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上七軒へ北野をどりを観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年4月6日(金)

北野をどり・提灯
上七軒歌舞練場の北野をどりを観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

北野をどり。
京都最古の花街・上七軒の舞踊公演です。
室町時代にまで遡る歴史を持つ上七軒ですが、をどりが始まったのは比較的新しく、戦後。
昭和27年、氏神である北野天満宮の創建1050年記念万灯祭に際して
祭神・菅原道真の物語を舞踊劇にした「北野天神記」を奉納したことに始まります。
これをきっかけに、「北野をどり」を正式にスタート。今年は記念すべき60回目です。
花街としての規模も小さく、舞妓さん芸妓さんの数も決して多くはない上七軒ですが、
踊り手もお囃子もフル稼働で、セリフを多用したストーリー性の強い舞台を創出。
「通は上七軒のをどりを好む」といわれるほど、その芸への評判は高いものがあります。
最近まで4月中旬に開催されてた北野をどりですが、しばらく前、
第一回の開催日が3/25+天神さんの縁日に因み、3/25から2週間の開催に変更。
で、2012年の期間は、3/25~4/7。で、千秋楽の前日にあたる6日に行ってみました。
予約は、してません。前日に、行くことを思いついたからです。
予約なしで入れるコネは、ありません。当日券の一発勝負、飛び込みです。

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2012年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。【3】

2012年2月3日(金)


2012年の節分めぐり、さらに続きます。

【1】 八坂神社の芸舞妓舞踊奉納+豆まき壬生寺の節分狂言須賀神社で懸想文購入
【2】 北野天満宮の追儺狂言+芸舞妓舞踊奉納+豆まき千本釈迦堂のおかめ福節分
【3】 千本ゑんま堂の節分狂言吉田神社の火炉祭大炎上

【3】、千本ゑんま堂の節分狂言、そして吉田の火炉祭です。

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2012年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。【2】

2012年2月3日(金)


2012年の節分めぐり、続きです。3日の昼の部。

【1】 八坂神社の芸舞妓舞踊奉納+豆まき壬生寺の節分狂言須賀神社で懸想文購入
【2】 北野天満宮の追儺狂言+芸舞妓舞踊奉納+豆まき千本釈迦堂のおかめ福節分
【3】 千本ゑんま堂の節分狂言吉田神社の火炉祭大炎上

【2】、北野天満宮の追儺狂言、そして千本釈迦堂のおかめ福節分です。

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チャーミングチャーハンめぐりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年1月22日(日)


チャーミングチャーハンめぐりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

チャーミングチャーハン。
その恐るべきネーミングセンスで、京都はおろか日本全国を震撼させた中華料理店です。
死ぬほど暇な時に思わず検索欄へ打ち込んでしまいそうなワードを堂々と屋号に掲げ、
「焼きめし+チャーハン付き」などという、言語への挑戦のごときメニューをひっさげたこの店が、
移転先の堀川丸太町で突如ブレイクしたのは、もう何時のことになるのでしょうか。
ブレイク当初は 「ネットやマスコミから散々ネタにされ、消費され尽くされたところで、終了」 か、
「ネーミングをさらにエスカレートさせ、収拾つかなくなり、終了」 みたいな展開を想像してたんですが、
店は意外にも普通のお手頃中華屋として存続&出前サービスが効いて地域に定着。
遂には2011年の暮、今出川通へ支店まで出してしまいました。
もちろん支店の方も、チャーミングチャーハンの店名、「焼きめし+チャーハン付き」、ともに健在。
もしかしてチャーミングチャーハン、狙ってるんでしょうか、飛躍を。
かつて王将が、四条大宮の賃貸ビルから全国区へ羽ばたいたような、飛躍を。
かつて天下一品が、北白川の屋台から全国区へ羽ばたいたような、飛躍を。
そのあたりの腹を探るべく、新規オープンの今出川店、そして本店を、いっぺんにめぐってみました。

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2012年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。 【2】

2012年1月1日(日)


2012年への年越しを、京都で迎えました、の続きです。

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2012年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。 【1】

2012年1月1日(日)


2012年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。

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妙蓮寺宿坊で聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。【後編】

2011年12月25日(日)


