8月に舞鶴引揚記念館へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2022年8月29日(月)


8月に舞鶴引揚記念館へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

終戦気分が高まる頃合とは言え、8月に舞鶴の引揚記念館へ行く理由は特にありません。
舞鶴引揚が始まったのは、10月だし。実際、舞鶴市は10月に引揚の記念日を制定してるし。
かなりの引揚者は、8月に戦争が終わらず地獄を見たわけだし。8月、関係ないわけです。
しかしそれでも、安直な8月の終戦気分で引揚記念館へ行くことには意味があると、私は考えます。
特に、歴史の痛みを知らぬ者がその痛みについて考える際、この姿勢は、むしろ重要とも考えます。
引揚記念館。舞鶴港での引揚の記憶を現代に伝承する、日本で唯一の引揚特化型博物館です。
1945年の敗戦後、外地に残された邦人約660万人の帰還のため引揚港に指定された軍港・舞鶴は、
平海兵団跡である舞鶴引揚援護局にて、主にソ連/旧満洲/朝鮮半島の引揚者を受け入れました。
特に1950年以降は国内唯一の引揚港となり、平桟橋に立つ 『岸壁の母』 が有名にもなりましたが、
1958年に引揚事業が終了すると、桟橋と援護局は荒れ果て、木工団地への整備後には痕跡も消滅。
この風化を避けるべく、1988年、援護局跡と桟橋跡を見下ろす高台に引揚記念館は建てられました。
以来この館は、引揚に関する資料を収集・展示し、戦争の愚かさを伝え続けてる、というわけです。
そんな引揚記念館へ8月に行くということ。それは、戦争を知らない己を体感することに他なりません。
戦争 = 8月という安直な先入観の真中で、最初から完全に間違ってる者として、存在するということ。
それを恥じながら対象と向き合うことで、己の存在を裂き、その裂け目から世界を見るということ。
安易に本物へ触れず、何も知らない己に恐れ慄き、その恐怖で己の外部を想像し続けるということ。
自分が何を見てないのか、見せられてないのか、見ようとしてないのかを、考えるのではなく体感する。
自分が何を知らないのか、知らされてないのか、知ろうとしてないのかを、考えるのではなく体感する。
場の悪さ/間の悪さとして体感する。場違い/間違いとして体感する。激しい気まずさとして体感する。
そんな思いから、8月に引揚記念館へ出かけました。まだ空が総懺悔色の8月末に、出かけました。
断じて、8月の鉄板ネタと思って出かけた後で、引揚と8月が無関係と気付いたわけではありません。


特急の車内で引揚と8月が無関係と気付き、かなり慌てた心で降り立った、朝10時の東舞鶴駅
日露開戦に向けて、私以上に慌てて建設された舞鶴線の終着駅であり、引揚記念館の最寄駅です。
特急 『まいづる』 、ほぼ満席でしたが観光客風は少なく、半分以上がひとつ手前の西舞鶴駅で下車。
私も西舞鶴で、魚食いまくりとかしようかな。でも、もう特急で散財したしな。ノドグロはまだ早いしな。


引揚記念館の最寄駅、すなわち多くの引揚者がここから故郷へ旅立った駅でもある、東舞鶴駅。
無論その前は日露決戦都市・第2新舞鶴市シン舞鶴駅として多くの軍人が行き交った、東舞鶴駅。
駅構内は往時の残り香が漂ってるかと言えば建替でそんなもんは全くなく、桟橋オブジェがあるのみ。
やっぱり行くやめようかな、引揚記念館。辛気くさい。海軍カレーと8月って、何か関係なかったかな。


敗戦カレーとかあれば良いネタになるんですが、当然ないので、引揚記念館へ行くことにします。
最寄駅の東舞鶴駅から引揚記念館までは、徒歩でなくバス。何せ、約6キロもあるので。面倒くさい。
何でそんな離れた場所にあるんだと思いますが、実際そんな場所にあるんだから仕方がありません。
幸い、バスの1日券と館の入館券を兼ねた 『舞鶴かまぼこ手形』 が1000円で出てます。ので、購入。


引揚記念館 ≒ 引揚援護局が駅から随分離れてるのは、やはり検疫・防疫のためなんだろうか。
あるいは赤化リスクの回避のためにも、駅から遠い平海兵団跡を引揚援護局に転用したんだろうか。
あんまり暇なので、そんなことを考えながら小型バスに20分ほど揺られてると、引揚記念館前に到着。
中年夫婦/隊員 or 隊員オタクの若衆/単独男女といった実に雑多な衆と共にバスを降りて、館へ。


