稲荷祭の氏子祭を、8年にわたって観続けました。もちろん、ひとりで。 【2】 氏子域巡行

2019年4月28日(日)


稲荷祭の氏子祭、 【1】 に続き、氏子域巡幸の 【2】 でございます。

【1】 では 「知らん」 とか言ってましたが、でも伏見稲荷の氏子域、本当は気になります。
伏見稲荷大社から、割と遠いという。また、遠いだけでなく、何となく不思議な感じもするという。
御旅所は、神社から離れた地へ神が訪れるための場所。なので、遠いこと自体は別にいいのです。
氏子域が伏見稲荷と接してる松尾大社の御旅所も、いい加減、遠いし。何なら、伏見稲荷より遠いし。
しかし伏見稲荷の場合、本社所在地が何故か藤森神社の氏子域だったりします。何とも、不思議。
それに、御旅所東寺に近いのも、謎。差し上げなども、東寺の神輿に見えたりしたりして、謎。
「つまり稲荷祭は、東寺の祭だ。全ては、空海の計略だ」 みたいな思念が、沸かないでもありません。
東寺は、遷都すぐの平安京を守護する官営の寺院として、西側の西寺とペアで建立されました。
現在の地勢で見れば、東寺の位置は京都の西南。しかし、元来あった太極殿から見れば、東南。
の守護を担った感じでしょう。ゆえに空海は東寺を得た際、同じ巽に建つ伏見稲荷をフィーチャー。
「稲荷神が東寺に来た」 とか言って、平安京東南部の民と稲荷とのマッチングを図ります。
元からあった藤森神をどかせて稲荷神を稲荷山麓へ召喚すると共に、東寺近くに御旅所をオープン。
また、下京の民の懐たる官営マーケット・東市の経済力を活用し、大祭・稲荷祭も大々的に展開。
これらの計略により空海は、めでたく叡山の牽制に成功しましたとさ。愉快、空海、イエズス会。
とか言ってると楽しいんですが、しかし平安京東南部の稲荷信仰は、空海以前にも既にあったとか。
それこそ、 『今昔物語集』 にある 「七条辺にて産れたりければ」 稲荷が産神、みたいな感じで。
ひょっとすると空海は、東寺運営に際してこの 「七条辺」 の信仰を、利用したのかも知れません。
逆に、空海が民間利用されてる可能性もあるけど。とにかく、何とも不思議な伏見稲荷の氏子域です。
というわけで、稲荷祭の 【2】 は、そんな伝説が息づく平安京東南部が舞台の神輿巡幸であります。
北は京都駅の北側や五条を越えた中堂寺、南は千本十条や高速が借景の河原町十条まで。
神輿や五重塔と共に、稲荷祭を千年以上担い続けてきた街の姿を、見つめていきます。


で、東寺です。そして、その前を進む下之社です。おまけに、そのため生じた大宮通の渋滞です。
5基の神輿は、それぞれの町を中心に巡幸を展開。JRを越えて、 「七条辺」 へ北上する神輿も多し。
東寺は、氏子域全体から見ると、中心というより西南寄り。JRは丁度、南北のセンターラインというか。
正しく、千本通 = 朱雀大路を正中線とする平安京の東南部が、巡幸エリアになってるわけですね。


東寺が氏子域南側に於ける信仰の中心としたら、北側の東市は経済的中心だったんでしょうか。
そんな東市があったとされる七条大宮を、バスを待たせて進む、中堂寺の下之社。