クリスマス・イヴ@妙蓮寺宿坊、続きです。

日本人にとってのクリスマスとは、一体何だったのでしょう。
「だった」と過去形なのは、最盛期の馬鹿騒ぎが現在のクリスマスには、ないからです。
姦淫を以て主の生誕を祝う不埒の輩どもが地虫の如く涌いた、20世紀後半の日本。
飴玉をもらった子供のように浅ましく「聖」と「性」を貪る当時の熱狂は、現在はもう、ありません。
凡庸な性的レジャーとしてのクリスマスを楽しんだ凡庸な人間たちの多くは、
消費社会の成熟や不況の深化とともに、凡庸な家庭や凡庸な友人たちとの集いへ帰っていきました。
今となっては、本気で「クリスマスで何とかしよう」と焦る人など、きっと少数派なのでしょう。
「そんなことはねえっ!!!!!!!!!!」 「イルミネーションのプレッシャーは年々増す一方だっ!!!!!!!!!!」
「仮に恋愛プレッシャーはなくなっても、凡庸な家庭や凡庸な友人すら俺にはねえっ!!!!!!!!!!!!!」
と叫んでしまう同志の方もいるかも知れませんが、しかしそんな方でも、
クリスマスの拡散に伴う陳腐化と性的衰退は、心のどこかでしっかり感じているはずです。
私達の戦いの半分は、終わりました。土俵へ上がる前に。
残った敵は、別の何かに対する、別の浅ましさ。その浅ましさが、今なお、私達を叩き続けている。
そして、昔とは違う形の袋叩きとして、現代日本のクリスマスは機能し始めている。
そんな気が、しませんか。私はあんまり、しないんですけど。
というわけで、どういうわけかわかりませんが、宿坊の聖夜、前編に続き後編であります。
妙味爆裂のクリスマス和菓子を用いた狂乱のひとりパーティーから、
法華曼荼羅の世界へ導かれる朝のお勤めまで、妙なる聖夜をお楽しみ下さい。

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妙蓮寺宿坊で聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。【前編】

2011年12月25日(日)


妙蓮寺宿坊で聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

メリー・クリスマス!!!
今年もまた、聖夜の季節がやってまいりました。独男にとって、鬼門の季節が。
前年は宿泊料1500円+エアコンなし激寒+プレハブ状態の安宿・いずみハウスに泊まり
末期のアナログテレビで明石家サンタ見ながら一人でシャンパンラッパ飲みなどしたわけですが、
今年はもっと上質な 『クリスマスひとりお泊り in 京都』 を提案したいと思います。
私だって、いい加減大人ですからね。くだらないことばかり、そうそうやってられませんよ。
というわけで、2011年の聖夜に泊まったのは、妙蓮寺
正真正銘、お寺です。しばらく前からブームになってるという、宿坊というやつです。
ただ泊まるだけでなく、朝のお勤めなどにも参加できたりするのが魅力の、宿坊。
また、一般の宿に比べると料金が安価に設定されているのも、人気の要因となっています。
ちなみにこちらの妙蓮寺、一泊、3800円。相応しい表現かは知りませんが、「お値打ち」です。
加えて妙蓮寺が魅力的なのは、その立地。すなわち、上京・西陣・寺之内。
寺之内」の名が示す通り、周囲には法華宗を中心に本山クラスの寺院が林立しまくり、
ゆえに茶道の各千家が集中しまくり、ゆえに和菓子の老舗が密集しまくってるエリアなのであります。
「そんな高級な世界のことは知らん」という方でも、街並の中をただ歩いてるだけで、
偏頭痛が起きるような京都独自の異常な閉塞感をとことん堪能できるエリアなのであります。
そんな宿坊、独男の上質な聖夜にはふさわしい、と考えたのは大嘘ですが、
とりあえず行くところがないので、純粋なる興味本位&面白半分で泊まってみました。
密集しまくる和菓子屋の老舗の中には「クリスマス和菓子」なんてのを出してるとこもあるので、
そっち方面でもちょっと、遊んでみましたよ。

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千本釈迦堂の大根焚きに行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年12月8日(木)


