ひとりに向いてる度 - ひとりでうろつく京都 (β版)

宮津の三上勘兵衛本店を借り切って聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2021年12月24日(金)


宮津の三上勘兵衛本店をひとりで借り切って過ごすクリスマス、前篇に続き後篇です。

丹後は、「海の京都」 という枠には収まり切らないエリアではないかと、たまに考えます。
当然と言えば、当然の話でしょう。ここはそもそも、大和と異なる王権の存在さえ想定される地。
平安京などが出来るずっと前より、海を介して交流を広げ、豊かな文化を築いて来たのです。
また、時代をずっと下って近世以降に話を限ってもなお、丹後は大きな広がりを持つ地と言えます。
西回り航路北前船の登場は、日本海沿岸を始め日本各地の交易範囲を劇的に拡大させましたが、
丹後に於いても久美浜・間人・由良などがこの恩恵を受けて、港町として大きな発展を果たしました。
無論、宮津も同様です。ので、和貴宮神社の玉垣にも 「播州」 「讃岐」 の名が並んでたわけです。
三上家を始めとする宮津の豪商も、海運の隆盛期には北海道~大阪を行き交う商船を所有・運用し、
丹後の品の輸出に留まらず各地の物品も売買するなど、地方廻船の枠を超える活動を展開しました。
全国区としての丹後。そんな考え方も、可能かも知れません。そういえば言葉も少し標準語的だし。
この辺を考えると、京都と丹後との距離感自体も、今と違ってたのではないかと思えてきます。
物理的な直線距離は、昔も今も京都は他都市より丹後に近いです。でも海路ならどうか、と。
西回り航路は、西日本を大きく迂回するルートでありながら、安全性で各地の 「距離」 を縮めました。
この西回り航路で丹後から物資を運ぶ場合、京都はそれこそ、播州や讃岐よりも遠くなるわけです。
そんな環境で交易を行った近世後期の丹後の人々は、京都をどのような目で見てたのでしょうか。
そして、現在の丹後が 「海の京都」 と呼ばれてるのを彼等が見たら、どのように感じるのでしょうか。
我々は、海運の身体知のようなものを通じて、丹後や宮津を考え直す必要があるのかも知れません。
お籠もりモードで敢行した今回の宮津投宿では、何故かこんな思念がよく頭の中に湧きました。
籠もってたため、人と話したりあちこち丁寧に見て回ったりはしてません。海も、ロクに見てません。
でも逆に、昔の船人が風待で籠もった際に感じただろう宮津は、幻視出来た気がするというか。
三上勘兵衛本店での聖夜、後篇も籠もったり抜けたりしながら、宮津を感じて行きます。

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宮津の三上勘兵衛本店を借り切って聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2021年12月24日(金)


宮津の三上勘兵衛本店を借り切って聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

クリスマスイブの単独宿泊。当サイトではそんな聖夜企画を、開設時からやってきました。
激安宿宿坊町家遊郭跡ラブホへの投宿や、温泉宿でのぼたん鍋爆食などを繰り返し、
2016年からは観光バブルの動向も見据えるべく、都市部で増殖した簡易宿も立て続けに特攻。
冬至祭としてのクリスマスにも注目し、「境界」 なるテーマも掲げて、企画を延々と続けて来ました。
しかしそんな楽しい聖夜企画も、2020年には途絶に至ります。理由は、言うまでもありません。
全く自慢になりませんが、私は小心者なので、聖夜企画に留まらずサイトの更新さえ中断しました。
が、状況が落ち着き始めた途端、私の中で 「どっか行きたい」 という思いも沸き始めたのです。
どっか行きたい。でも、怖い。でも、どっか行きたい。でも、怖い。でも、行きたい。でも、怖い。と。
この煩悩ループを止めるには、どこか遠くへ赴き、そこで籠もりっきりになる以外ないでしょう。
籠もらなければならないのです。2021年に聖夜企画をやるなら、籠もらなければならないのです。
常に己の内へと籠もり、己を見つめ、見つめ飽きてる独男も、籠もらなければならないのです。
そう考えて私は、今回、宮津への投宿を決めました。宮津の三上勘兵衛本店への投宿を決めました。
宮津。京都府宮津市、旧宮津町エリア。最も簡単な説明は、やはり 「天橋立の隣」 なんでしょうか。
天橋立&籠神社を擁する府中が古代より栄えたのに対して、宮津は戦国期の宮津城築城が魁の地。
江戸期には宮津城の城下町として発展する一方、西回り航路の開拓により北前船の寄港地となり、
全国の港湾都市と交易を繰り広げることで三上家などの豪商も生むに至った、文字通りの港町です。
そんな宮津が何故籠もるのに相応しいかと言えば、京都府の北部にあって割と遠いから。
海が近くて魚も美味いから、旅情は充分味わえそうだし。でも、天橋立ほどは人もいないだろうし。
天橋立では難しい埋立を江戸期から進めており、その新地には花街跡もあったりするので、楽しいし。
運良く、近年に貸切宿となった三上家本店の予約も取れました。これはもう、行くしかありません。
胃袋以外の全ての器官をクローズドにする覚悟と共に、私は冬の宮津へ向かったのです。

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けいはんな記念公園・水景園へ紅葉を観に行きました。もちろん、ひとりで。

2021年11月15日(月)


