北野天満宮 - ひとりでうろつく京都 (β版)

北野天満宮の梅花祭へ行って、野点を拝服してきました。もちろん、ひとりで。

2014年2月25日(火)


北野天満宮の梅花祭へ行って、野点大茶湯を拝服してきました。もちろん、ひとりで。

一年の生活を、神社や寺院の暦と共におくる京人は、毎年二月二十五日は、梅の花の訪れだとはな
しあう。二十五日は、菅公の命日である。毎月、天満宮に市がたつが、二月だけは、特別、 「梅花祭」
がひらかれた。もともと、この 「梅花祭」 は、梅を愛した菅公の命日に因んだもので、古くからこの日
だけ、 「菜の花御供」 とよばれる祭典があり、その年の五穀豊穣を祈願して、菜の花をさした白米が
供えられ、宮中からも、代参者がきた。奉納神楽や式典もある。だが、どちらかというと、この日は、
上七軒の芸妓連中が献茶をうけもつ 「梅花祭」 の方が有名だ。
水上勉 『北野梅花祭』 )

という、北野天満宮梅花祭。祭神・菅原道真公の命日に、梅を愛でる催しです。
有能ゆえ家格を超え昇進するも、それを嫉んだ藤原時平により大宰府へ流され死んだ、菅公。
呪いのあまり雷神と化して、陰謀関係者各位へ片っ端からローリングサンダーを叩き込み、
頼むからもう勘弁してくれということで創建されたのが、菅公を主祭神とする北野天満宮であります。
つまり梅花祭は、北野天満宮 = 天神さん創建の本義に関わる極めて重要な祭儀なのであり、
ゆえに伝統の本質と信仰の大義を重要視する当サイトでは、2011年度の梅花祭訪問時において、
カメと見物客が群がる野点には目もくれず、参拝および梅苑の鑑賞に明け暮れたのでした。
「本当は、単に茶券が売り切れてたんだよ~ん」 「1500円の茶券代も、ケチりたかったんよ~ん」 と、
魂の底から妖しき声が響かないでもないですが、とにかくお茶は意図的にスルーしたのです。
しかし、うちのそもそもの趣旨は繰り返し書いてる通り、あくまでもメジャーどころの単独正面突破。
水上勉でさえ、やたら読点の多い文章で 「野点の方が有名」 みたいなことを書いてる以上、
上七軒の芸舞妓さんによるお点前が披露される茶席を、スルーし続けるなど、断じてありえません。
というわけで今回は、野点大茶湯への単独特攻を含めた形で、梅花祭を改めて訪問。
無論、をどり特攻の際と同じく前売券には手を出さず、玉砕覚悟の飛び込みで行ってみました。
梅と茶と人間の渦巻く中で、春をフラゲしようとする試みの一部始終、御覧下さい。

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2013年への年越しを、嵯峨嵐山で迎えました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2013年1月1日(火)