千本釈迦堂の大根焚きに行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都の冬の到来を告げる、師走の風物詩・大根焚き
鳴滝の了徳寺や、その近所の三寳寺も有名ですが、やはり大根焚きといえば、千本釈迦堂
鎌倉時代に茲禅上人が大根の切り口に梵字を書き魔除けにしたのが始まりとされ、
現代に至るまで中風&諸病除けの御利益を求め人々が食し続ける、実に歴史ある大根焚きです。
集められた大根を加持祈祷して輪切りにし、大鍋で煮込み参拝者に振舞うその様は、
「京都の師走の風物詩」という感じのニュースなどで目にした方も多いでしょう。
そう、京都の大根焚きが取り上げられる際、出てくるのは大抵、ここです。
もちろん他の大根焚きも、特に了徳寺の大根焚きは結構な頻度で取り上げられますが、
どこが一番メジャーかと考えるなら、千本釈迦堂ということになるんじゃないでしょうか。
でも、何でやろ。何か違いって、あったっけ。人気とか動員数とかの問題か。
味の違いやろか。味やったら、僕、三寳寺が一番好きやけど。一番ようしゅんでたし。
と、アホなことを考えてると、思いつきました。千本釈迦堂の大根焚きって、野外でやるやん。
了徳寺と三寳寺がお堂の中で食するの対し、千本釈迦堂はお堂の外。
どこの大根焚きも狭いところが超混雑状況となりますが、室内での混雑はカメラ置きにくし。
より取材しやすい千本釈迦堂に、マスコミは行くようになった。そうや、きっとそうや。
と、やはりアホなことを考えながら、大根、食べに行きました。
当日は、雨。「お堂の外で食べる」のが、完全に裏目に出たシチュエーションでございました。

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時代祭の神幸列を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年10月23日(日)


時代祭の神幸列を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

コスプレパレードと揶揄されがちな時代祭ではありますが、
行列の最後列には、平安神宮の祭神・桓武天皇&孝明天皇の御輿がしっかりとついてます。
たとえ明治時代に行われた第一回目が純然たる集客イベントの純然たる余興であったとしても、
現在の時代祭は天皇の御霊をいただく、れっきとした神社のれっきとした祭りというわけです。
その時代行列、ご存知のとおりスタート地点は平安神宮ではなく、京都御所。
で、これも言うまでもないことですが、時代祭は京都御所の祭ではありません。
つまり、あの行列は「神霊が御所へおいでになり、神宮へ帰る」という、還幸にあたります。
還幸があるなら、本来は神幸も、あるはず。いわゆる「おいで」が、あるはず。
「ええ加減にせえ」と交通渋滞にブチ切れる市民を考慮して省略したのかと思いたくなりますが、
実際には時代祭においても、神幸はしっかり行われてます。祭の当日、午前中に。
それも、稲荷祭みたいにトラックへ神輿を載せてピャーっと運んでしまうようなものではなく、
ちゃんと人力で御鳳輦を押し、えっちらおっちらと御所まで運ぶスタイルで。
三大祭のひとつでありながら、葵祭&祇園祭に比べると、もうひとつ盛り上がりに欠ける、時代祭。
でも、やることは、やってるのです。で、やることやっても、やっぱり、盛り上がらないのです。
その辺の温度感が、ある意味本編よりも如実に感じられる、神幸列。
行った動機は本編スタートまでの暇つぶしでyはありましたが、とにかく見てきました。

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時代祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年10月23日(日)


