長岡天満宮の夏まつりへ久世六斎念仏の奉納を観に行きました。もちろん、ひとりで。

2016年8月25日(木)


長岡天満宮の夏まつりへ久世六斎念仏の奉納を観に行きました。もちろん、ひとりで。

京都の六斎念仏の講中は、かつてお盆の頃、あちこちで興業を行なってたそうです。
市街地近郊の農村に於いて、農閑期の余暇を活用する形で発展した、近世京都の六斎念仏。
特に芸能六斎と呼ばれるタイプの六斎は、花の都に流行るあらゆる演芸を取り込みまくる形で発展、
念仏の原型がなくなるほどに芸能化されたその演舞で、人々から熱烈な人気を得たといいます。
無論、そんな芸能化された六斎の講中も、メイン活動は地元の寺社での奉納&棚経なわけですが、
人気と需要ゆえ、大八車へ道具を積んでの町場廻りなども行ない、貴重な現金収入を得てたとか。
そういった場での演舞は恐らく、よりコンパクトで芸能色が濃く、より 「余興」 的なものだったでしょう。
「移動型総合念仏エンターテイメント」 「踊る農閑渡世」 みたいな感じだったかも。面白そうですね。
しかし現代に至ると、こうした 「興業」 としての六斎奉納を見かける機会は、なくなりました。
現代の六斎シーンにあっても、ホーム以外の場所で積極的に奉納を行なう講中は多いですが、
そのプログラムは、ガチというか、いわゆるフルサイズの 「一山打ち」 である場合が大半。
かつての六斎が、メイン活動以外の場に於けるライトな演舞で放っていたかも知れない雰囲気、
ある種の 「営業」 感や 「余興」 感を想起させてくれるような奉納は、案外と見当たりません。
時の流れはこういう所にこそ克明に顕れる、という話ではあります。が、そこで、久世六斎ですよ。
京都市南区・久世にあって、駒形稚児を出す綾戸国中神社の隣である蔵王堂・光福寺をホームとし、
蔵王堂におけるホーム奉納ではそれこそガッチガチのディープな演舞を展開する、久世六斎念仏
六斎本来の太鼓曲が中心のセトリに始まって、客&場所から放たれるタイムスリップ感に至るまで、
「昔の六斎はこんな感じかも」 と思わせるそのガチさ加減は、当サイトでもお伝えしてる通りです。
が、長岡天満宮・夏まつりでのお呼ばれ奉納では、こちらの久世六斎、実にコンパクトな演舞を披露。
これはこれで、 「昔の六斎の興業はこんな感じかも」 と、強く思わせてくれるものとなってます。
そんな六斎の別の表情を拝むべく、長岡天満宮がある長岡京市へ出かけてきました。


長岡天満宮の最寄り駅は、阪急・長岡天神駅。で、その長岡天神駅へ17:50頃に到着。
「夏まつり」 の日の筈ですが、駅内に祭の気配は、なし。仕事帰りのリーマンと学生風がいる程度。
駅外へ出るとそれなりに賑わってますが、あくまで普段通りの賑わいであり、祭の気配はやはりなし。
阪急の中規模駅が持つ妙に濃い生活感が、神社感も消してます。案内標は、デカいですけどね。


それなりに人はいるものの、やはり祭の気配は感じられない線路沿いの道を、しばし南進。
あ、長岡京市の地理、わかるでしょうか。蒸留所がある山崎の、北東です。久世から見ると、南西。
本当に祭あるのかと思いながら、長岡天満宮の参道へ出ると、突如として家族連れ&子供が増加。
なるほど、祭、あるな。と思いながら、神社へ。長岡天満宮名物である大鳥居、見えてきましたね。


で、大鳥居であります。門前が狭過ぎ&車多過ぎなので、やむを得ずの接写であります。
長岡天満宮プレ平安京・長岡京に建つ社ですが、天満宮ゆえその歴史は菅原道真からスタート。
大宰府へ左遷されし道真、その御手製木像&念持仏がここ長岡へ祀られた事で、創建に至ったとか。
平安以前創建の社が多い乙訓では、割と新社です。冗談ですが。鳥居は本当に新しく、1998年製。


鳥居をくぐり、堀みたいに社を囲む八条ケ池を、中堤みたいな参道で優雅に渡って、境内へ。
八条ケ池は、八条宮智仁親王によって造営が開始された、灌漑用の池。 なので名前が、八条ケ池。
智仁親王のみならず、親王を家祖とする桂宮家は、明治維新に至るまでこの社を管理していたとか。
その為か池の参道は、優雅。参道の途中にある、加賀前田家の寄進によるという太鼓橋も、優雅。


しかし池を渡ると、優雅さを吹っ飛ばす露店ゾーンが始まり、始まった地点からもう、大混雑。
アナウンスも 「大変混雑しております。前の人を押さないように」 と延々言い続ける、混み加減です。
夕方とはいえまだ明るいですが、どの店も本格稼働状態。一体、何時頃から営業してるんでしょうか。
この辺、 「冤罪左遷虔一身」 なる楽しい碑があった筈なんですが、そんなのもう全然わかりません。


