恭仁京跡にコスモスを観に行きました。もちろん、ひとりで。

2024年10月21日(月)

恭仁京跡にコスモスを観に行きました。もちろん、ひとりで。

府域にまで視野を広げると、京都にも平安京以外の都城跡はいくつか存在します。
プレ平安京たる長岡京や、継体天皇ゆかりの乙訓・弟国宮京田辺・筒城宮などです。
もっとも、それらはいずれも今は宅地化 or 都市化され、跡の欠片さえ残っていません。
府域が持つ、ベッドタウンの側面。その辺が強く表れているとも言えるんでしょうね。
そんな中にあって、古の都城へ想いを馳せる自由を比較的残している都城跡が、恭仁京跡です。
恭仁京。それは、聖武天皇彷徨五年の最中に現在の木津川市・加茂エリアに造営した都。
平城京の北東で740年に造営され、わずか数年後には放棄された短命極まる都として有名です。
疫病と政争に疲れ果てた聖武天皇は、 「どっか行く」 みたいなことを言って、平城京を脱出。
右腕の橘諸兄を伴い彷徨をしばし続けた後、諸兄の本拠地に近い加茂エリアへの遷都を決めました。
そもそも此地は木材運搬で名高い木津川が流れ、隣の木津は平城京の内港を担った地でもあり、
その地の利も活かし、平城京の資材で壮麗な大極殿を建てたりと、都城の整備は順調に進みました。
が、聖武天皇はその途中で紫香楽宮へと移転。そして744年には、大阪の難波京へと遷都。
結果として恭仁京は、遷都からわずか4年で、しかも建設の途中で、この地上から消えたのです。
理由を訊かれたら、「難波の方が色々便利そうだし」 としか言えませんが、とにかく消えたのです。
都としての使命を終えた恭仁京の跡は山城国分寺となり、大極殿は伽藍に転用されました。
門前町も形成されたといいますが、長くは続かず、中世には荒廃。その後は、平坦な地面が農地化。
そのまま現代に至ると、加茂も南側でベッドタウン化が進みますが、此辺はあまり開発が進まず、
むしろ後の発掘調査によって都城の跡であることが立証された後は、史跡としての評価の方が上昇。
単なる平野状態が維持されたことで古都へ想いを馳せる自由が比較的残る地となりました。
基本的に何もない分、妄想には向いてる恭仁京跡ですが、最近は秋のコスモスも人気。
なので、そのコスモスと共に長き都の歴史を味わおうかと思い、加茂へ赴きました。

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