京都府下 - ひとりでうろつく京都 (β版) - Page 2

まいづる細川幽斎田辺城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2018年5月27日(日)


まいづる細川幽斎田辺城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都には、城らしい城が、ありません。全くなくもないですが、あまり、ありません。
二条城淀城跡伏見桃山城。いずれも、城といえば城です。立派に城です。が、何か違う。
二条城は、離宮感が強過ぎて、城に全然見えない。淀城跡は、本当に単なる廃城跡でしかない。
伏見桃山城に至っては、昭和元禄の張りボテ遺産で、現在は入城さえ不可能。お粗末です。
「いやいや、日本各地の城だって、大半は昭和元禄の産物だよ」 とか思われるかも知れませんが、
再建にかけられた想いや、今もなお続く城への想いでは、かなり差があるんじゃないでしょうか。
端的に言うと、京都は城への関心が低いという。偽京都人である私の中でさえ、正直、低いという。
しかし、城を巡る京都のこうした微妙な温度感も、視野を府に拡げると、事情は変わってきます。
亀岡園部の城下町感、福知山のお城まつりに於ける盛況ぶりは、当サイトでもお伝えしてる通り。
そして、京都府のさらに北にあって、福知山と同じように 「城の街」 たり得てるのが、舞鶴でしょう。
舞鶴。日本海に面し、食・名所・産業などのあらゆる面で 「海の京都」 を体現してる街です。
この街に於いて最も高い知名度を誇ってるのは、現在に至るまで活躍し続けてる軍港の、舞鶴港
共に発展した街・東舞鶴も、正に軍都な趣を持ってます。が、これが 「城の街」 なのではありません。
「城の街」 は、反対の西舞鶴の方。 「城の街」 と呼ぶのは、ここが田辺城の城下町だったから。
肥後細川家の礎&御所伝授で知られる細川幽斎が、信長から南丹後を任され建てた城、田辺城。
プレ関ヶ原の籠城戦 「田辺城の戦い」 の舞台となり、別名 「舞鶴城」 は街の名にもなりました。
明治維新であえなく消滅しましたが、昭和初期から再建が始められ、平成には立派な城門も完成
この城門完成の頃より、毎年5月末には 『まいづる細川幽斎田辺城まつり』 も開催されてます。
実に、 「城の街」 です。ので今回、京都と城の関係をより精査すべく、祭りに遠征してみたのです。
城を中心に一体化してる街を見よう、とか思って。城を大事に思う心に触れよう、とか思って。
しかし、現地で見た 「城の街」 の姿や雰囲気は、何か独特のものだったのでした。

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湯の花温泉・すみや亀峰菴でぼたん鍋を堪能してきました。もちろん、ひとりで。

2018年2月27日(火)


湯の花温泉・すみや亀峰菴でぼたん鍋を堪能してきました。もちろん、ひとりで。

湯の花温泉。一般的、というか全国的な知名度は、一体どれくらいあるんでしょうか。
「京都といえば、湯の花温泉」 的な物言いを聞いたことがないので、ちょっと見当がつきません。
一応地元にあたる京都の人間にとっても、ここが馴染みの温泉として認識されてるかは、微妙。
「ほんなら、湯の花温泉行こか」 というような局面、なくはないでしょうが、少ないようにも思います。
『大林浩二のきょうの夜』 のスポンサーとして、松園荘・保津川亭のCMを観ることはありますが、
それ以前に 『大林浩二のきょうの夜』 を観てる人間がどれくらいいるかが、微妙以前にまず、不明。
説明しようとしても、どの辺からどれくらい詳細な説明が必要なのか、判断がつきかねるわけです。
というか、そもそも説明しようと試みてる私自身さえ、ここには左程馴染みがなかったりするわけです。
湯の花温泉、そんな感じの温泉であります。そんな感じとはどんな感じだな温泉であります。
場所は、亀岡佐伯燈籠がある薭田野の西で、 「死なないで」 のR477で大阪へ直結する山間地。
京都から見ると半端に不便ですが、大阪から見ると隠れ家 or 秘境感がある所、なわけですね。
戦国時代の伝承も持ちますが、開発はあくまでも戦後。万博 or バブルの頃が、ピークでしょうか。
その頃の残り香漂う大バコ宿も点在してたりする、不思議といえば不思議な温泉であります。
では、ディープスポット巡りな気分で今回そんな不思議な温泉へ出かけたのかといえば、さにあらず。
亀岡は、丹波の最南端。そこの山間地ということは、丹波でありながらも割と温暖であるということ。
つまり、猪がいるわけです。実際、湯の花温泉の冬は、猪を食らうぼたん鍋が最大の売りなのです。
となれば、温泉入湯を必須とする 『ひとりで温もるぼたん鍋』 で、行かないわけには行きません。
ので今回は、猪と湯をがっつり堪能すべく、湯の花温泉・すみや亀峰菴へ日帰りで行ってみました。
団体がメイン層なのか何なのか、ひとりでぼたん鍋を食える宿が全然ない湯の花温泉ですが、
最もおしゃれな感じに見えるすみや亀峰菴が、何故か日帰りプランをおひとりさま客にも提供中。
値段こそしっかり高価めではありますが、これ幸いと思い、亀岡へと向かったのです。

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節分の大江山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】 元伊勢神宮内宮・外宮・天岩戸神社

2018年2月3日(土)


節分の日に鬼を求めて出かけた大江山の徘徊、前篇の続きです。

「七つまでは神のうち」 あるいは 「七つ前は神の子」 といった表現が示すように、
子供は、 「境界」 的な存在であるゆえに、その立ち位置が神の領域に近いと考えられてます。
子供と限りませんが、 「童子」 と呼ばれるもまた、しかり。神との共通項は、割と多い存在です。
最大の共通点は、 「おぬ」 ことでしょうか。不可視性によって、その存在が認識されるという。
時を経て人々の意識が変化する中、ビジュアライズ化やノベライズ化やコミカライズ化が進みまくり、
疱瘡患者だの鉱山労働者だの赤ワインが好きな外人だのと、その 「実体」 比定もされてる鬼ですが、
そもそもは 「キ」 違いの 「気」 みたいな存在であり、妖しき気配こそが 「鬼」 と呼称されてたとか。
また神の方は神の方で、顕在化せず常に 「おぬ」 ままかといえば、これも案外、そうでもありません。
というか、鬼が具現化する一方で神は、むしろその 「おぬ」 こと自体を喧宣するようになります。
最初はやんごとなき方々のみ参拝する社だった伊勢神宮が、やがて庶民の信仰に活路を見出し、
近世に至れば旅行代理店の原型・御師によりお蔭参りのムーブメントまで生み出したように。
神への信仰と 「異界」 への恐怖、そして物見遊山の誘惑は、常に近い場所にあるのではないか。
むしろ、 「異界」 への物見遊山欲を駆り立てる場所でこそ、強い信仰は生まれるのではないか。
「鬼の里」 の近くに建つ元伊勢内宮外宮天岩戸神社を巡ってる際に、そんなことを考えてました。
丹後の超古代、いや日本そのものの根源にも到達しかねないロマンを駆り立てる、元伊勢三社。
実際の三社は、そんな妄想を裏切らないシチュエーションを誇ります。が、ある意味、裏切らなさ過ぎ。
何か、見えやすいんですよね。神が見えやすいのではなく、見えないことが見えやすいんですよね。
有体に言うと、雰囲気がバッチリ過ぎるという。余りに、出来過ぎてるように見えてしまうという。
で、そんな神々の裏切らなさ加減が、私には、鬼オブジェと同様の過剰な顕在化に見えたのです。
と同時にその顕在化は、単なる人為でなく、この地の磁力が誘発するものにも見えたのです。
大江山の節分、後篇は、神巡りであります。 「おぬ」 ことを、見つめていきます。