肉の海を牛泳してる内に、長岡天満宮・本殿前へ漂着しました。一転して、威厳、ありますね。
菅原道真御手製の木像&念持仏がこの地にて埋められたのは、長岡が菅原家の所領であった為。
また道真は、左遷旅の途中にここへ立ち寄って、 「我が魂長くこの地にとどまるべし」 とも言ったとか。
怨念、何か濃そうです。この社は皇室の崇敬が篤かったそうですが、その辺も理由かも知れません。


とか適当な事を考えながら石段を登って本殿境内へ上がると、夏越の茅の輪が出てました。
旧暦タイムにしても少し遅めのスケジュールですが、この夏まつりに合わせて出してるんでしょうか。
当サイトでは2ヶ月前、乙訓茅の輪めぐりでここを訪れてましたが、その際は輪、なかったんですよね。
というわけで、有り難くリベンジさせてもらいます。メビウスくぐりで、ちとせのいのちのぶというなり。


有り難くリベンジお祓いを済ませた後は、有り難く参拝。実に端正な面持ちの、立派な建築です。
長岡天満宮・本殿は、かの伊藤忠太設計による平安神宮・旧社殿を、1941年に拝領移築したもの。
ロイヤルであります。もっとも御覧の建物は拝殿であり、既存の建物を増改築したんだそうですけど。
本殿周辺は、茅の輪の他に祭らしき動きは特になく、平和。老人が、座り込んで子供を眺めてたり。


奉納開始時間が近付きました。ので、賑わいの肉海を泳ぎ、盆踊り櫓そばの特設ステージへ。
茅の輪の旧暦準拠や平安神宮ゆかりの本殿など、ロイヤルなるテイストを感じさせる、長岡天満宮。
実際、長く宮家の保護下にあったので当然といえば当然ですが、しかし明治以後はそれが逆に仇化。
経営維持に苦労し、氏子増大に励んだとか。で、その結果が、この賑わいです。いや、知らんけど。


特設ステージ周辺は、これまた大混雑。何とも 「鄙」 な雰囲気を感じさせる賑わいであります。
京都府民的には 「典型的なベッドタウン」 的な認識の長岡京市ですが、元々は農村主体のエリア。
長岡天満宮もまた、宮家の 「別荘御社」 としての顔と共に 「村社」 としての顔を併せ持っていたとか。
この 「鄙」 な賑わいは、 「村社」 の顔の残り香みたいなもの、かも知れません。いや、知らんけど。


で、18:15、ステージにはまず、長岡京市で活動する和太鼓グループ・北開田響太鼓が登場。
セットは、大人の曲、子供の曲2曲、 3連の曲、ラストに入れ替わりで大太鼓を打つ大曲、というもの。
タイトルが確か 「シャッフル」 という3連曲のテクニカルな所と、ラストの大盛り上がりが、ナイスでした。
客席は、子供曲が終わった辺で、激混。演奏を行なう子の身内が多いのか、挨拶する光景も多発。


で、北開田響太鼓の演奏が終わり、身内系の客が抜けましたが、混雑度はあまり変わらず。
特設ステージ、椅子が多めに用意されてるのはいいんですが、立ち見スペースは狭いんですよね。
特に舞台正面の辺は、狭い。背後には、露店ゾーンの背中がすぐそこまで来てるので、余計に狭い。
蔵王堂とは全然タイプが違いますが、ある種のディープさは醸成されてきました。六斎、まだかな。


と待ってると、19時過ぎ、アナウンスなしで触れ太鼓がいきなり鳴り、久世六斎、遂に開始。
触れ太鼓に続いて挨拶、そして全部で30分ほど行なうなどの説明の後、すぐ実演が始まりました。
まずは、曲目説明では 「棚田」 と聞こえましたが、恐らくは 「(野路の)玉川」 。御覧の通りの太鼓曲。
久世は、太鼓の呼び方が独特とか。この曲で使う胴長の太鼓は、ヤグラと呼ばれるものでしょうか。


久世のフィールを堪能できた太鼓曲に続いては、早くも大盛り上がり大会の 『四つ太鼓』 。
木枠に嵌められた小さい太鼓4つを、笛が奏でるメロディーに合わせて高速で打ちまくる演目です。
幼児の演奏から始まって、年長へ交代する毎にBPMが高速化、最後は御覧の超絶高速クロス打ち。
あ、太鼓の叩き方は無論、左手右手の交互打ちではなく、六斎独特の片手打ちが基本のスタイル。


そして、 『祇園囃子』 。タイトル通り、祇園祭の祇園囃子を取り込んだ、六斎の定番です。
舞台には、一丁鉦が並べて吊られた枠が登場。鉦がコンチキチンと響き、笛と共に太鼓が歌います。
蔵王堂での 『祇園囃子』 は、無茶苦茶な 「入れ事」 の乱入者が多数出ましたが、ここでは音楽一本。
とはいえ太鼓は、アクロバティックな打ち方を連発して、フォーメーションを組んでの踊り打ちも連発。