けいはんな記念公園・水景園へ紅葉を観に行きました。もちろん、ひとりで。

けいはんな記念公園。けいはんな学研都市の完成を記念して建設された公園です。
では、けいはんな学研都市とは何かと言えば、京阪奈丘陵を中心に作られた学研都市です。
作られ始めたのは、バブル期。出来たのは、バブル後。なので無論、プロジェクトは失敗しました。
いや、失敗と断言すると色々と問題がありそうですが、といって成功と断言するのも色々苦しい。
赤字を垂れ流した挙句ブっ潰れた 『私のしごと館』 を御記憶の方は、まだまだ多いかと思いますが、
あの 『私のしごと館』 の残骸を筆頭に、色々と上手く行ってない感じがしなくもないエリアであります。
この学研都市が 「都市開き」 を果たした翌年、即ち1995年に、けいはんな記念公園は開園しました。
本名、京都府立関西文化学術研究都市記念公園。長い。長い本名が示す通り、府立公園です。
平安建都1200年記念事業としても整備されたためか、割と豪勢な府立公園として建てられてます。
園内の目玉となるのは何と言っても、広大な池を構える広大な回遊式日本庭園・水景園
この庭園は、全長100m以上におよぶ歩廊橋・観月橋が池の水面の遙か上で壁の如く聳え立ち、
その奥では謎の巨石群が乱立しまくるという、意味・趣向こそ不明ながら凄みは溢れる代物。
元々は単なる野山であるため、園内は季節の草花類も充実しており、秋はもちろん紅葉が売り。
巨大橋+巨大岩+水+紅葉の競演は、需要の有無はともかく、他にはない景観でしょう。
いや、紅葉についてはこの公園、ちゃんとした利点もあります。紅葉の色づきが、少し早いことです。
京阪奈丘陵は、その名の通り京都・大阪・奈良の間に広がる丘陵であり、丘陵ゆえ標高もやや高め。
公園の立地も割と高地であり、おかげで山奥とかに行かなくても少し早く紅葉が観れるわけですね。
さらにここ、入園料が安い。2021年時点で、200円。安い。あまりにも、安い。安過ぎて、何かもう怖い。
血税をむしり取った罪悪感でもあるのか、維持費を今も血税から調達してるからか、とにかく、安い。
ので、行ってきました。場所が、奈良の方が近いくらい府の南部で遠いけど、行ってきました。
遠いので結局は往復の交通費が入園料の7倍くらいかかったけど、行ってきました。

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横大路の流れ鮨三代目おとわ伏見店で鱧を食べ、鱧海道も散策しました。もちろん、ひとりで。

2021年7月19日(月)


横大路の流れ鮨三代目おとわ伏見店で鱧を食べ、鱧海道も散策しました。もちろん、ひとりで。

海の魚は、漁師 or 釣人を除く大半の人にとって、何処かから運ばれて来る食物です。
いや無論、そう極言するなら海産魚以外の大抵の食物もまた 「運ばれるもの」 なわけですが、
内陸部でも生産可能な穀物や肉よりかは、海の魚は 「運ばれる」 傾向が強いとは言えるでしょう。
そのため、物流や冷凍技術が貧弱だった近代以前の内陸部では、海産魚が珍重されました。
独自の食文化も生まれ、その多くは今も息づいてます。山梨のマグロ偏愛とかですね。
近代以前の京都もまた、純然たる海なし都市として海産魚の運輸問題に向き合ってきた街です。
海がないのに海の魚が食いたいあまり、鱧料理なる特殊な食文化を生み出したのも、御存知の通り。
骨が多いけど生命力が強い鱧を、生で運んで、食う。骨切りなる特殊な技を極めてまで、食う。
異常とも言えるこの鱧料理、京都の特性を体現するものとして、当サイトも向き合い続けてきました。
が、鱧が持つ 「運ばれるもの」 としての側面には、あまり注目して来なかったように思います。
骨切りが文化なら、運輸もまた文化ではないのか。鱧料理の一要素として注目すべきではないのか。
そんなことを考えるようになったのです。そしてそんな頃、 「鱧海道」 という言葉を知ったのです。
鱧海道。正直、地域興し的ワードではあります。が、そんな道があったのは、事実です。
京都市南部の草津湊にて水揚げされた鱧が、鳥羽街道で陸送されてた経緯を指してるわけですね。
草津湊があったのは、伏見から西へ行った横大路の西端。現代もなお運輸とは縁深いエリアです。
となれば、この横大路近辺で鱧を食せば 「運ばれるもの」 としての鱧をより体感できるのではないか。
また、運輸という要素の体感を通じて、鱧料理が持つ特殊性もより明確に認識できるかも知れない。
おまけに、横大路には三代目おとわなる回転寿司店があり、夏は鱧も出してます。これは、丁度いい。
そう思って今回、出かけたのです。御覧のトップ画像でも看板が目立つおとわに、出かけたのです。
え。エスラインギフのトラックしか見えないですって。滋賀産の飛び出し坊やしか見えないですって。
見えてるでしょ。愛知資本焼肉きんぐの彼方に、おとわの青い看板が見えてるでしょ。

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京丹波町・桧山の山下秀製菓へ丹波銘菓いが栗を買いに行きました。もちろん、ひとりで。

2020年10月20日(火)


京丹波町・桧山の山下秀製菓へ丹波銘菓いが栗を買いに行きました。もちろん、ひとりで。

山下秀製菓丹波銘菓いが栗、好きなんです。皆さんは御存知でしょうか、いが栗。
栗で知られる京丹波町にある、栗入りどら焼きで有名な菓子店の名物です。正しく、丹波銘菓。
となれば、栗が丸ごと入った野趣溢れる和菓子を連想されそうですが、そうではありません。
公式サイトのアドレスにさえなってる栗どらが、それこそ栗入りまくりの野趣全開仕様なのに対して、
いが栗は栗も入ってるけどココナッツも入ってて、また外観は完全にミニコロッケというお菓子。
素朴な秋の趣きだけを丹波に期待する方には、ちょっとニーズ違いのものに見えるかも知れません。
が、私は好きなんですよ、いが栗。好きなだけでなく、奥深い丹波らしさも感じるんですよ、いが栗。
そもそも丹波は、京都の辺境 or 食料庫としてのみ存在し続けて来たわけではありません。
日本の形さえ不確かだった古代には、文明の先端エリアたる日本海沿岸と一体で 「丹波」 を形成し、
ゆえに平安京を遙かに凌ぐ古さの渡来系伝承に事欠かない、開明的とも言える地であります。
また丹波の 「丹」 の字自体が、渡来した鉄鋼技術の色 = 赤を意味するという見方もあり、
「赤ワインで顔が紅潮した毛唐人」 を 「鬼」 と間違うような真っ赤な嘘が息づく地でもあります。
鉱物資源も実はかなり豊富であり、石油以前の生活必需品たる木材は当然のように産出されまくり。
渡来 or 交易といった観点は、丹波を考える上で、もっと重要視されていいかも知れません。
そんな丹波が持つ奥深さを、渡来系のココナッツによって表現してる気がしないでもない、いが栗。
私は、丹波マーケスにて初めて出会いました。大江山食品の佃煮を買いに寄った際、出会いました。
正直、土産品コーナーで失礼ながら冷やかし半分で買ったのですが、食べてみると美味しい。
食感も良く、何より食べてると不思議な多幸感が湧くのが好きで、箱でも買うようになったのでした。
このいが栗、秋も良いんですが、個人的には暑い夏に食べるとココナッツ感が実に心地良く、
また冬は白餡が美味しいんですが、それでも栗と言えば季節は秋で、秋と言えば京都は丹波。
どうせなら秋に本店で買ってみようと思い、京丹波町の桧山へ出かけてみたのです。

