六斎念仏 - ひとりでうろつく京都 (β版)

長岡天満宮の夏まつりへ久世六斎念仏の奉納を観に行きました。もちろん、ひとりで。

2016年8月25日(木)


長岡天満宮の夏まつりへ久世六斎念仏の奉納を観に行きました。もちろん、ひとりで。

京都の六斎念仏の講中は、かつてお盆の頃、あちこちで興業を行なってたそうです。
市街地近郊の農村に於いて、農閑期の余暇を活用する形で発展した、近世京都の六斎念仏。
特に芸能六斎と呼ばれるタイプの六斎は、花の都に流行るあらゆる演芸を取り込みまくる形で発展、
念仏の原型がなくなるほどに芸能化されたその演舞で、人々から熱烈な人気を得たといいます。
無論、そんな芸能化された六斎の講中も、メイン活動は地元の寺社での奉納&棚経なわけですが、
人気と需要ゆえ、大八車へ道具を積んでの町場廻りなども行ない、貴重な現金収入を得てたとか。
そういった場での演舞は恐らく、よりコンパクトで芸能色が濃く、より 「余興」 的なものだったでしょう。
「移動型総合念仏エンターテイメント」 「踊る農閑渡世」 みたいな感じだったかも。面白そうですね。
しかし現代に至ると、こうした 「興業」 としての六斎奉納を見かける機会は、なくなりました。
現代の六斎シーンにあっても、ホーム以外の場所で積極的に奉納を行なう講中は多いですが、
そのプログラムは、ガチというか、いわゆるフルサイズの 「一山打ち」 である場合が大半。
かつての六斎が、メイン活動以外の場に於けるライトな演舞で放っていたかも知れない雰囲気、
ある種の 「営業」 感や 「余興」 感を想起させてくれるような奉納は、案外と見当たりません。
時の流れはこういう所にこそ克明に顕れる、という話ではあります。が、そこで、久世六斎ですよ。
京都市南区・久世にあって、駒形稚児を出す綾戸国中神社の隣である蔵王堂・光福寺をホームとし、
蔵王堂におけるホーム奉納ではそれこそガッチガチのディープな演舞を展開する、久世六斎念仏
六斎本来の太鼓曲が中心のセトリに始まって、客&場所から放たれるタイムスリップ感に至るまで、
「昔の六斎はこんな感じかも」 と思わせるそのガチさ加減は、当サイトでもお伝えしてる通りです。
が、長岡天満宮・夏まつりでのお呼ばれ奉納では、こちらの久世六斎、実にコンパクトな演舞を披露。
これはこれで、 「昔の六斎の興業はこんな感じかも」 と、強く思わせてくれるものとなってます。
そんな六斎の別の表情を拝むべく、長岡天満宮がある長岡京市へ出かけてきました。

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松尾大社の八朔祭へ嵯峨野六斎念仏を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年9月7日(日)


松尾大社の八朔祭へ嵯峨野六斎念仏を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

踊り念仏の始祖とされる空也上人は、松尾神と浅からぬ縁を持つそうです。
疫病が蔓延して、死体が転がりまくってたという、末法テイスト爆裂な平安中期の京都。
そんな都で手製の台車を引き、疫病対策レクチャーと共に仏の教えを説いて回った、空也上人。
その市中説法の途中、大宮通の傍らにて上人は、爺さんの姿をした松尾明神に出会ったとか。
上人を空也と見抜いた松尾神は、震えながら懇願します。自分は、法華経の衣は持ってない、と。
ゆえに、妄想と煩悩で苦しんでる、と。どうか、法華の衣の法施を自分に与えてくれないか、と。
気の毒に思った上人は法華の衣を松尾明神へ差し出し、松尾明神は上人の守護を誓ったのでした。
書き起こすと、どうにもこうにも伝説 or 説話としか言いようのないテイストのエピソードですが、
しかしこのエピソードに基づく両者の縁は今なお続き、その証はしっかりと現実界にも残ってます。
空也建立の六波羅蜜寺を守る松尾社や、松尾祭・衣手社神輿の上人レリーフは、その良い例。
そして、松尾大社八朔祭嵯峨野六斎念仏奉納もまた、この縁の証たる行事ではないでしょうか。
「祇園で芸舞妓が挨拶回り+それをつけ回す報道とカメ」 が定番イメージな京都の八朔ですが、
言うまでもなくそもそもは、稲の穂入りを目前に控える八月朔日すなわち8月1日という意味であり、
「田の実」 たる五穀が豊穣に実るよう風雨無難を神 「頼み」 する、 「たのみの節」 であります。
農村信仰テイスト寄りなこの本来意義に基づく行事もまた、京都の幾つかの寺社では行われていて、
松尾大社が旧暦8月1日の時期に行う八朔祭も、そんな農村テイスト寄りな 「八朔」 のひとつ。
相撲や子供神輿、女神輿に盆踊りと、アーシーなテイスト溢れるコンテンツが目白押しな祭ですが、
中でも当サイト的に見逃せないのが、嵯峨野六斎念仏保存会による六斎念仏奉納公演です。
踊り念仏をルーツとして、京都では郊外農村地域にて都の芸能の影響を強く受け発達した、六斎
その六斎の、空也と縁深く、また初めて踊り念仏を行ったともいう松尾神前での、奉納。
観ないわけには、行きません。というわけで、深き縁の念仏、観てきました。