久世六斎のお呼ばれ奉納、演舞の基本テイストは、蔵王堂奉納と異なる印象はありません。
太鼓曲がメインかつ念仏テイストも濃いものであり、曲打ちも大きくは崩さないという渋いラインです。
が、構成がコンパクトな為、エンタメ感は、強し。 「入れ事」 なしで魅せ切るこの 『祇園囃子』 も、そう。
この曲と、先刻の 『四つ太鼓』 で使われてた胴が短い太鼓は、ドンデンと呼ばれるものでしょうか。


『祇園囃子』 の次は、これまた太鼓が大々的にフィーチャーされる曲の 『源平盛衰記』 。
太鼓によって物語を語るという、念仏および日本語の音楽性、トーキングドラム的な音楽の言語性、
またある種の表象性と、近世の観客が持ってた基礎教養についても考えさせられる演目であります。
が、実際の演舞の方は、太鼓を背中に乗せて打ったりと、太鼓曲ながらも大々的なエンタメ路線。


とか言ってる内に、早くも舞台へ飛び出してきた、クライマックスの獅子。


踊りまくった後、逆立ち&碁盤も見事に決める、クライマックスの獅子。


そして最後は土蜘蛛が出現し、獅子と客席に何度も糸を吐きまくった所で、奉納、終了。
30分ちょっとの久世六斎でありました。短時間でしたが、その間も客数はどんどん増加。盛況です。
ひょっとすると久世六斎のこの 「お呼ばれ」 、氏子増大に取り組み始めた明治以降の長岡天満宮が、
六斎の集客力に期待し同時期に始めたのではないかと、適当な妄想をしたくなる盛況ぶりでした。


で、六斎終了後の20時からは、これまた集客力がありそうな盆踊りが、櫓ゾーンにて開始。
ストレンジなベースラインの 『長岡京音頭』 が延々流れ、櫓の周りには円陣が出来つつあります。
『長岡京音頭』 、音の風味が昭和中期というより後期のやや微妙な感じで、それが何か、長岡京的。
京都近郊のベッドタウン文化としては、実に興味深い音頭です。が、私は疲れました。ので、退散。


で、帰ろうと思ったら、退散に当たって迂回不能の露店ゾーンが、通行不能の大混雑状態。
何処が何処でどうなのか、全然、わかりません。 「ここ、どこ」 という声を、何度も何度も耳にします。
何より、外から入って来る子供の量が凄まじく、逆行する私は滝登りの気分で肉の海を延々と、牛泳。
ただ、この感じ、何か蔵王堂に似てるような。この辺もまた、六斎の 「お呼ばれ」 の理由なのかな。


などと脳をカラ回しして苦痛を和らげたりしながら、命からがら大鳥居の所まで、何とか脱出。
暗くなった八条ケ池ではライトアップをやってたので、息を整えるついでに少し見てから、帰りました。
駅へ向かう途中、後方からは江州音頭の生声あり。盆踊り、むしろこれから盛り上がる感じでしょうか。
しかし駅へ着いたら、来た時と同様に、祭の気配はゼロ。この辺もまた、何か蔵王堂に似てるような。

長岡天満宮の夏まつり、客層は徹底的に地元の子供および親子連れがメイン。
幼児から中学生くらいまでの子等が、まるで津波のようにエンドレスで押し寄せてきます。
それ以外の層は、もう細かい事が全然わからない感じですが、とりあえず、カップルは少なめ。
というか、家族連れ以外で20代前後に見える人間は、あまりいないように思えました。
中高年も、やはり大半が地元ネイティブ系。観光客に見えるような人間は、影も形もありません。
他所者は、結構アウェーです。ベッドタウンゆえ田舎のネイティブ感はないですが、でもアウェーです。
DQN感は、濃いといえば濃いですが、まあ中学生レベル。祭のモードは、あくまでファミリー向け。
六斎のステージ近辺の客は、こういった客層から子供を8割~9割抜いた感じでしょうか。
単独客は、どのエリアでも、カメも含めて男女とも極めて少なめでした。

そんな長岡天満宮の夏まつりの、久世六斎。
好きな人と観たら、より六斎なんでしょう。
でも、ひとりで観ても、六斎です。

【客層】 (客層表記について)
カップル:1
女性グループ:若干
男性グループ:若干
混成グループ:微
子供:4
中高年夫婦:1
中高年女性グループ:若干
中高年団体 or グループ:5
単身女性:0
単身男性:微

【ひとりに向いてる度】
★★
基本、アウェー。
色気のプレッシャーはないが、とにかく人圧が凄過ぎる。
加えて、再生産系のプレッシャーも、なかなか凄い。
排他的な感じはないが、それでも、どうにもこうにも浮く。

【条件】
平日木曜 17:40~20:00


 
 
 
 
長岡天満宮 夏まつり
毎年8月25日 長岡天満宮にて開催

長岡天満宮
京都府長岡京市天神2-15-13

阪急電車 長岡天神駅下車 徒歩約10分
JR東海道線 長岡京駅下車 徒歩約20分

長岡天満宮 – 公式

長岡天満宮 – Wikipedia