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犬甘野風土館・李楽へ行って蕎麦を食べて蕎麦の花も観てきました。もちろん、ひとりで。

2020年9月15日(火)


犬甘野風土館・李楽へ行って蕎麦を食べて蕎麦の花も観てきました。もちろん、ひとりで。

蕎麦。京都があまり得意としない食ジャンルのひとつ、と言えるかも知れません。
もちろん、いわゆる老舗として名高い店は存在しますし、それなりに評判も良かったりします。
が、実際に食べて、評判通りの感想を持ちましたか、貴方。端的に、美味いと思いましたか、貴方。
いや、新しい店ならちゃんとしてることも多いですが、そうでない場合はそうでないことも多いというか。
この現象について私は、京都では麺類全般がいわゆるオチキャラ扱いされてる為だと思ってます。
君らは別に、美味しくならなくてもいいよ。君らに求めてるのは、ほっこり感なんだから。みたいな。
「うどんって具合悪い時に食べるものでしょ (by 山下達郎)」 な見方が全麺類に及んでる、みたいな。
そういえば、戦後の薬事法改正まで麺類店では実際に風邪薬などを併売してたというので、
気張った味ではなく、癒し的なものを麺に求める文化が、この地では今も残ってるのかも知れません。
あるいは、禅+菓子+蕎麦という京都の蕎麦の起源に関係する話だったりして。とにかく、謎です。
こんな感じで、何とも蕎麦文化が薄い京都。ただ蕎麦自体の栽培は、案外してたりします。
京都府北部にあって舟屋で有名な伊根町は、 「筒川そば」 の名で通る蕎麦の栽培でも割と有名。
名実共に京都の食糧庫である丹波も、然り。美山町や夜久野町は近年、蕎麦の名産地になりました。
そして犬甘野もまた、丹波の蕎麦名産地として新たに名が知られるようになったエリアです。
犬甘野。読みはそのまんま、いぬかんの。口丹・亀岡市の西の方にある、標高400mの地であります。
地名の語感から亀岡名物・寒天を連想してしまいますが、元はその寒天作りが副業の稲作地帯。
寒天も作る一方で、減反政策ゆえ生まれた休耕田を活用すべく昭和末期から蕎麦の栽培を開始し、
平成以降は蕎麦も食える直売所の犬甘野風土館・李楽も出来て、すっかり蕎麦の名所となりました。
毎年9月中旬には、可愛らしい蕎麦の花が咲く様を京都新聞などが恒例のように紹介してるので、
行ったことはなくとも、風物詩のような親しみを感じてる方も少なくないのではないでしょうか。
そんな犬甘野の李楽へ9月に出かけて、蕎麦を食い、蕎麦の花も観たのでした。

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寿司のむさし・三条本店の鱧の押し寿司をテイクアウトで食べました。もちろん、ひとりで。

2020年8月28日(金)


寿司のむさし・三条本店の鱧の押し寿司をテイクアウトで食べました。もちろん、ひとりで。

京都で極限まで安くを食べることができるのは、どの店なんでしょうか。
最もメジャーなメニューである落としでも、居酒屋とかなら安くで出してるところはありそうです。
また、スーパー系も視野に入れるのであれば、京都資本のフレスコでも落としは売ってたりします。
あのフレスコの落とし、自分で天ぷらにすると割と美味いんですよね。価格も、500円オーバー程度。
フレスコでは鱧天を見かけることもあり、こちらも300円くらい。底値と言えば、充分に底値でしょう。
しかし私は、その底値の底を割りたい。割ってみたい。割った先にある世界を、この目で見てみたい。
そんな野望を抱きながら夏を過ごしてると、割った先の世界、河原町三条にありました。むさしです。
むさし。本名、寿司のむさし。河原町三条に本店がある、京都の回転寿司のチェーンであります。
チェーンと言っても、はっきりあるのは本店と八条口店で、上堀川店はあったりなかったりする感じ。
ほとんど個人店に近い感じですが、でもかなり安く、持ち帰りにも便利なので、長く愛されてる店です。
で、此処の鱧の押し寿司が安い。2020年時点で、一皿100円台。これは、安い。あまりにも、安い。
今まで5000円とか3000円とかの予算枠で 「苦しい」 などと言ってたのが阿呆らしく思えるほど、安い。
あまりにも安い為なのか何なのか、夏季限定ではなく年柄年中食えるのがやや風流に欠けますが、
しかし、この過剰なコンビニエントさこそ実は、京都の鱧食の本質に近いものとは言えるでしょう。
当サイトの企画 「ひとりで食べる鱧」 でも度々書いてきた通り、鱧食はとても人工的な食文化です。
海のない街で、何とか生きて運べる魚を骨切りしてまで、食う。まるで生魚を創造するかの如く、食う。
「海行けよ」 という声を遮って、加工による仮構であることも厭わずに、食う。もう無理矢理に、食う。
鱧食が本来持つこの仮構性、現代ではむしろ100円台の寿司にこそ立ち現れるものかも知れません。
そんな高等な思念と共に私は、シーチキン感溢れる寿司を食いに、河原町三条へ赴いたのでした。
断じて、コロナ下でもいい加減に何かネタをやろうかと思ったけど、出かける気は全然沸かず、
テイクアウトの飯ネタで適当にお茶を濁そうとしてるわけでは、ありません。

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西舞鶴のはんなり食堂へ、いさざを食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

2020年3月21日(土)