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節分の大江山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】 鬼瓦公園・日本の鬼の交流博物館

2018年2月3日(土)


節分の大江山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「異界」 は、それを希求する度合に応じて、物理的な距離を生じさせるものです。
有体に言うと、近過ぎては、いけない。といって、出かけるのが面倒なほど遠過ぎても、いけない。
「家に霊が出る」 とか 「地元で●●●●●を売ったり打ったりしてる」 とかいうのは、やはり困るし、
といって 「1か月かけて登頂した山で、遂にイエティに会えた」 みたいなのは、余りにしんど過ぎる。
ゲスな興味と、適度なお出かけ感。これらを上手く満たす場所こそが、 「異界」 になり得るのでしょう。
ので逆に、交通の発達などで人々の側の意識が変化すると、 「異界」 の適格地もまた移動します。
節分の日に 「異界」 を持ち込み、豆を以て外界へ再び追いやられるもまた、事情は同じです。
「むかし丹波の大江山」 なる歌で、京都のみならず全国的に知られる酒呑童子の棲処、 「鬼の里」 。
この 「鬼の里」 と比定される場所に関し、 「老ノ坂から大江山へシフトした」 という見方があります。
前者は、京都&丹波の境界・大枝にある坂。後者は、その先、丹波&丹後の境界に聳える山。
京都洛中にて鬼の恐怖が薄らぐのに連れ、 「異界」 性を仮託できる場所には距離が必要となり、
徒歩で日帰りも可能な老ノ坂から、遥かに遠い大江山へ 「鬼の里」 が移った、というわけです。
京都中心の、勝手な見方ではあります。が、勝手さを等閑視すれば、しっくり来る見方でもあります。
京都府南部の八幡に生まれ育ち、家庭の事情で幼少期に老ノ坂を日常的に通過してた私にとっても、
老ノ坂は渋滞を生む単にウザい坂であり、大江山こそが 「鬼の里」 を夢想し得る地、となります。
ので、一度は本物の 「鬼の里」 に、出かけてみたい。出来ることなら節分の日に、出かけてみたい。
そして、 「異界」 への興味をゲスく満たしてみたい。そんなお出かけを、私も実は夢想し続けてました。
で、2018年に至り、遂に時間と予算の確保が実現。で、今回、丸一日かけ出かけてみたわけです。
赴いたのは、鬼瓦公園日本の鬼の交流博物館元伊勢三社という、いわば大江山鉄板コース。
「おぬ」 がゆえに鬼が視界へ現前するような逆相の 「異界」 を期待し、雪中を徘徊したのでした。
で、実際の大江山は、そんな期待を不思議な形で受け止める場所だったのです。

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夏越祓の茅の輪を求めて宇治をうろつきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2017年6月30日(金)


夏越祓の茅の輪を求めての宇治徘徊、前篇に続いて後篇です。

宇治のイメージといえば、平等院や、それこそ宇治十帖が、一般的なものなんでしょう。
しかし、私にとって宇治のイメージは、 「住宅地」 の方がよりしっくり感じるものだったりします。
地場の生活者ゆえのイメージ、という奴です。が、家が建築をやってたという事情もまた、理由です。
京都へのアクセスの良さが目を付けられた宇治は、昭和中期頃より住宅地の開発が進みました。
ユニチカの前身・日本レイヨンなどの企業が、巨大工場を進出させると共に近場で社宅を建て始め、
それを端緒として一般住宅地の開発も進行し、山削りまくり&名物の筈の茶畑潰しまくりが、多発。
結果として、宇治市の人口は数倍に増え、京都府下では京都市に次ぐ規模を誇るまでに膨張し、
また、宅地増殖と共に増殖した主婦の手を借りる形で、アニメ下請会社が生まれたりもしたわけです。
私が育った頃の宇治は、既に主たる 「商圏」 ではありませんでしたが、その名はよく聞きました。
山削りまくり&茶畑潰しまくりな類の開発、その恩恵を私が享受したのは、恐らく間違いないでしょう。
なので、荒っぽく開発された宇治の姿を目にすると、私は、何とも言えない気分になります。
そして、その開発自体さえ既に老い始めてる様を目にすると、更に、何とも言えない気分になります。
「何だ、そのローカルかつ余りに極私的な感慨は」 と言われると、それまでの話だったりしますが、
しかし、このちっぽけなブルース = 憂鬱は、ある意味で、宇治に相応しいものと思えなくもありません。
格落ちな演者が型落ちな愛欲に悩み、浄土リセットも出来ず、ただ消えていくだけの、宇治十帖。
その 「憂じ」 な世界は、剥き出しで現代的&凡庸な事象と共鳴するとは、考えられないでしょうか。
「生温かい憂鬱がどうにも晴れてくれない煉獄」 という点で共通してるとは、考えられないでしょうか。
私が本気でそう思い、自分語りも交えてその思いを記してるのかといえば、そんなことは全然なく、
観光エリアで全く茅の輪がくぐれず、宅地をめぐることにしたのを、理屈付けてみただけなんですが。
というわけで、2017夏越@宇治、後半です。後半は、飯食ってがっつり回って行こうと思います。
茅の輪が持つ魂リセットのパワーなら、この生温かい憂鬱だって吹き飛ばせる筈です。

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夏越祓の茅の輪を求めて宇治をうろつきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2017年6月30日(金)