時代祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

時代祭。
言うまでもなく、葵祭および祇園祭と並ぶ、京都三大祭のひとつであります。
が、御存知の方も多いでしょうがこの祭、始まったのは明治の中頃と、割に最近です。
東京遷都で衰退した京都は、地域振興として明治28年に 『平安遷都千百年紀念祭』 を開催。
紀念殿として、5/8サイズの平安京大内裏レプリカが、当時田んぼだらけの岡崎に建設されました。
江戸時代でもかろうじて都の誇りだけは担保してくれていた天皇を遂に失い、
思わずアイデンティティを平安時代に求めてしまった京都人は、その小さいレプリカを、神社化。
祭神は京都への遷都を成した桓武天皇、氏子は京都市民全員、
例大祭は平安遷都の日である10月22日と決められました。平安神宮と時代祭の始まりです。
延暦時代から明治維新までの各時代の装束で都大路を練り歩く時代祭名物・時代行列も、
初回こそ単たる客寄せコスプレイベントでしたが、恒例化&ラインナップも拡充。
市域の拡大につれて徴員される人が増えたり、花街から芸妓さん呼んで婦人列を新設したり、
「逆賊」足利将軍が開催100年目にして参加を許されたりながら、現在に至ってます。
そんな時代祭、御所や平安神宮応天門前で見るのが堅気の楽しみ方ですが、
私は行列と一緒に歩いてみました。全行程4.5キロを、行列から少しずつ遅れて歩いてみました。
「動く歴史絵巻」を、普通の街中を進む絵面ばかりで、全時代、網羅してみようかなと。
ビルや車や通行人などを背景ボカシの彼方へ抹殺して捏造された「雅」さではなく、
「雅」さが普通の街中に転がる京都のストレンジさこそを、感じてもらおうかなと。
曜日問わず22日固定で開催される時代祭ですが、今年は天候不良により、23日に順延。
2011年は、奇しくも三大祭の全てが日曜に開催される年となりました。

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北野天満宮・ずいき祭の神幸祭へ行きました。もちろん、ひとりで。

2011年10月1日(土)


北野天満宮・ずいき祭の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

ずいき祭。
美しい少女を見て随喜の涙を浮かべる祭ではありません。あしからず。
ずいきとは、里芋の茎のこと。漢字で書くと、瑞饋祭。京都の代表的な秋祭です。
のちに北野天満宮の祭神となる菅原道真が、配流先の大宰府にて怨み骨髄で彫り上げた木像を、
随行した西ノ京の神人が持ち帰り、秋の収穫時に野菜や穀物をお供えしたことに始まる、ずいき祭。
ずいき・赤茄子・栗・柿・稲穂などの野菜で作られた『ずいき神輿』が祭りの何よりの名物であり、
元農村ならではの収穫を感謝するさまと、祭ごとに作ってはぶっ壊す神輿本来の聖性が、
ちょっと不思議な形で現在まで継承されてる祭りであります。
毎年10月4日の還幸祭では、ずいき神輿はもちろん、「天神さん」のシンボルである牛も町内を巡行。
現在は完全に住宅地の氏子区域を野菜神輿や牛が闊歩する姿は、独特の風味を醸し出してますが、
この日の神幸祭もそんな不思議さに満ち溢れているかといえば、これがそうでもありません。
ずいき祭の神幸祭は、応仁の乱で途絶して以降ずっと中断したままだったそうで、
再開されたのは実に明治8年のこと。何事も千年単位の京都にあっては、最近の話です。
配流された主祭神・道真の「おかえり」すなわち都への帰還をイメージさせるためか、
還幸祭が極めて盛大に行なわれるのに対し、神幸祭はやや、地味。ずいき神輿の巡幸も、なし。
私も還幸祭の方へ行きたかったんですが、ずいき祭は日程固定で平日開催が多く、今年はアウト。
神幸祭だけじっくりと見物させてもらうことにしました。
とはいえ神幸祭も、行列の巡行、そして何より八乙女舞の奉納など、見所はいっぱいです。

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上御霊神社での小山郷六斎念仏奉納を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

2011年8月18日(木)


上御霊神社での小山郷六斎念仏奉納を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

六斎念仏が行なわれるところは、概ね、京都市の中心部からは若干離れています。
以前紹介した中堂寺しかり、壬生しかり、そして今回の小山郷もしかり。
これは、六斎念仏が都の周辺部の農村で受け継がれてきたことに由来するそうです。
村の若い衆が都へ流出するのを防ぐため、六斎を若者組の行事として引き止めたんだとか。
そしてそのことが、六斎の過激なまでの芸能化をより進めた要因になったとも言われてます。
言うまでもなく、現在はいずれの地域も完全なる市街地であり、
八幡市民の私から見たら、四条大宮から壬生あたりなど完全に京都の中心部に見えますが、
大正までは生田村という農村だったりするので、都に歴史ありです。
御陵神社・御霊祭の神輿でも名を馳せる小山郷もまた、「郷」の字の通り、もともとは農村。
六地蔵参りの一番札所である上善寺を本拠地として、六斎保存会が活動を続けてます。
御霊祭は元来はこの日に行われてたという御霊神社の8/18の例大祭でも、演舞を奉納。
で、それを、見に行ったというわけです。神社で念仏というのも、考えれば妙ですが。

