空白にするという、暴挙。
そして、対象の中心を隠蔽するその暴挙が、対象の本質をより浮かび上がらせるという、マジック。
よくわからんけど、そういうの、何か格好いい。よくわからんけど、そういうの、やってみたい。
という高踏極まる動機から、2013年の山鉾巡行追尾は、山鉾をほぼ一切見ずにやってみました。
祇園祭の顔、いや、京都観光のアイコンとも言える山鉾巡行の中心を、敢えて隠蔽する。
その暴挙により、京都観光、いや、京都そのものの本質を、浮かび上がせてみようと思うのです。
いやあ、格好いい。こんなことを思いついた俺、実に格好いい。うひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ。
えと、いや、あの、山鉾隠蔽には他にも一応、動機があります。後祭の復興が、そうであります。
観光集客力アップ+交通規制日削減+仕事止まるの堪忍しとくれやすなどの理由から、
元来は17日前祭+24日後祭の2回開催だった山鉾巡行が17日に一本化されたのは、昭和41年。
以来、巡行が持つ信仰の空洞化&周囲の馬鹿騒ぎ化は果てしなく進行したわけですが、
そんな高度経済成長期的アホアホメタボリズムを捨て、2014年、後祭が復活するのであります。
それは、当事者である山鉾町の人たちにとっては当然、悲願の旧儀復興となるのでしょう。
が、私のような外野の人間からすると、「昭和の無形遺産が消える」 という印象がしなくもありません。
馬鹿のような暑さの中で、馬鹿のような混雑の中を歩き回り、巡行後半は客の大半が半死半生。
そんな 「昭和」 な馬鹿騒ぎが、消えるかも知れない。そう思うと、少し寂しくなったのです。
という意味不明な感傷+先述の中二病+おまけに当日の天気も今イチで写真が撮りにくいため、
思い切って山鉾には目を向けず、肥大化の末に消えていく外縁ばかりを見つめてみました。
やはりマイルスのアルバム 『In A Silent Way』 の 「Shhh/Peaceful」 において、
テーマを全カットした編集が音響の新しい地平を開いたようなマジックが、ここでも起こるのか。
それとも、ただ単に 「肉抜きの牛丼」 みたいなもんに成り果てるだけで、終わるのか。
中心を隠すことで浮かび上がった本質、その目でお確かめ下さい。

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亀岡祭の山鉾巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年10月25日(木)


亀岡祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

山鉾巡行は、祇園祭だけの専売特許というわけではありません。
「山車」 でも、「屋台」 でも、あるいは 「だんじり」 でも、名前は何でもいいですが、
「曳山を曳いて盛り上がる」 祭礼というのは、日本全国に数え切れないくらい存在するわけです。
もちろん当の京都でも、近郊には多くの祭があり、その内のいくつかは曳山祭だったりします。
そして、近郊であるがゆえに、祇園祭から強い影響を受けた曳山祭も、存在したりします。
中でも、極めて似てて、極めて規模が大きく、そして極めて魅力的なビジュアルを持つ祭といえば、
京都府亀岡市の城下町を舞台に繰り広げられる、鍬山神社例祭・亀岡祭でしょう。
京都から出雲へ続く山陰道の要衝として、古くより軍事的に重要視されてきた亀岡 = 亀山は、
信長にブチ切れる前の明智光秀亀山城を建てたことで、城下町として一気に発展。
この地を開拓したという伝説を持つ地元の氏神・鍬山神社も、手厚い保護を受けるようになり、
長く途絶していた例祭もまた江戸前期に復興、城主の援助もあり、規模が拡大します。
江戸中期になると町衆達も多彩な練り物を出すようになり、その流れで、山鉾もまた、出現。
近郊というか、実際の交流も盛んであるがゆえに、祇園祭の影響を受けまくった10数基の山鉾が、
西陣織や海外から取り入れた豪華な織物で懸装し、城下を練り歩くようにまでなりました。
「口丹波の祇園祭」 としてその名を轟かせた亀岡祭でしたが、城が消滅した明治以降は、衰退。
昭和期は大半の山鉾が巡行を休んでたそうですが、平成に入ると、祭復興の気運が上昇。
山鉾が次々復活し、最近は全ての鉾が勢ぞろいしての城下町巡行も開始されてます。
現在もかなり天然で残る亀岡の城下町ビジュアルの中、本家によく似た山鉾が進む様は、
ある意味、本家以上のマジなタイムスリップ感が堪能できること、請け合い。
で、知名度はもうひとつゆえに、そんな醍醐味が至近距離で楽しめるわけです。
そんな亀岡祭、早朝から夕方まで、潜りこんでみました。

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2012年の祇園祭・山鉾巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。【後篇】

2012年7月17日(火)