西舞鶴のはんなり食堂へ、いさざを食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

篠田統 『すしの本』 を読んでると、「踊り食いは京都が発祥」 といった話が出てました。
同書に拠ると、大阪 『蛸竹』 の親父さんか誰かから、篠田氏はそう聞いた覚えがあるんだとか。
新鮮な魚が獲れる江戸では、 「新鮮ならいいってもんじゃねえよ」 となったそうです。大坂も、同じ。
ふ~んという話であります。そういえば、近世の鴨川に生魚料理店があったという話、聞きますね。
美濃吉に関するコピペ文でよく見る 「川魚生洲八軒」 がどうたらという、あれです。なるほど、と。
海が遠い、京都。ゆえに高まる、魚への欲求。結果的に鱧料理なる食文化も生んだ、魚への欲求。
踊り食いは案外、京都の特性から生じた極めて人工的&強引な食文化なのかも知れません。
とはいえ、それも冷蔵・冷凍の技術がなかった時代の話。現代では無論、踊り食い事情も異なります。
味自体が独特な鱧料理は残りましたが、イベント性が高い踊り食いを売りにする店は今では希少。
川魚生洲八軒も、殆ど消えたし。現代の生活者としての私も、踊り食いは京都と疎遠と思ってました。
が、これも日本海側へ行けば、話はまた別。春の舞鶴には、いさざの踊り食いがあるのです。
「海の京都」 を体現する街・舞鶴。いさざは、そんな舞鶴を流れて海に注ぐ川を、早春に遡上する魚。
ハゼ科の小さくて透明な魚であり、正式名称・シロウオとして九州などでも生でよく食されてるとか。
舞鶴でも当然、遡上してきたこの魚を、踊り食うのであります。春の風物として、踊り食うのであります。
このいさざの踊り食いに私が初めて出逢ったのは、2019年春、所用で訪舞した時のことでした。
あくまで所用だったため、食事はとにかく安く済まそうと思い、でも魚はそれなりに食いたいなと考え、
また観光客が少ない店を望み、海から離れたはんなり食堂なる店へ赴き、そこで出逢いました。
野菜炒め定食の香りが食欲を刺激するような店内で出逢ったいさざの踊り食いは、超ナチュラル。
人工的&強引に野趣を得るのではなく、あくまで 「近くで獲れたものを近くで食う」 という感じであり、
春の朗らかさな温度感&空気感も相まり、これぞ真の踊り食いといった印象を受けたのでした。
で、それが気に入ったので翌年、今度は純粋にいさざ目当てで、訪舞してみたのです。

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節分の平等院・鳳翔館へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2020年2月3日(月)


節分の平等院・鳳翔館へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

が退治された世界で生きるということ。我々はそのことを、もっと真剣に考えるべきです。
鬼に連れ去られることがない世界。鬼に殺されることがない世界。鬼に食われることがない世界。
それは果たして、真の意味で平和と呼べる世界なのか。果たして、幸福と言える世界なのか。
いや、無論それは幸福には違いありません。問題は、我々が幸福だけで満足できない点にあります。
鬼という存在によって秘かに満たされてきた、我々の欲望。連れ去り、殺し、食いたいという欲望。
これらの欲望を満たす機会を、鬼のいない平和な世界の代わりに、我々は手放したのではないのか。
またこの平和で幸福な世界は、単に鬼よりも巨大で極悪な権力に地均しされた地獄ではないのか。
こうした疑念を等閑視し、呑気に鬼を 「他者」 「外部」 として夢想するなど、欺瞞でしかありえません。
この世界で鬼と向き合うのなら、我々が鬼を殺した側であるという痛みを、まず見据えるべきです。
そして、その痛みを通じて、鬼退治後の世界に於ける平和・幸福の実相こそを、見据えるべきです。
そう考えた私は、恒例となった節分の鬼めぐりに於いて今回、平等院へ赴くことにしました。
平等院。言うまでもなく、京都・宇治に在って鳳凰堂で広く知られる、世界遺産のひとつであります。
離宮化→別荘化→寺化という平安後期の信仰&権力の様を物理的に現代へ伝える、正に名刹。
そんなロイヤル&パワフルな平等院へ節分に赴く理由は、その宝物殿・宇治の宝蔵に他なりません。
成敗された鬼の首は、都で帝の叡覧を経た後、蔵へ納められました。この蔵こそが、宇治の宝蔵。
権力に敗れた鬼の最期、またその骸が現代まで受け続ける辱めを、体現してる場所と言えるでしょう。
「いや、宇治の宝蔵って単なる伝承だよ」 と言うなら、鬼もまた、極めて伝説・伝承的な存在です。
そして、伝承が何かしらのリアルを含むのは、自明のこと。となれば、宇治の宝蔵も事情は同じはず。
鬼退治とは果たして、どういうことなのか。鬼のいない世界とは果たして、どういう世界なのか。
幻想と錯覚の中でしか触れ得ないそんな真実に触れるべく、私は2月の宇治へ向かったのでした。
ので、宇治茶を喫む暇など、あるわけありません。茶蕎麦を食う暇も、あるわけありません。

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2020年への年越しを、寺町通を歩きながら除夜の鐘を聴くだけで迎えました。もちろん、ひとりで。

2020年1月1日(水)


2020年への年越しを、寺町通で除夜の鐘を聴くだけで迎えました。もちろん、ひとりで。

年越しは、ある意味、 「境界」 と言い得ます。というか、 「境界」 以外の何物でもありません。
古き年の死と、新しき年の再生。何なら、 「境界」 の魔力が最高潮となる瞬間とも言えるでしょう。
自虐という表皮の下で、 「境界」 との対峙なるテーマをアカデミックに追求してきた当サイトとしては、
この 「境界」 もまた探求の必要ありと考え、2018年には大霊苑・東山浄苑での年越しを決行しました。
生と死の 「境界」 の極致たる霊苑への訪問。そしてその訪問を、敢えて昼間に済ますという、洒脱。
「真冬の夜に出かけるの、いい加減キツい。なので、昼に済ませた」 わけでは全くないこの荒行で、
当サイトは、道化の皮を被った当サイトらしいやり方で 「境界」 の探求を深めることが出来たのです。
この訪問に続く形で 「境界」 としての年越しを探求するにあたり、私は寺町通に目を付けました。
寺町通。言うまでもなく、長いアーケードが築かれた、京都で最も有名な繁華街のひとつであります。
が、秀吉による寺院集積が名の由来たる通でもあり、そもそも平安京の東端であった通でもあります。
洛中と洛外を隔てる 「境界」 の鴨川に沿い、あらゆる意味でその影響を受けてきた、寺町通。
近世に入り、鴨川の東側が発展した後も、寺の集積によって死と生の 「境界」 たり得てきた、寺町通。
その 「境界」 性に導かれて遊興・芸能が集まるようになり、現代にまで続く遊興地となった、寺町通。
年越しという巨大な 「境界」 と向き合うに際し、ある意味、これほど相応しい場所はないでしょう。
そう考えた私は今回、寺町通に響く除夜の鐘を聴きながら、2020年の年越しを過ごすことにしました。
綺羅星の如く並ぶ寺々から響く鐘の音。その音へ耳を澄まし、 「境界」 と向き合おうとしたのです。
無論、自分で鐘を衝いたりはしません。2019年と同様、偽りの主体性へ乗りかかる暇はありません。
聴覚を通じて精神を研ぎ澄ませ、音像の彼方に顕れる英知と悟りを、魂の眼で見届けてきたのでした。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトであるために必要な挑戦なのです。
決して、大晦日が悪天だったので、アーケードのある道を特攻先に選んだわけでは、ありません。
断じて、立ち止まって音を聴くのさえダルいので、歩くだけで済ませたわけでも、ありません。