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干菜寺へ小山郷六斎念仏奉納を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年8月20日(火)


干菜寺へ小山郷六斎念仏奉納を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都の六斎念仏は、二つの系統に分類できると言われてます。
一方は、元来の念仏フォーマットを遵守して、鉦と太鼓のみで演奏される、念仏六斎。
もう一方は、「花の都」 ゆえに溢れる芸能を導入しまくって、極度にエンタメ化した、芸能六斎。
どちらの系統にも、京都 or 京都外に点在する講中へ免許を授ける総括寺院が存在し、
念仏六斎の 「干菜寺系」 、芸能六斎の 「空也堂系」 なる呼称は、その寺名から出来たわけです。
総括寺院が分かれてるからといって、両系統がバトルしてるということはもちろんなく、
時代の流れの中で転向した講も多数存在し、特に念仏六斎から芸能六斎への転向組は、多し。
念仏と言えどやはり楽しいのが一番なのか、空也堂系は江戸期以降、大いに勢力を伸ばし、
遂には京都の大半の六斎講中が芸能化、その状態は現在に至るも続いてたります。
しかし一方では逆に、芸能六斎から念仏六斎へ転向した上鳥羽橋上鉦講中のようなケースも存在し、
両系統の交錯ぶりはなかなかに面白かったり、あるいはミステリアスだったりするんですが、
そんな交錯ぶりがより顕著に表われてるのが、干菜寺での小山郷六斎念仏奉納ではないでしょうか。
干菜寺。正式名称、干菜山光福寺。言うまでもなく、干菜寺系念仏六斎の総本寺です。
秀吉が訪れた際に干菜を献じたことから、現在の通称を授けられたという由緒を持つ、干菜寺。
授けられたのは通称だけでなく、六斎念仏の講を統括する免状もまたもらったようで、
干菜寺は 「六斎念仏総本寺」 として、以後広範に伝播する六斎の宗教的支柱となっていきます。
が、先述の通り、時代を下ると干菜寺系はどんどんと空也堂系にシェアを食われまくり、
地元の田中六斎も途絶状態、盆の奉納は近所の空也堂系・小山郷六斎が行うようになりました。
そう、つまり念仏六斎の 「総本寺」 において、空也堂系の芸能六斎が奉納されるわけです。
不思議といえば不思議、奇遇といえば奇遇、時代の流れといえば時代の流れですが、
とにかくそんな干菜寺での芸能全開な六斎奉納、観てきました。

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蔵王堂光福寺へ久世六斎念仏を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年8月31日(金)