夏越祓の茅の輪を求めて宇治をうろつきました。もちろん、ひとりで。

宇治を舞台として、尻切れトンボとも思える結末を迎える、 『源氏物語』 宇治十帖
愛したくとも愛せず、死にたくとも死ねず、悟りたくとも悟れずに、煩悩の煉獄を揺蕩うその世界。
まるで地名の由来 「憂じ」 を空間化したかのように、陳腐で緩慢な憂鬱が惰性と共に続くその世界。
ブルージーとも言い得るその文学空間は、1000年の時を越えてポストモダンなる現在にも直結し、
安い愛&性への拘泥が市民権となったネバーランドの如き現代日本の煉獄にも通底するものです。
何も始まらず、何処にも行けず、終わる時は突然終わる、そんな世界。実に、今っぽいですね。
が、貴族の別業地として栄えた此地は、そんな超時空な知性ばかり溢れてたわけではありません。
ごく真っ当に浄土を希求した煩悩丸出しな輩も多数存在し、そうした連中が必死で建てた寺社も多し。
栄華を極めた藤原道長頼通により建立された世界遺産・平等院を筆頭に、多くの寺が立ち並び、
これまた世界遺産たる宇治上神社を始め、大小合わせてかなりな数の神社も林立しています。
で、2017年の茅の輪くぐりまくりは、この宇治の地に立つ社をめぐる形で、やってみました。
暑さ&疫病の脅威が本格化する直前のタイミングに、神社に設置された茅の輪をくぐることで、
正月からの半年で溜まった魂の穢れを祓い浄め、夏を乗り切らんとする古来よりの慣わし・夏越祓
当サイトでは、様々な腐った欲求を持て余す己が魂の大掃除 or スピリチュアル・デトックスに加えて、
普段の記事のネタ採取では訪れる機会がない、小さい or 地味な神社への訪問という目的も兼ね、
毎年あちこちの社に設置された茅の輪を探し求めてはくぐりまくり、穢れを祓い倒してきました
しかし乙訓エリアを徘徊した2016年の前回は、思いつきで雨上がりの天王山を登って酷い目に遭い、
おまけに飯抜きで徘徊した割に輪はひとつしかくぐれなかったので、今回は、気分&方針を一新。
宇治のベタベタな観光ゾーンをそぞろ歩きし、甘味に気を取られながら名社で簡単に茅の輪をくぐり、
また風情溢れる店で飯も食って、彷徨自体をしっかり楽しもうと考え、彼地へ向かったのでした。
が、ブルージーなる 「憂じ」 はやはり、そんなポップな考えを、許さなかったのです。

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亀岡の七谷川へ桜を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

2017年4月14日(金)


亀岡の七谷川へ桜を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

桜の名所は、かつて荒れ狂った川の堤防であることが多かったりします。
堤防の強度の維持にとって、桜の植樹が良いことなのかどうかは、私にはよくわかりませんが、
とにかく日本全国で見られる光景であり、京都では府下の桜の名所でよく見られるものです。
当サイトでも訪れた井手の玉川とか、我がホームたる八幡の背割堤とかは、正にその典型でしょう。
井手も八幡も共に、ひとたび洪水が起これば一帯が死の湖と化す、京都ディープサウスの街。
「死」 を孕む花である桜は、あるいは 「死」 に近い場所でこそ、狂い咲くものなのかも知れません。
いや無論、荒れ川の前科を持つ桜の名所は、サウスのみならず京都市&北部の府域にも多し。
「かつて保津峡を栓とする湖だった」 という神話を持つ口丹・亀岡にも、桜が咲き狂う川があります。
大堰川 aka 保津川 aka 桂川のことでは、ありません。その東を流れる、七谷川という川です。

七谷川ノ源ハ地蔵山ヲ発シ流程十三粁桂川ニ注グ流域荒廃洪水ノ際流出スル土砂ニヨリ被害甚大
ナルタメ治水ノ根本策トシテ砂防大堰堤建設ノ議起リ時ノ村長島津庫太氏関係者ヲ代表シ当局ニ
陳情昭和十六年国庫補助府直営工事トシテ起工一部施行セラレタルモ偶戦争苛烈トナリ工事中止
トナル戦後時局安定セルニヨリ村長広瀬富之助氏ガ復活ヲ強ク要望二十三年ヨリ継続施工セラレ
二十六年三月完成ヲ見ルニ至ル
( 「七谷川統水堰堤碑文」 『ふるさと千歳』 より)

愛宕山系の水を宿す七谷川は、亀岡盆地東山麓から千歳町を西へ流れ、大堰川へ入る川。
本流・臼木谷・桃原谷・馬路山谷・野々熊谷・畑谷・上谷が合流することから、その名が付いたとか。
名前だけ聞くと、虹でも架かりそうな優美な印象の川ですが、実際は古代より氾濫を起こしまくり。
上で引いた 「七谷川統水堰堤碑文」 が記すように、近現代に入ってようやく、治水が為されました。
昭和3年には、御大典記念として100本の桜を植樹。昭和48年にも、追加で100本をまた植樹。
昭和57年に入ると、沿岸に七谷川野外活動センターが創設されるのと共に、またまた500本を植樹。
これらの樹々が順調に育ちまくったことで、現在の七谷川は春が来る度、桜の一大名所化。
前科を反省してるのか、あるいは 「死」 に感応してるのか、物凄い狂い咲きぶりを見せてます。
そんな七谷川の桜、玉川や背割堤と同様に、浴びるが如く観て来ました。

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福知山お城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2017年4月2日(日)


福知山お城まつり、福知山城を見物した前篇からの続きです。

「商都」 としての福知山を認識したのは、出口なおについて調べてた時のことです。
大本開祖であるなおは、福知山生まれ。広小路の上紺屋町の辺に、生家があったといいます。
で、当時の広小路は、 「福知千軒」 と呼ばれ、藩経済を支えるほどの商業的繁栄を見せてたとか。
節分大祭の記事を作る中、それを知り、私は驚きました。福知山を 「軍都」 と思い込んでたので。
城下町として成立し、廃城後は駐屯地の街となった、福知山。印象的には、かなり 「武」 です。
が、福知山城に防衛上の地の利を齎した由良川は、物流の面にて商人にも大きな恩恵を齎しました。
「塩船」 から始まったという由良川の水運は、朽木氏が入封した17世紀後半から急激に発展。
福知山は、重要な河港にして三丹・北国・京阪を結ぶ結節点となり、屈指の物産集積地へ化けます。
火隙地を作るべく町人屋敷の中央に開設された広小路では、舟渡が新設され、貨客も多数往来。
旅客相手の茶店や旅籠を営むべく有力商人も進出して、名実共に 「山陰の商都」 の顔となりました。 
また、通りの近くの御霊神社では、税制緩和などで慕われていた光秀を 「商売の神」 として合祀。
出口なおの頃には飢饉が続いてたそうですが、とにかく 「ブイブイいわしてる」 な街だったわけです。
しかしこの水運、明治中期以降は、衰退。製糸・養蚕などを展開した後、福知山は軍を迎えます。
「かごの鳥」歩兵第20連隊駐屯により、広小路は大正&昭和初期も繁華街・歓楽街として繁栄。
戦後に入っても陸上自衛隊鉄道管理局を誘致し、やはり繁華街・歓楽街として繁栄を続けたとか。
「軍都」 として生まれた街が、 「商都」 の性格を強め、その維持の為に 「軍都」 の仮面を被る。
そんな感じでしょうか。そう考えると、福知山はやはりしたたかでタフな 「商都」 なのかも知れません。
そして、城を支えた広小路がお城まつりのメイン会場であることも、当然なのかも知れません。
というわけで、お城まつり、後半です。後半は、城一切なしで、広小路周辺の祭徘徊がメインです。
地元との共生を図るべく奮闘する陸自の姿や、誘致された異形のゆるキャラ集団が放射する狂気、
魑魅魍魎が躍るパレード、そして街に漂う独特の雰囲気と若干のグルメを、楽しんで行きます。
「商都」 のしたたかさと、そのしたたかさが生むカオス加減、じっくりと御堪能下さい。