着きました、引揚記念館。本名、舞鶴引揚記念館。玄関の柱が、総懺悔色の空によく映えてます。
ただ施設は正直、小さい。あと、一番平和アイテムっぽく見えるのが、奥の全然関係ない橋だったり。


本物の平和アイテムの方は、地味です。この鳩の他にも鐘があるらしいけど、見るの忘れました。
地味だからなのか何なのか、敷地の大半を占める駐車場へ大型バスが来まくる感じも、ありません。


役場の支所みたいな入口へ行き、かまぼこ板に判子をもらって入館すると、こんなゲートが登場。
役場感とは正反対な雰囲気を醸し出してます。こっちが本当の入口、という感じでしょうか。入ります。


引揚記念館、館内の展示は基本的に、引揚に関連した文書や品々を無難に展示してる感じです。
少し前にここの所蔵文書がユネスコ記憶遺産に登録されましたが、それも割と普通に展示してます。
引揚について詳しい話を聞きたい客には、語り部ボランティアの人があれこれと詳しい話をしてました。
あ、写真なんか撮ってもいいのかという話ですが、ここは基本、版権が生きてるもの以外は撮影OK。


なので私は、フィギュア展示がとてもお気に入りです。いわば、シベリア人形館状態。
最初に観れるのは、ビフォアアフターで言うならビフォア、すなわちこれから元気良く出征する人。


そしてアフター、出征した先の大陸で抑留された人達。


その虜囚が食事するのをじっと見る、恐らくゾンビのロシア人。


木材は無限にあるけど他のものが無さ過ぎる、酷寒のラーゲリ内。


その酷寒でかなりヤバくなった人と付き添う人、そして何かを狙ってる人。


そんな地獄を、家族の写真に集中することで忘れようとしてる人。


ラーゲリの屋上で、日本に向けて羽ばたこうとしてるような衣類。


その衣類の下で寝込む、恐らくは生きて日本に帰れなかったであろう人。


そして、まず間違いなく生きて日本に帰れなかったであろう人。


生きて引き揚げることが出来た人達は、引揚船で舞鶴に上陸した後、故郷へ帰って行きました。
舞鶴引揚者の出港地は、約7割がソ連。この館の展示がシベリア記念館状態であることの理由です。
彼等は赤化も疑われたとか。本当に染まった人もいたとは言え、帰った先での地獄は堪えたでしょう。
こうした痛みを、私達はこの模型から想像しなくてはならないのです。それが、私達の義務なのです。


1958年まで続いた引揚で、舞鶴へ入港した引揚船は延べ346隻で、生きて帰った人は664531名。
一方、遺骨として帰った人は16269基、引揚船内で死んだ人は59名、援護局内で死んだ人は360名。
そして無論、引揚船に乗れなかった人や港に辿り着けなかった人も、数え切れないほどいたでしょう。
こうした哀しみを、私達はこの布から想像しなくてはならないのです。それが、私達の義務なのです。


とは言え、実際には想像力も無限ではありません。想像するにも、何かしらの拠り所は必要です。
ので、館の横の坂から引揚記念公園へと向かいます。公園、引揚船が入った湾が見えるんですよ。


旧軍人の植樹を見ながら、そしてバッタに当たられながら、坂を登って引揚記念公園に着きました。
公園、 『岸壁の母』 の碑や謎の女性像とかが並んでて、何ともな感じです。が、奥には展望台あり。


その展望台からの光景は、こんな感じ。周囲の山々は、敗戦時と変わらないはずです。美しい。
御覧の湾内に引揚船が入ったわけですが、船は概ね2000人乗れる大きさゆえ、着岸はちょっと無理。
引揚者はランチに移り、湾の奥の北桟橋 or 援護局近くに新設された平桟橋にて上陸を果たしました。
援護局があったのは、画面真ん中やや右、木工団地の辺。その真下、桟橋っぽいのが見えますね。


無理矢理望遠で見ると、やっぱり桟橋です。レプリカだけど。場所も少し違うけど。でも、桟橋です。
行きたいな。赤コーンあるから工事中かも知れないけど、行きたいな。ジャンプしたら、行けそうだな。