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SAKURA TERRACE THE ATELIERで聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

2019年12月24日(火)


SAKURA TERRACE THE ATELIERで聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

メリークリスマス!! 当サイト恒例クリスマス単独お泊まり企画、2019年度版です。
当初は 「独男にとって精神的外圧が最も高まる聖夜の孤高な聖戦」 として始まった、当企画。
初期こそネタ全開で安宿宿坊に投宿してましたが、やがて企画に 「境界」 というテーマが浮上し、
「四堺」 を押さえる形で遊廓跡元ラブホといったアジール性の高い宿へ泊まるようになりました。
そうこうしてるうちに、インバウンド爆増によって洛中のど真中こそ魔宿が林立する魔界と化したため、
此地も新たな 「境界」 と認定し、増殖しまくった民泊町家一棟貸しゲストハウスなどにも特攻。
エリア的にもメジャー中のメジャーなエリアばかり選び、熾烈な市街戦を繰り広げて来たのでした。
で、今回の2019年度版も、この市街戦シリーズの続きとなります。戦場は、京都駅の南です。
人様の住む街を 「そうだ」 呼ばわれして観光地扱いする邪鬼が、大挙して降り立つ魔口・京都駅
当然、この邪鬼が落とす金を目当てにして、近年は様々な宿泊施設もまた林立するようになりました。
中でも、開発・発展・変貌が顕著に進んだのは、駅の南側に展開している東九条エリアでしょう。
観光バブル勃発以前は、コリアンタウンが拡がることで有名なエリアでしたが、その周囲に宿が林立。
大型ホテルが次々と建つと共に、民泊もそこら中に湧き、様々な問題も側聞するようになってます。
此処もまた、新たな 「境界」 に違いない。そう考え、東九条に泊まってみようと思ったのです。
投宿したのは、SAKURA TERRACE THE ATELIER。最近増えてる、おしゃれ系の安宿であります。
九条河原町の角に聳えるSAKURA TERRACE本店や、やたらゴージャスなTHE GALLERYなど、
姉妹店がこの界隈でインパクトを放ってるSAKURA TERRACEですが、中でもTHE ATELIERは最安。
といってもドミトリーではなく、狭いながらも一応個室宿であり、おしゃれ感は下手すると最も高め。
「安普請をデコで胡麻化してるんだろ」 という心の声さえ黙らせたら、かなり良さげな宿となってます。
ので、泊まりました。でもなるべく狭くない方をと、何故か取れた2段ベッドの部屋を取りました。
そして実際に泊まったら、妙に快適で、市街戦とかをすっかり忘れてしまったのです。

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川端四条の一平茶屋へ、かぶら蒸しを食べに行きました。もちろん、ひとりで。

2019年12月6日(金)


川端四条の一平茶屋へ、かぶら蒸しを食べに行きました。もちろん、ひとりで。

私は、京都の冬の風物詩であるかぶら蒸しを家庭料理として食したことが、ありません。
摺り下ろしたかぶらを卵白&具材と共に蒸し上げ、蕩みの利いた出汁をかけ食す、かぶら蒸し。
京野菜の恵みと丁寧な仕事が活きる、そして冬の底冷えも救う、実に京都らしい一品ではあります。
が、偽京都人 or おけいはんの民の私としては、かぶら蒸し、親が作ってくれた記憶はありません。
自分で作ろうと試みたことはありますが、面倒臭さに完敗しました。手がかかるんですよ、あれ。
結果として爆誕した謎のかぶら天つゆを啜り、己の身体的・生活的教養の欠如を痛感したものです。
正に、偽京都人。私のような 「外」 の人間は、家庭でかぶら蒸しを食うのが相応しくないのでしょう。
では、私や、あるいは私と同様 「外」 の存在たる人類の大半が、京都の冬の底冷えに遭遇し、
「かぶら蒸し食いたい」 と切に願ったのならば、食うのに相応しい場所とはいったい何処になるのか。
その適格地は川端四条であると、私は考えます。かの南座が建つ川端四条であると、考えます。
元来は、鴨川を隔てた洛の 「外」 であり、祇園神が洛中へ入る際の入口とされた、川端四条。
近世へ近づくに連れ妖しき傾奇者が集うようになり、やがて歌舞伎発祥の地となった、川端四条。
そして現代は、京阪で京郊の砂利が闖入し続ける、川端四条。正に 「外」 たる存在のアジールです。
「外」 の者が京都の冬の味覚を堪能するのに、ある意味、此処ほど相応しい地もないでしょう。
また何より此地には、かぶら蒸しの専門店とも言い得るような店も、存在してます。一平茶屋です。
かぶら蒸し定食が4000円超という値の張る店であり、ゆえに私は店の前を通り過ぎるばかりでしたが、
今回は意を決して、やはり冬の京都の代名詞である南座の顔見世真っ只中である12月に訪問。
家庭とは全く逆の、しかしアジールの人間らしい温もりを感じながら、かぶら蒸しを食したのでした。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトであるために必要な挑戦なのです。
決して、冬場のアクセス数を確保すべく、食い物ネタを増やそうと考えたわけでは、ありません。
断じて、歌舞伎とかぶら蒸しをカブ繋がりでカブらせようと考えたわけでも、ありません。

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綾部の大本本部・梅松苑へ夜の紅葉を観に行きました。もちろん、ひとりで。

2019年11月17日(日)