蔵王堂光福寺へ久世六斎念仏を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

都ゆえに溢れる芸能、その影響を受けた、京都の六斎念仏
しかしその講の多くは、都の中心というより周辺部、かつて農村だったエリアに集中してます。
近世、市街地に比して娯楽が少ない農村では、自分の楽しみとして、また若者流出防止策として、
多くが六斎の講を結成し、農閑期であるお盆近くとなれば、練習に励み、奉納を行ったとか。
また、大八車へ道具を積み込んで町場廻りも行い、貴重な現金収入なども得ていたといいます。
が、そんな民俗色の濃い農村エリアも、現代に入ると、格好の住宅地として開発されまくり。
六斎の講は残っても、その講の土台となった農村テイストが残る土地は、極めて稀になりました。
京都市内に点在する六斎の奉納を見て、あるいは奉納場所へ出かける途中のプロセスで、
昔は溢れてたであろう 「鄙」 な雰囲気を感じることは、少ないんじゃないでしょうか。
しかし、市の中心部から若干離れた南区久世・蔵王堂光福寺の久世六斎は、違います。
祇園祭最大のミステリーとも言われる久世駒形稚児を送り出す綾戸国中神社の近所にあって、
かつて 「京の七森」 と呼ばれた 「蔵王の森」 を持つ、修験系の寺・蔵王堂光福寺。
周辺こそベッタベタな郊外感&開発感が満ち満ちてますが、寺には濃いオーラを放つ森が残り、
八朔宵宮の8月31日夜になれば、縁日が立ち、超ネイティブな盛り上がりが展開されます。
久世六斎は、この蔵王堂光福寺発祥の六斎であり、この宵宮に行う奉納は、正にホーム公演。
他にはない大勢の観客、他にはない大勢の講員、そして森が生む闇に囲まれて観る奉納は、
「昔の六斎はこんな感じだったんじゃないか」 と思わせるものが、過剰にあります。
そんな超ディープで超ネイティブな久世六斎、忍び込んできました。

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浄禅寺へ上鳥羽橋上鉦講中奉納を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年8月22日(水)


浄禅寺へ上鳥羽橋上鉦講中奉納を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都の六斎念仏は、二系統に分かれると言われてます。
ひとつは、干采寺系。念仏そのものに重きを置く、本来の六斎念仏と言えるものです。
もうひとつは、空也堂系。こちらは都に溢れる芸能を吸収した、より娯楽色が濃いものです。
系統の名はそれぞれ掌握した寺の名に由来し、江戸初期あたりまで主流だったのは、干采寺系。
通称をもらうほど秀吉の覚えめでたい干采寺 = 光福寺は、 「六斎念仏総本寺」 と自ら名乗り、
洛内外に多数存在した六斎の講を統括しましたが、江戸期以降になると芸能化に走る講が、急増。
干采寺の管轄を抜ける講も増え、これらを 「芸能化、全然OK」 と一手にキャッチした空也堂は、
やがて干采寺系を凌ぐ勢いを誇るようになり、皇族の焼香式に参列して権威面の裏づけもフォロー。
現在に至ると、京都市内の大半の講は空也堂系となり、干采寺系は若干マイナーとなりましたが、
それでも両系統は共存、時に双方の要素が入れ違うようなケースも見受けられたりします。
京都市南部で活動する上鳥羽橋上鉦講中は、そんな両系統交錯の典型例かも知れません。
「鉦講」 という名が示す通り、上鳥羽橋上鉦講中は、鉦、そして太鼓に特化した講。
清水寺での盂蘭盆会奉納で、中堂寺に先立ち念仏六斎を奉納するのを見た方も、多いでしょう。
となれば、干采寺系の講中と思えますが、かつてここは芸能六斎で名の知れた講だったとか。
ゆえに、念仏テイストたっぷりで演奏される太鼓曲も、空也堂系の由来を持つ 『焼香太鼓』 。
さらには近年、まるで先祖帰りするように芸能六斎の復活に取り組んでるそうです。
芸能六斎から念仏六斎になり、そしてまた芸能六斎へ。六斎は、深い。そして、面白い。
そんな上鳥羽鉦講のホーム公演と言えそうなのが、六地蔵めぐり真っ最中の浄禅寺での奉納。
鳥羽地蔵の名で親しまれる寺に集まった観客は、近所の人と信心深い人ばかり。
そんなディープなシチュエーションに於けるディープな六斎奉納に、
他所者かつ信心も足りぬ者ながら、忍び込んできました。

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千本六斎会の千本ゑんま堂奉納を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年8月14日(火)