嵯峨嵐山で迎えた2013年の年越し、続きです。

夜、嵐電嵐山駅へ降り立つと、田舎の匂いを感じることがあります。
匂いといっても、田舎の雰囲気というような話ではありません。物理的な匂いの話です。
田舎の匂いというか、畑の匂いというか。とにかくそんな匂いを、濃厚に感じることがあります。
当然といえば、当然です。近くの嵯峨野には、農業をやってるところが多く存在するわけですから。
とはいえ、昼間の観光客だらけな嵐山では、まず嗅ぎ取ることが出来ない、そんな匂い。
でも、日が暮れて人がいなくなり、店も閉まって辺りが闇に包まれると、息を吹き返す、そんな匂い。
四季を通じて美しい自然に恵まれた嵐山ですが、それら 「観る自然」 とは一味違う、
よりネイティブな自然が息づく嵯峨嵐山の顔を、そんな匂いに見出したりすることがあります。
2013年の年越しで訪れた、大晦日深夜の嵯峨嵐山も、正にそんな 「夜の嵐山」 でした。
「除夜の鐘&初詣巡りの客を乗せた人力車やタクシーが、正月料金で発狂したように荒稼ぎ」 とか、
花灯路に群がるような阿呆の若者が、路上で酒盛り&除夜の鐘乱打&絶叫カウントダウン」 とか、
赴く前は色々勝手な妄想をしてたんですが、現場にはそんな外道な輩の姿、一切なし。
ごく普通に地元の人たちが、昼間の顔とは全く違う観光街を歩いて近所の寺や神社へ出かけ、
ごく普通に除夜の鐘を撞き、ごく普通に初詣を行う姿が、そこにはありました。
あまりにもごく普通にネイティブ過ぎて、メシ食うところを見つけるのにも難儀しましたが、
しかしそのネイティブな姿は、阿呆の若者+阿呆の観光客が多い東山エリアの年越しよりも、
はるかに魅力的で、かつはるかに本来的なものに見えたのでした。
そんな嵐山での年越し、後篇です。前篇以上に、鐘難民の鐘難民ぶり、全開です。
漆黒の嵯峨嵐山を徘徊する気分、存分にお楽しみください。

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北野天満宮・ずいき祭の還幸祭へ行きました。もちろん、ひとりで。

2012年10月4日(木)


北野天満宮・ずいき祭の還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

ずいき御輿。
完成した際に氏子が随喜の涙を流したからその名が付いた、というのは、嘘です。
ずいき = 里芋の茎で葺かれた屋根を始め、ボディ全域を野菜でデコられた、アーシーな御輿。
それがずいき御輿であり、その巡幸を行うのが北野天満宮秋の大祭・ずいき祭であります。
普通、北野天満宮といえば、平安朝の文人・菅原道真。そして、菅原道真といえば、怨霊。
陰謀により大宰府へ左遷され、結局その地で死に果てた道真は、怨霊化して都へストライクバック。
御所に雷を落として憎い相手を焼き殺すなど、無茶苦茶をやらかし都人を恐怖のどん底へ。
何とか道真の魂を鎮めるべく、朝廷は北野に社を建立。北野天満宮の、有名な創建の由緒です。
どちらかといえば 「魔界」 などのワードが似合う、首都ならではの物騒な由緒を持つ社であり、
芋の茎で屋根が出来た御輿の牧歌性は、あまり関係なさそうに見えたりもします。
しかし、この辺は元々、農村だったとか。天満宮創建前から、天神地祇を祀る聖地だったとか。
都市化された現在の姿からは想像もできませんが、農村のテイストは昭和初期まで残ってたそうで、
野菜に穀物、蔬菜や湯葉に麩などの乾物類で覆われたずいき御輿は、ある意味、
太古の昔から続くこの地の農耕文化の伝統を、最も深く引き継ぐものなのかも知れません。
時代の変遷の中で、時には途絶したり、時には逆に増殖したりもした、ずいき御輿。
現代に至ると農村の方がほとんど消滅しましたが、それでも祭と御輿はしっかり、存続。
祭のクライマックスである還幸祭では、道真+嫁+息子が乗る鳳輦や、牛車などの行列と共に、
ネイティブテイストが溢れる激渋な街中を、野菜全開の姿で巡幸してくれます。
ちょっと不思議で味のあるそんな風景、たっぷりと見てきました。

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2012年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。【2】

2012年2月3日(金)


2012年の節分めぐり、続きです。3日の昼の部。

【1】 八坂神社の芸舞妓舞踊奉納+豆まき壬生寺の節分狂言須賀神社で懸想文購入
【2】 北野天満宮の追儺狂言+芸舞妓舞踊奉納+豆まき千本釈迦堂のおかめ福節分
【3】 千本ゑんま堂の節分狂言吉田神社の火炉祭大炎上