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京の七夕の堀川会場へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年8月12日(金)


京の七夕の堀川会場へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

京の七夕。ざっくり言えば、夏季閑散期の客寄せイベントです。
集客の華・祇園祭が終わり、8月に入ると、京都は観光客が減ります。理由は、暑いから。
暑いだけなら海水浴場も同じですが、京都の盆地性の暑さというのは、何というか、体に悪い。
「北欧から来た留学生が、暑過ぎて死んだ」という噂がまことしやかに囁かれるくらい、
独特のバッドな内蔵侵食感および神経破壊感が、暑さに伴います。
京都の観光スポットの大半は昼間に見るもんですから、そんな暑さの中での観光はもはや、苦行。
「こんな季節に京都へ来るのは、やめときなはれ」と考えるのが普通の人ですが、
「こんな季節でも京都に来て欲しい、体が壊れても」みたいなことを考える方もいらっしゃるようで、
ほんのちょっとだけ暑さがマシになる夜間を狙って、イベントを新規立ち上げ。
旧暦の七夕と夏季閑散期がカブってるのに目をつけ、鴨川と堀川の2会場で電飾を灯し、
市民に書かせた短冊を飾り、なんとか観光促進を計るというのが、京の七夕であります。
去年の2010年度から始まり、まずまずの成果を残したそうですが、
「祈り」や「願い」、そして何より電気の意味が全く変わってしまった今年は、どうなんでしょう。
そんなことを考えたり、考えなかったりしながら、堀川会場へと足を運びました。

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北野商店街の糸源へ、鱧を食べに行きました。もちろん、ひとりで。

2011年8月12日(金)


北野商店街の糸源へ、鱧を食べに行って来ました。もちろん、ひとりで。

京都の夏といえば、鱧。
というわけで、ひとりで鱧が味わえる店を探し求めるこの企画、遂に上京区へ進出です。
こちらの糸源は、かつてN電が走っていた北野商店街にある、料理屋。
N電というのは、知ってる人は知ってるでしょうが、知らない人は知らないでしょうから説明すると、
明治に京都電気鉄道・通称京電が開通させた、北野天満宮と京都駅を結ぶ路面電車です。
同時期に敷設された路線の多くが市電化されて広軌となったのに対し、
唯一狭軌(Narrow Gauge)のまま残った路線。N電の「N」は、もちろん「Narrow」の「N」。
明治のままな車輌が京の街並を走る往時の姿は、廃止からちょうど半世紀経った現在も人気が高く、
「せめてN電だけでも残ってたら、いい観光資源になったのに」と、悔やむ声も多し。
時の変遷を経て、一応「廃線跡」である堀川通は景観そのものさえ大きく変貌しまくってますが、
この北野商店街のあたりにはまだ微妙に「鉄」の匂いが残っている気がします。
特に、七本末中立売から天神さんまでのカーブとか。何か実に「廃線跡」っぽいなあ、と。
元々このあたりは北野の下の森と呼ばれる北野社の境内だったそうで、
まず鉄道が敷かれ、それにつれて道が出来、商店街が形成されたんだとか。
鉄に先導され街が出来ると、廃線後も動線とかから鉄の匂いが漂うもんなんでしょうか。
と、とりとめのない話は置いといて、糸源です。鱧です。鱧しゃぶです。

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白峯神宮の七夕祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年7月7日(木)