千本六斎会の千本ゑんま堂奉納へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都の夏は、六斎念仏です。
大文字でもなく、千日参りでもなく、いわんや京の七夕でもなく、六斎念仏です。
私の中では、そう決まってます。初めてまともに奉納を見てハマって以来、そう決まってます。
なので皆さんも、送り火コンプなどといった下らないことは止め、六斎念仏を見ましょう。
自転車やバイクで北山通や北大路を爆走し、死にかけたり殺しかけたりして、一体何が楽しい。
あの世へ行くより、あの世から帰ってきた死者の霊と共に、夏の夜を踊り明かそうではないですか。
というわけで、六斎念仏です。それも、死霊がより沢山溢れてそうな場所で、六斎念仏です。
本来は 「六斎日に斎戒謹慎して念仏を唱える」 という宗教戒律だったものが、
都ゆえに溢れる多種多彩な芸能と結びつき、極度にエンターテイメント化した、京都の六斎念仏。
とはいえ、念仏のエッセンスは現行の六斎にも残存し、念仏狂言との関連性も、深し。
壬生寺、そしてこちらの千本ゑんま堂でも、狂言と六斎の保存会は密接な関係にあるとか。
京都の三昧地のひとつであった蓮台野 = 紫野の入口に位置し、冥界の王・閻魔法王を本尊とし、
あの世とこの世で働きまくったダブルワーカー・小野篁の伝説も持つ、千本ゑんま堂。
衆生からは、鳥辺野・六原などと同じく 「あの世へ続く場所」 として今も昔も認識され続け、
お盆となれば、西陣近辺に於ける 「精霊迎え」 スポットとして、多くの善男善女で溢れかえります。
千本六斎の一山打ち、いわばホームでのフル公演が行われるのは、その精霊迎えの頃。
お盆期間の8月11日から15日にかけて、地域の個人宅を回る勧善廻りを行い、
そのクライマックスとして、ゑんま堂狂言も行われる特設舞台にて奉納が斎行されるのです。
迎え鐘の真横での、念仏踊り。それは、死霊との盆踊りみたいなもんかも知れません。
そんな宴の様、こっそり潜り込んで見つめてきました。

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東一口・安養寺の双盤念仏を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年3月18日(日)


東一口・安養寺の双盤念仏を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

巨椋池。おぐらいけ。
伏見の南にあって、平安京の四神相応では朱雀にも見なされた遊水池です。
周囲16km+約800haという、「池」 と呼ぶのがかなり相応しくない巨大なサイズを誇り、
桂川+宇治川+木津川のオリジナル合流点として、その下流である淀川の水量をコントロール。
しかし周辺地域で発生する水害は、デカ過ぎるゆえに半端なく、おまけに発生頻度も高し。
昭和に入って全域が干拓され、現在はその大半が農地化。京都随一の青果生産地となってます。
干拓直前の巨椋池は水が澱み、そのためかえって蓮の名所として名を売ったそうですが、
元々は魚類が豊富に生息する環境であり、池畔には淡水漁で生計を立てる漁民が多く居住。
京都の難読地名ブッちぎりの首位を誇る東一口は、その代表的な集落でした。
後鳥羽上皇から独占的な漁業権を賜った彼らは、池の西端で干拓完了まで漁民として生活を続け、
漁業から離れざるを得なくなった現在も、昔からの風習を根強く守り続けています。
「荒くれ漁師がお告げに従い、淀川から観音像を引き上た」 という弥陀次郎伝説に基づいて、
その引上日= 3月18日に近い土日に開催される安養寺の春祭りも、そのひとつ。
祭りでは、南山城唯一の伝承念仏という 「双盤念仏 or 六字詰念仏」 も披露。
六斎念仏ファンとして、近所の久御山に念仏があるとなっては、行かないわけにはいきません。
そう、私の住む八幡と久御山は、隣同士。巨椋池があった頃は、船で往来もできたはず。
現在は何か、異常に公共アクセスが悪いけど。それはまあ、どうでもいいんだけど。
とにかく、双盤念仏を見に行ってきました。東一口へ、行ってきました。
「東ひとくち」 ではありません。東一口へ、行ってきました。

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梅宮大社・嵯峨天皇祭での梅津六斎念仏を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年8月28日(日)