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福知山お城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2017年4月2日(日)


福知山お城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

平均的な日本人にとって、いわゆるは、いったいどんな意味を持ってるのでしょう。
戦国末期より江戸前期にかけての100年の間に大半が作られた、いわゆる近世の、いわゆる城。
少なくとも私には、城がそれなりに大事なものとして、日本全国で認識されてるように見えます。
いや、 「それなりに」 どころの話ではありません。城は大抵、その街のシンボル or ランドマークです。
オリジナルが残ってるなら保存に励み、壊れてるなら再建に努める。そうなるのが、普通でしょう。
しかし、京都は違います。 「京都」 と見なされるエリアに、まともな城と呼べそうなものはありません。
あるのは、 「跡」 以外の存在感を見出すことが困難な淀城跡、離宮感が余りに濃過ぎる二条城
そして遊園地の人寄せパンダとして再建された挙句に会社から捨てられた伏見桃山城くらい。
徹底的に武士が嫌いなのか、あるいは 「江戸期なんか最近。保存する必要なし」 と思ってるのか、
「威容を誇ると共にその威容に相応しき敬意を集める城」 というのは、とにかく京都にはありません。
しかし、こんな京都の城事情というのも、視野を府域にまで広げた場合、話は変わってきます。
かつて城があった亀岡や園部では、城こそ残らずとも城下町的な雰囲気が今なお濃厚に漂うことは、
当サイトの大本七草粥記事@亀岡や、栗餅買い食いまくり記事@園部でも、お伝えしている通り。
そして、更に北の福知山市は、恐らく京都府では唯一、現在も城らしい城を持つ街と言えるでしょう。
信長より丹波平定の命を受けた明智光秀が、丹波山地の開けた盆地にて築いた、福知山城
光秀が本能寺の変をやらかした後も、税制緩和など善政を敷いた光秀を慕う民によって支えられ、
間違いなく福知山のシンボルというか、福知山という街そのものを生み出す基礎たる城となりました。
時代が明治に入ると、止むなく廃城となり、長らく本丸跡&天守台を残すのみだったといいますが、
昭和末期に至ると、市民などの寄付により総工費の内の5億円を賄う形で、大天守閣の再建を敢行。
「それなりに」 どころではない情熱により、現在もシンボル or ランドマークたり得てるわけです。
そんな福知山城とその城下町、毎年4月上旬にはお城まつりとして街を挙げてのイベントも開催。
で、そのお城まつりに、城見物と祭見物と街見物を一度にすべく、出かけてみました。

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青谷梅林へ梅を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2017年3月12日(日)


青谷梅林へ梅を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

青谷。 「赤坂」 が赤い坂ではないのと同様、特に青い谷というわけではありません。
どちらかといえば、小高い場所に立地し、春先には青ではなく白い梅が咲き乱れる所であります。
場所は、京都と奈良の中間に位置する、城陽市。農地がベッドタウン化した典型例みたいな街です。
宅地化しなかった場所で咲く青谷の梅は、宅地化が進む遥か以前より栽培が行われてきたもの。
江戸期に染料の需要が高まると、ここで作られる鳥梅は、紅花染の色素定着材として高騰しました。
鳥梅とは、青い梅、ではなくて黒い梅です。焼き梅や黒梅とも呼ばれた、燻製状の加工された梅。
無論、青谷ではこの鳥梅を作りまくり、現在を遥かに凌ぐ規模で梅林が形成されたんだとか。

京都ヲ距ル南數里ニシテ、梅林アリ靑谿ト云フ、延袤二里斗リ、衆山回環蹲スル如ク伏スル如ク、
靑松ノ瀟漉、梅花ノ皓潔、之ガ衣トナリ之ガ裳トナル、而シテ市ノ邊、中村ノ二村家、其間ニ隱見シ、
宛然一仙郷ヲ爲ス、且京都ヨリ寧樂ノ舊都ニ通ズル鐡路ハ西麓ヲ過ギ、南北各半里弱ニシテ、
玉水長池ノ停車驛アリ、頗ル便利ノ地トス、予事ニ因テ屢此地ニ往來シ、其淸秀ヲ愛スルコト久シ、
到ル處恒ニ花時ノ風光ヲ說キ、且誇テ日和州月瀬ハ天下ノ勝ナリ、今試ニ靑谿ヲ以テ比スルニ
山水攅聚ノ奇、或ハ讓ル所アリト雖モ、遼廓眇忽規摸雄大、而シテ梅花ノ饒多ハ逈カニ之ニ過グ、
之ヲ本邦ノ羅浮ト稱スルモ我其溢れる溢美ニ非ルヲ信ズ
(山中青谿 『靑谿絶賞』 )

明治以降は、化学染料の登場によって、鳥梅の需要が衰退。青谷梅林もまた、衰退したとか。
梅林の荒廃を憂慮した地元は、観光化を企図して、保勝会を結成&上記の 『靑谿絶賞』 も出版。
すぐ傍で奈良鉄道 = 現在のJR奈良線が開通したことも追い風となり、この誘客戦略は当たりました。
明治中頃には観梅スポットとして認知され、変遷を経ながらも、その名声は今なお確固たるもの。
「天下ノ勝」 たる 「月瀬」 に 「讓ル所」 あれど、京都からの利便性では勝てる名所となったわけです。
で、今回、そんな青谷にて梅を観るべく、空だけは真っ青な小春日和に出かけたわけであります。
もちろん、梅グルメだって、堪能しまくり。観梅だけで満足出来るわけ、ありません。

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スプリングスひよしへ行って丹波ぼたん鍋を堪能してきました。もちろん、ひとりで。

2017年1月15日(日)