白峯神宮の七夕祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

白峯神宮。
御存知、「日本国の大魔縁」となったことで知られる崇徳天皇を祀る神社です。
保元の乱に敗れ、讃岐国へ流罪とされ、都を呪いながら死んでいった、崇徳帝。
「皇を取って民とし、民を皇となさん」と血で書きつけたその呪いのパワーこそが、
鎌倉以降長らく日本を武士の国にしてしまったと考えたのは、大政奉還を控えた維新政府。
「この呪い、何とかしとかないと、マジヤバし」と考えたのか、実に明治改元の2日前、
讃岐国より京都へ帰還した崇徳帝の御霊は、この白峯神宮へ遷霊されたのでした。
しかし、この神社が祀ってるのは恐怖の大魔縁だけではありません。
境内には多くの摂社がありますが、中でも東側で大きな存在感を放ってるのが、精大明神。
この土地は元々、蹴鞠の宗家・飛鳥井家の邸宅跡。で、精大明神はその飛鳥井家の祖先神。
ゆえにこの神様、蹴鞠はもちろん、サッカーは初めとした球技各種の上達に効能があると言われ、
プロアマ問わずたくさんのスポーツ関係者から篤い信仰を集めてます。
白峯神宮の七夕祭は、崇徳帝ではなくこの精大明神のお祭り。精大明神例祭。
蹴鞠はもちろん、舞楽や、かつて七夕踊りとも呼ばれたという「小町をどり」なども奉納されます。
あいにくの雨ですが、舞殿での蹴鞠というのもそう見れるものではありません。

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夏越祓の茅の輪をくぐりまくりました。もちろん、ひとりで。(後編)

2011年6月30日(木)


市バスの一日券を使った、でも結局歩きまくってる夏越祓の茅の輪くぐりまくり、前編の続きです。

全くどうでもいい話ですが、私、バスが苦手なんですよね。
どこの街のバスも苦手なんですが、京都のバスは特に苦手です。
府民ではあるものの相当長く利用し続けてるはずですが、未だに系統さえ覚えられません。
何より車内の空気が、ダメなんですよね。あの、モワ~っとした空気というか、ノリというか。
一言で言うなら、しんきくさい。 「遅延にイラつく」 といった話ではなく、空気そのものが、しんきくさい。
このしんきくさい空気、バスのみならず、地下鉄にも漂ってることがあります。
特に、市営地下鉄の今出川以北。何故か列車の中の雰囲気がバス的になり、すごくしんきくさい。
「鉄道の生理」が欠落してるというか、鉄道の基準で人間が動いてない感じが、苦手なんですよ。
私は京阪の駅前に生まれ、列車が大鉄橋を渡る音を聞いて育ったような人間なので、
京都市中心部に漂うこの「非鉄」なノリに、いつまで経ってもなじめません。
明治以前に街が出来上がってた多くの都市と同様、
京都も大きな鉄道 = JR・京阪・近鉄・阪急などは市街地中心部を避けて建設されてますが、
阪急が市街地ど真ん中の四条通り地下へ乗り入れる昭和中頃までその状態が続いたために、
京都の「非鉄」はある意味、純粋培養されてしまったのでしょうか。
と、全く無関係な話を全く無意味に終えたところで、夏越祓の茅の輪めぐり、後編であります。
後編は灼熱のラッシュ、ひたすら数ばっかりこなしていく様を、ご覧下さい。

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葵祭・路頭の儀を追尾してみました。もちろん、ひとりで。 (1)

2011年5月15日(日)

御所の斎王代
葵祭・路頭の儀をフルで追尾してみました。もちろん、ひとりで。

葵祭。言うまでもなく、京都三大祭のひとつです。
夏の祇園祭、秋の時代祭と並んで、春の京都の重要な観光資源でございます。
本名、賀茂祭。上賀茂神社と下鴨神社、両賀茂社の例祭であり、
私の地元の石清水祭・奈良の春日祭と共に、勅使が派遣される三大勅祭のひとつでもあります。
そもそも京に於いて「祭」といえばこの賀茂祭のみを指したくらい、その重要性は高く、歴史も長し。
平安遷都以前から「猪殺して乱闘しまくり」の喧嘩祭として、何度も禁制食らうほどの大盛り上がり。
遷都以降は賀茂社の王城鎮護指定を受け、勅祭化。また都の祭として、洗練化。
特に、御所から社までを天皇の使い・勅使とその行列が華麗な姿で行進する路頭の儀は、
雅な姿がさながらファッションショーの如き人気を呼び、見物人の場所取りで諍いが起こるほどに。
以後、応仁の乱でしばらく途絶したり、明治維新や第二次大戦などによる中断を挟みつつも、
そのたびに何とか復興、戦後は斎王代も導入し、一貫して京の「祭」であり続けてます。
流鏑馬神事・歩射神事・競馬会神事・御阿礼神事・そして御影祭などなど、
単体でも集客力のある神事が並ぶ葵祭ですが、一番の客寄せパンダはもちろん、この路頭の儀。
新緑眩しい都大路に華麗なる王朝絵巻を再現する、全長1キロもの日雇いバイトのコスプレ行列。
しかし着ている衣装は全部本物、下手すると着てる人間より高価だったりするので、あなどれません。
そんな路頭の儀、スタートの御所からゴールの上賀茂神社までは実に8kmに及びますが、
最初から最後まで、徒歩のみで追いかけてみました。何故って、暇だし・・・。