2012年の山鉾巡行追尾録、前篇に続き後篇です。

そういえば、2012年巡行では、放下鉾の喧嘩騒ぎがありました。
当日から 「放下鉾 喧嘩」 で検索して飛んできた人がいたので、何のことかと思ってたら、
鉾の保存会と囃子方の保存会が揉め、巡行の途中で囃子方が鉾から降りてしまったんだとか。
実は私、放下鉾から囃子方が降りてる現場を、数10mほど離れた所から見てました。
新町御池あたりで止まったまま動かず、後続の山にどんどん追い抜かれていく、放下鉾。
のみならず、通常は激しい尿意を催しても降りることが許されないという山鉾から、人が降りている。
変だな、とは確かに思いました。でも、近くに寄って事態を確認しようとは思いませんでした。
何故なら、面倒くさかったから。何故面倒くさかったかといえば、暑かったから。
もうね、何時間も直射日光浴びながらウロウロしてるとね、数10mを動くのもイヤになるんですよ。
あと、御池通自体が、暑いし。道が広くて日陰がないので、逃げ場がなくて、暑いし。
目もね、かすんできますよ。いや、見えてるんだけど、画像の信号が脳に届かない状態というか。
耳も、きつい。聞こえてるけど、聞こえてない。世界が、遠い。ちょっとした、離人状態です。
それくらい、暑かったんですよ。あんまり暑いと、下衆な好奇心って、蒸発するもんなんですよ。
多分、喧嘩の理由も多分、暑かったからですよ。暑いと、腹立ってきますもんね、うん。
と、狂ったイントロと共に、河原町通北上から山鉾解体に至るまでの後篇、スタートであります。
モチベーションと体力がダダ下がりの中、灼熱のストリートを這いずり回る感覚を、
またしても文章超手抜き+単なる写真の羅列状態で味わってください。

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2012年の祇園祭・山鉾巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。【前篇】

2012年7月17日(火)


2012年の祇園祭・山鉾巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

山鉾巡行、2012年度の追尾録でございます。
千年前から超過密都市であるため、疫病が死に直結する時代が長く続いた、京都。
梅雨明け+盛夏初頭あたりは特に怖い季節であり、氾濫する疫病の元・疫神を何とか祓うべく、
華麗な山車で街中を巡行し、厄神を吸引してまわることこそが、そもそもの山鉾巡行の本義でした。
その巡行が、疫神を祓うどころか疫人たる観光客を大量に呼び込むショーと化した時期こそ、
疫病の恐怖が消え、産業と観光重視の思想が前面化した、昭和の高度経済成長期。
17日 「さきのまつり」 +24日 「あとのまつり」 の二週またぎ開催だった巡行が17日に一本化、
ルートも大幅に変更され、現在生きてる大半の人にとっての 「山鉾巡行」 の形が出来たわけです。
しかし、昭和終了からもそれなりの時間が経ち、経済成長の夢もまた跡形もなく消え去った今、
山鉾町や行政など祭に関わる人たちの関心は、旧儀の復活の方により向いてます。
「さきのまつり」+「あとのまつり」 の二週またぎ開催早期復活が、現実的に協議されるようになり、
2012年の今回は、実に140年も休み山だった大船鉾が、巡行に復帰することになりました。
全てが 「例年通り」 のようでいて、実は激しく形を変え続けている、山鉾巡行。
ひょっとすると現行の昭和フォーマットでの巡行は、逆にあと数年で見納めとなるかも知れません。
正午を過ぎてからの疲労よ、さらば。無残なまでにカラッポになる有料席よ、さらば。
そんな哀惜の念を抱きながら眺めたというのは大嘘ですが、とにかく2012年も追尾です。
朝7時の飾りつけから14時過ぎの解体まで、延々と追っかけてみました。
あまりに暑過ぎて記憶が曖昧なため、ほとんど写真の羅列のみで恐縮ですが、
現場の興奮と猛暑と疲労を感じていただければ、幸いです。

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祇園祭の山鉾巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年7月17日(日)


祇園祭の山鉾巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

山鉾巡行。
正に名実ともに祇園祭の代名詞、もはや京都観光そのもののアイコンとさえ言える、
文句なしの花看板、メインイベント中のメインイベントであります。
が、この山鉾巡行が宵山よりも来客数が少ないということを、実は私、今さっき知りました。
2011年度の山鉾巡行の来客数、20万人。対して、宵山に集った烏合の衆の数、45万人。
少ないどころの話ではありません。ダブルスコアでお釣りが来ますな。
知った瞬間は驚いたんですが、しかし我に帰ると、納得です。まあそりゃそうだわな、と。
良くて、ピーカンの激暑。悪くて、梅雨明け前の猛暑+猛湿度。最悪で、豪雨か台風。
そんな7月の気候の中、京都の街中を朝早くから駈けずり回るなど、正気の沙汰ではありません。
山鉾巡行は、KBS京都の中継で見るもの。あるいは、過ぎ去るのを家の中でただじっと待つもの。
京都市民のみならず、辺境の民である私でさえ生活感覚としてはそう認識してるのであり、
実際、今の今まで山鉾巡行を見たことはありませんし、見たいと思ったことさえありません。
が、このサイトのモットーはあくまでも、メジャーどころの単独正面突破。
メジャー中のメジャー、キング・オブ・キングの山鉾巡行から、逃げを打つわけにはいかないのです。
宵山のダメージがまだ全く体から抜けてませんが、意地だけで現場へ赴きました。
苦しくも今年の山鉾巡行は、日曜開催。さらに悪いことに、快晴です。

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