行けそうなのでジャンプしたら、本当に行けました。ワープみたいに行けました。一瞬で行けました。
本当は、死ぬほど暑い中を20分以上歩いて死にかけ、写真撮るのを忘れただけだけど、行けました。
ほぼ熱中症状態になりながら近くで見た桟橋は、慰霊碑の重いオーラを除けば、平成再建感が濃厚。
よく見たら破損部をカバーしてるだけの赤コーンも、何か興醒め。高台から見るだけでよかったかな。


しかし、再建されたものが再建されたものに見えるのは、当然であり、ある意味で健全なことです。
そこから先の 「読み」 をどう行うかが、残された私達に問われるスタンス、託されたミッションでしょう。
そう考えると、あの橋 = 舞鶴クレインブリッジが視界から消えて、引揚船の姿が幻視出来るはずです。
入湾した引揚船からランチに乗り換え、この桟橋へやって来る引揚者の姿が幻視出来るはずです。


桟橋の先で湾を見渡すと、湖のように静かな海は今、人々の歓喜の声を反響して波打ってます。
呆然と突っ立つ自分の横で、悲鳴に近いような声を上げながら再会を喜ぶ、引揚者達とその家族達。
地獄を見過ぎたせいか、中には全ての人に呪詛の目を向ける人や上陸を拒否する人もいるようです。
惰性で歓迎の幟を立てる市民や、絵になる 『岸壁の母』 を探す報道陣も、見えるに違いありません。


無論、その幻視は全てが嘘であり、全てが間違ってます。この間違いこそが、私達なのです。
最初から完全に間違ってる者として存在するということ。それを恥じながら、対象と向き合うということ。
安易に本物へ触れず、何も知らぬ己に恐れ慄き、その恐怖で己の外部を常に想像し続けるということ。
語りと騙りの間に、私達の真実は存在します。そして、架空の弔鐘は貴方のために鳴ってるのです。


あんまり暑いので、脳が少し飛びました。そろそろ帰ります。帰りも歩きだから、やっぱり暑いけど。
ただ帰りは、少し写真が撮れましたよ。援護局跡、正気で見るとこんな感じ。木工タワー、格好いい。


歩きといっても、東舞鶴駅まで歩いたわけではありません。そんなことは、引揚者もしてません。
引揚者はトラックか船で、私はバスで、駅へ戻りました。そして駅では、御土産で海軍カレーを購入。
引揚記念館、海軍カレーが食えるカフェがあったんですが、コロナで閉まって食えなかったんですよ。
和菓子 『岸壁の花』 と迷いましたが、暑過ぎて持ちが不安になって、レトルトのカレーを買いました。


そして、帰ってから舞鶴感を味わおうとカレーの箱をよく見たら、製造元は愛媛県の会社でした。
軍施設があった島の地名に思えたので調べたら、全く関係なくて、呉のカレーも作ってる会社でした。
これが、私達なのです。この気まずさこそが、私達なのです。完全に間違ってるのが、私達なのです。
安易に本物へ触れず、何も知らない己に恐れ慄き、真実の先を想像し続けることが、大切なのです。

8月末の舞鶴引揚記念館、客は途切れることなく来る感じです。
基本的には空いてますが、客が全くいないという時間も全くありませんでした。
客層は、子連れの家族連れや中高年夫婦が多いです。年齢は、高くも若くもなし。
烏合の衆の中から、この手の施設に関心/関係のある層をランダムに抽出した感じというか。
それ以外には、これといって目立つ特徴は特にないように思います。
年間を通して常にこんな感じの層なのかどうかは、知りません。

ひとりだから気まずさを感じることはない施設ですが、
不埒な気持ちで人形を楽しんでると、より根源的な気まずさは感じます。
あと、人形を除けば正直さほど面白い所でもありません。
面白くないのに来てるところが、気まずさの根源なのかも知れませんけど。
なので、ひとりに向いてる度は★★★でいいんじゃないでしょうか。
桟橋は、桟橋そのものより海の感じや地形感を是非とも体感して欲しいんですが、
8月に徒歩で行くと本当に死にかけるので、車で行った方が良いと思います。

そんな、8月の舞鶴の引揚記念館。
好きな人と行けば、より戦争なんでしょう。
でも、ひとりで行っても、戦争です。


 
 
 
 
 
舞鶴引揚記念館
京都府舞鶴市字平1584
9:00~17:00 水曜・年末年始定休

京都交通バス 引揚記念館前 下車すぐ

舞鶴引揚記念館 – 公式