綾部の大本本部・梅松苑へ夜の紅葉を観に行きました。もちろん、ひとりで。

大本聖師・出口王仁三郎親父さんは、園部・船岡生まれなんだそうですよ。
「違う。本当の父親は●●●●●●だ。統の血を引く御落胤だ」 という話もなくはないですが、
とりあえず戸籍上では、船岡の紺屋に生まれた親父さんが、穴太の上田家に婿入りしたんだとか。
「違う。全ては渡辺ウメノの謀略だ。そして薩摩ワンワールド勢力が」 という話もなくはないですが、
とりあえず戸籍上では、王仁三郎は船岡にルーツを持つ人物と言えるかも知れないわけです。
ちょくちょく書いてることですが、私の親も船岡生まれ。私自身も、本籍地は今も船岡に置いたまま。
なので、大本に感じる妙な親近感はこうした所から生じてるのかと、思わないでもありません。
京都・丹波が生んだ新宗教の老舗、大本。当サイトでも、節分大祭七草粥で訪れてきました。
そしてそれらの記事の中で、 「大本に隣人のような印象を抱いてる」 といったことを書いてきました。
信仰はもちろんないし、教義もよくわからんし、都市伝説系の四方山話にもあまり興味はないですが、
若き日の王仁三郎の逸話などには、古い親戚に感じた丹波的な何かを感じたりするのです。
無論それは、妙な距離感と薄い関心量が生む勝手な感慨、幻覚の郷愁みたいなものに過ぎません。
しかしそれでも、こんな雰囲気を感じる大本へ偶に出向くことは、私には楽しいことではあるのです。
そういえば、開祖・出口なおの父方・桐村も、ルーツは桐ノ庄らしいし。桐ノ庄は、船岡の隣だし。
そんな大本、綾部・亀岡に聖地を持ちますが、綾部の本部・梅松苑は特に広く、紅葉も豊富。
綾部もみじまつりとして、近所・山家のもみじまつりと共に無料ライトアップも数日やってたりします。
となれば、集客&折伏全開かと思ったりしますが、七草粥や節分大祭と同様、これが全然なし。
実際行ってみると、無料が大好きな凡人が集まる、単なる紅葉タダ見大会みたいになってました。
実に気前が良く、おおらかな雰囲気が漂っており、その辺が丹波的というか、王仁三郎的というか。
「こういうのも、やらんとあかんで」 という王仁三郎の声が、聞こえてきそうな紅葉だったのです。
私が感じた、ほっこりするようなしないような雰囲気、是非とも感じてみて下さい。

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京丹波・食の祭典へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2019年10月27日(日)


京丹波・食の祭典へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「車社会」 の文化と、京都。関係があるような、ないような、そんな話ではあります。
車を置く場所にも走らせる場所にも困る京都の中心部は、もちろん 「車社会」 ではありません。
逆に、全ての文化行動が徒歩圏で完結することこそ 「京都人」 の条件になるような、超狭隘都市。
自転車はあちこちで死の暴走を繰り広げてるものの、所謂 「車社会」 ではないと言えるでしょう。
では、中心部から外れた京郊の住宅地が 「車社会」 化してるかといえば、これまた案外、微妙。
「車社会」 化してる側面も大いにありますが、同時に府南部・山城エリアは、鉄道網が極めて充実。
車がなくても、割と生活できたりします。私自身も、そうだし。八幡も、割に便利なんですよね。
そんな京都ですが、府域には実に 「車社会」 な所も、なくはありません。京丹波町が、そうです。
京丹波町。その名の通り、丹波のど真ん中に位置し、鉄道との縁がかなり薄い自治体であります。
江戸期は山陰道の要衝として栄えましたが、明治になると鉄道・山陰線が此処を迂回する形で開通。
陸の孤島になるかと思いきや、現代に入るとモータリゼーションが進行して、一気に 「車社会」 化。
現代の山陰道・R9は激烈に混み、そのため縦貫道が出来たら今度は道の駅が雨後の筍の如く林立。
車の所有率も京都トップとなり、ある意味、京都の 「車社会」 文化の最先端を行くようになりました。
人口はしっかり減ってますが、私の本籍地たる隣の南丹よりは妙に景気良さげに見える町です。
そんな京丹波町が、車ではなく食のイベントとして毎年開催してるのが、 『京丹波・食の祭典』
食材の宝庫・丹波にて、収穫が盛んな秋に、その食材を活かしたグルメを楽しむイベントであります。
となれば、丹波的でアーシーなノリが渦巻いてるかと思ったら、行ってみると何か違うんですよね。
不思議なくらい、現代的で普通だったんですよ。 「車社会」 的 or イオン的に感じられたというか。
車でしか行けない所で、かなりのキャパでイベントやれば、そうなるのも道理といえば道理ですが、
そんなノリに驚き、そして興味深く感じながら、私は丹波の食をあれこれ食いまくったのでした。
食い物ばかりの写真から、私が感じた 「車社会」 な感じ、多少は伝わるでしょうか。

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夕日ヶ浦木津温泉へ夕日を観に行きました。もちろん、ひとりで。

2019年9月19日(木)


夕日ヶ浦木津温泉へ夕日を観に行きました。もちろん、ひとりで。

観光資源の濫掘を経た今もなお、京都は何故か、夕焼けスポットがあまりありません。
夕焼け自体がないわけでは、無論ないのです。この街も、夕日に染まることは多々あります。
夕日を背にした東寺・五重塔なんかは、京都のド定番ビジュアル or アイコンとさえ言い得るでしょう。
では、その東寺が見える場所が夕焼けスポットとして有名 or 人気かといえば、そうでもありません。
夕日を見れる場所全般についても、この街で人気を呼んでる話は、あまり聞いたことがありません。
これは一体、何故なのか。その理由は、京都が未来を感じさせない街だからだと、私は考えます。
細かく言うと、日没 or 夕日が死と同時に約束する未来を、この街は感じさせないからだと、考えます。
今日の喪失が、より豊かな明日を運んでくる。そんな、期待。というか、確信。あるいは、担保。
スクラップ・アンド・ビルドの高度成長期が、同時に 「夕日の時代」 としてもイメージされてるように、
あるいは、死の領域へ近接する遊戯に熱を上げるのが、概ね発情した若者ばかりであるように、
死や喪失が醸し出す切なさを楽しめるのは常に、未来に期待・確信・担保を持つ若き存在だけです。
そして、そんな期待・確信・担保は、京都にはありません。今までも、今後も、きっとありません。
ひたすら衰え、失い、無様になり続ける街。踏ん張るも、踏ん張れず、自ら斜陽を体現し続ける街。
そんな街に、夕日は似合わないのです。似合うのに必要な明日が、絶望的に欠けてるのです。
しかし、こうした京都の夕焼け事情も、府域にまで目線を広げた場合には、話が全然変わってきます。
未来どころか不死 or 来世の伝説が溢れまくる日本海側の丹後は、夕日スポットが特に目白押し。
夕日ヶ浦木津温泉、という名前の温泉街さえ、実在してたりします。これはもう、行くしかありません。
というわけで私は今回、そんな夕日ヶ浦へ赴き、未来と来世について思念を巡らせてみたのでした。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトであるために必要な挑戦なのです。
決して、超遅めの夏休みが出来たので、日帰りながら海へお出かけしたわけではありません。
断じて、夕日は実はついでで、メインはあくまで遊びと温泉だったわけでもありません。