スプリングスひよしへ行って丹波ぼたん鍋を堪能してきました。もちろん、ひとりで。

私は、京都府南丹市園部町の船岡というところに、本籍地を置きっ放しにしてます。
「船岡」 という地名は、字がそのまんま示す通り、船と縁が深い土地ゆえ付けられたものです。
南丹は山に囲まれた丹波のど真ん中にあるので、この 「船」 が指すのは無論、川の上を走る船。
丹波の木材を京都へ運び続けた大堰川 aka 保津川 aka 桂川の、小さな浜のひとつが、船岡でした。
命名は、明治初頭と割に遅め。船運の活況が、その頃まで続いてたことを想起させられる話です。
私の何代か前の先祖も恐らくは、何らかの形で船や木に係わり、日々の糧を得てたんでしょう。
そんな船岡、現在はもちろん、川船は走ってません。これから走ることも、きっとありません。
鉄道の登場以降、物流が陸上へ移ったからです。そして、すぐ上流の日吉にダムも出来たからです。
明治後期に開通した山陰線は、角倉了以の開削以来続いた高瀬船の船運に、止めを刺しました。
また、1951年完成の世木ダム1997年完成の日吉ダムは、筏の通行も物理的に不可能にしました。
私のルーツの地は、いわばその名の根拠を失ったわけです。恐らく、永遠に失ったわけです。
このことが、本気で悲しいわけでは、もちろんありません。正直言って、どうでもいい話ではあります。
家が潰れてる為、船岡へまともに行ったこともないし。関係ないといえば、関係ありません。
が、心の底では、少し気になってました。いや、むしろ単なる興味という形で、少し気になってました。
特に、船運の死を具象として示す日吉のダムは、機会があれば拝んでみたいと思ってました。
そんなところへ降ってわいたのが、当サイトの冬期限定企画 「ひとりで食べる京都のぼたん鍋」 です。
「ぼたん鍋を食い、温泉にも必ず入り、冬を満喫する」 という無茶なルールで開始されたこの企画、
その無茶さゆえに行ける場所が極端に限られてるんですが、日吉ダムはこの縛りが、ばっちり合致。
ダムの付帯施設・スプリングスひよしでは、掘削された日帰り温泉・ひよし温泉が、営業中。
施設にはレストランもあり、そこでは上手い具合にぼたん鍋まで提供中。これは、いい機会です。
自身のルーツ探求と開発の問題、そして京都に於ける河川交通の歴史と、ベタな冬グルメ&温泉。
これらを上手く融合させ、俗にして学究的であり、それでいて魂の芯にも触れる記事を作ってみよう。
また、雪が降ってる日を選んで出掛けることで、ビジュアルを強化し、冬満喫感も演出してみよう。
そんな下心を抱き、私は日吉へ出掛けたのでした。大雪が降る日を選び、出掛けたのでした。
しかしこの日の日吉は、そんな下心など踏み潰す、怒涛の雪国状態だったのです。

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宇治田楽まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年10月15日(土)


宇治田楽まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

宇治田楽まつり。宇治名物・茶団子に田楽味噌を付けて食いまくる祭、ではありません。
また、いわゆる田植舞などの農耕色が濃い民俗芸能が披露される祭、というわけでもありません。
平安後期から鎌倉期にかけて宇治の地で隆盛を誇ったという 「幻の芸能」 である 「田楽」 を、
現代らしい的な形で復活させようと宇治の人々が考え、1998年より開催されてるイベントであります。
宇治は無論、世界遺産・平等院をコアに擁し、『源氏物語』 宇治十帖の舞台としても名高い地。
これら栄華の源泉たる藤原氏摂関期以前から、貴族達は別荘で宇治の風光を愛でていたものの、
摂関期以後はセレブ化が更に進み、そのセレブ化進行が近隣住民の生活や祭礼にも強く影響。
元来は郷民が競馬などで盛り上がってたという氏神・離宮八幡宮の祭礼・離宮祭も、華美化が進み、
禁令が出るほどの煌びやかな衣装と共に、カオスな 「躍り」 系芸能としての 「田楽」 が、隆盛化。
この 「田楽」 は、編木 (ビンザサラ) や腰鼓などを奏でつつ躍動的に踊るという渡来的なフォームで、
高足など散楽の曲芸に加え、後には猿楽の要素さえ取り込んだという、風流の魁のようなもの。
どこが 「田」 だという感じのカオスの中では、農耕と全然関係ないプロ芸能者・田楽法師 が活躍し、
更にはそのプロを模倣した 「やってみた」 系のアマチュア下級武士まで混入するなど、中々にカオス。
洛中では、末法カオスの真最中に 「永長の大田楽」 なる風流パンデミック状態まで発生しますが、
宇治では、白川金色院周辺にプロ集団・本座が勃興し、先述の離宮祭を中心に派手な活動を展開。
本座は、京都や奈良の寺社でも芸を披露し、遂には春日若宮おん祭へも参勤するに至りますが、
やがて新興のプレ能たる猿楽に圧され始め、幕府の庇護が猿楽へ向かった室町以後は一気に衰退。
「田楽」 そのものも歴史の彼方へ姿を消し、芸態も詳細不明な 「幻の芸能」 となったのでした。
で、この 「幻の芸能」 を、宇治市民自ら躍って復活させるという公演が、宇治田楽まつりであります。
詳細不明ゆえ、その内容は基本的によさこい的な創作系で、カオスな高揚をこそ目指す感じ。
しかし、その開かれた感じと、市民自らが躍る楽しさが相まって、人気は年々上がってるようです。
そんな宇治田楽、茶団子も田楽味噌も食わずに、ひたすらカオスな舞踊を観てきました。

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長岡天満宮の夏まつりへ久世六斎念仏の奉納を観に行きました。もちろん、ひとりで。

2016年8月25日(木)