【2】、北野天満宮の追儺狂言、そして千本釈迦堂のおかめ福節分です。

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北野天満宮・ずいき祭の神幸祭へ行きました。もちろん、ひとりで。

2011年10月1日(土)


北野天満宮・ずいき祭の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

ずいき祭。
美しい少女を見て随喜の涙を浮かべる祭ではありません。あしからず。
ずいきとは、里芋の茎のこと。漢字で書くと、瑞饋祭。京都の代表的な秋祭です。
のちに北野天満宮の祭神となる菅原道真が、配流先の大宰府にて怨み骨髄で彫り上げた木像を、
随行した西ノ京の神人が持ち帰り、秋の収穫時に野菜や穀物をお供えしたことに始まる、ずいき祭。
ずいき・赤茄子・栗・柿・稲穂などの野菜で作られた『ずいき神輿』が祭りの何よりの名物であり、
元農村ならではの収穫を感謝するさまと、祭ごとに作ってはぶっ壊す神輿本来の聖性が、
ちょっと不思議な形で現在まで継承されてる祭りであります。
毎年10月4日の還幸祭では、ずいき神輿はもちろん、「天神さん」のシンボルである牛も町内を巡行。
現在は完全に住宅地の氏子区域を野菜神輿や牛が闊歩する姿は、独特の風味を醸し出してますが、
この日の神幸祭もそんな不思議さに満ち溢れているかといえば、これがそうでもありません。
ずいき祭の神幸祭は、応仁の乱で途絶して以降ずっと中断したままだったそうで、
再開されたのは実に明治8年のこと。何事も千年単位の京都にあっては、最近の話です。
配流された主祭神・道真の「おかえり」すなわち都への帰還をイメージさせるためか、
還幸祭が極めて盛大に行なわれるのに対し、神幸祭はやや、地味。ずいき神輿の巡幸も、なし。
私も還幸祭の方へ行きたかったんですが、ずいき祭は日程固定で平日開催が多く、今年はアウト。
神幸祭だけじっくりと見物させてもらうことにしました。
とはいえ神幸祭も、行列の巡行、そして何より八乙女舞の奉納など、見所はいっぱいです。

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北野天満宮の梅花祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年2月25日(金)


北野天満宮の梅花祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

学問の神様と呼ばれる、平安時代のエリート・菅原道真。
実際に頭が良く有能であり、それゆえ家格を超え右大臣にまで昇進した、菅原道真。
しかしそれが面白くない藤原時平により謀略を企てられ、大宰府へ流され、死んだ、菅原道真。
生きてるうちは配流も困窮も我慢した道真でしたが、死後は雷神と化し、京の街を呪いまくり。
首謀者・時平のみならず、陰謀関係者各位へ片っ端からヴードゥースプラッターをお見舞いし、
ビビりまくって名誉回復を決めた朝廷にもブチ切れ、遂には雷で御所をストライクアタック。
焼死体続出の惨状を見せつけられた醍醐天皇は、のちにショック死。
頼むからもう勘弁してくれと、朝廷は道真を主祭神とする北野天満宮を造営。
で、道真の命日である2月25日には、道真が愛した梅を大々的にフィーチャアした祭りを開催。
それが、この梅花祭なのであります。恐るべき因縁を持つ祭なのであります。
なので、本来は呑気に梅の観賞などをしてる場合ではありません。
縁日に並ぶ露店で、呑気に鯛焼きや回転焼きなど食ってる場合でもありません。
何故か毎回やってきて、楼門前に陣取る富山ブラックラーメンを食ってる場合でもありません。
ちゃんとお参りしないと、呪われるのです。雷を落とされるのです。大変なのです。
で、私は祈ってきました。祈るためだけに、天神さんへ出かけてきました。
偉いのです。真面目なのです。そしてひょっとすると、暇なのです。

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2011年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。 【2】

2011年1月1日(土)


2011年への年越しを、京都で迎えました。の、続きです。

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