梅宮大社・嵯峨天皇祭での梅津六斎念仏を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

梅宮大社。祭神は名前の通り、梅宮辰夫です。もちろん、嘘です。
本当の祭神は、本殿に酒解神・大山祇神をはじめとする、四柱。
相殿には、平安京を完成させたといわれる嵯峨天皇と、その后である橘嘉智子ら、四柱。
橘氏の氏神として山城国相楽郡に創建されましたが、遷都に伴い現在地の梅津へ移転。
一門から皇族に嫁いだ橘嘉智子が、この神社に祈願+仁明天皇を懐妊したことは有名であり、
「梅」という言葉の響きもあってか、子授け・安産の神としても崇拝されてます。
そんな梅宮大社の夏の大きなお祭りが、嵯峨天皇祭。
浅からぬ縁があることを反映して、嵯峨天皇の命日8/28に近い8月最終日曜に、祭礼を開催。
といっても、雅かつ堅苦しいものではなく、午前中には小学生らによる奉納相撲、
午後らは参道に露店が並び、夜には盆踊りも完備の、地元密着系のアーシーな祭りであります。
で、何といってもこの祭りの目玉は、梅津六斎保存会による奉納公演。
現在でこそ郊外住宅地の梅津ですが、昭和に入って高度成長期に至るまではずっと、農村。
京都の都市郊外の他の農村と同じく、ここでも大いに六斎念仏は隆盛したといいます。
中断や再興を経ながらも、その精神は現在の講中にもたっぷりと受け継がれ、
トップ画像を見てもらえば一発でお分かりの通り、六斎ならではのディープさを放っているのです。

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阿弥陀寺での嵯峨野六斎念仏奉納を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年8月23日(火)


阿弥陀寺での嵯峨野六斎念仏奉納を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

現在は寺社で奉納や公演が行なわれることが多い六斎念仏ですが、
かつては地域の家を演奏して回る「棚経」 or 「勧善廻り」も、大々的に行なわれてたそうです。
演奏してもらった家はいわゆる「お布施」みたいなものを渡すわけで、
演舞を披露する喜びのみならず、講中にとっては良い現金収入の機会でもあったんでしょう。
こちらの嵯峨野六斎念仏も、青年団主体で活動してた戦前期は盛んに「棚経」を行なってたようで、
近隣の家々を回るのみならず、台八車に六斎道具を積み込んで、30人以上で洛中へも進出。
懇意にしてる大家を回ったり、あるいは祇園などの色街でも演奏することがあったとか。
この「棚経」、現在はなくなったかといえば、そんなことはありません。
中堂寺や千本、そして嵯峨野などいくつかの講中で、バリバリに敢行中です。
家で、六斎。観てみたい。でも、他人の家へ上がりこむわけにもいかんしな。でも、観てみたい。
中堂寺に親戚はいるけど、結婚式で泥酔してるのを怒って以来、疎遠だしな。でも、観てみたい。
そんな気持ちに応えてくれそうなのが、嵯峨野六斎の阿弥陀寺奉納であります。
阿弥陀寺、名前からして完全に寺ですが、建物は限りなく民家に近し。
天井の低さに冷や冷やしながら観る六斎は、きっと「棚経」に近いテイストが醸し出されてるはずです。

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上御霊神社での小山郷六斎念仏奉納を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

2011年8月18日(木)


上御霊神社での小山郷六斎念仏奉納を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

六斎念仏が行なわれるところは、概ね、京都市の中心部からは若干離れています。
以前紹介した中堂寺しかり、壬生しかり、そして今回の小山郷もしかり。
これは、六斎念仏が都の周辺部の農村で受け継がれてきたことに由来するそうです。
村の若い衆が都へ流出するのを防ぐため、六斎を若者組の行事として引き止めたんだとか。
そしてそのことが、六斎の過激なまでの芸能化をより進めた要因になったとも言われてます。
言うまでもなく、現在はいずれの地域も完全なる市街地であり、
八幡市民の私から見たら、四条大宮から壬生あたりなど完全に京都の中心部に見えますが、
大正までは生田村という農村だったりするので、都に歴史ありです。
御陵神社・御霊祭の神輿でも名を馳せる小山郷もまた、「郷」の字の通り、もともとは農村。
六地蔵参りの一番札所である上善寺を本拠地として、六斎保存会が活動を続けてます。
御霊祭は元来はこの日に行われてたという御霊神社の8/18の例大祭でも、演舞を奉納。
で、それを、見に行ったというわけです。神社で念仏というのも、考えれば妙ですが。

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壬生寺の六斎念仏を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

2011年8月9日(火)