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五山送り火の鳥居形を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

2019年8月16日(金)


五山送り火の鳥居形を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

五山送り火5ヵ年計画、本当に5年で完結することになってしまいました。
お盆に際し現世へ召喚された精霊 aka おしょらいさんを、冥界へ送還する万灯籠の習俗が、
大規模化した末に闇夜のページェントを現出させるに至った、京都の夏の風物詩たる五山送り火
そんな送り火の五山コンプを何度も何度も阿呆丸出しで挑むも、全てに失敗して深く深く反省した後、
「5年かけて、1年に一山ずつ観る」 べく2015年に発動したのが、当サイトの五山送り火5ヵ年計画。
初年度は代名詞たる大文字を、2016年は超豪雨の中で妙法を、2017年は六斎と共に船形万燈籠を、
そして2018年は左大文字を真近で拝み、そして今回、ラストの鳥居形に臨むこととなったのです。
そう、なったのです。なってしまったのです。なると思ってなかったのに、なってしまったのです。
発動した頃は正直、完結するなんて思ってませんでした。絶対に、途中で放棄すると思ってました。
何故なら、所詮は火を観るだけだから。 「人多い」 や 「暑過ぎ」 くらいのことしか言いようがないから。
「火を担う人の想い」 とか 「火に託す人の想い」 とか言って、他人の人生に乗っかるのではなく、
徹底して単にうろつく見物人の分を弁え、その立場を遵守する場合、面白味が発生しようがないから。
歴史をあれこれ言って逃げを打とうにも、そもそも送り火の歴史はよくわかってないから出来ないし。
だから、トンズラすると思ってました。が、完結するのです。完結へ私を導いたのは、惰性です。
「例年通り」 という京都の慣用句が示す、惰性の魔力。あるいは、拘束力。もっと言うなら、呪力。
都市に於ける日常が本質的に永遠でも普遍でもないことを知悉するがゆえに希求される、そんな力。
その希求は無論、ある種の祈りでもあります。後ろめたい真実を背後に含んだ、祈りでもあります。
送り火を観続ける中で私も、京都そのものとも言い得るそんな惰性に、いつしか囚われてたようです。
いや、真に祈りの場たる送り火ゆえ、見物人にも何らかの魔力が作用したと考えるべきでしょうか。
魔力により 「面倒臭い9割+残り無意識」 と魂がゾンビ化した私は、完結の感慨も特になく、
鳥居形が灯される嵯峨嵐山へと今回も 「例年通り」 出かけたのでした。

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向日神社へ旧暦タイムの夏越祓の茅の輪をくぐりに行きました。もちろん、ひとりで。

2019年7月31日(水)


向日神社へ旧暦タイムの夏越祓の茅の輪をくぐりに行きました。もちろん、ひとりで。

旧暦のタイムテーブルが生き続けてるのは、京都市街に限った話ではありません。
明治以降を全否定するかの如き勢いさえ感じさせる京都の旧暦の生き残りぶりは、確かに、
本来の正月 = 節分での異常な盛り上がりを筆頭として、当サイトでも何度かお伝えしてきた通り。
とはいえ、当然ながら京都以外の人もまた千年以上にわたって旧暦タイムを生きてきたわけであり、
その旧暦タイムの中で育まれてきた伝統行事も、タイミングはそうそう変えられなかったりします。
より季節感にフィットした旧暦タイムで各種行事を行い続ける寺社・地域は、京都以外でも実に多く、
季節感がよりビビットに反映される夏越祓については、7月末に実施する社も少なくありません。
京都・乙訓向日町に建つ向日神社も、そんな旧暦タイムの7月末に夏越祓を行う社のひとつです。
向日神社。 「むかえび」 でなく、日向の逆だからといって 「がひゅう」 でもない、むこうじんじゃ。
嵐山の辺から南東へ続く丘陵の先+古墳でもある向日山で、奈良時代に創建された古社であります。
プレ平安京たる長岡京はこの社を取り込むように造営され、平安遷都後も朝廷より崇敬を獲得。
近世以降は国学者の六人部是香を輩出し、本殿が明治神宮の元ネタになったことでも、有名でしょう。
一方で、中世には土一揆の会合の場となり、戦国時代以降には西国街道沿いに門前町を形成。
古社ゆえのロイヤルなる由緒&縁と、京郊ならではのアーシーなテイストを併せ持つ社なわけです。
そんな向日神社の旧暦の夏越は、ロイヤルでアーシーなものかといえば、そうでもありません。
市制施行から何十年経っても門前町の呼称が生き続ける向日町は、同時に宅地化が急激に進展。
高度成長期に至るまで宅地は増え続け、人口密度は京都市さえブチ抜いて府最高となりました。
いわば、ベタベタのベッドタウンです。旧暦どころか明治さえ踏み潰すような、昭和丸出しの町です。
なので向日神社の旧暦夏越も、徹底的に生活感爆裂路線かといえば、これまた違うんですよね。
生活者が多いからこそ生き続けるナチュラルな信仰と、この社独特のロケーションが相まり、
季節感にフィットした伝統を良い雰囲気で体感できる、そんな夏越だったのでした。

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夏越祓の茅の輪を求めて山科をうろつきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2019年6月30日(日)