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ゑんま堂大念佛狂言を観に行きました。もちろん、ひとりで。

2011年5月4日(水)

さんみさん
千本ゑんま堂のゑんま堂大念佛狂言を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

千本通を北上してると、妖しい焼きそば屋と共に現われるやたらディープな寺・千本ゑんま堂。
六道珍皇寺で有名な朝廷と霊界のダブルワーカー・小野篁とも縁が深いというこの寺で、
毎年春に行われる民俗芸能の公演が、ゑんま堂大念佛狂言です。
中世の大念仏会で、庶民に宗教世界を具体的に唱導するため始まったという念仏狂言。
京都には、ゑんま堂以外にも壬生寺、嵯峨の清涼寺、そして神泉苑にもそれぞれ存在し、
また壬生・嵯峨・ゑんま堂の3つで「京の三大念仏狂言」という呼び名も広く認知されてます。
中でもこのゑんま堂狂言は、背景も、趣向も、若干ユニーク。
壬生・嵯峨・神泉苑の狂言は円覚上人が始め、芸術的とまで言われる無言劇であるのに対し、
ゑんま堂狂言はこの寺を引接寺として開いた定覚上人が創始、そして演目の大半がセリフ劇。
かつて京の刑場墓地だったというこの地で、潜伏する盗賊を金剛杖1本で懲らしめ、
善心まで取り戻させた守護役人・為朝の奇跡を伝える狂言は、徹底して勧善懲悪+極めて庶民的。
滑稽味やケレン味で人気は近代に至っても続き、昭和初期には20日間も公演が行われたとか。
戦後の後継者不足で一時中断するも、のちに復活。で、現在も継続中。
この寺の名物・普賢象桜を気に入った室町三代将軍・義満の
「桜の盛りを期して狂言をとり行え」といういいつけを守るかのように、毎年春に公演が行なわれます。
2011年も開催期間は5/1~5/4の4日間。そのうちの1、3、4の夜の部に出かけました。

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北野天満宮の梅花祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年2月25日(金)


北野天満宮の梅花祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

学問の神様と呼ばれる、平安時代のエリート・菅原道真。
実際に頭が良く有能であり、それゆえ家格を超え右大臣にまで昇進した、菅原道真。
しかしそれが面白くない藤原時平により謀略を企てられ、大宰府へ流され、死んだ、菅原道真。
生きてるうちは配流も困窮も我慢した道真でしたが、死後は雷神と化し、京の街を呪いまくり。
首謀者・時平のみならず、陰謀関係者各位へ片っ端からヴードゥースプラッターをお見舞いし、
ビビりまくって名誉回復を決めた朝廷にもブチ切れ、遂には雷で御所をストライクアタック。
焼死体続出の惨状を見せつけられた醍醐天皇は、のちにショック死。
頼むからもう勘弁してくれと、朝廷は道真を主祭神とする北野天満宮を造営。
で、道真の命日である2月25日には、道真が愛した梅を大々的にフィーチャアした祭りを開催。
それが、この梅花祭なのであります。恐るべき因縁を持つ祭なのであります。
なので、本来は呑気に梅の観賞などをしてる場合ではありません。
縁日に並ぶ露店で、呑気に鯛焼きや回転焼きなど食ってる場合でもありません。
何故か毎回やってきて、楼門前に陣取る富山ブラックラーメンを食ってる場合でもありません。
ちゃんとお参りしないと、呪われるのです。雷を落とされるのです。大変なのです。
で、私は祈ってきました。祈るためだけに、天神さんへ出かけてきました。
偉いのです。真面目なのです。そしてひょっとすると、暇なのです。

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