壬生寺の六斎念仏を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

壬生寺で民俗芸能といえば、真っ先に思い浮かぶのは、壬生狂言。
ですが、壬生狂言保存会とは別に、六斎念仏の保存会も存在し、活発に活動をしています。
もともとは六斎日に念仏を修する信仰行事だったものが、
町人文化の開花した江戸中期の京都に於いて急激に芸能化して現在の形になった、六斎念仏。
芸の基本こそ鉦と太鼓に置きながらも、先端の芸能が集約される京都にあっては、
当時流行していた長唄や地唄、歌舞伎の曲や振りなどに影響受けまくり&貪欲に取り入れまくり。
民衆の人気は果てしなくあがり、幕末の頃には狂言をとりこむ講中まで現われたといいます。
壬生狂言のホーム・壬生寺の壬生六斎も、狂言の『土蜘蛛』をしっかり六斎へ移入。
祇園祭の綾傘鉾に奉仕してきた伝統から、棒振も六斎化して「祇園囃子」の入れ事として導入。
また、「獅子舞を土蜘蛛と絡ませる」という、現在の六斎の王道展開は、
壬生六斎が伊勢太神楽から移入したのではないかとも言われてます。
そんな壬生六斎がホームグラウンドで奉納されるのが、万灯会の最初の夜・精霊迎え火。
ステージは、本堂前の特設舞台。バックには、千に近い数の壁のごとき行灯、そして千体仏塔。
ほとんど異次元状態の舞台を背に、圧巻のパフォーマンスが展開されました。

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清水寺での盂蘭盆会・六斎念仏奉納へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年8月7日(日)


清水寺での盂蘭盆会・六斉念仏奉納へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

盂蘭盆会。平仮名だと、うらぼんえ。いわゆる、お盆のことであります。
なのにトップ画像は、イカついお面の方が刀を構えてて、物騒この上ないのは、何故。
それにそもそも、清水寺って念仏の寺だったっけ。
そう思っていただけると嬉しいんですが、これはいわゆる京都の六斎念仏であります。
元来は殺生禁断や謹慎を定めた「六斎日」に、念仏を修するところから始まった、六斎念仏。
それが時代を経て踊り念仏へ変容し、さらに「見せる」ことを意識し始めて、芸能化。
京都は最先端の芸能が集結する場でしたから、一旦芸能化するとその流れは止まらず、
長唄・地唄・歌舞伎などを貪欲に吸収、あげくセリフ付きの狂言まで取り入れてしまったという、
特殊過ぎる発展をした民俗芸能というか、信仰行事というか、まあそんなんであります。
現在も市内のあちこちに保存会があり、お盆を中心に奉納演舞を行なってますが、
「清水の舞台」を文字通りの桧舞台とした、こちらの清水寺盂蘭盆会奉納も、そのひとつ。
この舞台での奉納は、かつて六斎の最高の栄誉だったそうで、それを平成十年に復活。
中堂寺六斎会が、牛若丸と弁慶の対決を描いた『橋弁慶』を上演することでも知られます。
そう、トップ画像のイカついマスクマンは、弁慶なのです。

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吉祥院六斎念仏を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月25日(月)

太鼓曲の演奏
吉祥院天満宮の吉祥院六斎念仏へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

六斎念仏。全国的に広く伝承されている念仏踊りの一種です。
元々は仏教の六斎日=8・14・15・23・29・晦日に斎戒謹慎して鬼神の災いを避けてたのが、
いつしか空也上人の踊躍念仏と結びつき、さらにお盆にも結びつき、現在に近い形となったとか。
京都にも六斎念仏はあります。それも、2つの派閥みたいなのがあります。
ひとつは、あくまで念仏に重きを置く、干菜寺系。鉦と太鼓でシンプルに念仏を歌うという。
もう一方は、花の都ならではの芸能華やかな、空也堂系。で、主流は圧倒的に後者。
獅子舞・歌舞伎などの流行芸を取り入れ、原型を止めないほど芸能化した六斎 = 芸能六斎は、
江戸時代、娯楽に飢えた京都西南部の農村を中心に劇的に普及。
で、正に京都の西南にあたる吉祥院は、そんな芸能六斎の一大中心地となりました。
最盛期には8組もの講が夏祭で芸を競い合い、演舞は夜通し、あるいは日が明けても続いたとか。
時代の流れで現在残る講は一つだけとなりましたが、今なお活動は活発であり、伝承を守ってます。
盆の活動が多い六斎念仏ですが、こちら吉祥院は夏に加え春の大祭でも演舞を披露。
で、それに出かけたわけです。

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