長岡天満宮の夏まつりへ久世六斎念仏の奉納を観に行きました。もちろん、ひとりで。

京都の六斎念仏の講中は、かつてお盆の頃、あちこちで興業を行なってたそうです。
市街地近郊の農村に於いて、農閑期の余暇を活用する形で発展した、近世京都の六斎念仏。
特に芸能六斎と呼ばれるタイプの六斎は、花の都に流行るあらゆる演芸を取り込みまくる形で発展、
念仏の原型がなくなるほどに芸能化されたその演舞で、人々から熱烈な人気を得たといいます。
無論、そんな芸能化された六斎の講中も、メイン活動は地元の寺社での奉納&棚経なわけですが、
人気と需要ゆえ、大八車へ道具を積んでの町場廻りなども行ない、貴重な現金収入を得てたとか。
そういった場での演舞は恐らく、よりコンパクトで芸能色が濃く、より 「余興」 的なものだったでしょう。
「移動型総合念仏エンターテイメント」 「踊る農閑渡世」 みたいな感じだったかも。面白そうですね。
しかし現代に至ると、こうした 「興業」 としての六斎奉納を見かける機会は、なくなりました。
現代の六斎シーンにあっても、ホーム以外の場所で積極的に奉納を行なう講中は多いですが、
そのプログラムは、ガチというか、いわゆるフルサイズの 「一山打ち」 である場合が大半。
かつての六斎が、メイン活動以外の場に於けるライトな演舞で放っていたかも知れない雰囲気、
ある種の 「営業」 感や 「余興」 感を想起させてくれるような奉納は、案外と見当たりません。
時の流れはこういう所にこそ克明に顕れる、という話ではあります。が、そこで、久世六斎ですよ。
京都市南区・久世にあって、駒形稚児を出す綾戸国中神社の隣である蔵王堂・光福寺をホームとし、
蔵王堂におけるホーム奉納ではそれこそガッチガチのディープな演舞を展開する、久世六斎念仏
六斎本来の太鼓曲が中心のセトリに始まって、客&場所から放たれるタイムスリップ感に至るまで、
「昔の六斎はこんな感じかも」 と思わせるそのガチさ加減は、当サイトでもお伝えしてる通りです。
が、長岡天満宮・夏まつりでのお呼ばれ奉納では、こちらの久世六斎、実にコンパクトな演舞を披露。
これはこれで、 「昔の六斎の興業はこんな感じかも」 と、強く思わせてくれるものとなってます。
そんな六斎の別の表情を拝むべく、長岡天満宮がある長岡京市へ出かけてきました。

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亀岡平和祭・保津川市民花火大会へ花火を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年8月7日(日)


亀岡平和祭・保津川市民花火大会へ花火を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

爆発を、 「美」 として描く or 堪能すること。それは、平和な状況でのみ可能な行為です。
いや無論、戦時下でも爆発の描写そのものは決して珍しくはなく、むしろ盛んに行われるでしょう。
しかしそれらは概ね、 「勝利」 「成果」 or 「悲劇」 「非人道性」 などを表象する為のものであり、
爆発によって四散する命をもエレメントとして取り入れるような 「美」 の表現には、まずなり得ません。
殺される側にとって爆発の惨状は、当然ながら 「美」 とは懸離れた地獄として現前するのであり、
また殺す側にとっても爆殺の美化は、どれだけ正当化のロジックを駆使してもなお困難を極めます。
死者に祈りを捧げると同時に、こっそりと死者の死の瞬間を審美する脳天気な 「美」 の享楽は、
脳天気な平和状況に於いてのみ成立するものであり、ある意味で、平和の証とも言えるわけです。
8月の日本に於いて、爆撃の再現としか思えない花火大会が平和祈願の名目で開かれるのは、
送り火の風習を持つ盂蘭盆会終戦記念日のタイミングが重なったという我が国固有の事情に加え、
爆発が享楽し得るほど我々は平和であると、死者を含む世界へ宣言する為なのかも知れません。
「亀岡平和祭」 と堂々銘打たれたイベントの一環として行われる京都府亀岡市の花火もまた、
平和ゆえに可能な爆発の享楽を、夜空に舞い踊る魂火の審美を、存分に楽しめる催しです。
口丹波の中核都市・亀岡市は、1955年に 「世界連邦平和都市宣言」 を発し、 「平和祭」 を開始。
同時に、市の真ん中を流れる保津川 = 大堰川 = 桂川にて、約5000発を爆発させる花火大会も開始。
南丹・八木の凄まじさに隠れてる印象がなくもないですが、その規模はなかなかに爆発的であり、
花火貧民たる京都市民にとっても、JRに乗って爆発の飢えを満たしに行く貴重な機会となってます。
そんな亀岡の花火、当サイトとしては夏の定番行事を押えるべく今回の特攻に挑んだんですが、
写真の方は、花火の爆発が持つ 「美」 、それこそ死すらも孕む 「美」 に、焦点を合わせてみました。
長時間露光で光を叙情的に描くのではなく、飛び散り弾け飛ぶ瞬間の光こそを動的に描くことで、
「美」 の真只中で四散した命へ脳天気にシンパサイズし、共に夜空を舞おうと考えたわけであります。
そう、これはあくまでも、新たな挑戦なのです。脳天気な平和を手放さない為の、挑戦なのです。
断じて、単に人が少ない遠方まで離れて望遠で撮ってみたら、妙な絵になったのではありません。
決して、手持ちゆえシャッター速度を上げ、妙な絵がもっと妙になったのでもありません。

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夏越祓の茅の輪を求めて乙訓をうろつきました。もちろん、ひとりで。

2016年6月30日(木)


夏越祓の茅の輪を求めて乙訓をうろつきました。もちろん、ひとりで。

茅の輪、よくよく考えてみると、いや考えてみるまでもなく、用意って大変なんですよね。
第一に、お金がかかるし。自分達で作っても、手間はかかるし、それにやっぱりお金もかかるし。
用意されてる神社は、費用と労力の調達に際して、しんどい思いをされてるかも知れないわけです。
そして、用意されない神社もまた、それはそれでしんどい思いをされてるかも知れないわけです。
なので、その辺の事情を考慮も配慮もしない奴が、夏越の恒例企画とか言ってあちこちの社を徘徊し、
茅の輪があったとかなかったとか書き散らすのは、あまり感心できる行いとは言えないでしょう。
のみならず、何なら 「あまり紹介できない小社をめぐる、良い機会」 などと思い上がった考えを抱き、
ある種の使命感さえ持ちながら徘徊を継続するに至っては、欺瞞極まる行為と断じるを得ません。
それでは、人の苦労を掠め取って娯楽化することに励む、消費者ボケの愚民と同じではないか。
娯楽化した挙句、 「楽しませてくれてありがとう」 などと捨て台詞を吐く、享楽乞食と同じではないか。
もっと、身を削らねばならない。この愚行を続けるのなら、せめてもっと、身を削らねばならない。
「参加型」 といった捏造された当事者性ではなく、身を削って 「他者」 としての真の当事者性を獲得し、
真の 「めぐりびと」 たる身体を以て、別の 「他者」 の祭祀に於ける祓いに望まねばならない。
その当事者性は、例えばそう、修行の如きプチ登山も交えたハードな方法で獲得すべきではないか。
それが、不埒なる 「めぐりびと」 が祓いに際して払うべき、最低限の礼儀というものではないか。
私は、そう考えました。そして、2016年の茅の輪くぐりまくりを、乙訓エリアにて行うことに、決めました。
乙訓。京都府の南西部にあって、 「おとくに」 という、中々な難読度を誇る名前の地であります。
その高難読度な地名が示す通り、このエリアは京都・山背のすぐ隣に立地する 「弟国」 として栄え、
プレ平安京たる長岡京を始めとして、やはりプレ平安まで遡るルーツを持つ寺社や旧跡も多数存在。
中世以後も、山崎の合戦に於ける 「天下分け目の天王山」 など、多くの名所を生んでる地です。
で、今回の茅の輪めぐりは、その乙訓にてまずは天王山の山越えを決行し、その先へ進む形で敢行。
めぐりの原罪を殺ぐべく、己の足・背筋・山師根性を削りながら、全行程を徒歩でやり抜きました。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトである為に必要な、挑戦なのです。
決して、行先のネタが尽き、地元・八幡の川向・山崎から適当に歩き始めたのでは、ありません。
断じて、適当に山も登ったら地獄を食らい、その地獄を正当化してるのでも、ありません。