夏越祓の茅の輪めぐり@山科盆地・山裾、前篇に続いて後篇です。

子供の頃の私にとって、山科は、何だかとてもカオスな街に見えたものでした。
カオスな人達が住んでる街に見えたわけではありません。街の作りがカオスに見えたのです。
狭くて曲がりくねった道。見通しの利かない交差点、そこへ密集して建て込む家家家家家家家家。
さらには、生活するためだけに住む人が密集して住むことから生じる、濃過ぎるほどの生活感。
地元・八幡や、見慣れた京都市街とは異なるそんな景観を、親戚の家を訪れる際に車の窓から見て、
「こんな町、絶対に車で走りたくない」 と思うと同時に、わけのわからん異様さを感じたものでした。
車の普及をギリギリ想定し切れなかった頃の荒っぽい開発によって急激に都市化された山科が、
昭和の人口爆増&車爆増を経て、今もあちこちで渋滞を生む街となったのは、御存知の通り。
私が住む八幡はもうちょっと開発が後であり、京都市街は密住してても街が遥かに整然としてるため、
昭和丸出しの無秩序な増殖によって仕上がった山科のルックが、とても異様に見えたわけですね。
ただこの印象、今回の茅の輪めぐりを経て、理由は他にもあると思えるようになりました。
近隣の生活者にとって山科は、それこそ単に人口が増え過ぎたベッドタウンでしかないわけですが、
めぐりをすると、この街がとても芳醇な歴史&自然&オーラを持つエリアであることが、体感できます。
「知ることができた」 とかではなくて、体感です。山裾部の緑から得られる、生々しい体感です。
もっと厳密にいうなら、無秩序な排気ガスで汚された緑から得られる、霊気の生々しい体感です。
人間がいるからこそ成立する、神々しい自然。単なる自然ではそもそもありえない、神々しい自然。
そんな、逆説か順説かよくわからん本質みたいなものが、生々しい形で溢れてるように思えるのです。
そしてこの生々しさは、私が子供の頃感じた山科のカオスな印象に、不思議と似てたのでした。
人間と神と自然と車がカオスに密住しまくる山科での、雨に濡れながらの夏越祓の茅の輪めぐり、
後篇では、生々しい神と自然へもうちょっと寄った感じで、盆地山裾の社をめぐって行きます。
私が山科に感じたカオスの正体は、雨の彼方から姿を現してくれるでしょうか。

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夏越祓の茅の輪を求めて山科をうろつきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2019年6月30日(日)


夏越祓の茅の輪を求めて山科をうろつきました。もちろん、ひとりで。

改めて考えると、茅の輪くぐりまくりにおいて当サイトは、思い上がってました。
あちこちの社を茅の輪求めて彷徨い、 「これは小社を紹介するいい機会」 とか思ってました。
そして、その思い上がりを反省すると言って禊の天王山攻めなどをやり、それもネタにしてきました。
こうした所業は確かに、あまり良いこととは言えません。態度としては、明確にふざけてるでしょう。
愚かさを超克できず、糊塗することしかできない凡庸さから生まれる、この思い上がり。腐ってます。
が、だからといってこの愚昧&凡庸&腐敗を反省ばかりしてるのも、それはそれで非生産的です。
そもそも、反省の先に何があるというのか。部屋でじっとして、窓から雨粒でも数えてるべきなのか。
違う。それは日和だ。梅雨の雨中で徘徊したくないという日和の声が、内省心を偽装してるだけだ。
めぐりは、続けなければならない。めぐりが罪なら、その罪を一身に背負って続けなければならない。
その徘徊が、雨の中でのその徘徊こそが、めぐりびとにとって巡礼に、そして浄化にもなるはずだ。
私はそう考え、2019年の夏越は雨の中をとことん歩くことにしました。歩いたのは、山科です。
山科。京都の隣にあって、住宅地として猛烈に開発されたエリアであります。が、その歴史は古し。
古代には、大陸にも繋がる越の道の要衝となり、中臣氏が拠点と置くと共に天智天皇御陵も造営。
その縁もあってか山隣の平安京への遷都後は、公家の荘園・遊猟地ができ、寺社も相次ぎ創建。
中世以降は、決戦第2新本願寺ができたり禁裏御料地になったりしながら、山科七郷なる惣も築き、
明治に入れば鉄道の開通で都市化して、さらに昭和以降は京都のベッドタウンとして人口が爆増
そして近年は、地下鉄開通により利便性が増し、新たな形での宅地化が進んでるエリアであります。
そもそも山科という地名は 「山の窪み」 的な意味を持つらしく、その名の通り、エリアは盆地の中
まるで京都盆地を小さくしたような地形であり、外周にあたる山裾部には大小の様々な神社が林立。
で、 「これは山科の小社を紹介するいい機会」 と思って今回、その山裾をめぐったわけです。
山科盆地に降る雨は、めぐりびとが背負った罪を洗い流してくれるでしょうか。

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平安神宮へ京都薪能を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2019年6月1日(土)


平安神宮へ京都薪能を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

平安神宮には、普段は有料の神苑に無料で入れる日が、年に2日設定されてきました。
ひとつは、6月の4日頃。もうひとつは、9月の17日頃。共に、神苑の入苑料がタダになるわけです。
タダになる理由は、言うまでもないでしょう。6月も、9月も、観光客が少なくなるシーズンだから。
6月は、行事があまりなくて、蒸し暑いだけの季節。9月も、行事があまりなくて、蒸し暑いだけの季節。
通振りたい観光客に青もみじを押し売りしても、生理的苦痛を忘れさせるまでには至らないのか、
あるいはやはり単に雨が多いからなのか、とにかく今ひとつ盛り上がりに欠ける時期ではあります。
ので、タダ日があると。修学旅行生が6月に多いのも、その辺の事情が関係してるんでしょうか。
では、毎年6月に行われる薪能が、タダ日と同じ目的で始まったのかといえば、それはわかりません。
元ネタたる奈良・興福寺薪能と同じく、宗教的理由とかを持つ可能性も、充分あるとは思います。
が、地味な6月の京都にて最大の規模を誇る催事となってるのは、紛れもない事実ではあるでしょう。
薪能。正式名称、京都薪能。昭和25年より開始された、平安神宮にて開催される能公演です。
だだっ広い境内に特設舞台と客席を設け、日暮れ頃から薪を焚きながら展開されるのが、この公演。
1日&2日に開くことで梅雨の雨を避け、また雨天でも隣の京都会館が会場化出来ることがあって、
祇園祭がまだまだ遠い6月に彩を添える催事としてすっかり定着し、現在に至るまで継続されてます。
つまりこの薪能、明らかに大メジャーな行事です。が、当サイトでは今までスルーしてきました。
理由は、私が能に興味がないから。加えて、興味がない者にはチケットが高価過ぎると思えるから。
無論、興味がなくてもメジャー案件であれば、うちでは特攻をやってきました。をどりや、川床とか。
でも、少なくともをどりには、舞妓さんがいる。川床では、料理が食える。でも薪能には、どっちもない。
あるのは、眠い声と鼓の音。あとは、普段よく行く岡崎の雑音。行く気、しません。避けてました。
が、当サイトの趣旨はあくまでメジャーどころの単独特攻。これ以上、逃げることは許されません。
ので、行ってきました。高い金払って興味のないものを、夜どころか昼から観てきました。

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