その少し東では、不動堂・田中社の神輿が、正にその不動堂の前を通り過ぎてゆく。


「観光地世界一・伏見稲荷の祭です」 とか言いながら七条の近辺を進む、田中社。


そして、五条通の手前まで北上した田中社は、天使突抜三丁目に入って、差し上げ。


その少し西では、中堂寺が担ぐ下之社が島原へと向かい、花屋町通へ進入する。


太夫最中の店や乙文が並ぶ島原の商店街を、手舁きで巡行する、中堂寺の下之社。


そのまま山陰線を越え、五条七本松も越えた下之社は、中堂寺庄ノ内町へも巡幸。


その対角へジャンプし、氏子域最東南端の河原町十条では、上之社が手舁き。


毎年のようにルートが変わった上之社は、烏丸東寺道で差しを決めたりする。


その東寺道を少し西に行ったイオンモールKYOTOの前で差しを決める、中之社。


東寺道をさらに西へ行った先のホームである西九条も、中之社は無論、巡幸。


東寺道近辺を進む神輿は多く、東寺道猪熊の辺では四之大神も通ったりする。


東寺で途切れる東寺道から東寺西門通に入り差し上げを決める、四之大神。


八条を回った四之大神は、八条大宮のJR跨線橋脇から大宮通へと進入する。


そしてそのまま四之大神は、大宮通で東寺を借景として、差し上げを決める。


その東寺・五重塔の麓の九条大宮には、子供神輿と共に中之社もやってくる。


九条大宮へと進入した中之社は、やはり東寺を借景として差し上げを決める。


「稲荷祭は、東寺の祭だ」 と宣言するかのように、中之社は差し上げを決める。


その少し北では、東寺から踵を返した四之大神が、JRを越え七条大宮交差点へと進入する。


渋滞の車群を後にしながら七条大宮を左折し、七条通に入って差し上げを決める、四之大神。


その七条通には田中社もやって来て、屹立するインテリアセンタートナミの前にて休憩する。


休憩した田中社は、東市があった頃の賑わいを蘇らせるかのように、七条大宮にて差し上げ。


で、この辺から少し西側へ足を延ばすとチラホラ見かけるようになるのが、松尾祭の張り紙。
御覧の張り紙は、確か千本通の辺で見かけたもの。分水嶺というか、分神嶺みたいな感じでしょうか。
千本通 = 朱雀大路よりも東側が東市&東寺&稲荷祭なら、西側は西市&西寺&松尾祭、みたいな。
そういえば松尾祭の還幸では、西市 = 現在の中央市場と西寺跡の公園で差し上げをやってました。


この千本通では同時に、巡幸に際して結界を形成する榊 = 忌刺も、見ることができたりします。
忌刺は、氏子域の境界に刺されるもの。御覧の羅城門前も、西端の千本通沿いなので刺されてると。
逆に見れば、跡らしい跡がないあの羅城門が平安京の王門であることを示してるわけで、面白いです。
忌刺、単に祭の費用分担を示す名残とも言われてますが、こうして見ると霊気を感じざるを得ません。


で、そんな羅城門からさらに南下し、氏子域最西南端の旧千本十条まで、中之社は巡幸。


その対角へジャンプし、氏子域最西北端では、塩小路の下之社が休憩中。


渉成園辺りを回った後、京都タワー京都駅前へ向かう、塩小路の下之社。


その少し南では、暮れ始めた陽を浴びながら上之社も、京都駅へと向かう。


京都駅の南側 = 新幹線・八条口の前までやって来た上之社は、差し上げ。


その北側 = 烏丸口前に、佐野家前の差しなどを経てやって来た、下之社。


京都駅のど真ん前にまでやって来た塩小路の下之社は、差し上げを決める。


観光客がわけもわからず集まる京都駅前で、差し上げを決める、塩小路の下之社。
東寺前の差しみたいな歴史的意味はないですが、しかし実にシンボリックな光景ではあります。


そして差し上げの後、御旅所へ戻り始める、下之社。稲荷祭の氏子域巡行、概ねこんな感じです。
車線も車量も多い現代丸出しな光景の中で、平安時代の土地勘が今なお生きているような、醍醐味。
同時に、歴史が溢れる真っ只中でもライブな躍動感が輝いてる感じ。何とも面白い巡行でありました。
この面白い感じ、少しは伝わったでしょうか。というわけで、この後は御旅所へ戻って宮入の 【3】 へ。

稲荷祭の氏子祭を、8年にわたって観続けました。もちろん、ひとりで。 【3】 へ続く

稲荷祭の氏子祭を、8年にわたって観続けました。もちろん、ひとりで。 【1】
稲荷祭の氏子祭を、8年にわたって観続けました。もちろん、ひとりで。 【2】
稲荷祭の氏子祭を、8年にわたって観続けました。もちろん、ひとりで。 【3】


 
 
 
稲荷祭・氏子祭
概ね毎年4月最終日曜 開催
 

伏見稲荷大社御旅所
京都市南区西九条池ノ内町98

近鉄電車 東寺駅下車 徒歩約5分
JR・近鉄・地下鉄 京都駅下車 徒歩約10分
京都市バス 東寺道下車すぐ
 

伏見稲荷 – 公式
伏見稲荷大社御旅所 – 京都風光