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円福寺の春季萬人講へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年4月20日(水)


円福寺の春季萬人講へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「ホーさん」 の記憶というのが、辺境の地・八幡に生まれ育った私にもあります。
ディティール以上にその温度感で京都の恐怖を精緻に描いた入江敦彦 『怖いこわい京都』 で、
女学生の心へ謎の追跡恐怖を植え付ける 「怖いこわい人間」 として登場した、 「ホーさん」 。
その正体はといえば、単に禅宗の雲水さんが 「ほー」 と言いながら托鉢に出てるだけなんですが、
ただ、人間の声とも動物の声とも違う、そしてあらゆる自然の音とも違うあの声は、確かに、不気味。
「ほー」 と言いながら追いかけてくる恐怖をトラウマレベルで抱くことも、ない話ではないでしょう。
いや、僧侶や家元といったいわゆる 「白足袋族」 が社会ヒエラルキーの最上位を占める洛中では、
坊さん達のあの声は別の意味でホラーだったりするのかも知れませんが、その辺はまあともかく。
そんな洛中とは全然関係無い八幡の私が、何故この 「ホーさん」 の記憶を持つのかといえば、
八幡に禅宗の専門道場が存在し、そこの 「ホーさん」 が 「ほー」 と言いながら歩いてたからです。
その道場の名は、円福寺。正式名称、圓福寺。別名、達磨堂 or 江湖道場。山号は、なし。
筒井順慶の日和見で有名な洞ヶ峠の近くに立つ、臨済宗妙心寺派の最初の専門道場であります。
1783年、白隠の高弟&妙心寺塔頭・海福院第6世の斯経慧梁は、この地に道場建立を発願し、
聖徳太子自作と伝わる達磨尊像&寺号なども、地元の石清水八幡宮別当家・田中家からゲット。
かくして江湖道場が完成し、以後現在に至るまで雲水さんが托鉢などの修行に励んでるわけです。
大村しげの著作を読む方なら、文中に時折この寺名が登場するのを御記憶かも知れませんし、
山城地域の方には、毎冬 「ダイコンの木」 ニュースで登場する寺、として御馴染みかも知れません。
そんな円福寺、 「ホーさん」 の方は河岸を変えたのか、私はあまりその声を聞かなくなりましたが、
斯経禅師の遺命で始められた春&秋の萬人講 = 祈祷&お斎付き一般公開は、現在も盛況。
特に春季萬人講は、八幡名物・筍を主役にした精進料理を味わえる、いい機会にもなってます。
というわけで、精進ではなく精進料理を求め、近所の道場へ出かけてみました。

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井手町・玉川堤へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年4月6日(水)


井手町・玉川堤へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

井手町。京都府南部にあって、元来は晩春に咲く山吹で広く知られた町です。
この町が立地する扇状地を作ったのは、木津川へ注ぐ玉川。山吹が多く咲いたのも、この玉川。
万葉集の編纂で名高い井手左大臣・橘諸兄は、この地を本拠地とし、玉川の堤へ山吹も植え、
更にはその風雅を讃える和歌を巷間に広めて、「ゐで」 を歌枕の定番の地位にまで押し上げました。
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   かはづ鳴く ゐでの山吹 散りにけり 花のさかりに あはましものを by 名無し
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そんな 「ゐでの山吹」 に、散るどころではない壊滅的ダメージを与えたのが、南山城大水害です。
1953年8月15日未明、豪雨により上流の池が決壊し、玉川には吸収不能な量の水が流れ込みます。
扇状地上の井手町は、濁流に呑み込まれて完全に浸水し、107人の死者が出るほど被害が激化。
玉川そのものも、名物である山吹や蛙などを含む生態系が押し流され、その姿を失いました。
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   くだつ世は 悲しきかなや いにしえの 井手の玉川 みる影もなし by 吉井勇
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南山城大水害後の玉川は、住民の安全維持を最優先に考える方向で改修が行われました。
水害防止の為に築かれたコンクリート護岸は、川の姿と、人々と自然の関係を、大きく変えたとか。
しかし、名物である山吹はその後、住民の熱意により復活。そして、桜という新たな名物もまた誕生。
植樹されたこの約500本の桜は、山吹より一足先に、川面の上へ花のトンネルを作り出すのです。
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   山吹を 待っとられんわと さくら満つ 井手の玉川 うどんも美味い by 独虚坊
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私は以前、井手町の讃岐うどんの名店・たなか家を訪れた際、偶然に玉川の桜を観て、驚きました。
凄い、と。こんな所にこんな凄い桜があるのか、と。府にはまだまだ色んな所があるんだな、と。
というわけで今回は、その感動を孤独な同志の皆様にも伝えるべく、桜満開の井手・玉川を訪問。
無論、うどんもこの感動の内なので、爆食@たなか家も込みでの桜見物です。

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福知山市三和町の三和荘でぼたん小鍋セットを堪能してきました。もちろん、ひとりで。

2016年2月4日(木)


福知山市三和町の三和荘へ行ってぼたん小鍋セットを堪能してきました。もちろん、ひとりで。

京都で一番安い値段でぼたん鍋を食えるところは、一体、何処になるんだろう。
大原の里、そしてくらま温泉と、猪肉を食い求め出費が嵩んだ私は、そんなことを考えました。
単に安く猪肉を食うというだけなら、改進亭で猪肉買ってきて自分で鍋をやってもいいわけですが、
これでも肉自体は結構な値段がするし、出汁や野菜も用意するとなれば、そこそこかかります。
それに自分の家で食うのでは、当然ながら温泉が付いてきません。露店風呂さえ、付いてきません。
温泉入湯を必須とする企画 「ひとりで食べる京都のぼたん鍋」 のルールに、そぐわないのです。
「だから、何で温泉が必須なんだ」 という話ではありますが、しかし、冬に暖を取るべく食うのが、猪。
猪が走り回ってた山の冷気を感じつつ、食前食後に湯の風情を楽しむのも、自然の流れでしょう。
というわけで、猪肉食って風呂入って2000円前後の店って京都にあるかな、と探してみたんですよ。
脳内の正気が 「絶対あるわけない」 と叫ぶのを必死で黙らせながら調べると、これが、ありました。
その店の名は、三和荘京都府は福知山市三和町にある、NPO運営の宿泊&日帰り入浴施設です。
福知山市三和町と聞いて、あなたは何か連想出来るでしょうか。私は、出来ません。すんません。
何も連想することが出来ないどころか、それ以前にどの辺にあるのかも、わかりません。すんません。
元々単独の自治体だった三和町は、山陰道の宿場町・菟原を中心とする町、だと思います、多分。
そんな三和町の三和荘は、調べる限り 「ハコもの」 以外の言葉が思いつかない風味の施設ですが、
しかしここ、単品だと1080円でぼたん小鍋を出すレストラン 「とどろき」 が併設されてるんですよ。
更に、温泉でこそないものの、大自然を眺めながら湯を楽しめる浴場 「香明の湯」 もあるんですよ。
これは、行くべきでしょう。たとえ、食費+湯費の合計額より交通費が高くなっても、行くべきでしょう。
というわけで、当サイト的には未踏の地である福知山市まで、遠路はるばる出かけてみました。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。府北部も視野へ入れる為の、新たな挑戦なのです。
決して、綾部・大本の節分へ泊まりで行ったから、翌日におまけで寄ったのでは、ありません。
断じて、綾部駅から200円で行ける市バスがあったから行ったのでも、ありません。

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綾部の大本本部・梅松苑へ節分大祭を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2016年2月3日(水)


綾部の大本本部の節分大祭、前篇の続きです。

大本開祖・出口なおの写真を見ると、随分前に死んだ祖母のことを思い出します。
恐らく、誰にとっても 「厳格なる祖母」 のアーキタイプたり得るであろう風貌を持つなおですが、
人生の大半を 「丹波の貧しい寡婦」 として生きた祖母を持つ私には、その印象がより強いのです。
『大地の母』 などで描かれる、帰神前後のなおの生き様。そんななおに対する、周囲の反応。
そして、他の地方の人よりは生々しいアクセントで読解が出来ているであろう、丹波の言葉の数々。
読んでいると、まるで親戚の昔話を聞いてるようなリアリティと、不思議な温もりを感じるのです。
それゆえに私は、大本二大聖地の内、綾部・梅松苑を 「なお = 土着的な信仰の場」 と勝手に捉え、
「王仁三郎 = 開明的 = 普遍的」 である亀岡・天恩郷と対を成す場だ、と思い込んでたのでした。
で、教義はわからなくとも、丹波的な何かで感覚的にわかる部分があるのでは、と思ってたのでした。
しかし、綾部へ実際に行ってみたら、違うんですよね。やっぱり何か、わからないんですよね。
綾部は、確かに近代以前は農業メインの集散地でしたが、明治以後は産業化&商業化が進行。
後にグンゼへと結実する蚕糸業の成功こそが逆に、糸引きを生活の糧とするなお達を直撃します。
発狂者が続出する極貧の中、なおは帰神へ至りました。 「いり豆に花が咲く」 という言葉と共に。
なおの貧苦は、農民の貧苦ではなかったわけですね。もっと近代的な貧苦だったわけですね。
「煎られた豆に花が咲く」 という、農民の願いというよりは都市細民の小さな祈りを感じさせる、何か。
と同時に、単なる時代状況に於ける怒りを越えて、より根源的な価値の転倒を希求する、何か。
その何かは、王仁三郎による教団拡大の際にもOS or セントラルドグマとして脈動し続けると共に、
苦しい現代 or もっと苦しい未来にさえ直結する普遍性をも、獲得してるのではないでしょうか。
そして、この夜の綾部で私が感じた不思議な雰囲気、何なら疲れるほどに不思議な雰囲気もまた、
超越的な普遍性とローカリティーが融合 or 衝突することで、生まれているのではないでしょうか。
いや無論、こんな思いつきの片言もやはり、わからなさを無理矢理言語化しただけに過ぎませんが。
というわけで、何もわからんまま紛れ込み続けてる大本・梅松苑の節分大祭、後篇であります。
祭の最後、奇蹟の種子がまかれる様を見て、私は何かを理解できるのでしょうか。

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綾部の大本本部・梅松苑へ節分大祭を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2016年2月3日(水)


綾部の大本本部・梅松苑へ節分大祭を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

節分といえば、 「鬼は外、福は内」 と言って豆をまき、鬼を退らうのが普通でしょう。
しかし京都府には、このを 「悪神によって艮の方角へ閉じ込められた金神」 として信仰し、
開祖が 「世の立替え立直し」 を語り始めた節分の日に、最も重要な祭儀を行う教団が存在します。
その教団とは、言うまでもなく、大本。平仮名だと、おほもと。新宗教の老舗とも言える教団です。
日本近代史に於いては、正しく近代史の暗黒面と言い得る激烈な弾圧を二度も受けた教団であり、
その筋な方々の間では 「霊界物語」 「日月神示」 「王仁三郎の予言」 などで人気の教団であります。
かつては九鬼氏の城下町であり、維新後は商業化・産業化が進んだ京都府中丹・綾部に於いて、
貧苦にあえいでいた老婆・出口なおへ 「艮の金神」 が降りたのは、明治25年の旧正月、即ち節分。
「元の国常立尊」 と名乗る金神は、なおの口で神示を語り始め、文盲の手で神示の自動筆記も開始。
書かれたその 「筆先」 が言うには、「三千世界一どに開く梅の花 艮の金神の世になりたぞよ」 と。
この神示に従い、なおは綾部ローカルながら活動を開始。そこへ、後の聖師・出口王仁三郎が合流。
王仁三郎の合流以後、教団は爆発的な拡大を始め、戦中の当局から警戒視されるほどに膨張。
最終的には、 「地上から抹殺する」 という宣言と共に、徹底的な弾圧を二度受けることになりました。
戦後の大本は、より芸術に重きを置く形で再建が行われ、ネイチャー系な教団として現在も存続。
七草粥で振る舞われるネイチャーな粥などは、近隣住民から普通に親しまれてたりするわけですが、
しかし、今も変わらず開教の日、即ち節分に最重要祭儀として行われているのが、節分大祭です。
この大祭は、開教の日に開教の地・綾部に於いて、天地万有全てのものを夜を徹して祓うというもの。
綾部大橋の上から大量の人型を流し浄めるビジュアルは、見たことがあるという人も多いでしょう。
で、今回、この節分大祭へ行ってきました。綾部に宿を取って、泊まり込み+徹夜で行ってきました。
七草粥記事にも書きましたが、丹波にルーツがある私は、何か大本に隣人のような印象があり、
それゆえ微妙な距離感があったり、あまり首を突っ込みたくないという思いもあったりするんですが、
京都に於ける節分を巡るのなら、やはりこの祭儀は外せないと考えて、行ってきたわけです。
で、実際に行ってみた節分大祭は、そして綾部は、実に不思議な世界だったのでした。

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